
ContentS
FACE1 第1回東筑フォーラム抄録
わが監督業の足跡 仰木彬 (聞き手:山下末則)
第1回東筑フォーラムの司会を担当して/宇佐見京子
HOME ふるさと点描
一本松より
DIRECTION 現役生指導の現場から
平成14年度2年10組(女子クラス)を担当して/石橋和子
STAGE特集 わたしのプロジェクトX
大学生活の中のt.u.dancingclub「WISH」/大庭尚子
将来にかけての目標/赤峰旭
インディーズな女子ボート部 インターハイに出場す/北川美穂
社内告発~正義感だけのフロジェクト/匿名希望
ゴミを拾える釣り人/須藤裕司
還暦旅行/57期有志
FACE2 第2回東筑フォーラム「元気もりもり健康教室」抄録
自分のからだのことどれくらいわかっていますか?/香山不二雄
AIRMAIL 海外体験
エベレスト・パノラマトレッキングに参加して/小川哲朗
特別寄稿
前・東京東筑会72期代表幹事 愛智香一君を偲ぶ/川上祥登、林幸彦
MASSAGE事務局からのお知らせ
会務報告/会計報告
BBSホームページ情報
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FACE1 第1回東筑フォーラム抄録
わが監督業の足跡 仰木彬 (元近鉄・オリックス監督 52期)
今だから話せる
イチロー、野茂の育成秘話。
そこには、
こんな時代にこそ求められる
グローバルな
指導者の視点があった!
聞き手・山下末則 (日本テレビアナウンサー 64期)

俺が監督のうちはダメ!
山下 仰木さんの監督としてのご活躍は、今ここで申し上げるまでもありませんが、日本一を達成されたのは、オリックス時代の1996 (平成8)年。日本シリーズの相手だった巨人は、1勝4敗とコテンパンにやられました。当時私は第2戦の実況を担当したのですが、その時も巨人は敗退。神戸に乗り込んでから2試合日の第5戦で、ついにオリックスは日本一を勝ち取ったのですが、その時、「長嶋監督には絶対に勝ちたい」と常々おっしゃっていた仰木さんが大変な喜びようだったのは、とても印象に残っています。
仰木 僕は日本シリーズに、全部で10回出場させていただきました。そのうち選手としての経験が5回ですが、あの時は三原監督のもと、稲尾、中西らがいて、昭和31年から三連覇。特に33年の時は3連敗の後、4連勝しましたが、当時、巨人のエースが藤田さんでした。すると、何かのめぐり合わせでしょうか、その約30年後、僕は近鉄の監督でしたが、日本シリーズで同じ巨人相手に、今度は3連勝の後、4連敗を喫しまして……。
山下 しかも、その時、巨人の監督は藤田さんでしたね。
仰木 そういう経緯があって、今度ばかりは、絶対に巨人には負けられないと。別に相手が長嶋監督だからということではなく、自分自身の雪辱をやらねばならん。そのチャンスは、もうこれが最後なんだと、そういう気持ちが強かったですね。
山下 その日本一の監督になった当時、オリックスにはイチローがいました。一方、巨人では松井が日の出の勢いでした。イチロー対松井という、注目の対決が実現したシリーズでもあったわけです。その勝負を制して見事日本一に輝いた頃から、イチローはメジャーヘの夢を語り始めていたそうですね。
仰木 監督としては迂闊な話で、彼のメジャーに対する情熱がそれほど強いものであったとは、意識していなかった。そのようなことはFA権を取った後のことだろうと、のんきに構えていたわけです。だけど、今思えば、日本一を達成したのを契機に、彼としてはまた次の高い段階へ、という気持ちが強まっていったのは確かなようです。
山下 それにしても、いかにポスティングシステムであったとはいえ、気持ちよくメジャーに送り出すというのは、監督の立場として大変つらいものがあったのではないかと思うのですが。
仰木 そりやあ、つらかったですよ。なにしろイチローという選手は、チームはもとより球界を代表する存在で、抜けたら大変なことになるのはわかっています。でも、彼にも夢があり、折り合いをつけるのが難しかった。実際、彼から初めてそういう意志を聞かされた時「俺が監督をやっている間はダメだ」といったくらいです。
山下 それでイチローは?
仰木 最初の年はそれで引き下がりましたよ。ですが、その次の年になると、もう抑えきれない。居ても立ってもいられない気持ちになったのでしょう。僕も四、五回説得したが、どうにもならなかった。
しかも、その翌年にはFA権をとってしまうわけだから、球団側としては、先手をとって売ってしまえば、大変な金額が転がり込むし、十分な補強費になる。まあいかにも、あの球団らしい発想ですが (笑)。そんな思惑もあって、僕としても折れざるを得なかったわけですね。
「イチロー」を本人は嫌がった
山下 イチローは、皆さんご存知のように、仰木さんが監督就任後、すい星のごとく登場しました。それまでは、ファーム暮らしが多かったのですが、そこにチャンスを与えた背景とは?
仰木 彼は当初から独特の振り子打法でした。見た通り、線の細い選手ですから、タイミングの取り方でボールに強い衝撃を送ろうとする。それに彼も頑固な性格ですから、そういう志向が相容れない首脳陣だと、やはり反りが合わなかったのでしょう。
私が就任した時は、彼も3年目で、ようやくセンスに体が追いついてきた時期だったといえます。その意味では、最も磯が熟していたわけで、彼にとっても、また僕にとってもラッキーだったと思いますね。
山下 しかし、どんな企業でも、若い社員をいきなり第一線へ抜擢すると、いろんな軋轢が生じたりするものです。勇気のいることだと思うのですが。
仰木 僕は、そうは感じませんでした。野球は9回まであるわけで、その間にチャンスを与えて実際にプレーを見てみないと、わからないことがいろいろあります。僕が最初に見た限りでは、彼の問題点は体力面のみ。それぐらい凄いセンスと技術をもった選手でした。振り子といっても、ステップからインパクトまで、きっちり理にかなっているので、どんな角度にも打ち分けられる。しかも、足は速いし、肩は強いし、僕に酒もついでくれるし(笑)。おお、いい子だなと。今みたいに無精ひげを生やしたごつい顔じゃない、本当にかわいい子だったんですよね。
山下 メジャーに行ってからのイチローに、技術面での変化は見られますか。
仰木 振り子ではなく、足をスライドさせてテイクバックをとるなど、とにかく向こうのスタイルへの適応能力は凄いものをもっていますね。だから、かっての僕自身、彼を登用することに躊躇はなかったんですよ。ただ、当時のオリックスは、とにかく話題性に欠けるチームだった。プロである以上、選手もいわば商品です。お客さんに球場へ来てもらい、声援してもらって初めて、プロとして成り立つわけです。イチローに関しては、技術的な面では、さほど手をかけることはなかった。むしろ、どうやって売り出すか、そちらのほうに頭を悩ませましたね。
で、僕も一升や二升は飲みますから。昼の仕事で余力を残し、夜働くと(笑)。それは別として、遊び心が好きな類なので、彼のネーミングに関して、いろいろ考えをめぐらせたあげく、カタカナでどうだ、と持ちかけた。すると、最初、彼は嫌だと言ったんですよ。
賞品価値をどう高めるか
山下 嫌がったんですか?それは初めて聞きました。
仰木 後に「チチロー」で有名になりましたが、彼はお父さんに全幅の信頼を置いていて、子どもの頃から手取り足取り教えてもらっていた。そんな父親からもらった名前を変えるなんて嫌だというわけです。「いや、名前を変えるわけじゃない。登録名をカタカナにするだけだ」と諭しても承知しないので、よし、そういうことなら「チチロー」さんを説得しようと思いました。
彼に会って、これからの息子さんの売り出し方に協力してくれとお願いしました。そうすると、僕以上に乗り気になって、そのアイデアは絶対に売れるというわけですよ。ただ、一人だけカタカナでは恥ずかしいな、というんですね。そこで今度は「パンチ」こと佐藤に相談したところ「あいつのためなら一肌脱ぎましょう」と。彼も、やはりイチローの才能を認めていましたから。それでイチロー、パンチと、二人一緒にカタカナで選手登録したわけです。
山下 そういう味のある秘話があったとは、知りませんでした。しかし、考えてみると、鈴木選手に佐藤選手。あまりにも普通の名前ですからね。監督としては、それこそパンチカのある名前にしようと。
仰木 おっしゃる通りですね。イチローが「僕の今があるのは、あのおかげだ」と言ってくれるんですよ。何も手をかけなかった中で、それだけは感謝してもらっています。
山下 監督がそうやって寝る間も惜しんでネーミングを考えたというのは、いわば経営者感覚ですよね、どうやって商品を売り出そうかという。でも、それは本来、球団のフロントが考えるべきではないでしょうか。
仰木 幸いにして、僕が監督やコーチを務めたチームというのは、大体最下位であるとか、どうにも話題がないところだったので、自然とそういう発想をもたざるを得なかったんです。
僕もパ・リーグで50年間やってきて、山あり谷あり、いろんなことを経験してきました。弱いチームをどう強くするか、あるいは話題性のないチームをどう盛り上げるか、選手の商品価値をどう高めるか、とかですね。


野茂は絶対に成功する
山下 イチローの前に、ピッチャーとして育てたメジャー選手が、野茂投手でした。野茂のメジャー行きの時は、どうだったんですか。
仰木 彼とは入団のときにかかわりがあって、今のドラフト制度と違い、8球団競合の指名でした。しかも、前年優勝していたので、引いたのは一番最後のクジ。縁以外のなにものでもなかったわけです。
彼はトルネードと呼ばれる、もの凄いフォームで投げる。人には真似のできない馬力もある。入団1年目でタイトル総ナメという偉業もやったし、当時の子どもたちは皆、あの投球スタイルを真似ようとした。それぐらい、大変な旋風を巻き起こした選手です。
彼が米国行きを決意した時、僕はすでに近鉄をやめて、オリックスで戦っていました。話を開くと、練習やコンディショニングについて、彼は独特の考え方をもっていて、僕はそれを認めていたのですが、次の首脳陣とは正面からぶつかってしまった。野茂は、これ以上はいないというほど個性の強い選手でしたからね。
