
ContentS
FACE巻頭インタビュー
「敬天愛人」僕なりの解釈 濱中昭一郎
STAGE特集 「東筑トリビア~2004~」
東筑野球は「普通はやらない」ことだらけである/木村哲晃
ありがとう!応援部「東筑高校ドップラー効果」/西迫賢一
体育の田代先生は体操のオリンピック候補だった/堀口かおり
64期剣道部は全国一、野球部は全国2位の実力だった/中村一生
HOME ふるさと点描
一本松より
AIRMAIL 海外で活躍するOB
五つのワ一クを胸に人生を切り拓こう/北村憲雄
特別寄稿 59期還暦旅行
還暦旅行回想録/渡辺勝彦
2004年度懇親会当番期からのメッセージ
MASSAGE事務局便り
元東筑会会長・徳永勝一氏を悼む
会計報告
NEWSPAPER 2004年北九州のできごと
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FACE巻頭インタビュー
「敬天愛人」僕なりの解釈
濱中昭一郎 46期 (東京地下鉄株式会社 代表取締役会長、日本通運株式会社 相談役)
今年4月、日本はもとより世界でも初となる民営地下鉄、東京地下鉄株式会社 (東京メトロ) が発足しました。その初代会長を務めておられるのが、東筑46期の濱中昭一郎さんです。
ここでは戦時中の東筑時代から日本通運のトップを経て現在に至るまで、浜中会長の「天の声には素直に従う」人生観とともに振り返っていただきました。

昭和5年生まれ
昭和29年
東京大学法学部卒業
日本通運株式会社入社
昭和58年
同社総務部長
昭和62年 専務取締役
平成元年 代表取締役副社長
平成3年 代表取締役社長
平成11年 代表取締役会長
平成15年 相談役、現在に至る
平成16年4月
東京地下鉄株式会社
代表取締役会長に就任
平成2年 運輸大臣表彰
平成7年 藍綬褒章受章
戦争時代の青春とは
―昭和5年のお生まれということは、まだ高校制になる以前の東筑に在学されていたわけですね。
濱中 当時はまだ中学制で、戦争を挟んでいるため、4年で卒業した組と、4年の組がいました。僕は5年で卒業している方ですが、期でいうと46期になります。
今でも毎年秋頃に46期の同期会はやっていますが、会場が九州だから、なかなか行けないですね、連絡はいつももらうけれども。それでも、数こそ少なくなったが、結構集まっているそうですよ。毎年、同期で発行している 「四六会会報」も、九州から送ってもらっていて、読むと励みになりますね、頑張っているんだなと。だから、次回の同期会には、なんとか行きたいと思っているところです。
―当時の皆さんとの思い出などは、いかがですか。
濱中 とにかく戦争に終始する時代だったわけですが、終戦直前になると、中学生でも短波が聞けるので、「どうも様子がおかしい。これは今の国力からすると、日本はひょっとして負けるかもわからん」、そういうことは僕らも考えていました。でも一方では、なんとかして敵を撃滅しようと。
負けるかもわからんから、やめよう、などという気持ちはなかった。そういう血気盛んな十代というか、やんちゃばかりやっていたからね。とにかく、東筑時代のことは話し出すときりがないですね。
―そうした中でも、特に印象に残っておられることは?
濱中 もっとも、一番の思い出というのは、心の中にしまっておきたいものだから、話すとしたら、二番目か三番目になるのかな(笑)。
僕が尊敬していた中村先生という英語の先生がいましてね、クラスの担任のような立場でした。当時、僕らは学徒動員で浅川にあった日本火薬の雷管工場に行っていたのですが、こともあろうに工場でたばこを吸って、見つかった友人がいたんですよ。
当時は、たばこを吸ったら即、退学。その友人は、この戦争中でもあるし、国のために予科練に行きたいと志望していた男だったわけです。だから、なんとしても救ってあげたい。そこで、中村先生に頼み込んだわけです、「国のために頑張るというやつだから、ひとつ見逃してもらえませんか」と。
すると、「そんなに熱心になるっちゅうことは、ひょっとしておまえも吸っとるんじゃないか?」
「はあ、実は……」 (笑)
「そうか」
この一言で、それきりだった。けれども、その後、何のお咎めもなく、友人も無事に予科練に進んだと記憶しています。きっと僕らの見えないところで奔走してくださったに違いない、先生の愛情が今でも心に強く残っていますね。
―ご自身としては東筑時代の5年間を、どのような思いで過ごされていたのでしょうか。
濱中 僕らも中学の時は、2年生の境から、雷管工場、そして黒崎のアルミ工場へと動員され、4年生の時に学び舎へ帰ってきました。終戦間近になると、特攻隊員が不足してきて、航空士官学校が中学から直接、生徒を採るようになったわけです。それで僕も航空士官を志願したのですが、試験が完了しないうちに、終戦を迎えることになった。それが1年でも延びていたら、特攻隊で僕の人生も終わることになっていたでしょうね。
僕らの青春時代とは、そういうものだったんですよ。今の若い人たちとは全く違うものだし、だからといって、そういう経験を強制すべきではない。しかし、こんな時代もあったのだということは、知っておいてもらう必要があると思いますよ、たとえ真っ平だと言われてもね。
メトロ初代を断るわけには
―終戦後、大学を経て今度は、高度経済成長の時代とともに、社会人生活を歩んでこられたわけですが、長年にわたる日本通運(日通) でのキャリアについては、どのように振り返られますか。
濱中 日通に就職した動機というのは、結構単純なもので、日本はもとより世界中、いろんな所へ行って仕事ができるのではないかと考えたからです。実際これまで、様々な国の人と出会い、その地域の思いがけない風習や文化など、常に新しい刺激を受けてきましたね。
アメリカ一つをとっても、英語だけでは通用しない地域がたくさんあって、そういう人たちに荷物を運び、また受け取るという、交流を結んできたわけですから。例えば、フロリダ半島に行くと、マイアミのような都市では英語で仕事ができても、ちょっと南の田舎になると、スペイン語しか通じない。そういう異文化とのギャップの中でキャリアを磨きつづけるというのは、面白いし、魅力的だと思いますよ。
―その日通で代表取締役会長までお務めになったのが、今年からは民営化された東京地下鉄 (東京メトロ) の代表取締役会長に就任。これはビッグニュースでした。
濱中 東京メトロは以前、帝都高速度交通営団 (営団地下鉄) といって、株主には国と東京都、そして経営の意思決定機関として管理委員会が設けられ、営団がその執行機関であるという位置付けがなされていました。
管理委員会は、法律で定められたもので、営団の事業計画や収支予算、決算、役員に関することなどを協議します。そして、その承認が前提となって、最終書類を運輸省(現・国土交通省) に出せるという流れになっていたわけです。
僕は六年ほど前から管理委員になり、最後は委員長もやっていたので、突如として東京メトロに来たわけではありません。ただ、営団側から「会長になってほしい」と申し入れがあった時、僕としては「委員長の役目は果たしたと思うから、もう勘弁してくれ」と断ったんですよ。「これから冬ごもりしようかという熊の足をつかまえて、穴から引っ張り出すようなことはしないでくれ」ってね(笑)。
―それでもやはり、断り通すことはできなかったと……。
