FACE 巻頭インタビュー

ちょっと腰を上げてみる / 井上進一郎 (文藝春秋 ナン八-局長 69期)


井上進一郎

 

 

いのうえ しんいちろう

早稲田大学政治経済学部卒業後、(株)文藝春秋入社。
「SportsGraphicNumber」編集長などを経て現職。

 

 

 

 

 

 

「週刊ナンバー」ウラ話

ー日韓両国で開かれた今年のサッカーW杯は、日本の16強入りもあって大いに盛り上がりました。そうした中でスポーツグラフィック誌「ナンバー」の期間限定週刊化という、画期的な取り組みを実現されたわけですが、今から振り返っていかがでしたか。

井上 週刊ナンバーは、日本戦が終わった3日後に発売することを前提にしました。相当厳しい条件を自らに課したもので、書店取次は期日の朝8時までに納品しないと、次から扱ってくれないから、最初に事故を起こすと、すべてがパアになる。だから、とにかく時間との戦いで、写真や原稿の電送から編集に至るまで、いかにスムーズに進めるかという態勢づくりには、苦労もしたし、最後まで心配でしたね。

それと、どのくらいの部数を刷るか決定するのも難しかった。スケジュール上、日本戦の結果を見る前に部数を決めなければならず、希望的観測もこめて40万部を基調にしましたが、85%は売れたので、営業的には大成功でした。

ー週刊発売の構想は、いつ頃から具体化したのですか?

井上 日本でのW杯開催は、ナンバーにとっても大きなビジネスチャンスなので、これに向けて何をやるか、当時編集長だった4年前の大会のときから考えていました。世間の関心は、やはり日本代表の戦い振りにあるのだから、それをなるべく早く伝えたい。ところが、ナンバーは隔週刊なので、試合日を基準には出せない。それで、期間中限定で週刊にしょうかと話をしていたわけですが、今度は取次コードの関係で、流通上、週刊扱いしてもらえないという問題が出ました。そこで、週刊文春のコードを借りて、その臨時増刊ということにし、取次と交渉して、ようやく実現にこぎつけました。

ー人材を確保するのも、相当骨を折られたのでは。

井上 どの出版社もW杯で商売したいわけですが、特集を担えるようなライターやカメラマンは、数が限られてくる。特にナンバーは外部に負う部分が大きいので、普段からの付き合いの中でナンバーを優先してもらえるよう、昨年4月からWに向けてのムック本「ナンバー・プラス」を発行して、早くから人材を確保しました。ただ、たくさんの類似本が出る中で、いかにナンバーの色を出すか、という点は、出てみないとわからない面もある。けれども、可能な限りの手を尽くしたので、まあなんとかなるだろうとは思っていました。

ー一方で社内でのモチベーションの持続も大変だったのでは。

井上 週刊化については「ナンバー」編集部、「プラス」編集部、企画部の垣根をなくして、全局プロジェクトとして取り組みました。「W杯やるから、人をくれ、スペースをくれ」と言い続けた手前、こけるわけにいかない。日本戦のある日は、朝から祈るような気持ちでしたね。

それから、営業・広告ともよく連携して、電飾や交通広告などのPRもかなり打ちました。前回は初出場というだけでみんな興奮していたけど、今回は予選がなかった分、事前の盛り上がりがなかった。オリンピックと同じで、本番でどれくらい活躍するかが、部数にも大きく影響するわけです。そういうプレッシャーはあったけれど、運が強いというのか、今回は16強ま で残ったし。とにかく、なんとかなるだろうという気持ちが、いつもどこかにあるんですよね。

アンチ目立ちたがりの奇縁

ー高校時代は、部活など、何か熱中されたスポーツはありますか。

井上 部活は、やりませんでした。だいたい僕の高校時代は、あまりいい思い出がないんですよ。早く卒業したいという意識が強かったもので。

ーそれはまた、どういう理由で。

井上 当時の東筑は九大工学部や九州工大に進む者が多く、理系にあらずんば人にあらず、みたいな風潮があったんですね。うちの実家は祖父の代から歯医者だったので、僕も一時医者になろうかと思ったけど、やっぱり数学は苦手だったから早々と方向転換して、私立文系に絞った。よく三代目は家をつぶすというけど、本当につぶしてしまいましたね。

ーでは、文化的なことで、何かやりたかったとか?

井上 そういうことよりも、東筑といえば、それこそ中学時代に生徒会役員や学級委員を務めてきたような生徒ばかりが集まってきているわけでしょう。だから、その反動からか、とにかく目立つようなことをしたくなかった。それが部活もやらなかった理由かな。

しかも理系偏重が肌に合わないというのもあったから、東筑を離れるために勉強したと言ってもいいくらいで。卒業のとの寄せ書きに「脱出」と書いたのを、今でも覚えています (笑)。

ー文藝春秋に入社され、これまでナンバーに長年携わってこられたわけですが……。

井上 それも、別にスポーツに興味をもっていたわけではなく、単に1988年に週刊文春から異動になったというだけなんですよ。すると、あの頃一大ブームだったF1の担当デスクを任されて、海外にも取材に行ったし、部数も伸びて、中島悟引退の特集号では最大部数を記録したんです。

ナンバーはデスクがミニ編集長みたいなもので、各特集を担当する。それが当たればデスク様さまだし、はずしたら編集長の責任(笑)。だから、デスクが一番おもしろい。そこで、雑誌をつくる楽しみを味わえたんですね。それまでは、ナンバーなんて、社内にいても熱心に読んだことがなかったくらいですから。

ー実際にF1の担当になると、車にも造詣が深くなられたのでは?

井上 いや、それ以前に当時はまだ免許も持ってなくてね (笑)。F1のデスクでありながら、車の構造さえろくに知らなかった。それでも、ナンバーの特集はメカよりも人がメインだから、なんとかなっていたけど、さすがにまずいと思って。結局、免許を取ったのが91年、40近くになってからでしたね。

ーナンバーの読者からすれば、意外な人物像でしょうね。

井上 この雑誌をやるとは、希望どころか、考えもしませんでした。ナンバーは週刊文春とともに、過酷な職場と評判でした。その一方でさんざんきつい思いをしていたのに、この異動はまさに往復ビンタくらったようなもの。上司に怒ったら、「じゃあ『週刊』の特集担当を続けるのと、どっちがいいか」と言われた。それもいやだなあと(笑)。

この雑誌は熱心な読者が多くて、バックナンバーを揃えている人も多いですよね。でも、つくっている責任者の経歴はそういうものなので、僕をよく知る人からは「お前、そんなにスポーツに詳しかったっけ」と言われます。

基点から派生へのチャレンジ

ーポストW杯のナンバーについて、今後の抱負をお聞かせください。

井上 ビジュアル的にはいいところまできている雑誌だと思うので、この路線を少しでも大きくしたいと思っています。最近では「プラス」に加え、子ども向けの 「ナンバー・キッズ」も出しましたが、これが初心者の大人にも読みやすいと好評でした。ナンバーを基点にして、そこからいろいろ派生していくものをつくるのも楽しいですね。

当面は「キッズ」を、現状の臨時増刊から独り立ちできるようにしたい。スポーツ選手も次世代に名を残す意識が強いから、よく協力してくれます。親と子が同じ方向で夢をみている家族を対象にしている本なんですよ。

ー最後に後輩たちへのメッセージを。

井上 僕も特に望んで今の職についたわけではなかったけれども、やはり出会い、めぐり合わせというのがあるので、何でもやってみること。僕も、どちらかといえば腰が重いほうだけど、実際新しいことをやってみるとおもしろいし、世界が広がる。

ちょっと腰を上げてみる、半歩でも踏み出してみる気持ちが大事なんですね。億劫なことでも、やってみると「やっぱりよかったな」と思うことはいろいろあるでしょう。そういうチャンスは、大切にしたほうがいいでしょうね。

