会長ご挨拶/東京東筑会会長 古岡  勝 (36期)

 軍神古野少佐との出会い

東筑時代の強烈な思い出に 『軍神古野繁實少佐』との出会いがある。4年生になると柔道の成課の中で5年生との合同稽古がある。私は4年生、古野さんは5年生で柔道は1級だった (後に海軍で4段に昇格)。私の方が強かった。

当時運動会では柔道の4~5年生は紅白に分かれて棒倒しがある。私は体操選手で身軽だし足も速かったので、一番に相手方の棒を守る人達の頭の上にのぼった。敵もさる者、私の足を下から引っ張る者がいる。夢中でその人の頭を蹴った。その人が先輩の古野さんだった。
その日、帰りの汽車で偶然同席した。古野さんは海軍兵学枚と陸軍士官学校の両方に合格していた。『自分は憧れの海兵を選択した。君も海兵を受験しなさい』と勧められた。

後日知ることとなるが、大東亜戦争の引き金となったのは、アメリカから石油輸入の道を絶たれた日本が速やかにオランダ領東印度(インドネシア)を開放して、石油資源を確保しなければならない必要があった (現代の世界情勢によく似ている)。
そのためアメリカ太平洋艦隊主力が真珠湾に停泊中の公算が最も多い、12月7日の日曜日に (日本は8日)奇襲攻撃作戦を立てたのである。そのとき真珠湾に停泊中のアメリカ艦隊主力は、戦艦8隻以下85隻であった。
我が機動部隊は350機で第一次、第二次の空爆を行い、我が方の損害は29機で、戦果は撃沈7、大破5、中・小破4、飛行機撃墜破264機であった。
一方海上特別攻撃隊は 『特殊潜航艇』 5隻により、日の出までに湾内に潜入し、空襲開始後真珠湾軍港強襲が敢行された。結局古野中尉他8名が、特殊潜航艇による強襲で、壮烈無比なる戦死を遂げられ、それぞれ2階級特進された。

この偉大な先輩である軍神の顔を蹴ったのは、後にも先にもわたし一人ではなかろうか。戦後数回靖国神社に参拝し、先輩の遺品を拝見しながら冥福を祈った。
開戦当時私は陸軍少尉で大阪の第34師団歩兵第8聯隊に配属されていて、そこで先輩の壮烈な戦死を知った。

  鄭成功の教訓

1997年8月、東京東筑会副会長であった長畑寛照氏他友人一同と中国旅行をした際、厦門島の近くの皷波喚の中央で、日光厳寺内の鄭成功記念館を見学した。
鄭成功は1624年(寛永元年) 平戸で、明国人の海賊王鄭芝龍と日本人の母マツとの子として生まれ、生来頭脳明晰で群を抜いていた。
20万の大軍と膨大な富を擁した芝龍の跡継ぎとするため、成功に隋、唐、清末まで続いた官吏の登用試験の最高峰である『科挙』の試験に挑ました。
まず郷里の『州考』から始まり、7回の厳密高倍率な試験を経て 『科挙』に合格し、『進士』となり、最高峰を手中にした人物であるから、よほどの秀才だったらしい。後に隆武帝から忠孝伯の爵位を与えられ、國姓の名を許され稀有な高地位を占めた人物である。
後年台湾に逃れ台南でオランダ人の要塞を占領し、1662年まで根城として台湾及び近海を支配した。現在でもその要塞と鄭成功の銅像が残っていて、小生のような古い人間には歴史を偲ぶ一見に値する観光地となっている。
この有名人の教訓が記念館で見つかったので参考に以下紹介する。

① 人生最大的敵人是自己

  人生で最大の敵は自分自身である

② 人生最大的失敗是自大

  人生で最大の失敗は自ら尊大ぶる

③ 人生最大的無智是欺騙

  人生で最大の無見識は、ウソを言って人をごまかすことである。

④ 人生最悲哀的是嫉妬

  人生で最大の悲しみは人を妬むことである。

⑤ 人生最大的錯誤是自棄

  人生で最大の過ちをしでかすのは、自らを見捨てることである。

⑥ 人生最大的罪過自欺欺人

  人生で最も罪なことは自らを欺き、人を騙すことである。

⑦ 人生最可憐的性情是自卑

  人生で最も憐れむべきは性格が自ら卑屈になることである。

⑧ 人生最可佩服是精進

  人生で最も感服に値するのは、一生懸命努力することである。

⑨ 人生最大的破産是絶望

  人生で最も失敗することは絶望することである。

⑩ 人生最大的財富是健康

  人生で最も大きな財産は健康である。

⑪ 人生最大的債務是人情債

  人生で最も大きな債務は人の好意へのお返しである。

⑫ 人生最大的礼物是寛恕

  人生で最大の贈り物は人を許すことである。

⑬ 人生最大的缺欠是悲智

  人生で最も乏しいのは慈悲と知恵である。

⑭ 人生最大的欣慰是布施

  人生で最も喜び安心できるのは、お布施をあげることである。

            (小生翻訳)

 以上2項目については2000年8月、私が上梓した自分史の 『波瀾萬丈激動の80年史』 の中より紹介したものです。

 

特集 21世紀を迎えて―それぞれの「ふるさと」―

  ・心安らぐ故郷の風景       渡辺 豊美

  ・ふるさと一別れと出会い     末松  誠

  ・「飛翔53の会」は私のふるさと  西本 逸郎

  ・「ふるさと」がやってきた!    佐々木千佳

  ・ふるさとはいつもワイドカラー  安藤 咲枝

  ・サンノゼのローズおばあちゃん 石井かおり

  ・ふるさと然々なるままに     菊川 一美

 

心安らぐ故郷の風景/渡辺豊美 (55期)