濱中 よくことあるごとに「私より立派な適任者がいるでしょう」とか言う人がいるけれども、あんなのは本気で断っているわけじゃないんだよね(笑)。断るなら、はっきり断るべきで、僕も困ると言い続けたのだけれど、しまいには、あちこちから要請を受けるようになりましてね。さすがに、これ以上断り続けるのはまずいな、と思ったし、また自分も管理委員長をやっていたのだから、「せめて最初の発足のときは、やらないかんかな」ということで、お引き受けしました。
―そうした経緯ですと、決断なされてから会社発足まで、あまり余裕がなかったのではないかと思うのですが、そうでもありませんでしたか。
濱中 去年の暮れ頃に決断してから、4月1日の会社発足まで、確かに3ヶ月余りしかありませんでしたが、民営化に向けての準備は、営団ですでに3年ほど前から進められていましたからね。
会社には二人の先生がいる
―それにしても、この4月以降、地下鉄のイメージもずいぶん変わりましたよね。
濱中 それはありがとうございます。ロゴも制服も一新して、明るくなったでしょう。新しい組織としての区切りは、多くの人に認知していただけたと思っています。
―会長職として普段、どのようなことを心がけておられるのですか。
濱中 スタート以来、私がやっているのは、専ら現場回りですね。4月1日に会社が発足する時、会長としてこんな挨拶をしました。
「会社には二人の先生がいる。一人はお客様、一人は現場。この二人の先生の言うことを聞いていれば、会社の進む方向に間違いはない。だから、今日から東京メトロが発足するにあたって、この二人の先生の言うことをよく開いて、頑張ってほしい」
―その会長自ら現場を見て回られるというのも、大変なことですね。
濱中 全くその通りで、最初は現場回りといっても山手線の内側だから、案外早く終わるかなと思っていたら、さにあらず(笑)。まず、駅の数が168あります。それから、8路線それぞれに車掌区と電車区。さらに工場、検車区と、現場組織の数は膨大なもの。これを全部回るのは、なかなか難しいもので、骨が折れますよ。
―それを敢えてご自身でご覧になって、どのような印象をお持ちですか。
濱中 鉄道会社というのは、鉄道を安全に安定的に輸送するのが使命です。その認識がきちんと浸透しているな、という印象を受けました。それから民営化されると、お客様第一の理念のもとに、変わらないといけない、という意識が出てくるもの。それも徐々に見受けられるようになってきたと思います。
地下鉄で民営化しているのは、世界中でも東京だけです。それが可能なのは、毎日570万、年間20億人もの人を運んでいるからです。これほどの輸送力を誇る地下鉄は、どこにもない。また、今の東京で地下鉄抜きの交通手段は考えられない。それだけ、公共的使命も大きいわけで、当社のスローガンである 「東京を走らせる力」 であることを自覚して、しつかりやっていかなくてはなりません。
芦屋会も十年以上続いてきた
―それほどまでにご多忙な中でも、日通では引き続き相談役を務められ、同窓会の方でも、芦屋会の会長をお引き受けでいらっしゃいますよね。
濱中 芦屋会は年に1回で、もうかれこれ10回開いています。正式な登録メンバーは現在、144人。年1回の懇親会参加者も5、60人はある。東京に芦屋の出身者がそんなにいるのか、というほどですよ。最初は続けられるだろうか、年々参加者が減りつづけるのじゃないかと心配しましたが、よく10年以上も続いてきたものです。
―こちらの会長をお受けになったのは、どういった経緯で?
濱中 結成にあたって最初に一所懸命動いてくれたのが、私と同級生の小田憲意道君の妹で増田浪江さん。小田君はもう亡くなったが、彼女が非常に熱心で「芦屋会をつくるから、会長になってくれ」と僕に言ってきた。「それならば喜んで」と、こちらは一も二もなく引き受けましたよ(笑)。
最初は市谷会館で開催して、芦屋の盆踊りや炭坑節を踊ったりしました。それ以来、幹事が大変頑張ってくれて、今では東筑の卒業生もたくさんいますよ。
―最後になりますが、会長ご自身の人生訓といいますか、後輩諸氏に向けたメッセージをいただきたいのですが。
濱中 僕は「こういうモットーで生きてきた」というのはないけれども、好きな言葉は「敬天愛人」。これは西郷さん(隆盛)が言った言葉だが、僕の解釈している意味は自分流です。
人間それぞれに努力をする。ところが、その努力が報われる人もいれば報われない人もいる。それどころか、誤解される人さえいる。しかし、それでも努力しなくてはいかん。そして最終的に自分のことは、天が決める。これには素直に従う。そういう考え方でないと、自分らしい生き様が出てこないのではないかと思うんです。
「自分は何になりたい」ということが、それぞれにあるだろうけれども、「あいつのせいでなれなかった」などと責任転嫁してはならない。人生という道のりの中で、それは最終的には天が決める。いわば天の配剤として受け入れることが、僕にとって「天を敬う」ことなのです。
また、「人を愛す」というのは、だれとでも大事に付き合うこと。会社でもそうだが、とかく優等生を大事にしようとする。
優秀な人間だけと付き合おうとするのは、「愛人」ではない。そうした考え方による「敬天愛人」というのが、座右の銘という気持ちでいるし、僕らに続く後輩たちにも、伝えつづけたい言葉ですね。
〔聞き手・文責/会報編集長 安藤進一(83期)〕
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STAGE特集 「東筑トリビア~2004~」
東筑野球は「普通はやらない」ことだらけである/木村哲晃
ありがとう!応援部「東筑高校ドップラー効果」/西迫賢一
体育の田代先生は体操のオリンピック候補だった/堀口かおり
64期剣道部は全国一、野球部は全国2位の実力だった/中村一生
難関 東筑高校
東筑高校は県下有数の進学校であり、しかも公立なので、いくらいい選手でも学力がないと、入学することはできません。
私の代の野球部には、同学年に1人、下の学年に2人、それぞれ中学浪人がいました。何か特別な事情がないかぎり、こんな話めったに聞きません。
高校進学を一年遅らせても東筑高校野球部に入りたいのです。
東筑野球部といえば喰田野球。そんな喰田野球の一部をお話したいと思います。
名物メニュー
夏の大会前に必ずやるメニューが、二つあります。一つは個人ノックです。これは定期試験の欠点×100本の数だけやります。だから、頭のいい人は少なくて済みます。よく喰田監督は「甲子園に行くときは勉強もできるやつが多い」とおっしゃっていました。
もう一つは「一列」と呼ばれるダッシュです。これは一塁線に一列にならび、レフトのフェンスまでを大声を出しながら往復するのです。しかも喰田監督がやめていいというまで、ずうっと走り続けないといけません。この二つのメニューは、みんな恐れていました。
甲子園への道の途中
北部の公立高校を甲子園へ導くためには、徹底した情報管理をやります。
練習試合は、南部の強豪私立校とは絶対やりません。いつも北部の高校か、佐賀、山口の高校としかやりません。
これは、夏の本番まで手の内を見せないためだったらしいのですが、それにしてもチームの実力を計るよりも夏の一発勝負にかける。まさに勝負師。
9回裏同点1死走者3塁
夏の本番の話です。9回裏、あわやサヨナラ負けの緊迫した場面で喰田監督のとった策は、敬遠、敬遠で塁を埋める満塁策です。たしかに理屈上はクロスプレーもタッチしなくていいし、ゲッツーも狙える。しかし、選手のプレッシャーは計り知れないものがあります。それでも、これを本当にやってしまう。なかなかこんな大胆なことしませんよね?