インタビューを終えて

東筑出身で、日本を代表するスポーツメディア「ナンバー」の責任者。まさに文武両道の半生かと思えば、さにあらず。話の腰を折られっぱなしのインタビューでした。
けれども聞き手の私自身、経験のあることですが、編集者という存在は概して趣味と違う分野に身を置き、無関心からファンへと変わる自らのプロセスを本づくりに反映しようとするものです。作家と編集者か゜別ものたるゆえんでしょう。
その視点でこの稿を振り返ってみると 「ちょっと腰を上げてみる」 というメッセージの重さ、意味の大きさを再確認いただけると思います。
                     【文責:本誌編集長・安藤進一(83期)】

--------------------------------------------------------------------------------

ContentS

FACE 巻頭インタビュー
ちょっと腰を上げてみる/井上進一郎

特集 わが家の構造改革

ますます盛んな根性で/今井梢
少年野球チーム「ヤングフェニックス」 のコーチ/野村正憲
インターネットの友人/山下雅実
ああ、流浪のサラリーマン人生/古谷俊英
私の転職とCPU速度にみる日本経済の変遷/江口義和

MASSAGE 事務局からのお知らせ(1)
平成14年度東京東筑会懇親会のご案内

AIRMAIL 海外で活躍するOB
ユーゴ革命を取材して/臼井賢一郎

DIRECTION 現役生指導の現場から
今どきの東筑生/野口敦弘 (東筑高校教諭)

GOURMET 東京東筑人オススメグルメ店
九州筑紫路

ぶれいくたいむ
再会の時-?期OG編

POLA CMカメラマンの独り言
唯一女性の飲み仲間記憶に残る名演技/長山隆吉

MASSAGE 事務局からのお知らせ(2)

会務報告/会計報告ほか

BBS ホームページ情報

NEWSPAPER
2002年北九州のできごとFACE 特別寄稿


--------------------------------------------------------------------------------

特集 わが家の構造改革

ポストW杯、どうする巨大スタジアム
デジタル放送、使いこなせぬ番組づくり
画期的な電子出版システム!これから作品探し!
器はできたけど、商売になるような中身(コンテンツ)がない。

こんな話、かつてよく耳にしませんでしたか? そう、バブルの時代にさんざん取りざたされた第三セクター批判とまったく理屈が同じなのです。どうしてこうも、同じ失敗を繰り返すのか、その構造は、今日のIT不況にそのまま受け継がれ、そしてまた、W杯後の巨大施設群に対する懸念へと広がっています。

 「形や仕組みにばかりカネが動く」のは極めて理系的な発想だと思うのですが、今の子どもたちには、とかく理系教育ばかりが心配されて、数学や物理学の関係者が国家予算の獲得に躍起になっているのを見ると、かえって筋が違うのではないかと感じてしまいます。 そもそも理系学力の低下などというのは、「点数という目に見える評価がしやすい科目」だから目立ってしまうのであって、平日の昼間から渋谷や新宿に中高生がたむろしている状況を見ると、問題は到底「計算能力」程度ではすまないと思えてしかたがありません。いわんや創造力やモラルの源たる「語学」においてをや、です。

 何をやりたいのか。それは対価を得てまでもやる価値があるのか。そうした確固たる概念があって初めて、形にするための器が必要とされるはずでしょう。何かと批判されがちな若い世代の中にあって、イチローや中田英寿、宇多田ヒカルや降谷健志といった傑出した存在が現れるのは、やはり強烈な信念をもち続けていられるかどうかの違いではないでしょうか。自らの才能をライフワークにつなぐ絶対の自信があるからこそ、信じられないような偉業さえも、クールに決めてしまうように見えるのかもしれません。

 そう考えていくと、まずは自己の確立、そして人(政府とか)のせいにしないこと。これこそ究極の「構造改革」だったりするのでは? (本誌編集部)

 

 

ますます盛んな根性で / 今井梢 (59期)

8年間お世話になりました

東京東筑会が生まれてほぼ30年。会計のドン、同期の山保女史と二人で経理担当を、これまでの8年、私は務めさせていただき、このたび60歳に至って晴れてお役ご免。その間多くの先輩・後輩の方々とめぐり合い素敵なお付き合いができ、嬉しく思います。

長い間お世話になりありがとうございました。これからは一会貝に戻りますが以前同様よろしくお願い申し上げます。

4月の幹事会で「原稿依頼をめぼしい人にしてください」と、命を受け「はい、はい」と承知しましたが、つい忘れてしまい、投稿日間近にこれを思い出し、慌てて自分でその責を負う羽目になりました。失敗失敗。

自分の道は自分で決めよ

主人を亡くして2年、一人息子と私でわが家は2人。何が「わが家の構造改革」でしょう。息子は母親を気づかい、勇気づけるためか、それとも自分勝手のマイペースからか「生まれたときは一人(確かに親子は生みませんでした)、今では僕も一人前、ママもついに一人ポッチ、お互いのペースで頑張りましょう。ママがボケたら僕がなにとかしますから、マー、そうならないように努力してくださいネ。」 これが主人を亡くした時の息子の言葉です。

「これから一人の人生を如何に過ごそうか」と悩んでいた時でしたが、息子の言は「自分の道は自分で決めなよ」との意だったのでしょう。私の両親の育て方はいつもプラス指向「金は天下の廻りもの。元気な体があれば世の中何とかなるさ」でした。

私もそれに似て大雑把、何しろ大陸生まれの大陸育ちですから、ノンビリが好きで、クヨクヨが嫌いなのです。

頭を回転させようと

それでも年は争えません。健康がやはり一番大切。衰えは足腰からとか。現状維持を最低限の目標におおいに汗をかきましょう。頭も使わないとボケます。母がアルツハイマーで痴呆となり晩年は本当に可哀想でした。その遺伝因子が多分に私にあるのではと思うと、ときには恐怖を覚えます。

何かと頭を回転させねばと実はコンピューターを習いはじめました。コンピューター教室では、このオバサン少し頭がおかしいのでは、と思われるくらい失敗の連続。「わからない人」 と問われるといつも 「ハイ」と必ず手を上げます。恥は一時と思いつつ毛の生えた心臓で時を送りました。

休み時間に周りの同年齢の人たちに授業の理解度を尋ねたら、私同様全員「わからん、わからん」でした。「何だ、ずるい、私だけに恥をかかせて!」と大笑い。ワープロもできない人が、いきなりコンピューターを習うのは大変です。1ケ月の苦しいけど楽しい教室でした。今では一つわかると一つ忘れ、教本と首っ引きで苦労の連続ですが徐々にマスターしています。

努力の大切さをやっと知る

努力に勝る天才なしとか。自分でも頭のよくなるのを自覚できるから驚きです。これも自立のための一歩です。息子や他人様に迷惑や負担をかけずに心身ともに健康保持に努め、介護状態には極力ならないように心がけることが残された人生と、いつも自分に言い聞かせております。

 年をとってやっと努力の重要性を知り、高校時代にこれだけの粘りと熱心さがあれば東筑で優等生になれたのではと、今となっては実に残念で仕方ありません。後悔先に立たずですが、老いてますます盛ん、さらに意地悪パパアと言われるくらいの根性で過ごしたいものです。これこそが「わが家の構造改革」 の精神論編でもいうべきでしょうか。

 

 

少年野球チーム「ヤングフェニックス」 のコーチ   野村正憲(63期)

子どもたちの成長を見る楽しさ

「構造改革」をテーマにして書くようにとの要請をいただきました。会社に限らず我が家でも構造改革を迫られている実態を述べさせていただきます。野村正憲

私が少年野球チームのコーチになったのは、今では22歳になる長男が小学校1年生になった時に、私が住む埼玉県蓮田市の 「ヤングフェニックス」 という小学生が属する少年野球チームに入部したのがきっかけでした。

その頃テニスに熱中していた私は、野球チームの手伝いを頼まれ、月1回でもグランドに行けばいいだろう位のほんの軽い気持ちで始めたのですが、子どもたちの成長をみるのが楽しくなり、また仕事で落ち込んでいるときに、逆に子どもたちからパワーをもらって元気づけられ、彼らが頑張っている姿から教わることも多く、今年こそやめよう来年こそやめようと思っているうちに、いつのまにか15年経ってしまいました。

