27-01

表紙の写真は、若松区在住のカメラマン香山義憲様によるものです。折尾駅3番ホームの東筑軒に隣接する待合室で見たこの写真が頭を離れず、ぜひとも会報の表紙に使いたいと思い立ちました。香山義憲の写真は東京東筑会懇親会の会場でご覧になった方も多いかと存じます。今回、折尾周辺の歴史的遺産の保存を呼びかけている蒔田様から、香山様の連絡先を教えていただき、掲載が実現しました。
ところで、折尾駅舎は我らが青春のシンボルのひとつであるだけでなく、歴史的価値もたいへん大きなものです。それが、間もなく取り壊されようとされています。

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折尾レトロ  http://homepage3.nifty.com/orio/より

折尾を流れる『堀川運河』は、徳川家康が江戸幕府を開いたのと同じ頃(約400年前に計画され、183年間もの長い年月をかけて完成しました。 堀川運河は人工の川のため、曲川と「川が立体交差」をするという珍しい「伏越工法」を用いています。 また車返しの「ノミ跡」部分は、硬い岩山であったため長さ405mを切り抜くのに9年間もかかる難工事でした。 堀川運河ができたことで、遠賀川から響灘や江川を通り洞海湾の若松まで、往復約1ケ月間かかっていた輸送は、3日~6日で運べるようになりました。

『折尾駅』は、その堀川運河で運ばれた物資を鉄道に積み替えやすいように堀川運河の横に 造られました。筑豊本線と鹿児島本線が『日本初の立体交差』をしたことで、東西南北に 物資や人を運べるようになり、福岡で最初の新設県立中学として東筑尋常中学(東筑高校)が 折尾に建設されることになりました。
1901年(明治34年)に「官営ハ幡製鐵所」が創業したのは、筑豊の優良な石炭を 利便性よく、堀川運河と鉄道で運べたことがきっかけでもあります。西鉄電車も、電車が道路と立体交差をする『ねじりまんぽ』(日本最大級)という、 特殊なトンネル工法を用いた赤煉瓦の高架橋で黒崎方面から折尾駅前に電車を乗り 入れました。またこの高架橋は短結線と鉄道の立体交差もしています。

このように先人が知恵をしぼり難工事をしたお陰で、折尾の街は「交通の要衝」となり、
様々な公共施設が折尾に集中し、盛況を極めた「遠賀の都」として栄えてきました。
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折尾駅舎は門司港駅、東京駅に並ぶ建築物であり、その周辺には、日本初の立体交差、赤煉瓦のトンネルなど、上記のような歴史的経緯による文化遺産が豊富です。母校の石段もそのひとつに数えられるかと思います。
蒔田様からのメールによれば、現在行われている開発は国鉄時代からの計画のようで、既に団塊の世代の定年などにより電車の車両数は減少しているばかりか、この開発が完了する頃にはさらに必要性は薄れていくと予想されます。開発しても繁栄がともなわないならば、それは開発という名の破壊です。むしろ、先人が後世のためにと込めた想いを再認識し、歴史や文化を伝承することが温かなコミュニティを取り戻すことになり、折尾の繁栄・発展につながるのではないでしょうか。
地元には熱心に保存を呼びかける方々がいらっしゃいますが、残念ながら議論がいまひとつ広がっていないようです。そこで、故郷を愛する東京東筑会の皆様に、お知恵とお力添えを賜りたく、地元で活動されている方々に代わってお願い申し上げます。上記ホームページでは、単なる反対意見ではなく、理想的な案も示されています。また「折尾駅」「折尾駅 保存」「折尾駅 取り壊し」などと検索することで、この問題に関する様々なページをご覧になれます。

折尾駅舎およびその周辺の文化遺産の保存に、お力添えをお願いいたします。

                       東京東筑会 会報編集長 三好尊信(84期)

 

■目次■

役員・事務局スタッフ挨拶
30周年記念コンサートレポート
2008年度懇親会当番期を振り返って
生徒派遣事業を終えて
9.11 あのとき、あの場所で
未曾有の苦難の時代を生きて
悠ターン?それとも‥‥
田舎教師日常
仕事への情熱~あずみ会に参加して~
にわだま会
何でん語らん会
鎌倉散策に参加して
ひびき会のこと
東筑竜昇会との出合い
私的視点からの「東筑竜昇会」
東常東筑げってん会参戦記
出ずる日蕾む花~つぼみ会、始動~
つぼみ会に参加して
会務報告


東京東筑会の安定的発展をめざして     会長 安永保昭(53期)

 昨年度は東京東筑会の30周年を会員の皆様と共にお祝いし、その記念事業も成功裡に終えることが出来ました。30周年に相応しい「記念会報」は2,800名近くにまで増加した全会員に届けられ、「記念懇親会」も503名が集まる盛り上がりを見せ、記念フォーラムの「記念コンサート」も素晴らしい歌声と楽しさで500名を超 える満場を魅了し、これら記念事業を通じて多くの会員の皆様が同窓会をお楽しみ頂けたのではないかと思います。
  また、「ホームページ」、「現役生研修支援」など会の事業や同好会も充実し、若い世代の活動も「あずみ会」は年2回となり、学生部の「つぼみ会」も始まり、「無幹事期を無くす」こともほぼ完了できました。
  「財政基盤」も会費納入数が記録の859で、会の資産も目標のほぼ500万円に回復し、「運営組織」も事務局機能の交代があったものの、さらに多くの方々が運営に参加頂くなど、「東筑の絆を拡げ深める」活動はさらに推進されたと思います。
  これらは、会員の皆様の絶大なご支援と、活動に携わられている方々の献身的な熱意と努力によるもので、心から感謝申し上げます。

  同窓会というのは不思議なもので、世代は違っても多感な時代を同じ「東筑」で過ごしたというだけで、一緒にいるだけで楽しくなんとなく嬉しいものであります。このよ うな同窓会の楽しさと嬉しさを多くの東筑同窓生に是非味わって頂きたい、そして特に百年に一度と言われる今の不況の中で癒しや活力の再生に役立てばと活動を進めて居り、そして将来にわたって会が安定的に発展することを念願しております。
  その為には将来にわたって「財政基盤の安定」と運営組織を担う「人材の確保」が必要です。ところが往時700名を超えた卒業者数が、現在では350名という「卒業者数の減少」という現実は、会員数の減少即ち会の存続基盤を危うくさせるものであります。
  「財政」については、「広告収入や寄付」などもあり得ますが、特定の方々に負担を強い、会の中立性を損ねる可能性もあり、また、「事業収入」でカバーという提言も会を事業リスクに曝し、会の運営の中心が営利に偏りかねないので避けるべきだと考えます。やはり東筑らしく正面から問題に向き合い、年会費を財政の柱とする方針を堅持し、会員の掘起しによる会員数と会費納入率の維持増大により対処すべきものだと考えます。

  ここ4年間の会員数は、潜在会員数減少の中で、当番期を経過しっつある70期代と90期代以降の増加により、50期代以前の減少をカバーしつつ増加しており、「あずみ会」や「つぼみ会」などの活動の成果が現れつつあるものと思います。関東地区の同窓生は卒業生数の10%から20%程度と考えると、80期代以降はまだ掘り起こせる余地があり、特に当番幹事期を控えた「80期代の掘起し」が今後の重要な課題となります。

  「人材の確保」は、会の事業や同好会などの充実で多くの方々に参加して頂き、さらにその運営に携わって頂くことで実現できるのではないかと考えます。「多くの会員 の方々に楽しんで頂き、そして活動に携わって頂き、会費で支えて頂く」ことで、会の安定的発展が図れるのではないかと思います。
  今年度も今まで通りの方針で、今まで以上に将来の安定的発展を意識ながら「東筑の絆を拡げ、深める」活動を進めます。 会員の皆様のご理解とご支援と積極的なご参加を心からお願い申し上げます。

卒業数 H16 会員 H20 会員 会/卒% H20-H16 会員数 年齢
~49期  
282
215
-67
76~
50期代
6,042
682
614
10.2
-68
66~75
60期代
5,394
597
598
11.1
1
56~65
70期代
4,541
670
786
17.3
116
46~55
80期代
4,544
206
261
5.7
55
36~45
90期代
4,240
49
179
4.2
130
26~35
100期~
2,637
26
132
5.0
106
~25
合計
27,398
2,512
2,785
9.4
273
 

 

ごあいさつ        副会長 渡辺克彦(63期)

 東京東筑会の皆様、昨年4月に恐れ多くも新しく副会長に選ばれた63期の渡辺克彦です。
  同窓会の集まりに参加するなんていうことは、「子育てが一段落し、また会社勤めのなかで時間の余裕ができた者がすること」と考えていませんでしょうか。私も実はそう思っていた一人です。
私が同窓会に足を入れたのは単身赴任がきっかけでした。証券会社で公開企業を目指す会社を担当する部署に配属され、その見込み企業を発掘するのに頼ったのが同窓会の先輩が勤めている会社でした。その地域の同窓会会長をされていた先輩は、知人や同窓会の会員などに私を紹介、人脈が拡がって、公開企業の発掘に役立ったことは言うまでもありません。
  阪神大震災の時にも同窓の皆様から支援の手を差し伸べていただき、また大先輩の仰木彬オリックス監督にも震災の後お目にかかれて、震災直後九州から神戸に帰られるときの苦労話など、単身赴任の生活の苦労話など為になることばかりでした。 そんなうちに単身赴任も無事終了し、東京東筑会に首を突っ込むことになり、「同窓会とは何?」などと考えるようになった私がいました。

  そのときの同窓会は若者を如何に会に参加させることが出来るかが一番の問題点だったと思います。
「若い人たちに同窓会に参加して貰うには」と同窓会世話役の 人たちといろんな話し合いを持ったものです。
  いろんな経緯を経て現在の東京東筑会が生まれ変わり、大勢の若い人たちの参加で年一度の懇親会が盛大に開催されるようになりました。これも各期同窓会幹事さんたちの努力の賜物であると感謝しています。年寄り同窓生はちょっと戸惑っていますが。
  昨年度は東京東筑会30周年だという当番期幹事さんたちの思いいれもあって、500名を超える懇親会参加者がありました。大学生から上は70歳を越える同窓生が多数参加で嬉しい限りです。大勢の先輩後輩に囲まれて「東筑高校の卒業生である自信と誇り」が実感できたのでは。
  また今年1月10日に東京東筑会30周年記念事業として、オペラ界で活躍中の大野徹也氏(70期)と手嶋眞佐子さん(87期)によるジョイントコンサートを、開演30分前からは三原桃さん(99期、東京芸術大学卒)とお仲間による邦楽の演奏会を開催しました。
  450名定員の会場が満杯。大成功裏に終わり、福田運営委員長他のスタッフの苦労も報われました。これも皆様同窓生のお陰です。
  「あずみ会」も若い同窓生が中心となって先輩格の木元さんなどが協力しながら若者たちのキャリアアップの助けになるような会が毎回成功裏に運営されていることも 東京東筑会が目指す「癒しの場の同窓会」が実現されつつあるのではと思っています。
  大先輩の長畑さんの「何でん語らん会」も各回テーマをもって各自の意見・感想・疑問点などを思い思いに語って食べて飲んで成功裏に終っています。
  私は自分では何も出来ませんが、東筑を卒業した皆様に、社会や家庭で少しでも充実した人生を送っていただくため、「癒しの場の同窓会」東京東筑会を静かに見守っていきたいと考えています。今後ともご協力のほどよろしくお願いします。

 

事務局長就任のご挨拶        高木俊弘 (69期)