ホームスチール
私が1年生の時に、足がものすごく速い3年生の先輩がいました。この先輩が四球で塁にでたら、すぐに盗塁。そして二盗、三盗。そしてまさかの本盗で1点。こんなこと、いくら足が速いといっても普通はやらない。この普通はやらないが、喰田野球の醍醐味なのです。
スクイズ
1死走者3塁。これぞ高校野球といえる場面です。近年では、スクイズよりも打たせることの方が多いみたいですが、一昔前なら必ずといっていいほどスクイズ。
一般的にいえば、守る監督は、攻める監督のサインの動きを見て、スクイズのサインの雰囲気を感じ取ります。そこで喰田監督が考え出したサインは、いつスクイズするのか、はじめから決まっているオートマティックなサインです。すなわち「カウントが変わったらスクイズ」です。
たとえば、初球は打つ。ストライク、ボールならその次。ボール、ストライクならその次。ボール、ボール、ストライクならその次。とにかくカウントが変わったらスクイズなのです。これはいまだに他の高校でやっているのを見たことも、聞いたこともありません。
喰田野球とは?
私が入学したときに聞いたのは、「だいたい10年周期で甲子園にいく」ということでした。福岡という激戦区のなか、北部の公立高校を何度も甲子園に連れて行く。これは並大抵の仕事ではありません。
さまざまな創意工夫を凝らし、選手個々の特徴をよく把握し、そのチームの潜在的な力を最大限に引き出す手腕。さらにゲームにおいては、誰にも予想がつかない、基本の上に成り立つ奇策につぐ奇策。名将とはこういう監督のことをいうのではないのでしょうか?
応援部との出会い
特に夢中になるものもなく、ただ漠然と過ごしていた中学を卒業し、東筑高等学校に入学し数日経ったある日にその衝撃が僕の全身を走った。
大げさな言い方ですが、応援部を引退してから20年、今もこうして同期や先輩後輩の皆様と素晴らしい人的ネットワークを持続できるのは応援部の存在のおかげです。
話はちょっとそれましたが、入学して早々、応援部主導による応援練習がありました。この時の応援部の声、太鼓の鼓動にすっかり心を奪われ、そして、ブラスバンドのホーンセクションが入ったコンバットマーチに血が滾り、今までテレビの高校野球でしか見ることができなかった光景がまさに自分の目の前にあり、その臨場感に興奮し、自分の脳みそからアドレナリンがドクドクと出て行くような、熱い快感というか、自分が前に立って演舞をしているわけでもないのに、何か妙な充実感を覚えました。その時に自分も前に立って、プラバンのコンバットマーチに合わせてコブシを突き上げたいな、と思い始めていました。
カルチャーショックを受けた練習
入部テストもなく、無事応援部に入部できましたが、練習はハードでした。
特に土曜日の練習は「超気持ちいい」の全く逆です。昼食後の午後2時から5時までの3時間みっちり練習します。
最初の頃は要領がわからなくて、いつものように学食で定食を平らげて練習に臨んでいましたが、定食などの重いものを食べたら最後、途中で気分が悪くなって、トイレに行って吐いたりもしました。
また、練習のメニューの中には「名物」と呼べるものと「ユニーク」としか言いようがないものがあります。名物練習とは、「声出しダッシュ」というもので、「アーアー」と声を出しながら約50メートル走る練習で、その間声を出すのを止めてはいけません。これが結構堪えるんですよ!やった者にしかわからない辛さというものがあるんです。「アーアー」と声を出しながら走るものですから、第三者から見ればおかしなことをやっているように思われ、東筑生の誰かが、この声出しダッシュを録音し、ラジオ局へテープを送って、これが放送されるという珍事件も起きました。私の記憶が正しければ、確か九州朝日放送の「パオ~ン」というプログラムで、当時の放送では、声出しダッシュを「ドップラー効果」と紹介していました。
(へぇー。)
次に、ユニークな練習というのは「腕立て伏せ」です。腕立て伏せというなんの変哲もない、どこの運動部でもやっている練習メニューなんですが、応援部の「腕立て伏せ」は一味違います。数のカウントの仕方が違うのです。
普通は一、二、三とプッシュアップする度にカウントするのですが、僕ら応援部は、一を3回、二を5回、三を10回といったカウントをします。つまり、「イチ、イチ、イチ、ニ、ニ、ニ、ニ、ニ、サン、サン・・」といった掛け声でカウントし、通常10数えているうちに既に30回以上プッシュアップしていることになります。こういうカウントの仕方なので回を重ねるうちに次第に疲れもピークにきて、彼の方で数がわからなくなり、数を間違える (ひょっとしたらズル?) 人も出てきます。
そうなると、団長から一言、「もう一回最初からやり直し!」
この腕立て伏せの話は、仲間内で集まった時には必ずといっていいほど、話題になり、昨年の応援部五十周年総会のときでも話題に上りました。
ありがとう!東筑。ありがとう!応接部。
僕が在籍した応援部での3年間は、野球部が強く、お蔭様で3年連続準決勝まで演舞台に立つことが出来ました。
しかし、奇妙なことに三つとも7月29日第二試合で涙の敗戦となりました。3年生のときは、「二度あることは三度ある」ではなく、「三度目の正直」で臨んだのですが、夢は叶わず、その直後しばらく虚しさが漂いました。
本音と建前が交錯する現代社会にうんざりした時も、20年前のがむしゃらに走っていたあの頃の経験を思い出すと明日への活力が沸いてきます。これもひとえに、応援部のお陰です。
ありがとう、東筑。そして、ありがとう、応援部。
応援部の腕立て伏せは、
「ドップラー効果」以上に理解しがたいハードメニュ-だった。
石膏の恐怖
帰宅部だったせいもあり、青春ドラマに出てきていたような、強烈に記憶に残るような思い出は何もない。 強いて何か思い出すとすれば、グランドから土足のまま入ることができた女子トイレに潜伏していた痴漢が、たまたま入ってこられた音楽の原田先生に取り押さえられたという噂だろうか。これはあくまでも噂で、どんな人が潜伏していたか、どんな風に取り押さえられたのか、詳しくは知らない。