健康な身体をつくるために

東筑時代は柔道部に入ってはいましたが、当時47キロしかなく、ガリガリの骨だらけの体で力もなく、乱取りをやると相手からよく「骨があたって痛い」と敬遠されたものです。大学時代は柔道のように組んでからやるものではカがないから負けてしまうので、組む前に勝負がつくものがよいと思い空手道をやりましたので、野球にはまったく縁がありませんでした。

野球をやったこともなく、ルールも知りませんでしたので、ノックもできずキャッチボールの仕方もわからず、子どもたちをどう指導したらよいか分らずにいたところ、スポーツ少年団主催の指導者講習を受ける機会がありました。この講習会で、ウサギ跳びや足を伸ばしてやる腹筋運動は腰を痛めるので、やってはならないというようなことを学びました。これを高校時代に先輩たちが知っていたら、きっとうさぎ跳びに苦しめられることもなかったのにと思ったりしたものです。

昔のやり方では子どもたちの体をかえって害することにもなりかねないことを知ったのですが、それではどうやって子どもたちの成長に合わせて健康な身体をつくっていくか、楽しみながら練習するにはどうしたらよいか、という段になるとなかなか難しいと感じていました。

目先の一勝よりも

ある日、日大野球部で主将をやっていたヤングフェニックスのコーチが「いい本がありますよ」と紹介してくれたのが元近鉄の選手で、ロッテ、ニューヨークメッツなどでコンディショニングディレクターとして活躍した立花龍司氏の本でした。この本で印象深いのは 「子どもは大人のミニチュアではない」 という言葉です。内容は小学1・2年編、小学3・4年編、小学5・6年編に分かれていて、子どもの身体と心の成長に合わせて具体的に指導方法が分かりやすく書かれています。

コーチをしていると、つい試合で勝つことにこだわり、試合のための練習になる傾向があります。この本では「目先の一勝よりも、将来いかに大きく伸びるか」 がテーマになっています。

小学枚低学年で伸びるのは「神経系」なので技術面を身につけりるような練習が良く、筋肉がつくのは中学生になってからですので、小学生に筋肉トレーニングをして筋肉強化をしようとすると身体を壊してしまう可能性があることも学びました。

よかれと思って一生懸命やっても全く逆効果になることがあるわけで、よく知った上で適切な指導をしないと子どものやる気の芽を摘み取ってしまうことにもなりかねません。

逆に子どもの心と身体の成長を踏まえて指導できれば、楽しい小学校生活を送れて、自信をもって中学校に進学できます。努力すれば「できる」ということを実感し、野球を通じて子どもたちが「自分の可能性にチャレンジする勇気をもつようになる」ことを願って、この本の教えを活かして子どもたちの成長に少しでもかかわることができれば、と思っています。したがって、ますます土日祝日は子どもたちとグランドで過ごすことになります。

     ◇     ◇

月曜日から金曜日までは深夜の帰宅で、土曜日、日曜日、祝日は朝から夕方まで小学生と一緒になって野球をやる生活が15年間続いていますので、家のことでやらなければならないことも多く、家族からは 「子どもたちと遊んでばかりいないで、コーチはそろそろ辞めて、少しは家のこともしなさい」と私自身の構造改革を強く迫られている昨今であります。改革は会社だけにして、我が家での私自身の改革はしばらく辞退させていただこうと家族には内緒に密かに決意している次第です。


 

インターネットの友人 / 山下雅実(74期)

おやぢの焦りと主張

ひろお、まいち、チキ、よしき、トニ、あるだん、エクセレント、クロ子、しんご、ゆうき、ルート、くまがい、ぼけっち、708、ケネチー、フオツクス、カワシマ、あげているときりがないので、このくらいにしておくけど、これはみんなここ2年くらいで知り会ったインターネットの友人のハンドルネーム (インターネット上で使用する愛称) である。なんとオタクなやつと思われるかもしれないけど、今の世の中にはそういう友人の作り方もある。

もちろんネットの友人であるから、知り合うきっかけとなる共通のキーワードがある。それは、ブラックミュージックである。アフリカ系アメリカ人、いわゆる黒人が、作り、演奏し、そして歌う音楽を、その新しい友人たちも私もみんな大好きなのである。1999年秋、41歳の私は、自分のホームページを作ってみた。私にとっての小さな構造改革である。

理由はふたつ。ひとつには、40歳を過ぎて、体力はもちろん、あらゆる感覚が衰え始めているのを感じてしまい、なんとかしないと、このままただのおやぢに成り下がってしまうぞと、焦ってきたのである。

ふたつめは、自分の好きな音楽を通じて、なんとなく自分自身を発信させてみたくなった。おやぢの好きなブラックミュージックはこんなんだぞと、おやぢの主張をしたくなったのである。

やっぱり「顔の見える」おつきあい

ネットの友人とのつきあい方をお教えしよう。まずは、掲示板である。それぞれのホームページ、サイトには掲示板という、そこを訪れた人が気軽にあいさつ、意見、感想、情報などを書きこんでいくコーナーがあり、初めてサイトを訪れる人も、常連さんもここに書きこんでいく。ネットで知り合うのは、掲示板へのカキコ (書きこみのこと) がきっかけとなるのがほとんどである。

他には、複数の人が同時に書きこみしながら、パソコン画面上で会話ができるチャット。一般的なメールも情報交換には欠かせない。

しかし、いくらネットの友人であっても、やはりお互い人間である。顔をつきあわせての宴会、これがないと、いまひとつ踏みこんでつきあえないのも現実である。いわゆるオフ会 (オフラインの会という意味)が、それである。それがまた楽しい。

はじめから同じ趣味を持つ者同士なので、話題には事欠かない。知らないことを教えてもらい、たまにはこちらが教えることもある。もちろん音楽以外の話題のこともある。年齢は20代から40代後半まで、もちろん私は上から2、3番目ではあるが…(泣)

かっこよく踊ること

ブラックミュージックのなかでも、とりわけポピュラー音楽である、ソウル、ファンク、アールアンドビー、ヒップホップが私は大好きである。

ただし、音楽に対して、知識としての興味より、体で感じる肉体感覚派である。肉体感覚派といえばなんとなく仰々しいが、アップテンポの曲では自然に体が動き、スローでスイートな曲ではソファにひれ伏して泣く、それだけのことである。

そんな私にとって、もちろんブラックミュージックを聴いても楽しむのだが、別の楽しみ方として「踊る」がある。いわゆる昔でいうディスコ、今はクラブ (発音は平坦) に行くのである。そこで44歳のおやぢは踊るのである。若い男女にまぎれて踊るのである。なかには自分の子どもでもおかしくない位の年齢の若者もいる。踊るのは楽しい。

しかし、楽しいからといって、ただの酔っぱらいのおやぢ踊りではいけない。かっこよく踊らないといけない。そのへんは、踊り続けて20数年の年季がさすがにものをいう。しかし、たまにはスポーツクラブのヒップホップの教室にもでかけるなどして密かに努力もしている。

この年になって、一緒に踊りに行く同級生もいないので、こうやって楽しく踊りに行けるもネットの友人のおかげである。40歳を過ぎて、共通の趣味を持った、たくさんの良い友達ができたことを素直に喜んでいる。

     ◇     ◇

最近は、ほとんど真っ白になった頭髪を染めることも止め、無理に若くあろうとするより、若い人とインターネット、オフ会、クラブを通じて、いつまでも今のまま普通につきあっていけたら、それでいいのではないかなと思っている。

結局、わたしは、高校時代から遊ぶことしか頭にないようである。そのあたりは、あいかわらず構造改革未達成であった。いいの? そんなにお気楽で。トホホ。

 

ああ、流浪のサラリーマン人生   古谷俊英(86期)

一生いてもよかったはずが

「光陰矢のごとし」とよく言うが、早いもので東筑を卒業して14年の歳月が流れていた。

振り返ってみると、当時軟式テニス部に在籍しており、練習は厳しく、休みはほとんど無し、毎日毎日、日が暮れるまで白球を追っていた青春時代。勉強は全くせず、当然成績はクラスでも最下位レベル。将来に対し漠然とした不安を抱きながらも、不思議と悲壮感はなく、とても充実した日々を過ごしていたのを覚えている。