 東京東筑会会員の皆様、こんにちは。
このたび、安永東京東筑会会長より東京東筑会事務局長を委嘱され、就任することになりました、69期の高木俊弘でございます。
東京東筑会は、創立以来長年にわたる諸先輩及び会員皆様方のご尽力により、昨年30周年を迎え、その活動も年々活発になってきています。
その東京東筑会の事務局長という大役をお引き受けし、何かといたらぬことがあるかと存じますが、東京東筑会発展のために精一杯努めたいと思いますので、会員の皆様のご指導、ご協力、ご支援のほどよろしくお願い申し上げます。
  さて、私が東京東筑会の存在を知るきっかけとなったのは、いまから11年前に、一年生時同じクラスの野球部のB君からの一本の電話でした。そこで初めて東京東筑会という同窓会組織があり、来年がその懇親会の当番期に当たると聞き、その準備のために関東地区69期のメンバーに連絡していると言うのです。それまでは同窓会にあまり関心はなかったのですが、これはやるしかないと考え、早速手を挙げました。   こうして当番期幹事の活動をすることになったのですが、その当番期幹事の前後3年が私の仕事の最も忙しい時期でした。
  私は、高校卒業後すぐ上京し一浪して大学に入り、2年の終わり頃に多少興味はありましたが終業時間が早いことが一番の理由で証券会社に入社しました。正社員であったものの最初は学業優先でアルバイト気分でしたが、そのうち仕事が面白くなり、就職活動もせず大学卒業後もそのまま勤めることにしました。その後金融の自由化により証券界も自由化の嵐が吹き寄せますが、会社ではここがチャンスと捉え新しい仕組みを考えている時期で、特に当番期幹事の平成11年10月には手数料自由化が実施され、会社はインターネット取引に特化していく段階で繁忙を極める状況にありました。
  このような時期に当番期の活動があったおかげで、普段なら休日家にいる時は疲れてゴロゴロしているだけ一日が終わるところを、同期の皆さんと一緒に高校時代の出来事などを語らいながら懇親会の準備をし、楽しいひと時を過ごすことができて、リフレッシュし活力をもらい厳しい時期を乗り切れたと思います。
  その後は、東京東筑会の懇親会等には出席したり、しなかったりでしたが、平成19年2月に同期のM君に誘われて行った竜昇会のラグビー応援がきっかけで、ラグビー同好会の試合観戦に夢中になり、そのうち他の行事にも参加するようになりました。同好会になる前の53期の先輩による鎌倉散策の会に誘っていただいたり、何でん 語らん会に参加したり等々、多くの先輩、同窓生、その関係者など多くの方々に出会うことができました。
  このような機会を作っていただいた、東京東筑会及びその関係者に大変感謝しています。
東京東筑会の活動は、会長を始め執行部役員及び関係者により幅広く運営され、多くの会員の皆様の支えにより財政基盤もしっかりしたものとなってきています。 今後も、年代を問わず、より多くの東筑生の方々に楽しみながら参加していただけるような会になるよう、ご恩返し気持ちで、少しでも東京東筑会のお役に立てるよう努めますので、繰り返しなりますが、会員の皆様のご指導、ご支援、ご協力をお願い申し上げます。

 

 会計役より           

 姥浦浩子(72期)

 日頃より東京東筑会へのご理解、ご支援をありがとうございます。
 昨年度は、多くの皆様から年会費をご納入いただき、厚く御礼申し上げます。
ここ数年、運営がだんだん近い期で行われているのを感じていましたが…。遡れば私達が当番の時、懇親会の企画の一つとして、会の後半、出身中学により地域毎に 集まりました。そこで山保現副会長にお会いし、以来機会があればお声を掛けていただいておりました。昨年は、突然の会計のお話をいただき、予期せぬ同期の推薦もあって、身にあまる大役をお引き受け致しました。
  会計の方は、出納を扱う本会計を飯田さんが担当し、私は郵便振替等を担当しています。
ずっしりとプレッシャーを感じながら、ほとんど新人状態で総会、幹事会に出席しますと、以前と大分様子が違っているのを感じました。学生部や若い人の参加が増え、受付を手伝ってくれたり、積極的に発言したり。同好会は、幾つもの集いができ、各種研修会の活動も盛んになっています。 折々に、当番期より懇親会の準備状況やアピールを聞くにつれ、その熱気や懇親会へ向けての結集したパワーを感じました。
  幾つかの行事を通して、多くの方とお会いしました。若手研修会には、多くの新社会人や学生部が参加し、自ら企画、運営する姿を頼もしく思います。同好会の世話人の方から会の様子を伺うと、喜々として集われているのが伝わってきます。
  昨年は、鎌倉散策の会に参加させていただきました。長年培ってこられた詳しい説明を聞きながら古刹を歩き、紅葉の古都を楽しみました。次回も是非参加させていただきたいと思います。
  東筑には色々な分野で活躍される方がいると再確認しました一年です。本年度もどうぞよろしくお願い致します。


飯田章子(76期)

 東京東筑会会員の皆様におかれましては、益々ご健勝の事とお喜び申し上げます。
昨年2008年度より会計を拝命致しました76期飯田でございます。
  私自身3年前の当番期で関わりを持つまで「同窓会」というものに対し殆ど関心もなく過ごしており、正直、当番期は一年のご奉公という気持ちで参加したものです。
  ところが当番期の一年間、様々な行事に出席する事で先輩方の熱い思いに種々触れる事になり「東筑の伝統をリレーしているひとつの期なのだ」という事を実感致しました。先輩が後輩へ伝えるものの大切さ、後輩が先輩に新しい風を吹き込む変化、この時代にあって、年代を超えて人間交流がなされている構図にいつしか填まって(笑)っていました。 
昨年度、赤松先輩(70期)、瀧口先輩(73期)お二人の会計役同時交代の節目にあたり、後任会計をとのお話を頂き、この世代を超えた同窓会 継続の為、唯一自分にできる事は数字を扱う事くらいかな、と生意気にもお受けしました。
  就任してみると会の健全な運営の為にと年会費800名という予算が組まれているのを知り、大変な事を引き受けてしまったのかもしれないと思ったものの後の祭り。それでも昨年度は、30周年であるという事と会員皆様からの日頃のご支援のもと、何とか必要な財源を頂戴する事ができました。この場をお借りして厚く御礼申し上げます。
  今年の経済はまた厳しい風が吹いており会員の皆様にも大変な状況とは思いますが、引続きご支援を賜れば幸いでございます。   最後に皆様のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。

 

東筑コミュニティの翼端を灯して

広報委員長役員就任挨拶   佐野和範(71期)

 これまでも広報委員長としてホームページの管理、会報の発行に関わってまいりましたが、本年の総会にて組織委員長とともに役員昇格となりましたので、改めてご挨拶いたします。
  東京東筑会の会報と公式ウェブサイトは、幾多の高校同窓会の情報メディアと比較してもかなりユニークなものであります。
年度事業や年度会計の内訳だけでなく、総会や幹事会の議事詳細が掲載され、また母校の御好意でいただいた東筑高校新聞やPTA新聞の記事を見ることもできます。
  ゴルフやテニス、カラオケ同好会などは同窓会の定番でありますが、東京東筑会においては「鎌倉散策の会」「何でん語らん会」「東筑竜昇会(中竹竜二早稲田大学 ラグビー部応援団)」など、東筑同窓以外でもその存在を知られているちょっとした活動もあります。 さらに現役高校生の社会見学の派遣事業には全面協力し、また上京してくる大学生や新社会人を激励する研修・交流会など若い世代の東筑コミュニティ形成も東京東筑会の公式事業としています。これらの活動レポートを並べるだけで会報の紙面は尽き、毎週毎週ウェブサイトの更新に追われてしまうのであります。
  そしてそれは「過去の想い出話」ではなく、常に「現在」、「今起こっていること」の記事や写真画像のページ構成になりますので、読者には単なる「同窓会誌」以上の 何かを感じていただけるものと自負しております。
  会報は母校にもお送りしており、現役生徒の皆さんの目に触れているはずです。
また現役生徒が東京東筑会ホームページを見ているという記事を目にした時は、何か切ないくらいの感動を覚えたものでした。
  ウェブサイトは、東京東筑会会員だけでなく九州、関西あるいは海外の多くの同窓生の訪問を受けており、励ましのメールも頂戴しております。会報編集長もウェブサイト管理人も『東筑文化』の交歓の一端を担うものとして、その職責を果たしたいと存じております。

組織委員長役員就任挨拶   西本逸郎(76期)

 この度、安永会長より組織委員長を委嘱されました76期の西本逸郎です。これまで、あずみ会やつぼみ会(学生部)などの運営を支援することで、東京東筑会の会員増や確たる財政基盤の構築に少しでもお役に立てればと活動してまいりました。
最初は、76期が当番期時の懇親会にて如何に多くの同窓生が集まっていただけるかを考え活動したのが発端でした。これまでは、ある面、気楽にやって来られまし たが、先日の総会において、組織委員長が東京東筑会の役員となることが正式に決まりました。今後は、会の活動をしっかり盛り上げ会員サービスという観点で成果を 出し、次の世代に引継いで行かなければならないとの責任を感じている次第です。

  東京東筑会という同窓会組織は、東筑を卒業した「ほやほや」の方から、東筑と共に年輪を重ねた大先輩まで、実に幅広い世代、様々な生業を持たれた方々の集合体です。その各々の方々が、東筑を共有し意識しながら生活できるように、活動の新芽を育み、その活動が継続できるよう挑戦してまいります。そのことで会が一層発展していければと思っております。
  ただ、私は根が「とんびん」なものですから、ご迷惑やご心配をお掛けすることも多々あるかもしれませんが、その節は宜しくご指導並びにご支援の程お願い申し上げます。
  また、普段の私ですが、情報セキュリティ専門会社で取締役 常務執行役員最高技術責任者を務めており、日々ネット上のハッカーやコンピュータウィルス、さらにネットを悪用する輩などと戦っています。日経ネットでコラムを書いていますので、ご興味のある方はぜひご覧ください。
「西本逸郎のセキュリティー表ウラ。」(「表ウラ」で検索。)

 

東京東筑会30周年記念コンサート

大野徹也・手嶋眞佐子ジョイントリサイタル

   皆様のご協力により、大成功いたしました。

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 2009年1月10日土曜日、東京東筑会30周年記念事業の目玉であった「大野徹也・手嶋眞佐子ジョイントリサイタル」は、コンサートホールの観客席をほぼ埋め尽くして開催されました。四百数十のオーディエンスがお二人の歌声に魅了され、東京東筑会にとって、素晴らしい新年の幕開けとなりました。
  本プロジェクトは、東京東筑会副会長の渡辺克彦氏(63期)が実行委員長を務め、福田淳一氏(76期)がコンサート運営委員長としてその手腕を振るい、東京東筑会のスタッフの方々が多面的な協力をして、大成功に至っています。
  また、主役のお二人が歌声を披露する前には、三原桃さん(99期)とお仲間による邦楽演奏が行われ、そちらも大喝釆を浴びました。

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大野徹也(テノール)
70期。熊西中学出身。東京藝術大学大学院ソロ科修了。77年、二期会オペラ「魔笛」にてオペラデビュー。81年、第16回民音コンクール第2位。その後も数々の大舞台やリサイタルなどで成功を収めている。二期会会員、ぐる一ぷ・な-ベ、東京学芸大学教授。

手嶋眞佐子(メゾソプラノ)
87期。引野中学出身。東京藝術大学大学院ソロ科修了。文化庁オペラ研修所第11期修了。94年、ブラシドドミンゴ世界オペラコンテストメゾソプラノ部門優勝。98年より一年間、文化庁在外派遣研修員として、ニューヨークへ留学。二期会会員、上野学園大学教授。

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2008年度 懇親会当番期を振り返って 懇親会実行副委員長 中原敬-郎(78期)

 「懇親会活動について何でも良いから書くように」とのお話しがあり、どうゆう因果か私が書くことになりました。昨年11月22日の懇親会に至る78期の活動を私の視点で書いて見ましたが、懇親会から既に5ケ月が経ち、記憶も脱げな状態で書いています。覚えていないところは行間を推測で埋めていますので…・悪しからず。

1.邂逅

  私が東京東筑会に初めて参加したのは2007年10月の幹事会のことでした。
会社の先輩である77期会計担当のM先輩に半ば強制的に脅され、訳のわからないまま幹事会に出席し、久しぶりにあった同期とその後、楽しく酒を飲んだ記憶があります。「なんだ東京東筑会は楽しい会じゃないか」・・その時は気づいていませんでした。『当番期でなければ』この言葉が欠けていたことに。

2.焦燥

  2008年1月には、H代表幹事のもと、実行委員長もA君に決まり、副委員長にTさん、そしてなぜか私が就任し、長い長い懇親会準備が始まりました。最初の出足は良好!12月には忘年会、1月には新年会で同期の親睦を図り、仲間を増やし、毎月の懇親会実行委員会で準備が着々と進んでいく・・・はずでした。ところが実行委員長が笛を吹くのですが‥・誰も踊りません!そもそも私が踊っていないのですから‥・いえ、踊ってはいたのです‥・会議後の酒の席では・・・。
そうこうする内に6月、新緑の季節を迎えましたが、イベントの内容も含め内容がほとんど決まっていません。実行委員会の出席者も7、8人程度、決めるべきことはたくさんあるのですが、決まりません。決まりませんが 会議終後は又、酒を飲みます。酒が入ると『いい案』が出るかもしれない・・・なんてことはありません!確かに記憶を無くす程盛り上がるのですが出るのは『いい案』では無く『●▲』ばかり・・・。
  この頃からでしょうか、78期に対する東京東筑会の幹事の方の目が厳しくなっていったのは。
間にあうのか78期!人類滅亡いや懇親会まであと145日。そういえば集客目標も600名だったような‥・。目標数を気合で出しちゃダメだ!

