
東京東筑会 2010年度 懇親会
10月23日(土)、開催。 今年も、楽しい企画が目白押し! |
■目次■
役員 新任・退任挨拶
新人歓迎会参加レポート
生徒派遣事業参加レポート
二〇〇九年度 懇親会を振り返って
あずみ会参加レポート
ひびき会
ミュージアムサークル
「東筑げってん会」参戦記
東京東筑会 第四回 鎌倉散策の会
「芽亜利・J ワンマンライブ」に枯れることなき東筑魂を見た。
体験した海外駐在地生活比較
二〇〇九年 就職氷河期の就活生日誌
もぐら谷通信
「海の金魚」映画撮影体験記
イネいもち病菌を弱らせるマイコウイルスの生物農薬としての開発研究
会務報告
4月21日の東京東筑会の総会で会長に選任されました59期の北村憲雄です。
前任の安永保昭会長(53期)は2005年から5年の長きにわたり会長としての重責を果たされ、東京東筑会の存在感をさらに高められ、組織の活性化に大きな足跡を残されました。改めて安永前会長と東京東筑会を一緒に支えてこられた会員の皆様のご尽力に対して感謝と敬意の念を表したいと思います。
私は高いレベルまで発展した東京東筑会を更に右肩上がりに牽引していく自信など持ち合わせていないことから、何度も固辞して参りましたが、前会長ならびに幹事会の皆様の熱心さに完敗、組織の更なる飛躍に向けてその責を担うこととなりました。皆様のご期待に応えるべく誠意を持って前向きに取り組んでいく所存でありますので、ご支援・ご指導を何卒よろしくお願い申しあげます。
ところで私自身のことを若干申し述べさせていただきたいと思います。私はトヨタ自動車(株)に永年勤務し、特に海外部門が長く、ベルギー6年、イタリア11年と計17年間に及ぶ駐在期間を終え、3年半前に帰国しました。乏しい国際経験かもしれませんが、その経験を活かし、新鮮な気持ちで東筑会を引っ張っていきたいと考えております。
また、帰国直後には日本郵政グループに席を置くこととなり、郵便事業(株)で公共性と企業性を追求する、所請民間企業として自らマネージできる会社づくりに奔走してまいりました。3年半の頑張りの甲斐あって、官から民への社員のマインドチェンジも進み、何とか民間企業として自立できる状態までもってきたところです。
ご承知の通り、政治体制も変わり、一応民間企業としてのベースも出来たことから、3月末をもってその第一線から退いた次第ですが、新しいことに対する挑戦は郵政事業であれ東京東筑会であれ、同じ情熱をもって職を全うしたいと思います。この長いトヨタ時代そして新しい郵政事業に携わった期間、私を支えてくれたのは、何にでも挑戦、挫けそうになってもそれを糧に更にステップアップする真に東筑魂があったからであります。どんな難局に直面しても、高い目標を掲げてまっしぐらに突き進む東筑魂をいつも持ち続けたからに他なりません。
さて、東京東筑会に話を戻しますが、私が特に注目したいことは次の二点であります。一つは東筑会は会員数2700名を越え、会費を収めておられる方は約800名と大組織となりましたが、年次別に見ると会員数にバラツキがあるということです。各年次別には同期会が頻繁に開かれ、会報や名簿も存在するところから、年次幹事の方の協力を得て会員の拡大を図っていきたいと思っています。福岡県で最大の会員数を誇る修猷館高校をやがては上回る会にしませんか。二つ目は東京東筑会に於いてはシンポジウムや記念行事の開催等以外に同好会の充実も図っており、本部としても内容の充実と金銭的サポート並びに参加メンバーの積極的誘引を図っていければと考えています。興味ある同好会の新設、充実で更に東筑会を活発な組織にしようではありませんか。
私は、人との交流で新しい人生が息づき、活気付いていくものだといつも思っています。私のこれまでの人生に於いてもいろいろな方との出逢いが新しい発見をもたらし、ものの見方、考え方に影響してどれだけ活力が生み出されてきたことか。
是非、東京東筑会の輪を通してその絆を強め、そこから生まれるエネルギーを新しい活力としていただければと念願しております。
東筑高校で学び、三年間を過ごしたことは人生の中に於いてはちょっとした通過点だったかもしれませんが、人生の岐路という重要なポイントだったかも知れず、決して忘れてはならないエポックメーキングな出来事だったということです。
東筑高校を卒業して関東エリアにお住まいになったら、会員登録だけでもされて、会報を通して先輩・後輩の活躍、近況並びに福岡の四季折々の移り変わりなどを知ることは、新しい発見にもつながり、癒しにもなるのではないでしょうか。
東京東筑会のいろいろな活動が更に充実して活発になり、会員皆様が何らかの形で参加されることにより、頭の片隅に「東筑高校」を少しでも再生していただければ幸いです。

1941年生まれ、則松小学校、明治学園中学校出身。
トヨタ自動車(株)に入社。
国内車両部、通産省貿易研修センター、輸出業務部、ヨーロッパ部等を経て1987年ブリュッセル(ベルギー)の欧州本部に駐在。
1996年イタリアトヨタ社長、会長CEOに就任。
2002年よりスペイントヨタ会長を兼務。
2006年秋、日本郵政(株)取締役に就任。2007年郵政民営化に併せ郵便事業(株)会長CEOに就任。
本年3月退任。現在、郵便事業(株)顧問、トヨタ自動車
(株)顧問。
趣味はスポーツ観戦、オペラ・音楽鑑賞
東京東筑会会員の皆様にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
この度、平成22年の総会におきまして、東京東筑会副会長を仰せつかりました、64期の古野英子でございます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
東京東筑会は創立以来32年、諸先輩はじめ、幹事、運営に携わられた皆様の献身的な努力によって築かれた、我ら東筑生の誇りとする同窓会です。あらためまして、皆々様のご尽力に心より御礼申し上げます。この伝統ある東京東筑会の副会長は、私には身にあまる大任でございますが、精一杯努めさせて頂く所存でございます。どうぞ宜しくご指導ご協力くださいますようにお願い申しあげます。
前副会長の山保文枝先輩は東京東筑会初めての女性副会長として、素晴らしいご活躍をなさいました。いつもふくよかな笑顔で皆を暖かく包み込んでくださり、頼りになる心強い存在です。
これからもご指導を仰ぎながら、先輩に少しでも近づけるように励みたいと存じます。
さて、生粋の川筋育ちの、私の東京生活は38年になります。あっという間でしたが、数回の大病もし、苦楽相半の山あり谷ありの人生でした。ふりかえって見ますと、ことあるごとに悩みや話しを聞いて、励ましてくれたのは東筑時代の友人達でした。ぐっと距離が近づいたのは、やはり同窓会の当番期からです。
30年ぶり、いえ、初めて皆で力を合わせ一つのことを成し遂げたのでした。そのときの感動は、それまでには味わうことがなかった喜びでした。故郷をはなれて以来、忘れていた何かを取り戻したような気がしました。みんなの、「東筑魂」東筑DNAが甦ったのです。以来、折々に理由をつけては集まっています。
東京東筑会の懇親会は、毎年参加するのが楽しみですが、近年は、当番期の個性や同期生の多彩な才能が一層活かされて、ますます充実してきました。そして、「おもてなしの心」がとてもよく表れています。昔は、どちらかといえば、シャイで無骨な東筑生のイメージでしたが、洗練され、ホスピタリティにあふれ
ています。「どうすれば楽しんでもらえるのだろうか」との思いがとてもよく伝わってきます。最寄り駅から懇親会会場までの道すがら、海老茶色のたすきを見るとなつかしさと安心感で、「こんにちはご苦労様です」とためらわず声をかけます。先輩、後輩、学生も、老若男女、世代の垣根を越えた交流。
懇親会会場がひとつになって、母校東筑の良き伝統を伝え、絆を育くむ最良の場となっています。
懇親会もさることながら、東京東筑会の活動は目覚しく、同好会、現役高校生歓迎会、新社会人歓迎会などの活発な活動が展開されています。ホームページも他に類を見ないほど充実し注目されております。福岡県人会などの集まりでもしばしば賞賛のことばを耳に致します。これまでは、ほめられてただ嬉しく、誇らしい気分でしたが、これからは、東京東筑会のために私は何ができるのだろうか、微力ながらも尽くさなければと、身の引き締まる思いです。
会員の皆様と共に手を携えて、東京東筑会の更なる発展をめざして参りたいと存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
| 昭和23年、遠賀郡水巻町生まれ。下二小学校、水巻南中学校、 放送大学卒業「生活と福祉」専攻。 東筑高校卒業後、資生堂北九州支社に6年間勤務。結婚のため東京に移住。 その後、音楽事務所でイベント制作に携わる。現在は色彩コンサルタントとして色彩講座、シニアのおしゃれ教室の講師を務める。 福岡県人会理事、ボランティアグループスマイルサポート代表。 |
この度、名誉ある東京東筑会副会長に選任されました、68期・佐野義人です。多々諸先輩がいらっしゃる中、私のような若輩が副会長というのは大変おこがましく大変恐縮いたしております。
平成17年より安永保昭前会長のもとで二期に亘り幹事長をさせていただきましたが、その時のご縁で今回ご指名があったものと思い、お引き受けをさせていただきました。
安永前会長、山保前副会長、本当にお疲れ様でした。
安永会長体制の5年間、東京東筑会の隆盛には目を見張るものがあります。最大の行事であります懇親会は毎年400名を超え、各同好会の発足・新規事業計画及び事業拡大、また、財政面では、会費納入実績の向上及び支出の削減など財務の健全化などに取り組まれました。
安永前会長、山保前副会長を始めとする執行部役員及びスタッフ一同、期別幹事の方、懇親会当番幹事の方、同好会世話役の方々など皆様方の献身的な努力の賜物と信じております。
一昨年度、東京東筑会は三〇周年を無事に終え、四〇周年に向かって進み始めました。若い同窓会員の考え方もまたまた変化してくるでしょう。「同窓会」の、また「東京東筑会」の新しい方向性を見出さなければならないと思います。
同窓会全体としての課題である「新規会員の拡充」「会費収納率のアップ」「世代格差」等々は、永遠のテーマとして続くでしょうし、新たな問題が発生してくるとも思われます。その問題解決には、執行役員やスタッフ、期別幹事、同好会世話役の方々だけではなく、会員の皆様方のご協力があってこそ達成でき
るものと信じております。
北村新会長のもとでの私の副会長の使命としては、
①渡邊、古野両先輩副会長とともに北村新会長をサポートいたすことはもちろんのこと、
②若いスタッフの皆さんとともに汗を流すことだと思っております。また、
③世代格差を埋めるため、先輩、後輩の皆様の意見を聞き、これから先10年を見据えた東京東筑会の方向性を同窓会員の皆様とともに模索して行こうと思っております。
「よきかな・うるわしく・寛かなる東京東筑会」の発展のために。
これから二年間ご指導、ご鞭撻・ご協力をお願い申し上げます。
| 昭和27年生まれ、芦屋中学出身。西南学院大学卒業後、外資コンピューター会社に入社し、5年間営業を勤める。 その後、久留米の税理士事務所にて3年間勤務し、カラオケ会社に入社。 昨年末、カラオケメーカー退社後、新しい仕事に挑戦中。趣味はゴルフ、美術館めぐり、映画鑑賞。 東筑100周年当番期実行委員長。前東京東筑会幹事長(平成17年〜20年)。 |
前会長 安永保昭 (53期)