その後、大学を卒業し、就職、結婚と人生のビッグイベントを通過し、現在、妻、息子(5才)、娘 (1才)と家族4人で楽しく暮らしているが、これも東筑での充実した3年間の貴重な体験があってこそのことだと、今でも心から感謝しているし、後輩諸君にも胸を張って東筑OBと言えるような学生生活を過ごしてほしいと思う。

ところで、今回は、最近わが家に起きた、ある出来事から感じたことを皆さんに紹介したいと思う。

昨年は、6年前に転勤で越した下関にマイホームを構え、待望の2人目も誕生、仕事は朝も夜もないほど忙しかったが、とても充実した年であった。

「下関」という土地は海や山に囲まれた自然豊かな街で、魚はうまく、物価は安い。故郷にも近く、一生暮らしてもいいなと思いマンションを購入した。まさに着々と人生の青写真ができつつあるところであった。

しかしながら、わが家にとって2002年は大きな「転機の年」となった。突然の本社への 「転勤」 である。5月に本社のある横浜へ一家で引っ超すことになったのである。

さらばマイホーム

サラリーマンの間では、家を買うと転勤になるというジンクスがあるが、特に野心があるわけではなく、子供はのんびりとした田舎で育てたい (できれば東筑へ) と考えていただけに「まさか自分が……」という驚きの気持ちでいっぱいであった。

それになんといっても、まだ1年しか住んでいないマンションをどうするかという大きな問題があった。

この不景気だけに売却するのか賃貸に出すのか迷ったが、結局、下関にマンションを残していたら腰を据えて新任地での仕事ができないとの強い思いがあり、マンションは売りに出すこととした。

幸いにも無事に売却でき、家族4人、横浜での新たなスタートを切ることとなったが、33才にして社宅暮らしに逆戻り、貯金は「0」、仕事も未経験の分野であり、職場における知人はほとんどおらず、まさしくすべてにおいて「0」からのスタートとなった。

今回の転勤の結果、下関と横浜の物価の差が大きいという環境の悪化は、わが家にとって切実な財政問題となり、また、今後も国内外問わずどこに行くのかわからない転勤族の宿命を背負いながら一生生活していかなければならない、という自分の立場を改めて痛感することとなった。さらには、家族にとっても生活の変化は精神的に大きな負担となるものであるに違いなかった。

当時、幼稚園の年中組であった長男に転勤の話を打ち明けた時は、よほど通っていた幼稚園が楽しかったのか泣き崩れて宥めるのにとても苦労した。正直、これほどの反響があるとは思わず、びっくりした。しかし、そんな彼もすぐに気持ちを切り替え、新しい幼稚園に通園する初日こそ緊張した面持ちであったが、2日目からは普段どおり元気に通い始め、1週間も経てば父親譲りの北九州弁はすっかり消え、流暢に標準語を話し始めた。

一方、東京育ちのかけらもなく、すっかり下関に根付いていた妻も、さすがに友人との別れを惜しんでいたが、すぐに新しい社宅の奥様連中にも溶け込み、今では毎日楽しく井戸端会議をし、長男の登園中の暇を見計らっては長女の公園友達をせっせと作り、さらに市内探検に精を出している。

今回の転勤で、改めてわが家の面々のたくましさを感じることができた。そして、この家族ならどこへ行っても、何が起きても大丈夫だと確信できたことが大きな収穫であった。

我慢と納得でたくましく

経済的に大きなハンデを負うことになったわが家は、今後も、レジャー、趣味、子供の教育費等、いろいろと物入りだが、その都度、充分に家族で相談し、お互いが納得した上で何に使うのか、何を我慢するのかを決めていきたいと考えている。たとえ欲しい物すべてが手に入らなくても、100%満足のいく教育が受けさせられなくても、与えられた現状の中で、家族で相談しながら一つひとつ成し遂げていく楽しみを見つけていきたいし、また、どんなことでも喜びに変えていける家族になりたいと考えている。

今回のテーマである「わが家の構造改革」について改まって書くことは何もないわが家であるが、あえて挙げるとするならば、「どんな状況になっても前向きにたくましく、明るい家庭を作る」ということが「わが家の構造改革」なのであろう。

今現在、なんら不満のない家族であるが、人生なにが起きてもおかしくない、万事塞翁が馬。今後も家族の結束を強め、何があろうと楽しく、前へ進んでいきたいと思う今日この頃である。


 

私の転職とCPU速度にみる日本経済の変遷 / 江口義和(83期)

江口義和

 

平成2年-技術主任から運ちゃんへ

私、転職を繰り返すこと5回、いずれもまったく違う職種なのですが、なぜだかすぐに役職に就いては会社が傾き、消滅する前に転職をしてしまっている、経営者から見ると疫病神のような人間・江口義和と申します。83期卒業、若松区の洞北中学出身です。

最初に就職した会社は、端的に言うとナビゲーションシステムのデータを入力する会社で、某大手地図製作会社の下請けでしたが、入社1ヶ月で技術主任になり、3ヶ月後には親会社に吸収されてしまいました。まだPCがMS・DOS3・0くらいの時代で、CPUは286SX・16MHZ(?)、メモリ640KB・HDD20MBというマシンで、膨大な地図データをデジタルデータに変換する作業をコツコツとやっておりました。

 

今から考えると、ほんとにご苦労さんです。吸収されてからは、某S県の県庁に出向となり、都市計画基本調査のシステム構築の仕事のお手伝いをしておりました。このとき、その都市計画課の課長さんらしき人が贈収賄事件でお縄になったみたいですが、私は無関係です。

システム構築に必要なOAとして、SunマイクロシステムのUNIXマシンには、今日のWINDOWSのモデルとなったⅩ・WINDOWを使用。初めて扱ったときには感動で、付属のテトリスを延々とやっておりました。

ワークステーション、プリンタ、プロッタ、外部記憶装置合わせて5000万円位でした。時代はバブルの余韻があった平成2年です。

次に転職した会社は日産自動車の新車を輸送する会社で、神奈川県の座間工場から名古屋・岐阜・大阪・京都方面へトレーラーで輸送していました。サラリーマン生活に嫌気がさした典型的なガテン転職です。帰りは主に岐阜県の坂祝町にある東洋工機から三菱のパジェロを関東方面に輸送していました。バブルの夢よもう一度の平成4年頃は、高額なRV車が馬鹿みたいに売れていました。

わが家のPCもWINDOWS3・1対応のDX4・100MHZマシンとなりモニタ別売りで20万円程でした。さらには、ついにアノPentiumプロセッサが登場したのです。

今思えば、芦屋の花火大会の最後の一発が打ち上がった瞬間のようです。

……そして、日産座間工場の閉鎖が決定し、私の人生も大きく変わろうとしていました。平成5年のことでした。

平成5年ーお布団の販売

家族も増え(妻1人・子1人)、お父さんは稼がなくてはいけません。そして選んだ仕事は、学生時代「コレだけは絶対にヤだ」 ランキング第1位だった、営業職でした。しかも、飛び込みの訪問販売です。ついつい求人広告の気前のいい条件につられてしまい、ふらふら~と入社してしまった某お布団販売会社。入社1年で係長まで登りつめ、ああ~っという間に年収も2倍2倍! 世の中は長く暗い不況の底めがけて一直線なのに、景気の波が伝わるのに、都市部と比べて3年は遅い田舎へと、お布団を積んだハイエースはひた走ります。

静岡は温暖な気候のせいか、外部の人間に対して警戒心がありません。ノリだけで何でも買ってくれます。山梨は警戒心は強いのですが、いかんせん訪問販売に対して抗体がありません。玄関を開けてしまえば負けです。といぅより玄関にカギをかける習慣がない! とてもおいしい市場でございました。そして最大のビッグマーケットが、オリンピックを控えた長野でありました。「暖かいお布団」への憧れは想像を絶するものがあり、また大きな商品は買いに行くのではなく売りにきてもらうのがポリシーらしく、馬鹿みたいに売れ続けました。また、県民全部がオリンピックバブルにどっぷりつかり、何でもローンで買い物をしまくっていました。