そういえば、実際に目撃した思い出として、こんなのがある。自分たちの顔でライフマスクを作っていた美術選択クラスのある女生徒の話である。ライフマスクとは、ご存知のとおり、生きているひとの顔を型にして造った像である。顔の上に石膏を流して型をとり、その型にさらに石膏を流し込んで顔の石膏像をつくる。生きている人の顔に石膏を流すわけだから、ストローをくわえて呼吸を確保する。お肌が荒れないようにクリームか石鹸を付けていたかもしれない。日の周りもティッシュで保護するように指示が出ていたようだ。
ここで「ようだ」と言ったのは、わたしが書道を選択していたためで、美術室で何か面白いことをしているらしいという噂を聞きつけて覗きに行った、ただの野次馬だったからである。
さて、話を元に戻そう。日の周りを保護するティッシュを忘れた生徒が、代わりにトイレットペーパーを使ったところ、トイレットペーパーが石膏を混ぜた水に溶けてそのまま乾いてしまったため、固まった石膏とともに睫毛が全部抜けてしまったのである。たまに、眉毛を剃ったひとを見かけるが、みなさんは、人の顔から睫毛がなくなったところを想像できるだろうか。顔の中の睫毛の存在がいかに大きいものであるか、このときつくづく思い知った。たとえ小さなものであっても、自然界に存在するものは侮ってはいけないのだという教訓として、今も、わたしの心に刻まれている。同時にこの事件で、トイレットペーパーは水に溶け、ティッシュペーパーは溶けないのだということが実証された。やはり、水洗トイレには、トイレットペーパー以外のものを流してはいけないのである。
こうやって書いていると、あるひとつの強烈な思い出が甦ってきた。しかし、今は言えない。あと30年くらいたったら言ってもいいかもしれない。
それくらい、当時の高校生にとっては強烈な出来事だった。ただし、今は、当事者たちの名誉にかけて言わないことにする。「ひょっとして、あの話?」なんて思っているあなたは、相当勘が鋭い。
「本物」の衝撃
高校時代のトリビアなんて、アルコールの席で無責任に話すのならまだしも、文章にしようとすると、かなり辛い。ネタも相当絞られる。原稿を頼まれて以来、通勤電車の中でも、そればかり考えていた。するとある日、偶然、幼馴染の入江昭徳君に出会った。小学校から、なぜか大学まで同じ学校に通った友人である。もちろん高校も同じ。
最近、遠賀川の堤防の補強工事か何かで、彼の実家が私の実家に数百メートル近づいたらしい。そんなことを話しながらも、東京の人ごみで出会ったのを幸い、トリビアのネタはないかと尋ねてみた。彼のトリビアは、体育の田代先生が、昔、オリンピック出場候補選手だったということだ。文字通り「へぇー」と相槌を打ってしまった。
そういえば、体操のオリンピック選手達が、体育館で試技をしてくれたことがあった。それも、田代先生の人脈の賜物だったのだろうか。冬だったと思う。確か、アテネオリンピックで活躍した塚原選手のお父さんもおられたのではないだろうか。……ふと自分の年齢のことを考えてしまったが、そんなことはどうでもいい。
ジャージを何枚も重ねて着た選手たちは、意外と小柄だった。ウォーミングアップで走っている姿を、隣で見ている友人と「このくらいの段階なら、私たちも一緒にできるね」などと言いながら眺めていた。走っていると体が温まってくるのだろう、着ているものを一枚ずつ脱いでいき、マットで前転なぞをはじめる。「まだまだ、わたしたちにもできるね」と、開脚前転あたりまでは親近感を持って眺めていた。
倒立、宙返りとなると、もう、真似できない。それ以降、テレビでしか見たことがない演技が目の前で繰り広げられた。ただ、ただ、目を見張り、感動した。今にして思えば、ああいった本物の演技に実際に触れたことは、その後の感性や価値基準に影響を与えているかもしれない。できるだけ若いうちに、できるだけ多く、本物に触れておくべきである。
同期生どうしの結婚
最後に、最近、もうひとつ大きなトリビアを発見した。野球部で活躍していた大林一裕さんが、高校時代の同期である矢幡史子さんと結婚していたというのだ。しかも、高校時代に初めて出会ったときに一目ぼれして、大学進学、就職と人生のコマを進める中、たとえ身は離れ離れになろうともその思いは変わらず、ついに、難攻不落の彼女を妻にしてしまったらしい。ただし、これはご主人からの一方的な申告であり、奥様から事情聴取していないので、事実が正確に伝えられているかどうかは定かでない。
ちなみに私の叔母が折高生だった頃、
東筑の田代先生といえば、「光源氏」と呼ばれた超アイドルだったそうです。
(安藤進一補足)
大将四人抜きの奇跡
我々64期の自慢は剣道部が、昭和40年度玉竜旗優勝大会で優勝したことです。さらに言うと、選手5人のうち2人が私と同じクラスで、決勝戦では大将の豊村君が4人抜きの大逆転、そしてその前に1人抜いたのも同じクラスの次峰・常友君でした。同じクラスの2人で5人を抜いたというのが、さらなる自慢なのです。
その頃からだと思うのですが、テレビ中継をしていました。しかしながら残念なことに、大将の豊村君が柳川商業の中堅を抜き、あと2人抜けば優勝というところで無情の放送時間終了。
実のところ、テレビ応援していた者は皆負けたと思っていた。いくらなんでも、1人で4人を抜くとは誰も思わなかったのです。
ところが、優勝したとの報が入り、急遽ブラスバンドを集め、折尾駅前で優勝祝賀式典、続いて学校までパレード、沿道にはたくさんの折尾の皆さんが出て、手を振って迎えてくれたのです。
敗れた相手が全国制覇
その少し前、夏の全国高校野球大会福岡県予選がありました。我々の時代はスポーツ特待生がいて野球部にも何人か、というか基本的には、中学で野球をやっていた生徒しかレギュラーにはなれなかったと記憶しています。当然、学区外からも何人か越境していました。
さて、いよいよ夏の大会が始まり、われらが東筑高校野球部は、県北予選を順調に勝ち進み、平和台での県大会に臨みました。 準々決勝、まず相手校に1点取られ、すぐ2点取って逆転したものの、エラーがらみで2点取られ、結局2対3で負けました。
このときの相手が、あの原監督率いる三池工業高校だったのです。その夏の甲子園大会では三池工業が福岡県代表として甲子園に臨み、初出場初優勝を飾ったのです。原監督とは、今の若い人にはご存知ない人がいるかもしれませんが、あの原辰徳前巨人監督の父親です。
二位グループの九番目くらい?