先般の定時総会をもって、上限3期の任期を満了し、私は会長としての任務を何とか終えることが出来ました。
5年前、固辞していた会長をお引き受けしたのは、「会が大変な状況なのに逃げてはいけない」という思いからだけで、その器でない私には、誠に身に余るものでありました。しかし「信任」を頂いたからには、
その任務を精一杯誠実に果たしていくしかないと覚悟しました。
その当時、会では全般的な閉塞感の中で不協和音や不信感からの会員の離反傾向と会費納入減少による財政の悪化がありました。その為、まず「会の信頼の回復」が急務で、仕組みルールなどを見直し会
則改正などにつなぐ『制度の刷新』と『財政の健全化』に取り組むこととしました。
また、「世代は違っても東筑で三年過ごしたという縁だけなのに一緒にいるだけで心が休まり楽しい」ことを一人でも多くの同窓生に知ってもらうことが『会の存在価値の向上』に繋がると考え、『東筑の絆を
拡げ深める』活動として『会の事業の充実』や『同好会の活発化』を推し進め、さらに『若い世代の開拓』も進めることとし、これらの方針は5年間踏襲しました。
『制度の刷新』として「会則改正・規則制定」では、これまでの反省から、「役員の共同責任・任期短縮・多選禁止」、「監査役の任務拡大・増員」、「会計規則制定」などが盛り込まれ、「透明性・中立性の確保」のため「会議毎の会計報告」、「中間監査」、「政治・宗教・営業の排除」など、「役員会回数の増加」や「仕
事・家庭優先」などが行動方針とされました。
『財政の健全化』は、続いていた収支赤字が前年には若い方々の努力で「会費収納アップと送料引下げ」でバランス化が図られましたが、これをさらに進め「会報コスト削減」、「幹事会交通費補助廃止」、「旅費補助削減」などの『経費削減』と『会費収納の向上』のための色々な工夫が図られました。その中で「広告収入や事業収入」には頼らず「会費中心の財務」を貫くこととしました。
この様な基盤整備の中『会の事業の充実』も進められました。以前は「三大事業」として「懇親会」、「会報発行」、「名簿発行」中心に進められていましたが、「名簿の整備」は充実させるが個人情報保護のため「発行は中止」とし、これらに加えて「現役生研修支援」、「ホームページ」、「東筑フォーラム」さらに「メルマガ」も「会の事業」として位置づけ、『若い世代の開拓』を進める中で若い方々の研修・交流の場となった「あずみ会」、学生の交流の場の「つぼみ会」を加え、課題の「80期代の連絡会」も加わり、活動の巾は拡がりそれぞれ内容的にも充実化されてきました。この間「三十周年記念事業」も行われました。
それとともに『同好会活動の活発化』も進められ、「げってん会(ゴルフ)」、「にわだま会(テニス)」、「ひびき会(カラオケ)」、「竜昇会(ラグビー応援)」、「何でん語らん会」、「鎌倉散策の会」、「ミュージアムサークル」など多くの同好会が復活あるいは新しく立ち上げられ、活発な活動が続いています。
この五年間、「会費納入数」は600弱から800以上へ、「懇親会出席者数」は260弱から500レベルへ、「会の資産」も280万円から500万円へと改善されましたが、これは「信頼の回復」、「存在価値の向上」の証しではないか思います。
このような状況で任務を終えることが出来ますのは、会員の皆様の絶大な暖かいご支援と、執行部役員・スタッフ、期別幹事、各種活動に携わって頂いた方々、同好会のお世話を頂いた方々など大変多くの方々の新しい知恵と熱意と献身的なご努力と、そして同期の友情の支えによるものであります。皆様には心からお礼を申し上げます。
本当に有難うございました。
既に『新たな展開』を目指して、北村新会長のもと新しい執行部が始動しています。会員の皆様には、東京東筑会のさらなる発展のために、是非盛りたてて頂きますよう宜しくお願い申し上げます。
前副会長 山保文枝(59期)

東京東筑会の皆様、大変お世話になりました。皆様からの暖かい御声援を頂き、お陰で無事副会長としての任期を終えることが出来ました。心よりお礼申し上げます。
他に例が少ないだろうと言われる程の、大きな組織になった東京東筑会の活動の中で、所詮非力な私が、家庭に例えるならば、母親役としての潤滑剤になり得たのかどうか、些か疑問は残りますが、私なりに精一杯努めさせて頂いたと、自分自身は満足に思っております。
この五年間、何よりも幸せに感じたことは、素晴らしい先輩方や、頼もしい後輩達と知り得たことです。
これは生涯私の財産となることでしょう。特に折々の懇親の場で頂いた皆様の元気と、若さ、このエネルギーは、私にとって最大の活力となりました。
今後共、若い世代の方々の活躍に期待することは勿論ですが、いずれ誰もが迎えることとなる熟年期の同窓生にとっても、更に参加し易く、楽しく過ごせる場となって欲しいと願っております。
益々の発展を願っております。本当にありがとうございました。
皆さん、こんにちは。今回、東京東筑会新入生歓迎会の感想を書かせて頂くことになりました107期の谷美穂です。多くの先輩方がご覧になる会報にこのような形で参加できたことを嬉しく思います。
東京東筑会の温かくて、アットホームな雰囲気をお伝えできるように頑張りますので、宜しくお願い致します。
まず、私が東京東筑会の存在を知ったのは高校生の時でした。私の叔父がよく東京東筑会に参加しており、いつも話を聞いておりました。「東筑生って卒業してからもつながりが強くて、改めて素晴らしい学
校に通っていたんだな、ってゆうのが分かるよ。」と叔父はいつも言っておりましたが、その頃の私は関東の大学に進学することも決まっていませんでしたので、漠然と聞いておりました。
そして、上京することが決まり、いざ新生活が始まってみると、慣れない環境のせいもあり、地元に帰りたいというホームシックが私を襲いました。その時に叔父や東筑高校の先生方に東京東筑会を勧められて参加したのが始まりでした。
初めて参加したのは、懇親会でした。
大先輩から私たちのような新入生まで、様々な年代の東筑OBが集まっていました。始めは緊張していたのですが、先輩方が優しく話しかけてくださったり、北九州の方言があちらこちらで行きかっていたりと、そこは東京ではなくまさに地元の空間でした。私にとって、東京東筑会は身近に帰れるホームという位置に確立されました。
そして、今回私にとって二回目となる東京東筑会。期待で胸を膨らませながら新入生歓迎会当日を迎えました。会場に向かうと、そこには温かい笑顔で迎えてくれる先輩方、久しぶりに見る懐かしい面々の同
期、初めて顔を合わせる初々しい感じの新入生、がそろっていました。各テーブルには様々な世代の東筑OBが座り、最初は緊張して話していたのですが、皆で焼き肉を囲んで話していくうちにやはりホームの空
間へと変わっていきました。先輩方からはとてもためになる就職活動や社会の話などを伺って、意見を交換し合い、自分の将来について真剣に考えることが出来ました。
また、時に一人暮らしに役立つ料理方法やダイエット方法やアルバイト情報など他愛もない話をしたりして、笑い声が絶えない時間を過ごすことが出来ました。そのように、東筑生は真剣に真面目な話も出来
るし、冗談を交えながらのふざけた話も出来る所が本当に素敵だなと感じました。
東京東筑会は世代を越えて、様々な交流をすることが出来る有意義な会です。
また、東筑ならではの温かくて深いつながりを実感することが出来る場でもあります。私は、今回の新入生歓迎会に参加したことで、改めて「東京東筑会に参加して良かった。東筑生で良かった。」と感じました。東京東筑会に参加している学生はまだ少ないとのことですが、もっと気軽に足を運んで是非自分の肌でこの温かさを実感して欲しいです。また、学生だけでは無く、社会人の先輩方も是非参加して地元ならではの雰囲気を味わって、一息してみてはいかがでしょうか。私はもっと多くの方に参加していただいて、東京東筑会のつながりがさらに広く、深くなればいいなと思います。

上京してきて、早一ヶ月。大学の講義にサークル活動。東京での生活には少しずつ慣れてきましたが、私には一つだけ心配事がありました。
二年前の生徒派遣事業で東京を訪れて以来、私は東京に対して強い憧れを抱いており、随分早い段階で「東京にある大学」と漠然としていながらも進路を決めていました。そして東筑在学中からもう、「東京
へ行って方言のことでからかわれたら嫌だな」という、くだらない心配事がしばしば頭をよぎるようになっていたのでした。
しかし・・・
「福岡出身のわりに、お前は方言が全然でないな。」
大学の友人が何気なく放った一言でしたが、その言葉は殊更私に衝撃を与えました。
いざ「方言が無いな」と言われると、私は何だか自分の中の大切なものを失った気がしてならなかったのです。そんな折に同じく東京に来ていた同級生から回ってきたメール。東京東筑会、新入生歓迎会の
お知らせ。そのメールを見たとき、私はすぐさま参加のメールを返信しました。
在学中からもちろん東京東筑会のことは存じていましたが、私が東京東筑会の活動に参加させていただいたのは、生徒派遣事業のときの一回のみ。そのときに私が感じたのは一言、大人の世界だな、ということです。つまり、自分とは大きく隔たりのある遠い世界であると感じていたのです。
レストランでの立食会。そこで先生方は名刺交換に忙しく、私たち生徒は立食会の間がちがちに緊張していたことを、今でも覚えています。東京東筑会に感謝はしていたものの、私にとっては決して居心地の
よい世界ではありませんでした。
しかし、先日の新入生歓迎会に参加して私の東京東筑会への印象は一変しました。
参加してまず始めに驚いたのは、先輩方の多さです。しかも社会の第一線で活躍されている先輩や、これから活躍されるに違いない大学生の先輩です。そんな方々と一つのテーブルを囲んで食事をする。大変有意義な時間を過ごさせていただきました。
そして先輩たちは、遠い世界だと思っていた東京東筑会が、私にとってとても身近な世界であるとわからせてくれたのです。このような経験は東筑でなければ絶対にできないことだと、東筑の凄さを再認識すると共に、上京してきて、忘れかけていた東筑魂を再びこの胸に宿すことができました。
先輩方は北九州の方言でどんどん私たちに話しかけてくださり、私は久しぶりに地元の方言に触れることができました。「東京での生活は慣れたか?」「何か分からんことはない?」先輩たちは私たちの質問に懇切丁寧に答えて下さりました。同郷の方に色々な体験談を教えていただく、それが東京に来て右も左も分からない私たちにとって何よりの励みになります。今回の新入生歓迎会に参加して東京東筑会は私たちの気軽に帰れる第二の故郷になりました。
東京東筑会の先輩方、今年より私たち108期生も仲間に加えていただきました。
皆東京で一花咲かせてやろうと意気込んでいますが、まだ東筑を卒業して間も無く、親がいないとすぐに死んでしまうひよこも同然です。どうか私たちを温かく見守っていてください。これからよろしくお願
いいたします。
生徒派遣事業に参加した現役生徒より
二学期。教室に国内研修の掲示を見つけた。少しの自己負担金を出せば東京と京都に行けるという。親が私に行くことを勧めた。負担金のことは気にしなくて良いと言う。むしろこの値段でこれだけまわれ
るのだから、行く気があるなら行けと言う。ならばと、私は行くことをきめた。
それから、三学期になって募集が始まるのが待ち遠しかった。
過剰な期待は落胆に変わりやすいときくが、全くそんなことは無かった。むしろ想像以上だった。ハードなスケジュールではあったが、その分濃密な時間を過ごすことが出来た。
東筑高校生でなければ、この研修に参加しなければ出来ない体験をたくさんさせていただいた。挙げるとキリが無いのだが、テレビ局(フジテレビ)のセットされたスタジオの中に入ったり、ミキシングルームに入ったりすることは、「東筑高校生」として信頼していただいているからだと思ったし、国会議事堂の議員食堂で昼食をとったり、企業のビル内、しかも営業している最中に見学をしたり、教授が直々にキャンパスの案内をしてくださったりしたことは、東筑高校がいままでに多くの有能な人材を輩出してきたからだと思う。どちらかひとつが欠けてもこの研修はこんなに充実したものにはならなかっただろう。
また、歓迎会では、思っていた以上に多くの、幅広い年齢層の先輩方がいらっしゃったのでかなり驚いた。先輩方は、ただ同じ高校の後輩だというだけでかなりよくしてくださった。話をしていると、自分たちに伝
えたいことがお一人ずつにあって、それを伝えようとしていることがよくわかった。自分たちが今いるこの「高校生」という時分は、これからの人生のなかでも大きな役割を担っているのだと、大切にしなくてはならないのだと、肌で感じた。先輩の中には、私と小学校から高校の部活まで一緒の先輩や、将来就きたいと思っている職種の方もいらっしゃって、大変おもしろかった。都会に出ても、これだけの先輩がいるから心強いと思うには東筑会は十分すぎるほどの存在だと思った。
研修を通じてたくさんのことを学んだが、研修を通じて思ったことは、出会った人の誰もが「高校生」という時分を私たちに大事にしてほしいと思っている、ということだ。今このときにしか出来ないことを大切にしてほしいと、そう思っているように思えた。だからこそのこの研修ではないだろうか。だからこそ、この研修に協力して下さったのでは無いだろうか。私はいままで、こんなに「貴重な人」扱いされたことがない。それほどに厚遇で、期待されていると思った。同時に期待にそえなければ、と思った。
たった四日で何が変わるか、と思われるだろうが、この研修に参加して確実に価値観が変わった。曖
昧で、自分でもまだそのままでいいかと放っておいた目標が、明確になった。自分は今なにをすべきなのか、わかるようになった。
この研修には先輩方の熱意がこもっていた。その熱意に応えられるよう、そんな熱意のある先輩になれるよう、これからの日々を大切に過ごしていきたいと思う。