3.転機

  7月に入ると少し明かりが見えてきました。女性陣の参加です。それまで女性は本当に少人数でほとんど男性ばかりでしたが、HさんMさんを始め女性陣が実行委員会に参加するようになり、少しずつ物事が決まっていくようになりました。やはり野郎はダメだ。
  8月23日(土)には懇親会前の一大イベント『案内状発送作業&78期暑気払い』を行い、約40名の同期が集まってくれました。
  このイベントを契機に実行委員会の出席率や懇親会準備の協力者が増え、活発になってきます。中でもHさん率いる女性陣を中心とした集客チームは獅子奮迅の働きを見せ、懇親会のメインイベントすら決まっていない状況で集客を着実に増やしていっています。
これならいける・・・はずだ!

~閑話休題~(実行委員長A君のこと)
  少し話しはそれますが、実行委員長のA君のことを書きます。彼は自ら資料を作り、すべての指示を行い、78期の我々を引っ張ってくれました。正に彼無くして78期の2008年度懇親会は成立しなかったと言っても過言ではありません。
そんな彼ですが酒を飲むと記憶を無くします。78期の宴会の後にはA君が必ず記憶を無くす。ユニクロのフリース以上の78期の定番です。ネズミだって『学習』して迷路を通り抜けられるようになるのに‥・。彼の今後が心配です。

4.再び焦燥 そして 追い上げ

  再び懇親会活動に戻ります。 早くも10月を迎え懇親会準備も佳境を迎えて来ました‥・が、イベントも決まっていません。役割分担もあるような無いような状態で残り2ケ月となりました。
いかに楽天的な78期の戦士たちにも焦りの色が出始めましたが、それでも中々進みません。もうダメか‥・と思われた時に0君の登場です。実行委員長とタッグを組んでテキパキと決めていきます。イベントもT君の案でDIVAのミニコンサートに決まり、どんどん進んで行きます。
でも0君、会議の席でオレを子供のように叱るのは勘弁してくれ・・・オレだって会議で何か発言したいんだ・・それが準備に何のプラスにもならないシャレだとしても・・・。
  残り1ケ月、怒涛の捲くりが始まりました。集客チームの面々は鬼のような形相で集荷数を積み上げ、会場担当、企画担当、来賓担当・・・皆、自分の担当業務を着実に進めていきます。
そして懇親会前日、A実行委員長を始めとする先乗り隊がヒルトンホテルに乗り込み、最後の仕上げを行い、懇親会の準備は整いました。

5.大団円

  迎えた懇親会当日、好天!
朝早くから78期の同期が皆、真剣な眼差しで黙々と準備を行う。九州、関西などからの応援を含めると総勢80名超の78期が東京に終結し、懇親会を成功させる為に力の限り働いていを。熱いぜ78期、やれば出来るじゃないか!
  そしてA実行委員長の開会宣言が始まった・・と思ったら懇親会は終了していました。比喩ではありません、本当にそれくらいの感覚で時間が過ぎたのです。
懇親会を成し遂げた満足感と達成感に浸りながら同期で一次会、二次会、三次会・・駆け抜けるように時間が過ぎていき・・いつものように記 憶が・・・・。
  全集客数503名! 600名には届かなかったものの500名越えは達成!こうして我々78期の懇親会活動は幕を閉じました。
  最後に78期の名誉の為に補足をしますと78期の仲間は皆、この一年間懇親会準備に真面目に取組んできました。決して酒ばかり飲んで何もしなかったわけでは無いこと付記します。

そして、七九期の皆様へ
  当番期は本当に色々と大変なことはありますが、非常に実りのあるものです。
今回の当番期を通じて同期の絆は非常に強く、仲間意識が格段と高まります。この原稿は多少誇張して書いていますが、正直なところ今にして思えば本当に楽しい活動だったと心から思っています。・・・・今にして思えば・・・ですが。

27-06

 

生徒派遣事業を終えて         矢野愛美(109期)

 今回私がこの生徒派遣事業に参加したのは、自分の進路を考えるヒントを探すためだった。学校生活の中でも、総合学習の時間などで自分の進路について考える時間はあったのだが、私はこれから先自分がどこの大学に行き、どの学部を選び、そこで何をしたいのか全く分から なかった。興味のある分野や好きな分野がばらばらで、その中で一つを選ぶことができなかったのだ。こうして迷っている間に、派遣事業では普段歩み寄る事のできない大学や企業を訪問できると聞き、私は参加しょうと決意した。
  今回の生徒派遣事業で、私はよく「すごい」という言葉を使っていたような気がする。確かに、大きなことから小さなことまで、「すごい」と感じることは数え切れないほどあった。特に東筑の持つ人脈の広さと、各方面で活躍する先輩一人一人の話に、「すごい」と感じることが多かった。

  派遣事業では、関西東筑会と東京東筑会の方々に歓迎会を開いて頂いた。関西東筑会では、どこか温かみのある雰囲気の中、皆で一緒に御飯を食べた。富永先生のお兄さんでもある事務局長から、「応援団に入れー」と強く勧められた時には思わず苦笑いしてしまったが、関西東筑会の方の話はとても面白く、ずっと笑いが絶えなかった。あんなに明るい雰囲気を作れるのは、先輩方にとっても誇りである東筑を卒業したからこそだと思った。東京東筑会では百人もの人が集まり、男女・世代を超えて語り合った。私は引野中学出身なので、引野中学出身の先輩方と語り合う事もあった。東京という大都会で、福岡にある小さな地元について語り合うというのはなんだか不思議な感じがしたが、あんなに語り合うのが楽しかった夜は今までになかったと思う。もっとたくさんの先輩方と語り合いたかったのだが、歓迎会の時間は私が予想していた以上に早く過ぎて、語り尽くせなかったのは少し残念だった。

  生徒派遣事業は、そんな先輩方のおかげで成り立っている。研修先の企業や大学で案内してくださった方々も、私たちの研修の一日に同行して下さった方々も、東筑卒業の先輩方ばかりだった。そんな先輩方から、私は多くの話を伺うことができた。どの話にも共通して言えることは、何事も前向きに、よく考えるという事だ。幸せとは何かと考えてみたり、明日の自分を高めて行くために今自分に何ができるのかを考えてみたり、一つの事実を、あらゆる面から見て自分の考えを持てるようにしたり、世界に通用するような人間になるためには、それだけ色々考えて行動する必要があり、そのためには今私たちが高校で習っている知識が最低限必要なので、今できることをしっかり実行していかなければならないのだなと思った。

  三泊四日という生徒派遣事業は、想像していたよりはるかに短かったが、非常に実感溢れるものとなった。この期間の中で、私の進路がはっきりとは決まらなかった。今はむしろ、自分の進む道を具体的に決めつけてしまう前に、自分の可能性や視野をもっと広げ、あらゆることに対応できるように今できることを着実にこなすべきなのだろうと思った。

生徒派遣事業を終えて         金村卓也(109期)

 派遣事業に参加して本当によかったと思う。この四日間は初めて知る珍しい経験の連続で、退屈する暇を与えないほど充実していた。
  京都大学、東京大学では、日本でトップレベルの設備と威厳ある建造物にただただ驚かされるばかりであった。また、入学困難で有名なこの二つの大学が、まったく違う雰囲気であったのが面白かった。
  さまざまな企業を訪問したが、その中でも特に博報堂に興味を持った。実は、今回見学させていただいた企業の中で、博報堂という会社だけ開いたことがなく、行くまでどんなことをしているのかよくイメージがつかめなかった。しかし、会社は去年できたばかりの赤坂サカスにあり 私のよく知っているユニークなCMを何本も作っていて、会社のことをよく知らなかったことを恥ずかしく感じた。短いCMも、見る人に伝えたい事や、伝える方法、起用する人物など、さまざまな過程を経て作られていて、ただ面白かったり、有名な芸能人を起用したりするだけではよいCMとは言えないんだなと感じた。また、先輩方はこれからの世の中、英語は必ず必要だとおっしゃっていた。 今まで以上に英語に力を入れようと思った。

  国会議事堂や最高裁判所などの日本を代表する建造物は、他にはないような独特のデザインで、外見も、その中も大変美しかった。テレビでよく見る衆議院議場は、実際はとても広くて、どことなく高級感が漂っていた。国会議事堂や最高裁判所は警備がとても厳しかったので、ここで働く人は重い責任を持って働いているのだなと感じ、またその中に東筑の先輩がいることはすごいことだなと感じた。
ホラを吹いて努力し続ければ夢は叶うという先輩方の言葉に励まされ、夢に向かって頑張ろうという気になった。 そして最も心に残ったのは、東筑会の先輩方による歓迎会だ。関西東筑会ではアットホームな感じで笑いが絶えなかった。東京東筑会では、総勢約百人での歓迎会で驚かされた。私は、出身中学が同じ先輩が一人もいなかったので話せるかどうか心配だったが、一流企業で働く先輩や年齢の近い大学生の先輩などたくさんの先輩方と話すことができ、良い経験となった。高校が東筑というたった一つのつながりだが、そのつながりはとても強く太いことに感動した。 京都、東京とまわり、それまでとは違う物事の捉え方や考え方を身につけることができたと思う。この四日間は何事 にも代えがたい。これからの学校生活に、派遣事業で学んだことを最大限に活かしていきたい。
  最後に、派遣事業を支援してくださった東筑高校の先輩方、本当にありがとうございました。

 

東筑フォーラム 第十回   9.11 あのとき、あの場所で。   池田裕-郎(70期)

  9月10日、帰宅してくつろぎながら本を読んでいると、机の上に置いてあった砂時計が、触りもしないのに突然壊れた。やれやれ。机も床も砂だらけである。後になって考えてみれば、それはその翌日にニューヨークが粉塵にまみれる前兆だったのである。

池田さんは、元第一勧業銀行国際資金為替部ニューヨーク資金室長。77年に第一勧業銀行に入社し、96年からニューヨークに赴任、2001年4月に家族を帰国させてからは単身赴任生活。そして2001年9月に、世界貿易センタービルでテロの被害に遭われました。この原稿は、「東筑フォーラム」で池田さんに話していただいた貴重な体験談をもとに、編集部がその一部を文章化したものです。