それから、日本での活躍にも限界を感じていたようです。僕の嫌いな西武の森ちゃんが(笑) 「野茂はフォークが多いから、とにかくボール球を捨てて、160でも170でも球数を投げさせろ。そうやって消耗させて攻略しろ」という戦法に出たわけですね。私も近鉄の監督時代、野茂が十数個の四球を出しても、知らん顔をしていた試合があった。それでも点をやらないところが、彼の凄さだったのですが、やはりじわじわと体に負担がかかっていき、調子も落ち始めた。しかも、首脳陣とは衝突する。それで、もう出て行きたいということになった。
きっかけはそうであったにせよ、彼自身、国際試合の経験も豊富でしたし、何よりもメジャーの野球スタイルは、とにかく積極的で、姑息なことを嫌う。だから僕は、彼のような選手は絶対に成功すると思いました。
山下 野茂の場合、監督に自身の管理法を認めてもらっていたという背景があったわけですが、監督としては、そのようなやり方を簡単に認められるものですかね。特に野茂などは、投げ込みなどしなかったそうですが。
仰木 まあ、彼は自分の発想でしか動きませんでしたから。でも、結果を出せばいいわけです。もっとも、野茂も結果を出すまでちょっと時間がかかりましたし、その間の辛抱は、今思えば大変ではありました。いずれにせよ、プロという選りすぐられた人間が集まってくる中で、いろんなタイプ、レベルがありますから、何も他の選手と同列に指導しなくても、彼なら大丈夫という思いはあった。そういう器だったということです。
今こそ遊び感覚が必要
山下 そうはいっても、彼らの考え方を尊重し、耐えながら使うというのは、なかなかできることではないですよ。借越ながら、そうした放任の寛容こそ、仰木さんの秀でた能力であると感じるわけですが。
仰木 当時は管理一辺倒の時代でしたから、目立ったかもしれないけど、それでも「放任しているように見せておいて、実は…」という、選手からすると、後ろにも目があるように感じられたと思いますよ。
山下 いやいや、西鉄の現役時代など、朝帰りが多くて、とか聞きましたよ。
仰木 まあ、確かに大変な猛者ぞろいではありましたが、あの頃は今のような写真週刊誌もないし、やりたい放題できましたからね。
一度、夜中に7、8人、しかも浴衣姿で後楽園球場に乗り込んだことがありました。引率者は大下さん(笑)。彼の実力、体力には皆ついていけないものがありまして、そんな格好でバッティングピッチャーを始めたわけです。そうして朝帰りして、ユニフォームに着替えると、もう颯爽としたもの。昔の後楽園ですから今より狭いとはいえ、ヒットだのホームランだの、凄いことをやってのけるわけです。
実は僕、その試合で4打席4三振しました。普通、2打席連続三振した時点で交代ですけど、見せしめにそのまま使われたんですね。あたかもゲームは負け試合でしたから、そんな時に三原さんはよく、そういう使い方をしましたよ。
山下 選手に対する愛のムチというのは、今の野球でも必要なことでしょう。
仰木 今の選手の気質は全く違うと思いますが、夜遊びではなくとも、いわゆる遊び感覚というのは、多少なりとも必要ですよ。まして今は選手の個性を大事にしますから、そういう感覚がないと、かえって反発を食らいますね。
山下 仰木さんの監督時代は、門限についてはどうでしたか。
仰木 近鉄ではありませんでしたが、オリックスはやはり神戸という土地柄、スマートなイメージを重んじることもあって、1時の門限がありました。とはいっても、あってなきがごとし。自分にできなかったことは、選手に押し付けられない。ルールをつくっても、自分が守れませんからね(笑)。
山下 けだし名言ですね。
過大な期待をかけないこと
山下 イチロー、野茂といった選手育成の、いわば成功例をうかがってきましたが、逆に、大丈夫と任せておいて、実は失敗に帰してしまうというリスクについては、どうお考えになりますか。
仰木 僕は、もともと過大な期待はしない主義なんです。シーズン前によく「この選手をこのポジションで1年間使う」と宣言する監督がいますよね。でも、監督という立場でそんなことを言い切ってしまうと、本当に1年間固定して使わなければならなくなる。それをやると、うまくいかなかった時に自分も追い詰められてしまう。だから、「これぐらいは使えそうだ」と思ったら、まずその半分のレベルでやらせてみる。うまくいったら、もっと使う。そうすれば、期待過剰に終わることもない。ただ、それでもイチローだけは、1年間使うぞと宣言しましたね。それくらい太鼓判を押せる選手でしたから。
山下 個人的な質問で恐縮ですが、仰木さんからご覧になって、今の巨人の監督はどのように映りますか。
仰木 原監督は、選手時代は超一流と呼ばれるまでには至らなかったけれども、だからこそ、いい監督なんだと思いますよ。
山下 それは、具体的にどのような点で評価されるのですか。
仰木 非常に柔軟性がありますね。巨人はいつもいい選手を獲得していると思われていますが、一方で「レギュラーと控えの格差が大きすぎる」という定評があります。つまり、レギュラーの一人でも故障者が出たりすると、シーズン通して戦えないというわけですね。ところが、原監督になって、選手の成長のタイミングもあったろうけれども、それまで無名だった素晴らしい選手が出てきている。これは今までとずいぶん違うスタイルだと思います。
彼はもともと気配りのいい人柄ですが、それでも彼自身が超一流の選手という看板を背負っていたら、なかなか柔軟な発想はできなかったでしょう。
僕はテレビ解説で「原君は大監督になれる資質をもっている」と言ったことがあります。あまり誉めすぎてもいけないけど、そう思ったのは、今言った背景からだったわけです。
山下 ありがとうございます。近く原監督に会うので伝えておきますよ(笑)。
確かに巨人の戦力は凄いものがありますけど、仰木さんの西鉄時代、日本シリーズで3連敗の後4連勝という伝説を残した。あの時も錚々たるメンバーでしたよね。
仰木 当時のライオンズの戦力は、まさに最強軍団の名にふさわしかったと思います。なにしろ、昔の選手はスタミナが図抜けていた。稲尾なんて、3連投くらい平気でしたからね。
彼が三連覇の中心だったのは確かですが、他の選手も凄かった。思い出すのは、当時、移動に夜行列車で10時間くらいかけていました。もはや貸切状態です。そこで、従業員に大下さんがチップを渡して(笑)、一晩中食堂車で飲み続け、次の日、日本シリーズをやりました。
山下 並大抵な体力ではないですね。あと、野手とピッチャーでいうと、ピッチャーのほうが、いろんな武勇伝をもっている人が多いですよね。
仰木 そうですね。大体、ピッチャーは休みが多くて暇ですからね(笑)。
山下 そういえばピッチャーが仕事をする日は、昔なら3日に一度、今だと5日に一度くらいですよね。
仰木 ただでさえ性格的に扱いにくいのに、暇を持て余すから、すぐ団結しよる(笑)。もっとも、先発ピッチャーはローテーションの間で調整できるから飲んでも構わない。しかし、リリーフピッチャーはそうはいきません。
一度、それとは知らずにリリーフを出したところ、4点差の試合をひっくり返されたことがありました。それ以後、マネージャーや広報から情報を集めるようにしました。コンディション管理はやっぱり大事ですよ。
山下 私も、原監督がリリーフを河原に指名した時、「彼は酒をあまり飲まない」というのが一つの決定要因だったと聞いたことがあります。
仰木 あと、一緒にやる以上、選手にはやはり稼いでほしいという願望がある。とはいえ、一年だけの実績でいきなり次の年棒が何倍にもなったりすると、かえって有頂天になって具合の悪い結果になることが、往々にしてあります。そうやって潰してしまうのが、一番いけないことですね。
文武両道の監督業
山下 つくづく監督という職業のプレッシャー、心労たるや、いかばかりのものかと察するわけですが、仰木さんの場合はいかがでしたか。
仰木 僕は近鉄で19年コーチをやり、20年目で監督になりました。時の佐伯オーナーからすると、事業はうまくいくが、野球だけがうまくいかない。三原さんや西本さんといった名監督をもってしても思うに任せない。そうした中で私に声がかかってご挨拶に行った時、「なんとも頼りなさそうやな」と言われました(笑)。
確かにそうだろうなと思いましたけど、「ずいぶん長いことやってるらしいな。選手のこともようわかってるらしいな」と。「らしいな」ですよ (笑)。それでも「その利点を生かして、まあしっかりやってな」ということでした。
やはり選手にはいろんなタイブがあるし、負けると胃がきりきり痛むし…もっとも僕の場合はアルコールで消毒しますが。
山下 出ました(笑)。
仰木 まあ、他の監督さんほどのプレッシャーは感じていなかったかもしれませんね。
山下 それにしても、これほど長く首脳陣を務めてこられた秘訣とは、何でしょうか。特に近鉄時代には5人の監督の下でやってこられたという、珍しい経歴をおもちですが。
仰木 かって近鉄の監督に西本さんが就任した時、実は三原さんに今後の身の振り方を相談したことがありました。
ところが、彼いわく「球界に長くいようと思うならば、一緒に飯を食いなさい。俺の所に来るのは簡単だろうけれども、西本ともやってみなさい」と。「俺は性格的に『モノを言いたければ俺が死んでからにしろ』というタイプだが、彼は全く違うし、選手を育てるのもうまいから」というんですね。
その時はちょっとショックというか、意外な答えをもらった気がしたし、当時、僕も他の球団から誘いがあって、しかもそちらのほうが給料は上だった(笑)。かなりぐらついていたんですけど、三原さんの勧めもあって実行してみたわけです。すると会うなり「あんた、よう飲むらしいな。それで学才もあるって?」「うちの高校は文武両道ですから」(笑)。
ま、それは冗談話ですけど、その時西本さんから「2年間ファームでコーチをやって、勉強し直してきなさい」と言われた。それが非常によかったんですよ。ですから、近鉄で何人もの監督と一緒にやってこれたのは、やはり三原さんからそういう助言をいただいたのがきっかけで、いろんな人と交わるようになれたことが大きい。