 

ふるさとは遠きにありて思うもの

そして悲しくうたうもの……

と室生犀星は書いておりますが、私は故郷を思うことはありましたが、幸にも悲しくうたうということはありませんでした。

上京してからはや35年余、人生の半分以上は東京や埼玉の関東圏での生活でした。そんな私の故郷は、福岡県は中間市、人口は5万足らずで北九州市八幡西区の隣に位置し、北九州に吸収されることなくこじんまりと頑張っています。
昔は炭鉱で栄えた町ですが、現在は博多や北九州市のペットタウンと、昔の農村地帯にも工業団地が出来て、また私が住んでいたころには聞いたこともない地名が多くなり、帰る度にびっくりする程です。
遠賀川が市内を二分して流れ、橋も新しく架かり、昔の炭住街は県営や市営の団地ができ、昔の面影が全然なくなっており、以前住んでいた駅の近くの商店街は、一番の繁華街でしたが、すっかり寂れてしまい、現在の繁華街は大手のスーパーが出来た筑豊電鉄の「通り谷」 の方に移って、町の様子もすっかり変っています。

中でも一番変化を遂げたのは交通手段ではないでしょうか?

我々が高校に通っているころの交通は当然汽車で、それもSLファン垂涎の蒸気機関車D51が、黒い煙をはきながら汽笛を鳴らして遠賀川の鉄橋をわたって来る音を聞いて、駅に走ったものです。
家が中間駅に近くて、煤煙のために洗濯物が汚れることなどありましたが、気にもしていませんでした。
筑豊線や香月線も活気があり、客車よりも長くて、それも石炭を満杯に積み込んだ貨車が、古い我が家を震わせて夜遅くまで通っていました。
それから何年後か香月線が廃線になり、駅や踏み切りが狭くなり、鉄道から車の時代へと代り、線路の跡地が道路に、商店も駐車場が当然の車社会になってしまいました。

また母なる川? と言われている遠賀川に行ってみると、子供のころは蜆が取れたりと川遊びができましたが、蜆がいた中洲など全然見られず、これまた昔の面影もなく、水は昔に比べるときれいになっていますが、深かそうで、護岸工事で両岸はコンクリートで固められ、河原は、公園のように整備されて、家族連れがお弁当持参で楽しそうにあそんでいる風景になっていました。
私は両親を早く亡くし、二人の三十三回忌もとっくに終わり、大きな頗をして帰えれる家はないのですが、何年過っても弟夫婦が快く迎えてくれるのが何より嬉しくて、それに幼なじみや、学校の友人に会える楽しみがあり、昨年の春に定年を迎えたことだし、時間は充分あるので、弟夫婦に感謝しながらせっせと帰えろうと思っています。

いつの日か、時間をかけて車を運転してのんびり帰るのもいいかなと思ったりしています。そして帰る度に過去と現在の違いに戸惑っていますが、そんな郷里の発展をたのもしく思い、故郷があるということは心強く、またいつでも帰ると心安らぐ所であってほしいと願っています。

 

ふるさと―別れと出会い―/末松 誠 (58期)

 

山登りに明けくれた、5年間の東京暮しの間、合宿でくたくたになった身体で、夜汽車に乗って九州の実家に帰える時、車窓から皿倉山が見えると、「あ-家に帰ってきた」と思わずつぶやき、"故郷"を感じる一瞬だった。
子供の時から、皿倉山、帆柱山でキャンプをし、小学校2年で父に連れられ、九重山に登り、冬は鳥取の大山にスキーで遊んだ。皿倉山でも2度くらいスキーをした想い出がある。

熊西小学校から黒崎小学校へ転校した5年生と6年生の2年間は、当時まだ若かった恩師の塚本先生が当直の時には、いつも数人で、宿直室に泊り、夜の学枚で肝だめしをやり、翌日、皿倉山へ登ることが恒例であった (先生は元気だろうか)。

東筑時代は、登山部を1年、後の2年間は体操部に入り、ただひたすら身体をつくるための練習、練習の毎日で、おかげで受験に失敗、浪人をする羽目になるが、人並みの体力がつき、その後の学生生活の山登りに大変役立った。両親には、本当に申し分けないが、山づけの学生時代は、山岳部を卒業した、というのが真相である。
次男という立場で、卒業後は九州へ帰るつもりはなく、スポーツビジネスの世界で生きてゆくつもりでいたが、学生生活の全ての費用を親に頼っていたため、「九州に帰って来い」と父に言われ、「恩返し」という思いがよぎり、残念ながら屈してしまう。毎日、皿倉山を見て過ごすことになる。

それから、約10年の後、「故郷の人に見送られる」 のではなく、「故郷を捨てる」結果となる。ほとばしる青年の心は、全て理解されることなく、敗北に終る。
もう、皿倉山には会えないだろう、と早朝のトラックの運転台から 「さようなら」を言った。
"故郷"を失なった瞬間である。

その後、12年間の全国の石油タンク・石油コンビナートを、現場監督という工事屋家業で過ごしたが、個が認められない組織からの脱出と、石油が生み出すものに対する警戒心が生まれ、建設現場を離れる決心をし、東京にまいもどる。50才近くになZていた。
そこには、学生時代に一緒に過ごした、多くの仲間が居た。忘れることのできない青春がよみがえり、この輸が、自分の故郷であることを実感した瞬間である。
数年の後、突然の父の死で八幡に帰った時、もう会えないと思っていた皿倉山に車窓から 「久しぶりだネ」と、つぶやく。
久しぶりに町を歩いてみるが、日本のどこにでもある、カラー舗装とアーケードという個性のない商店街。
皿倉山にも、麓から登ってみるが、誰のためなのか、舗装された登山道と頂上には、コンクリートの建物と鉄塔。

