
FACE 特別寄稿

平野啓一郎 (ひらの けいいちろう)
明治学園中学出身。京都大学在籍中「新潮」に掲載された長編小説『日蝕』で第120回芥川賞受賞。長編第二作 『一月物語』(1999年4月刊行)に 続いて現在、第三作『葬送』を執筆中。
私が東筑高校に入学したのは、今から丁度十年前のことです。その当時から現在に至るまでの様々な出来事を考えますと、取り分けその幾つかが私の人生を決定的に左右しただけに、十年とはいえ随分と長い時間であったように感じますが、同時にもうそんなに経ったのかと驚く気持ちもあって、実感としては寧ろ短かったと言う方が当たっているかもしれません。こうした十年間の感じ方が26歳という今に特別なことだというのは大して人生経験のない私にも容易に見当のつくことです。40になって振り返る十年も、50になって振り返る十年も、きっとまたこれとは違った長さを感じさせることでしょう。
私が初めて東筑高枚を訪れたのは、入学試験を受けに行った日のことで、それ以前は母方の祖父やおじ二人が卒業生だったこともあって、何となく学校のことは知っていたのですが、実際に校内に這入ってみたことはありませんでした。
試験当日の記憶の中でも、今でもはっきりと覚えているのは、会場となった校舎の隣に巨大な空虚とでもいうべき広々とした運動場が開けていたことで、しかもそのからっぼの真昼が酷く眩しかったことです。私はその光景に強く魅了されました。それは卒業するまでの三年間ずっと変わりませんでした。在学中の私の座席はどういう訳か大抵何時も廊下に面した窓際でしたが、そこから磨りガラスの窓を少し開けて廊下越しにぼんやりと運動場を眺めているのが私は好きでした。
私が東筑高校を志望した理由は幾つかありますが、一つに十代初めの私を夜のように包み込んでいた長い内面化の季節から早く抜け出したいと考えていたことがあります。小学生の頃の私は至って活発で、本などろくに読んだこともなく、毎日日が暮れるまで外で遊び回っているような子供でしたが、やがて黄昏が訪れ、太陽は失われ、私は否応もなく自己の裡へと沈潜してゆくこととなりました。これは、当時はいかにも私にだけ特別な苦悩のように感ぜられていましたが、存外それが凡庸なものであったことはずっとあとから気がつきました。私が欲していたのは、至極単純で、粗雑で、明るく、健康なもののすべてで、それが東筑高枚であれば得られるに違いないと思い込んでいたのは私の中に昔ながらのバンカラ風のイメージがあったからなのかもしれませんが、少なくとも当時進路として迷っていた全寮制の私立の高校よりはマシだろうとは思っていました。初めて目にした運動場の光景が強く私の印象に残っているのは、それがきっとこうした私の勝手な期待に完全に相応しいものと思われたからでしょう。
しかし、入学して私の考えは色々と変わりました。当時の東筑高枚は、「文武両道」 という徳目を大きく掲げていましたが、実情は「文」を担う生徒と「武」を担う生徒とが集まって学校全体の体裁として 「文」と「武」とのバランスが取られているという格好で、個々人が自らの裡に「文」 と 「武」 との両立を実現しているということではありませんでした。これは、言葉の本質的な意味に於て 「文武両道」とは何の関係もないことです。そして、私は結局「文」の側に立つ生徒でした。
実際に東筑高校の生徒となった私が、入学前の大層な考えの割には、運動部にも所属せず、体育祭にも積極的に参加しなかったのは、恐らくそれが私の言う「内面化の季節」を迎える以前の、少年時代のパロディーに過ぎないということに気づいたからでしょう。そして、パロディーであることを百も承知の上で尚且つそれを演じてみせることは私にはできませんでした。私は三年間ずっとあの広い運動場を眺めていましたが、その眼差しは何時の頃からか憧憬の眼差しから郷愁の眼差しへと変わっていたのかもしれません。そうした世界が決して自分を「外」へは連れ出してくれないことを私はあの十六七歳の頃に苦々しい気持で悟ったのだと思います。そしてそれが既に失われたものであることに気づいたということは、私の為には幸いであったに違いないのです。
私はその後、大学受験の進路の決定に際して法学部を選択することにより、性懲りもなく今一度内面との決別を図りますが、ただ今度はずっとまっとうに社会との関わりに於てそれを実現することを考えていました。私がいよいよ覚悟を決めて小説家にでもなるより外はないと考え始めたのは、この試みさえ結局だらしなく断念されたあとになってからのことです。
卒業後はずっと東筑高故にも足を運んでいませんでしたが、一度芥川賞を受賞した際にテレヴィの取材で訪れ、先生方に協力していただいたことがあります。私はやはり記憶の喧騒を避けることが出来ませんでしたし、そのことに当惑も覚えました。それでも、インタヴューだけはどうにかうまくこなしていたと思います。
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ContentS
FACE 特別寄稿
東筑高校の思い出/平野啓一郎
FILM 映画制作こぽれ話
映画を作ること/雑賀俊郎
STAGE1 21世紀ジェネレーションへの伝言
日々の呼吸、そして感謝/児島由記
二一世紀世代よ、そしてわが子よ、世界へとはばたけ/芳賀孝治
ビジネス・ママのワンツーパンチ/樫村由里美
悩める日々の諸君へ/矢野正
今こそ人のつながりを大事にしたい/赤松啓子
バトン」を受け継ぎながら生きていくということ/山崎れいみ
HOME ふるさと点描
一本松より/代筆・村田義和
GOURNMET 東京東筑人オススメグルメ店
久留米ラーメン「まんだら屋」/文・菊川一美
DIRECTION 進路指導の現場から
自らを切り拓く東筑生の育成へ/田代龍一
AIRMAIL 海外のOB近況
地球五十周分の出会いと感動/津崎勝利
STAGE2 「東京」に贈る言葉
学生OBのちょっとした同期会/小嶋健三、八木秀和、片岸誠、宮原さつき
福岡へ戻って暮らす今/吉原克枝
恩師からOB 諸氏へ/白石純一郎
POLA CMカメラマンの独り言
「今どき酒の席など」とはいうものの/長山隆吉
MASSAGE 事務局からのお知らせ
会務報告/幹事長総括/懇親会のご案内
BBS ホームページ情報
東京東筑会ホームページの開設にあたって/佐野和範
NEWSPAPER
2001年北九州のできごと
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東筑時代から夢だった
熱い! 今日もまた二人、熱中症で倒れ、救急車を呼んだ。
今、私は、奄美大島にいます。映画 『Hogi・Lala』 の撮影中です。
地元の人も朝10時から夕方4時はあまりの日差しの強さに行かないという奄美のビーチや、ハブのいるジャングルの中で、日の出から日没、日によっては真夜中まで、この8月を過ごしています。
この作品は、私にとって劇場映画第二作日です。大自然は、壮大ですが、苛酷です。私も、撮影半ばの雨上がりのある日、岩から落ちて、中指と肋骨を3本ほど骨折したのに後で気づきました。
ストーリーは、原発で被爆した子供たちが流されて、ある島に辿り着き、そこで、人として心の交流に目覚める話です。来年春に全国主要都市で上映予定です。
しかし、ホントに撮影は骨が折れます…。
私は、東筑時代から映画監督になりたいと思っていました。早稲田大学時代も、イベントのサークルを主催しながら、シナリオスクールに通い、その夢を実現したいと思っていました。
卒業後、縁あって、現在の番組制作会社・株式会社泉放送制作に入社し、ドラマのアシスタントディレクター、アシスタントプロデューサー、ディレクターを経て、プロデューサーとして、いろんな企画を考え、営業し、いろんな人々と積極的に交流の場を設けて、だんだんと自分のやりたい作品をできるようになりました。テレビ朝日 「土曜ワイド劇場-おとり捜査官・北見志穂」シリーズ、Ⅴシネマ「新麻雀放浪記」シリーズ、ゲームソフト、プロモーションビデオ等、一つひとつ実績を積んでゆき、映画の道へ一歩一歩近づいてゆきました。
そして、とうとう今年、東映とギャガコミュニケーションズのデジタルシネマプロジェクト第一弾として、映画 『クリスマス・イヴ』で、念願のスクリーン監督デビューを果たすことができました。
感動させたいと骨を折る
映画は、テレビと違って、時間もお金もかかります。企画・立案までは同じでも、ドラマの場合は、TV局に持って行き、そこの番組責任者に気に入ってもらえれば、後は、その手腕で局内の会議にかけられ、OKが出れば、大丈夫です。何千万円かの製作費は保証されます。
しかし、映画は、製作費が、どれだけ集められるか、スポンサーを探せるかによって、あらゆる条件が決まってきます (撮影場所、日数、主演俳優のギャラのランク、使用するフィルムの質、撮影用カメラ、撮影機材、美術、仕事のできるスタッフ等々)。
そして、決まれば決まったで、個性豊かなスタッフたち、協力してくれる地域の役人、役者の事務所、それぞれの人間関係を維持しながら、金を出すものは口も出す、ということで、まだ駆け出しの映画監督の思い通りになることは、不可能に近いことです。
そういう苦労を経て、第一作目は、ホラー映画になりました。ハリウッドでもジェームス・キャメロン監督をはじめとして、処女作でホラー作品を手がけることが多くあるということは、きっと似たような状況があるようです。
しかし、米国外に輸出されるハリウッド映画は、世界中で宣伝・公開され、莫大な配給収入を得られるので、製作費も億単位、飛行機も、火も、人も制約されないで、作品を作ることができます。
映画を1800円で劇場まで足を運んで見るのに、ハリウッド映画も、製作費の少ない邦画も、値段は同じです。同じ土俵で勝負しているわけです。こう言うと泣き言になってしまいますが、こんな状況でも、映画に魅せられた人間は、できるだけ知恵を絞って、忍耐と情熱で、映画の実現、客を感動させたいと骨を折っています。
こうして、(デジタル化することによって、編集に時間がかからないので、数千万円の低予算で作れる)映画 『クリスマス・イヴ』は、東京で1週間、大阪で3日間単飽上映されました。少ない上映回数でしたが、客の入りは良く、興行的には成功という成果を出すことができました。
企画とは身近にあるもの
そして、今、第二作目 『Hogi・Lala』を手がけているところです。最初は、製作費1億円を見込んで、非常に喜んでいましたが、そんなにトントン拍子には行かず、半分近くになってしまいました。前回と同様、編集マンを雇う費用が出ず、監督自ら24分の1秒単位で、編集室にこもって作業をしています。先ほどの骨折の話も、ひとたび事故が起これば、撮影中止になりますから、役者に事故が起きる前に、自分で撮影場所を歩いてみたのです。結局、危険を自ら感じて、撮影方法を変えました。
そして、撮影の終わった今でも、何とか、いろんな文化振興財団などに申請して、広告費を増やし、少しでも黒字を増やしたいと営業しています。
世の中、不景気で、映画業界も資金難に苦しんでいます。私はその中で、今までひと通り困難なことを経験したり、時には回り道したことによって、いつも、前向きに対処できるのが強みだと思っています (台所事情がわかりすぎるだけに、監督としてのワガママを押し通すことができないこともままありますが)。
これから作りたい作品は、たくさんありますが、まず五つの事が今の私のライフワークです。
一つ目は自分のルーツである、紀州の雑賀衆の映画化。
二つ目は、北九州市を舞台にした映画。
三つ目は、高倉健さんと是非一緒に仕事をしたい。
四つ目は、テーマパークを作ること。(映画作りと同じ位に情熱を持っております)
五つ目は、ハリウッド映画。
企画は身近な所に転がっています。是非企画を持ってきて下さい。お待ちしております。
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STAGE1 21世紀ジェネレーションへの伝言
今、若者のみならず幅広いファン層をもつ人気バンド 「ポルノグラフィティ」 が、そのデビュー曲「アポロ」 でこう歌っていました―
「21世紀になったっていうのに、思ったほど世の中変わっていないね」
どんな世代の方でも共感できる歌詞ではないでしょうか。