それともう一つ、三塁ベースコーチをやっていたことも挙げられます。バッティングコーチとかだと、チーム打率二割何分といったノルマを課せられる。その点、ベースコーチだと、数字で査定されない(笑)。ただ、ベースコーチはメジャーでも監督予備軍といわれるほど重要で難しいポジションですから、これを無事に務めさせてもらったことが、後の監督生活に大きく影響したのは事実だと思います。
山下 うかがっていると、やはり「頭がよかった」という一言に尽きるのではないでしょうか。まさに文武両道とはこのかたのこと、と感じ入った次第です。今日は長時間にわたってお話をいただき、ありがとうございました。
(文責・本誌編集部)
一見恐そうで、もの凄いオーラのある方、そして少し寂しげ、これが私の仰木先輩の第一印象でした。東筑フォーラムの当日は司会という大役を仰せ付かりましたが、はっきりいって、自分のことで精一杯だったというのが正直なところでした。私の失敗で、この記念すべき第一回目の、まして仰木先輩をお招きしての大事な会を台無しにする訳にはいかないという思いでした。
仰木先輩にお目にかかって思ったことは、年齢を感じさせない精悍な雰囲気のある方、背中に凛としたものが一本通っている方だという事でした。これこそ、志を深くもってそれに向かってまっしぐらに歩いてこられた人の証だと確信しました。残念ながら現役時代を私は覚えていませんが、当時、野武士集団と騒がれた西鉄の一員だったとは思えないほどの洗練された男の姿がそこにありました。
私は、仰木マジックと言われた監督時代しか知りません。イチロー、野茂など、すばらしい選手を育ててこられました。96年にはオリックスを初の日本一に導いてこられました。
のびのびと選手の良い所を、のばしてこられたのではないかと想像できます。間違いなく仰木先輩も、川筋気質をもっていらっしやるお一人でしょう。川筋と言えば、男っぽい、喧嘩っ早い、義理人情に厚い、裏表がなくひたむきという言葉が浮かびますが、思いっきりのいい大らかな選手の育成を見ますと、これらも川筋の一面なのかと改めて感じます。
さて、フォーラムの当日の話に移ります。フォーラムの司会といっても、日テレの山下先輩が進行役を引き受けて下さったので、私は、大枠の司会役に徹することができ助かりました。いろいろなおもしろい工ピソードをもっていらっしゃる仰木先輩から、次から次へと、軽妙に話を引き出して下さったあたりは、さすが山下先輩と思いました。
特に声に艶があるのには驚きました。プロというのは、こういうことをいうのだと勉強になりました。
もう一つの私の仕事に、同窓会での仰木先輩のお世話役がありました。乾杯の後、歓談に入ると仰木先輩は写真撮影にひっぱりだこでした。私のことを仰木先輩のマネージャーと間違えて、「マネージャーさん、次はこちらに」などという方もいらっしゃって面映い思いでした。もちろん、私にとってみれば光栄のいたりでしたが…。
仰木先輩は、お食事などほとんどなさらないで、ご自分から、「次はどこ?」と言う風に気さくに応じて下さっていました。というよりは、今日はこういう状態になるという事を、覚悟なさってこられたのだなと感じました。やはり、有名な方の宿命というんでしょうね。少しの間横にいさせていただいて、とてもお気の毒な気がしました。束の間のマネージャー役ではありましたが、仰木先輩の「宇佐見さん」と呼んで下さった声がとても優しかったのを憶えています。
改めまして、仰木先輩、山下先輩、御多忙にもかかわらず、東筑フォーラム、東筑同窓会においでいただきありがとうございました。また、東筑フォーラムを主催して下さった先輩の方々、同窓会のご指導をして下さった先輩の方々、本当にありがとうございました。
特に、フォーラムの開催は、私達72期の元代表である、今は亡き愛智君のたっての願いでありました。開催日まであとl2週間という時期に愛智君の不幸があり、私たち72期は動転いたしました。
しかし、林君を代表として愛智君の遺志を受け継ぎ、無事開催できましたことをすべての方々に心から感謝申し上げます。
末筆ではありますが、東筑フォーラム、同窓会の益々の繁栄を祈りつつ、今後もできる限りかかわっていければと思っています。
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HOME ふるさと点描
一本松より (代筆:83期 花口和巳)
みんなは元気にしとるね?
最近東京はどうね? なんか六本木やら汐留やらに新しいのができとうちゃん。
こっちにも聞こえてきようばい。
再開発ちゅうたら、こっちでもいろいろありようばい。
今こっちで一番の話題ちゅうたら「リバーウォーク北九州」のオープンやね。
これにはたまがったばい。
ちょっと前まで小倉北区役所やら玉屋やらがあった場所ちわかるかねえ?
小倉の井筒屋の、紫川挟んだ向こう側やけどね、
そこに黄色やら赤やらのぶっといビルが、どどーんち建ったんよ。
中身は、ファッションやら雑貨やらいろんなもんが売りよう専門店街、シネコン、北九州芸術劇場、などなど。
はやりのラーメン屋やら餃子屋やらの集まったところとかもあると。
四月にオープンして1ヶ月で200万人の人出やったし、今でもまだまだ人がぞろぞろ来るとよ。
昼めしはどこも行列やし。「博多のキャナルシティのバッタもん」ち悪口言う人もおるけど、この街にはここまで楽しめる施設はいままでなかったもんな。
魚町あたりの商店街も、客を取られるち嘆くどころか、人通りが増えとるもんやけ、積極的に客を取り込まなっち、元気になっとるごとあるよ。井筒屋も客が増えようらしいしね。
来年には小倉駅前のそごうの跡に伊勢丹が来るし、
この街はこれからやっ、ちゅう気運が盛り上がって来ようけね。
この勢いを持続させていかな。
とはいえ、やっぱり悪い話もあるんよ。
黒崎駅出て右にチンチン電車の駅あったやろ?
あそこの上に、やっぱりどど-んちビルができとるんよ。「コムシティ」ちゃうてね。
やっぱりファッションやら雑貨やら食べ物屋さんやらの複合商業施設。
「こどもの館」ちゅう子供向けの市の施設も入っとう。
でも、いま黒崎は昔ほどの人出はないもんねぇ。
去年できた時から、本当にうまく行くと? ち、みんな言いよったもんな。
案の定半年もしたら、やばいっち噂が出始めて、
こんまえ早くも運営第三セクターが破産してしもうたが、営業もやめるげな。
あげなでかいもん駅前につくっといて、これからどうするんやろか。
区役所入れるっちゅうウルトラC説もまことしやかに流れよるけどな。
箱もの行政っちゅうのは、うまくいかんかった時のダメージがでかいね。
でもね、北九州市は誰が引っ張りよるか、ちゅうたら、間違いなく役所。
うまく行ってないプロジェクトもあるけど、これだけいろんなことやれる役所は全国どこにもないっちゃ。
どっかの市みたいに海に島造って、たっかい金出してケヤキやら庭石やら買うて
一部のもんに金儲けさせようようなところとは、わけが違うばい。
ま、そのどっかの市と北九州市の大きな違いは、行政が引っ張っていかな、どんどん街が沈んでしまうっちゅうこと。
役所も真剣にならざるを得んのよね。
市民もそれがわかっとるけ、行政についていったしね。
東京に行っとるみんなも、帰ってきたら街の変化、人の変化をよう見てな。
良くなったこと、悪くなったこと、いっちょん変わっとらんこと。
そして、ダイナミックな街に住んどる人の人の目から見て、どう映んか、
今度ゆっくり聞かしちゃんない。
そんじゃ、そん時までみんな元気でな。
解 説
一本松について
明治31年、東筑高校〈当時は旧制中学)の誕生時に、すでに東筑の丘にそぴえ立っていた松の大木。
運動場の真ん中で、約3万人の東筑生の巣立ちを見守っていたが、枯れてしまったために昭和35年11月30日、厳粛な鐘魂式のあと、切り倒された。
その18年後、東筑会当番期の45期生で、「記念として、まさに東筑のシンボルであった、あの一本松を掘り起こそう」という企画が持ち上がり、昭和50年2月10日、掘っこが発掘された。古い写真を資料に、同期生の測量士が位置を決め、同期生の建設会社社長がショベルカーを持ち出し、3日間、約30人での発掘作業だった。その後、根はきれいに磨き上げられ、高校に飾られた(現在は同窓会舘に飾られている〉。また、100周年を終えた1999年2月、松の若木が多目的ホール玄関前に植樹され、東筑の丘に成長しつづけている。
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DIRECTION 現役生指導の現場から

写真中央の男性は副担任の桑名先生。今年ご退職となり、1年間楽しく過ごした仲間たち(右隣が筆者)と記念写真を撮った。
35年ぶりの珍事
平成13年度1年生の文理選択の希望調査をしていた私たち1年の学年団は、思わず「あっ」という言葉を発してしまった。何故かというと平成13年度入学者(102期生)は男女の比率が五分であり、ほんのわずか男子が多い程度という学年であるため、今まで続いていた文系4クラス、理系6クラスという編成ができない状態になっていたのである。それでなくとも、すべてのクラスが「混クラ」状態という、前代未聞の102期生であるのに、またもや難題をふっかけられた感じであった。
私が東筑にお世話になり始めた昭和年代の頃、男クラ4・混クラ6という全校集会においては、学生服の黒ばかりが目立ち、その当時の女子の制服であるセーラー服は数える程度だった。が、最近は女子生徒の姿ばかりが目につく全校集会の風景である。
さて、話を本題に戻すとして私達が「あっ」と叫んだのは、文系希望の男子が40数名、女子は80名という数がそこに出ていたからである。これでは、ただでさえ文系を4クラス設けるにはほど遠く、ましてや体育の関係から男子を3クラスに分割することなど、非常に困難であることは一目瞭然であった。