私が何を言いたいか? そうです、我々64期の野球部の実力は全国2位!だった、ということです。
そんなこと言ってたら優勝校以外はみんな2位じゃないか、と言われそうです。それは間違いです、とは言いませんが、私の全国9位説には基準というか節度があるのです。その基準とは、優勝校と直接対決をしたということです。夏の大会では県予選1回戦から甲子園決勝まで大体13試合くらいやります、したがってその年に三池工業と直接対決した13校くらいは全国2位(だったかもしれない)と言っていいのです。そういう意味から、我々64期の野球部は9番目くらいの2位だったと信じている私です。 我ら64期のトリビアは「64期の野球部は全国2位の『実力』だった」という話です。
余談ですが(この話自体が余談だという声も聞かれます) 当日朝、平和台に行くバスの中で応援歌の練習をしたのですがその歌の一つに「もしも東筑負けたなら」という替え歌があって、こんな歌詞縁起でもない、と思ったのを鮮明に覚えています。
つたない話にお付き合いいただきありがとうございました。
剣道部の全国一は事実だが、野球部の2位は、かなり強引な基準による仮説だった。
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HOME ふるさと点描
一本松より (代筆:76期 橋本淳生)
東筑魂は永遠に、時を超えて東筑生の心に抱かれとるばい……
わしは、今まで3万7000余名の前途洋々たる東筑生の姿を見送ってきたばい。
今年も、102期395名を見送り、105期360名の入学を喜んで迎えたのじゃ。
以前の450名が入学してきたときに比べると、ちとさびしいのお。
これも少子化の影響かもしれんのお。
今年は学校長も替わり、4月から増田俊明校長が就任されたばい。
増田校長は、東筑68期生で、赴任当日、歴史を刻んだ石段を登り学び舎を見上げたとき、母校に帰るということで、身が引き締まったそうばい。
うれしか。わしが見送った東筑生が、大きく成長して活躍しとることが…。
さて、ここで昨年の部活動をちと紹介するばい。
東筑生の汗と涙の結果、九州大会に出場した部活動は、
県大会2位の相撲部、九州大会男子50m自由形で2位となった水泳部、
九州大会・国体に出場したボート部、
秋季県大会3位・春季2位となり九州大会へ2度出場したのは野球部やったな。
一方、文化部では、音楽部が九州合唱コンクール金賞を獲得したばい。
みんな、ようがんばっとるばい。
しかし、悲しい話もあるとばい。
この20年間グランドで大声を出し、ラグビー部を全国大会に導いてきた、
金太郎先生こと小田先生が退職されたばい。
「元気・勇気・根気」をモットーとして、
厳しく、時には優しく指導した先生がグランドにおらっしゃらんのは寂しいのお。
でも、東筑生の人情は、捨てたもんじゃなか。
今年の4月29日(木)に東筑ラグビー部卒部生、保護者、160余名が
北九州プリンスホテルに集い、
「小田先生ご夫妻の第二の出発を祝う会」を開催したっちばい。
20年間、東筑に心血注いだ先生やったけ、
多くの人たちの熱意で盛大に行われたっちゅうことばい。
最後に、今年6月12日(土)に行われた東筑会のことを報告しとかないけんね。
北九州プリンスホテルに約千名の東筑生が集い、盛大に開催されたばい。
当番期74期の諸氏は、万全を期して、運営を見事に成功させたっち聞いとるばい。
また、テーマが良かったっちゃ、「あの日に帰りたいー心はいつもセピア色―」
74期は、よう考えとるが。
会の中では、75期が当番の引継ぎを行い、
来年度に向けて、もう準備が始まっとるげな。
東京で活躍しとる東筑生諸君、心配いらんばい。
あんた達の心に東筑魂が宿り、
その魂は時を超えて九州の東筑生と繋がっとるとよ。
一本松のわしも、東筑魂を語る機会を与えてもらったことに感謝して、
今年の報告を終わりにするばい。
解 説
一本松について
明治31年、東筑高校〈当時は旧制中学)の誕生時に、すでに東筑の丘にそぴえ立っていた松の大木。運動場の真ん中で、約3万人の東筑生の巣立ちを見守っていたが、枯れてしまったために、昭和35年11月30日、厳粛な鐘魂式のあと、切り倒された。
その18年後、東筑会当番期の45期生で、「記念として、まさに東筑のシンボルであった、あの一本松を掘り起こそう」という企画が持ち上がり、昭和50年2月10日、掘っこが発掘された。古い写真を資料に、同期生の測量士が位置を決め、同期生の建設会社社長がショベルカーを持ち出し、3日間、約30人での発掘作業だった。その後、根はきれいに磨き上げられ、高校に飾られた(現在は同窓会舘に飾られている〉。また、100周年を終えた1999年2月、松の若木が多目的ホール玄関前に植樹され、東筑の丘に成長しつづけている。
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AIRMAIL 海外で活躍するOB
五つのワ一クを胸に人生を切り拓こう
イタリアトヨタ社長/スペイントヨタ会長 北村憲雄 (59期)

出身中学:明治学園中学校
職 歴:トヨタ自動車販売株式会社
車両第4部/人事部/輸出業務部
トヨタ自動車株式会社
(トヨタ自動車工業株式会社と合併)
ヨーロッパ部
トヨタ・モーター・マーケテイング・
ヨーロッパ株式会社(ベルギー)へ出向
欧州アフリカ業務部
イタリアトヨタ株式会社へ出向(社長)
スペイントヨタ株式会社を兼務(会長)
トヨタ車を見かけぬローマの街に発奮
イタリアトヨタ (本社・ローマ市) に赴任して、早や8年が過ぎた。
当時のトヨタの欧州販売台数は約40万台で、欧州で一人前のメーカーとして認められる規模は80万台以上と言われていた。また、トヨタにとって80万台以上の販売を実現するためには、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スペインの五大市場での大飛躍が不可欠であり、しかも進出して間もない欧州生産工場をフル稼働させることが必須とされていた。
「イタリアをなんとかしてこい」と送別会で手荒く叱咤激励されて、ローマの地に赴いた。
私にとってイタリアは観光地であり、この地で仕事を任せられるなど思いもよらぬことであったが、1台のトヨタ車も走っていなかった当時のローマの街を見て発奮。とことん挑戦する気迫が沸いてきたことを昨日のように思い出す。
奇しくも赴任する飛行機の中で「遠く金星の方角にNASAのENDEAVORが輝いて飛んでいるのが見えます」という機内アナウンスを聞かされ、〝努力をせよと言うことか、うまくいって当たり前“、と決死の覚悟で戦場に臨む戦国武将のような気持ちを抱いたことを覚えている。