三泊四日の研修で「百聞は一見に如かず」、この言葉の正しさが身に沁みた。これまでに、学校生活や日常生活においてあらゆることを学び、知識として蓄えてきた。しかし、それは実際に体験して得たものと比べると情報の密度に格段の違いがあったと実感した。やはり、家や学校で一生懸命勉強することは、実際にその現場に携わっている方々の姿を見たり、話を聞いたりすることにはかなわなかった。
四日間、さまざまな分野で活躍している先輩方と出会うことで、自分が今まで過ごしてきた世界の小ささや浅さを感じた。そして、研修中は時が経つにつれて、自分の住む世界がどんどん広がっていくのを感じた。
羽田空港に着陸して、私たちは東京に繰り出した。霞が関、永田町、丸の内、銀座などの地名、皇居、国会議事堂や高層ビル群、東京タワーなどテレビで見る世界が眼前に広がり、気持ちが高揚した。
「とうとう東京にやってきた」と好奇心のあまり、見るものすべてが新鮮に、また興味深く感じられた。私はまず人の多さに圧倒された。北九州の地で過ごしていては、決して味わうことのできない体験である。
周りの人々は目標に向かって黙々と前進するかのように歩き、その様子からは働くことに対する真剣さがひしひしと伝わってきた。
しかし、東京という街にはせわしさを感じ、なかなか気の休まらないという印象を受けたのも確かだ。だけれども、それは東京が日本の中枢として絶え間なく活動し、この国を支えているからだろうと思う。そこに
東京という街の魅力や憧れを感じた。東京東筑会の歓迎会では先輩方の貴重なお話を伺うことができた。初めは緊張のあまり戸惑ってばかりいたが、先輩方が声をかけて下さりなんとか会話に入れて頂くことができた。先輩方は私に、地方に居ては到底知り得ないことをたくさん話して下さった。
また、東筑高校在学中の様々なエピソードも教えて下さった。先輩方と会話をさせて頂く間に、歓迎会前の不安と裏腹に、あっという間に二時間半が過ぎてしまった。とても楽しく、貴重な時間を過ごすことがで
きて感無量だった。先輩方から、これからの人生での道しるべとなるような知恵と大学や社会に挑む上での勇気をたくさん頂き、東筑生であることに改めて感謝したいと思った。そして将来、私も先輩方のように日本の中枢を担い、活躍したいと思った。
二日半東京で過ごして、たくさんのエネルギーをもらった気がする。これは、東京の街やそこで働く人、その歩んできた歴史への憧れに伴うもので、高校生活だけでなく、それ以降においても大きな励みにな
るに違いない。次に東京を訪れるときは、東京で通用するほどの人間になっていたいと思う。
研修三日目、京都を訪れた。京都は、東京と違った趣があり、古都としての落ち着いた雰囲気に心地よさを感じた。京都では関西東筑会の先輩方が歓迎会を開いて下さった。先輩方が楽しく場を盛り上げて下さり、和やかな雰囲気の中にお話と料理が並び、いろいろな意味で美味しい思いをしたひと時だった。また、京都大学を訪れ、いろいろな研究施設や博物館などを見学し、より一層大学への憧れが増した。
「知らないことはたくさんある。まだ知るべきこともたくさんある。さらに視野を広げて、もっと違う世界を見渡さなければならない。」研修中、たくさんの話を聞き、私はこのように思った。そして「人間は学び続けることでいつでも成長できる、学ぶことをやめないことが成長への唯一の方法だ」と思った。だからこそこれから、学ぶ素直さを持って生活していきたい。また、これらの言葉を胸に留めて、様々なことに励んでい
きたいと思う。
四日間の研修は私にとって、とても意義あるものだった。そして、自分自身を成長させる大きな糧となった。このような体験は多くの高校生が経験することができない。そのような貴重な体験ができたのも全て、東筑会の先輩方をはじめ、この事業に関わって下さった多くの方々のおかげだ。
そのため、東筑高校を卒業するまでに精一杯学び、卒業後は東筑会の良き会員となれるように頑張りたい。そして、次は私たちが後輩に同じようにして、東筑会に恩返しをしたいと思う。


『あー、終わってしもうたなー』
懇親会を終えて、二次会・三次会・・・・・最後は十人ほどになり、明るくなった街を帰りながら、なんとも言いようのない脱力感に包まれた。
先輩からの指令を受け、半ばシブシブ参加した懇親会から約三年、今となってはあっという間に当番期を迎え、あっという間に懇親会が終わってしまった感じがする。
最初は高校卒業以来20何年振りに会う数人の同期にぎこちない挨拶をし、あまり会話も弾まず懇親会会場を後にした。それが三年後には、地元北九州からの応援も含め70人もの同期が集まり、満面の笑顔で懇親会の成功?を祝い、握手し、抱擁することになるとは・・・・・、恐るべし同窓会パワー! あっぱれ東筑!
高校時代ほとんどのエネルギーを野球に使い、高校に通っていたというよりは野球部に行っていたというような生活を送っていた。授業中は体力温存のため睡眠時間に充てていた自分にとって、正直なところ知らない同期も多く、今回の当番期を経て、多くの同期と語らい、絆を深め、本当の意味で東筑高校の卒業生になった気がする。
それにしてもその①
よく飲んだ一年だった。日頃からよく飲んではいるが、土曜日まで出かけてタクシーで帰るようなことはこれまでなかった。会合が次第に心のよりどころになり、同期と顔を合わせるのが楽しみになっていった。集会場所に通った元住吉にある、床の傾いた居酒屋では白波の一升瓶が何本も空き、酔って床の傾きに耐えられずひっくり返ったやつもいた。因みにこの居酒屋は我々の聖地エルサレムとなり、今後も節目ごとここに集合することになった。
我々がくたばるのが早いか、傾いた店が壊れるのが早いか・・・・。そして二次会ではカラオケで当時の曲を歌いまくる。出るわ出るわ懐かしのメロディー、一瞬で当時のことが蘇り昔話に花が咲く。このほとんどワンパターンのお馴染みの行動ではあるが、これがやめられない。体のためには決してよかったとは思えないが、昨今の世知辛い世の中、心の健康のためには大いに貢献したのではないかと思われる。
これから一生サドンデスで飲み続けることを、一同固く誓い合った。
それにしてもその②
同期の(東筑生の)優秀さには改めて感心した。
何故か実行委員長やることになったが、最初に役割担当を決めてお願いした時点で私の任務はほぼ完了したと思える。事務局・企画・会場・集客受付・誘導・接客・映像音響・・・すべての担当が自ら動き完璧に任務を遂行してくれた。徐々にコミュニケーションが深まり、火が燃え広がっていき、終盤には、ああしようや、こうしたら、ほなそれでいこう・・・・・盛り上がってひとつになったパワーはすごい。
会社のOA担当からクレームがくるんやないか?と心配するほどパソコンのメールは溢れかえっていた。『うわ、またこんなんメール来とう。全部見られんバイ。』と言いつつ大量のメールを見るのが快感になって
いく。もちろんニヤニヤしながら・・・。
いろんな能力をもった仲間がたくさんいて、その能力を出し惜しみすることなく発揮して準備はどんどん進んでいく。日頃会社の厳しい業績に頭を痛めている私は、『こいつらと会社創ったらうまくいんやないか!? 』そう思ったこともあったほどである。
そしていよいよ懇親会当日の朝を迎え、天気は最高!鼻血が出そうなくらいにテンションは最高潮。小学校の運動会の朝の気分に似ている。『白のシャツに鼻血つけられたら困るけ、近くに来んどって!』
そう言う女子の言葉に気持ちを落ち着かせて朝礼、同期の皆の、いよいよ始まるという緊張、たくさんのお客さんが来てくれるのかという不安、やるだけのことはやったという自信、いろいろな思いが混じった表情が思い出される。受付がスタートして徐々にたくさんの同窓の皆さんにお越しいただいたときには、嬉しくて嬉しくて・・・・
懇親会がスタートしてからは、あれだけ皆で準備したのに、もったいないくらいあっという間に終わった感じがする。
最後のお見送りの時には感謝の気持ちでいっぱいで、一人一人全員にお礼を言いたいと心から感じた。79期全員がすばらしい顔をしていたので、きっと同じ気持ちだったと思う。
最後に、懇親会でも挨拶させていただきましたが、いろいろな形で応援・ご指導・ご協力いただいた先輩の皆様、本当にありがとうございました。懇親会後にいただいた暖かいメールも感激しました、家宝にします。懇親会に駆けつけてくれた後輩の皆さん、心から感謝します。本当にありがとうございました。東京東筑会懇親会のすばらしさは一言では言えないし、当番期を経験しなければ実感できない部分も大きいと感じますが、できる限り応援しますので頑張ってください。きっと一生の宝になる、思い出と同期の絆が
できると思います。
東筑に感謝!!