このことから、思いきって女子クラスをつくってみたらどうかという意見がチラホラ聞こえ出し、東筑高校で初の女クラか!…と騒いだが、35年ぶりであることが判明し、ちょっと気落ちしたものである。このように色々な思いが入り混じった中で、平成14年度(102期生) 2年10組女子クラスが誕生したのである。
男子抜きの不安もどこ吹く風
さて始業式当日、生徒の不安そうな目つきをものともせず、クラスを発表し、始業式会場へと行かせた。会場に行った生徒の反応は大変なものであった。出席番号順に並ぶのが習慣になっている中で、女子が最前列にいること自体が不思議であり、他学年からは驚異の日で見られ、また生徒たちも番号順に並んだものの、間違いではないかと辺りを見渡したが、41名の女子が一つの列に納まっている以上、女子クラスが誕生したことは紛れもない事実であった。
生徒たちの心配をよそにスタートをしたが、当初は面談の中で「周りに男子がいないので勝手が違い、なじめない」という生徒が数名いた。しかし、そんな心配はどこ吹く風やら……。
「面談の時にあんなこと言ってた人はだ~れ?」というくらいに、全員しっかりと女クラを満喫していた。1学期のバレーボール祭、文化祭、そしてセミナー研修と行事を重ねるごとに、クラスの結束カは強くなり、また逞しくなっていった。
極めつけはなんといっても体育祭であろう。東筑高校恒例、学年対抗の体育祭であるため、クラス・学年が一つにならないとすばらしい体育祭はつくれないということを、彼女たちはよく理解していた。女クラを中心に二年生の女子は団結し、「綱取り」において見事にその成果を見せつけた。その頃には、もはや10組(女クラ)において「男」という文字は無用のものとなり、3学期になると41名誰もが、このクラスまま3年生になりたいと強く思うようになった。
1年だけの貴重な経験
しかしながら教科選択の関係からそうもいかず、残念ながら102期生2年10組女クラは平成15年3月20日の終業式をもって解散した。
一年間「女クラ」という元気いっぱいの生徒たちを受け持ち、多くの先生がたから羨望の眼差しで見られことはこの上ない幸せであった。41名それぞれの個性を引き出すことができたか、多少不安はあるが、全員「また女クラになりたい」という思いをもってくれたことで、この取り組みは成功したと私自身思っている。102期生2年10組女クラ万歳。
追伸…………
残念ながら女クラを解散した日に長年(19年間)お世話になった東筑高校を去り、福岡高枚へと転勤が決まった。東筑最後の年で女クラを受け持ったことに大変感謝し、生徒たちの夢・希望がぜひとも実現するよう、心から応援したいと思っている。
最後に東筑高枚の益々の発展を祈念いたします。
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特集 わたしのプロジェクトX
―燕よ 高い空から 教えてよ 地上の星を―
中島みゆきのミリオンセラー「地上の星」のメロディにのせて、現代日本を支え、築いてきた人々の苦閲を描いた物語は、確かに多くの人々の心をとらえました。日本では不況になると上杉鷹山が流行る、と、よく言われますが、まさに「今置かれている条件の範囲で事を起こす」といぅ彼の精神は、この番組に登場するヒーローたちに共通の概念かもしれません。
そういえば、米国でもかっての大恐慌時代、S・ルーズベルト大統領の「新規巻きなおし政策」というのが登場しましたが、あれなども、規模は違えど、鷹山の米沢藩たてなおしと全く同じ発想でしょう。
たとえ小さな体の燕でも、ジェット気流に乗って、たった一日で地球の半分を見晴るかすことができます。その上で、自分の居るべき場所を寸分の狂いもなく、見定めることができるわけです。これに費やすエネルギーや、人間に換算するといかばかりでしょうか。
鳥の眼力と集中力といえば、鷹の仲間にミサゴというのがいます。英語で「OSPRAY」といったほうが、有名ブランドの名称でもあり、わかりやすいかもしれません。彼らは鷹の中でも唯一、「生きた魚」しか食べない鳥です。泳ぐこともできず、まして道具も使えないのに、ずいぶん不器用な生き方です。にもかかわらず、彼らは百メートル以上の上空から、わずか30センチばかりの魚に狙いを定め、毎日何度も危険なダイビングを敢行します。そういう生活を愚かとすべきかどうかは、それこそ「プロジェクトⅩ」に登場する人々の生き様にもオーバーラップして、否定どころか、むしろ憧れすら感じさせるものではないでしょうか。
しかし、できそうで、できない、あるいはやってみたくても、手をつけられない。普通はそうでしょう。でなければ「プロフェッショナル」という言葉は存在しないのですから。どちらも「プロ」という接頭語がつく、その共通性は、ずばり「前」です。今回の塙ではいろんな立場からのプロジェクトが登場しますが、読み終えてすべての筆者のかたに「前」という向きを感じられるはずです。
(本誌編集部)
LineUp
大学生活の中のt.u.dancingclub「WISH」/大庭尚子 (95期)
将来にかけての目標/赤峰旭 (94期)
インディーズな女子ボート部 インターハイに出場す/北川美穂 (85期)
社内告発~正義感だけのフロジェクト/匿名希望
ゴミを拾える釣り人/須藤裕司 (80期)
還暦旅行/57期有志
WISH
現在、私にとって生活の大部分を占めているものはサークル活動なので、私の所属するサークルについてお話します。
入学当初、専攻がモダンダンスという事もあり、学校とは別にまたダンスを習いたいと思っていたところ、たまたまWISHを知り、体験練習に行ったのが入部するきっかけです。
WISHは東京大学中心のストリートダンスサークルで部員約200名の巨大サークルです。主な行事は新入生歓迎イベントや東大本郷キャンパスの学祭である五月祭などで踊ったり、12月には大ホールを借りてダンスの公演を行ったりしています。その中で3年生は執行部という立場にあります。駒場キャンパス以外の練習場として民間の体育館を借りたり、スポンサーの企業を探したり、会計の収入、支出、また全体を統括する部長、副部長など、仕事の内容は挙げきれないほどです。今では、これまで大変な仕事をこなしつつ、一、二年生の間ダンスの練習に専念させてくれた先輩方や、現在私の周りで仕事をしている同学年の友人には、感謝尊敬しています。
WISHな生活
4月現在、WISHは5月末に行われる本郷キャンパスでの五月祭に向けて活動しています。4年生がダンスの振りを作り2年生と踊ります。練習頻度は出演する曲数によって違いますが、ほとんどの3年生はほぼ毎日3時間程度、汗だくになりながら楽しく練習しています。また日曜日は午前と、午後平日と同様に練習し、その後3年生ミーティングがあります。五月祭や12月公演が近づいてくるとミーティング後9時くらいまで練習になることもしばしばで、一日中WISHの中で生活をしています。たまに練習がないと休息ができてうれしい半面、何となく寂しいです。
フリーな時間は他の大学生に比べて少なく、あまりバイトをする時間もありませんが、一緒に練習を頑張ったり、ダンスや構成の話やWISHの運営についての話をしながらご飯を食べたり、いいものを作るために本音で話し合う友人関係を持つことができ、充実した生活を送っていると思います。
3年生と私の仕事
三年生になり私達は執行部という立場になったのですが、その中で私は会計の収入と、練習開始する時と終える時のストレッチ係をやっています。会計の収入の仕事は主に2カ月に1回部費を集めることで、現在は2、3年生約120名の名簿をチェックしみんなの支払い状況を把握しています。
また、1年生が約120名入部したので、今後は約240名を把握することになります。サークル全体のお金になるので名簿と実際の額で誤差が出ないようにと、お金の管理にはやはり緊張します。
WISHにおいてストレッチというのは練習始まりで音楽に合わせて10分程度行っています。ストレッチをしないと練習は始まらないので、ストレッチ係は決められた時間に練習が始められるように来なければなりません。1、2年の頃私は日曜日の練習で遅刻することがしばしばで、今年こそはきちんと来ようと思い、あえて自分自身を遅刻のできない立場にしました。まだ遅刻寸前で駅から駒場キャンパス内を全力疾走することもあるので、もう少し余裕を持っていきたいと思っています。
三年生は毎週日曜の練習の後にミーティングをします。新旧交代してから最近までは新入生をどういうふうに入れるかについて話をしてきました。
WISHは毎年入部希望者が多く全員を入部させてあげることが困難です。そのためは主にどのようにして1年生を絞っていくかが議題となります。やはり、こちらとしてはWISHの最大行事である12月公演のことを念頭において話が進みます。ジャンルで人数の偏りが出てしまうとか、経験者よりもやはり意欲のある子の方を入部させてあげたいなど、今まで様々な意見が挙がりました。
その結果、12月公演ではできるだけ質の高いものを作り上げたいけれど、WISHはダンスが好きで楽しむためのサークルなので、経験者を優遇するよりは、出席をとって意欲のある人を入れようという事で決定しました。現在では五月祭の企画やスポンサーの獲得、日頃の練習をよりよくできるよう話し合っています。
12月公演
WISHの最大イベントは毎年大ホールを借りて行う12月公演です。例年2部構成で1部はショーケース、2部はバレエのように全体で話がつながっている物語を自分達で製作し、ストリートダンスで振付けたストーリーを土曜日の夜、日曜日の昼と夜の三回公演で行います。プロの舞台監督、照明、音響、舞台美術の方々やOB、OGの方々にお手伝いして頂きながら、振り付け、演出など自分たちで手掛けています。
これまでは後輩という立場で、先輩について行くだけだったのですが、今年は私たちが1、2年生を引っ張っていく立場となり、今現在私たちの代の12月公演がどうなるか想像もつきませんが、先輩方を超えられるような今までにない公演を創り上げたいと思っています。
今年は12月20、21日に板橋区立文化会館で行うので、興味のある方は是非見に来てください。
就職=どう生きる?