イタリアでは兎にも角にもイタリア社会に溶け込み、イタリア人を理解することが先決であると判断し、「ディプロマティア」というイタリアの官・財界、外交の有力メンバーが所属するクラブに借越ながら入会させてもらったことから全てが始まった。
セミナーの内容はイタリア語でチンプンカンプンだったが、セミナーの後の夕食懇談会だけを主目的に毎月出席して人脈を広げていった。
「ディプロマティア」に限らないが、〝イタリアを知りたい、イタリア人を理解したい〟というハングリーマインドが旺盛に働き、これを満たそうとするあらゆるトライが今日のビジネスのベースとなっている。
赴任当初のイタリアトヨタの年間販売台数 15,200台 (シェア0.8%)は、2003年には125,400台 (シェア5.6%)に達し、2002年には欧州のトヨタの中ではイギリス、ドイツを凌駕してナンバー1という栄誉をも手にすることとなった。経常利益も債務超過を心配した初年度とは打って変わり、現在では毎年80億円前後をあげる屈指の優良企業に変身した。
忍耐と寛容の精神がなければイタリア人と仕事は出来ない
当初、イタリア人と向い合った時、我々日本人とものの考え方、思考パターン、価値観などあらゆる点で異なることを痛感した。
イタリア人は見栄坊で常に自分をプロテクトしている。弱みは決して見せない。一般的に知らないことも知っているかのように繕うし、間違えた回答をしても言葉巧みにエクスキューズする。業務に対する姿勢も日本人との比較の上では怠慢としか言いようがない。事前の討議もあまりせず、歩きながら考えて状況に合わせて対処していこうとする。先のことをあまり考えない。
最初はとにかく戸惑った。忍耐も限界を超えた。しかしながら、やがてイタリアで仕事をする以上は私の方が彼らに溶け込んで、その中で彼らを徐々に変化させていく以外に方法がないことを悟った。ビジネスの基本に係わることには妥協せず、彼らの持ち味を活かしつつ一歩一歩進める辛抱のスタートであった。根気を要した。
トヨタは日本の企業であり、営々と築き上げられた企業文化がある。私自身30年以上にわたり自然に培われてきたトヨタウェイとも言える経営哲学があり、如何にしてこの哲学でもってイタリア人の心を捉えるかがイタリアでのビジネスの原点となった。
最近は、イタリアでは珍しく夜遅くまでトヨタオフィスには燈が灯り、若いスタッフが侃侃諤諤と議論を戦わしている。日本とイタリアのコンビネーションは、今や彼ら自身でビジネスウェイにさらに磨きをかけて向上を目指すほどに成長を遂げた。挑戦して失敗しても、それを土台にステップアップする企業風土を作りあげていったことが今、着実に根づいており、感慨深いものがある。
雄大なローマの街を歩くことでストレス解消
現在、私自身イタリアと同様、スペイン市場でも新たな使命を担っており、既に挑戦が始まっている。イタリアとスペインでは異なるビジネスウェイで臨まなければならないことに、早くも直面している。
スペインのマドリートに加え、ベルギー・ブリュッセル(ヨーロッパ本部)に毎月少なくとも1回出張せざるを得ず、とにかく忙しい。
ストレスも溜まるが、その解消法はただ一つ。幸いにして私は遺跡に囲まれた雄大なローマに生活していることから、散策が唯一の妙薬となっている。
毎朝、コロッセオ、カラカラ浴場の横を通るか、ヴァチカン宮殿を見ながら車で会社に通っている。出勤前の冷静なひとときである。男性的で活気に溢れた、かつてシーザーが君臨した街並みや人々を見るにつけ、小さなことに一喜一憂してはおれない気持ちにさせられる。
ウィークデーは街を散策することは難しいが、土・日曜日はボルゲーゼ公園を抜けてヴュネト通りを下り、スペイン階段からポポロ広場へ、時にはトレヴィの泉からナヴオーナ広場、パンテオンを抜けてカンポ・デイ・フィオーリへと歩く。
先般、日本出張の折、健康診断に行ったが、医者に足を計測されて、年齢よりかなり骨は若いと、なにやら判らない診断をもらい、満足している。
ローマ駐在で他の都市と異なる点は、おそらくお客さんの多いことだろう。業務関係もさることながら、先輩、後輩、同僚、アシスタントの女性とその友達云々で、外食の機会も増える。正直、必ずしも健康的な日々をおくっているわけではない。土・日曜日だけではあるが、各々15,000歩前後を歩くということは、気分を晴らすことにもなるし、また、血糖値、コレステロールの対策にも繋がっている。
挑戦なくしては何も生まれてこない
トヨタには前にも述べたがトヨタウェイなる経営哲学がある。別に特別なものではなくビジネスマンとして当然のあるべき姿を示したもので、決して習ってそれを実践するという類のものでもない。若い後輩諸君に対し、借越ながら私なりのアドバイスをしたい。
まず、常に挑戦し失敗を恐れぬマインドを持つことである。挑戦なくしては何も生まれてこない。仮に失敗をしてもそれを反省してさらに飛躍する向上心を忘れないことが肝要。
次に、物事を常に短期的に捉えず長期的観点に立って考える。いろいろな障害に直面するが、長期の目標達成のための足場作りと心得え、耐えざる努力を重ねていくことが必須。
最後に、常に社会・組織の中の一員であることを十分認識し、良く人の話を聞き自らの手で意見をまとめ、自らの足を動かしてこれを確かめる。現地現物主義に徹する。
人生を切り拓く上で常に心掛けておかなければならないことは 「ヘッドワーク」 「ハンドワーク」 「フットワーク」 「ハートワーク」「チームワーク」 である。
高い目標を掲げ、まっしぐらに突き進む〝東筑魂〟 をいつまでも持ち続けよう。
特別寄稿 59期還暦旅行

59期の還暦を祝う会は、平成15年11月29日 (土)、晩秋の古都、ホテル京阪京都で、百余名を集めて行われた。人生の五分の四を過ぎた今、思い出に残る旅行にしたいと思い、大和路の散策にした。
この地に詳しい、太田征男君に旅の手配を頼んだ。この奈良旅行へは関東から13名、以前東京在住で今は北九州に住む3名と京都で合流、久しぶりの再会を奈良駅まで楽しむ。大型観光バスと可愛いガイドさんが出迎えてくれた。
僅か16人のために、と面食らいつつ、狭い大和路をこんな大型バスで大丈夫かと心配になる。「観光は、ガイド付バスに乗るに限る」 (万国共通)。途中の昼食は有名な三輪素麺。歓迎札の字が 「東築」 になっていた。訂正させ中に入る。数奇屋造りの落ち着いた建物で、素麺の味も腰も中々のもの。仰木女史が早起きし、この日のために買ってくれた東筑軒の 「かしわ弁当」 の味とうまくマッチし、久しぶりの故郷の味を満喫した後、修正された歓迎札の前で記念撮影。長谷へ。
◇ ◇
長谷寺は「花の寺」と称されるほど四季折々、花で埋め尽くされる、真言宗豊山派の総本山で、東京の護国寺や鎌倉の長谷寺の本山である。本尊は「十一面観音」。朱塗りの五重塔と張り合うように真っ赤に染まった紅葉を背景に記念撮影。七千株の牡丹園は日本一、春の桜、夏の紫陽花寺としても有名。帰りの参道沿いの酒屋で、知る人ぞ知る隠れ銘酒「こもりくの酒」を仕入れ、千鳥足で参道を駆け下り、次へ向かう。