みなさん、こんにちは。102期の筑紫真直美と申します。私は九州大学の経済学部で学び、就職のため昨年の春に上京してきました。今回は、新社会人として参加した「あずみ会」の感想を書かせていただきます。
若手会員の会のあずみ会では、同窓の友人や先輩方と親睦を深めながら自分の生き方について考えるという趣旨で、講師の方のキャリアや生き方についての講演と新社会人の歓迎会が行われています。
今回の講演(2009年6月13日)をしてくださったのは高橋遵永先生(90期)です。高橋先生は中小企業金融公庫(現在、日本政策金融公庫に統合)に入庫されてから全国各地の店舗や重要部署を歴任されています。今回は「いろんな風に生きてみる」という演題で、ご自身のキャリアにまつわるお話をしていただきました。講演は、時折参加者の笑い声が聞こえるようなリラックスした雰囲気で進み、楽しく勉強が出来ました。金融機関に就職した私にとっては、社会人としての在り方だけでなく、金融業界の話も大変ためになりました。
先生は入庫してから、神戸・仙台・新宿等、全国の支店で勤務されています。全国転勤は銀行員の宿命で、引っ越しや慣れ親しんだ職場の変更を伴う大変なものです。そこで先生は「任地を愛せ」とおっしゃり、任地を傍から眺めるのではなく、その地域に根付いた仕事をすること・地域の方々と同じ目線でものを見ることの大切さを教えてくださいました。
中小企業金融公庫に入庫された時も、中小企業は今後海外に進出していくという希望をもって海外勤を希望されていた先生は、国内店舗のみならずJETROのニューヨークセンターでも勤務されています。ここでは海外から日本が受ける評価の低さも感じ、日本の評価を上げるべく勤務されたといいます。
また毎日勉強を続けるのが金融機関の職員のもう一つの宿命ですが、忙しい毎日の中で勉強時間を確保するにはどうしたらいいのか、具体的なアドバイスもいただきました。通勤時間にラジオを聞いて日々の
情報を得ることなど、実際に取り入れて私の日課となっています。
その後の懇親会でも先生と直接話をさせていただく中で金融マンとしての理想像を描くことができ、先生のように情熱と向上心を持って仕事をしていきたいと強く感じました。
懇親会も和気あいあいとした楽しい会でした。様々な業界で仕事をされている経験豊富な他の先輩方からも沢山のアドバイスをいただきました。懐かしの九州弁の飛び交う懇親会は温かく、参加させていただいたのが初めてだということをすっかり忘れてしまう程でした。
当時上京したての私は初めての土地にまどうことも多く不安を抱えていましたが、これだけ多くの先輩が近くにいらっしゃるという実感から、あずみ会を境に安心して仕事に取り組めるようになりました。
現在私は、社会人二年目の春を迎えています。一年間の研修期間を終え、自分が担当するお客様を持って営業活動をしています。この日の高橋先生や先輩にいただいたアドバイスや言葉は心に残っていて、毎日の仕事に追われるなかで思い出してはいつも励まされています。
最後になりましたが、このような会を開催していただいた先輩方に心よりお礼を申し上げたいと思います。東筑の先輩方のお姿を手本として頑張っていきたいと思っておりますので、今後ともご指導をよろしくお願いいたします。
同好会活動
東京東筑会の皆様、こんにちは。
ひびき会では年に4回、四谷のスナック
「高樹」に集まり、カラオケを楽しみながら親睦を深めています。そして、日頃の練習の成果を懇親会で披露しています。昨年は、「あの素晴らしい愛をもう一度」を合唱しました。
4月17日に開催された例会では、当番期である八〇期の江口さんと後藤さんが参加され、大いに盛り上げてくださいました。私もそうでしたが、初対面で年代も違う方々と、同窓生という縁(えにし)ですぐに意気投合してしまうのが不思議です。3時間あまり楽しいひと時はあっという間に過ぎ、全員で肩を組み校歌を斉唱して、ひびき会はお開きとなります。
このとき、皆様の笑顔を眺めながら、東筑を卒業してよかったとしみじみ思います。
私がひびき会に参加するようになったのは、当番期に学生気分に戻って文化祭を企画するようにたびたび集まっていた懇親会が終わって、だんだん疎遠になり、一抹の寂しさを覚えていたときに、同期の花田さんが誘ってくださったのがきっかけでした。
ひびき会で、人生経験豊富な先輩方、年を重ねてますます美しい先輩方、趣味や同窓会活動をパワフルにこなされている先輩方にお会いすることができました。五十路になり、子供たちも成人し、人生後半かなと思っていましたが、先輩方と出会えて、人生これからと思えるようになりました。
私はひびき会に参加して、地元に帰った時のような心地好さを感じ、先輩後輩の方々から元気をいただいて、明日からまた頑張ろうという気持ちになれます。
私は介護福祉士として働いていますが、歌うことは、気分が高揚し、肺活量が増え、心とからだの健康にとても有効なようです。また、新しいことにチャレンジすること、いろいろな年代の人と話すこと、積極的に外出し、たくさんの刺激を受けることが、脳の老化防止になるそうです。そういう意味で、東京東筑会には、いろいろな同好会があり、素晴らしいと思います。
仕事柄、つい老化防止とか考えてしまってお元気な先輩方に失礼でしたね。(笑)
若い世代の方たちにとっても、様々な分野で活躍された先輩方とふれあえることは、とてもいい経験になると思います。東京東筑会の皆様、ぜひ一度、ひびき会に遊びにいらしてください。とても楽しい会なので、お待ちしております。
最後になりましたが、このような出会いの場を提供してくださった東京東筑会、同窓会を支えてくださる
方々に、心から感謝しております。
東京東筑会の皆様、ご機嫌いかがですか?私、「ミュージアムサークル」の「館長」ではなく幹事を勤めさせていただいております、78期の櫻井です。
さて、「ミュージアムサークル」は、高校の同窓会活動としては他の追随を許さない「活発さ」を誇る東京東筑会のニューフェイスとして、以下のポリシーのもと、2009年7月に「開館」いたしました。
『日本画、西洋画、書道、写真、彫刻、焼き物などのジャンルに捕らわれず、美術館・博物館を探訪する趣味の会です。美術に興味のある人でも個人ではなかなか情報も限られ、訪問する美術館や展示会も偏っ
てしまいます。そこで多くの東筑同窓の仲間を得て、なかには優れた解説者、評論家もいるはずで、そうした交流の中でいろいろな分野の美術展、作品展に出かけて、自身の美術鑑賞の幅を広げようという会
です。メールで参加者登録していただければ、次回訪問の美術館・博物館の催し物と日時、集合場所など御案内をします。お気軽にお出かけください。』
と、まあ、なかなか難しそうな印象をもたれた方もいらっしゃるかも知れませんが、そんなことは全くございません。開館以来、以下の通り「活発(?)」な活動を展開しています。

第一回 2009年7月5日(日)
「東山魁夷・青の世界」 東山魁夷記念館(市川市) 館長は何と68期・吉本恭子先輩!
市川市は歴史も古く(千葉の「鎌倉」とも)、過去から数多の文化人も住み、意外にも(?)ナイスな文化エリアを形成していました。終了後、駅前の蕎麦屋でお約束の「反省会」へ・・・。
第二回 2009年8月30日(日)
「写楽・幻の肉筆画」 江戸東京博物館(両国)
日本美術界のスーパースター「写楽」の肉筆画発見!元ギリシャ大使のグレゴリオス・マノス氏が1910年〜1920年に私財を投じて収集した浮世絵コレクションの保存状態も秀逸なり。
終了後は下町らしく、館内の甘味喫茶でノンアルコール反省会。
第三回 2010年1月9日(土)
「書燈社新春展」東京銀座画廊(銀座)、「幕田魁心展」鳩居堂画廊(銀座)
お正月らしく銀座エリアの書道展へ。
59期山保文枝先輩の『書燈社新春展』、北九州地区高校同窓会『謝志会』の揮毫者である幕田魁心さん(戸畑高校)の個人展をハシゴ。終了後、当然のごとく「新年会」に突入! こちらはハシゴせず・・・。
第四回 2010年3月20日(土)
「ルノワール 伝統と革新」
国立新美術館(六本木)
やっぱり日本人はルノワールが好き(私は「銀座ルノワール」の昆布茶も好きです・・・)。初期から印象派へ、古典主義風への変遷を経て晩年へと、ルノワール芸術全般を概観。
終了後は以外にも、ミッドタウンの虎屋で「スイーツ」を堪能。
さて、突然ですがここでクイズです。
【設問一】2009年に世界で最も人を集めた美術展は?
【正 解】「国宝 阿修羅展(東京国立博物館)」!
イギリスの美術専門誌「アート・ニュースペーパー」が発表した2009年の展示会入場者数ランキングによれば、「国宝阿修羅展」は、一日当たりの来場者数15,960人、総入場者数でも何と95万人弱を集めダントツの世界一となりました。二位は奈良国立博物館の「正倉院展」で同14,965人。三位には同9,473人で東京国立博物館の「皇室の名宝― 日本美の華」、四位は同9,267人で国立西洋美術館の「ルーヴル美術館展 十七世紀ヨーロッパ絵画」で、何と何と、上位四位までを日本勢が独占!ほかにも、国立新美術館の「THE ハプスブルク」が同5,609人で10位に入り、驚くなかれ、世界のベストテンのうち半分を日本の展示会が占めています(ちなみに、ベストテンの都市別内訳は、「東京4、パリ3、ニューヨーク2、奈良1」)。
もちろん、「美術館」という単位ではパリのルーヴル、ニューヨークのメトロポリタン等は別格でしょうが、日本の美術館の「企画展」は間違いなく世界のトップクラスと言えるでしょう。
なお、「阿修羅展」は太宰府市の九州国立博物館にも巡回し(7月14日〜9月27日)、こちらでも何と、期間中71万人を動員しています(実は、私も九博で阿修羅を堪能しました。同一の美術展の巡回ということでランク対象外のようですが、実質的に「一人」で160万人以上を動員するとは、マイケル・ジャクソンも真っ青、「阿修羅恐るべし」!まさに美術史的にも空前絶後の展覧会でした)。
【設問二】東京23区にはどれくらいの美術館が存在するか?
【正 解】130前後(各種ガイドブック等より、櫻井がアバウトに判定したものです)
どうです?規模の大小もありますが、こんなに沢山の美術館があるんですねえ(都下では160前後、一都三県合計で250弱と推計。ちなみに、ニューヨーク、ロンドンにはそれぞれ100弱、芸術の都パリにはさすが140程度の美術館があるようです)。
バブル経済崩壊後はデパート系美術館などの閉鎖も相次ぎましたが、近年、都市再開発などにともなって、国立新美術館(六本木)、三井記念美術館(日本橋)、三菱一号館美術館(丸の内)などの新しい美術館が次々と開館しました。また、サントリー美術館(六本木)、根津美術館(南青山)、山種美術館(広尾)などがリニューアルオープンしていますが、これらの新しい美術館の建築は現代を代表する一流の建築家によるものであり、こうしたことからも東京のアートシーンは、今、世界的に最も注目を集めていると言えるでしょう。
【設問三】美術鑑賞のポイント、東京の美術館を楽しく巡る方法は?
これには【正解】はありません。十人十色の鑑賞ポイント、楽しみ方があるはずです。ただ、それだけでは面白くないので、ここで一つ、私が十数年来の美術館巡りであみ出した「櫻井流・美術館攻略の【裏技】」をお教えしましょう。
【裏技① 】大人気の展覧会でじっくり鑑賞するには?
ずばり「最終日の最終入館時間を目指して入館する」です。なんとリスキーな、と思われるかもしれませんが、最終日は閉館時間が近づいていても列に並んでさえいれば「今日はここまでです」とは絶対になりません。また、入館してしまえばしめたもの。「閉館時間」が近づくにつれ、館内のお客さんはどんどん少なくなっていきます。しかし、あなたはここで素直に「閉館時間」を守ってはいけません。係りの人の視線を気にせず、じっくり鑑賞すればいいのです。最終日は係りの人もある程度は容認・折込済みです。そして、ここから「最終日の本当の閉館時間( 概ねプラス一時間弱)」まで、まさに「至福」のひと時を過ごしてください。私は人気の展覧会ではこの技を駆使し、ほぼ100%成功しています(途中で閉館時間が正式に一時間延長されたことも数回ありました)。
そして、最後に、ここまで読んで「美術館に行ってみたい」と少しお感じになったあなたへ特別の【裏技②】をお教えしましょう。もうお分かりとは思いますが、それはずばり、「ミュージアムサークルに参加する」です。東京は世界トップクラスのアートシティとなりつつあります。その中で、気の合う仲間とともに芸術を鑑賞し、反省会でも大いに語り合う、人生にこれほどの楽しみがあるでしょうか?
それでは、東京東筑会の皆様、次回展覧会へのご来館を心よりお待ち申し上げております。

天高き好天に恵まれた10月22日、
「東筑げってん会」と名を改めて以来、初めて関東屈指の名門、相模原GCに東筑OB20名が集結。高い木立に囲まれたコース、クラブハウスのたたずまいには、さすが重厚な雰囲気があり、クラブハウス内では皆さん心なしか神妙な面持ちのようでした。しかし屋外に出て練習グリーンやその周辺では、『あんたゴルフばっかりしちょるらしいけど、奥さん泣いちょるやろ、たいがい
にせんとつぁーらんばい』と言うような忘れかれた川筋弁も聞こえてきました。
いよいよいスタートも近づき、麻生げってん会会長の挨拶に続き、幹事の武田さんより初参加者の紹介、ルール説明があり、戦いの火蓋が切って落とされました。
今大会の特色はなんと言っても九州おんなパワーじゃないでしょうか。最高齢の山崎先輩(46期)は80歳、西尾先輩(47期)は79歳、お二人共掛け値無しの若さ(容貌)、肉体共に60歳代の感じ(・・・無理してません。政権交代で世間の目は厳しくなりましたが、当筆者への付け届けは尊重します。)で、乗用カートなしのフェアウェイを闊歩されていました。念の入ったことに、西尾先輩は出来るだけ多く歩く為なのか沢山刻んでおられました。
その上特筆されるのは初参加で実質優勝の小川美穂子さん(58期)でした。
グロス88に加え、ドラコン賞も取るなど、男性陣顔色なしの活躍、かなりの実力者とお見受けしました。
それでも男性若手の大林さん(79期)、村上さん(77期)などは、ドライバーで270〜280ヤードを飛ばすので我々年寄り組は度肝を抜かれてしまいました。
結果は悲喜こもごも、アマの正式競技では、かくやと思われる速いグリーンに悩まされ、全体的に低調だったようです。結局、優勝は初参加の小川さんに代わって木村さん(59期)でした。おめでとうございます。他の皆さんの成績は別表の通りです。(略)
今後共、『げってん会』を盛り上げていく為にも更に多くの皆さんの参加を期待します。たのむけ、げってん会に来ちゃリー!