 第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の統合を翌年に控えていた当時、所属していた国際資金為替部はワールドトレーディングセンターのノースタワー50階で、早くもその準備に追われていた。一週間前には、ディーリングルームも完成したところだ。朝は部下から東京マーケットとロンドンマーケットの報告を受けることになっていたが、ちょうど部下が私のところに歩いて来ているときだった。
ドーンという音がしてビルが揺れた。 いまの音は何だったのだろうかと思っているとき、窓の外を書類のようなものが燃えながら落ちていった。「観光用のヘリコプターがビルに接触でもしたか…?」そのときは、それくらいしか想像できなかった。当然である。 そのとき起こったことを、いったい誰が想像し得ただろうか。

 間もなく階段で避難するように指示があった。やれやれ。非常階段を降りようとすると誰かが言った。
「ちょっと長くなるかも知れないから、財布を持って降りた方がいいですよ」 それもそうだ。まさかもう二度とオフィスに戻れないなどとは夢にも思わなかったが、財布やパスポートなどを取り出して、再び非常階段に向かった。 人々が、ゆっくりと下へ降りていく。列を乱す者はおらず、整然としたものである。皆は普段通りに会話をし、冗談も飛んだ。
「何日か前、日本の歌舞伎町じゃ、雑居ビルで火事があって、逃げ遅れた人がいたそうだな…」
自分たちも生きるか死ぬかという状況にあるとは知らず、呑気なものである。だいぶん降りたが、出口はまだまだ遠い。こういうときに高層ビルとは不便なものだ。途中、泣きわめいて駆け下りていく女性がいた。
「いったい何が起こったんだ?」
誰かが消防士に聞いていたが、消防士はしっかりと口を結んだまま上へ上へと進んで行った。やがてその勇敢な姿は、一生忘れることができないものとなる。この頃すでに、猛火がビル上階のオフィスと多くの人々の命を呑み込んでいたのだ。
50階も降りたのだから、かなりの時間がかかった。やっと1階に着くと、そこはなぜかスプリンクラーによって水浸しになっている。警察が「走れ!」と叫んだが、走られたものではない。仕方なく靴を濡らしながら進むと、出口でも警察が叫んでいる。
「振り向かずに走れ!」
  それは、振り向けと言っているのと同じである。振り返って見上げると、旅客機の尾翼らしきものがビルに突き刺さっているのが見えた。とんでもない事故が、いまここで起こっているのだと震えた。皆はパニック状態になり、怯えながら一目散に走り始めた。異常に背の高いそのビルは、逃げても逃げても自分たちを追いかけるように倒れてくると思ったのだ。
やがて、誇らしげに空を貫いていたサウスタワーが轟音とともに崩れ落ちる。それはあっという間のことで、ビルが崩壊する際に噴き出した粉塵を逃げながら被った。つい先程まで働いていたノースタワーが崩壊したのは、その29分後。避難場所を求めて歩いているとき、道行く人からこれがテロだと知らされ再び震撼した。

▼午前8時46分
世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟が、アメリカン航空11便(ボストン発ロサンゼルス行き・ボーイング767・乗客81名、乗員11名)の突入を受けて爆発炎上。この時点では、テロではなく単なる航空機事故だと思われていた。

▼午前9時3分
続いて、世界貿易センタービル・ツインタワーの南棟がユナイテッド航空175便(ボストン発ロサンゼルス行き・ボーイング767・乗客56名、乗員9名)の突入によって爆発炎上。2機目の激突の様子は、すぐさま世界中のメディアでテロとして報じられた。

▼午前9時59分
後から突入を受けた世界貿易センタービル・ツインタワー南棟が先に崩壊。ツインタワーは、ジェット旅客機が衝突しても崩壊しないように設計されていた。しかし、出発して間もない旅客機には大量のジェット燃料が積まれていたため、爆発的な火災が起こり、その熟によって鉄骨が強度を失ったのだ。

▼午前10時28分
世界貿易センタービル・ツインタワー北棟が崩壊。さらに、これらの影響で敷地内の他のビルも炎上・崩壊し、約8時間後には世界貿易センター7号棟も崩壊。約3000人が死亡するという大惨事になった。

  炎上するビルから、逃げ場を失って絶望した人々が、熱と煙に追われるように次々と飛び降りたが、それを見なかったのは幸いである。別の出口から脱出してそれを目の当たりにした人たちは、そのショックでトラウマになり、みんな会社を辞めてしまったのだ。
  あの日の夕方に日本興業銀行のオフィスにたどり着くまで、8時間くらいさまよい歩いたことになる。日本に連絡した方がいいと携帯電話を貸してくれる人がいたが、つながらず、家族や会社に連絡することは出来なかった。事件がほぼリアルタイムで報道されていた日本では、家族が最悪の事態を覚悟していたと後で知った。
  同じ場所で働いていた数え切れない人々が亡くなり、その中には前日の帰宅前に酒を飲みながら打ち合わせをした知人や、午後に合う約束をしていた大学の後輩もいる。ニューヨーク出張のときは、どんなにスケジュールがタイトでも必ずグランドゼロに足を運び、花を手向ける。また、亡くなった消防士たちの家族のための募金を行うことを欠かさない。 アメリカの消防士たちは、あまりにも勇敢であった。
  あの日以来、やはり人生観が変わった。
それまでは、仕事第一だったが、家族のことも大事にするようになった。先祖に対する考え方も変わり、年に2回は必ず墓参りに帰ることにしている。人間、いつ死ぬかわからない。だから、その日その日を全力投球で生きなければならない。
そんな思いが、いつも胸にある。

 

未曾有の苦難の時代を生きて      長畑寛昭(48期)

  東京東筑会報の編集長から、昨年12月に出版した拙著「大人の背中」の内容を発展させながら、後輩の会員に向けたメッセージを書いて欲しいとのご依頼をいただきました。しかし、取柄もない私の生き方など、誠におこがましい限りと、一度はお断りしましたが、波乱の時代に遭遇した一人の年寄りの昔話としてお読みいただければ幸いです。 
私は今年満78歳になりますが、日本の敗戦を機に中学2年のとき東筑に転校するまで、神奈川県の鎌倉で育ちました。父が戦前海軍の飛行機の設計技師であったことから、アメリカのGHQから公職追放の対象になったうえ、戦後の農地改革で不在地主の農地は小作人に取り上げられることになったため、鎌倉の家屋敷を他人に貸し、やむなく父の郷里である福岡県の田舎に引っ越して、初めて百姓をすることになりました。
  戦争末期から敗戦後しばらくの間、日本人は誰しも多かれ少なかれどん底の苦しい生活を強いられたのですが、私にとっても、その挫折と苦労は今でも忘れることはできません。

  戦争末期、私たちも中学1年生から飛行機工場に学徒動員され、毎日横須賀線の大船駅から行進して学校ならぬ工場に通いました。B29の大編隊によって横浜が大空襲を受け丸焼けになるのを悲しい思いで工場の丘の上から眺めたものです。配給制になっていた食料も、とうに米の姿はなく、コウリャン、とうもろこし、さつまいも、油の搾りかすの大豆などで、栄養失調寸前の生活が続いていました。母や姉たちは、農家を訪ねて米や麦、野菜などを買出しに出かけるなど、昔とは様変わりの苦労の連続でした。
  ところが、私たちが敗戦後岡垣で俄か百姓になってみると、田んぼは米より稗ばかりがはびこって、食べるものにも事欠く有様でした。戦後は預金が封鎖されて自由に引き出すこともできず、物価はインフレで上がり続け、戦前より却って苦しい状況となりました。貸していた鎌倉の家屋敷は、借家人が酷い人で2年目から家賃を全く払わずに居座って出てもくれない有様で、現金収入もなく苦しい日々を送りました。近くの農家や進駐軍相手のブローカーに母の訪問着や父の直任官時代の大礼服まで売って、漸く僅かな現金を手にするような状況でした。
  東筑中学に通うにも、近くの海老津駅まで1時間以上歩かなければならず、当時はバスもなく、舗装していない道は角張ったバラスが敷いてあるだけのでこぼこ道でしたが、履けるような満足な靴もなく、雨でも降れば裸足で歩くなど、今の人たちには到底想像もつかない最低 生活を経験したのです。
  東筑高校を卒業するとき、昔と違って苦労の絶えない気の毒な両親の力になりたいと大学進学を諦め、一年間一人で牛を使って一町歩の田んぼを耕作しました。しかし、かつて東京高等師範学校と京都帝国大学で学んだ父から、我が家の経済状況では学資は出せないが、やはり大学で勉強してはどうかと説得され、私も思い直して夜間部のあった早稲田大学政治経済学部に入学し、鎌倉に下宿して、貸していた家の明渡しの裁判をしながら、昼間はあちこちでアルバイトして生活しました。

  そのうち、伝があって経済の出版社の編集部でアルバイトをしたところ、運よく大学2年のとき正社員として採用されました。昼は経済雑誌の編集者、夜は学生という二足の草鞋を履いて、漸く大学を卒業してみると、大会社はどこも夜間部出身者を採用せず、やむなくこれまでの雑誌社で働き続けることになりました。ところがこの雑誌社が、役貞の一人によって乗っ取られ、社長が追い出される事件が起き、卒業した昭和30年秋に先輩社員とともにその社長と新たに大蔵省を中心にした財政経済の政策や法令を解説する専門出版社を設立して、ゼロから出直しを図りました。社長は当時自由民主党の代議士になっていましたので、会社の経営には直接携わることがなく、新会社はなかなか業績が上がらず、借金がかさんで、多くの先輩社員も次第に見切りをつけて退社していきました。その中で耐えて懸命に働くうちに編集長になり取締役になり、ついには35歳になったばかりで代表取締役専務を命じられました。
  当時会社の借金は今の価値に換算すれば何億円にも匹敵する額でしたが、何とか業容を広げ、ほほ無借金にこぎつけるまで大変な苦しい道のりで、資金繰りに困窮したり、社員から造反を受けたりして、死んだほうが余程楽だと思うこともしばしばでした。
  しかし、かつて父から教えられた宇宙の真理を考えると、折角授かったこの貴重な命を大切にしなければもったいないことで、楽しいことも苦しいことも全てはこの世に生きているおかげと思えば、ありがたいことだと感じるようになりました。それに、若い頃から味わった数々の挫折や苦労が強い忍耐心のために役立ったことも確かだと思います。

  こうして、社長や会長を歴任して、平成13年に会社を後進に譲るまで、46年間、財務省を始め各省の幹部や産業界、職業会計人の方々と広くお付き合いをすることができました。更に昭和43年には新たに社団法人を設立し、平成20年まで40年、経済や金融、会計・税務等の研究会活動も続け、漸く77歳で現役を引退しました。 27-10
  これほど長い間、一生懸命に働くことができたのは、単に運が良かっただけでなく、小規模企業に身を置いたことと、立派な先代の社長や数知れぬ周りの素晴らしい方々に支えていただいたおかげです。
  昨今の世相を見れば、自分中心の利己的な考え方をする人も多く、何でもお金を優先し損得で物事を判断するような風潮もあり、他人と比べて自らを不幸と考えたり、腹を立てたりする人も大勢いるようです。今日の日本が、かつて考えられなかったほど金銭的、物質的に恵まれている世の中でありながら、というより逆に恵まれたからかもしれませんが、何でも他のせいにして不平を唱える人々の多い世の中は決し
て幸せなものではありません。 とくに若い人にお願いしたいのは、自分の存在がこの無限の宇宙の中で、いかに小さなものかを悟って謙虚に生き、折角生んでもらった、唯一度の貴重な命を、お金や地位のためより、自分自身が何かに役立つような生きがいを求めて、精一杯 生きて欲しいということです。

「大人の背中」長畑寛昭幻冬舎ルネッサンス社四六判257ページ 1.365円(税込)◎お近くの書店でご注文ください。

 

悠ターン? それとも・・・      中村 和信(64期)