特に30代以上の方々にとって、21世紀というのは、通信技術や製造技術の驚くべき進展を目の当たりにしてきた二十世紀後半の高度情報化社会の中で、まさにSF映画さながらの幻想世界が脳裏に拡がるものだったはずです。
ところが、昨年のミレニアム・ブームを受けて幕を開けた現実はどうだったでしょう。今から30年近くも前に描かれていた 「スター・ウォーズ」 や「2001年宇宙の旅」 といったような光景とは、あまりにもかけ離れた、もっと泥臭くて厳しい社会情勢ばかりが目につく、今日この頃のような気がします。
「こんな不安な時だからこそ、夢と未来を描きつづけて……」
「こんなつらい時だからこそ、旧き時代の教訓に学んで……」
今を生きぬく考え方というのは、人それぞれに違った角度があるものです。その智恵を、誰にどう伝え、また自分も学びなおし、共有していくか。そのことが、新しい世紀の幕開けとしては思いも寄らなかった憂鬱を切り拓くために、最も求められていることではないでしょうか。
今回、寄稿いただいた方からは、様々な「21世紀世代」に対するメッセージが感じ取れます。
そして、それは決して悲観的でも否定的でもなく、ある方からはユーモラスに、またある方からはどこまでも真撃に、「人としての温もり」が肉声として伝わってきます。
この特集をお読みいただいて、みなさんも「何か伝えたいものをどの世代にどう残すか」考えてみる契機としてはいかがでしょう。
その世代とは、子どもたちですか。会社や学枚の後輩ですか。それとも、世紀をまたがって生きる自分自身ですか。
(本誌編集部)
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あの高校時代は何だったのだろう
東筑高等学校を卒業して、早や10年、2000年の11月、私は初めて東京東筑会の懇親会に出席しました。大学院を修了し、就職する時期にあたり、一つの節目として私は改めて高校時代の自分を確認したい気持ちがあったからでした。
私の高校時代は、あらゆることに悩んだり迷ったりしながら、勉強に追い立てられる日々を送っていたように思われます。東筑高校は、「文武両道」 の看板を掲げた伝統ある進学校であり、進学意識や向上心が高い生徒たちが集まった高校でした。そのような高校で、私は自分のやりたいことを見つけられないまま、理想と現実のギャップ、思い通りに行かないもどかしさを感じていました。また、着実に歩む友達の姿を見て、焦りを覚えていました。
やがて高校を卒業し、父の転勤のため上京、大学に進学しました。大学では憂鬱な高校時代を封印し、心機一転、ボランティアサークルや文学研究会の活動に励んでいました。しかし幾度か「あの高校時代は何だったのだろう」と思い返すこともありました。いろいろな人たちとのふれあいを通じて、多くの価値観を知り、内省する、その日々の繰り返しの中、東京東筑会に出席するタイミングを得たのでした。
恩師との再会で「目からウロコ」
その日私は思いがけず懐かしい人に再会しました。高校一年生の時の担任の塩川先生でした。先生は壇上で紹介された後、まっすぐ私のいるテーブルに近づいて来られました。私は思わず声を掛けました。
「先生、お久しぶりです。児島です。覚えていらっしやるでしょうか」
「ああ、覚えているよ」
と、先生はにこにこ笑っていらっしゃいました。塩川先生は十年前と少しもお変わりなく、ゆったりとした表情で、私の話に耳を傾けて下さいました。私はいつのまにか高校生に戻っていました。
懇親会が終わり、帰りの電車の中で私は、高校時代のさまざまなことが鮮明に浮かんできました。それらは悩み苦しんだことではなく、一年生の時、文化祭の出し物で映画を製作したこと、二年生の時には奉仕活動に励んでいたこと、途中から食物部に入部してお菓子づくりをしたこと、また塩川先生の英語の授業や、ホームルームでの些細な話など、楽しかった思い出が次々にわいてきました。
その時私は、かつて迷い悩んでばかりいた高校時代であったと思っていましたが、それだけではなく、自分なりにまぶしく輝いていた高校時代でもあったということに気付きました。高校時代で得た悲しいことも楽しいことも、すべて自分の財産であること。
いろいろな人々の支えがあって
21世紀を迎え、社会は一年ごとに変化を遂げつつあります。国際化、情報化、高齢化などの体制づくりに奔走する一方で、それに伴う諸問題が生じてきています。今まで経験したことのない環境の中、「いかに生きるか」 が闘われる時代です。「自分らしい生き方」 や 「よりよく生きるために」 など、いろいろなことが言われていますが、何よりも私は、自分が生きてきた体験や経験を大切にしたいと思っています。そしてこれからの人たちにも、自分の積み重ねてきた体験を大事にして欲しいと願っています。
辛い体験も楽しい思い出も、確実に存在したことには変わりがありません。あらゆることに悩み、傷つき、喜び、模索し、そして無駄であったと知る、実はそんな体験こそが、生きていくためのエネルギーの糧になると思うのです。私の今の姿は、東筑高校時代を含めた日々の呼吸のつながりがあったからこそ、在るのです。またここに到るまで、多くの人たちの関わりや支えがあったからこそ、自分が生きていると思うのです。
そのように考えると、「有り難いことだなあ」と自然に思われてきます。
これからの21世紀ジェネレーションには、さまざまな価値観を持つ多くの世界に触れ、自分の中に経験という宝を増やし、いろいろな人に支えられて生かされていることの貴重さを、敏感に感じて欲しいと思います。そしてそのことは、私の課題でもあるのです。
東京暮らしへの不安
小倉の本社に勤務していた6年前の1月のある日、私は上司に呼ばれました。
「来年の4月から東京支社に行ってくれ」
「えっ、今度の4月からじゃないんですか?」
「いや、来年の4月からだ」
と、一年以上も前に転勤を言い渡されるというへんてこりんな辞令で東京勤務となり、今年で東京での生活も5年目を迎えました。
田舎者の私にとって東京というのは、人が多くて、革も多くて、なにかゴミゴミした感じがして暮らしにくいなあ、というのが当初の感想でした。
また、当時私はすでに結婚していましたが、妻も八幡の人間であり、生まれてからこのかた八幡以外に住んだことがないので、だれも友達がいないこの東京行きには妻も不安がっており、それが一番心配でした。
しかしながら、夫婦二人で身軽なものなので、休みのたびにいろいろな所に遊びに行ったりしていくうちに、妻も東京での生活が楽しくなってきたみたいであり、また友達もできて、今ではすっかりなじんでおり、私としてもはっとしています。
本社時代はちやほや?
私の方はといいますと、現在でも、人が多くて、車が多くて、ゴミゴミしているという印象は変わりませんが、いろんな場所で遊び、また仕事をやっているうちに、東京には 「活気」 というものがあるなと感じました。残念ながら、地元北九州市においては最近、活気というものが感じられません。それこそ最新の情報、新しいものは東京から発信されます。
また、仕事上著名な弁護士の方とも会う機会もあり、そのような方の話を聞くだけでも非常に勉強になります。東京に来てなかったら、こうした機会もなかったでしょう。
そして、世間というものについても勉強になりました。私の会社は、本社が小倉にあるため、小倉にいるときは周りがちやほやしてくれるのです。しかしながら、東京ではあまたある会社の中の一つにすぎず、当然ちやほやなんてことはなく、これが普通なんだと認識するいい機会となりました。これが、地元にいたのでは勘違いするのであり、今考えるとぞっとする気さえします。
日本を越えて世界へ目を向け
今では、この東京に転勤となったことで、いろいろな経験ができ、よりいっそう客観的に物事を見ることができるようになりました。仕事の面でも、小倉の本社にいたときとはまた違った考えをすることができるようになり、自分にとってのこれからを考えた上でもいい転機になったと感じています。
私の場合、東京に住んだことぐらいでも、自分の人生の転機になったと感じていますが、これからの21世紀の世代を担っていく人たちは、日本なんていう小さい枠にとらわれず、世界に目を向けていくべきであると考えます。
21世紀は、これまでにも増してスピードが速く移り変わりの激しい時代になりそうで、その中を生き抜いていくためには、日本を越えて世界レベルで物事を考えていかないといけないのではないかと考えます。
私の例ではないですが、日本を外から見れば、よりいっそう日本のことがよくわかると思いますし、世界をまたにかけて活躍してもらいたいと思います。
21世紀を担うわが子へ
私事になりますが、7月の未に私たち夫婦にとって最初の子どもである尚登(なおと)が生まれました。まさに21世紀最初の年に生まれたものであり、この世紀は彼らの時代です。
大変な時代に生きていかなければならないということに、親としてはもう今から不安を抱いていますが、そんな不安なんか吹き飛ばすように、世界に目を向けて大きくはばたいてほしいと願っています。
と言っていると、私の人生はもう終わってしまったかのような感じですが、私もまだ三十代半ばであり、まだまだこれからバリバリ働いていかなければなりません。移り変わりの激しい波にもまれながら、時には苦しみ、また、時には楽しみながら、暮らしていこうと思います。
会社とウマが合うって大事
東京に出てきて今年でもう17年。
「もう八幡での年月と東京での年月が変わらんくらい経っとうんやなあ…なんて思いながら、この原稿を書いています。
大学を出てIBMという会社に就職したけど、すごくオープンで、はっきりモノ申すのを歓迎し、言うことは厳しいけどみんな自立してて、こんなおてんば&はねっかえりな自分にはウマが合ってたんでしょう。パワフルで才気換発な先輩がたと一緒に、24時間でもバリバリ働くことにはまっちゃいましたね。自分のアタマで考えて進め方を決め、はっきり人と渡り合って説得し、いろんな人の協力を取り付けて一人じゃできない、いい成果を作り上げていく、といったプロセスが本当に面白くて。
良くも悪くも女を女扱いしない、きっちり男女平等の会社。徹夜や寝泊りもするけど、「女の子なんだからもう帰りなさい」と言ってくれる優しいおじさまなんぞいない代わり、「これコピー」なんつ-おやじもいない。てなところだったので、気が付くと子どもが二人いて (あ、その前に結婚もしてます、一応)、しんどかった保育園通いももう卒業、二回の育児休職のハンディにもめげず、なんだかまだ仕事続けていますねぇ。ここ数年、モパイルワークとか、仕事と個人の生活をなるべく両立させようという会社の制度が進んできてまして、今年なんか、夜なんと8時より前に帰宅していることが大変多い(数年前までの死にそうな激務からすると夢みたい)。
ひとつには、若い人なんか特にそうだけど、「会社(仕事)」と「個人の幸せ」 のバランス、ということに対する意識がすごく変わってきてるんで、優秀な社員に見捨てられないために会社も手を打って来てるって感じ (「ワークライフバランス」 と名付けていろんな施策を展開してます)。
パートナーの理解があってこそ
夜10時過ぎて一通り家事をこなし終え、パソコンを会社のネットワークにつないで仕事の続き。立て込んでたら朝まででもやってる (もちろん夫の理解やバックアップなしには成立しないわけで、これも大きい)。
年齢を問わずいろんな人から、「えらいねえ」とか 「すごいねえ」 とか言っていただくことがあるんですけど、自分としては、実はあんまりぴんと来ない。例えば同期の男性と比べたら、体力もファイト持続もど-しても劣ってる自分に、いつも劣等感がある (男の人はホントえらい!としょっちゅう思う)。
会社は「子どもがいて大変だから、その分仕事の質が低くてもしょうがない」 なんつ-見方はしてくれない。戦力として使えるか使えないか。「すごい」とか「えらい」とかいうのは、どんな事情があろうと、ビジネスマンとして優秀な仕事ができている時の評価、だと感じています。
確かに、子どもがいて、しかも営業続けてる人(女)ってあんまりいない。バリバリやってる女の先輩も少ない。でも、奥さんも働いてて保育園の送り迎えをやってる後輩(男)もいるし、ついに育児休暇を取った男性も出た。子どもだけじゃなくて、ストレスとか家庭のゴタゴタとか、多かれ少なかれ、いろんな形のハンデしょってて、みんなそれでも何とか折り合いつけて頑張ってるんじゃないかな。
軟弱なキャリアウーマンを目指す?