5月11日、東京東筑会第四回鎌倉散策の会が開催されました。今回は九品寺、向福寺、元八幡宮、安養院等をまわるルートです。当日は、横須賀線で人身事故があった為、10時のスタート予定を20分遅らせてのスタートなりました。また、小雨がちらつく天候となり、五月にしては多少肌寒い一日となりました。
いざ出発。この会は一年に二回なので私はこのスタートを心まちにしています。
いつも通り53期・波田先輩作成の10ページにわたる資料を手渡され、鎌倉駅前から5分ほど バスにのって最初の目的地である九品寺に向かいました。鎌倉には皆様も何度か行かれていることと思いますが、今回散策しました九品寺のあたりは、一般的に海水浴客で賑わう由比ガ浜海岸のとなりに位置する材木座海岸のあたりに位置します。鶴岡八幡から若宮大路をまっすぐ海に向かって、つきあたりが由比ガ浜海岸ですから、鎌倉駅から歩いても20分くらいの場所にあります。従いまして、海岸に近い事から、伊豆流刑となった日蓮上人にまつわる話や、新田義貞が鎌倉に攻め入る際の数多くのエピソードが残されています。
この散策会に参加した後に東筑に通っていれば、日本史は100点であったであろうと思われます。・・・これは余談です・・・
さて、いよいよ九品寺に到着です。この寺はクホンジと読みます。
「宗派 浄土宗、山号寺号 内裏山霊獄院九品寺、創建は建武3年(1336年)開基新田義貞、本尊 阿弥陀如来。元弘3年の鎌倉攻めの折、新田義貞は材木座のこの地に本陣をおいた。鎌倉幕府を倒した3年後、北条方の大勢の戦死者の霊を弔う為にこの寺を建てた。九品とは極楽往生を願う人の、生前の行いによって定められた、九種類の往生の有様のことをいう。上品(ジョウボン)・中品(チュウボン)・下品(ゲボン)のそれぞれに上生( ジョウショウ)・中生・下生があり、合わせて九品とされる。(波田先輩の資料より)」
新田義貞が藤沢方面から鎌倉攻めをする際、海が満潮の為に海岸沿いに進むことができなくなりました。そこで義貞は七里ガ浜のはずれにある稲村ガ崎で黄金の剣を海に投げ入れて神に潮が引くことを祈願し、その結果、潮が引いた為に海岸沿いに大群を率いて鎌倉に攻め入ることができたことは有名な話ですが、このような話はこの鎌倉散策会に参加しなければ学習することはできません。波田先輩、感謝です。
そこから、向福寺、乱橋、妙長寺(日蓮上人が伊豆流罪になったと時、船出した場所)、元八幡(由比若宮)と旅は続いていきます。この元八幡には次のような逸話があります。
「相模守だった源頼義が京都の岩清水八幡宮に戦勝を祈願し、前9年の役(1051年〜1062年)で奥州の豪族安部頼時・貞時に勝って京に凱旋する途中鎌倉に立ち寄り、康平6年(1063年)由比郷鶴岡のこの地に、岩清水八幡の祭神を勧請して社を建立したといわれ、その後頼義の子義家が戦勝を祈り、社殿を修理したといわている。治承4年(1180年)頼朝がここから小林郷に移したのが現在の鶴岡八幡宮である。境内地は鶴岡八幡宮と並んで国の史跡となっている。(波田先輩の資料より)」
私流に解釈しますと、当時京都に本部があった警備隊の東北地区本部長であった源頼義が、当時東北地方で地力をつけてきた地方の豪族、安部頼時・貞時親子の征伐に行く際、戦勝祈願をしたのがこの元八幡(由比若宮)であったものと思います。その結果勝利をおさめたためにことに感謝して、頼朝はより広い場所、鶴岡に八幡宮を移し、感謝すると共に、手厚く祭ったものだと思われます。頼朝は信心深い人だったのですね。
その後、数箇所廻って12時になりましたのでいよいよ昼食です。今回の食事は日本蕎麦。酒好きなグループは、69期・高木先輩、70期・結城さんをはじめとして10名ほどで、宴会のスタートです。ビールで喉を潤した後はさらに日本酒すすんでいきました(多少肌寒かったので)。もちろん昼間からは酒を召し上がらない、53期・安永先輩をはじめとした良識派のみなさんは午前中学習した事を復習されながらそばを注文されました。小一時間過ぎたところで、宴会グループもそばを食べ終わり昼食も完了となります(酒を召し上がらない先輩の皆様、お待たせてしてごめんなさい)。
さて、いよいよ午後の部スタートとなります。午後のスタートは安養院からスタートです。境内にある槙樹は樹齢七百年以上で天然記念物に指定されています。またこの寺のまわりにあるつつじもみごとなものでした。本堂裏には北条政子の供養等もあります。その後いくつかの寺院を廻った後、切通(多分、名越切通)を通過しようとしましたが、がけ崩れの為通行を断念しました。
仕方なく迂回して、北条高時の腹切りやぐらの傍(このあたりには、女優 白戸まりさんが経営のおしゃれなカフェもあります)を通過して鶴岡八幡宮へと一行はすすんでいきました。そして倒れたことでさらに有名になった大銀杏(源実朝の暗殺を見届けた?)の新芽をみんなで確認し、その大銀杏の新芽を背景にして全員で記念写真をとりました。千年近く生きて、倒れてもたくましく新芽を出している大銀杏に感激でした。
さてこれで、今回の大ツアーも終了です。この企画を立てていただいた幹事役の馬場先輩、波田先輩を筆頭とした53期のみなさん、ツアーの写真と丁寧にとって頂いた63期・渡邊先輩、東京東筑会窓口の69期・高木先輩、大変お世話になりました。ありがとうございました。また半年後、鎌倉散策の会メンバーのみなさんとお会いできるのを楽しみにしております。
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ、よろづのことに使ひけり。
キンコンカンコンと始業のチャイムが空から響いてきて、その余韻が豊かに残るステージで「竹取物語」の冒頭が朗読される。まるで、古文の授業のように。読んでいるのは、たったいまピアノの弾き語りを一曲披露し終わった芽亜利・J。