みなさんはじめまして、94期の赤峰旭です! 高枚時代は柔道と相撲に精を出していました。また、3年連続男子クラスという厳しい現実にもめげずに、ガハハと笑い転げて日々楽しく過ごさせていただき、東筑高校での3年間は楽しい思い出でいっぱいです。
そんなボクは現在東京理科大学大学院2年生、就職活動中です。「就職ってなんだぁ~?」と考え、希望三割、不安七割くらいの日々を送っています。なぜ不安が募るのかというと、就職とは、文字通り「職に就く」、すなわち、今後の社会人としての人生のスタートラインにつくということ。となれば、今後の人生をどのように生きるかってことを考えなくてはならず、不安で不安で、百キロ以上もあるこの巨体とともに心まで重々しくなってしまっているのです。
だからといって、いつも以上にたくさん食べて不安解消……なんてことをしても、さらに体が重々しくなるだけで効果なし。そこで、大学に在学している間に、主にカをいれてやってきた二つのことを振り返ってみようと思います。
力をいれてやってきたことその1: エンコミ
数年前から地元である北九州市を中心に、ボランティアとして、知的障害者の方々を対象としたパソコン講習会を開催してきました。また、継続的な取り組みを行うことを目的に2001年、「特定非営利活動法人エンジョイコミュニケーションズ」(以下エンコミ)としてNPO法人化しました。
エンコミの理念は、「知的障害者が自立してコミュニケーションを楽しむことができる社会の実現」です。
現在は学生を中心として、知的障害者や高齢者に、コミュニケーションの環境と機会を提供することを目的としたパソコン講習会、交流会を継続的に行っています。本当はもっともっといろいろなことに取り組みたいのですが、スタッフ、ボランティア、受講生、地域の方々とカをあわせ、できることから楽しくやっています。
この活動を通して深く学んだのは、障害の有無にかかわらず、自分の自立を自覚して楽しめる仲間 (グループ、コミュニティ、社会)がいることが人生の大きな幸福の原動力の一つとなる、ということです
力をいれてやってきたことその2: QCNS
前述の取り組みともう一つ、QCNS(Kyushu Communication Networks)という、関東在住の九州出身者のためのコミュニティの運営をやっています。2002年6月から「九州弁友の会」と称した集まりを毎月続けています。現在11回開催し、メンバーは162名(東筑出身者は約30名)となりました。もともと、94期には「東筑友の会」という同窓ネットがあります。その東京支部を立ち上げようという友人の提案をきっかけに、このQCNSは始まりました。若手社会人を中心に、下は20歳から上は48歳まで、毎月楽しく語らっています。
これまで、「社会や家庭での立場はとりあえず置いといて、一人の九州人として楽しく、気軽に都合のよい時に参加できるコミュニティづくり」をコンセプトとしてきました。近頃は、162名の大所帯となり、すでにコミュニケーションネットワーク、すなわち、コミュニティは構築されてきたなと感じています。
今後は、「関東に新しく地元をつくって楽しもう!」という新しいコンセプトのもと、九州弁の輪をますます広げていきたいと考えています。
この活動を通して、「東筑」「九州」など人的背景を表すキーワードに基づいたコミュニケーションネットワークを所有し、大切にすることもまた人生の大きな幸福の原動力の一つとなることを学びました。
今後の目標
今後、IT革命により、生活の枠組みが変化すると思います。その変化とは、情報の自己管理の必要により生じ、より個が強まることによって起こる変化だと考えます。個が強まることにより、より強く「つながり」というものが必要になるのだと思います。つながりを感じることができる仲間がいてこそ「自立」と「幸福」を感じることができます。そうでなければ、自立でなく、孤立になって寂しくなってしまいますからね。
ですから、先述した二つの取り組みから学んだように、「人のつながり」を大事にできる仕事をしたいと考えています。老若男女、障害の有無、文化背景にかかわらず、より多くの人々が自立と幸福を感じられるコミュニティを有し、より楽しい時間をより多く過ごせるようなサービスを提供することが、今後の人生の目標です。
どうかみなさん、気軽にルンルンとお声をおかけください。よろしくお願いします。失礼しました。
(東京理科大学理工学研究科電気工学専攻関根・兵庫研究室在籍 NPO法人エンジョイコミュニケーションズ理事)
いざ大人とやらになってみると
高校卒業から16年が経ちました。進学で上京し、憧れだったマスコミに就職、結婚もして子供にも恵まれ、今も仕事を続けています。「私のプロジェクトⅩ」というテーマをいただいたものの、平凡に日々をやりすごす私にプロジェクトと呼べる大層なものはありません。母として、また会社員として、目の前の課題をそれなりにこなし、日々起こる小さな喜びやとまどいを繰り返す平和な日々に感謝はしているのですけれど。
どうも、毎日が、つまらない。文字にすると身も蓋もないですね。つまらないというのは語弊があるかもしれません。仕事も家庭もささやかな幸せを感じる機会に恵まれており、生活自体は満ち足りています。でも、高枚生の頃を思うと、無性にワクワクすることは確実に減りました。私は「許せないこと」が多い子供で、実にささいなことでもよく腹を立てていたのですが、その一方で「死ぬほど好きなこと」もたんとあり、快活そのものにはしゃぎまわってもいました。怒りにしろ喜びにしろ、ワケのわからない情熱に突き動かされて生きてきたのですが、最近はなんだかつまらない。馬齢を重ね、自分をある程度客観視できるようになったと引き換えに感情が平坦になったのだな、と思います。
これから先、血沸き肉踊るような感情の高ぶりを迎える可能性は、ゼロではないにしろ、かなり限定された条件下でしか起こらない気さえします。なんだか書きながらがっかりしてきました。激情型ゆえにトラブルも多く、早く落ち着いた大人になりたいもんだなどと思ったものですが、いざ大人とやらになってみると、煩悩を飼いならすことができるようになっただけで、案外つまらないものだなあというのが実感です。
バンドメンバーでオール持つ
この原塙をきっかけに高校時代の思い出がたくさん蘇りました。すぐに思い出すのは1年生の時。夏の九重キャンプ、冬のスキー教室、年度の終わりの春には甲子園へ。それに加え1年生の秋に車にはねられて入院したり、と、これでもかとばかりにイベントだらけの年でした。一転して2年、3年のときは担任の先生はおろか、クラスメイトすらすぐには思い出せません。そのかわりバンド活動とボートに熱中した3年間でした。とりわけ、ボートとの出会いは私のかけがえのない大切な思い出であり、ボート部の仲間と時間を共有できただけで、東筑に行った甲斐があったとすら思えます。
数年後に控えた「とびうめ国体」をにらんで東筑高校漕艇(ボート)部が創部されたのは、私が2年生の時でした。当初は男子ボート部のみでしたが、どさくさまぎれに女子ボート部も誕生させました。物珍しさから瀬板の貯水地での練習を見学にいくうち、好奇心からオールを持ってみたくなり、軽い気持ちで漕ぎ手4人と舵取り1名、合計5名の女子が集まり(といっても当時結成していたバンドのメンバーが構成員でしたが)、半ば押し掛ける形で練習を始めました。
インディーズな女子漕艇部の誕生です。足腰を鍛えるための筋力トレーニングはハードでしたが、水面をすべっていくときに頬をなでる風は本当に心地よく、今思い返しても「これぞ青春」といえる経験でした。
あっと言う間に一年が過ぎ、インディーズだった女子ボート部にも下級生が入部し、それなりに体裁が整いました。そして、ふと気がつくと福岡県代表としてインターハイの桧舞台に立っていたのです。当時の福岡県女子ボート界はおそろしく層が薄かったのですね。たった二校での試合に勝っただけで晴れて福岡県代表になれました。見学と称し池をうろちょろしてた時は、まさか自分が1年後に高校総体選手として登録されるとは想像だにしませんでした。思えば幸運そのもの、楽しさと幸せに満ちた部活動でした。
無理やりでも目標掲げて
我が青春を回想するうち「つまらないなんて言ってる場合じゃないぞ」とひしひしと思います。17歳の青春から間もなく35歳になる現在までは、本当にあっという間だったと感じます(いや、実際はジェットコースターのようにスリリングな出来事が山ほどあったのですけど)。
そういえば私には、やりたいこととやらなきやならないこともたくさんあったのです。南アジアに生息する野生のナマケグマを見てみたいし、ハイジのようにアルプスの山でヤギの乳を直飲みしてみたい。小学校に入学した子供の教育にも興味があるし、最近飼いはじめたフェレットの面倒もみなきや。夫をいかにして笑わせようかとネタを仕込み、次の号の校了日の段取りも考えなくちゃ。マーシャルアーツもやってみたいし、フィギュア職人にもなってみたい。
無理やりでも目標をこさえて「私のプロジェクト」を始動させるのが、つまらない日常から脱却できるコツだと、たったのいま悟った次第です。
〈〈発覚〉〉
「Dさんがポルシェに乗ってるって、知ってますか」
入社2年目のM子が言う。その眼から、この話が重大な告白であることが判った。
「成城のマンションに引っ越したし、このビルの地下駐車場も借りています」
Dは横浜市内の安い賃貸マンションに住んでいたはずだ。「宝くじでも当たったんじゃないか」と言ってみたが、無反応。「何か心当たりは」と開くと、堰を切ったようにしゃべりはじめ、次の事実と疑惑が挙げられたのである。
◆最近ポルシェを購入した。
◆成城のマンションに引っ越した。
◆高級家具店に頻繁に通っている。
◆経費で電気機器を購入し私物化している。
◆協力会社数社からキックバックを受けている可能性がある。
何らかの方法でお金を横領しているに違いない。しかし、証拠がない。本人と話すにせよ、立証できなければ、結局、証拠が隠滅されるだけだ。