この頃、会社を辞める人がすごく多いんですよ。やりがいある仕事のはずが、競争が厳しくなってじっくり攻めるなんてできなくなって、手近な成果ばかりを性急に求められる。なんだかあくせくして、その割にやたら激務で、でも雇用も先が見えない。社内事情も激変して、十年後にどんな仕事してるか全然わからない……。辞める人が多いのも分かる。
だから余計、「会社」という観点からだけじゃなくて、自分にとって人生で重要なものは何かって考えちゃう。
仕事のやりがいも大事だけれど、個人としての幸せも大事でしょ。例えば、子どもを愛情いっぱいに育てる (口で言うほどできてないけど)、趣味を楽しむ、家族と伸むつまじく暮らす、なんて、そんなことの優先順位が近年、グッと上がってきて、それもいいなって思っています。「バリバリのキャリアウーマン」 から 「軟弱なキャリアウーマン」になっていってるかも知れないけど。でもバリバリだろうが、実態は毎日、悩んだり落ち込んだり、時には悔しくて泣いたり (会社のトイレで)。コンプレックスもいつもあって、かなわないと思うすごいやつ(男)ってそこここにいるし、いつリストラされるかわかんないって思うこともある。反対に自分の能力だって捨てたもんじゃないと思ったり、英語やら新しいチャレンジ、勉強、どんどん頑張ったりもしてる。三歩進んで二歩下がるワンツーパンチな人生って訳で(何だそりや?)。
要するに大したことやってないんだなってことが、おわかりいただけたと思うんですが、ちなみに上の子(小学4年)は担任の先生から「自分がしっかりしなくちゃって気持ちが背中から漂ってます」とコメントされるはど妙にしっかり者に育ち、母親がいい加減な方が子どもは反動でまともに育つようです。
皆さんもまた、明日からお仕事頑張って。ともに、故郷に錦を飾りましょう!?

私の原点
私はロイヤル(外食産業)と第一企画(広告業)で15年間人事を担当し、独立してから現在までの10年は人事制度のコンサル、研修講師を中心に事業を営んでいます。
特に 「キャリア」というテーマを中心に、企業内研修、講演、通信教育のスクーリング等を担当しており、先日も岐阜県の中学2年生に「働くことってどんなこと」 というテーマで講演を行いました。
肉体的には若干しんどくなっているし悩みもあるのですが、現在はとても充実感を感じております。その大きな理由は、次の二つです。
1 様々な人的財産に支えられてきたこと
2 ロイヤルを選んだ時に立てた、「集団で何かを築いていきたい」という仮説を持ち続け、第一企画時代、そして現在も大切にしていること
人は、仕事をしていく上で仕事観(仕事の目的と手段)を明確にすることで、精神的困難を乗り越えたり、工夫を生みだせるものです。このことは仕事だけではなく、遊び、スポーツ、学業等すべての「行動」に当てはまると思います。
独立の経緯
私は二人の創業者社長に仕えたのですが、「社員の一人ひとりが気持ちよく働けないといい会社にならない。そのためには人事が頑張らなければ」と痛感し、社長に直言もしてきたつもりです。企業人としての充実感もありましたが、限界や物足りなさを感じたのも事実です。
迷っていた時、出張したアメリカで出会った若者たちに触発され、「せっかくだったら、失敗してもいいからフリーハンドの人生を描いてみよう」と決意し、この世界に飛び込みました。
実績も経験もない私に仕事をいただけるはずもなく、経済的・精神的に何度も落ち込みました。その時に支えてくれた家内にはとても感謝しており、いまだに頭があがりません。
そんな中で自分の持ち味を「15年間の採用活動で培った若者との接点の取り方」に見出したのです。そして若者対象の研修を模索しているうちに、「キャリア」というテーマに出会え、実績と自信をつけながら、徐々にマネジメント研修等に展開していくこともできました。
後輩へのメッセージ
■仕事に行き詰まりを感じているあなたへ
人は誰でも仕事生活や私生活で壁にぶつかるものですが、悩んだり苦しむということは、視点を変えると成長したり進歩しているのだと思います。じっくり自分と向き合いましょう。
1 マイナス面ばかりを見ていないで、小さくても良いからプラス面に目を向ける。
2 客観評価はさておき、自分で納得できる足跡をいくつ残せたか振り返る。
3 本当のところ、①自分が何をやりたいのか、②自分に何ができるのか、を明確にする
要は、苦しい現実から逃避するだけでは、同じ事の繰り返しになる可能性が高いのです。
以上のことを、今の環境で実践してみて、それでもダメならば転職も考えましょう。
■独立を目指すあなたへ
独立するだけならば誰でもできるし、ましてやコンサルタントには誰でもなれます。
ただし、長続きできるかどうかは別物です(難しいということ)。独立開業にあたっては、
1 事業を起こすことによって、自分が何を実現したいのか、誰にどのように満足してほしいのかを明確にする。理念や方向性を明確にすることで、具体的な内容は修正もきくし、幅広く展開もできる。理念がない事業は、少なくとも長期的には失敗する。
2 綿密な事業計画を立てても、計画通りに行くのは難しい。どこまでリスクを負えるのか、我慢できるのか、見通しを明確にする。
3 失敗を恐れずに、好きなことに挑戦する。
できれば、これを機会に全国の校友とも連携をとっていきたいと願っています。
体を動かさない時代に残せるもの
昨年の東京東筑会懇親会から早いものでもうすぐ1年が過ぎようとしています。昨年の今頃、私たち70期は皆、会の準備に奔走していたことが懐かしく思い出されます。
さてこのたび、「21世紀ジェネレーションへの伝言」 という大きなテーマでの原稿依頼をいただいて、少し戸惑っています。日頃平凡な主婦として、毎日をボーつと過ごしている私にはさしたる問題意識もありません。
でも今、私の横でテレビを観ながら大口をあけて笑っている、ピチピチギャルの我が娘を見ておりますと、大丈夫かな、これからが大変なんだぞといってやりたい気がします。私たちが彼らの世代に何を残し、また彼らはどんな社会を築いていくのか、考えてみるのもいいかもしれません。
もう言い尽くされた事ですが、20世紀は科学の進歩により環境や生活が激変した世紀でした。おかげで私たちは、体を動かさず家の中にいながら、おいしい食べ物を食べ、娯楽を楽しむことができます。
インターネットや携帯電話の普及は、体の不自由な人たちや高齢者にとってバリアフリーを進める確実な手段となっています。今や耳や口を使わなくとも、携帯電話でポチポチとメールを打つのは当たり前の光景ですよね。かくいう私は、最近やっと自分のパソコンを持ち、インターネットを始めたばかりの初心者なのですが……。
I T 時代に疎外感がないか
私の両親は、私の家から近いところに住んでいるのですが、最近、母は父の介護に追われる日々を過ごしています。もちろん始まったばかりの介護保険制度を利用していますし、私も手伝っているつもりです。それでもそばにいると、考えさせられる事が多くあります。
身体的、物理的に大変な時の援助は本当にありがたいのですが、同時に精神面でのサポートが不可欠だと感じます。
ITが普及しても、それを使えないお年寄りなどは、かえって疎外感を強く感じているのではないでしょうか。普通の人は横のつながりをどんどんつくっていくのに、そこからこぼれ落ちた人たちは、空虚な思いをいだいているように思えるのです。
このことは若い世代にも言えるのかもしれません。連日のように新開に載っている子どもの虐待事件も、横のつながりからはみだした疎外感が根底にあるような気がします。
一緒に頑張らなくては
人は誰でも仕事生活や私生活で壁にあたります。社会はこれからもっと効率的でスピードが速くなるのでしょう。その速さを緩めることは、できそうもありません。でも、その速さについていけない人たちもたくさんいると思います。あと十年もすると、きっと私もそうなっているでしょう。そんな人たちも生き生きと暮らせる、受けたい時に、物理的だけでなく、精神的なサポートも受けられる、そんな社会が来たらうれしいです。
えらそうな注文を若い世代にするだけでなく、くたびれかけた私たちではありますが、一緒になってもうちょっと頑張らなくてはと思っています。
COLUMN
21世紀へ残したい昧…学食再現
(昨年度 東京東筑会懇親会 裏話) 企画 70期(担当:赤松啓子)
メニュー/
定食〔メルルーサ(魚)のフライ+スパゲティーのケチャップいため+キャベツの千切り〕
素うどん(つゆと上にのせる細ねぎ、なると巻き、とろろこんぶにこだわって再現)
折尾の「天狗屋」のチヤンボンうどん(うどんのつゆにチャンボンの麺、具はもやし、豚肉、たまねぎ、キャベツ)
定食についての再現はプリンスホテルのシェフにほぽおまかせしましたが、素うどんとチャンボンうどんについては、しょうゆ、麺、だしの素などを、九州から取り寄せ、試食をくり返し、苦心しながら徐々に昔の昧に近付けていきました。
現在の学食はかなり豊富な、豪華メニューとききましたが、当時(70期)は、定食、素うどん、てんぶらうどん、いなり、それとカレーしか、ありませんでした。
私はなぜか、学食について、鮮明な記憶が残っていて、例えばお皿の形や色、そしてどんな風に盛り付けされていて、たくあんがこんな風に添えられてた、とか(笑)。それで、気づくと、この企画担当のひとりになっていました。
色々と大変でしたが、懇親会当日はお陰様で、参加者のみなさんへの話題提供としても成功したようだったので、うれしかったです。透明なつゆのうどんは関東ではほとんど見られないので、懐かしく思ってもらえたようです。
ただひとつ、懇親会のお土産に、折尾の味としいて欠かせない「東筑軒のかしわ飯弁当」を!という案があったのですが、品質管理の問題があるとのことで実現できず、残念でした。昨年思しがけず、懇親会のお手伝いをしたことで、東筑の人たちと再会、あるいは新しく知り合えてうれしく思っています。
齢七十も近くなると、次世代へ伝えたいメッセージなど、今さら思いつく言葉なんてないんだけどなあ-、などと考えていた矢先、私は某誌に掲載された次のような記事に出会って、正直言っていささかうろたえた。
夏になるとほとんどのメディアが特集する「終戦もの」のひとつで、沖縄をテーマにしたそれは、豊見城村(とみぐすくそん)にある旧海軍司令部壕に残された、幹部将校の最後の電報や、家族に宛てた手紙である。
この壌にいた幹部六人は、米軍の猛攻撃にあって拳銃自決したのだが、大田少将が海軍次官に送った電文の最後は『沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と結んであり、山田中佐が息子の雅弘に宛てて書き送った手紙は自決直前にこの壕で書いた、いわば遺書というべきもので、
『雅弘よ。父はバトンをお前に渡したよ∥‥父が望んで達することのできなかった更に大なる飛躍こそはお前以外に誰が継いでくれるひとがあろうか……。昭和20年海軍壕にて 山田弘国中佐』。
終戦時12歳だった私は、沖縄の惨状を知るのは大人になってからだが、その後社会人になつてから沖縄を旅した時この海軍壊へも訪れ、ぐっと胸に迫るものがあったのを記憶している。そして熱い思いで誓ったものだ。
「《斯ク戦ヘリ》は《バトン》として受け継ぎます。さらに私より後に生まれる者にも継いでいきます」と-。
なのに私は今、次世代へ伝えたいメッセージなどないと言っていいのだろうか。
◇ ◇
少し前新聞の仕事で、夏休みに入ったばかりの若者にインタビューした。場所は渋谷。茶髪、ガングロ、もちろん普通っぽいのもいる。
夢は? 「別に、……」
先の戦争のこと考えたことある?