PCはWINDOWS95が大ヒットし、CPUもPenIIumⅡやセレロン、AMD・K6などが次々登場し、自作マニアが市民権を持ち始め、オーバークロックなる不毛の遊びが流行り始めたころです。わが家のPCはWINDOWS95を満足に稼動させることができなくなり、CD・ROMドライブやメモリ、ビデオカードなどを次々とグレードアップさせていったのですが、所詮はDX4・100MHZという、存在自体がオーバークロックなCPU、いくら着飾ったところで40の女性は20歳の娘さんにはかないません。そろそろ、元から作り始めようかと考えていました。

平成11年ー新聞屋さん

そんなある日、私、椎間板ヘルニアの手術で入院してしまい、半年ほどお仕事をお休みしてしまいました。

その間に思う存分自作PCを堪能しました。総額8万円ほどでK6・Ⅱ300MHZを組みました。ようやくわが家のPCも時代のスピードについていけるようになり、ネットサーフィンなるものも体験できるようになった頃、腰の傷も癒え、お仕事に復帰したのですが、なんだか世間の様子が変わっていました。

あれほど栄華を誇っていた太っ腹市場・長野も、オリンピックが終わると、残ったのは県民1人当たり100万にもなるという負債!お買い物などする気にもならないですわな~。陽気なラテン気質の静岡も、さすがに不況の波が3年遅れてやって来たらしく、非常に厳しい状況です。山梨はすでに即死していました。自慢のぶどうは長野に遅れをとり、リニアモーターカーは棚ざらし……梨とみかんじゃ所得は増えません。コレはヤパイなと気づいたある日、なぜだか私は新聞屋さんになっていました。平成11年の夏でした。

不況に関係なく、安定したマイペースなお仕事・新聞屋さん! 収入もいいし身体にもいいし……時代は不況のズンドコ、ここは一つコツコツと小金を蓄える作戦に出ようと、日々PCの改良をしながら、CPUの価格が馬鹿みたいに下がりまくる様に、複雑な笑顔を浮かべつつ新開を配り、勧誘をしていました。……1年で精神が崩壊していく自分に、自覚症状があるうちにこんな仕事とはおさらばしなければと耳の中に棲む小人の囁きに同意することにし、職安に通う日々を送りました。

そして中古車チェーンへ

気がついたら、中古自動車チェーン店に転職して、半年で店長さんです。車は好きでしたが、何も知識はないです。部下は元ディーラーマンやメカニック上がりの営業。はったりと、過去の数ある職歴の経験が役立ったみたいです。全23店舗のうち上位に定着する成績も収めています。

しかし、今わが社はヤパイです。というよりも、自動車業界全体がヤパイです。中古車業界は不況に強いと言われていますが、あくまでバブル崩壊後数年までの経済状態においてです。今、日本が直面しているかつてないこの大不況は過去のどんなデータを持ってきても分析・推測は難しいでしょう。東筑のOBには優秀な方が大勢いますので、こういうことを専門に研究していらっしやる方が多々あることと思います。どういう答えを出されているのか知る由もございませんが、ある意味日本の底辺を見続けてきた私の意見は、かなりヤパイです。安売り合戦を続ける各ディーラー。不良品を作り続け、隠し続けるメーカー。販売台数ベストテンに載せるために新古車を出しまくる販社。どれをとってもその場しのぎのまやかしで生き続けているにすぎません。

雇われ店長苦労を惜しまず

長々と書きたれてきましたが、私が就いた会社は例外なく、その後傾いて、或いは存在そのものが無に帰しています。今いる会社は、私が守っていかなければいけません。雇われ店長の身ではありますが、従業員の生活を守っていくのは私の義務です。そのためにはどんな苦労でも惜しまずにやります。私がいたから会社が潰れたのではなく、私に見限られたから世の中から消え去ったのだと思えば、おお~っ、なんて絶妙なバランス感覚で生きているんだ、私は!と感動してしまう。

今後もし、私が何かの間違いで皆さんの会社に行くことがありましたら、どうぞ邪険にしないでください。とりあえずいい成績は残しますよ!

ところで現在、わが家のPCはDuron・800MH Zです。世の中すんごい事になっていて、もう2GHZを越してしまっているらしいですが、私は別に宇宙にロケットを飛ばすためにPCを使っているわけではないです。表計算できて、インターネットできて、デジカメ編集やMP3の編集ができたら充分です。PCの世界だけは、相変わらずバブルが残っているようです。

日本経済もCPUのクロック同様、天井知らずに上がることを願っています。

 

 

AIRMAIL 海外で活躍するOB
  このコーナーでは、海外で活躍するOBの近況を寄せていただきます。

ユーゴ革命を取材して /  臼井賢一郎(81期)


臼井賢一郎

 

臼井賢一郎 (うすい けんいちろう)

 

中間東中学出身。
現在、九州朝日放送報道部勤務。

99年8月、NATOに空爆された、ユーゴスラビア・ベオクラードの石油コンビナート跡にて。隣はセルビア人コーディネーターのジェルコ氏

 

 

 

私は現在、福岡のテレビ局のニュースデスクとして、事件事故を中心とした報道の現場に身を置いています。最近では、小倉の少女監禁事件や久留米の看護師連続保険金殺人事件といった全国でもトップ級のニュースに忙殺されました。こうしたニュースを追うのは現代の一側面や闇を炙りだし、時に目の前の現実に驚愕します。ただ私は、去年の9月まで約4年間に亘り、テレビ朝日系列のベルリン支局長として、別の種の驚愕の時間を過ごす機会に恵まれました。このことを少し紹介させて頂きます。

任期中で最も刺激的な取材は、2000年10月のユーゴスラビアの市民革命でした。独裁者ミロシェビッチ前大統領は、民族浄化という暴政で欧米の厳しい制裁を受けて、空爆をも浴びました。一旦はこれを利用して支持を取り付けましたが、国民の生活は苦しく、さらに大統領選挙で不正を働くという暴挙にでて、ついに革命を呼んだのです。

「国民を裏切った為政者は必ず手痛いしっべ返しを受ける」ことを象徴的に示すストーリーでした。

革命の時-異変は突然起きた

反大統領派が、決戦の日と位置づけた10月5日の大規模市民デモ。私は、デモの模様をニュースステーションの中継で伝えるべく、デモを俯瞰できるテレビ局のビルにいた。

始まる2時間位前から、続々と人々が連邦議会前に集結、あふれてくるという感じで50万人はいただろう。

異変は突然起きた。発砲音とともに催涙ガスが舞い上がり、人々が国会内に突入を始めた。

最初の中継は終わっていて、これを見て、直ちに東京に電話。再度の中継を要請した。

「今この国が大きく変わろうとしている。」 中継を終えると、今度は黒煙が舞い上がっている。さらに、国営テレビ局本社近くでガス弾が何発も発射され、民衆が逃げている。

街は、催涙ガスの匂いと人いきれの混じったような独特の空気に支配されていた。

道路は、民衆に埋め尽くされていて歩きにくい。民衆に埋め尽くされた町を俯瞰するため、道路の真ん中に止めているバスの屋上に乗りレポートをとることを考えた。

しかし、困難が降りかかった。 民衆は、私に対して、「キネーゼ!(=中国人)」と叫ぶのである。その表情は皆怒気を含んでいる。私を中国人と思い込み、激しく非難していたのである。

当時、中国政府は、ミロシェビッチ政権を唯一支持していた。民衆は、「中国はミロシェビッチを延命させる敵」だと思っていたのだ。私は、怒鳴られる度に「ジャパン」とか「ヤーパン(=日本)」と応酬した。すると民衆は、「わかった!取材を続けてくれ!」という意味の言葉で答えた。この日、「ジャパン、ヤーパン」を200回は叫んだ。