一体、昔の故郷はどこに行ったのだろう。

子供の時、祇園祭りが始まると、母にハッピを着せてもらい、巾着を首からかけて、親類中を廻って、小遣いで一杯にし、父と一緒に山車に乗って鐘や太鼓をたたいたこと。
近くの田んぼの小川をせきとめ、ヒルに血を吸われながら、魚をすくったこと。
自転車で筒井通りから脇田の海まで泳ぎに行き、暗くなって、くたくたになって帰ったこと。
花尾城跡の岩穴や木の家で遊んだこと。
畑の観音さままで歩いて行き、泳いだ後の帰り道で取って食べた、山ももの味。
街の喧騒を頭のすみに聞きながら、一人たたずんで思う。今の子供速から、そんな遊びを奪ったのは、一体誰なんだろう。

経済効率優先の合理主義そして再開発という名のもとの、行政とデベロッパーの……おっと! 愚痴はやめよう。
でも、心の通わない、作法のない街づくりは、海の砂漠化の原因が森林の減少と、川の水質の変化であることと同じだと思うのだが。

山登りと、旅が好きである。

旅先で会う、満々と水をたたえた田んぼ。

手ですくって飲むことのできる清流。

一日中、ポーツと見ていてもあきない、山の風・光・色。

雪山の美しさと厳しさに会った時。

偶然に出会った、満開の桜。

古い街並みを歩いている時。

そこに神がおわします、と思えるような木に出会った時。

そして、つましい清潔な心や、さりげない親切な心に出会った時。

そんなことが心の支えとなっている。

自分の故郷と決めた輪の中に、新しく支えるものが、ふえてきている。

ヨットで世界の海をかけめぐる青年。

必死に芝居にうちこみ舞台を目指す若者。

アメリカのシアトルで、世界を相手に、若者を育てるビジネスを展開する日本の青年。

日本の文化をグローバルな視野で広げようと試みる若者。

誇らしい知人に出会い、新しい感動が生まれる。

今、自分も「焼酎吟味役、初代、羅無櫓屋宮兵衛」を名のり、焼酎という日本の文化に没頭している。

そして、山もまだやめるつもりはない。自分の故郷の中心にあるものだから。

 

「飛翔53の会」は私のふるさと/西本逸郎(76期)

 

「ひょっとしたら、結構おるんやないと」大庭が言った。「そやね、2、30人はおるかもしれんね」平成7年春、新橋の焼鳥屋での会話が発端だった。それから知っている同期に声をかけ、5月に同窓会(後に第1回飛翔53の会総会と呼ばれる)を、なんと23名もの参加者にて、新宿で開催することとなった。

久しぶりに会う同期はそれなりにたくましく見え、最初はぎこちなくおきまりの名刺交換から始めて、《この名前と顔は見覚えあるな、誰だったかなと思いつつ》「いやあ、久しぶり!今なんしよん」、(話)(話)(話)、そのうち《あいつだ!》と思いだし、ほZとするのもつかの間、今度は芋蔓的に出てくる思い出話で話が尽きない。
普段は全く思い出さないのに、人間の記憶力にびっくり!
その後、関東圏在住者を対象とした同期探ししが、始まった。基本的には人から人へと繋がり、また、些細な情報を基に会社の代表に電話をかけ人事担当の方にお手伝いも頂き、コンタクトしたりして輪が広がった。

私たちが学生の頃、毎年、運動会で応援用のパネルを作成していて、③年の時のテーマが「飛翔」だったことから、会の名称を「飛翔53の会」と名付け、また、会員も90名程度(なんで、関東にそんなにいるんだ!)になり、現在に至っている。年1度の総会も本年度で7回目を数え(初年度は2回実施)、毎回30名程度の参加者があり、大いに賑わっている。毎年新しい人が参加してくれるのが何よりうれしい。高枚を出て20数年を経た人間が久しぶりに頗を会わせ、遠慮なく話せるのは何故だろうか?
高校時代は3年間のつきあいでしかなかったが、それだけそれぞれにピュアで真剣につきあっていたんだな、と思ったりもする。

毎年、総会の前には何人かが集まり、今年こそは何かおもしろいことをやろうと、打ち合わせを行うが、会長の性格を反映してか、いつもぶっつけ本番・成り行き任せになっている。だけど、年齢がいくつになっても、私たちには「飛翔53の会」があり、出たい人は遠慮なくいつでも出られる場がある、ということが重要だと思っている。

一方、平成10年2月より「飛翔53」メーリングリスト(※)を開設し、運用をしている。現在40数名の参加者があり、こちらの方は関東圏に限らず北九州・関西・海外など場所を問わず参加していて、情報や意見の交換などを行っている。話題はいろいろだが、井筒屋、路面電車、到津動物園、「銀河のちゃんぼん」、「唐そば」などの詰もあり、東京出張時に (今では黒崎でも食べられなくなったらしい)渋谷の唐そばを試したりする変わり者もいたりする。また、北九州でやった同窓会の写真や情報を入れてくれたり、先生の話題もあったりするので、北九州には帰っていないくせに、妙に北九州の情報に強かったりする。また、奥さんのピアノリサイタルの案内やテレビのエキストラ募集などの、実益を兼ねたものや、身近なスペシャリストの親身な相談を受けられたり、目的は様々だ。メーリングリストは、職業や環境や住んでいる所もちがう人間が、それぞれに話せるし (発言できるし)、話さなくても聞いているだけ (読んでいるだけ)で、心のどこかに残っていたりする。海外にいても自分の同期から直接、地元の情報や雰囲気に触れることが出来たり、会わなくても意見交換などで高校時代を思い出したり出来るのがメーリングリストの良いところだと思う。