  東の空にほんのりと朱みがさして、明けの明星の下に皿倉の山影が鼠色の背景からうっすらとにじみ出るころ、早起きトンビが数羽、朝食をもとめて渚の上を周回し、漁に出かける船のエンジン音が響いて来る。暫くあって朝日が稜線に顔をのぞかせると海面は金銀に輝き一幅の絵画が現れる。波止場に急ぐ人の顔も見分けがつくようになり通勤の車も動き出す。こうして穏やかな春の一日が始まる。

 ここは遠賀郡の西端、響灘のはずれにある波津漁港。海岸に沿って家並みが続く辺都な集落です。郵便局まで4km、役場、スーパー、駅は6km以上、公共交通は一時間に一本のバスだけです。
住人は約500名、65歳以上が35%、15歳以下は一割、まともな商店は一軒もなく、自然の景観だけが取柄という正統派の僻地です。「陸の孤島」と椰輸する町民もいるそうです。私は昨年の春、永らく住んだ東京 から生まれ育ったこの寒村に戻って来ました。42年ぶりでした。

 1966年、私は東筑を卒業して東京へ向かいました。青雲の志などとは程遠い、只ただ、一人で知らぬ土地へ向かう不安だけを背負った出発でした。「あさかぜ」の車窓から見える夜景が歪んで見えました。気象庁職員であると同時に気象大学校学生という身分で4年間の地球物理教育を受けたあと、現場の仕事に就きました。1976年、気象衛星「ひまわり」の打ち上げに伴って東京郊外の清瀬に移り住み、以後28年間住み続けて最後は高田馬場近くに移りました。
その間の大半は気象衛星とそれに関連した気候変動や地球環境の仕事でしたので、振返ると当今の関心事の一つを先取りしていたような、幸せな日々を戴いた気がします。東京に住んでも長い間数人の同期生以外は没交渉のままでしたが、東筑会の当番期をきっかけに、同期生だけでなく先輩や後輩の皆さん方ともお付き合い戴けるようになり世間が拡がりました。その意味では当番期というのは大変ですけれども得るものも大きいように思います。

 高田馬場は都市型住環境で交通の便が良く、都内散策や買い物など大いに楽しみました。初めて経験する快適な生活でしたが、愉しい時は瞬く間に過ぎるもので、すぐに定年となり、老母が一人で待ち続けていたこと、長い間放置していた山や畑が荒れてきたことなどから、まさに「帰りなんいざ」ということになりました。因みに、同伴してくれた妻には違う思いもあったようで、知人への挨拶状には「山は青き(夫の)ふるさと、水は活き(夫の)ふるさと」と書いてありました。
『帰ッテミレバ此ハ如何こ』。便利で快適だった東京との落差、長かった不在から起こる今浦島の状態などに藻掻き戸惑ううちに早くも一年が経過しました。退職後は『毎日が日曜日』の筈だったのに、転居手続きと荷物整理から始まって、住まいの整備と山や畑の手入れに明け暮れ、たちまち『月月火水木金金』に変わりました。慌ただしくて記憶が整理されていませんが、ここでの暮らしや風物のいくつか拾いあげてみましょう。

 私の住まいは前が漁港で裏には山が迫る狭い場所にへばりついています。納屋の横を流れる小さな流れの奥は照葉樹に覆われて昼なお暗く、もぐら谷と称しています。ここにはまだヘビもカエルも生息し、カニ、大ミミズ、蜘味、茸など自然が残っています。以前はカワセミも来たようですし、イノシシのヌタ場でもあります。
このイノシシが難物でして、只今私との間に境界線争いが継続中です。秋までは防戦一方で、枇杷やこんにゃくなどが大被害を受け玄関先まで攻め込まれたものの、冬になってセンサー付きの音や光で反撃し相当挽回しました。しかし敵もさるもの。春先に地中の筍をほとんど食べてしまい、人間さまはそのお余りを戴いている状態です。
思いがけない発見もありました。家の裏に茂っていた薮を切払い、草を刈ると水仙の群落が現れました。正月に咲き始めて満開時には桜とは一味違う花見ができました。
さらに奥には鳶がたくさん棲んでいて朝夕の食事時は何十羽も浜辺を飛び回ります。この集落では鮮魚のアラを生ゴミではなく海に還すのですが、どこから見ているのか波打ち際に着くまでに、次々に飛来してあっと言う間に数十羽が頭上を乱舞します。浜に抛るとサッと持ち去り、中には見事な空中キャッチもあって結構楽しんでいます。
浜辺にはもう一種類の珍鳥が生息してします。バカペンギンといいます。波の高い日に早朝から押しかけて来るサーファーです。
十数年前から目立つようになって、老母はそれをバカペンギンと名付けました。波間に浮かぶウエットスーツの黒い点々は、なるほどペンギンの集団のようです。バカが付くのは、寒中にわざわざ震えながらも海に入る。昼ひなかから仕事もせずに遊んでいる。ごみは散らかす、無法駐車はする、というような理由からです。私も、平日に多くの若者が高価な車で来るのをみて、どんな生活をしているのか疑問を感じています。謎の生き物です。 

 この一年、以上のような環境で暮らしながら少しずつペースを掴んできました。最近の一日は以下のように過ぎます。朝、竃に火を焚いて湯を沸かす。裏の薬師堂にお灯明と線香をあげる。朝食から夕暮れまでの空き時間に山の畑で枇杷の袋かけをする。長閑に鷺の声を聞きながらゆったりと作業ができるのはド田舎の良さです。 陽が西に傾くころ家に帰り風呂に浸かって一日の終わりです。
こんな調子でまだ悠々ターンとは言い難いものの、さりとて憂々でもありません。少しずつ落差を克服しやがて「住めば都よ」と謳歌できるように努めたいと思います。
最後に自問自答です。私は東京を嫌いだったのでしょうか。いえいえ、とんでもない。東京に31年。人生の半分を、ふるさと以上に長い期間を東京で過ごしたのです。離れてみて改めて快適だった東京の良さを認識しています。東京は敵ではなく、素敵なのです。この先体力が許す限り機会あるごとに上京して、文明の香りも嗅ぎたいと願っています。福岡へのリターンではなく、福岡l東京間の0ターンを続けるつもりです。東京東筑会の皆さま宜しくお願い致します。

 

田舎教師日常         深町公信 (72期)

  関東の大学から母校の熊本大学法学部に移ってまる5年が過ぎました。今でも上京する機会は多く、そのたびに同期はもちろん、諸先輩方、後輩の諸君とお会いします。そのため東京東筑会も去りがたく、熊本の「ひのくに東筑会」との二足の草鞋を履いています。
  関東には17年住んでいましたから、30代、40代を関東で過ごしたことになります。
  東筑高校の応援歌にあるような「中原の鹿」を追うというような性格ではもともとありませんでしたから、九州を出るつもりもなかった私が、縁あって北関東に住むことになり、思っていた以上に長くいたのも、あの地域のからっとした、よそ者にも開放的な気質が北九州に似ていたことと、太平洋側の過ごしやすい気候のせいでした。それに比べて熊本は、城下町特有の閉鎖性があり、盆地のため、夏は蒸し暑く冬は底冷えがします。
  学生時代を熊本で過ごしましたから、そんなことは百も承知で熊本からの誘いを受けることにしたのは、何をおいても熊本大学の研究教育環境の良さでした。独立行政法人化後の地方国立大学は予算が大幅に削られてしまっており、少なくとも金銭的な環境では関東の大学の方がずっと上ですが、金銭的な魅力を上回る学問的な雰囲気がこの大学にはあります。

  熊本大学は旧制第五高等学校の跡に戦後新制大学として設置され、今も五高のあった場所から移転していません。 「五高東大」とよく言われるように、第五高等学校はまさに「中原の鹿」を追う者の登竜門として各界に多くの人材を輩出しました。しかし、戦後の熊本大学はいわゆる駅弁大学のひとつとなり、最近は東京への一極集中の影響もあり、偏差値的にも伸び悩みを見せています。
  そんな最近の評価基準から見てもパッとしない熊大ですが、それでも素晴らしい大学だと思えるのは、そこが永い間「学びの地」であったことから生まれる勉学の雰囲気です。
  古い劇場やコンサート・ホールに入ると、長年の歴史に裏打ちされた独特の雰囲気を感じることがあります。古典、大衆を問わず、舞台の上で演じられる名手の技とそれに観衆が酔いしれた痕跡が、壁といわず天井といわず、館内の至る所に染みついていて、その雰囲気から生じる高揚感がさらなる名演を誘うというような場所がいくつかあります。私はそんなホールには座敷童 (わらし) が住んでいると思っています。
  赤煉瓦の五高本館の建物を中心に鬱蒼と巨木が生い茂る熊大のキャンパスでは、多くの先人たちが勉学に勤しんだ痕跡をそこかしこに感じることができます。夕暮れ時、図書館に明かりがともり、サークル活動の楽器の音や運動部の練習の声が聞こえる頃になると、ふと、ここで教えていた夏目漱石やラフカディオ・ハーンがまだいるような気持ちになることさえあります。勉強をする座敷童がキャンパスのあちこちに住みついているかのようです。

 現在の熊大の教員や学生は地味でおとなしいという印象があります。「中原の鹿」を追い求めるタイプは、東京や関西に出て行こうとしますし、ネットが発達した今の世の中でも、動いている社会の情報量の多さではやはり東京が突出しています。
  私も、関東にいてめまぐるしい東京の情報から刺激を受けていた頃には、新しい研究のプランもすぐに思いつき、学生たちの清例な問題意識を喚起でき渇ような教育ができていたように思います。
  しかし一方で、動いている社会と一緒に自分も動いているような感覚に襲われて、じっくりと百年以上のタイムスパンで物事を考えるような研究や教育ができているのだろうかと思うこともありました。そうしているうちに、走っている電車の中で電車の動きを感じるのではなく、ちょっと降りてみて、電車を始発から終点までまわりの環境を含めて遠くから見てみたくなりました。
  熊本では教員も学生もじっくり腰を落ち着けて勉強していると思います。法学部の同僚を見ると、最先端の問題についての論評を次々に出すような人は多くありませんが、法哲学や法制史などの基礎法学の分野で傑出した業績があります。実定法分野でも基礎理論をしっかりと勉強して、一生かけて大きな研究を仕上げるタイプが多いように思います。
  学生はよく遊びよく学びます。ガツガツと競争するという意識がないために、就職活動などではなかなか良さをアピールできないようですが、その分、余力を十分に残して事に当たる大器晩成型が多いと思います。
  大学のまわりは古くからの学生街で、近くに住んでいる学生が多いため、生活が大学と密着しています。学生と教員の距離も近く、授業以外でも様々な場面で学生と教員との交流があるのは昨今珍しいと思います。
  ゼミが終わった後に学生と先生がそのまま近くに飲みに繰り出すことも少なくないのですが、大学の近くに住んでいて独身の私は、学生たちの格好の飲み仲間らしく、夜中、酒とつまみを持った学生たちの襲撃を受け、明け方までいろいろな話題を時間を忘れて語りあうという、自分の学生時代そのままの時間を過ごすこともよくあります。
  落ち着いて勉強をするために不可欠の自然も豊かで、森の中のように木の多い大学のさらに裏には自然公園が広がり、ちょっと奥に入っただけで深山幽谷の趣があります。足をのぼせば一時間ほどで阿蘇や天草にも行けますので、休日に大自然の中で温泉や新鮮な素材で美食三昧というのもここではごく普通のことです。