「別に、……」
残念ながら彼らの答に、「別に、……」以外はほとんど得られなかった。
それって無気力すぎない? とたたみかけたかったが、止めた-。
◇ ◇
ほぼ空席のない地下鉄の車両、両手に荷物の老夫婦が乗ってきた。高校年代の男女4人、大股広げバッグを横に6人分の席を占めているが、老夫婦を無視。「もう少しつめて」と一言声をかけたかったが、止めた-。
◇ ◇
某誌の記事から、あの海軍壊を訪ねた時の記憶を蘇らせながら、最近接した若者の姿が忽然と浮かんできた。そして戦争で死んでいった人の〈バトン〉は全く受け継がれていないことに気づいたのである。それは若者たちにも、私ら年とった者たちにも-。
少なくともここにあげた二例、私は彼らに向かって何かを言うべきであった。ここ2、3ヶ月をみても、年老いた私が、若者に語りかけなければならない言葉がいっぱいあったはずだ。しかし、そうはしなかった。
これじゃ 「別に、……」 としか答えなかった若者や、老夫婦を無視した高枚生と同じではないか。
◇ ◇
50代頃までは、「今時の若いモンは―」と年がら年中怒り狂っていた。
1970年代頃までは、年配者の小言が通用する社会がまだ残っていたような気がするのである。
しかし、それからおよそ20余年、年寄りが「今時の若いモンは―」と言いつのるのを潔しとしない風潮が生じてきた。この国、私たちの住む社会は、この30年で随分と様変わりしたようだ。超高層マンションが建つとか、高速道が整備されたとか、ではない、日に見えないものが消えていったのである。つまり人間が守り続けてきた約束事や、礼儀作法、年代から年代へと伝えられる、思想とか、ある考えとかが消滅してしまっている。
8月28日付の毎日新聞に次のような投書(兵庫県・岡さん=52歳)が載っていた。
『この夏、小学生たちを集めてキャンプをした。素直で元気な姿を微笑ましく思う反面、少し気になったことがある。グループごとに盛られたご飯とおかずを分けて食べる時、他人のことはおかまいなく、われ先に自分の欲しいだけ取り分ける子がほとんどだったからだ。全体でこれだけだから一人あたりどのくらいか、といった感覚が薄いのだ。…中略…子どもたちが自分の周りを見つめて、周囲の人とかかわりをもって生きているという共生感覚を身につけて欲しいと願い、「水の少ない井戸にありついたとき、どんなに喉が渇いていても次に来る旅人のために井戸の水を飲み干してはならない」 という「モンゴルの旅人の掟」を伝えた』
◇ ◇
―さまざまな思いが去来したこの夏、やっぱり私は君たちに呼びかけることにした。
「後輩よ、若者よ、共生しよう!
70歳も、17歳も同じ空気を吸っているんだ、無気力無関心は止めて《バトン》を受け継ぎながら、共に生き合おうよ。でないと、この国はダメになる!」 と。
〈筆者註=この原稿は8月に書きました〉

やまざきれいみ
昭和20年、折尾高等女学校入学。
同21年、学制改革により東筑中学と合併、東筑高校併置中学となり、同中学から高校へ。東筑中学創設以来初の女子学生。
日本女子大学卒業後、毎日新聞社入社。社会部、サンデー毎日編集部、編集委員を経て、平成5年退社。スポーツニッポン新聞社編集局嘱託など務め現在フリー。
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HOME ふるさと点描
一本松より (代筆…村田義和 84期)
拝啓
みんな元気しとう?
ほんと今年の夏はちかっぱい暑かったけん、心配しとんやがたまには元気な顔を見せに帰ってきっちゃ
おれんとこの周りもだいぶ変わっとうけぇ
どこもいっしょで景気のいい話はあんまりないけど
北九州も変わろうとしようけん、見よってん
ハードとかソフトとか、コンタクトレンズみたいなこと言いよる人もおるけど
製造業の町から学術、物流、etc都市への変革を狙おうとおち言いよった
「まちが変わっても住む人間は変わらんやん」げな
意地悪りいこというのもおるけど、
おれも、でたん勉強しようし、気合が違うけ、大丈夫なんやない?
変わったちゆったら、ちと遠くを見たら
前まで若松と芦屋の間にあった山がのおなって
学術研究都市げないうのができよってから
みんなが帰って来やすいごと、新しい産業の芽を育てようんやが
海まで行ったら若松には国際ハブポート
(今、アジア拠点は上海やけどこれができたらすごいんやが…)の計画もあるし
枝光のとこは大谷インターからスペースワールドまで
恐竜の背中のごたる高架がまちの上に架かっとおんやけん
すごいっちゃ!
スペースワールドちゆうたら隣の敷地で北九州博覧祭がありよぉんやけど
11月までやりよおけ、一回見にきちゃりぃ
857億の経済効果を見込んどおらしいけど
失敗したら市民税が上がりそうやけ、ちょっと心配しとおっちゃ
それからおれんがたも
若松の二島に引っ越す話が挙がっちゃあ消えよぉんやけど
みんな迎えるのはやっぱここがいいちゆうことで
どげんかこげんか、ここに居座っとおけね
でも変わらんもんは変わらん
「橋本」知っとお?
最近、歳のせいで物忘れがひどうなっとぉけど
「とくチャン」(特製チャンポン)は
180円で変わらんし、「クリぜん」(クリームぜんざい)は
のおなったけど、それに代わるデザートもできたげな
よう考えたら昔から吉野屋とかマックの域をこえとったんやなぁち
今さらながら思うばい
仏壇の上にある写真の数が変わらんのもうれしいところやね
頼みがあるんやけど、みんなの子供も東筑に入れちゃらんやろうか?
おれも当面は200歳めざして頑張るけ、みんなも東京で頑張りぃね
敬具
追伸:今年もドラフトに有力な奴がおるけん、応援たのむばい
解 説
一本松について
明治31年、東筑高校〈当時は旧制中学)の誕生時に、すでに東筑の丘にそぴえ立っていた松の大木。
運動場の真ん中で、約3万人の東筑生の巣立ちを見守っていたが、枯れてしまったために、昭和35年11月30日、厳粛な鐘魂式のあと、切り倒された。
その18年後、東筑会当番期の45期生で、「記念として、まさに東筑のシンボルであった、あの一本松を掘り起こそう」という企画が持ち上がり、昭和50年2月10日、掘っこが発掘された。古い写真を資料に、同期生の測量士が位置を決め、同期生の建設会社社長がショベルカーを持ち出し、3日間、約30人での発掘作業だった。その後、根はきれいに磨き上げられ、高校に飾られた(現在は同窓会舘に飾られている〉。また、100周年を終えた1999年2月、松の若木が多目的ホール玄関前に植樹され、東筑の丘に成長しつづけている。
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麺はもちろん、塩も醤油も九州産 こだわりの本格トンコツラーメン 文・菊川一美(76期)
平成11年のオープン。店主の池田秀二さんは今年40歳。出身は山口県、下関商業で甲子園にも出場したことのある野球通。
九州でサラリーマンをしていたが、小倉でラーメン修業、「気がついたらラーメン屋をやっていた」とのこと。単身上京し、本格久留米ラーメンを東京で継承する。
久留米ラーメンは九州トンコツラーメンのルーツ。最初は、東京・横浜の支那ソバと長崎チャンボンをヒントに創られたという。有名な話だが、火加減を任せて買い物に行った店主が遅くなって戻ってみると、白濁したスープが沸騰していた。そのまま店に出したところ人気爆発。これが、小倉、日田、北部・中部九州へと拡がっていった。
その血筋を引く 「まんだら屋」。私の独断で三つの感心を紹介します。
その一 替え玉がすごい。
ラーメン一杯590円。シンプルなチャーシューと万能ネギ。最初はもちろん、九州ならではの細麺。これが100円の替え玉を追加すると、極細麺が登場。「スープが冷めてないうちに」とのことだが、まさに「ひと粒で二度美味しい」
その二 激安絶品の酒とつまみ
200円のネギチャーシュー、480円の手羽餃子。これをつまみに、またアルコールが安い。なんと生ビール一杯350円、酎ハイ300円。他にも春巻や、店主に言えば餃子も出てくる。
その三 メニューに「てんこ盛り」
これ、トッピングの大盛である。もちろんトッピングといえばネギ、チャーシュー、玉子、ノリが九州ラーメンの必アイテム。これを「てんこ盛り」でお願いすると、3倍になって出てくる。特に300円のネギを頼むと、万能ネギの海で下のスープが見えません。ネギ好きは必食。
店は神田の裏スジにある。カウンターに5人も座れば満席 (2階は10人くらいで小宴会OK) の、この小さな気合いの入ったトンコツラーメン屋を、私は応援しています。東筑人は是非一度ご賞味を! お味は来店してのお楽しみ。ヤミツキになること請け合い。「ラーメン屋をやってみたい人大歓迎」だそうです。
(*店舗の案内、地図は商業宣伝になるので割愛しました。 HP管理人)
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DIRECTION
田代龍一(たしろ りゅういち)先生
東筑高校数学教諭。お父様は東筑で長年、体育の教鞭をとられた田代進先生。
教育環境の変革を受けて
変化のスピードが著しい社会情勢の中、教育の現場でも学枚完全週5日制、国立大学の独立行政法人化、センター試験の改革(5教科7科目を課す等受験生の負担増)等、今までにない変革が進みつつあります。
また、いつの世でも言われることですが、子どもたちが変わってきている、根気がない、幼稚である、学力が低下しているといったことが本校にも現れてきていることを実感しています。
このような中で今年4月から進路指導を担当する者として、東筑生の現状をお知らせし、私たちの目指す進路指導の方向性を考えてみたいと思います。
国公立志望が圧倒的
まず、生徒の志望動向ですが、現在の経済状況を反映してか、圧倒的に国公立志向であり、現役生の私立大学受験校数は平均して1校に満たないことがあげられます。早稲田や慶應といった有名私大の指定校推薦についても出足が非常に鈍く、なかなか希望者が出そろわない状況です。反面、一浪すると保険を掛ける意味もあるのか、4~5校受験する者も多く見受けられます。また、やはり地元志向が強く、九州や中国地方の国公立大学を受験する者が大半を占めています。ただ、これについては、学部学科の内容まできちんと調べるように指導することで、受験する大学数が少しずつ増加してきているように思えます。