「飛翔53の会」 やメーリングリストは私にとっての 「ふるさと」だと思うようになった。「ふるさと」だから、特別に変わったことをやる必要もない。その気になればいつでもそこにいけるということだと思う。
これからも、自分の 「ふるさと」を自分でなくしてしまわないようにしなければと、時々は気を引き締めがんばっていこうと思う。

飛翔53の会への連絡
  e-mail: office@hisho53.com

飛翔53の会のホームページ
  http://www.hisho53.com/

 

「ふるさと」がやってきた/佐々木千佳 (83期)

 

就職で 「ふるさと」をあとにして12年、東筑のセーラー服を脱いでからは16年が経った。

その日私は、初めて仕事以外の用事でこどもを他に預けて、サントリーホールの、ずっしりとしたドアを開けた。そのステージには、なんと我が母親も立っていた。歌うは、合唱組曲「北九州」である。
作曲は、園伊玖磨(だんいくま)氏。オペラ『夕鶴』の作曲や随筆『パイプのけむり』などでも知られる。作詞の栗原一登氏は北九州で先生をやっていたという人物。
六つの楽章で構成され、全曲演奏すると46分もかかるというこの曲を、「北九州を歌う会」の一団が東京のホールで華々しく歌い上げていく。

Ⅰ 序章

Ⅱ 早鞆の瀬戸を渡り給え

Ⅲ 風

Ⅳ 九州の山は

Ⅴ 河童の歌 旧五市の結びを

Ⅵ 港

Ⅶ 石の羊 平尾台断章

Ⅷ 祭り 地蔵祭り

Ⅸ 祭り 太鼓祇園

Ⅹ 祖父より幼き者へ

ⅩⅠ梅開く

ⅩⅡ終章

…どんな曲を想像されたであろうか。

老若男女で編成された歌い手達が、連日の練習のあと上京、リハーサル、そして本番。緊張も重なって、中には、最中に舞台上で倒れる人もあった。
こうまでして歌をもってやって来た人達、そして、いま父母が暮らすあの街の「これまで」や「いま」そして「これから」に想いを馳せる。

思えば、変わり続けてきた「ふるさと」である。これまで、その時代の典型を生きた一家。父親は重厚長大の企業に勤め、家族5人社宅に暮らした。社内結婚で専業主婦になつた母は、3人娘の手が放れ教育費が嵩み始めた頃「そごうビル」の中でパートをはじめた。均等法世代の娘は企業の総合職として働き始め、やがてワーキングマザーをかこうも、時はバブル崩壊後。ふるい落とされるようにフリーになり現在に至る…、である。

  「日に月に祖父は夢見て  ここに興す港と街を」

            『Ⅰ 序章』

洞海湾に面する工場地。毎年そのグランドで開かれた盆踊りは 「ふるさとのサウンド」のひとつだ。父が仕事仲間に大きな声で呼びかける。踊りにきた人や花火を見に来た人、それに自分の家族らに、大きなポリバケツから、カルピスをふるまう。いかにも活気があった。
その次の世代である私たちは、すっかり果たされた夢のあと、自分たちの夢はどう見ればいいのか、と悠長に悩む時代に恵まれた。

  「サバやイワシに言うたげな

   九州男と九州の山は

   思い立ったら夜も日もないけ

   今夜は気をつけ、河豚にも知らせ」

         『Ⅳ 九州の山は』

そして私は、実に「思い立ったら夜も日もなく」出てきてしまった。仕事先が東京だと言ったら、父親に 「半・勘当だ!」と言われた。「半」がついたのは、娘をもった父親ゆえのつらさだと、母に諭された。

  「東が吹いたら 工場の匂い

   西が吹いたら 街の風

   どんな風でも さらりと来い

   おひさまかついで 吹いてこい

   もじもじするな

   こくらすぞ

   八幡 やめとけ 煙が逃げる」

             『Ⅲ 風』

土地を嫌ったわけではなかった。九州弁のはき捨てる調子も大好きな「ふるさとサウンド」だ。黒崎祇園の激しい太鼓囃子も、応援合戦の運動場で踊ったあの曲も、私にとっては、懐かしく大事な音。 しかし、人はその大事な音色を閉じこめた「たからばこ」の中に自ら入るべきなのだろうか? この箱は手元に置いて、時々そっと耳を傾けたい。

  「ふるさとよ

   永久に著らず 病むことなかれ

   わが街よ

   永久に新たに 明日に拓がれ」

           『Ⅶ 終章』

父も母もよく「なにくそぉ」と口にした。悔しいことや困ったことがあったときに、カを振り絞るときの景気づけのひとふしだ。「ここを何とかしてこそ」という誓いのメロディだ。

大合唱の迫力に押されながら、また、人目をはばからずハンカチを濡らしながら、最後に私の心に残ったのは、実は、この小さなひとふしだ。およそ合唱組曲の間奏のようにはまとまらなかったが、今の私には、この「願い」「祈り」の気持ちそのものが「ふるさと」だと思えてし方がない。

何せこの、あわてふためくワーキング・マザーの日々である。出前「ふるさと」の一団が掘り起こしていった、コンパクトな「なにくそぉ」のひとふしが、存外に出番が多いのだ。

 

ふるさとはいつもワイドカラー/安藤咲枝(84期)

 

「まさかの同郷結婚」だとか、なんとか 「会報」 に書かせてもらってから早9年。お蔭さまでこちらは83期生の夫と、息子(5歳)と娘(2歳)と忙しくも楽しい毎日です。結婚と大学卒業、就職が同時の、ちょっと変わった社会人デビューのその後をまずはご報告します。教育関係、男女雇用の格差の比較的少ない仕事をしたいと考え、(学)産能大学に勤務、そして第1子の妊娠を機に退職。息子、娘を計画通り(?)に出産し、6年間の専業主婦歴を経て、今年度から5歳と2歳の子どもも保育園デビュー。「月刊おかあさん業界新開」を発行する横浜のトランタンネットワーク新聞社でのスタッフとして、念願のライター業修行を兼ねて仕事を再開したところです。