バスの屋根から見た民衆の表情は凄みそのもの。街中が催涙ガスに包まれていたせいもあるが、誰の日も血走り、日を真ん丸にして私を凝視していた。

革命という最後手段を選んだ緊張感と恐怖感をみんなで共有していた。

催涙ガスは、2回目の体験だったが、目をあけているのがつらく、鼻の奥がやけに痛かった。

革命の成功ー燃え盛る国営放送局

リポートをとり終えて帰ろうとすると、バスの屋根の上にいた大きな男が、頗を真っ赤にして私に叫ぶ。またしても「中国人」だ。

彼は皮ジャンパーを脱ぎ、それで力任せに私を叩きはじめた。顔を両手で覆ったが、何発もあたり痛かった。

このあと、国営テレビ局本社に向かった。

人々の叫び声はさらに高まり、腹部や太ももを負傷し、運ばれる人たちがでた。

そうしていると、突然治安部隊の装甲車5台が凄い勢いで走りはじめた。

教会の鐘は、1時間近く鳴り続けている。

「民衆よ静まれ!」という呼びかけに違いないと思った。

一人の女性は、頭を両手で抱え、狂ったように泣きながら叫んでいる。

すると、またしても発砲音。実弾の発射に段階は移った。国営テレビ局本社の方から、人々が一斉に走ってくる。私は、状況説明のレポート収録を続けた。

テレビ局の前に着くと、窓ガラスが割られユーゴの国旗を市民が掲げた。

最大の宣伝機関が遂に落ちたのである。これは革命の成功を意味した。

国営テレビ局は、黒煙と炎に包まれている。民衆は、皆が歓喜の声を上げている。

治安部隊員から奪ったヘルメットをかぶり、警棒を掲げて記念写真を撮っている者もいる。

インタビューに答えたある男性は、「ジベリ!(乾杯)。民主的なユーゴにしたい」と声をうわずらせた。

誰もが、この歴史的な時間を心に深く刻み付けている、感動的な時間だった。

治安警察は民衆の蜂起に抵抗せず、投降するように武器を手放した。 私は、民衆ひとりひとりの息吹を肌で感じながら、燃え盛る国営放送局の局舎を背景にレポートを続けた。

     ◇     ◇

以上が激動のユーゴの一日で、いわば究極の「改革」を見せ付けられました。

改革は日本ではもはや長く久しいキーワードでもありますが、帰国後、ニュースデスクに身を置きながら、日本でも「ユーゴ」クラスとは言わないまでも、本物の改革を見てみたいと感じることはしばしばです。


--------------------------------------------------------------------------------

DIRECTION  現役生指導の現場から

今どきの東筑生 /  野口敦弘 (東筑高校教諭)

週五日制でも みっちり鍛えられ

午前7時20分、紺色のブレザーに身を包んだ (男子とほぼ同数の)女子生徒が、例の石段を級友たちと楽しげに談笑しながら上ってゆく。皆さん、お気づきになったでしょうか。そう、女子の制服がセーラー服ではなくなったんですね。それからまた、昔と違って、朝の7時30分から全員課外(0時間目ともいう)なるものも実施されているわけです。

彼女たちの制服の着こなしも、「今どきの東筑生は!」と眉をひそめる先生やOBなどもいるにはいますが、ほぼひざ下数センチ。昔のようにくるぶしまであるのや、今の都会の子のようなミニの姿などは、どこにもありません。ちなみに、体育祭のフォークダンスは、3年女子だけでほぼ十分という状況です。

まあ、これが典型的な現在の東筑の一日の始まり、といった感じなのですが、今年からは週五日制の関係で、週3日は7時間授業(課外を入れると8時間)となり、午後4時過ぎまでみっちりと鍛えられ、と、こういう風になっております。そのうえ、宿題が山ほど出されるわけで、昔からは考えられないような厳しい学習環境です。

九大現役合格は過去最高に

では、勉強ばかりの受験校になったかというと、そうではなくて、部活動加入率70%以上ということで、ほとんどの生徒が夜の7時過ぎまで、つまり一日12時間、学校にいるのです。自習時間を繰り上げては、昼で帰っていたお父さん、お母さんの時代からは、これまた想像できない、積極的かつ勤勉な東筑高校生像がそこにはあります(ウソじゃないですよ)。

そんな生徒たちの頑張りで、部活動も野球や武道だけでなく、ラグビーはもとより、ボート部や音楽部などは、全国大会あるいは九州大会の常連で、その他の部もほとんどが、県大会に駒を進めています。また、昨年の大学入試では、九大に現役で64人合格するという快挙もありました (東筑では過去最高らしい)。

もっとも、昔に比べると、従順といえば従順、無気力といえば無気力、子どもっぼいといえば子どもっぼい彼らではあります。しかし、その分、先生がたの言うことを素直に信じ、この不確かな世の中にあって、なんとか目標をもち続けることのできている結果が、昨今の甲子園や花園、大学入試の好成績につながっているのかもしれません。

それでもやっぱり川筋気質

ちょっと話が堅くなりましたが、少しは今の東筑の姿をお伝えすることができたでしょうか。変わったといえば、すっかり様変わりした後輩たちですが、そこはやはり川筋気質の若者たち、定期野球(忘れていましたが、10年以上前から全校応援のもと、毎年行われている。ちなみに東筑の7勝4敗1引き分け)で対戦する小倉高校の洗練されたスマートさと比べると、良くも悪しくも十分野性的な頼もしいやつらです。

彼らの上京の折には、東京東筑会の皆さまには何かとお世話になることも多いかと思います。かわいい後輩たちを、今後とも、どうかよろしくお願いいたします。


 

GOURNMET 東京東筑人オススメグルメ店
郷土料理 「九州筑紫路」

「また『だご』汁食べとうなった」 転勤族に愛され続けて二十余年 文・本誌編集部

ピルの谷間へ小さな帰郷

TOTO東京本社が目印の港区・虎ノ門交差点。そこからほど近くのビル街に、知る人のみぞ知る九州料理の名店があるという。地図を頼りに歩いてみても、ちょっとやそっとじゃ見つからない。ようやく探し当てたその場所は、まさにビルの谷間の路地の中。暖簾をくぐるなり迎えてくれたのは、寡黙なご主人と餞舌な奥さん。

「今日はなんにするね?」

その一言だけで胸が熱くなるような、小さな「帰郷」がここにある。

「九州筑紫路」を切盛りするのは、ともに筑後出身の平山仁英(きみひで)さん、初代さん夫妻。初代さんの親類が経営する、これも九州料理の老舗「有薫酒蔵」に仁英さんが勤めていたのが縁となり結婚。昭和54年、独立して今の店を開いた。

「当時は、この辺も平屋建ての家やら結構残っとったけん、まだ見晴らしよかったんやけどね」と、初代さん。言葉や店構え、そしてメニューにまでも、時代に迎合しないこだわりがうかがわれる。なにしろTOTOはもとより、金融、マスコミなど、転勤族の多い場所柄、「若い頃からなじみのサラリーマンが、転勤から戻って偉うなっても、まだ来てくれる」(初代さん)という。早速に彼らを長年魅了してやまない看板メニュー、「だご汁」こと筑紫定食を注文した。

素朴にして満腹の妙

なぜ「だご汁」か。実はこれ、「有薫」で賄いメニューの定番だったとか。そこにご主人のひと工夫が加わって、開店以来不動の人気となった。というのも、だご汁は長時間煮込むと、肝心の「だご」が溶けてしまうので、作りおきができない。そのため、手打ちうどんのように固く練った「だご」を一晩寝かせ、注文を受けてから一人前ずつ手でちぎって煮込む。だから、この定食、頼んでから出てくるまで、意外に手間と時間がかかる。

定食の内容は、大碗のだご汁に煮物、漬物、焼海苔、ご飯で、しめて800円。ご飯が少なめかと思いきや、忘れてはならない主役のだご。そもそも若い従業員の賄いが原点、食べてみると相当なボリュームだ。それでもあえて、300円で追加できる煮魚やおきゅうとなど、ご主人の技が光る一品を足せば大満足も請け合い。また、夜にはたいらぎ、わらすぼをはじめ、地元・有明の海が育んだ貴重な品々を肴に、杯を傾けたい。