◇ ◇
大化の改新発祥の地である談山 (たんざん) 神社は、蘇我蝦夷・入鹿親子が権力を極め、国政を欲しいままにしていた現状を憂い、正しい国のあり方を考えていた鎌足公が、蹴鞠会 (けまりえ) の折、中大兄王子 (彼の天智天皇) と645年5月、多武峯(とうのみね)山頂にて密会し、蘇我一族を排し、「大化の改新」を断行する談合を行った場所として有名な神社。
生涯を国政に尽くした鎌足公だが、天智天皇8年 (669) 不治の病に倒れた。
天皇自ら病床を見舞い、大織冠 (たいしょくかん) を授け内大臣に任じ、藤原の姓を授けた。
藤原氏はここに始まる。唐に留学していた鎌足公の長男定慧(じょうえ)和尚は、亡き父の為に、お墓を緑深い多武峯に移した。国内唯一、木造の十三重の塔が、紅葉に負けず渋い存在感を出しているところが凄い。
裏山を20分程登ると、両雄が密会した談 (かたらい)山 (566m)、左へさらに進むと鎌足公のお墓がある。御破裂山 (ごはれつさん、607m) の頂上間近。その先に小さな展望台がある。
聖徳太子とともに、日本の国づくりに生涯を捧げた偉大な先人の傍らで見下ろす大和平野の、何とのどかなことか。神社の本殿には、歴史絵巻や宝物も拝観でき、参拝者を失望させない、おすすめの神社である。ガイドさんに歴史や昔の歌を教え、歌いながら、暗くなって奈良市内の宿に着いた。

談山にある日本唯一の十三重の塔にて
◇ ◇
翌朝は小雨。すぐ隣が若草山で、たくさんの鹿がたむろしている。宿から10分程歩くと、東大寺の境内に入り、二月堂、三月堂、四月堂と連なっている。静寂漂う朝の境内は素晴らしい。まず、法華堂 (三月堂)に吸い込まれていく。誰もいない伽藍に7人が入ると、拝観者がいないので、堂長直々に、裏話なども交えて説明してくれた。
ご本尊は不空羂索観音 (ふくうけんさくかんのん) で、お堂自体と、仏像12体が国宝、4体が重要文化財。ご本尊の宝冠が世界三大宝冠の一つである。お参りの仕方は、正面に跪き、観音様の宝冠を見上げると、宝冠に埋め込まれたルビーが朝陽を浴びて赤く光っているのが分かる。美の極みとされる日光・月光菩薩、哀愁の美を称える吉祥天、阿・吽の憤怒の形相すさまじい金剛力士像など、仏教彫刻の基となる天平文化の粋が、所狭しと配置されている。かの弘法大師空海が、第14代の管長であったことに驚かされる。
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3時からの会に備え、2時前に京都のホテルに着いたが、大半が揃っていた。それぞれ懐かしい顔を見つけては再会を喜ぶ様子も、見てて楽しいものである。110名余りが集まったようで、盛会であった。 赤いベレーとちゃんちゃんこが似合う江頭画泊の司会で、物故者へ黙祷の後、各地区の代表者が挨拶。東京からは書家の山保女史が、自筆の青春・朱夏・白秋・玄冬の人生の四季を語る。還暦はこれまでに蓄えてきた実りの秋、収穫の時であるという説に、地元関西からは、新たなる出発の時であるという異論が出る。格調高い会が始まった。
各クラスごと、壇状上に立ち、代表者がクラス全員を紹介。華やかな混合クラスに比べ、色のない男クラ。運・不運が見える。
自家製・安来節保存会がひょっとこ踊りで場を盛り上げる。4時間が40分に思える頃、お開き。二次会に繰り出す頃に雨は本降り、相合傘で会場に向かうも、超満月。
久々の友と語らうのに、カラオケは最も不向きな環境であることが分かった。翌朝、九州組は思い出づくりの北陸の族へ。
◇ ◇
普段、京都へは出かけても、奈良に行くことは、あまりない。華やかな京都と違い、心が落ち着く。華やかさを避け、前夜祭に奈良を選んだのも、還暦という年齢のせいなのか、良い旅であった。
ありがとう東筑―今、新たな青春のはじまり―
東京東筑会74期 懇親会副実行委員長 白石行洋
暑かった夏の日差しも和らぎ、木々を渡る風も一段と涼しく感じられる今日この頃ですが、本年度の「東京東筑会懇親会」がいよいよ再来月に迫り、準備に追われる毎日です。
当番期の到来を前にして、一昨年あたりからひとり、ひとりと仲間の所在が判明し、顔をあわせてはその変貌ぶりに刺激を受けつつも、懐かしさとこのようにして異郷の地で再び集えることの喜びを感じて参りました。
思えば我々74期、1976年の卒業生にとって、〝筑紫の陸〟で過ごした青春の日々からはや30年の歳月が流れています。あの頃の青坊主や初心な乙女たちも立派なビジネスリーダーやオピニオンリーダー、強く美しき妻や母となり、それぞれの人生を正面から、前のめりに生き抜いてきた履歴を笑顔のなかに刻んでいます。その生き様は、一人ひとり違うもので、それぞれのドラマがあるのでしょうが、久しぶりに会して感じたのは、やはり同じ東筑健児として〝質実剛健〟の気質が流れているということです。
30年の歳月のなかでは、ひとりひとり語るに語れない悲喜こもごものドラマがあったはずです。そんなドラマを、柔和な微笑みの奥に潜め、社会や企業、サークルや家庭、ひとそれぞれの世界のなかで〝大切なひとり〟になったかつての東筑健児たち。そんな仲間たちと本年度の当番期として「東京東筑会懇親会」をどのように開催していくかの話し合いを持ち始めたのが今年のはじめ、まだ肌寒い梅香る頃だったと思います。
少しずつ増えたメンバーも20名程になり、さて「テーマ」をどうしようか、と皆で悩みました。いろいろなテーマの案のなかから、皆が自然にイメージしはじめたキーワードが〝ありがとう〟と〝東筑〟でした。これまでと、そしてこれからも我々の人生を支えてくれるだろう〝東筑の熱き気質〟。そしてそれを継承してくれた恩師や先輩方、仲間たちへの感謝の意を込めて〝ありがとう〟。
本年度の「東京東筑会懇親会」は、〝筑紫の陸〟から遥か遠くの異郷の地で、それぞれの世界、社会や企業、サークルや家庭などのなかで〝大切なひとり”になったかつての東筑健児の先輩や後輩たちに、その〝東筑の熱き気質〟を再び感じていただく機会にしたい。
そして〝大切なひとり、ひとり〟が集うことで、生き様も人生観の違うひとり、ひとりが、共通の〝気質〟でつながれていることを感じていただく機会にしたい。
小さなひとり、ひとりには大それたことはできないまでも、共通の〝東筑の熱き気質〟が、元気を失いがちになりつつある日本のあちらこちらで、元気を支えることくらいはできるだろう。副題の〝いま、新たな青春のはじまり〟には、本年度の「東京東筑会懇親会」で時空を超えて分かち合える〝 東筑の熱き気質〟 を感じていただくことで、これからの人生でもっともっと素敵なドラマを演じてほしい、という思いを込めています。