6月2日、青山マンダラ。その有名なライブハウスで東筑の一学年上の先輩がワンマンライブをやると聞きかけつけた。開演までまだ時間があったが、すでにほぼ満席である。店員が困っている私を見つけ、残り少ない席のひとつに案内してくれた。
客席を見渡してみると、観客の年齢層の広さに驚かされた。年配の方々も、かなり多い。上品でいかにもセレブといった方たちも見受けられる。 若者も多い。しかし落ち着きがあり、開演間近の緊張感をビールやカクテルとともに楽しんでいた。
やがてホールが暗くなり、ステージに芽亜利・Jが登場。すると、テーブルの向かいに座っていた四十半ばと思しき女性の目が大きく開いて輝く。胸をふくらましながら身を乗り出すのが、暗がりの中でもはっきりと判った。それほど、このステージを心待ちにしていたのだ。
ピアノを弾いて歌い始めるとすぐに、「聴かせ慣れている」と判る。
音楽が好きな私は、こんな先輩がいたのかと驚き、もっと早く会っておくべきだったと後悔した。
客に対して横向きに座ってピアノを弾く芽亜利・Jは、歌いながら何度も何度も顔を客に向ける。自らが生み出した曲を、ピアノと歌と表情、全身全霊を尽くして伝えようとしているのだ。私はステージに耳を向け、客席に目を向ける。聴衆は、芽亜利・Jから発せられるすべてをしっかりと受け取っているようだった。
20数年前の記憶の抽斗にその顔がないか探してみたが、見つからない。先輩とは初対面のようだ。会ってみたら顔見知りだった、ということになれば面白いと密かに思っていた。しかし、約二年間同じ場所に通いながら、在校中には縁がなかったようである。
通学経路が違っていたし、放課後は、先輩はテニスコートにいて、私は体育館にいたのだ。
だがそれでも、東筑という絆は時を超えて人を巡り合わせる。
芽亜利・Jは、ドレスの上に桃色の着物を羽織り、「かぐや姫」を演じてみせる。現代語で喋る、現代の少女としてのかぐや姫。
時代を交錯させることで、古語で綴られた空想の美女は、身近でリアルなアイドルになった。かぐや姫のイマドキぶりや、かぐや姫に求婚した男たちの悲惨な結末に、観客は笑い声をあげる。高校の古文の授業中、居眠りの束の間に見た夢の再現であるという。
すべての観客が、とにかく楽しそうに芝居を観ていた。
芽亜利・J は「竹取物語」を子育てのドラマだと解釈した。子供を育てる者として親の視点で物語を捉え、逆に育てられる身の少女として芝居を演じている。ユーモラスに展開するモノローグで、自らの母性と
少女性を見事に共演させていた。
芝居仕立ての第一部が終わると、撮影会。カメラや携帯電話を手にしたファンたちが、前にしゃしゃり出る。花束も贈られた。
休憩後に始まる第二部は、ギター、ベース、ドラムスを加えたロック仕立てとなっている。
芽亜利・Jは、ピンク色のボクシンググローブを手にはめて颯爽と登場。
ギター、ベース、ドラムスが一斉に音を立て、ぶ厚い壁にぶつかってホールを震らす。芽亜利・Jがボクシンググローブをはめた腕を振り回すと、長い髪が金色に光って跳ねた。観客身体を揺らし、手拍子を打つ。「ポパイ」というかわいらしい曲では、芽亜利・Jが「あなたはネ」と歌うと男性客は「へーイ!」、「助けてネ」と歌うと女性客は「キャーッ!」と合いの手を入れた。熱心なファンたちの足は、もはや地面に着いていない。ステージと客席が完全にひとつになった。初参加の私は少々ノリ遅れたが、最後はファンたちに負けじと手を打っていた。
ピアノ弾き語り、一人芝居、ロックバンド演奏と、三倍楽しめたライブに、客は一様に満足し感激している。アンコールの曲が終わると、我先にと席を立ち、芽亜利・Jに握手を求めてから帰っていった。
ところで、芽亜利・Jの正体は、83期の樋口純さんである。東筑の皆さんならば、自分が何期生で何歳かを思い出し、引き算や足し算をすることで、芽亜利・Jの年齢がだいたい判る。そのン十ン歳で、二人の子供の母である彼女が、老若男女のファンを大勢集めて、青山の有名店でワンマンライブをしている。スゴい。
しかも聞くところによると芽亜利・Jはほぼ毎週、川崎市の某所で「路上ライブ」を行っているそうだ。簡単には信じられないことである。先日、東筑のある集まりにお誘いしたが、それは路上ライブの日だった。いつも聴きに来てくれる皆さんのために路上ライブを休めないと、当然、断られた。(路上ライブに集まるファンの中には二十代の男性もいるらしい。)
それ以外の演奏活動、インターネットでの発信などにも精力的に取り組まれていて日々忙しい。彼女のパワーたるや、凄まじいのである。樋口さんの若々しくエネルギッシュで真っ直ぐな前進指向と文武両道(子育てと音楽活動)の精神は、まさに東筑魂と呼ぶに相応しい。私は高校時代に先輩方から受け継いだそれを、いま再び受け取った。
80期代には才能とパワーに溢れる同窓生が他にも大勢いるに違いない。東京東筑会においては、80期代の層が薄く、会員の掘り起こしが課題となっている。つまり逆に言えば、これから沢山の才人たちとの出会いが待っているということである。今年、いよいよ80期が当番期を迎えた。そして既に81期の方々もかなり集まってきていると聞いた。
東京東筑会の今後は、実に楽しみである。 PHOTOGRAPHS Ⓒ2010 NORIYUKI AWATO
東筑高校卒業後、九州で大学時代を過ごし、海外での仕事を志望しメーカーに入社し約30年海外関係の業務に携ってきました。3年前より国内の業務となり、晴れて東京東筑会の活動「何でん語らん会」にも参加出来る様になりました。海外では普通経験しないような色々な体験をしました。
例えば、中東で会議の翌日滞在したホテルが爆破されたり、タイでクーデターに遭遇、台湾ではM9の地震や、隣の化学工場爆破で自社工場が大被害を受けたり。その中で昨年11月に同会にてお話した二つのテーマの内、皆さんの興味のあった「体験した海外駐在地生活比較」につき今回お話します。
私の海外関係業務の約半分以上の期間が、海外での駐在、ないし長期出張でした。出張、旅行で約40カ国訪問していますが、駐在は83〜86年がサウジアラビア、89〜93年がタイ、95〜96年香港、96〜02年が台湾の四カ国、通算15年です。ただ現在では私が居た当時と状況は多少変わっているかも知れませんが、あくまでも私の駐在当時ということでご容赦下さい。
まず、サウジアラビア。駐在する前に一度出張させてくれと会社に懇願したが、いきなり赴任の命令で赴任。赴任した後で成る程と感じた。気候・生活:最高気温50度で、炎天下は50mも歩けない。200m先のスーパーに行くのにも日射病になりそうになり日陰や日除けを探し休み休みしか歩けない。
アラブ諸国の中でも、サウジはイスラム教発祥のメッカ・メジナがあり、極めて厳密に回教の習慣が守られている。一日に5回のお祈りがあり、町内毎のモスクの拡声器で声のよさを競っている。日の出、昼前、3時ごろ、5時ごろ、日没のお祈りがあり、しかもスーパー等お店の営業時間もお祈り時間に連動するが、当然日の出時間が毎日変動し、時間がずれて非常に不便。しかも年にひと月、断食月があり日の出から日没までイスラム教徒は一切何も口にしてはいけない。勤務時間も午前中と夜9〜12時と変則的。日本の習慣でつい午後も仕事をするとほぼ一日中12時まで仕事となり、ばててしまった。
宗教上の理由で、豚肉もアルコールもポルノ(水着程度も)全面禁止。トンカツやかつ丼の夢を何度も見た。アルコール類(ウイスキー、ビール、ワイン、日本酒も)は所持は勿論持ち込みも禁止で、日本の麻薬の様な扱い。従い、バーも居酒屋も勿論ない。あるのは最近日本でも出回り始めた、いくら飲んでも酔えないノンアルコールビール。そこでひそかに密造ワインを作った。100%のブドウのジュースにパン用のイースト菌、砂糖、お湯を入れ一日に一度撹拌し、2〜3週間で発酵し、限り無くワインに近い味となり、駐在員仲間で持ち寄り、淋しく「密造酒利き酒会」を催す。
楽しみ:現地の人は砂漠にピクニックに行くのが楽しみだが、外国人の我々は前述の通り、外での飲み会はないわけで、毎日のように、テニスをしていた。
たまに、サンド・ゴルフつまり、砂漠でのゴルフでフェアーウェイは勿論砂漠、グリーンはアスファルトで、完全に芝も草はない。30センチ四方の人工芝を持ち歩き、ロープで張られた内側はフェアーウェイと称し人工芝の上でうち、ロープの外側はラフでそのままバンカーショット。また一段低くなったところがあり、これは池(勿論水はない)と想定しワンペナ。ゴルフボールは勿論白色だと同化して見えない、今はやりの
カラーボールが必需品。子供達の楽しみは何と「雨」で、年に二、三回の雨に大喜びし外で雨を浴びる。
後は、サウジから国外に出る際の、飛行機でのアルコールが楽しみで勇んで乗るが、実際には気圧の関係と随分本物を飲んでいないのですぐに酔ってしまった。
次にタイ。日本人も数万人居る、会社も生活環境の厳しいサウジの後、配慮してくれたのか、今度は何でもある国。但し、現在もそうだが始終内紛・クーデター勃発の国である。
気候・生活:年中暑く平均30度を超えている、1月に現地に赴任したが、日本では暖房、タイでは冷房と体の調子がおかしくなった。
11月から4月までが乾季で、4月中旬から5月初が一番暑く、5月から10月までが雨季で凌ぎやすい。雨季と言っても日本の梅雨と全く異なり、一日に一度、凄いスコールが降る。
スコールの雨の程度は激しいが1、2時間でパタッと止む。ゴルフの際、スコールに遇ってもじっと1、2時間すればまた、プレー再開可能。シンハー、クロスタービールが有名で、辛いタイ料理と凄くマッチする。「トムヤムクン」という代表的なスープは世界三大スープと言われ、辛いが酸っぱく病みつきになる。
タイ料理だけでなく、経済の大半を華僑が握っており、チャイナタウンもあり、中華料理も安くて美味しい。名前は忘れたが蟹と春雨の醤油味の炒め物は忘れられない。また、タイは「微笑み」の国で、笑顔がよく似合う仏教国であり、温和な気質で仕事も非常にやりやすいが、時間にルーズなところあり、「マイペンライ」
気にするなと向こうから言うのに慣れが必要。言葉に男言葉と女言葉あり、誰から習ったか直ぐ分かるので要注意。
楽しみ:日本から観光客が多く、アユタヤ、スコータイを始めバンコック市内も観光の名所が多い。加えてプーケット島、パタヤ、フワヒン、サムイ島等リゾート地が多い。特にお薦めは、プーケットから水上ジェットで45分で行けるピピー島で、デカプリオの「ビーチ」という映画のロケ地で、珊瑚は非常に綺麗。
また、タイは男性にはゴルフ天国で、まずプレイヤー毎にゴルフバックを担ぐキャディーがつく。更に暑い場合は、もう一人日傘と椅子を持ってくれるキャディーを追加出来る。後ろの組から見るとプレイヤー4人にキャディー8人がグリーンにいる訳でまさに大名ゴルフを堪能できる。大体スルーでプレーし、昼食をとって午後はタイ式マッサージで体をほぐすということが出来る。
また南国のフルーツも美味しい。果物の大様のドリアンはちょっと匂いの癖はあるが、はまると美味しい。
冷凍しシャベットにしても良い、女王のマンゴスチンは、食べるところは中の白い実の僅かな部分で、それをとるために硬い皮とその下の表皮が厄介だが味は格別。他にマンゴーとかも捨てがたい。
その次の駐在地は香港である。丁度中国の改革・開放が開始され、中国と香港を担当するために駐在した。九龍半島から、香港島の百万ドルの夜景は素晴らしかった。空港が古いカイタック空港の時代であり、洗濯物を沢山干したビルとビルの間を着陸するのはスリルがあり、各エアーラインも香港行きには優秀なパイロットを配置したと聞いている。