 私が高校生の時に熊大を受験しょうと思ったのは、まだどの大学を受けるかも決めていなかった時に、たまたま立ち寄った熊大大学らしい雰囲気が気に入ったことがいちばんの理由でした。卒業して20年以上を経て帰ってきても、座敷童たちはまだそのまま居てくれました。
  性急に結果を求める世の中の傾向からすると時代遅れに見えるかもしれませんが、長い時間をかけて何かを生み出していくのも大学の重要な役割だと思います。
  私のまわりを見る限り、教員も学生もこの場所に来るべくして引き寄せられたように感じているのがよくわかります。 自分の身の丈をよく知って、背伸びをするでもなく縮こまるでもなく、自分に合った息の長い勉強を続けていこうという意思とそれを可能にする環境とがこの大学にはまだ残っています。
  私も、人柄のいい同僚たちとのんびりはしていても優秀な学生たちに囲まれて、素晴らしい環境の中で自分のやりたい勉強を続けていくことができそうです。

 

仕事への情熱~あずみ合に参加して~     加藤広一(102期)

  みなさん、こんにちは。102期の加藤と申します。私は、九州工業大学で学び、就職のため、昨年の春に上京してきました。工学部で電子・通信を専攻していた私は現在SI企業へ就職し、システムエンジニアとして働いています。
  今回は新社会人として「あずみ会」に参加させていただいた感想を書かせていただきます。若手会員の会、あずみ会は今年で3年目になるそうですが、同窓の友人や先輩方と親睦を深めながら自分の生き方についても考えるという趣旨で、講師の方のキャリアや生き方などについての講演と新社会人の歓迎会が行われています。昨年度のあずみ会は6月と10月に開催されました。6月の「あずさ」では、私も新社会人の歓迎会として歓迎していただきました。もっとも、「あずさ」については昨年の会報にも掲載されましたので、私は10月の「ほたか」の様子と感想をお伝えしたいと思います。

  「ほたか」では、「私の仕事とキャリア」と題して、政治学者である中林美恵子先生の講演会が行われました。講演会といっても少し照明を落としたライブハウスで、木元先輩の進行によるライブトーク形式で行われ、とてもお酒落な雰囲気でした。
27-11中林先生は、ホワイトハウスで仕事をされるなど米国での活躍が長く、現在は跡見学園女子大学准教授で、書ききれないほどの経歴・肩書をお持ちです。しかし、私が何より驚いたのは、先生が若い私よりもはるかに元気(しかも美しく)で、歯切れがよいトークの節々から伝わる情熱をお持ちだということでした。先生は日本がバブル景気に狂奔していた時に、自らの意志で米国留学、米国連邦議会上院予算委員会補佐官として勤務するまでの経歴とその時々の岐路における選択を比較的詳しくお話されました。大変参考になったのは人生の各岐路における選択のあり方です。先生の選択には、とにかく「政治問題」が好きでもっと勉強したいという情熱が根本にあったということがとても印象に残りました。その道を究めようとするその姿勢・情熱が今の先生のご活躍・生き方につながっているのだと感じました。生きていく上で大切なもの、「好きなことへの情熱」と「決断」を教えていただきました。その後の懇親会も大変盛り上がり、東筑の先輩方と北九州弁で歓談をしたり、とても楽しいひとときを過ごしました。同じ東筑で三年間を過ごしてきた仲間や先輩方と過ごすことのできる東筑会は、ほっと安心できる場所であり、大変心強かったです。

  私は今年で社会人2年目を迎えます。昨年は慣れない土地での新生活と初めて出会う仕事の数々に不安と戸惑いを感じる毎日でしたが、今年は少しずつではありますが仕事にも慣れ、自分に任せてもらえる仕事も増えてきました。仕事に追われる毎日になりがちな今の私にとって、今回の講演会は改めて自分がどんな分野に興味があるのかを振り返るとても貴重な機会であったと感じました。 27-12


  今後は自身がより活躍できる場を広げていくことができるように東筑高校の先輩方の様々な分野でのご活躍を良き手本とし、また本日の中林先生から教えて頂いた仕事に対する「情熱」を持ち続けながら日々の仕事に取り組んで参りたいと思います。
  最後になりましたが、このような会を開催していただいた先輩方に大変感謝しています。今後とも東筑会での活動を通して様々な経験・貴重なアドバイスを頂きたいと思っておりますので、何卒よろしくお願い致します。


 

同好会活動

にわだま会         田中比呂子(70期)

  「あなたを待つのテニスコート・・・」
こんな歌が流行ったのは、私がちょうど東筑生だったころでした。
  テニスは、いつの世もちょっと憧れのスポーツでした。天皇、皇后両陛下もテニスで結ばれたカップルでしたし、また、「エースを狙え」、「テニスの王子様」など、眼の中に星が輝いて、瞳がキラキラしたアニメーションに少女たちがときめいたりしていました。そんな憧れのテニスの同好会が、東京東筑会にもあるのです。それが「にわだま会」です。往年の名選手から、ピチビチギャル(?)まで。額に汗を光らせ、ボールを追いかけてコートを走る、なんてカッコいいのでしょう。ゲームが終わったら、反省会。これがまた楽しいのです。

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  先輩方のお話も、若い皆さんの笑顔も私の元気の源です。
  私がラケットを握ったのは遅くて、本格的に始めたのは結婚してからです。 当時住んでいた団地のお隣さんに誘われて…。
一時は、乳飲み子をかかえて、あちこちのママさんテニスの試合に参加したり、猛勉強して審判資格をとったり。
「カッコいい」には程遠いのですが、春から秋は、ガンガンの陽ざしの中、真っ黒に日焼けして、冬は、雪かき道具を自転車に積んで、都内のコートを走り回っていました。クリス・エバートのように優雅なストロークを打ちたい、ナブラチロヴアのような強烈なスマッシュを打ちたいと、毎日毎日練習に明け暮れていました。家事の合間をぬって、いえテニスの合間の家事だったかもしれません。もう夢中でした。
  今は、そんな日々をなつかしく思い出しつつ、先輩方に胸を貸していただき、若い人たちの元気をおすそわけしてもらいながら、「にわだま会」を楽しんでいます。
  「にわだま会」の日、府中駅から農工大までの並木道を 「あなたを待つの・・」 と口ずさみながら歩いてゆくと、心もうきうきはずんできます。
  みなさんもお仲間に入りませんか。

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何でん語らん会           村田貴俊(84期)

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  昨年より東京東筑会の同好会とし旗揚げされた「何でん語らん会」も本年5月27日開催分をもって第6回を数えることとなりました。
「何でん語らん会」は政治・経済・社会をはじめ、経営や教育・文化などその時々の興味ある問題を選びながら、東筑会会員有志が互いに聞き、語り、話し合う会です。
  日比谷、シーボニア・メンズクラブを例会会場とし、「理性的に語り合う」、「終了後はしこりを残さない」、「先着順定員制」をモットーに、3カ月に一度のペースで開催されています。
「何でん語らん会」会長には48期長畑寛昭先輩にお願いをしていますが、「何でん語らん会」 会員は 「東京東筑会」会員全員で出入り自由の開かれた同好会です。 各回のテーマは、「何でも」、ただし、参加者の多数決で決定します。また、テーマの範噂であれば、意見、疑問、質問は、「何でも」。それに対する参加者の応答も、「何でも」とタブーなき開かれた、その名の通り「何でん語らん会」となっています。 開始当初は「お食事と少々のお酒をいただきながら」というのがコンセプトでしたが、現在では「導入テーマ提供(10分ほど)、1時間ほどの議論、さらにお食事と少々のお酒をいただきながらの議論」という流れとなっています。

 前回の広報誌発行時より2回の「何でん語らん会」が開催されました。「第4回教育」では、長畑寛昭さん (48期)、「第5回世界金融危機」では小林正宏さん (81期) にテーマ導入を依頼しました。御自身の著書「大人の背中-大人が変われば子供も変わる」、「世界金融危機はなぜ起こったかーサブプライム問題から金融資本主義の崩壊へ」をそれぞれ引用した導入テーマ提供と非常にレベルが高くなっており、その後の議論も活発に行われました。27-17

 今後も、その時その時の旬な話題が取り上げられ、熱い議論が繰り広げられるでしょう。そこで、この場をお借りしてお願いですが、各回のテーマにおける話題提供者を東京東筑会会員の専門家の方へ依頼することがあると思います。先述した 「第4回の長畑寛昭さん」、「第5回小林正宏さん」ノと「東筑に人あり」、を実感しています。「何でん語らん会」より依頼がありました折には是非御参加の上、貴重なご意見を 賜りますようお願い申し上げます。

 「何でん語らん会」の開催案内は東京東筑会ホームページを通じて約1ケ月前よりお願いしております。また、参加経験者等「何でん語らん会」のメールアドレスブック登録者には電子メールにてご案内しております。興味のある方は是非御連絡ください。会員各位の知的好奇心を滞足させる濃密な時間を「何でん語 らん会」はお約束します。

 最後に「何でん語らん会」会長、長畑寛昭先輩(48期)による会の趣旨を記した御提案文を記載いたします。 東筑会会員皆様の御参加をお待ちしております。

皆さんご承知のように、昨今の不透明な経済社会において、私どもが日頃見聞するマスコミの報道や政治家たちの偏った議論は、国民大衆の意識や国の道筋を間違った方向へ導く恐れがあります。
  かつて戦前は軍国主義という全体主義によって道を誤った日本が、いまや自由主義という一種の全体主義に毒されているといってもよいのではないでしょうか。そうならないためには、良識ある率直でさまざまな議論を通して、一人一人が、自ら冷静に本質的なものの見方や考え方を見極めることによって、正しい判断力を養うことが重要な第一歩であると思います。
  この会は、参加される有志が、互いに聞き、話し、語り合うことによって、会員同士の連帯感を育みながら、それぞれの社会生活を有意義に充実させていただくだけでなく、これからの将来を担う志と気概を持ってくださることを期待します。
  ただこの会は、参加される会員が主役であり、皆さんが発言すること、楽しく議論されることを願います。他人の話を聞くことも世間には多くの見方や考え方があることを知ることも、グローバル化した今の時代には欠かせない大切なことだと思います。
  この会では、政治・経済・社会をはじめ、経営や教育・文化など会員の興味ある問題を選びながら、会員による会員のための楽しい会にしていきたいものですが、特にこれからの日本を担う気概ある若い諸君の参加を願うものです。


『大人の背中』-大人が変われば子供も変わる-
長畑寛昭 著 幻冬舎ルネッサンス

『世界金融危機はなぜ起こったか』
1サブプライム問題から金融資本主義の崩壊へー」
小林正宏/大類雄司著 東洋経済社

「何でん語らん会」テーマ一覧

第1回  サブプライムローン問題と金融商品
第2回  環境と経済
第3回  食料自給問題
第4回  教育
第5回  世界金融危機
第6回  国際協力

 

鎌倉散策に参加して     村瀬秋子(78期)

  「53期の鎌倉散策の会は、今回から東京東筑会会員の皆様も参加できるよう同好会登録しましたので、奮ってご参加ください。」当番期として参加した幹事会の席で、高木先輩からお知らせがあった。
  以前から、鎌倉の歴史を勉強したいと思っていたので即座に行きたい!と思った。
というのも、義母が文学や歴史に造詣が深く、鎌倉大好き人間なのである。上京の際、二度ほど二人で行った際、いつも、はあそうですか、と何も知らなくて情けない思いばかり。せめてそうですねと相槌を打てるくらいにはなりたいと思っていたので。
とはいえ、幹事会は当番期の仕事で参加していたのでひとまずお持ち帰り案件に。私なんかが参加してもいいのだろうか?と数日考えたが、好奇心には勝てず、参加させていただくことにした。
  そのときのテーマは、「鎌倉五山と鶴岡八幡宮」。鎌倉五山とは、円覚寺・浄智寺・建長寺・寿福寺・英勝寺の五つのお寺のことをいうそうだ。 