◇ ◇
ふとA社のことを思い出す。A社は、Dの友達の会社だが、ここ3年ほど取引はないはずだ。社内のデータベースを検索してみる。A社の社名や住所、電話番号、銀行口座などが表示され、おかしなことに気付いた。住所が銀座なのに、電話番号の局番は渋谷近辺だ。
電話してみたが、案の定、使われていない。登録内容が書き換えられている。
〈〈証拠〉〉
A社を含めて数社の協力会社をリストアップし、経理部のある本社ビルへ向かった。
「引き継いだ仕事なので、これまでの支払額がわからなくて」
「お安いご用です」と、経理部の女子社員は席を立つと、5分後には支払い実績一覧をプリントアウトして戻ってきた。
A社に過去2年で2000万の支払いがある。仕事は発注していない。他の会社も妙に支払額の多い案件がいくつかあった。
◇ ◇
M子にこのことを報告すると、「ほとんど知っていました」と泣きそうな顔で言う。M子は、入社以来ずっとDのアシスタントをしていた。そして、マスコミに告発するとか、証拠を警察に持って行こうとか、いろいろなことを言いはじめる。そして最後に「でも私、殺されるかも。あの人ならやりかねません」と付け加えた。
〈〈告発〉〉
長い時間話し合い、私たちは、とにかく正義を貫くというカタチでこの間題に取り組むことにし、社内告発という手段をとることにした。しかし、次の間題がある。
◆社内告発であることがDにばれれば、唯一事実を知るM子が疑われる。その仕返しを受けるかも知れないという恐怖がM子に一生つきまとうことになる。
◆会社としては信用に傷を付けたくないと思うのが当然だ。会社はもみ消そうとするかも知れない。しかし悪者がのさばることは許されない。
得するものは誰もいない。誰にとっても気持ちのいいものではない。場合によっては、傷つく者も出るかも知れない。そんな社内告発を、ただ正義感のみによって遂行する。正常な職場環境を取り戻すプロジェクトだ。仕事そっちのけで、計画を練った。
◇ ◇
私は副社長室を訪れ、すべてを伝えた。そして、社内告発であることが判らないようにするための作戦を提案。
さらに、この不祥事を隠せば某食品メーカーの二の舞いであり、隠さないことがむしろ信用を高めることにつながると力説した。
「しばらく時間をくれ」という返事。副社長からは前向きな姿勢が感じられたが、その後なかなか連絡がなく、数週間の間、私たちはイライラし続けた。
〈〈追放〉〉
もはやじっとしていられない私は、新たな証拠を見つけ出したりして、副社長にプレッシャーをかける。そしてついに会社との駆け引きに出た。
「犯罪を隠すことも、犯罪です。ならば、私はいま、まさに犯罪者です。犯罪者でなくなるために、すべてをしかるべきところへ話さなければならない。そろそろ会社としてどのような行動にでるかお話しいただきたい」
◇ ◇
副社長は、B役員を呼び、たくさんの書類を見せてくれた。
「いくつかの疑惑に関する証拠が揃った。これでDも、言い逃れはできないだろう。今週中にDと面談する。懲戒解雇だ。彼には約3500万円の返還を求め、それができなければ警察にお願いすることになる。このことはクライアントに報告し、横領金は返済する。また、1000万円以上の支払いがある案件には、一斉に監査を入れた(これは私の提案した作戦だ)。その結果、彼の担当業務で辻褄の合わない支払いが発覚した。それに基づいて調査を行ってきた。だから、今回の件は、社内告発ではない。」
そして、私は友人をひとり失ったが、M子は入社以来初めて、まともな仕事を担当できるようになった。
◇ ◇
ペン1本を自宅に持ち帰っても、それは横領であり、Dのやったことと境目がない。実際、彼も取るに足らないことからだんだんとエスカレートしていったのだった。私たちは常に、自分が犯罪者になる危険にさらされているとも言える。魔が差すか、差さないか、小さな違いである。誰もが、心に隙をもたぬよう気をつけなければならない。
(人物や社名、業種などが想像できる内容は削除いたしました)

バス釣りを続けたいから
私の今取り組んでいるプロジェクトⅩとは『野池クリーンプロジェクト』です。
ご承知の通り、昨今ブラックバスの害魚論が盛んに取り沙汰されています。バスは、フィッシュイーターのため、日本古来の種を絶滅させてしまうというもので、相当な悪者にされています。
私は、休日にはよく近所の野池にバス釣りに行きます。年間通して、実際に野池に行って観察していると、バスのえさとなっているタナゴ、オイカワの数は減少していない。どころか、増えているように感じます。それに対してバスの数は確実に激減しました。
これは、バスを守るために言っているのではなく、正直な実感として、です。
バスが野池に入った最初の1、2年は増加するのですが、以降は、自然界のバランスが働き、減少するのです。種の自己保存のため、当然なことです。
私の行く池では、子どもから大人まで、バス釣りを楽しんでいます。釣れなくても楽しそうですし、1日1匹釣れれば、皆大満足です。
私は将来にわたって、バスフィッシングを続けていきたいと思っています。だからゴミが放置され、池が汚されていくのは辛い。
ゴミを捨てる人がいなくなれば解決なのですが、そんなことは無理でしょう。期待できません。見つけた人が拾うしかないのです。
大きく構えずコツコツと
しかし、普通の場合、釣りを始めるとそんな余裕はなくなります。釣ることで頭が一杯になるからです。『釣りに行って他人が捨てたゴミを拾う』ことは、簡単なようで、かなり大変なことなのです。実際やっている人なら、わかるでしょう。
ですから、『野池クリーンプロジェクト』です。
釣りをする前にゴミを拾うことは難しい。とにかくまず一投したいから(これも釣りをやっている人ならわかってくれるはず)。
帰りにゴミを拾うのも難しい。釣れればまだよいのですが、ボウズの時は、悔しくて余裕がありません(少なくとも私には)。
ゆえに私は以下の通りに行動します。
①出かける前にコンビニ袋を一袋持って出発。
②堂々と釣りを開始。
⑨釣れなくて、さてどうしようかと考える時が必ず来る。この時がチャンス。
④気分転換と池全体の魚の居場所を観察するために、袋を持ってゴミを拾いながら池を一周する。そのときロッド(竿)は決して持ち歩かないことがキモ。その場に置いていく(観察しながらバスを見つけると、ついついルアーを投げて釣りに没頭してしまうため)。
◇ ◇
こうすれば、ゴミを拾えます。実行できます。不思議に新しい釣りのアイデアも思い浮かび、一石二鳥です。きれいな池は見ているだけでも気分が良くなります。
環境問題は、大きく構えず、身近なところで、できるところからコツコツと。
最後に、東筑会のバスフィッシングをしている皆さん、ともに楽しんでいきましょう。そしてこの楽しい釣りを次の世代に残していこうではありませんか。

一昨年の沖縄旅行は、東京から私と山下さんが参加したにもかかわらず、男性1名、女性7名の僅か人名でしたが、何処に行くにも纏まりが良く、九州で生まれ育った私たちは、キレイな海と自負していたのに、凄く澄んだ海の青さ、砂の白さ(中には星の砂もあり)は、口に言い表せない素敵な景色でした。行った事の無い人は是非一度行って見て下さい。
4月に行った箱根も少人数でしたが、天気も良く大変有意義な楽しい旅行でした。
竹之内(旧姓・原田)富佐子
実家はまだ水巻にあるのに、両親が亡くなるとなかなか足が遠ざかり、九州の夏・冬の五七期会に出席したいと思いながら実現出来ずにいますが、東京では欠かさず出席しています。
今の私は「詩吟」にのめり込み、去年は中国の「三峡下り」「白帝城」「黄鶴楼」「桂林」で吟じて来ました。沖縄の還暦旅行は参加出来ませんでしたが、50歳の関西旅行が懐かしく思い出されます。30数年ぶりに会った同級生と涙を流しながら昔話に花が咲いたのが昨日の様です。年を重ねて来ると昔の友人に無性に会いたくなるものです。65歳、70歳と記念旅行が出来ればいいなあと願っています。
修学旅行の箱根で流感に罹りダウンした組ですので、東京組で行きはしましたが、修学旅行のやり直しで箱根あたりはいかがでしょうか?
土師(旧姓・藤田)孝子

千葉に住んで早25年余りが経ち、その間、子供達は自立、夫と二人で、孫の守り、庭弄り、近所の方々との語らいや、遊びなど、のんびりと穏やかな日々を送っております。
一昨年11月末、還暦旅行のお誘いに大喜びで羽田から福岡へ、そして40年ぶりにお会いした同級生の方々と、2泊3日の石垣島、竹富島、西表島、由布島巡りを大いに楽しみました。 さらに昨年11月、東京東筑会の席で”その話”に及び、東京でも「やりましょう」という事になり、一泊二日の箱根路へ。先ずは小田原城へ足を運び、登山電車、ケーブルカー、ロープウェイと乗り換えの度に、桜は満開、富士山は雲ひとつない空に素晴らしい白雪を見せてくれ、温泉の後の宴では、夜明けまでのお喋り、修学旅行再来の感。
翌日は芦ノ湖遊覧、関所跡見学と続き、富士山に見送られながら帰路につきました。いずれの旅にも思った事は”健やかに、自分らしく過ごす”という大きな糧となりました。
山下(旧姓・安武)かをる
五十歳記念旅行は日本全国から50名近くが関が原に集まり、近江長浜に一泊、翌日は京都観光と短いながらも楽しい思いを、今度は還暦旅行でと再会を誓って別れたのに、急な案内の為、行くことが出来ず、少人数で実施されたとか…残念でした。
ということで、東京組で箱根旅行となり、それなりの楽しい思い出が出来ましたが、今度は日本全国からの多勢で行けたらと思います。全国の同期の皆さん、案内が届いたら声を掛け合って皆で参加しましょう。今度はハワイあたりが良いかしら…。
高萩(旧姓・沼)ふさゑ
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FACE2 第2回東筑フォーラム「元気もりもり健康教室」抄録
自分のからだのことどれくらいわかっていますか?