気候・生活:香港島の26階のマンションに住んだが、廻りが海に囲まれ湿度が高く、しかも雲が低く、毎日除湿機をかけ出勤するが一日でタンクが水で一杯に成る程。雨に濡れたスーツをそのままにしていたらカビが生えてきた。また、台風銀座であり、台風の規模が八段階に分かれており、五段階以上が要注意で、八段階になると自動的に会社や学校が休暇になる。TVの端に、段階が表示され皆心待ちにし、八段階になると一斉に帰宅。八段階は外出も禁止され、香港名物の道にはみ出した看板が落下し怪我しても免責となる。食は素晴らしく、「福臨門」等、ふかひれの専門店は美味しいが値段も極めて高い。「なだ万」「新田中」等高級日本料理店も日本では行けないが、香港店があり、行くことが出来た。当時、中国へ返還間際で香港人は自分たちは中国人でなく、英国人というプライドが高く、また、金持ちは返還前に欧米の国籍取得に這走っていた。香港の裕福な生活に比べ、当時の中国本土は非常に貧しく、空港のカウンターも並ばないのが普通。飛行機代も中国人と外国人の二本立てと今では信じられない状況。広東地区は、冬場のご馳走が、蛇料理であり、遠来のお客様が来たというのでよく注文してくれたが、閉口した。スープは薬膳したてで何とかなるが、から揚げや野菜炒めは手が出なかった。「狗肉」つまり、「DOG」はさすがにお断りさせてもらった。
楽しみ:ゴルフが盛んだが三つしかコースがなく、土日はメンバーか居住者以外のゲストしかプレーできない。居留証切り替え前まで、プレーできたが、国内でゴルフをするのにパスポート持参が必然というのはここだけだった。
コンペはパスポートを持って、マカオか中国のシンセンに行っていた。マカオも今ほど発展していなかったが、ホテルのカジノが面白い。「大・小」という、つまり、親と賭ける側どちらが大きい数字かという非常に簡単なルールのカジノがあったが、結構みんな(筆者も含め)熱くなり盛り上がった。
最後は、台湾に約6年半駐在した。
戦前日本が統治、その際も、下水道、視聴覚教育等日本に先駆け導入、荒地の治水工事で肥沃な農地に変換等、いい統治をやってきたことに加え、戦後、蒋介石が賄賂や地元台湾人迫害等で、日本に対する感情が非常によく親日家の国。また、「ハローキィティ」がこどもだけでなく、大人にも流行っている。
気候・生活:日本より暑いが湿気は多少少ない。梅雨が4月で台湾が明けると梅雨前線は日本へ移動する。冬は、6度位まで下がるが暖房がないため、底冷えする。会社では個人的に足元にヒーターを入れ凌いだ。香港同様、台風が激しい時は出勤停止となるが、問題は県別に決定するので、通勤で複数の県をまたぐ遠い人も居り、会社の所在地なのか、住んでいるところなのか問題になった。M9の大地震も経験した。17階に住んでいたがコンクリートの建物がギシギシと揺れ、サイドボードや棚が倒れた際は、生きた心地がしなかった。困ったのは2週間位停電が続き、17階まで昇り降り、また、電気がないと何も出来ないつらさを味わった。紹興酒も美味しかったが、つらかったのは「乾杯」の習慣であり、つまり、一気飲みであり、台湾では、酒を飲むか、飲まないかのいずれしかない。飲めない人は「随意」と宣言し、乾杯をせずに済むが、本当に仲良くなったり、連帯感を醸成するにはこの「乾杯」方式が大いに役立った一方、体、特に胃を酷使した。紹興酒も最初は小さいグラスから始まり、コップ、更には小型のジョッキで一気の乾杯となる。人によってはビールやウイスキー(しかもロック)、ワインもあり、大体一年で一生分飲む量に匹敵する。
楽しみ: 他の国にない物は、台北の北にある、世界四大博物館のひとつの故宮博物館である。元々北京の故宮にあったものだが、蒋介石が南京から運んで来たもので、紀元前二千年のものから二十世紀の清の時代まで、青銅器、陶器、絵画、書画 更に石や象牙の工芸品等が12万点あり、3ヶ月に一度展示品を変えているが、全部見るのに10年はかかると言われている。10数回訪れているが、全く飽きず、何時も感動を覚える。親子三代で彫った象牙の工芸品は圧巻だし、古いものでもデザインが斬新のものが多い。中華料理も、北京、上海、四川、広東料理が一同にあり楽しめる。更に、台湾料理もある。
台湾料理は気取らず日本人の口に合っている。また、海鮮専門の料理店も基隆等漁港に行けば水槽に活魚が泳いでおり、材料を仕入れその裏のレストランで料理をしてくれる仕組みになっている。これがまた美味しい。
烏龍茶も中国では安いものが出回っているが、台湾では高級烏龍茶が本当に香りも味もよい。高いものは金庫にしまっているくらい高い。
最後に:色々駐在したが、どこが一番良かったかとよく聞かれます。住めば都と言うが、サウジアラビアだけは、敬遠したい。他はどこももう一度住みたいと思う。現地に馴染むには、現地の言葉を覚えることと、その国の歴史を勉強することだと経験的に感じます。
どこに行っても基本的に通訳を通さないように現地語を勉強したが、その早道は現地語のカラオケを覚えること。これは地元の人と仲良くなれるし、歌詞で正しい発音が学べる。
また、同時に日本の歴史や習慣等も学んでおいたり、英語でどう表現するか勉強したことも大いに役立った。海外赴任と言われた際に、「何とかなるさ」思考と「日本の習慣の勉強」が良かったと思う。
今後の駐在の方々の参考になれば幸いです。
東京東筑会の皆様お久しぶりです。
東筑高校103期、宮本恭兵です。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私は今年の4月に福岡の銀行に就職しました。5月いっぱいまで、大濠にある研修所に泊り込み、一人前の社会人になるために勉強しております。平日は外出禁止というほぼ軟禁状態ですが、同期と日々楽しく過ごしております。
さて、今回のテーマは「就活奮闘記」ということで、就職活動中どのような気持ちで面接に挑んでいたか、どのように内定を得たか、また、新社会人としてどのような気持ちで過ごしているかについて時系列に沿って、本音で語ろうと思います。
【2008年7月〜9月】
私が就活を意識し始めたのは、留学から帰ってきた2008年の7月頃でした。日本に帰ってきて、久々に大学のキャンパスを歩きまわると「就活セミ
ナー!企業研究講座」や「ESの書き方講座」といった就活に関する立て看板がたくさんありました。その看板を見て、就活を始めないといけないかなと思いましたが、ゼミの研究や、アルバイトで忙しかったこともあり、まだ本格的に就活は始めませんでした。しかし、夏休みになると、ゼミの同級生がインターンシップに行ったり、会社の説明会に行ったりと、周りが就活モードになってきました。私も何か始めようと思いましたが、何から始めたらよいのかわかりませんでした。ひとまず、選考過程にあるという「SPI」というテストの対策本と面接に関する本を買いました。
まだ就活に対する危機意識が薄かったので、本を買っただけで満足をしてしまい、ぜんぜん読まないというよくあるパターンに陥ってしまいました。特に何をするでもなく、夏休みは終わってしまいました。
【2008年10月〜2009年1月】
日々ゼミの研究とアルバイトに明け暮れた夏休みが終わり、いよいよ秋学期が始まりました。このころから、企業の合同説明会や個別説明会が多くなってきました。まだ志望業界が決まっていなかったので、毎週末就活サイトが主催する合同説明会に通いました。この合同説明会でわかったことがひとつあります。それは、この年の就活は例年以上に厳しくなるということです。リーマンショックの影響で、新卒採用数を減らす、もしくは採用数は未定という企業が多数でした。このままでは、内定が取れないと思い、面接の時期が早く、また興味があった外資系金融と、航空会社のパイロット採用にエントリーをして、面接に慣れる作戦を取りました。運良くESが通り、航空会社の面接にこぎつけることができました。面接の前の日は、You
Tubeで米米CLUBの浪漫飛行のPVを見て士気を上げ、志望動機や自分の長所や短所もバッチリ暗記しました。そしてこのままスイスイ進み、2月中には内定もらえるかもと淡い期待を持っていました。しかし、初面接はボロボロでした。面接室に入った瞬間頭がの中が真っ白になり、終始混乱しっぱなしでした。もちろん面接は通過しませんでした。 外資系金融の面接は、ある程度落ち着いて面接を受けることができました。しかし、さすがは世界有数の銀行、簡単には面接を通してくれませんでした。
【2009年2月】
このころになると、ESの締め切りがピークになってきます。文系学部卒の人は50社〜60社もの会社にエントリーしなくてはいけないと言われていますが、私は30社前後しかエントリーをしませんでした。なぜ30社前後しかエントリーしなかったかというと、理由は簡単で、行きたい企業にしかエントリーしなかったからです。その代わり、エントリーした企業は徹底的に分析しました。パンフレットを読み込み、会社説明会になんども足を運び、また東筑や大学のOBにお会いし、自分がその会社で何ができるかを徹底的に考えました。
また、この時期に、思い出に残る大きなミスを犯してしまいました。某関西の金融機関のESを出す際に、本番用のESではなくて、練習用で使った汚い字で書かれたESを提出してしまいました。すぐに、清書されたES を提出しましたが、もちろん通過することはできませんでした。大学生のみなさん、このようなヘマをしないように気をつけてくださいね。
【2009年3月】
3月に入ると、面接が少しずつ始まります。一番印象に残っている企業は、大手製鉄会社でした。志望理由や学生時代に何をしたのかはほとんど聞かれませんでした。毎回聞かれたことは、「鉄にこだわりがあるのか?なぜ鉄なのか? 」ということでした。浅い考えでは、すぐに突っ込まれるので、面接では常に頭をフル回転させました。最終面接の前まで進みましたが、そこで連絡が来なくなりました。最後、京王プ
ラザホテルで千円のオレンジジュースを飲んだのはいい思い出です。
ちなみに、今働いている企業の面接も3月の前半から始まりました。当時は、この企業で働くとは思っていませんでした。
【2009年4月】
4月1日から面接が本格的に始まります。正直忙しいという記憶しかありません。朝、大手町に行き、面接を受けて、また大手町で面接受けて、夜はひたすら電話を待つ生活でした。この時期はみんなピリピリしていますので、非通知で就活生に電話をすると、友情に亀裂が入る危険性がありますので気を付けましょう。
4月の中盤に現在勤めている会社から内定をもらいました。意外とあっさり内定もらったので、あまり選考過程のことは覚えていません。しかし、まだ他の企業の選考が残っていたので、内定を受諾するか迷っていました。この企業は他の企業と違い、学歴ではなく、人柄を見て選考していたことに惚れて、最終的に内定を受諾し、この企業で働こうと決意しました。
面接をたくさん受けて気づいたことは、下手に自分を取り繕っても、必ず面接官にばれるということです。変に知ったかぶりをせず、素直な自分を出すのが一番です。分からないことは分からないと素直に言いましょう。
私は、6月1日から直方支店に配属されて、上司から怒られながら日々を過ごすと思います。ただいつも心がけていたいことは、笑顔を忘れないことと、何事にも全力で取り組むことです。
直方に来たときは是非連絡ください。そして、口座を開設してください。
また、皆さんと会える日を楽しみにしています。
中村さんは、気象庁で人工衛星に関わる要職を務められた後、退職を機に故郷である波津漁港へ帰られました。この「もぐら通信」は、宇宙からの視点で地球を俯瞰し続けてきた中村さんが、大地に暮らす者の視点で地球を描くネイチャーエッセイです。都会で生活する我々には久しい、故郷からのそよ風をお楽しみください。( 編集部)
タヌキ 2009年11月26日
ひと月ほど前からタヌキが来るようになりました。深夜から早朝にかけて植木やコンポストの周りを嗅ぎ
まわっています。数年前にも、別の一家三匹が来ることがあり、その時はよほど慣れていたのか昼間から寝そべって互いの毛繕いをしていました。今回はまだ夜間訪問ですが、昨日は昼間に顔を出しました。写真は昨日未明に撮ったもので背景は水仙の崖地です。霞が関や永田町と違い、正真正銘のタヌキです。その後の観察では二匹で暮らしているようです。現在深夜に我が家を訪れるのは、猪、イタチ、タヌキ、それに野良猫です。猪は被害を受けるばかりなので猪鍋にしょうと思いますが、タヌキは愛嬌があって可愛いので、とても狸汁にという思いは浮かびません。むしろ夜な夜なの楽しみです。
客人の顔
で夜毎のたぬきかな
こんにゃく 2009月12月20日