さて、今回は 「ふるさと」というテーマについて、「結婚スイート10」の節目として一考察してみたいと思います。

私の場合、今だ東筑高校時代の関係をひきずり?「先輩」と呼んでしまう夫とは「ふるさと」の話をとても共有し易く、歳もひとつ違いだから、時代の独特な空気についても客観的に話すこともできます。だからもちろん方言での「ふるさと」話には、とてもほっとできるし、夢も膨らんでゆくのです。

大きな家を建てたいねとか、活性化に本気で一役とか! また子どもたちと帰省する度にも(帰省エリアが一つなので有りがたい!)、話題は思い出や新情報とともに増えてゆくから、これからもさらに楽しみなテーマであることに違いないです。普段は親姉弟と会えない寂しさはあっても、「帰るべきふるさと」を持ち、夫と共有しやすいという「ふるさと」環境に、とても感謝しています。

けれども、「ふるさとは 速きにありて 思うもの」的側面の一方で、自分に内在しているもの、個人の 「核」に当たるものという本質も、「ふるさと」にはあります。そして細胞が年輪を刻むたびにその 「ふるさと核」も進化してゆくから、「懐かしむ」べきセピア色の対象ではなく、自分の「ルーツ」に関わるかなリアルな「拠りどころ」となっていることに気づかされることがあります。

もしかすると、今私がそんなふうに考えられるのは 「子育て」真っ最中の母親であるからかもしれません。「育児」とは、やっぱり「育自」にほかならない大事業で、いろんな革命を自分や家族や社会にもたらしてくれます。その様々な場面場面で、自分の親としての「ルーツ」が問われてもくるし、その際の子どもへの表現力が実はとても重要。それが「セピア色」であるか、「リアル色」であるかで、親子のコミュニケーションが変わってもくるような気がします。だからこそ、私は今、子ども時代の記憶を必死で思い出そうとする機会が多くあります。

どんなところで、どんな人たちの中で、どんな風に生まれ育ってきたのだろう?

「どんな風に笑ったり、泣いたり、怒ったりしてきたのだろう?」

「どんな夢をもち、どんな努力をし、どんな失敗や達成をしてきたのだろう?」

「そして、今どう感じているのだろう?」

「これから、どんな風に生きていきたいのだろう?」

子育て期の母親にとって、こうした自問自答は時代に関わらず、強く大切なものであったはず。だから、私なりのオリジナルな「ふるさと核」を子どもたちに表現してゆける程度の「気骨」は持ち続けていきたい、そんな自分の力を信じて子育てしていきたい、自分のペースでいいから、と思っています。
けれども、リアルタイムのフレッシュな実体験を、子どもたちと時代を超えて共有できたら楽しいですよね。そんな楽しみかたをずっと心得ている先輩(夫)と子どもたちの関係に、私はもっと見習いたいと思う今日このごろでもあります。

以上のような理由で、我が家の「ふるさと」は、雨の日も晴れの日も、それなりにワイドカラー! 家族でいろんな色を出し合っていきたいと、ここに宣言しておくことにします。

 

サンノゼのローズおばあちゃん/石井かおり(92期)

 

大学4年の終わりごろ、私は2週間のホームステイを経験しました。
「英語を何が何でもマスターする!」
という気負いは実は全くなく、今しか出来ない事だし、いい経験になるかもという軽い動機で参加したホームステイでした。
ステイ先はアメリカ。サンフランシスコの南にあるサンノゼという都市でした。たった2週間とはいえ、英語をろくにしゃべれない自分がアメリカの、それも一般家庭に居候することに出発前は大きな不安を感じていました。

しかし私はそこで思いもかけない素晴らしい出会いをすることとなったのです。
ホームステイ先というと、40代くらいの夫婦と小学生~中学生くらいの子供、という家族構成を勝手に想像していましたが、実際に私を迎えてくれたのは60歳過ぎのおばあちゃん。しかも一人暮らしの方でした。ローズおばあちゃんは日本でいう『給食のおばさん』を昔やっていたということで、とても料理がうまく、毎日毎日私のためにおいしい食事をつくってくれました。

ある時授業が終わってサンキストの果実園に遊びに行き、おみやげにりんごを買って帰ると、その翌朝私の買ったりんごは甘い香りのするアップルブレッドに様変りしていました。
またある時は私が日本食を恋しがっているだろうと気を使ってくれて、何と「照り焼き丼」(らしきもの?)を作ってくれたのです。味は正直言って醤油の入れ過ぎでとてもしょっぱく、お世辞にもおいしいとはいえないものでしたが、私のためにお料理の本を見ながら一生懸命作ってくれたローズの姿を考えると、涙が出るほビ嬉しい食事でした。サンノゼの町はとてものどかで適度に都会。何だか故郷の北九州を思い起こさせるような雰囲気で妙に親近感のわくステキな町でした。

ローズは日本にとても興味があるらしく、私がおみやげとして持っていった漆塗りのお箸や富士山などのポストカードをいたく気に入ってくれ、また私にもいろいろと日本のことを質問してとても興味探そうに開いてくれました。何でも以前日本に行ったことがあるそうで、それから日本が大好きになったと言うことです。英語がほとんどしやべれない私は、ローズとは難しい会話をすることは出来ませんでしたが、リビングに座ってテレビを見て一緒に笑っているだけでコミュニケーションがとれた気がします。
ローズと過ごした2週間はあっという間で、あとに残るのは楽しい思い出ばかり。