/香山不二雄 (自治医科大学保健科学講座主任教授 70期)

環境ホルモンとからだの関係
私は現在、環境ホルモンの研究に取り組んでいます。これについてはメディアなどで危機感をあおるような話ばかり先行していますが、実際はわかっていないことが多く、研究を続けねばならない課題です。
例えば、大豆に含まれているイソフラボンなどは、弱いながらも女性ホルモン作用があります。しかし、これも長年われわれが食べてきたものであるから、その点も踏まえて健康への影響を評価しなければなりません。
しかも、欧米に比べて日本人に前立腺がんや乳がんが少ないのは、日本人が女性ホルモン作用のある大豆食品をたくさん食べているためではないか、といわれています。
こうした現象と環境ホルモンとの関係はどうなのか、また、さんざん悪いといわれているダイオキシンをはじめ、化学物質との相互作用はどうか、ということを主体に研究しています。ダイオキシンやPCBは、魚などを通して体内に蓄積されます。これは、母親に直接の影響は出ませんが、胎児、あるいは乳児の発育過程に移行することが、一番問題ではないかといわれています。
さらに、戦後の日本人男性は、身体は大型化していますが、精巣は小さくなっているという調査結果があります。デンマークの研究者からは、精子が半減しているのではないかという報告もあり、心配な現象であるといえます。ただ、ダイオキシン曝露については、徐々に減る傾向にあることがわかってきています。これは発生源対策、つまり廃棄物処理、リサイクルの動きが盛んになってきているからです。
生活習慣病とはなにか
さて、このフォーラムでは、生活習慣病への対応という観点から、健康に役立つ話をしたいと思います。30代以上の方々になると、生活習慣病については、一つや二つ、黄信号があるのではないでしょうか。私もこの歳で初めて人間ドックを受けましたが、そこで尿酸値が高いと出ました。肥満、高中性脂肪血症、高尿酸血症、高血圧、糖尿病、がんなど、これらすべてが生活習慣病といわれています。
中には遺伝的要素もありますが、その発症の度合は、食習慣や運動でずいぶんと変わってくるものです。そもそも壮年層になると、仕事も多忙を極めているし、特に都市部で働く人は遠距離通勤があたりまえです。となると、運動不足、というよりも運動する時間すらない。だから、肥満になりやすい。
また、いたずらにアルコールもとると、代謝の過程で発生する脂肪が余計に溜まっていき、脂肪肝から肝機能障害へとつながっていく。さらに、脂肪が血液中に増えていくと、高中性脂肪血症から動脆硬化、高血圧といった症状を引き起こすことになります。
例えば高尿酸血症の場合、酒の好きな人は、たんばく質の多い食品をとりがちです。たんばく質は核酸、つまりDNAのかたまりです。DNAを分解していくとプリン体という物質になり、これが尿酸に変わっていく。いわば細胞核の密度の高い食品が、高尿酸の原因になるわけです。その最たるものが白子。おいしいし、私も好きなのですが、これは精子のかたまりで、その一つひとつに遺伝情報の詰め込まれた核があります。これを一口で大量にとってしまうことになるわけです。
意外なのが、たまご、鶏卵です。これはコレステロールが高くて健康によくない、などといわれることがあります。ですが、鶏卵はどんなに大きくてもDNAは1ペアだけ。つまり、きわめて尿酸が少ない食品ということになります。この点は、認識していただきたいですね。

糖尿病の基礎知識
糖尿病は、遺伝的要因をもっている人に、環境の因子が重なることによって起きる病気です。したがって、おじいさん、おばあさんの代までの範囲に発病者が全くいなければ、糖尿病にかかる率は少ないわけですが、一人でもいると、可能性があります。
一方、環境因子としては、食べ過ぎ、肥満、運動不足、ストレスなどが挙げられます。もつとも、日本人の食生活は元来、とても健康的なものでした。食物繊維を多くとり、野菜もたくさん食べ、脂肪も低い。ただ、胃がんが多かったのは事実で、これは塩分の摂取量が影響しているようです。ただ昨今、大腸がんが増えているのは、やはり食生活の欧米化で食物繊維が不足しがちになってきたためといえます。
さて、糖尿病の症状ですが、体内にインシユュリンの分泌が足りなくなると、血糖が上がります。そのためにブドウ糖が血液中に増え、その毒性によって、さらにインシュリンが効きにくくなる。これが神経系統に悪影響を及ぼし、視力障害や末梢の壊痕を起こわけです。
糖尿病になると、自己管理がとても大事です。人間ドックなどで自身のデータを定期的にとり、把握していく。
さらには糖尿病手帳をもって、血糖がどのように変わっていくか、見ていく。治療について、医者、ヘルストレーナーや栄養士から勉強していく。そうした自発的な対応が最も必要とされるのです。
デキる運動とストレス解消
こうなる以前に、糖尿病の予院をとうすべきか考えましょう。まずは、よく運動することが大事です。最大心拍数の80%くらいを目指しましょう。60代だと120、70代だと110くらいが目安。時間的には30分くらい。これによって、心肺機能を高め、筋肉血管をしなやかにする、脂肪を燃やす、といった効用があります。
では、どんな運動がいいか。まずストレッチを5分間、有酸素運動を15分、その後に筋力トレーニング5分間、最後にストレッチ5分間、というメニューが理想です。関節や筋肉を柔らかくするために、ストレッチを必ずやる。有酸素運動とは、いわば軽い運動で、ジョギング、エアロビクス、水泳など、一人でできる軽いメニューが望ましいですね。最近では、高齢者向けエアロビクスのビデオも売っていますから、試してみるといいでしょう。
通勤時にバスに乗る区間を歩いたり、階段を歩いてのぼったりするのも有効です。
また、筋力トレーニングの利点は、インシュリンをあまり使わずにカロリーを燃焼できることです。筋肉を動かすことで、血流量を上げ、基礎代謝がよくなる。これらが、食事療法だけでは到達できない、重要なポイントです。
ここまでは医学的な指摘ですが、実は生活習慣病を予防する上で、もっと大事なのは、ストレスの解消です。ストレスが覆い被さるからこそ、酒が増えたり、運動不足になったりもするのです。これを改善するには、家族と一緒に楽しく運動するのも一つですが、カラオケに行ったりするのもいいでしょう。アルコールも少量ならいいのですが、ついつい飲みすぎてしまう。これはよくないので、ある程度のところで、カラオケにでも行って発散したほうがいいですね。
それから、ショッピングがストレス解消法という人もいます。これも歩き回るという運動が加われば、なおいいのですが、財布の中が心配になると、いかがなものか(笑)。いずれにしても、健康によさそうなストレス解消の選択肢を多くもっておくことが大事です。

医者と患者は対等の関係
最後に、医者の立場としての話をしますが、こうした生活習慣病にかかる患者に対して「あなたのライフスタイルが悪い」などと決めつけるのは、よくない医者ですね。きちんと相談者として対応し、お互い同じ肉体をもつ人間という視点から助言することが大事です。
もちろん、患者側としても、自分の病気に対する認識をいかに深めるかが大切です。ストレスにどう対処し、解消していくか。いうまでもなく、タバコが増えるとか、酒を飲みすぎるというのは悪い解消法で、自分の人生観の中で、健康な生活をどう組み立てていくかを考えなければなりません。そのための情報をわれわれは提供しないといけないわけです。生活習慣病は医者からもらう薬だけで治るものではないのですから、医者と患者の対等な信頼関係を築き、一緒になって取り組むことが大事だと思います。
ところが、健康診断の現場に行くと、まず医者と患者で座るイスが違う。患者は下着姿にさせされる。これは大きな間違いです。
ちゃんと対面で話しながら、相談に乗るという姿勢。予防医学の実践とは、そういうものでないといけないと考えています。
(平成15年4月8日、東京国際フォーラム会議室にて。文責・本誌編集部)
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AIRMAIL 海外体験
ヒマラヤの玄関は紺碧の空
2002年10月24日~11月3日の11日間、明治大学山岳部80周年記念イベントの表記ツアーに、在京東筑58期生の還暦を期して5名が参加した。
明大山岳部OBの末松誠君が、大自然に触れて世俗の垢を洗い落とし、豊かな人間性を取り戻そうと、同級生に声をかけてくれたのである。清水健一、樋口洋子(旧姓・木村)、小川三穂子(旧姓・伊勢本)、かつ小生と、末松君を除く4名は登山もトレッキングも未経験であった。
出発当日、各人各様に新品のウェアと用具に身を包み、明大開係者たちとともに総勢20名で、成田空港よりカトマンズヘと飛び立った。まさに40年ぶりの修学旅行を再現する出発である。
約12時間のフライトで夜10時、カトマンズ空港到着。ホテルで浅い眠りをとり、早朝6時に出発。定員10名の小型プロペラ機で約40分、雪をかぶった山々を越え、まるで山の中腹に激突するかのように着陸したのが、ルクラ空港。滑走路が極端に短く、傾斜がついている。
天気は快晴、まさに透き通るような青空にコンデリ山の雄姿がそびえていた。ルクラはヒマラヤの玄関口の一つで標高2,804メートルに位置し、仏教信仰に篤いシェルパ族の小さな村である。空港には20名のシェルパ族のポーターたちと15頭のゾッキョ(ヤクと牛の中間のような家畜)が我々を迎えてくれた。テント、食料、炊事道具一式、それに我々の荷物をゾッキョに積み、いよいよトレッキングのスタートである。
ひたすら登り続ける
幅2メートルほどの登山道には岩と石とゾッキョの糞ばかり、ひたすら足元を見ながら一列でゆっくりと登り続けた。途中、至る所に石楠花が群生していたが、日本とは比べ物にならないほどの大木で、開花の時はさぞかしトレッカーを和ませてくれるのであろう。
約4時間の登りも、まだ余力を残し、キャンプ地バグディンに到着。同行のポーターたちがテントを張り、キッチンボーイの手料理は日本風にアレンジしてくれるなど、心のこもったもてなしである。山の日暮れは早く、早々にテントのシュラフに潜り込む。
昼間は20度を超える暑さも、日が落ちると急激に気温が下がり、零度近くになる。明かり一つない真っ暗闇の中で、だんだん明るさを増してくる満天の空は、日本では味わうことのできない感動を我々に与えてくれた。女性陣も、仮テントの中に穴を掘っただけのトイレに戸惑ったのは最初だけ、その逞しさを発揮してすぐに順応したようだ。
翌朝6時、ポーターたちが素朴な笑顔とともに、沸かしたてのモーニングティーを各テントに配って回る。続いて洗面器に半分くらいのお湯が配られ、顔を洗い体を清める。その昔、イギリスの登山家たちが残した慣習が今も受け継がれ、キャンプの期間中、毎日続いた。
高山病と闘いつつ
2日目は、3,440メートルのナムチェバザールヘと向かう難関である。
やはり幅2メートルほどの一本道しかなく、いろいろな民族の行商人や、世界各国のトレッキング族の往来で予想以上の賑わいであった。現在も自動車や馬もない山道の荷物の運搬は、人かゾッキョに頼るしかなく、シェルパ族をはじめ親代々の行商人たちは山を自由に動き回る。色浅黒く、細身の体で長髪を後ろで束ね、2メートル以上の荷物を背に、カモシカのような足で岩場を軽々と早足に通り過ぎて行く。足元は裸足ゴム草履、時々スニーカー程度の靴もある。しかし、その健脚ぶりは、驚きの連続であった。
ナムチェバザールまで残り1キロとなり、順調に登ってきた体に異変がきた。足が異常に重くなり、心臓はドキドキと動悸が激しく、吐き気までしてくる。息はゼーゼー、足は鉛をつけたようで、一歩一歩が進まない。思考力が極端に鈍くなった。
「高山病」の始まりである。体力には誰よりも自信があっただけに、酸欠からきたこの症状には自分自身が驚いた。
5、6名がほとんど同時に、同様な状態になってしまい、酸力系ボンベを片手に、まさに這うような思いで、一行より大幅に遅れてようやくロッジにたどり着き、へたり込んだ。夕食も全くのどを通らず、情けない状態だった。
ナムチェバザールは、三方を山に囲まれてコの字型をしており、クーンブ地方では一番大きなシェルパ族の村である。毎週土曜日にはハートと呼ばれる定期市が開かれ、近隣の村から山を越えて大勢の人々が集まる。どこから手に入れたのか、わからないような衣類や履物に混じって、お土産ものまであり、まさに挨と砂の中のフリーマーケットの原点である。
世界最高峰を目に焼きつけ
3日目、この日も快晴。ロッジの真正面に費え立つコンデリ山が紫からピンクヘ、また赤へと染まっていく朝焼けの様子を、凍えるような冷気の中で眺めながら、思わずシャッターを切った。またまた感動のシーンである。
この日は高度順応を兼ねた調整日、体調も少し落ち着いた。ホテルエベレストビューの建つシャンボチェの丘まで3時間の行程は、エベレストをこの日で見る期待で元気いっぱいだった。その名の通り日本の企業が経営するホテルは、絶好のビューポイントである。エベレスト(8,850メートル)、ローチェ(8,516メートル)、アマダプラム(6,856メートル)をはじめ、クーンプ山群の山々が雪をかぶって、雲一つない紺碧の空いっぱいに大きく聾え立っている。
”美しかった”
”雄大だった”
”満足だった”
今でもその光景は脳裏にはっきりと焼きついている。まさに人生初めての感動!