先日、或るお祭り会場での風景。「玄界灘産」と書くところを、「灘」のサンズイが落ちていたため買って貰うのに難産のようでした。
さて、もうだいぶ前になります。秋の或る日、裏山に育っていた蒟蒻玉を全て掘り上げました。冬になって猪に荒らされるのを避けるためです。昨年はそこら中掘り繰り返されて全滅かと諦めた代物です。掘ってみると出て来る、出て来る。大小合わせて農作業用の箱に2つ、全部並べて干すと茣蓙2枚になりました。一年物は直径が5センチくらい、7センチで2年、10センチで3年くらいです。中でも20センチ近いのが特に多く、これは多分7〜10年くらい経つのでしょう。さっそく竃の灰で作った灰汁を凝固剤としてこんにゃく作りを試みましたが、灰汁の濃度が合わずに見事失敗でした。年が明けて再試行の予定です。
こんにゃく玉 掘り来て干せる 茣蓙二枚
農作業の機械化 2010年1月20日

田舎に帰り、家の修復を終えてから一年半が経ちました。この間少しずつ農林業への関わりを深めて来ました。主なものは自家用野菜の栽培、枇杷畑の手入れ、竹林の伐採と整備です。最初は鎌で草刈り、
鍬とスコップで耕し、手鋸で竹や樹木の伐採をしていましたが、専念できる時間が足りず、また寄る年波にも勝てず、いつも後手々々の作業になりますので、まず草刈り機、昨秋には耕耘機、チェーンソーを
購入して機械化を図りました。今年は年初からクヌギを七、八本、チェーンソーで伐りました。椎茸の榾木にします。
ところでこれらの購入には数十万円かかり、野菜や枇杷や椎茸の何十倍もの額でした。買った方が遥かに安く体も楽で、我ながらバカバカしい行動だと思います。
でも一方では四季折々に愛でる山野、空、海の移り変り、自然の中で汗を流す爽快さ、世の喧騒から一歩退いて眺める展望、微小なれども国土保全の意味合いなど、数字では表せない贅沢を享受しているよ
うにも思えます。如何でしょう。
斧始め 風の桧山に 一人あり
(追:このほど正式に農協組合員になりました)
限界集落とスーパー・カー 2010年2月7日
正月明けに猪と二度遭遇しました。一度目はすぐ目の前を驀進、二度目は親子連れが私の姿に気づいてUターンしました。
さて先日、西鉄バスの廃止路線が判明し、その中に我がバス路線も含まれていました。一時間に僅か一本の路線であっても廃止となると痛手で、当面は町がコミュニティーバスの運行を検討している模様とはいえ先々どうなるかと気になります。以前にも紹介したように、この集落は人口約500で65歳以上が35%超です。あと7、8年も経つと確実に限界集落でしょう。ついでに記せば、ここの小学校区には六つの集落があり、人口が約2,100、高齢化率30%で、いずれも同じ路線に依存しています。まともな商店はほ
とんどありません。車を運転できる年代は良いとして、そうでない高齢者の買い物や通院などをどうしたらよいか。これは行政の守備範囲でしょうけどついつい案じてしまいます。とりあえず買い物対策として思いつくのがテレビで見かけるようなマイクロバスを改造した移動商店です。
即ちスーパー・カーです。週に数度の巡回と注文販売のようなシステムとか今後いろいろ考える必要があろうかと思っています。
立春の朝 合格とはずむ声
(呟き:ココハ響灘ナノニ ゲンカイ集落トハナア)
蒟蒻作り 2010月2月20日
椎茸の榾木用に先月伐採したクヌギの切り分けを行いました。本日は予定の半分の20本ほどで疲労のため終了し、
残りは後日としました。
さて昨秋掘ってきた蒟蒻芋で手作り蒟蒻を作っています。昨年末は凝固剤として木灰の灰汁を使ったところ濃度が不
適切で失敗し、今回は消石灰(水酸化カルシウム)で再挑戦しました。首尾は上々、二回やって二回とも成功でした。作
業の最終段階では一時間くらい茹でてアク抜きをしますが、量が多かったので竃だけでは足りず、七輪も動員してどう
にか終えました。製品は、まず家族で食して安全であることを確認し残りほとんどを知人に配りました。皆さんに受けたようです。
こんにゃくを作る苦労は
・・句に
詠めず残念。
私事ですが、23歳から役者を始めて、今年で5年目に入りました。
といっても、他にやりたいことが出来てしまい、早々に引退を表明しました。それが今年の3月。
よって《海の金魚》に出演させていただいたのが私にとって最後の映像作品となるわけです。ずっと舞台で時代劇しかやっていなかったので、最初の映像作品にもなるわけですが(笑)。
東筑の後輩の役者ということで、雑賀先輩に声をかけていただいたのが、春。初夏、名だたる出演者の方々ばかりで、本当に私が出させていただいてもいいのかと不安になりながら衣装合わせ。いただいた台本を読ませていただくと、あの高嶋のお兄ちゃんこと高嶋政宏さんの部下の役でした。
しかも!芝居で絡みがある!
ぎゃー、どうしよう、どうしよう。芝居の稽古をしなければ!
というわけで7月末の撮影まであっという間。7月28日と29日、この2日間が私の出演するシーンの撮影日でした。7月27日。自称曇り女の私、鹿児島に降り立つとやはり曇り…。空港までスタッフの方に迎えにきていただいて、同じ便に乗っていたらしい高嶋さんと共に宿泊場所へ。高嶋さんはとてもフランクな方で、私が緊張しているのがわかったのでしょうか、「書記委員長役の三原桃さんでしょ。宜しくね。」と声をかけて下さり、こともあろうに私のブログも全てチェックしたとのこと。いろんなことを調べるのがお好きだそうで。もっとちゃんとしたブログを書いておけば良かった…。後悔先に立たず。
よほどの天候不順でないかぎり、撮影は行われます。翌日は「海の金魚」一番のクライマックスである、ヨットでの試合のシーンの撮影です。6時起きでメイク室に入りました。お天気は晴れたり曇ったり、不安定なよう。準備していただいた衣裳に着替え、うつらうつらなりながらメイクをしていただきました(ごめんな
さい…)。
私から少し遅れてヒロインの入来茉里さんと田中あさみさんがいらしたのですが、当たり前のことなのですが…すごくスタイルがよい。隣に座るのが申し訳ないです。高嶋さんもすぐあとにいらして、改めて「あー本当にご一緒にお芝居ができるのだな」と素直に感動しました。撮影場所へは1時間ちょっとかかるそうなので、全員のメイクが終わり次第、早々に出発しました。
その間も雨が降ったりやんだり。太陽が出たり、曇ったり。撮影場所に着き、しばらく経つと、願いが届いて、太陽がじんわりと出てきました。
クライマックスの撮影はクルーザーの上。撮影スタッフの方々、地元の方々に「書記委員長役の三原です」と挨拶をし、クルーザーに乗り込みました。撮影は待ち時間との闘いです。私が乗っていたクルーザーには高嶋さんと地元のセーリング連盟の方もご一緒乗られていて、太陽がご機嫌ななめの「待ち」のときは三人で共通の趣味であるご飯の話ばかりしていました。いやー、高嶋さんのお詳しいこと!おいしいお店をたくさん教えていただき、メモをとらせていただきました(笑)。
さて、とうとう私の初映像芝居! 今でも忘れませんが「2艇が並行してこちらに向かっているそうです」見事に噛みました…。噛むというのは、上手く口が回らなく、言葉が明瞭ではないということです。
セリフは噛んじゃいけないと思う時ほど、噛んでしまうものなのです。まさにマーフィーの法則。練習中は噛んだことなかったのに。
風が強く、クルーザーがとても揺れていたのですが、船酔いはなく、無事に船から降りました。でも、丘酔いになりまして…本当にあるのですね。しばらくフラフラしておりました。それでもスタッフの方が用意してくれたお昼ご飯はしっかりいただきましたが。(余談ですが、以前「チェスト!」に出演していた宮崎香蓮ちゃんとお仕事でご一緒させていただいたときに、香蓮ちゃんが「雑賀組のケータリングが美味しい!」と言っていたので楽しみにしていたのです。本当に美味しかった!)
海の上での撮影は比較的スムーズに進みまして、翌日は陸での撮影。この日の撮影シーン…ご覧になっていただいた方はおわかりになると思いますが、高嶋さんとの二人だけのシーンです…。ほんの30分ぐらいのシーンですが、ほぼ私が一人で喋っています。
前日に鹿児島弁を地元の方から教えていただいたので、是非鹿児島弁でやってみたいと思い、雑賀監督に勇気を出してその旨を伝えてみました。結果やってみることとなりましたが、やはり自然ではないとのことで標準語になってしまいました。方言というのは難しく、自分としてはしゃべれているつもりでも、地元の方から聞くと、不自然に聞こえることが多いようです。確かに、方言にあこがれて、真似をする東京の友人がいますが、何故か自然には聞こえないですものね(ちなみにそのシーンは鹿児島カップ火山めぐりヨットレースの会場を見ながらしみじみ…というシーンだったのですが、もちろん目の前にはそんな会場はありません。目の前には撮影・音声スタッフの方とレフ板でした 笑)。そんなこんなで二日間があっという間に過ぎていきました。
しかし、これだけでは終わりません。
東京に帰ってからは編集後に音声の乱れがあったところを録音しなおすアフレコがありました。無音の世界に一人ぼっちで録音。無音ってあんなに不安になるものなのですね。初めて知りました。
そのあと試写会にご招待をいただいたのですが、ちょうどその頃舞台があり、伺えず、実は一般公開をしてから新宿に見に行きました。福岡の先行試写会に一足先に両親が行っていたので感想を聞いてみると、母は「綺麗に映ってたよ」と言い、父は私の出ているシーンで恥ずかしくてうつむいていたとのこと。何だかんだ言って、両親ともにとても嬉しそうでしたので、少しは親孝行できたのかもしれません。雑賀先輩、ありがとうございます。
出来上がった作品は自分の出たシーンを忘れてしまうぐらい大変面白く、そんな作品に携われたことを本当に光栄に思いました。一本の作品を作るのは、実質的なことだけではなく、人の莫大なエネルギーや思いや方向性が結集していないと良いものはできない。そのエネルギーのかけらになれたことを一生誇りに思います。また雑賀先輩のこれからの映像作品がとても楽しみです。
この「海の金魚」は私にとって最後の映像出演作品となり、これからは違う道で生きていこうとする私にとって、最高の思い出となりました。将来子供ができたときに「お母さんは女優やったんよー」と言うのが今から楽しみです(笑)。
映画「海の金魚」 2010年4月公開。
雑賀俊郎監督(76期)による鹿児島三部作の
第二弾。
第一弾は「チェスト!」(第8回日本映画エンジェル大賞/香港フィルマート 日本代表/文部科学省選定作品)
誌上東筑フォーラム
東京東筑会の皆様、こんにちは。84期生の森山裕充です。現職について5年の歳月が経ちますが、
庭球会などの同好会を通じて、東筑会の諸先輩方とお付き合いさせて戴きながら、本業としては表題の研究教育活動にも取り組んでいます。マイコウイルスとは、菌類に感染するウイルスの総称です。
皆様も一度は耳にしたことがあるかと思いますが、イネいもち病は漢字では稲熱病と表記され、感染が
進行した田んぼを見ると焼け爛れたように見えるのがこのように命名された理由の一つです。イネいもち病菌は糸状菌といって、実験室で寒天培地プレート上に生育せると細い菌糸を放射線状に伸ばして生育していきます。そして菌糸の分岐点や先端に形成された分生胞子が風で飛散することでいわゆる空気感染が起きてしまい、水田の稲を次々と枯らしていくとても怖い植物病原菌です。
このいもち菌が活動に適した温度は26〜28度位ですので、冷夏の時には多大な被害が出てしまいます(年平均で1000億円程度の被害総額)。
今回の研究の発端は、実際に被害が出ている水田から分離された沢山のイネいもち病菌株を当大学の植物病理学研究室の先生から分譲していただき、スクリーニング作業といって、ひたすら培養した菌体を液体窒素で粉々にしながら磨り潰してマイコウイルスに感染された菌株を探し出すことから始まりました。培地プレート上の菌糸の形を穴が空くほど眺めるなど経験と勘が勝負の金鉱堀みたいな感じも否めません。因みに金鉱となるいもち菌を分譲していただいた先生(寺岡徹教授)は嘗て三菱化成(現三菱化学)社員時代に、今は亡き我父が勤務した黒崎工場に半年間ほど研修で滞在し、黒崎駅の立呑み屋や当時栄えていた商店街で豪酒した経験をお持ちで奇縁のある方です。「もやしもん」という漫画があるのですが、編者のお一人でもあります。
さて、マイコウイルスが感染していると、図1(あ)で示したようにイネいもち病菌の生育が悪くなってしまいます。一方、治癒処理といって、マイコウイルスを菌体から除去してあげると、イネいもち病菌は図1(い)で示したように元気さを回復して正常な生育を示すようになります。それで、実際にいもち菌に感染しているマイコウイルスの形態について、透過型と呼ばれる電子顕微鏡で観察してみますと、図2(あ)で示したような直径約33ナノメートルの球状の形のウイルス粒子が見えてきます。因みにこのときの倍率は四万倍で、ウイルスを酢酸ウランまたはリンタングステン酸といった重金属で染色させて電子線ビームを充て、電子線が透過したところが白く抜け、染まった部分は電子線を弾き飛ばしてしまうため、黒くなります。

マイコウイルスに感染したイネいもち病菌 図1(あ) マイコウイルスを除去したイネいもち病菌
図1(い)

図2(あ)

図2(い)
ところで一般的にウイルスを構成する代表的な生体高分子は、ウイルス粒子などを形成するためのタンパク質と、その遺伝情報となる核酸の二種が挙げられます。今回のマイコウイルスもやはりこの構造を持っており、遺伝情報を担う核酸としては、二重螺旋構造をとるRNA分子、いわゆる二本鎖RNAをウイルス遺伝子として四成分ほど有しています(図2(い))。皆さんが良く耳にするのは、二重螺旋構造をもつDNA分子だと思いますが、こちらは私たちの身体の細胞の核内に存在する染色体を構成する遺伝情報物質です。余談となりますが、生命の源となった生体高分子はRNAと言われています。なぜならばRNAは遺伝情報を伝達するだけでなく、DNAには無い酵素活性も有するからです。生物が進化する過程で、ウイルス以外の生命体は、すべてDNAを遺伝情報物質としますが、常に進化の激しいウイルスだけは、DNAでもRNAでも遺伝子として利用することが見受けられます。
少し話しが脱線してしまいましたが、今回発見したマイコウイルスは、イネいもち病菌を弱毒化させるものとしては世界で初めての報告でしたので、当大学の知財センターを通じて国内特許出願した後、科学技術振興機構(JST)支援採択のお陰で国際特許出願まで行き着きました。現在は、博士課程の学生と英語論文投稿中です。昨今は、国立大学といえども法人化のお陰で、少し世知辛くなってしまいました。しかし、いわゆる外部資金無しでは、全く研究も出来ませんので(実際、大学に着任して最初3年間は個人事務用パソコンすら購入できない状況でした・・・)、ただ論文発表や学会発表して喜んでいるようでは、幸運にも民間企業から「センセイ、もちろん特許ありますよね」と共同研究の打診が来た時の備えにはならない時代なのです。実際、国内、海外のアグリサイエンス関係からは、大なり小なりの問い合わせは来ている状況です。
水資源が豊かな日本は、陸稲に比べると雑草が生えにくい水田利用の稲作に適していますが、減反政策などによりすっかり休耕田が多くなってしまいました。食生活の変化によりお米の消費量が減ってしまったことも理由に挙げられますが、これまでの貿易黒字による外貨獲得の代償に、多くの食料を輸入してきたことも一因かと。最も日本国内の農業収益は約8億円。工業収益とは比較にならない低さです。しかし、昨今では、BRICSなどの台頭で、工業面での競争力や食糧消費量の均衡が大きく変動しており、日本も今の39%という低い食料自給率に甘んじている余裕はないと言えます。政府の当面の目標は50%だそうですが、具体的に何をどうすればよいのか?一案としては、休耕田を活用して、これまでほぼ100%輸入に頼ってきた家畜飼料を飼料米として国内で自給できれば、また小麦粉から米粉の転用もあります。現在の休耕田の約三分の一(岐阜県の広さに相当)を活用すれば、家畜用飼料は輸入する必要が無いと資産されています。もちろん、海外に農地を持つ日本商社の立場もありますので、今直ぐにとは行かなくても、徐々にシフトすることは可能とも思えます。また、昨今話題となっている国内バイオエタノール生産の原料にも単位面積当たりの収量が多い飼料米が使用されています。
このように日本国内における稲作増産は、食料自給率向上やバイオマス資源利用のグリーンエネルギー開発を担ってくれることが期待されます。但しこのときに障壁となるのが、そうです、イネいもち病菌です。餌食とする稲作付け面積が国土に増加すれば、当然、パンデミック(大流行)が起こりかねません。優れた化学農薬も多数開発されていますが、加えて、異なる抗菌スペクトル効果を持ち、耐性菌も出現しづらいマイコウイルスが稲をいもち病菌から守ってくれる農薬として活躍されることを期待して研究を行っています。マイコウイルスはもともと自然界に存在するものなので、いわゆる食の安心・安全面においては、高いアドバンテージがあります。また、農薬の残留性なども気にする必要が無いため、収穫期直前でも散布することが可能です。現在、マイコウイルスを量産する手段として、培養条件の検討やパン酵母の中でマイコウイルスを増殖させる試みなどに取り組んでいます。
パン酵母を生産ツールとして利用できれば、①卓越した発酵技術による高い生産性によりコストダウンが可能、②もともと単細胞なので空中散布が容易、③ ドライイーストなど保存技術の確立など、これまでのインフラ設備や技術を転用できるため、実用化に向けた研究開発を加速化できるだけでなく、元々食用も可能な微生物なので、安全面でも充分に信頼がおけることが期待されます。
最後のほうは、良いこと尽くめのことを記載してしまいましたが、実はまだまだ課題やハードルはあるのが現状です。今後も何とか発展に向かっていけるように、努力して行きたいと思います。尚、昨今、事業仕分けで文部科学省、経済産業省などの研究支援団体が縮小などの対象になっておりますが、本研究も実は両省の外郭団体である日本学術振興会、科学技術振興機構(JST)、新エネルギー開発機構(NEDO)などから時限付きの資金援助を受けています。今回の記事を読まれた東筑会の方々の中に、仕分け人がいないことを願いたいのですが、万一いらして「ノー」と言われた場合は、今後は庭球会の幹事代行役に専念致す心積もりです。
(東京農工大学大学院 農学府研究院 生物制御科学専攻 細胞分子生物学研究室 講師)
第28号
(2010年 平成22年7月)