簡単な単語を選びながら料理を教えてくれたこと。孫のハナを一緒にお風呂に入れてあげたこと。町でバスを乗り間違えで見知らぬ土地に行ってしまい、夜遅く帰宅した私を無言で抱き締めてくれたローズ。2週間のステイを終え、最後のお別れをする時、私のために泣いてくれたローズ。

その時彼女の言ってくれたセリフを今でも忘れることが出来ません。
  「いつでも戻ってらっしやいね。」
また来てね、ではなく、戻ってきてね、という言葉がとてもうれしかったです。

あれから2年半。今でもローズにが手紙を出しています。
忙しくてなかなか実現しませんが是非機会があればまた訪れようと思います。
心のふるさと、サンノゼを。そしてそこにいる私の大好きなおばあちゃん、ローズのもとを。

 

ふるさと然々なるままに/菊川一美(76期)

幼少編

・薄味昆布ダシスープに腰の強い手打ちうどん。大面積を占める「さつま揚げ」は九州では「丸天」

・小ぶりの中華椀にあふれるトンコツスープ。ハム、玉子、万能ネギを乗せて絶品「マルタイラーメン」

・角の駄菓子屋10円持ってクジを引く、ハズレは赤い三角アメ、大当りは口いっぱいの黄いアメ

・学校帰りの横断歩道、私の帰りに犬の「コロ」がほえまくる

・秋には必ず大型台風、雨戸をしめて時々停電。ろうそく一本、懐中電灯たよりにプレイカー探し

・季節の変わり目学級閉鎖、外出禁止無視して遊び回る (失礼)

・ガチヤガチヤ回すモノクロTV、時々ダイヤルとれて鉄棒回す。慣れると結構スピード早い

・土手の上で鹿児島本線、汽車の 「プゥワーン」と同時に運転手に敬礼

・裏の竹やぶから「到津遊園地」只入り、平気な顔して行楽三昧(失礼)

・兄弟ゲンカは三日に一ペん、親の言葉にケンカは中止。「一人は撲死で一人は刑務所」 (失礼)

・トイレと玄関に続く長い廊下、恐怖の戸締まり、何回やっても走って戻る

・沼が池が大好きで網取りすくって「ボラ」探し、スルメをつけて「アメリカザリガニ」

・貝割り、クギサシ、ビー玉、ケンカゴマ、バッチン、カンケリ、三角ベース。今日も一日、日が暮れて

・広いグランド裸足の三角ベース。ピッチャー1人にバッター1人、もちろん守りもタダ1人

・ひっかけ多発の「はさみ将棋」、緊張走る「山崩し」。音がしたしないで一悶着

・兄弟で好物真反村、皿を取り変え一丁上がり

・双子の弟、クラスが違い、後からやったテストは100点滴点

・暴力、非行が大問題、真面目なあいつがいつの間にやら眉毛そり(失礼)

・塾をさぼって 「巨人の星」、TVにクギ付け手には汗。終わった後は、すぐ素振り

・来る日も来る日も毎日野球、ガキの頃から「甲子園」。真芯の快感忘られず

・ヘドロで有名「洞海湾」、ボンボン船で渡った「高塔山」

・海水浴は山口県、海底までが過き通る。お化けコンプに自然の驚異。やせ我慢で必死にクロール

・日豊本線正月移動、柚の臭いに地べたに新聞。田んぼの連続、なかなか着かない年中行事

・遠足お菓子のリミット200円、ちょっとごまかしチョコレート多め

・「先生さようなら、皆さんさようなら」、「肝油」もらって一目散

・黒板差しに木きん、バケツにほうき、ぞうきんがけにデコピン、シッペ。いろんな説教がありました (失礼)

・パチンコ打っては「ニッケ」をもらい、紙芝居で「水あめ」調達。おっさんの口上開きながら「バン!」と一発

「ボンボン菓子」

・猫も杓子も背番号「3」、左の私は「1番」好き。たまにいました 「6番」土井好き (失礼)

・小倉生まれの 「中井」育ち、魚街銀天街にそ-わそわ。玉屋、井筒屋歩き回る、「紫川」から先は御法度ゾーン

・小倉球場で王さんと一緒にトイレ。平和台球場、西鉄グランドホテルで長嶋さんと大握手

 

高校野球編

・「東筑軒」 のかしわ弁当、笹箱底のはりつき米つぶ。割りばしではぎとり最後の一口

・練習終わって「大人車」夜8時、スープを全部飲まなきゃお説教

・真夏の練習、終わった瞬間「スプライト」1リットル一気飲み

・朝7時、グランド入った途たんにワンチャン100m猛ダッシュ。グランド整備にランニング、朝練もワンチャンのおかげで救われる

・練習終わって日が暮れて、鹿児島本線自宅はもう9時。大メシ食らって風呂入り、10時になればバタンキュー

・そこまでやるか千本ノック、取れそうで取れない天才ノック。足はヨロヨロ、ユニホームドロドロ、勝っているのは 「かけ声」だけ

・炎天下、この世で一番おいしい「水道水」。かくれて飲めばなおおいしい

・炎天下、グランド中に水かくし、ファールが来るのが待ちどおしい。見つけたボールはけ飛ばして、思わず飲んだらアリ一びき

・雨乞い儀式で目論見通りの練習中止、ところが廊下の地獄の筋トレ。頬に伝わる廊下の床の冷たさが、かすかなエネルギー呼び戻す

・恒例冬の芦屋ランニング、ヤケクソに走れば結構走れる自分にびっくり。「やればできる」と自信回復

・練習に向かうバスの中、時間ギリギリ、着がえが始まる。世間の目線もなんのその、必死が勝って若さでごめん。バス停降りればユニホーム

・「頃末」すぎれば「山の神」。階段、階段、また階段、さあ監督車ご登場。偵察隊が「来られました!」 (失礼)