ナムチェバザールの帰途、33年前に植村直巳氏が越冬したクムジュン村を訪ね、改めて時の重みを感じた。

最後のもてなし
4日目、最終目的地タンボチェへの移動日。われら体調不良者6名は大事をとってそのまま残り、女性陣を含む一行はエベレストの麓、タンボチェ(3,860メートル)へとスタートした。日頃の思い通り、ここでも女性の逞しさをまざまざと見せつけられた。
「ラマ教の大本山タンボチェ僧院には、『この深山によくこうも立派な僧院を建てたものだ』と感心した。零下4度の朝は全て凍っており、エベレストは雲の上に見えた」(彼女たちの話)
5日目、タンボチェ組とナムチェで合流したが、酸欠による食欲不振者が続々と現われ、モンジェまでの下りはかなりきつかった。
6日目、ひたすら往路を下ったが、改めてその険しさを確認しっつ、よくぞ頑張ったとお互いを称え合う帰路となった。スタート地点ルクラ到着。
夜は6日間ともに歩いてくれたシェルパの人たちとのお別れパーティ。まじめな彼らが初めて見せてくれた、足を踏み鳴らして歌い踊る「シェルパダンス」で始まった。
キッチンボーイたちの最後の素晴らしいご馳走、プレゼント交換や記念撮影と、大いに盛り上がったが、彼らはあくまでも謙虚で、はにかみ屋で、生真面目であった。
夢よもう一度
翌朝、シェルパのみんなと別れを惜しみながら、ルクラ空港から小さなプロペラ機に乗り、再びカトマンズ空港へ。8日ぶりのホテルは日本に比べるとはるかにお粗末だが、水のようなシャワーも、濁った水の水洗トイレも、とても贅沢で、申し訳ない気持ちになったのは私一人ではなかった。
翌日は自由行動日。もう一度エベレストを見たいと、小さな小さなプロペラ磯で、上空より世界の最高峰をこの日で確認した。碧と白の、氷山かと思わせるような山々、感動で言葉もなかった。
人と挨と車の洪水・カトマンズのまちが我々をいやでも現実に引き戻し、昨日までの神聖な山の生活は夢であったかと思わせた。
日本に帰り、再び忙しい生活に戻ったが、現地で求めた名も知れない画家の描いたエベレストの油絵や写真を見るたびに、胸に感動がよみがえる。そして、現役を引退したら、いつか再び訪れたいと、妻と話している。高山病に気をつけながら……。
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特別寄稿
前・東京東筑会72期代表幹事 愛智香一君を偲ぶ

平成13年度懇親会での当番期引継ぎ挨拶にて
学生時から創立に参加してくれた
東京東筑会懇親会も今年で25回目を迎えますが、昨年の懇親会は一入思い出深いものになりました。72期の代表幹事で、第1回の懇親会の創立メンバーでもあった愛智香一君の事です。2年間にも及ぶ準備期間中、充分なリーダーシップを発揮して同期を纏め上げ、初めてのフォーラムの実現までも完璧に準備しながら、あと2週間余りを残しての急死でした。
さすが現役時の生徒会長で応援部長だったとか……、思えば25年前の第1回東京東筑会懇親会に於いて、現役の早大生ながら応援部の縦のラインにあって、72期の幹事として頑張ってくれたのが昨日の様に思い出されます。当時に比べれば髪が白くなった事を除くと、そのユッタリズムや、ユーモア溢れる喋りかたは変わらないものでした。
亡くなった歳が48歳でしたが、48歳といえば「48歳の抵抗」という昔の映画を思い出します。まさに人生のターニングポイントで、会社や家庭や社会において、精神的、肉体的、経済的にも苦労が多いときです。病気だったのか事故だったのか死因は不明ですが、あの人懐っこい笑顔が忘れられません。その死を乗り越えて懇親会、フォーラムを成功させた72期の人達も、愛智君の弔い合戦よろしく生涯忘れられない懇親会になった事でしょう。
合掌。
東京東筑会幹事長・57期 川上祥登
僕らの永遠の生徒会長
3年前の夏、自宅に愛智君から突然電話がありました。愛智という名前ですぐに彼の人懐っこい顔を思い出し、電話に出ると、九州のイントネーションで―
「東筑の同級生の愛智ですが、覚えていますか?東京東筑会で平成14年に当番期となるので、11月に開催される懇親会に出席してもらえませんか?」
この時から、在京の同期との付き合いが始まりました。多分、同期はみんな同じと思います。親睦会やメールを通して、世話好きで、お人好しで、親しみやすい愛智君からの依頼を誰も断れず、何か協力しょうという気持ちが自然と起き、同期の親睦会を企画する毎に参加者も増加し、彼を中心とした在京の同期の輪が形成されました。
現在、80名強の在京のメンバーに加え、九州のメンバーとも交流が盛んとなり、当番期を経験したことにより、旧友との再会や、同期や諸先輩や後輩との新しい出会いの機会が生まれました。
同期の各自が楽しんで当番期の役目を果たそうとの愛智君の提唱により、役割を決め、数多くの打ち合わせを重ね、あとは実行という状況の中で、深夜彼の突然の訃報に接し、代表幹事を急遽引き受けることとなりました。
今回の懇親会は参加者の皆さんに喜んでいただいたのではないかと自負しております。一番参加したかったのは、また、一番喜びたかったのは、愛智君だったはずです。
ほんとうに残念です。
この成功は同期の輪を一から築いた愛智君のお蔭であり、その輪を今後とも大切にしていくことが、私たちの務めと考えます。
72期の永遠の生徒会長・愛智君、ほんとうにありがとう。
東京東筑会72期代表幹事 林 幸彦
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MASSAGE 事務局からのお知らせ
平成14年度会務報告 平成14年度会計報告 (略)
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BBS 東京東筑会ホームページ

2001年初頭に開設した東京東筑会ホームページも3年目に入り、アクセスカウント3万回を超えて、ようやく同窓会サイトとして一般に認知されてきたように考えられます。
この間、各期独自の同期会HPも増えてきてURLリンクをしていますが、その連絡の際の管理人同士のメール交流が、また楽しいものであります。先にメール交換して存じ上げた方と後日東筑会で実際にお会いすることが、IT時代の出会いの特性でしょうか。
先日も関西東筑会や本部東筑会では、63期の鈴木さんや75期の中山さんに初めてお会いしましたが、旧知の友人の“再会”でした。
この東京東筑会報と東筑フォーラム、公式ホームページの三活動は、相互に連携して東京東筑会の充実と拡張性を示すものであると自負しております。これからも先鋒を行くものとして、次々に新しいことにチャレンジしてゆきたいと思います。
東京東筑会ホームページ委員会WEB管理人 佐野和範 (71期)
小学三年になる息子が、いよいよ野球に目覚めまして……。昨年の懇親会で書いていただいた仰木さんのサインボールを大切に(?)投げまくっています。これがまた球技オンチの親父に似ず、コントロール抜群の直球をビシバシ投げるわけです。ただ、キャッチボールしていて、明らかに親父のほうがへたくそなのも、いかがなものかと……。周りからもクラブ入りを薦められているようなのですが、きっとそんなふうにして一つずつ「親父より上になれるもの」を見つけ出していくんだろうな、僕もそういう気持ちの強い子だったから。だからこそ、子どもにとって親父は「永遠のスーパーマン」で居続けなければならない。それがわたしのプロジェクトX!などというのは、カッコつけすぎでしょうか。(&)
今年「古希」を迎えた父のお祝いを皆で祝うということになり、私を含め姉たちは、どこかお店を借りて飲んだり食べたりのんぴりやろうと思っていました。ところが65歳になる母は「自分が仕切ってもてなす」とはりきっている。母はここ数年間、中間市にある友人の創作料理のお店を手伝っていて、忙しくもやりがいのある仕事をさせていただいているのです。
背中が過労で圧縮骨折し、治療中の体であるにもかかわらず「お父さんと、4人の子ども、10人の孫たちに、自分の仕事をみてもらいたいし、料理長さながら心からもてなしたい」という意志は固く、圧倒されるほどでした。この企画が無事に成功するよう、あの母の熱い背中をサポートしなければと私も静かに燃えてきたところです。(咲)

第21号
(2003年 平成15年7月)