学部別に見ると、医歯薬系統に根強い人気があり、それとともに具体的な資格や技術が身につく工学、看護学等の希望者が多いようです。文系学部では、目立った傾向はあまりありませんが、法学、心理学や教員養成系統を志望する者が増えています。
しかし、あくまでも第1志望にこだわる生徒は減ってきており、成績や保護者の意向、その他の条件に左右されやすくなっていると思います。これは明確な目標がないために強い志望動機を持っていないことが原因で、そこをどう指導し、支援していくかが私たちの大きな課題であると考えています。
「生き方」に目を向けさせる
次に学力の問題ですが、文部科学省のいう「ゆとり」教育や公立中学校の人気低下、さらに週5日制の影響で私立の中高一貫校に学力の高い生徒が集まる傾向は北九州地区にも見られます。そして本校に入学してくる生徒も学習塾で指導された通りにしか勉強をすることができず、主体的・積極的に学習する者が少なくなってきています。また、実体験に乏しいので、知識は多いのにそれらを整理統合して、具体的な方向性を見出すのが苦手であるように思われます。
九州地区の公立高校では、これらの問題に対して補習(課外)の時間を増やし、生徒を拘束する時間を拡大してきました。毎日7~9時間の授業や学習合宿、テストの繰り返し等です。しかし、これらの方法ではもう対応できなくなってきています。
最近の傾向では、1年入学当初の徹底的な指導(高校生としての言動やマナー、学習方法等)、大学教官による出張講義や説明会、学生OBや社会人(同窓生や保護者等)による講演会、さらに新しくカリキュラムにはいることになった「総合的な学習の時間」を利用して、自分の進路を考えさせる指導を導入するなど、「生き方」に目を向けさせて具体的な目標を見出させる方向へと変化してきています。
そこで本枚でも、今年度の進路指導部の目標を「自ら進路を切り拓くことのできる東筑生の育成」として、以下のような指導に取り組んでいます。
Ⅰ自ら進路を切り拓くことのできる東筑生の育成
・単なる大学選びではなく、10年、20年先の自分を見据えて進路選択ができるように指導する。
・情報、資料を自分で収集できるように環境作りをし、指導する。
・3年間の指導計画を明示して、生徒に考えさせる。
Ⅱ小論文、面接指導の重視
Ⅲインターネットの活用(生徒が自由に使える環境作りをする。)
Ⅳ進路設計……講演等
・先輩の進路講演…大学生、大学院生による学部別の講演会
・出張講義…大学教官による本校での講義
・大学説明会…各大学を招いて本校にて実施
この中でもインターネットの利用の効果は大きいのではないかと思います。いつでもパソコンが自由に使える環境を準備しておくことで、情報の即時性や量の多さという面はもちろん、「自身で検索する」ということを意識させるのが重要だと考えています。受身の姿勢から能動的な態度へと方向を変えるきっかけになるのではないかと期待しています。
また、「先輩の進路講演」は今年で4回目になります。学生(院生)のOBを確保するのは大変ですが、身近な先輩の生の体験が聞け、気軽に質問できることで好評です。そして、運営を生徒に任せて最後のまとめまでさせることで、良い経験になっているのではないかと考えています。
同窓生との貴重な体験も
最後に、これは進路の企画ではありませんが、創立百周年を機に多くの同窓生の方の助力を得て始めた生徒派遣事業も、生徒に非常に貴重な体験を与えていると思います。平成13年3月には、生徒11名、引率教論2名で東京研修を行いました。
このときは歓迎会を開いていただいたり、大学や企業等の同窓生の方には、普段見学できないような所まで案内していただき、東京東筑会の皆様には大変お世話になり、感謝しております。そのときの生徒たちは今、学校の中核として活躍しています。
特に柴田君と花井君は、九州大学の対話集会で、やはり東筑高校の同窓生である九州大学の杉岡総長と、高校生代表として堂々とディスカッションをしました。他の生徒たちもこれからが楽しみです。
以上書いてきましたように、進路指導とは生徒に生き方を考えさせ、生きるカをつけるための支援をしていくことではないかと思います。東筑は人的財産に恵まれていますので、今の東筑生にはそれを生かす指導をしていかなければならないと考えています。
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AIRMAIL 海外のOB近況 このコーナーでは、海外で活躍するOBの近況を寄せていただきます。
パツイチ男 捨て身のフットワーク
書いては破り、書いては破り、できたと思ったらそれをデスクがまた破り…。
原稿用紙と格闘したのも今は昔。仕事柄、パソコン、インターネットなしの生活など考えられない身ではありますが、遠く太平洋を挟んで、東筑野球部の試合経過を、しかもリアルタイムで追っかけられるんですから、つくづく便利な世の中になったものです。
ロサンゼルスを本拠に、米国のスポーツ取材を担当するようになって、足掛け3年が過ぎました。校歌にうたう 「身は健やかに気宇ひろく」のまま、言い換えれば健康だけが取り得のハッタリ野郎を、「英語はできなくていい。必要なのは、バツイチ男の捨て身のフットワークだ」と送り出せる会社の器量のおかげで、ま、少しは見開も広がったんでしょうけどねえ。
小紙の米国駐在スポーツ記者は三人。
ニュースや各プロスポーツ機構担当のニューヨーク駐在、イチロー、佐々木らを追う大リーグ専従のシアトル駐在と違い、「事あらばどこでも駆けつける」というのが小生のスタンス。かくいう今日も、朝早いうちにロスを出発して、午前中は来年の五輪開催地ソルトレークシティーに立ち寄り、現在は「大リーグの素顔」という連載記事の取材のために米国のほぼ真ん中にあるカンザスシティーに滞在中という慌しさであります。
1ヶ月のうちの約20日間は全米中を飛び回り、これまでの総飛行距離は約50万キロ(地球を50周半)。東京本社の上司たちは 「ちょっと日帰りで大阪に行ってくれ」 ってな調子で、飛行機で片道4、5時間という海外旅行並みの国内出張を次々に命じてくれています。
ちなみに、今年7月に丸山茂樹選手の米プロゴルフツアー初優勝を取材した際も、現地入りしたのは最終ラウンド当日の朝5時。福嶋晃子選手が1昨年の5月に米国での初優勝を飾った時などは、別の取材地からの当日移動でホールアウトの瞬間はおろか、試合後の記者会見にも間に合わず、他の記者への取材をもとに「見てきたようなウソ」の原稿を仕立てました。もっとも、そんなダメ記者ぶりが印象に残ったのか、その後は個人的にも親しくさせてもらい、自己初の70台ラウンドを福嶋プロ本人がアテストしてくれるという幸運にも恵まれました。
ひたむきさの輝きを求めて
「下手な鉄砲も数射ちゃ当たる」。いろんな現場に、首だけは突っ込んでいるうち、時には歴史的な瞬間に立ち会うこともあります。タイガー・ウッズが前人未到のメジャー4連勝を成し遂げたうちの3勝をこの日で目撃し、大リーグ・オールスターゲームで並み居るスーパースターたちを上回るイテロー選手への大歓声を聞いた瞬間などは、「記者席」という仕事場にいることさえ忘れ、鳥肌が立つほどの感動を味わいました。
「筋書きのないドラマ」を演出するアスリートたちの 「真のドラマ」 を掘り起こしたい…。取材力も筆力も、到底その域には及ばない 「プン屋」 のはしくれなりの 「原点」をたどると、高校時代に行き着きます。応援部の一員として目撃したのは、起きているのは弁当と体育の時間だけという野球部の 「眠狂四郎」たちが、試合の日にグラウンドで見せる「円月殺法」 ばりのファインプレーやホームランの数々でした。友の知られざる一面を垣間見た驚きとともに、甲子園出場も夢ではない高い競技レベルの中で 「一球入魂」の情熱が燃えたぎる臨界のまぶしさを、初めて感じ取っていたのかも知れません。
ウッズのガッツポーズ。イチローのクールな笑顔。そして、東筑野球部員の汗と涙。それらの本質は、それぞれの選手が自己の内面との対峙に、時に打ち負かされ、時にそれを乗り越える過程での「ひたむきさの輝き」。スポーツの現場に散りばめられたそんな普遍的な「美」を拾い集められたらと思います。
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STAGE2 「東京」に贈る言葉
PART1 座談会 学生OBのちょっとした同期会
今いる東京、心の東筑
出席者
小嶋健三 (慶應義塾大学商学部4年)
八木秀和 (青山学院大学経済学部3年)
片岸 誠 (明治大学農学部4年)
宮原さつき (東京大学経済学部3年)
〔発言順、全員96期〕
東京は楽しい? それとも寂しい?
故郷を離れて暮らしていると、
どうしても同郷の輩と心ゆくまで
語り合ってみたい気持ちになりますよね。
そんな若者たちの生の声が聞きたくて、
東京在学の学生四人で
ちょっとした同期会を開いてもらいました。
なぜ東京の大学を
小嶋 みんなと会うの、高校を卒業して以来だから、こういう形で会うのは初めてなんやけど、お互いに時々会ったりする?
八木 片岸とは同じ野球部やったし、今も一緒にバイトやってるからね。
片岸 まあ、くされ縁てやつですか。
宮原 それを言ったら、私も片岸君とは中学からの縁だもんね。
小嶋 ああ、そういうつながりだったんだ。
宮原 でも、会うのはずいぶん久しぶり。こういう機会でもないと、なかなかね。
八木 小嶋は今も陸上やってるんでしょ。今日もいかにも練習帰りってスタイルだし。
小嶋 いや、これは私服なんやけどね (笑)。正式の大会出場はもう終わったけど、今後に向けてのこともいろいろあって。実は、明日も朝から練習がある。
片岸 じゃあ、今日はあんまり飲めんね (笑)。
小嶋 みんなももう、学校が忙しくなってない?
宮原 私は今、休み中。
片岸 国立って秋休みがあるんよね。
宮原 そう、9月に一度試験期間があって、それが終わったら、もう一回休みがあるの。
八木 いいなあ。でも、みんな大学に入ってからのこと、いろいろ研究して東京の大学に決めたりしたわけ?
小嶋 オレの場合は、陸上やっていた関係で慶応と同志社の指定校枠に入れたから。正直言って受験となると、どうしても浪人になっていたと思う。
片岸 で、慶応を選んだ理由は?