・2時間目で早弁、昼食はパンに食堂、食べても食べても追いつかない。練習終われば「大八車」

・小倉、大谷、桃園球場。どうせやるなら小倉球場、味があるのが桃園球場、何故か緊張するのが大谷球場

・一番後ろでスパイク磨き、先生に差されてチンプンカンプン。「野球部笑い」で難をのがれる (失礼)

・練習に向かうマイクロバス、いつもラジカセ 「ユーミン」の歌。歌詩を全部覚えて楽しくもあり辛くもあり

・帽子をとれば「イガグリ野球小僧」、全校生徒、全先生にバレていた。分けも分からず誇りに思う

・マインドトレーニングに体育館で甲子園行進練習、手足が同時に出てる奴がいる

・「たかが甲子園、されビ甲子園」、来る日も来る日も「甲子園」

★東筑そのものが私の「甲子園」でした。然々なるままに自分の 「ふるさと」を書いてみました。結局、野球ばかりやってた様です。

追伸

 今年の春先に仕事のからみで折尾を訪れ、東筑高校のグランドに伺う機会がありました。練習が見れて、青野監督にも会えそうな夕方を選んで立ち寄ったのですが生憎、中間テストで生徒はいなく、一人グランドに佇むことになりました。静かなマウンドに立って回りを眺めてみると我々が在藷していた頃とずいぶん様子が変わっていました。

鉄筋で頑強な野球部の部室。外野にはスコアボード。増設工事中のブルペンに立派なバックネット。その裏には寝泊まり可能そうな監督室。ベンチが構えられ、「仰木監督」 の寄贈プレート。すべてに時の流れを感じました。

しかし、当時から使っていた錆びたグランド整備用ローラーを見つけた時、過去の憧憬が一本の線でつながり思わず涙腺が緩んでしまいました。

一年後輩の青野監督に「ヨー!元気か」という偉そうな言葉を用意していましたが、また訪れた時にとっておきました。「頑張れ東筑野球部」。

 

東京東筑会懇親会をふりかえって/谷石信之介(69期)

平成11年度東京東筑会懇親会が、99年11月20日(土)、pm3:00~pm5:00 イースト21東京(江東区)にて開催された。約1年以上前から準備を進めてきた、懇親会当番期である我等69期にとって、成果の御披露目の日でもありかつ卒業以来28年ぶりに皆で何かを成し遂げるという慶びの日でもあった。

準備から当日まで振り返ってみよう。

最初の準備段階初めの頃は、関東在住の同期への声掛けから始まった。そのうち確認出来た同期の輪も段々広がって行き、開催日当日は62名にも上り、以外にも大勢の同期がいることに驚かさせる。その内数名は、99年の春、または夏の転勤時期に北九州へ、関西へ、はたまた海外へと懇親会を待たずに転勤してしまった者もいるが、結局当日集まった同期は、東京組34名、北九州組17名、岩手、名古屋、神戸、静岡から5名等、計56名にもなった。

当日の懇親会の様子をさかのぼってみると、先ず先生方3名北九州組の同期17名の出迎えから始まった。羽田での歓迎から始まった一行の出迎え!あずき色の東筑の幟を持って現れた平田君(元東筑教諭)達。最初は単なる中年のおっさんとおばさん! しかし、ものの1分も経たずに28年前の記憶がよみがえり、竹尾先生、福田(寛ちゃん)、増本先生もすぐ分ったし、「やあっ! 久しぶりやのぉ。」 「私、覚えとる?」 の会話も弾んだ。ただ約1名、額も上がってるし白髪だし、てっきり北島現東筑校長とばかり思った輩がいた。しかし北島校長は別の便で上京されるとの連絡を受けていたので先生方の懇親会前にご案内する参段など、予定が狂うのかと思った。がそれが何と最後の同期の者だったことが発覚し、胸をなでおろしたような彼には申し訳ないような…。でもよお-く顔を見ると、昔の面影はしっかり有るし、なによりまして皺が少ない! あえて誰とは、伏せておこう。

同期の皆は、ホテルスイート21東京へ向かったが、先生方は品川の泉岳寺へご案内をした。泉岳寺とはご存知とは思うが、赤穂浪士の眠る所で有名である。NHK大河ドラマでも赤穂浪士の討ち入りのシーンの1週間位前でタイムリーでもあったのだが参拝者も多く、ビルの中のお寺と言うことでも先生方は、驚かれていた。先生方は境内で浪士の陣羽織を着て記念撮影をされ、竹尾先生はにこやかに笑われているのだが、福田先生はちょっと頭を傾け口をへの字にして一所懸命写真に収まっておられたのが印象的だった。

午後2時半を回った時点でお客様の出足が鈍いような感じさえ有ったが、懇親会オープンの頃には約300名の動員数を数え、もしかして250名くらいかの心配も一挙に吹き飛んだ。

いよいよ懇親会の始まり、山本元気君(78期現ニッポン放送アナウンサー)、69期上原君の2人司会で滑り出した。東京東筑会会長古岡勝氏、東筑会会長吉川蔵夫氏、北島現東筑校長、増本現教諭、功労者表彰(長年にわたり、東京東筑会に功労の有った長畑、山保両先輩の表彰)、祝電披露 (北九州より元衆議院議員64期三原朝彦氏、遠くニューヨークより69期深堀君他)、恩師紹介(竹尾先生、福田先生)、新入会員紹介(5名)と続くのだが、古岡東京東筑会会長 (36期)によると「今の幹事当番期制になったのは僕達の頃からが最初だった。(勿論東京東筑会は存在せず、折尾での東筑会でのこと)」ということだった。北島校長からは、今年の東筑のクラブ活動の報告や進学上昇などの紹介があり、竹尾先生、福田先生から何と竹尾先生の最初の卒業生が福田先生だったということが披露された。