    ◇    ◇

「だご汁が食べとうなった」

「何も変わらんのがうれしい」

そう言って何年も足を運び続けてくれるお客さんがいる限り、たとえ効率が悪くとも、今の素材、今のメニュー、今の値段で続けていきたいという。原価の値上がりでなかなか難しいことだが、「それでも二人だけでやっていく分には、なんとかね」(初代さん)。そんなご夫妻の心意気に、「また来るばい」の二言を添えずにはいられない、これぞ「不変の実学」というものでしょう。

 

 

ぶれいくたいむ
再会の時-?期OG編

 「彼女に会えなかった自分へのリベンジは、もんじゃ焼きの味がからんで香ばしく…。」 

「もう大丈夫 心配ない」と
泣きそうな私のそばで
いつも変わらない笑顔で
ささやいてくれた
まだまだまだやれるよ
だっていつでも輝いてる
時には急ぎすぎて見失う
「ずっと見守っているから」
って笑顔でいつものように
抱きしめた
あなたの笑顔になんど助けられただろう
ありがとう ありがとう
BEST FRIEND

 

これは昨年、高視聴率をおさめたNHKの朝の連続ドラ「ちゅらさん」のテーマソング、キロロの「BEST FRIEND」の歌詞です。
東筑時代に思春期をともに過ごし、体育祭や文化祭で熱くなったり、悩みをうちあけあったり、励ましあったり、けんかしたり、夢を語ったりした友達に、あなたは会っていますか?
もしも久しく会えていないのでしたら、どうか勇気を出して会ってみてください。友人の目に、今のあなたが映っています。そして、きっと体の奥から不思議なカがみなぎってきますから。

メール約束にときめいて

なつかしい彼女との再会の約束は携帯のメールでもちかけました。彼女のそのアドレスは、共通の友人へのパソコンメールでやっと教えてもらった彼女の会社のパソコンのものでした。そして、約束成立。

まめな彼女は、神奈川のはずれから久しぶりに東京に出てくる私に、乗り換えや時間まで、Ⅰモードかなにかで検索して教えてくれました。そんなわけで、待ち合わせの瞬間までに十数回もメールのやりとりを交わしたのですが、再会のその瞬間まで、「声」はおあずけのままとなりました。久しぶりに「生」の彼女に会い、「生」の自分を再会させるのに、「声」だけ先に、携帯電話なんかでお手軽に届いてしまってはなんだかもったいないような気がしたのです。

携帯のメールとは、飛脚のいらない「急ぎ文(ふみ)」のような奥ゆかしさが感じられませんか?

たとえ、どんなに電磁波の人体への悪影響が証明されたところで、決して手放せないほど、私たちの生活に浸透してしまっている愛すべき文明の利器、コミュニケーションツールといえそうです。

約束はメールで、そして会ってから…。なんだか、たんになつかしい人に会うというより、昔の恋人に会うようなときめきが押し寄せました。実際、彼女は高校時代の私にとって、当時つきあっているひとよりも優先させてしまうくらい、大切な女友達だったのです。

待ち合わせは東京の下町。地下鉄の長い階段を上がると、そこは「もんじゃ焼き」のめっかとして有名な町です。

そして、ついに来ました。あのなつかしいトーンの肉声が。

「きゃあ、ひさしぶり!」

再会にもんじゃはヒットです

私がもんじゃ焼きを食べたのは、大学進学で上京したての頃以来。作り方もわからずに適当に食べてしまい、なんだか納得がいかなかった記憶が残ってしまっていたのです。だから、彼女から「もんじゃ焼きはどう?」とメールされたとき、「それ!」と思いました。感覚は十代?「上京したて」気分になれそうな気がしたのです。

昔から、「ねえ、ねえ、おいちゃん!」と、商店街育ち特有の気さくさで話しかけ(つっこみ)上手だった彼女は、早速店長らしき人から「もんじゃ」の説明をうまくひきだし、作ってもらえるよう交渉成立させてくれました。昔からぽけ取材と相槌担当だった私は、もちろんその役どころをこなします。そのへんのふたりの具合も、また心地よいなつかしさでした。

店長らしき「おいちゃん」いわく、もんじゃ焼きはもともと「おやつ」で、昔はこのあたりの駄菓子屋に、あたりまえにもんじゃ焼き用の鉄板テーブルがあり、5歳くらいの子どもならば、あたりまえに上手に焼いて食ベていたとか。また、全く知らない他人同士がひとつのもんじゃ焼きを挟さんで向かい合って座り、「はい、こちらは100円分、こちらの方は200円」という感じでお勘定することもめずらしくなかったらしいです。さすが生粋の下町という感じがいいですね。

本場のプロに焼いてもらった、お店スペシャルもんじゃとめんたいこもんじゃは、お酒とよく合い、語りあいの食には大ヒットでした。

予防接種のような刺激

「変わらんね~。ヘアスタイルなんか、なにげに高校のころのままみたいやね」彼女の言葉がうれしく響きました。

偶然、お互いに少し前までカラーリングで茶髪だった色を落とし、ショートヘアにしたところでした。彼女は高校のころよりスレンダーにひきしまっていて、さすが毎日スーツを着こなしているという緊張感がありました。私もこの夏、今引き締めなければ、もうだめだ!と奮起し、少し前から始めた骨盤体操なるものの効果が少し出て?スリムなジーンズを新調したところでした。

彼女は東筑の友人たちの結婚式の写真を持ってきてくれていました。結婚式のメイクや服というのもあるけど、みんなとてもいい感じの「大人の女」になっていてびっくりしました。同級生が素敵でいるということは、予防接種のようないい刺激です。

会えなかった私の事情

「東京で働く私が、今でも頻繁にやりとりして、会ったりしている東筑の友達は、きっと向こうがマメなのかもね」

彼女の言葉に「そうかもね」と笑ってしまいました。思えば、高校時代にあれほど語り合っていた彼女と私がこんなに長く会っていない、住所も知らなかった、というのは、改めてかなり変な気がしてきます。そう、私はあまりマメではないかもしれません。いいえ、というよりも、これまでの十数年閏、そんな余裕のあまりなかった自分を思い出し、ようやく切り返しました。

「これまでは、子育てに必死やったんよね~。」

そう、私は数年前、専業主婦生活を晴れて?脱出した組です。今はある企業の契約社員で、5時間という時短勤務をしています。職場も近いし、家事と育児を両立させつつ、という働き方が可能な状況に感謝しながら毎日通勤しています。一方、彼女は大学卒業後、変わらず某一流企業で専門職につき、毎日激務をこなすキャリア組です。

今回、彼女にどうしても会ってみようと思いたったのは、やっと、彼女に会える自分を少しとりもどせたのかな、という感覚がどこかにあったかもしれないのです。

同期の中でも結婚が早いほうだった私は、まずは仕事と家事の両立に夢中でした。数年後、第一子を妊娠し退社した後は、子育てと家事に追われる専業主婦時代に突入。その頃は「ここが、北九州でなくてよかった-⊥とどこかで思っていたような気がします。なぜならベビーカーに乗せては泣くので、抱きかかえなくては出掛けることさえ難しい時期、まだチョロチョロと走り回る時期、「まて~」と追いかけたり、「こらっ」と叱ったりしている姿は、あまり格好のいいものではないものだからです。

それでも、地元の友達や親姉弟のいない遠隔地での子育ては、結構心細いものです。せっかく男女雇用均等法で、同じ待遇で働ける職場に就職しておいて、働きながら出産し、育児をしていく自信が、いざという時に私になかったのです。意外と安易に仕事を辞めてしまった自分をどこかで、認めることができなかったのですね、きっと。

これが東筑女子の生きる道?