小嶋 そう聞かれると答えにつまったりするけど……。やっぱり慶応っていうと、都会的なイメージがあって、みんな賢いし、お金ももってるみたいな。あまり人前で言えたことじゃないけど、そういう漠然とした憧れのようなのもあったのかな。
宮原 私は、前から学問のトップといわれているところが、どんなところなのか見てみたいっていう気持ちがあったのね。それで、現役の時も東大を受けたし、また次の年に再チャレンジで。
片岸 オレはね、本当は関西の大学に行きたかったわけ。でも、全部ダメで、そんな時に友達が明治を受けるというので、一緒に受けてみたら、友達が落ちて自分が受かった。
八木 ちょっと因縁めいたものがあるよね。
片岸 ホント、東京に行くつもりはなかったんよ。人やモノがいっぱい過ぎて、自分には合わないんじゃないかと思って。でも、かといってそのために浪人はしたくなかったから、そのまま明治に入った。
八木 オレは、もともとロシア語に興味があったんやけど、ロシア語学科のある大学は少なくて……。現役の時は京産大を志望したけど、進路指導の先生からは無理だと言われるし、家族会議でも浪人しろと言われるわで、結局浪人して関西外語大と青学に合格した。
小嶋 どうして外語大に行かなかったわけ?
八木 受かったのが、スペイン語学科だった。けど、さすがにスペイン語には興味がもてなかったし、それよりは経済の方に関心があったから、青学にした。
小嶋 やっぱり、東大一直線とかいうのでもない限り、どうしても東京の大学じゃないといけないって考えてる東筑生って、そんなにいないのかもしれんね。
東京に来て感じたこと
宮原 東京での暮らしを始めて、まずどう思った?
八木 とにかく人が多いと思った。
片岸 九州より日が暮れるのが早いし、電車は深夜まであるから、とにかく夜が長い。福岡に帰ったりすると、店の閉まる時間がめちゃくちゃ早く感じる。
小嶋 電車の路線も本数もやたら多くて、どれに乗ればいいのかが覚えにくいね。あと、エスカレーターで止まる人はみんな左側にきちんと並んでる。
宮原 東京の人は行儀がいいかも。並ばされて行列つくつたりしても、おとなしく待ってる。九州じゃ、そういうの適当でしょ。
小嶋 それから、自分じゃ標準語と思い込んでいた言葉が通じなくて、ショック受けたことって、ない?
宮原 あるある。かたづけることを「なおす」 ていうのが通じなくて、最初は相手がふざけているのかなと思ったくらい。
片岸 九州の人は大体思うだろうけど、どうも言葉が軟弱で馴染めないところがあったね。
宮原 男の人が「だよ」とかいうのが、気持ち悪いというか弱々しく感じた。
八木 実際に友達になってみると、あんまり変わらんというか、違和感もなくなるけどね。九州にいた頃は、東京の人とかいうと、なんかカッコつけとるとか、キザッとるとかいう先入観があったけど。
片岸 でも、来てみると、やっぱり東京はなんでも揃ってる。福岡にないものがたくさんあるから、自分のやりたいことにすぐ手をつけられるという意味では、便利だし、来てよかったと思う面もある。ただ、朝夕のラッシュのすさまじさには、ちょっと嫌気がさすね。もう東京はいいやと思ったりもする。
宮原 そうはいっても、やっぱり日本の首都だから、いろんな人やモノが集まるし、便利さには事欠かないよね。
片岸 それでも、今は福岡でも決して不便というわけじゃないし、どうしても、東京は長く住むところじゃないなという印象がある。
宮原 せめて若いうちは、東京にいたほうが楽しいと思うよ。
片岸 う-ん、けど、やっぱり一生住み続ける所じゃないという気持ちは、変わらないな。
小嶋健三 東京というまちでの生活を経験しておくのは、とても貴重なことだと思うな。 |
八木秀和 自由な時間が得られた。だけど、すべては自分の責任ということにもなる。 |
宮原さつき 東筑に遊びに行ったら楽しいし、いつでも自分を受け入れてくれるような気がする。 |
片岸 誠 言ってみれば、今の自分の「希望」を導き出してくれた所、それが東筑かな。 |
あの頃の思い出
八木 高校に戻りたいって思ったことある?
片岸 やっぱりあるね。俺はもう一度、あのグラウンドでラグビーがしたい。
小嶋 あれ、野球じゃなくて?
片岸 いや、別に深い意味はないけど (笑)、小田先生のラグビーは楽しかったから。
八木 男には優しかったけど、むしろ女子に厳しくなかった?
宮原 そうそう、女子には厳しかった。普通は逆よね。
片岸 オレ、先生に「のど渇いたから金貸して」とか言われたことあるもんな。
宮原 二人とも野球部だったから、顧問の青野先生の思い出って、いっぱいあるでしょ?
片岸 いい先生よ、本当に。部活も授業も楽しみやったし。
宮原 女子にも人気があったやん。
片岸 あれは先生の計画よ (笑)。
八木 でも、あれほど怒らない先生も珍しい気がするなあ。部活でさえ、怒られたことなかったよ。
宮原 そうはいっても、みんな練習で手を抜くようなことはなかったでしょ。
八木 それはやっぱり目標があったからやろうね、甲子園ていう。
片岸 サボったりするようなことはなかったね。
宮原 小嶋君はインターハイまで行って、すごかったよね。
小嶋 陸上部は強かったり弱かったりで、オレたちの3期下が結構有力だったらしいけど、今はどうなのかなあ。ちなみに、かつて県内でも有名だったらしいピンクのユニフォームは、オレたちの代から廃止になったけどね。
片岸 ところで、柔ちゃん。
宮原 え―つ、今はもうやってないよお。
片岸 東筑の柔道部に女子部員が入るようになったのって、結構最近なんやろ?
宮原 私たちより3つか4つ上の代から入り出したって聞いたよ。それで、私たちの2期前から本格的に団体戦とかも出るようになって。今なんか、もっと女子部員は増えてるんじゃないかな。
八木 柔道着姿で、男に混じってグラウンドを走りよったよね。
宮原 そうそう、男も女も関係ないって感じで。私、毎年の寒稽古で、男の子を投げ飛ばすのが一番の快感やったモン。
片岸 おいおい (笑)。
なつかしい昧
小嶋 東京におると、どうしても地元の味が恋しくなったりするよね。帰ったら必ず行く店とかある?
八木 折尾駅前の 「メイランファン」。安いし、量も多いし、うまい。チキンドリアとか、から揚げ丼あたりが定番かな。
宮原 特チャン (特製チャンボン)とかクリぜん (クリームぜんざい)とかあった店。「橋本」!
片岸 忘れちゃいけないのが「唐そば」でしょ。黒崎の店は閉めてしまったけど、今渋谷に店があるんよね。
宮原 行ったよ。すごく人気になってて。
八木 学校の近くだから、おれも帰りによく行く。
片岸 甲州街道沿いに「長浜」 っていう店があって、そこもうまい。「きらきらひかる」(テレビドラマ)のロケにも使われたっていう、かなり有名な店。
宮原 九州のとんこつとは、ちょっと違うけど、「ラーメン二郎」 ていう店が、すごくこってりでおいしいって聞くよ。
小嶋 それは慶応のそばに本店があって、まさにウチの御用達。オレはやったことないけど、体育会の学生やったら、店の裏に鍋を持っていくと、500円でいっぱいに入れてくれるらしい。
宮原 逆にこっちに来て、これは許せないと思ったのは、何といっても「醤油味」 のうどんね。
片岸 あと、たぬきうどんが、本当に天かすだけというのも解せん。
宮原 そもそも、食べ物が全体的に高いよね。
片岸 ラーメンなんか、650円からが相場だし。
宮原 たこ焼きも高い。8個で400円とか、信じられん。
片岸 折尾なら100円から買えたのにね。竹末の 「とみ」 なんか、400円で腹いっぱい食えて、しかもメチャウマ。
八木 その店は知らんよ。
全員 え―っ!
これからの進路
宮原 八木君は来年、就職活動する?
八木 すると思うけど、留学してみたい気持ちもあって、このまま就職するのもなあ。ただ、実家が自動車屋やってるから、家業のこともあるし、どうしようかなあと。でも、中途半端なままではだめだから、とにかく自分に結論を出すことが先決で、今はそれが悩みやね。ゼミの先生にも相談したりしてるし。
宮原 へえ、ゼミの先生が相談に乗ってくれたりするんだ。ありがたいね。
八木 そっちはどう? やっぱり悩み中?
宮原 そうね。とりあえず今、経済の勉強してて楽しいし、留学とか大学院に進むというのもいいなあとは思うけど、やっぱりお金のかかることだしね。だから、就職となると、希望としてはマスコミだけど、今の勉強が具体的にどう生かせるか、ということも考えたい。東大の場合、入学前から進路を決めている人と、のんびり考えている人と二極分化しているところがあって、早い人はもう司法試験とか国家公務員試験とかに専念している。そういう意味では、私はのんびり組に入るんだけど。
八木 ここにいる先輩がた(笑)は、Uターン組なんよね。
小嶋 福岡銀行に内定した。やっぱり地元ではトップの金融機関という魅力もあったわけだけど、何よりも福岡が好きだから。
片岸 おれも西鉄に内定したけど、最初からUターンするつもりでいたから、就職活動も福岡方面に絞って動いた。西鉄は営業という部門がなくて、電車のダイヤを検討したり、バスの路線や料金を見直したりといった、企画部門が中枢になってる。やっぱり福岡が好きだし、福岡を発展させたいっていう願いがあるから、この就職活動は正解だったと思う。姉と兄が東京に出ているから、親元で安心させたいという気持ちもあったしね。
宮原 今年の就職活動って、やっぱり状況は厳しかった?
片岸 世間ではそう言われてるけど、オレ自身はそんなに厳しいとは思わんやったよ、決まる時はすんなりという感じで。とにかく、早めに行動を起こして、自分に自信を持つことが大事だと思う。
八木 最近の就職活動って、夏場にはもう、ほとんど終わってるって聞くけど。
片岸 本当にみんな早いよ。特に、マスコミなんかはもう、前の年からセミナー開いたりして、春頃までに採用枠もどんどん埋まってしまうらしい。
宮原 そんな話聞くと、焦るなあ。
片岸 とにかく、そういうところを希望するんやったら、早く情報を集めて動き出すべきやね。
東京と九州、男と女
小嶋 東京の生活で得たものは何か、て聞かれたら、なんて答える?
八木 自由な時間が得られた所。やつぱり親元を離れて一人暮らししているわけだから、どんな時間も自由になる。だけど、すべては自分の責任ということにもなる。
東京は、学生生活が充実できる所です。
全員 ほ―っ。
片岸 いや、勉強以外でね (笑)。
宮原 私は……一言で言えば「刺激」かな。
八木 やっぱり言うこと違うな、東大は (笑)。
宮原 いや、そんなんじゃなくて。やっぱりいろんな人が集まっている所だから、自分も頑張らなきゃって、そういう刺激をたくさん受けられる。
片岸 恋愛とかも?
宮原 ……。あ、でも東京の男の人って、女の子をすごく大事に扱うよね。九州の人には、気の置けない仲間っていう印象が強いけど、東京の人は、とりあえず女性をいたわって、変な言い方すれば、おだててみたいな感じがする。
八木 なんか、九州の男の方ががダメみたいやん。
宮原 違う違う違う! 気持ちの上ではむしろ……。
片岸 オレはやっぱり福岡の女がいいっスね。どうも、東京の子とは合わない。ノリが違うと思わん?