6月12日に九州で我が74期の手による「東筑筑会総会」が盛会のうちに催されました。
いよいよ11月20日、リーガロイヤルホテル東京で本年度の「東京東筑会懇親会」を開催いたします。皆さんのなかの〝東筑〟を再発見する機会をご用意してお待ち申し上げます。
私たちが今年の懇親会を盛り上げます。
今年のテーマは「ありがとう東筑-今新たな青春の始まり-」。青春真っ只中を過ごした誇りある東筑高校、諸先輩方、後輩諸氏、同期、の仲間すべてに〝ありがとう〟という気持ちを精一杯込めて懇親会の御世話をさせていただきます。
少し我々の世代の紹介を致します。我々74期は、昭和32年、33年に生を受け、昭和48年~昭和51年に高校時代を過ごしました。テレビのチャンネルをひねると山口百恵他の中三トリオ、郷ひろみ他の新御三家が全盛で、また拓郎、かぐや姫、チューリップなどのフォーク・ニューミュージックブームが訪れ、我々の同窓会では必ず最後に皆で「心の旅」を合唱します。
社会人世界では、入社時はまだオイルショックの後遺症から抜けきれておらず就職活動に苦労し、入社後は高度成長期を生き抜いてきた凄いパワーを持った団塊の世代と新人類と呼ばれた世代に囲まれた、比較的特徴のない、おとなしい世代だと言われています。
我々同期は百周年の東京東筑会を契機に年2回の同窓会を開き徐々に関東地区の仲間を増やしてきました。 当番期を迎えるに当たり、昨年秋口より今年の開催11月20日に定め会場探しを始めましたが、婚礼シーズンと重なり大苦戦。
数々のホテルを巡り、宴会場の広さ・値段・料理チェックは勿論、天井の高さ、会場備品、受付け・控室・待ちスペース、女性トイレのブースの数に至るまで確認を行い、最終的にリーガロイヤルホテルに決めました。このホテルは伝統の地早稲田の杜に建ち、緑豊かな大隈庭園を一望できる気品に満ちた一流ホテルで、あの吉永小百合も月2回は訪れるという料理も抜群です。きっと皆様方大満足請け合いです。
昨年11月15日に行われた懇親会の二次会で正式に74期懇親会実行委員会を立ち上げ、1月18日に73期の先輩方との引継ぎを行いました。
席上、各担当の先輩からの説明を受け、当番期の大変さを実感!2月14日の記念すべき(?) バレンタインデーにいよいよKickOffMeetingを開催し、今この原稿を書いている7月末時点で5回の打合せを重ねてきています。毎回打合せの彼の反省会(単なる呑み会?これもまた楽し!)の場で同期の結束を深めると共に、未だ見ぬ同期への電話攻撃で仲間も順調に増えています。また、メール連絡で人によっては帰宅後の深夜メールが、それも、いかにも睡魔と闘っているというのが目に浮かぶような、よく意味の分からないメールが飛び交うこともありますが、日々活発に活動を進めています。
ようやく懇親会の骨格が決まってきた段階ですが、今年は宴会時間が例年より30分程短いですが、中身の濃い懇親会にしようと「ありがとう東筑」に沿った企画を準備中です。東筑高校の長い歴史と伝統の元、東京東筑会の輪がどんどん広がる様精一杯お手伝いをさせていただきます。
今まで参加されていなかった皆様も是非御参加頂き一緒に輪を広げていきませんか?それが皆様方の財産につながっていくと信じています。そして我々74期の一人ひとりにとっても大切な思い出として残せるものにしていきたいと思っております。
諸先輩方のご支援と後輩諸子のご協力を心からお願い申し上げて、当番期を迎えるにあたっての決意表明とさせていただきます。
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MASSAGE事務局便り

2004年2月29日の通夜、3月1日の告別式に九州まで行って来ました。
東京東筑会発足当時の本校同窓会の会長であった「徳永勝一」氏とは小生等が第1回の懇親会を開催した時に初めて会ったのですが、小生の現在の年と同じだった事を通夜で聞き、感慨無量でした。
彼には、東京東筑会第1回の懇親会出席、東京東筑会会報創刊号への寄稿、東京東筑会第1回総会への45個のかしわめし弁当の差し入れなど、事あるごとにお世話になりました。当時、文部大臣、防衛庁長官、総理府総務長官、沖縄開発庁長官などを歴任されていた26期の三原朝雄氏(初代東京東筑会会長)を先輩として尊敬し、真珠湾攻撃で軍神となった35期の古野少佐を尊敬する後輩として自慢する32期の先輩でした。
名簿も何も無く、全くの白紙から380名を集めた第1回東京東筑会の盛会には本心から驚き、そして感謝されたものでした。 その後の創立九十周年記念事業委員会会長としての同窓会館設立の際、東京東筑会会員の画家某氏の1000号の絵を要望され橋渡しした記憶があります。
とにかく、東筑を愛する事では人後に落ちない人だったと思います。
改めてご冥福をお祈りいたします。
合掌。 (文・川上祥登)
70期代後半の方には、かなりおなじみだったと思うのですが、かって東筑の正門から下った堀川端に「どぢ」というお好み焼屋がありました。スリムで活発な奥さんが切り盛りしていた店で、メニューは「野菜入り」100円から、「どぢスペシャル」300円まで、様々。
もやしをピラミッドのように積み上げて焼く「変態焼き」や、当時の九州ではまだ無名だった「広島焼き」など、新メニューのアイデアにも富んだ、昭和50年代の折尾を代表する人気店の一つでした。
土曜の午後など混雑するときは、近所の生徒たちも店を手伝ったりしていたのですが、なぜかカウンターの内側で、お好み焼きまで焼いてしまっている一人の小学生がいました。それも、男子です。
当時、客として来店していた高校生にとっては、実に奇異な光景だったでしょう。なにしろアルバイトでもない小童が、何食わぬ顔で「どぢスペシャル」を焼き続け、客に供していたわけですから。そう考えると、結構恐ろしいことをやっていた、あの子ども、実は僕なんです。これって、トリビアになりませんか?
さて、事務局長の報告にもありましたように、東京東筑会の運営は今、一つの転機を迎えていると言えるでしょう。僕も、本誌のリニューアルを手がけてから早4年、同窓の皆様から多くのご評価をいただけたのは嬉しい限りですが、今後の会の運営からすると、この仕様での発行を継続するのは難しいのではないかと考えています。
来年は役員改選期でもあり、これを機に電子媒体としての会報の可能性も含め、特に後輩諸氏の積極的な提言と参加を求めます。僕自身も電子本をネット上で出版していますので、微力ながらもノウハウの提供はできるものと思います。ぜひ、忌博のないご意見をお寄せください(メールは shin@akatsukisha.comまで)。
情報発信の多様化の中で、本会報も進化すべく、より若い力が結集されることを期待しています。ありがとうございました。
安藤進一
第22号
(2004年 平成16年11月)