高校3年の初秋のころ、彼女を含め仲のいい女友達で「やっぱり、せっかくだから、東京の大学に行こうよ!日本の中心で頑張ってみたいよねー」と盛り上がったことがきっかけで、私は今までここにいることになります。

東京の私立大学に進学した場合、どのくらいお金がかかるのだろう、とは具体的に考えずに、です。全くの 「ノリのいい親不幸者」でした。今、親に感謝したり、反省したり、自分の子どもにしっべ返されるのが怖いと恐れたり…。そのころのことを思うと、なつかしい以上に複雑な思いがしてきます。

まあ、東筑の女子は往々にして、負けん気が強くて、自分に対して貪欲な気質。それが時として、幸か不幸か、悩みを増やすことになるのですが、きっと私たちは、そういう自分が結構前向きに好きだったりもするのです。

なにはともあれ、これからもうまく自己操縦して、自分の責任で、人生切り開いていかなくてはいけません。もう一度「東京」で生きてゆく意味をじっくり味わってみたい…。 彼女と話をしていると、そんな潔い気持ちになってきました。そしてその気持ちは昔語り合っていた時に感じた清々しさとおなじ後味なのです。

もんじゃ焼きをちびちび食べながら、いろ-んな話で盛り上がりました。その内容は、もちろんオフレコ…。

明日へのエール交換

一体「変わらない」ということはどういうことなのでしょう。私たちはこのほんの2、3時間の貴重な再会の中で、互いを、互いの中にあるフィルターで、何度も、何度も、濾すように見つめたような気がします。

変わっていないのは、多分、頑固なまでの自分らしさで、生きていく姿勢みたいなものではなかったでしょうか。そして、互いをみつめるやさしくて厳しい眼差し。そして、それは明日からは「まだまだ、がんばれるよ」という、互いへの力強いエールになってゆくのです。

私にとって、必死な子育ての時間はかけがえのない財産で、それまでにない別の角度から私に自信を与えて、補強してくれている。そして、それは彼女が積んできた企業でのキャリアやいろんな経験も同等のもの。 けれども、大切な友達関係においては、細かな失敗や成功を含めて、何をしてきたかはそれほど重要ではなく、再会の時間は、もっと本質から、その存在自体を包括してくれるものなのかもしれないですね。

彼女になんとなく会えなかった自分へのリペンジは、もんじゃ焼きの味がからんで? めでたく、香ばしく取り込まれ、身も心も、とても満たされた気持ちになりました。

また会おうの返信

PM十時。

「もう一軒いこうよ!」とすっかり上機嫌にはずしかけている私を、「もう、今日は帰りなさい!」と、駅の改札に連れて行ってくれた彼女。彼女は昔からこんな時、ちょっと大人の、姉のようなやさしさをみせるのです。

また、きっとしばらく会えないのしょう。

なつかしい友人との間に流れる月日は倍速で流れるものだから…。

帰りの電車に揺られていると、彼女からメールが届きました。

「中身も変わらず、○○年経ったなんて感動モノです。素敵に年齢を重ねててうれしかったよ。(人生に打ちひしがれてたらどうしようかと思ってたが、そんなわけないか)また会おう。また、ちゃんと追い返してあげるから。先輩も安心でしょう。じゃね!」

実は、私の夫も東筑で、彼女の部活の先輩でもありました。よしっ!今度は後輩ふたりでおごってもらうという設定で、思いっきり飲もう!とメールを返しました。


--------------------------------------------------------------------------------

POLA CMカメラマンの独り言

唯一女性の飲み仲間記憶に残る名演技 /  長山隆吉(83期)

長山隆吉2

天海さんと初仕事の現場にて。肖像権の都合で当人は写っていません。ごめんなさい。

個人のパーティにもかかわらず

ワールドカップが終わってからというもの、CM業界も一時の熱気が冷めて、やっぱり不況は終わってなかったかと、沈思黙考の日々であります。と、似合わない話はさておき、この夏のよき思い出をひとつ。

以前からご一緒させていただいているスタイリストの大御所のかたが、よく飲み会を主催してくれるのですが、その参加メンバーの中に女優の天海祐希さんがいます。

メンバーの中では彼女と僕が同世代なので、結構詰も合うし、懇意にさせてもらっています。実際「ハッ」とするほど美しいかたですが、性格はというと、まさに「竹を割ったような」という表現がピッタリの、からりとした明るい人。前回のこのコーナーで、僕の飲み会のノリを読んでいただいたかたなら、大体想像がつくことでしょう、実に付き合いのいい人なんです。

先日、そのスタイリストの50回目のパースデー・パーティがありました。天海さんは当日、仕事が入っていたのですが、なんと休憩時間と称して途中から会場に駆けつけてくれたのです。しかも、とっておきの出し物まで用意して。そうです、タカラヅカです。

色モノでで持っていくなんて

衣装とメイク、そして音楽までもバッチリ整えて、史上最高と謳われた男役、天海祐希が目の前で復活を遂げました。会場の興奮と感動は一通りでなく、とても筆舌し尽くせるものではありません。生涯記憶に残るだろう貴重な場面に浸っている中、主宰から声がかかりました。いやな予感がしたんです、「天海さんがあそこまでやってくれたんだから」という声が、耳をくすぐった瞬間から。

そんなわけで、タカラヅカの正統派演技をしのぐ出し物として指名を受けた僕は、とうとうやってしまいました、いつもの「トシちゃん」を。歌って踊れるカメラマンの十八番、田原俊彦のモノマネは、業界ではちょっと知られていまして……。

場内爆笑の盛り上がり、まではよかったのですが、後で天海さんから言われましたよ、「長山さん、ずるい!せっかく私がシリアスに決めたのに、色モノでオイシイとこ全部持っていくなんて!」

    ◇    ◇

今回は天海さんの話題に終始しましたけど、実はこれまで、彼女とは仕事をしたことがなかったのです。

ようやくこの夏、関西ローカルのCM撮影で、初仕事を組ませていただきました。

それにしても、いつもは気の置けない飲み仲間として会っているのに、いざ仕事となると、かえって照れてしまうものですね。お互いによそよそしさを装って「はじめまして」などとガチガチの挨拶を交わしてしまいました。

これが、僕の最新の実績です。

--------------------------------------------------------------------------------

 

MASSAGE

東京東筑会48期会員(1950年卒業)の叙勲について

本年4月29日付で、48期の三氏が、それぞれ次の通り叙勲しましたので、同窓の皆さんとともにお慶び申し上げたいと思います。〔48期幹事 佐藤 生〕

勲二等旭日重光章      敷増穂(元名古屋高検検事長)

勲三等瑞宝章         弓削田英-(元資源エネルギー庁石炭部長)

勲四等旭日小綬章      伊美克己(元海上保安庁第11管区海上保安本部本部長)

                           〔敬称略〕

 

編集後記

最近、ある陸上競技場で高校生たちが練習している様子を、たまたま見かけたのですが、陸上部出身の自分の視線が、生徒の走りっぷりよりも、専ら顧問の指導ぶりに向かっていたのには、後で気づいて愕然としました。「お前、その教え方はちょっと違うやろ!」と突っ込みたくなるのです〈どうみても僕より若い先生だったので)。自分の年齢に初めて愕然とするのは、高校卒業後、「甲子園球児が、みんな年下だと知ったとき」と、よく言われますが、30代半ばにして、これで何回目?ー少々がっくりくる反面、いやオレはまだ突っ走れる、と反骨心を新たにして、日常の仕事に会報編集、さらに自作のホームページも……どこまでもハードに生きることが自らの構造改革と信じる今日この頃です。 (&)

子どもの保育園の納涼会で、年中組の親のアトラクションとして「おさかな天国」を踊ることになりました。すずらんテープでフラダンスのような衣装をつくり、さかなやたこの紙を貼りつけ、浴衣につけるのです。平日、仕事が終わってから、夜9時までの踊りの練習と衣装作り。子どもたちも一緒で盛り上がりました。そして迎えた当日本番。その朝に作ったという、かなり手のこんだ段ボールの、大きな魚の張りぼてを着ぐるんで登場したお父さんがいました。会場はもちろん大盛り上がり。

私はふと、東筑時代のあの体育祭の応援合戦をなつかしく思い出してしまいました。どんなに忙しくて大変なときでも、楽しいアイディアや底力を出せる、そんなOGとして、これからも東京東筑会に携わっていきたいと思っています。  (咲)

 

第20号

(2002年 平成14年9月)

第20号

(写真提供‥田代龍一先生)