宮原 ああ、そうかもしれない。
片岸 九州の子って大体、お酒の席でもパッと明るくて、いくらでも付き合ってくれることが多いけど、東京の子はすぐ「もう飲めない」とか「もう付き合えない」とか言い出すから、どうもノリが合わない。
宮原 確かにね。飲み会でも私、周りから「そんなに頑張らなくていいよ」 とか言われるし (笑)。
八木 慶応ボーイとしての意見はどうですか。
小嶋 いやあ、体育会にいると合コンも行けないから、よくわからん。でもね、はっきりいって見た目のレベルでも、全体的に福岡の子の方がかわいい気がする。帰省して博多のまちとか歩いても、そう思うもん。
八木 そういう意味では、OB会とか県人会とかって、もっと積極的に出るべきかもしれんね (笑)。
一人暮らしの極意
小嶋 こっちで暮らすこと打きっかけはともかく、東京というまちでの生活を経験しておくのは、とても貴重なことだと思うな。
宮原 ただ、東京に来たいだけの理由で、東京の大学に入るとしたら、つらそうな気がする。あまりの人の多さと気ぜわしさに、かえって寂しさを感じることもあるから。やっぱり目的をもってないとね。
八木 違う世界があるっていうか、見識が広がるよね。一人暮らしをすると親のありがたみも、ちよっとはわかるし。
小嶋 お金に困ったことある?
全員 あるある。
八木 どうしようもないときは、やっぱり親にすがってしまうな。
宮原 ごめんなさいって。
八木 なるべくそうならないようにしないといけないけど。その点、実家に帰ると楽やね。ごはんもつくってもらえたりして。
片岸 たまらなくなる時があるよ。家庭というものがあるんだな、て実感したり。
宮原 至れり尽せりやもんね。
小嶋 でも、現実に一人暮らししてみると、生活の智恵って身についてくるよね。
片岸 お金がない時はひたすら寝る、とかね (笑)。
宮原 自分でルールをつくるのが大事だと思う。朝は何時にちゃんと起きるとか、三食きちんととるとか。
八木 ちょっとは自立すると思うな。
宮原 そう思う。だって、そうしないと、どこまでも堕落しそうになるもん。
八木 自分しか、する人間がいないからね、炊事も掃除も洗濯も。そういう経験もできるから、東京に限らず一人暮らしは経験したほうがいいと思う。小嶋とかは陸上を続けてるけど、大体みんなスポーツはやっていないし。何か充実するものを見つけたほうがいいよね。
小嶋 例えば、アルバイトとか。
八木 バイトもいいけど、まずは大学の中で何かやりたいことを見つけることが大事じゃないかな。サークルに入るのもいいし。
片岸 サークルは絶対入ったはうがいい。じゃないと、生活がなあなあになるっていうか、張り合いがなくなってしまう気がする。
宮原 何のサークルに入ってる?
片岸 ラグビー。
宮原 やっぱり(笑)。
片岸 でも体育会とは違って、本当に仲間の集まりみたいなもんよ。バイトやるにしても、サークルには入っておいた方がいいと思う。授業受けて、バイトやって、帰って寝るだけだと、学生のうちにしか経験できない機会というのが、なくなってしまう。
小嶋 さっき、一緒のバイトやってるって言ったよね。
八木 うん。片岸とJRバスのバイトやっている。接客とか荷物運びとか。やっぱり生活費を親に出してもらっているから、せめて小遣いぐらいは自分でなんとかしたいと思う。
小嶋 オレは一時、ドトールでバイトしたことがあるけど、3ヶ月でやめてしまった。どうしても部活が優先になってしまって。
宮原 私は家庭教師もやったことがあるけど、今までで一番長かったのは、料亭の仲居さん。
全員 お―っ。
宮原 なんだか、いろんな意味で社会を垣間見た気がする。サラリーマンが来て、会社のお金を使っているのを見て、ああこれが現実なんだとか思わされたりして。でも、楽しかったな。
わがふるさと東筑
宮原 今振り返ってみて、自分にとって東筑高校はどういう存在だったと思う?
小嶋 まさに自分をつくってくれたところ。オレは陸上を始めたの、高校に入ってからだった。でも、それで結果を出せて、指定校の枠にも入れたわけだし。そのために必要な勉強もできる環境だった。
八木 オレは実際、野球だけしに来てたようなところがあって、恥ずかしいくらい勉強してなかった。まあ、それで浪人したわけだけど。でも、それは後悔してないし、在学中は野球に専念できる環境だった気がする。それに、そんな風でも何も言わず野球をやらせてくれた親にも感謝している。ただ、それで終わらずに、自分としてはいい大学に入れたと思うから、やっぱり自由に自分の進路を探させてくれる、そういう条件が揃っていた学校だったと思う。
宮原 なんていうか、ふるさとみたいな感じかな。先生も友達もみんな大好きだった。そう思える学校だったというのかな。勉強でも運動でも、頑張る人は何でも頑張っちゃう、そういう魅力があったと思う。東京で嫌なことがあったとしても、帰省して東筑に遊びに行ったら楽しいし、いつでも自分を受け入れてくれるような気がするから、幸せな気持ちになれる。
片岸 勉強でも部活でも、楽しさの中で厳しい面も経験してきた。だから、今の自分がある。言ってみれば、今の自分の「希望」を導き出してくれた所、それが東筑かな。
全員 それってキマリ過ぎ(笑)。
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PART2 福岡へ戻って暮らす今
衝動的選択のJターン
東筑高校卒業生の皆様、こんにちは。
私は1990年3月に横浜国立大学を卒業し、福岡市にJ(ジェイ)ターン就職しました。それから11年、もうすっかり福岡市民の私ですが、今でも横浜は私にとって特別な場所です。親元を離れて初めて暮らした場所のせいか、自分のアイデンティティは横浜で築かれたもののように思います。就職してからも悩みのある時には横浜を訪れ、自分自身の心の声に耳を傾ける時間を持ちました。横浜は私にとって精神の自由を保てる大切な故郷です。
学生時代はバブル最盛期で、街は活気に溢れ、野心的な匂いが充満していました。
そんな中で好奇心いっぱいの私は自由を存分に謳歌していました。東筑の同級生ともよく会っていましたね。ある年のクリスマスに九州から東筑の友人が上京してきました。彼女が横浜のクリスマスイブを体験したいというので、同級生の女性4人で過ごしたことがあります。ボーイフレンドより友達を選んだ自分たちの友情を自画自賛しつつ、大騒ぎした記憶があります。その時の横浜はこの上もなく美しかったです。今となってはステキなクリスマスの想い出です。
どちらかといえば、すっかり横浜に馴染んでいた私が就職する際に九州に戻ったのは、ほとんど衝動的選択です。ちょうど就職活動をしている時に帰りたくなったからとしか言いようがありません。私の魂は九州と東京の間を常に回遊しているのです。それは現在も続いています。東京で暮らしていらっしやる東筑出身者の中にもそんな方は多いのではないでしょうか。
福岡市のよかところ
そこでいつかは九州で暮らしたいとお望みの皆様に、北九州市出身者は案外知らない福岡市の魅力についてレポートしたいと思います。福岡市はアジアの都市の中でもシンガポールと並んで暮らしやすい街として評価の高い都市です。都市としての機能が一応揃っているのに海や山、温泉などの自然が身近に存在します。
また、商業の街、九州支社の街ですから、様々な地域から人が集まっています。開放的な街といえるでしよう。福岡を代表するお祭りに「博多どんたく」があります。この祭りは街中が文化祭会場になるような妙なお祭りです。日頃練習した芸事を市民が街中のステージにあがって披露するのです。歌ったり、踊ったり、三味線を弾いたり、バンドを組んだりするのが好きな人がやたらと多いからこそ成り立つお祭りです。かなりラテン系です。
東京と比べ良いところは、地価やマンションが安いこと、通勤時間が短いことでしょう。例えば30歳前後でも共稼ぎの夫婦であれば、百道浜 (ももちはま) あたりの海辺のマンションを購入しています。「窓を開ければそこは海」という環境で快適な都心型の暮らしが維持できます。また、北九州市で仕事を探すのは、職種によっては難しい方も多いと思います。福岡市の方が様々な職種があります。ただし、どんな仕事も東京に比べれば就業人口が少ないでしょうから、その辺は厳しいでしょう。
逆説的な見方をすれば、その道の第一人者になれる可能性も高いですよ。もちろん、東筑出身者にとっては北九州市の実家に1時間ちょっとで帰れることも大きな魅力です。
先々、九州で暮らしたいとお考えの方、その選択肢に福岡市を入れてみるのもいいかもしれません。九州に帰ることの現実味が増す方も多いのではないでしょうか。
北九州と東京の心理的な中間地点として、福岡市は私にとって快適な場所です。子供を産み、育てる中で、ここが私の拠点であることを実感する今日この頃です。
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PART3 恩師からOB諸氏へ
白石純一郎 (しらいし じゅんいちろう)先生
元東筑高校国語教諭、萩女子短期大学を経て
現在、九州国際大学付属高等学校女子部講師。
八幡西区在住。
あの頃、―緑樹凛と立ち並ぶ正門の、急な石段を上りつめると、左手に、白いペンキの剥げかかった守衛の詰め所があり、これがいかにも「学問の府」 といった、旧制中学の面影を残していて、部外者であっても、粛然とした気分で校舎を見上げたものでした。
その東筑高校の石段を、私が正式に上ったのは、若松高校から赴任した昭和46年の4月でした。
以来、平成7年退職までの、24年間の東筑での道程は、長かったのか短かったのか、判然としませんが、多分その漠然とした感覚は、私が接した多くの卒業生たちの、オーロラのような、その青春光芒の群舞に、幻惑され魅了され続けたせいでありましょう。
その私も今、世間でいう老齢の境に達し、生きる執念が、心身から次第に遊離するせいか、思い出す過去は、遠いほど、より鮮明になってくる感じがします。
赴任した当初、あの木造校舎の掃除は、時には、一気に水を床に撒く、荒っぼい様式が採用されるので、下の階の教室に水滴が落ちて来て、「こらっ」、と階下の掃除監督の先生が、一気に階段を駆け上がり、怒鳴り込んでいました。ただ、その滴る水滴も、陰湿な汚水ではなく、活力ある哄笑の中の一点景でありました。
また、当時の体育祭の 「かつげば尊し」 は、クラスの名誉をかけた、地域社会への華ある舞台づくりでもありました。その演出担当2名の生徒が、「尊し」 はどこ吹く風に、悪役の吉良上野介になってほしいと、私に依頼したので、いささかムッとしたものの、その厚かましい瞳の中に、権威もどきに動じぬ、青春一片の輝きを見た時、私は、よしと思い切りよく、まだ36歳の若さで、観客の面前で斬殺されました。
70期生の、無邪気で華やかな体育祭でした。
その頃からの、日本社会を動かす大きなうねり。例えば、企業戦士を抱える企業一家を、銀行が支える高度経済成長、学園紛争終焉後の加速的な経済大国への足取り、次第に核家族化から個人化へと移行し、厳粛なる地獄や死の想念も戯画化され、漫画の姿になっていき、何やら、ものみなすべてが希薄化する現実感覚の中で、東筑高校で学ぶ各期の、すぐれて感受性強い生徒たちは、遠賀川の悠然とした流れとは異なる、各人各様の心のさざ汲で、その現象を受け止めていたと思います。
こうした昭和50年、この春入学の生徒たちについては、当時の村上修一学校長や故谷石信雄学年主任の、温かい助言をいただきながら、私は、彼らが卒業するまで、一緒に過ごしたので、その思い出も鮮明に蘇ります。