 集合は北鎌倉で、まずは円覚寺総門前で集合写真をパチリ。杉木立の中、堂々とした風格のある山門をくぐつてのスタートとなった。私の中では、円覚寺イコール山門というイメージしかなく、波田先輩の説明でその広さを知り、驚いてしまった。北条時宗の子の貞時が寄進した、国宝になっている鐘楼に至っては、階段をかなり登ったところにあった。体力に自信のある人は登ってくださいということで、最年少ということもあり、シャキシャキ登ったら、息が切れてしまった。また、関東屈指の禅道場である円覚寺には、夏目漱石や、島崎藤村、芥川龍之介など鐸々たる文学者達が参禅したそうだ。今でも座禅会は行われているようなので、一度参加してみたいものだ。考えただけで足が痛くなりそうだが。
  あれほど何度も鎌倉に来ているのに、自分が建長寺に来たことがなかったことに初めて気がついた。今回の様に北鎌倉からのスタートがパターンなので、円覚寺は何度も拝観しているのに。あじさいやお金を洗うことに気を取られて、建長寺は前を通っただけで行ったような気になっていたのだろうか?法堂は、木造建築では関東最大とのことで、圧巻だった。天下泰平を目指して建てられたお寺だけあって、とても気持ちのいい場所ですっかり気に入ってしまった。
  それから何といってもお楽しみは昼食。直径30センチ位の大きなお椀型の容器に彩りよく盛られたお刺身やてんぷらも、ほんの少しだけご相伴させていただいた日本酒も、とってもおいしかった。アツアツのおみそ汁も有難かった。
  雨の予報だったが、途中少し降られた位で午後からも鶴岡八幡宮など主だったところはほとんど行くことができた。
  私は、食べざかりの息子たちが待っているので(しかも結婚記念日)、散策が終わるとすぐにお暇したが、皆さんはその後「大人の背中」を出版された鎌倉在住の長畑先輩のお宅にお招きいただいたそうだ。私も行ってみたかったなあ。
  思ったより寒くて、もも上げしながらの散策だったが、先輩方がアットホームな雰囲気で迎えてくださり、心は温か。今年はあきらめていた紅葉も満喫し、写真も撮ることができて大満足だった。
  諸先輩のみなさま、本当にお世話になりありがとうございました。

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ひびき会のこと           久我 昂(57期)

  平成21年3月14日第11回ひびき会例会が、いつも会場となる四谷のスナック 「高樹」で開催されました。
当日は夕刻まで強い風雨で参加者の出足が心配されましたが、高崎ひびき会会長(51期)、安永東京東筑会会長(53期) はじめ大勢集まり、和気諸々楽しいひと時を過ごすことが出来ました。
  この日は何時もの例会と少し趣向が異なり、第10回例会が2月バレンタインデイに開かれた関係で、3月のホワイトデイも開くことになり、男性陣から女性陣へのお返しの各種プレゼントが披露され、華やかな例会となりました。
  3時間余り、増田浪枝さん(55期)持参の故郷宗像大社の御神餞の運勢の良い順番に大いに唱い、最後は校歌斉唱で締めくくり散会しました。

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  ひびき会設立の経緯は、東京東筑会会報24号において高崎会長が紹介されていますが、同窓会の文化度充実の一環として活動しています。 開催は年に3~4回、場所は当初その都度変わっていましたが、最近は増田さん、70期代女性のご尽力により前記の「高樹」に定着しています。
  参加者は毎回15~20人、期分布を見ますと50期代が若干多いようですが、世代間の交流の場としても有用ですので、八〇~九〇期代の積極的参加は大歓迎です。披露される歌もバラエティに富んでいますし、70期代女性陣の東筑版キャンディーズも圧巻です。
  私がひびき会に参加しました動機は、高崎会長、増田さんのご両人と同じ会社だったことで強く誘われたことと以下のような理屈をつけ健康のためと納得しています。
  元来唱うことは嫌いではないのですが、音感が貧弱で、中学校では歌唱が大の苦手、高等学校は書道と美術で3年間通した程です。
一般にアルコールは決して健康に良くないが、明るく前向きの (+) 思考で飲む酒は身体の免疫機能を (+) にすると言われています?歌を精一杯 (声一杯) 唱うことも同様の効果があり、精神、身体機能に (+) に作用すると勝手に考えています。

 さらに、ひびき会は「歌唱の上手は良し、歌唱の下手はさらに良し」の精神と考え、参加している次第です。  例会の開催予定は東京東筑会HPに紹介されております。是非足を運んでください。

 

東筑竜昇会との出会い        松尾八寿雄(69期)

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  仕事の合間、ふと覗いた東京東筑会のホームページ、「中竹早稲田を応援しましょう、申し込む方は下記へ…」の見出しが目に飛び込んで来た、これが私の竜昇会との最初の「出会い」であった。
  試合当日、秩父宮ラグビー場へ行くと多くの人で混雑している。東筑竜昇会の人達は、どんな人達なのだろうか、すぐに見つかるだろうか、ラグビー好きなのでガラッパチなのだろうか(これなら自分と同じで安心だ)、あるいは長い東京生活で洗練されたシティボーイいや老紳士達なんだろうか…そんな事を考えているうちに集合時間が到来、周りを見渡して「それらしき人達」を探す。しかし、どこを見てもグループで来ている人達ばかりで、目印になるようなものを持っているグループは見当たらない。耳を澄ませてみる、もしかしたら北九弁が聞けるかも知れない。すると「そうなんよ」の懐かしい響き、これを聞き逃す筈が無い。早速、声をかけてみる。「あの~東筑の方ですか?」、ズバリ的中であった。かすかな方言で見分けようとするなんて、松本清張の「砂の器」か石川啄木か(笑)。

  試合が始まった。スタンドの上方には、東筑のスクールカラーである臙脂に白抜きの力強い書体で「東筑竜昇会」の目にも鮮やかな横断幕、抜けるような青空とのコントラストが見事だ、遠くには黄色く色づき始めた外苑の銀杏並木が見える。試合は、期待通り早稲田の完勝、さあ、帰ろうかと身支度を始めたら、「皆さん、軽く打ち上げをやりましょう」の誘い。青山通りに面した店に入るとラグビー観戦帰りの人で混み合っていた。ラグビー好きは、気さくな人が多い。いろんなグループから声をかけられる。そして我らの飲み会もキックオフ、これがまた、折尾で友人達と飲んでいるような体中の緊張が完全にほぐれた(何十年東京に居ても、常に緊張が取れないのは私だけか)なんとも懐かしい楽しい飲み会であった。ふるさとは遠きにありて…と思っていたが、こんなに身近に故郷を感じたのは久々のことであった。飲み会の〆として東筑校歌を斉唱、店の方、他のお客さんにとっては大騒音で大迷惑だった事は想像に難くない。しかしながら、以後、私が竜昇会の「常連さん」になったのは言うまでもない。 
さて、早稲田ラグビーの話に移ろう。

  私が、早稲田を応援するようになったのは、竜昇会に出会うよりずっと前の事。倒されても、倒されてもすぐに後方にボールを繋ぎ、右に左に小気味よく展開しながら相手陣地に切り込んで行く直向きな姿が好きで、気が付いたら早稲田ファンになっていたのだ。そして東筑出身の中竹竜二氏が監督に、既に早稲田ラグビーオタクと化していた自分にとってこの上ない喜び、しかも、癒し効果抜群の諸先輩、後輩の方々と毎回飲めるのだ。この2006年、早稲田は対抗戦で順調そのもの、他を寄せ付けない圧倒的な力で完全優勝。
  いよいよ大学選手権が始まった。
  もう、選手権制覇は間違いない、三連覇は間違いないと確信、早稲田は順調に勝ち進み、年が明けた正月の準決勝にも勝ち、いよいよ決勝戦、優勝を確信して視勝会まで準備していたが関東学院の前に苦杯を舐める結果に。試合後の「祝勝会」は「残念会」となってしまった。国立競技場から打ち上げの会場までの距離がなんと長かった事か…足は鉛のように重く辛かった。打ち上げ会でも、皆、口が重い。来期の必勝を期して散会するのが精一杯の見栄であった。

  ここで早稲田のライバルである慶應についても触れておかなければならない。当時、慶應には小田龍司君という後輩が居り、密かに応援していたからだ。実は、この小田君と早稲田の奥野君は、平成15年の県予選で東筑が小倉高校と対戦した試合に出場しており、偶然に帰省していた自分は試合会場まで駆けつけ試合を観戦した事もあって彼らを知っていた。そして対戦相手の小倉高校には度肝を抜くような凄い選手が居た。それが、慶應で小田龍司君と同期の山田章仁君であった。その小田、山田の両君が慶應の主力選手となってチームを支えている。宗像で「目撃」したのは何かの縁であり、応援しない訳には行かない。山田の華麗なスーパーステップ、小田の正確なキックは見ていて惚れ惚れする。 
話は、逸れるが、私は東筑が平成10年、11年の花園に連続出場した時、花園へ行って応援。特に、11年には、県予選決勝を博多の森で観戦、逆転のスーパーPGも「目撃」しており、どこから見てもオタクそのものだ。

  さて、2007年度春シーズンの開始も間近に迫った3月、竜昇会の最も熱い連中が結集、「小田龍司の応援会も旗揚げしよう、小龍会という名称にしよう」「山田章仁は小倉高校出身であるが、東筑も倉高も同じ、熱く応援しよう」と言う事になって早速旗揚げ。2007年5月、宇都宮で行われた早慶戦では、「東筑竜昇会」「小田龍司小龍会」「ファンタジスタ山田章仁」の3つの横断幕が仲良く並ぶというパフォーマンス(小田、山田の横断幕は、71期佐野さんの作品である)。そして、その2週間後、今度は新潟で慶應・明治戦があることを知り、一人でこっそりと新潟へ。前日から入り、新潟観光でもしようと思いホテルにチェックインした後、玄関をフラツと出ると、後方から「もう~っちゃね」の元気な女性の話し声、ん?新潟で北九弁?と思って振り返ると小田君、山田君両名のお母さん方であった。「あら~」「まあ~」で意気投合、話を聞いてみると小田龍司が慶明戦のポスターの一面を飾っているので、入手したい、デパートのチケット売り場に行けばあるとの事で一緒に行ってみたけど残念ながら「ありません」の一言。「私がなんとかしましょう」という事でその後一人で探し回ったけど、どこにも無い。どうしようかなとあきらめかけた頃、ふと見るとラグビー用品売り場があったので聞いてみた。するとその店の方は、幸いにも新潟ラグビー協会の人で「明日の試合の競技場入り口に貼ってありますが、試合後は剥がして良いですよ」との承諾を受け、約束通り小田君の母君に手渡した。慶應応援席には、選手のお母様方が大挙お見えになって居たが、日頃より思っている「母は強し」の感を再確認。 
  そして2007年の秋到来、早稲田は盤石の強さで対抗戦を快進撃、一方、慶應も痛い星を落としながらも強豪相手に接戦を制し、選手権出場を決める。いよいよ迎えた選手権、我々が応援する両校は期待通り勝ち進み、遂に決勝戦で相まみえる事に。冷たい氷雨の降る決勝戦、早稲田が優勝、しかし慶應も見事な闘志で感動的な試合であった。

  そして昨2008年の早稲田、春の早慶戦に負け、秋田での明治戦に完勝、帝京、関東学院などの強豪校との試合でも強さを見せる。しかしながら対抗戦が始まってから、帝京に負ける、明治に負ける…遂に対抗戦の連勝記録がストップしてしまった。
今年はどうしたのかと思っていたら、中竹監督より「これからこそが面白いのです」の自信に溢れたメールが届く。 そうかな~と不安一杯で選手権を迎えたら、果たして言葉通りに頂点へ。
  確かに「面白かった」けど、今シーズンは、バラバラドキドキでなく、安心して見られる試合を展開してもらいたいものだ。今期は選手権三連覇の偉業がかかっている。しかし対抗戦は一から出直しだ。進化し続ける中竹早稲田ラグビー、今期のテーマのように全てを「爆発」させて欲しいものだ。
  東筑竜昇会、熱い人たちと熱い感動。
  皆さんの参加をお待ちしています。

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私的視点からの「東筑竜昇会」      奥野耕輔(102期)