「何のために勉強するのか」という巨大な壁の前で、自分の真の姿やその生き方を捉えようとする、その苦悩の深淵に佇み、この生徒たちは、自閉的に独り埋没するのではなく、学校のクラブ活動は勿論のこと、友人同士で組織したフォークソングやいくつかのバンドグループ、日曜日に、出身中学の校庭で催す早朝野球の会といった、自主的に作ったグループの連帯の輪の中で、自己同一性、人間として自立するための、心の葛藤を克服していったのです。
私ども担任が、採点済みの答案を配り始めると、教室内は、勝った負けたは勿論、お前の解答記述は悪い、といった教師まがいの解説までが、あちこちで飛び交う雰囲気になり、平均点が悪いほどそれは、再挑戦のための和気あいあいの、決意披瀝の場になるのでした。
もとより、この生徒たちは、辛い現実から逃避する、遊びの連帯感については、強く自己規制していました。むしろ、他人に自己をさらすことによって、自己を知るという生き方、言い換えれば、友人を媒介にして、自分のカで、自分の若さを掴むという、ある意味では、孤独を属性とする 「青春」 にとっては、極めて厳しい生き方をした、とも言えましょうか。
さて、伝統とは何でしょうか。
その集団に属する個人が、逆境の絶望的状況に陥った折に、蜃気楼のごとく現れ、状況打開の支えになってくれるものと、私は思っています。 あえて申せば、私は、この76期生の描いた、その軌跡の中に、各期の生徒群像の中でも実感し得た、東筑の 「伝統」 の姿を、垣間見た思いがしているのです。
そして今や、海外からの資金や情報が飛び交い、いわば足元が焦土と化した感のある日本経済の深淵に倖み、東京東筑会の皆さんも、各人各様に、再度の新たなる旅立ちを覚悟されていると思います。県下他校の同窓会も、その連帯と規模の大きさに注目している東筑同窓会の交友の場が、その時、単なる懐古趣味の場にならず、意識下に「伝統」を再確認し、明日に生きる勇気に還元されるものと、東筑でお世話になった私は、今、確信しているのです。
(平成13年8月15日)
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POLA CMカメラマンの独り言
しゃべりワークの評価
マスコミの世界は不況にも強いなどといわれていますが、やはりスポンサーの予算があってこそのCM制作業界は、至って厳しい現状にあります。
スチールのカメラマン (いわゆる商業写真家) は、メイン・カメラマンが事務所を構え、取引先の予算の中から自分の弟子 (スタッフ) たちの分まで面倒をみる形をとっていますが、僕のようなムービー制作の場合、基本的にはカメラマンから助手まで全員が取引先とのフリー契約になっています。そして、どんなスタッフ構成をするかは、監督の指名によるものが通常です。 ということは、いかに監督とのネットワークを築いていくかが、ムービー・カメラマンにとっての生命線となるわけですが、僕の場合はそういうのが苦手で、大した人脈もつくらないまま独立してしまいました。
ただ、運がよかったのは、たまたま以前からの関係でトヨタの仕事をいただき、それで各方面から評価をいただいたこと。これが以後の仕事への大きな契機となりました。
もっとも、カメラワークよりもしゃべりの方がうまいなどという声もあって、そんなにしゃべりができるのなら、もっと上手な仕事の取り方ができるだろうともいわれるのですが、いざ、そういう肝心な話になるとダメなんですよね。いるでしょ、そういう人。その半面、「今どき酒の席など」というかもしれませんが、僕はそうした機会を大事にしています。
例えば先日、ファッション雑誌を中心に活躍しているモデルを起用して、名古屋の百貨店のCMをサイパンで撮影しました。このスポンサーはこれまで、スチール写真を15秒分重ねるという特徴的なCMをつくっていたのですが、今回はムービーを交えて、という話になり、担当の広告代理店から仕事が回ってきたのです。
現地に着くと、ずっと担当してきたスチール・カメラマンが 「なんで東京からこんな若造が、ムービーでわざわざ呼ばれたんだ」と敵愾心丸出しで、代理店のかたも大変な気の遣いようでした。
1日目の撮影はかなりピリピリムードでしたが、その夜、代理店のかたが飲みに出ようと誘ってくれ、そのカメラマンとも一緒に出かけました。すると、やはり南の島の開放感も手伝ってか、ノリがノリを呼んで一晩中飲み明かし、次の日からは飲んだくれ状態ながら、極めて円満に仕事が運びました。酒で人間関係が改善された?好例とでもいいましょうか。実はこんなケースが、僕に限っていえば、日常茶飯事だったりするのです。
本当にモルツが好きなひと
「そういう時には、モデルの子とかも、一緒に連れ立ったりするんでしょ?」と、よく開かれます。でも、僕の場合、どういうわけか、男臭い酒の席ばかりで盛り上がってしまい、本当に女性タレントとのつながりが薄いんです。それにモデルの子は、顔や体形、肌の状態がそのまま商品価値ということになるので、世間でとやかくいわれるよりも、ずっと自己管理がしっかりしていて、次の仕事に向けてのコンディションづくりを怠らないものです。だから、僕らなんかにつき合うと、とんでもいことになりますよね。
それでも、ちょっとミーハーな話も全くないわけではなく、一度、近所の人に頼まれて、上原多香子さんにサインをいただきました。すると、先方は僕自身がファンだと思ったらしく、それ以来、サイン入りのCDをいただいたりしています (なんて奴だという声が聞こえてきそう)。
もう一つ最後に、耳寄りな?お話。以前、化粧品のCMでご一緒させていただいた鈴木京香さんは、何もサントリーのCMをやっていたからというのではなく、本当にモルツが好きなんだそうです。ほかのビールは飲めないのに、これだけは泡がクリーミーだからという理由だとか…。
さて、次の仕事が始まるまで、二人の子どものお世話です。また、面白い話題があれば、この席でお会いしましょう(ただし不定期ということで)。

長山隆吉(ながやま たかよし)
東京工学院専門学校卒業後、撮影助手などを経て独立。主な作品に「トヨタ2000年キャンペーン」「東芝家電製品」「ヤマサ昆布つゆ」「クイックルワイパー」「ガスター10」など。
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MASSAGE
各校の同窓会組織は、まちまちである。東京東筑会は在京の北九州地区の高校の中では一番まとまっているという評価を得ているが、ホームページを開設しなければならないという使命をいただいた際に、いろいろな学校のホームページを見てみると、東京東筑会もまだまだである。
例えば、修猷舘。総会には大体450名位の参加がある。また、毎月第二木曜日に開催されている二木会は多士済済のOBを招き講演会を行っていて、昭和27年から何と今回で488回というからさすが、200有余年の歴史を誇る学校だなと感心させられる。
わが東京東筑会も幹事会は、数えること91回になる。これはこれで誇るべき数字であるとは思うが、最近懇親会の出席者が300名を欠けることがある。もっともっと集まっていただけるような環境を作り、より良い東京乗筑会を作る努力をしていかねばならない。
そのためには皆さんのお力添えがどうしても必要である。一人一人が仲間に声をかけていただき、もうワンランク上の東京東筑会を作っていこうではありませんか!
皆様の皆様による皆様のための東京東筑会です。ご協力をお願いします。
早いもので東京東筑会が発足して23年目になる。
会報も第19号を数え、4代目の編集長を迎えた今号の出来具合は、会員の皆様にとって如何なものだったでしょう?
第1回東京東筑会懇親会開催のいきさつについては、第1号の会報に詳しく報告していますが、今回の会報寄稿者の半数以上がその後の卒業という事からして、読者の半数以上が知らないのではと思うので、かいつまんで報告してみます。
23年前のある日、応援部OBで、小生とは在校中に面識のなかった57期の村田和生君から電話があり、「小倉高校同窓会という看板を見た。小倉高校にあって、東筑にないのはおかしい。東京で東筑の同窓会をやるので協力して欲しい。」ということであった。現在のように名簿があるわけでもなく、期別に集まっている情報もなく、全くの白紙から京王プラザホテルに380有余名集めたのは大変であった。
その時、集まってくれた人で22年間、22回の懇親会すべてに出席している人は何人いるのだろう?
小生と、事務局長の小御門君(68期)は間違いなく連続出場だと思う。 そんなわけで、一回こっきりの同窓会をやる事だけに集中したため、今日のように継続できるとは思いも寄らなかった。
しかし、380名も集まったことで自信がつき、事務局長となり、会長に三原朝雄氏(26期)、副会長に鴛海正氏(38期)、「白石大祐氏(43期)、幹事長に白石基雄氏 (56期) という布陣で組織化し、会則を決め、期別幹事を任命し、年一回の総会、隔月の幹事会、年一回の懇親会、会報の発行、名簿の発行、その他ゴルフ会、テニス会、新年会、忘年会、有志による各種イベントなどを実施している今日の東京東筑会の基礎ができたのである。
懇親会の幹事期も第一回の57期から、58期、59期と受け継いだが、60期はメンバーがいなくて、56期にさかのぼり、以後、55期、54期、53期、52期、51期、50期、49期までやったところで60期に戻し、その期から本校と同じ期が担当することになったのである。これは本誌特集 「21世紀ジェネレーションへの伝言」へ寄稿いただいた49期・山崎先輩の言う「バトンタッチ」が上手くいったからだと思われる。
会報も最初は48期の佐藤・長畑両先輩が編集長、次が78期の田中直君、三代目が76期の菊川君ときて、今回から83期の安藤君にお願いすることになった。
しかも、最初のうちはすべて、広告代で賄っていたため広告集めが大変だったが、これは事務局長、幹事長の仕事として一部の先輩達にお願いするばかりで、今更ながら有難うございました。
今や、約3,000名の会員の活動が、地方高校の在京同窓会としては日本一と言われる「東京東筑会」としては、「質実剛健」 の校是を受け継ぎながらも、目的意識をはっきり持った現役の皆さんたち(100期~97期)に 「20世紀ジェネレーションから受け継ぐもの」といったテーマで、次回会報の特集でも願いたいものである。
本誌編集作業も佳境にさしかかった9月11日、ご存知のように米国で多発テロ事件が発生しました。今回、米国から寄稿いただいた津崎勝利君は、ボストンーロス間の飛行機移動が多い身の上、早速に連絡を取ったところ、無事を確認できたのは幸いでした。しかしながら、数千人もの犠牲といわれる中、みなさんの周辺にお変わりがないものかどうか、心配されます。
21世紀の幕開けというには、存外に暗く厳しい現実が続いていますが、そんな時だからこそ、あとは上を向いて突き進むだけという気持ちの切り換えも大切でしょう。そうした思いも込めて、本誌も今回から思い切った改訂を行いました。ホームページとともに、今後もみなさんの声の広場としてご愛顧くださるよう期待しています。 (&)
今回の誌面企画を実現するには、各期の方々のご協力、お口添えが不可欠でした。お電話一本で、お引き受けくださった、また、適任の方をご紹介くださった諸先輩、先生、後輩、同期の皆様に、東筑魂の大きさ、温かさを感じさせられました。この場をお借りしてお礼申し上げます。念願でしたFACEの平野君の原稿をいただくまでにも、東筑高校の先生たち、そしてお母様のご協力をいただきました。今後も、魅力あふれる東筑人だからこそのネットワークのお役に立てますよう、この東京で、私自身頑張っていけたら幸せです。 (咲)
第19号
(2001年 平成13年10月)