  早大ラグビー部員として4年間、数々の公式試合を経験してきた。ある時は選手として出場し、またある時は客席から応援もした (専ら応援の方が多かったのだが・・・)。

 そしてそれら試合の前なのだが、必ずある行為が我々部員の中で起きていた。選手がいる芝のピッチを見る前に、先ず客席を隈なく見回すのだ。そして何かを見つけるや否や、笑いながら私にこう叫ぶ。
「おい奥野!今日もあの組連中が来てるぞー・」・・・。 目線の先には大きな横断幕がなびく。「あっ、やはり今日も来てるな。」その横断幕は力強い文字であたかも自らの存在を誇示している様だ。そう、彼らこそ、私が本当にお世話になり、最後にはNHKにも撮られた 『東筑竜昇会』である。
  始めは部員一同その存在、目的が一切不明だったらしく、私は試合場でも寮内でも竜昇会に関する質問をかなり受けた。
「北九州はヤクザ物が多いと聞いたがあれがそうなのか」「何故いつもいるんだ」「何故あそこまで出しゃばれるんだ」「奥野も構成員なのか」。その度にどういう組織かきちんと説明し納得させていた。初めは皆からかっていたが、竜昇会が熱心に応援に足を運ぶ姿を見て(名古屋にも参上!)、段々とこんな意見が増え始めた。
「いつも応援に来てくれるなんて羨ましいな」「飲み会にも呼んでもらえるなんていいな」「東筑ってスゲーなー」
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  確かに、思い返してみれば竜昇会は具体的に「こんなことをした!」とか「何をくれたー」とかそんな大それた事をしてくれた組織ではない(キットカットを沢山くれたことは忘れない)。ではあるのだが、その存在は確かに感じるものであり、間違いなくいつも傍らで私を見守ってくれていたと思う。ラグビー論を言いたいだけ言って去っていく下手な早大ラグビーOBなんかよりよっぽど親身になってくれたし、何気に選手としての心の支えになっていた。

 怪我や、チーム降格で苦しんでいる時にふと顔を出してくれる。メシや納涼船なんかにちょっと連れて行ってくれる。決して出しゃばる訳でもなし、説教を言う訳でもなし、ただ黙ってちょっとだけ手を差し伸べてくれる。そんな遠くから見守る『お袋』みたいな存在が私にとっての竜昇会だった様に思える。これからも後輩である中野が早稲田ラグビーを熱くしてくれると思うが、私同様傍らでそっと『お袋』 してくれることを願っている。 最後に、同期にふと言われた言葉で締めたいと思う。
「竜昇会が付いてるなんて、お前メッチャ羨ましいよー」

 

東京東筑げってん会第7回ゴルフコンペ参戦記   げってん会幹事 武田哲也(73期)

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  平成21年5月21日(木曜日)、ゴルフ会 末森副会長のホームコースの東京国際ゴルフ倶楽部にて20名参加で開催されました。改組前の東京東筑会ゴルフ同好会では何度か開催されていますが、「東京東筑げってん会」としては初めてのコースとなりました。
多摩丘陵の地形を上手く取り入れた名匠赤星四郎氏設計の戦略性に富んだコースでスコアーメイクには皆さん苦労されたようでした。特にイン・アウトとも出だしのミドルホールが難しく、ここで大叩きをして、戦意を失われた参加者も多数みられました。
  優勝は末森副会長、ライバルの麻生会長が毎日新聞社の書展特別審査員で欠席の間隙をぬって、またホームコースの地の利をいかして見事ベスグロ優勝。66歳を過ぎてなおオフィシャルのシングルへの挑戦、今回は一足早くげってん会でのシングル入りを果たされました。2位は秦さん、前回のB.M.からの脱出お見事、まだまだハンディに甘えている様子ですが今回はスコアーまとまって入賞。3位は山本さん、いつもステディなゴルフで上位に食い込んでおられ、今回はアウトで苦労されましたが、またまたの入賞。4位は菊池さん、腰を痛めているとはいえ、ここ一番の飛距離は目を見張るものがあります。飛距離といえば元野球部の大林さん、インのロングホールは全てバーディ、アウトは力み過ぎたのか5番ホールのトリプルは痛かったですね。もう一人の飛ばし屋重岡さん、17番のイーグルは立派。 27-25
アウトの大叩きもこれ一発で忘れられますね。東京東筑会会長の安永さん、久しぶり出席の深堀さん、相変わらず堅実なゴルフですね。いつも上位の小田さん、今回はアウトがまとまらず苦戦されました。ゴルフ会一番の元気者、前回優勝の今井さんはまだまだハンディが甘い、次 回は優勝を狙って下さい。

  今回の初出場は前ゴルフ会からを含め6名の参加がありました。西尾多恵子さん(47期)、樋口洋子さん(58期)、深堀和雄さん(69期)、菊池誠さん(67期)、永尾光治さん(76期)、安永純子さん(73期)です。
  競技終了後はクラブハウスでいつもの楽しいパーティ。レバ、タラで大いに盛り上がりました。
最後は本年の東京東筑会懇親会の当番期、大林一裕(79期)さんよりゴルフ会挙げての懇親会出席の依頼の挨拶で楽しい一日を締めくくりました。

 

出ずる日蕾む花 ~つぼみ会、始動~        坂本一子(102期)

  昨年度より、東京東筑会学生部による「つぼみ会」が始動いたしました。
  従来、学生部は懇親会や高校生研修の引率などに参加させていただいていましたが、学生部独自の活動は行っていませんでした。また、参加する学生も一部に限られているという現状がありました。しかし、東筑会に参加する学生数も徐々に増え、学年を超えた交流も生まれはじめたことに伴い、学生部独自の会を作ることで、学生どうしで生まれた絆をさらに深め、また新たに東筑会に参加する学生の数を増やしていきたいと考えました。 27-26


  そこで、発足したのが学生部「つぼみ会」です。
  「つぼみ」は花が開く前の状態を指しますが、転じて前途有望な若者をいいます。 「つぼみ会」には、希望と不安を胸に上京してきた学生が、同じように自分の道を探し、夢を追いかける東筑の仲間たちとの出会える場を設けることで、新天地東京での新たな発見や刺激し合うことにより、それぞれの「つぼみ」を花開かせる、という願いがこめられています。

  本会の目的は、まず学生どうしの交流を深めることです。普段はそれぞれの大学で楽しく過ごしていても、やはり同郷の仲間と集まるのは格別に楽しいです。私自身、高校時代には言葉を交わしたこともなかった同期と東京東筑会への参加を通じて知り合い、とても親しくなることができました。また、一足先に上京して、様々なことに取り組まれている先輩方と話すことはとても刺激的です。
  次に、学生が自分のやりたいこと、興味のあることを見つけ、深め、向上していけるような活動を行うことです。大学生活はとても自由ですが、ただ過ごしているだけでは、なかなか道は開けません。自分から積極的に行動しなければ、はじまらないのですが、本会はその機会を少しでも提供していけるような活動を企画したいと思っています。
27-27  そして、本会の交流を通して学生部の縦・横のつながり作りを行い、東京東筑会学生部の活動活性化、ひいては東筑会全体の活性化につなげていきたいです。 昨年の活動は、9月に納涼船で106期の歓迎会を開催しました。106期から102期までの学生が集まり、大学生活や高校時代の話などで盛り上がりました。この場で新たに築いたネットワークが、11月の懇親会の学生の集客、3月の高校生研修の引率活動につながりました。

  今後については、新社会人の会「あずみ会」との連携をとりつつ、新入生の歓迎会、ボランティア活動、企業見学、講演会など自分の興味や可能性を見つけ、広げていけるような企画をしていこうと考えています。就職活動についての情報交換会やゼミの要望も出ているので、現在検討しています。その際は、先輩方のご協力が必要になる場合もあるかと思いますが、なにとぞよろしくお願いいたします。
  まだまだできたての会ですが、学生部一同「つぼみ会」が、「出ずる日菅む花」となるよう、遇進して参りますので、今後ともよろしくお願いいたします。


つぼみ会に参加して         牛島彩華(106期)


  みなさん、こんにちは。昨年の春に上京して参りました、106期の牛島です。今回はつぼみ会の感想を書かせていただくと言うことで、多くの先輩方のご覧になる会報に私の文章が載るのかと少々緊張していますが、よろしくお願いいたします。
  まず、私が東京東筑会の存在を知ったのは、今から3年前の高校生派遣事業でした。3年前、高一だった私は、特に東京に進学するという考えも無く、只々東京に行って日本の中心を見てみたいというだけで参加をしたのですが、そこでさまざまな企業、省庁の見学をし、東京東筑会で開いていただいた歓迎会で先輩方とお話をして東京に行きたい、という思いが強くなり、こうして東京東筑会に参加させていただくことができていることを、とても嬉しく思います。
  とはいえ上京してしばらくは新しい生活に慣れるのに精一杯で、そういえば東京に東筑会があったな、どうやって入会すれば良いのだろう、私みたいな田舎から出たての学生が参加してもいいのだろうか、と時々考えながら過ごしていました。そのような所に坂本さんから東筑会のご連絡をいただき、学生中心の[つぼみ会]という活動があるということを教えていただいて、無事秋から東筑会に参加させていただくことができました。

 遊覧船

  まず坂本さんからご連絡をいただいてすぐに、つぼみ会の遊覧船に参加させていただきました。これが初めての東筑会への参加でしたので、浜桧町に着くころには正直、かなりガチガチに緊張していたのですが、遊覧船に乗ってみると久しぶりに同期に会えたり、3年前に派遣事業でお世話になった先輩方にお会いできて感激したりと、不安もすぐに吹き飛びました。また、すぐ上の期の先輩方と進路や勉強、一人暮らしについてなど色々お話させていただき、とても楽しい会でした。2ケ月の留学から帰って自炊を再開したばかりでしたので、遊覧船の帰りに持たせていただいた食べ物は、本当に有り難かったです!

 懇親会

  遊覧船の際にご案内をいただき、11月には東京東筑会の懇親会に参加させていただきました。懇親会では乾杯の発声を皆様の前でとらせていただき、緊張しっつもとてもよい経験になりました。参加する以前から、東京東筑会はとても大きな組織であるとはお聞きしていたのですが、いざ会場に入ってみると広い会場に大勢の先輩方がいらっしゃり、改めて驚きを感じました。同期の友人や高校時代の先輩方、
自分より何期も上の先輩方と色々とお話させていただいたり、久々に食べるかしわ飯に感動したりと時間が経つのがあっという間に思われました。また、何期も上の先輩方と親しくお話させていただいたり、会場全員で校歌を歌ったりする中で東筑のつながりや東筑会の組織力を実感して、在学中以上に「ああ、私は東筑生なんだな」と強く感じ、東筑で良かった、という思いが強くなりました。

 生徒派遣事業

  また、今年の3月に同期の中里君と一緒に109期生の派遣事業の引率をさせていただきました。私自身の上京のきっかけとなった事業で、高校時代は東京に行けたらぜひ引率がしてみたいと願っていましたので、引率のお話をいただいた時は本当に嬉しく思いました。実際の引率では私自身が未だ東京に慣れておらず、ほぼ70期の田中先輩に引っ張っていただいたのですが、可能であれば今後もこの引率をさせていただき、しっかりと引率できるようになりたいし、派遣事業で私たちと話し、かつての私の様に東京に来たいと考える高校生が一人でも増えたら良いなと強く思います。

 まだまだ東筑会に入って日は浅いですが、つぼみ会をきっかけに様々な先輩と出会い、お話をしたりお食事やお花見をさせていただいたりと、日増しに東筑の大きさを実感しています。最後に、つぼみ会や懇親会の参加者を見てみると、以前よりかなり増えたとのことですが学生はまだ少なく、もっと多くの方に、本当に気軽に東筑会に参加して楽しんでいただきたいなと思います。

 

第27号

(2009年 平成21年7月)

第27号