しばしの歓談の後、トピックスとも言うべきほんの懇親会の1週間ほど前、つまり11月13日(土)に行われた全国高校ラグビー選手権大会(花園ラグビー)福岡県大会決勝の模様をビデオ放映した。相手は宿敵東福岡高校。シーソーゲームを制したのはもう皆さんもご存知我が東筑である。残り1分、29対28で負けている中、距離41メーター、逆風の条件をものともせずペナルティゴールを決めたのである。4分余りのダイジェストではあったが、両サイドに設けられたビデオスクリーンに張りつけられてしまった皆さん。中には、嬉し涙さえ浮かべる輩もいたほど興奮気味に会は盛り上がっていった。

興奮覚めやらぬ中ひと時の歓談の後、この懇親会のために編成した芳弘千鶴子と東筑101年記念特別編成バンドがバラード調の曲を聞かせてくれた。この企画も、ラグビー放映の後の良いコントラストとなり、選曲も良かったのか乗りだして聞き入る輩も居たほどだ。「タイタニック」をかわきりに1960年代後半から70年代にかけての曲を中心に披露した。ボーカルをはじめ聞かせるバンドであった。

だんだんエンディングに近づいて行くのだが、ここで当番期の襷リレーが行われ69期芝君から70期重岡君へ襷がしかと渡された。そして恒例の校歌斉唱! 69期辛島君を先頭に69期は全員ハッピ姿で壇上に上がり、声の出んばかりに心いっぱい校歌を謳った。気持ち良かったのはみな同じであったろう。

会場の皆様も、さぞかし楽しい一時を過ごされた様子、皆様の笑顔が壇上からでは有るが、よ~く拝見できた。
東京東筑会副会長安永保昭氏の音頭のもと、万歳三唱で懇親会は御開きとした。

お客様を見送りの後、69期全員の写真を竹尾先生、福田先生とともに記念撮影し69期のご苦労さん会へと流れていった。ご苦労さん会とは名ばかり、69期の同窓会へと早変わりしている様であった。竹尾先生、福田先生を囲んで話にはずんでるかと思うと、高校時代はお互い会話の機会もなかった者たちが、「ああ-、そう言うことがあったねぇ!」「はじめまして!」 「いやぁ、な-も変わっとらんの-」 「今、何処住んどん?」等など、一挙に高校時代にタイムスリップした集団がかれこれ60名ばかり、本当に和やかかつ懐かしい集いとなった。
福田先生も我々が習った頃のまあ-んま! 竹尾先生も! 竹尾先生はもう70を超えられてるし、福田先生も63、4になられると思う。とにかく28年の歳月の中、皆それぞれにいろんなことがあったであろうが、先生方も我々も時がワープしてしまっていた。

翌日は、先生方と北九州組を浅草は浅草寺や仲見世、駒形でどじょう鍋に舌鼓を打ち、隅田川の遊覧船で川くだりをした。修学旅行の頃、隅田川には行かなかったが、あの頃に比べ水もずいぶん綺麗になってきた。それに護岸工事も進み遊歩道も整ってきた。先生方との隅田川下りに、晩秋の心地よい風と、この約1年間の準備と11月20日の懇親会、そして11月21日の楽しかった余韻を残したまま先生方を見送ったのである。

卒業以来28年、皆それぞれいろんな経緯を経て来てはいるが、東筑の卒業生であることの慶びを改めて強く感じさせてくれた懇親会への当番期であった。

 

第32回東京東筑会ゴルフコンペ記/梶栗俊郎(62期)

絶好の春びよりの中、5組19名で第32回ゴルフコンペが飯能ゴルフクラブで行なわれました。優勝は廣渡正義先輩(54期)、二位、川上祥登先輩(57期)、三位は、メンバーでも有る梶原眞先輩(38期)であった。

今回のコンペでの印象は、老人パワー、女性の台頭2000年ミレニアムである。

古岡会長、梶原先輩、鴛海先輩のコンペは、日本人平均男性寿命以上生きておられる方のゴルフとはとうてい思えないものである。ドラゴンでは二本とも小田昌治先輩が結果として獲得されたが二本とも、近差であった。諸先輩と筆者(62期) の年齢を比較すれば鼻たれ小僧の私より、先にポールが飛んでいるのを見ると、ゴルフの探さというものを感じるものである。
又、戦後日本の象徴女性の進出も東筑会ゴルフコンペにもはっきりと表らわれていた。
幹事で御苦労されたにもかかわらず、西尾多恵子先輩、北條民子先輩も御上手である。飛距離では山崎多恵子先輩、63期の岸田智子さんはよく飛ぶ。

今回私は、岸田さんとベスグロの小田昌治先輩と最後の5組で三人で廻らせていただき、勉強になったのは、岸田さんの飛距離プラス正確さは女性としたら抜群、スコアーもグロスで95である。

当人の話しによれば、ゴルフが好きでよく練習場に通ったり、コンペにもよく出場されているそうです。この様なメンバーにめぐまれた私が、3番のショートホールでホールインワンが出たのです。私にとってももちろん初めてですが、32回の東京東筑会ゴルフコンペでも初めての快挙に興奮! 小田先輩より「ホールインワン保険にはもちろ入っているのでしょうネ」と尋ねられ目の前がまっさお……4年前まで勤務していた (株)丸井で28年間保険をかけていたが、退職してからは独立、社会福祉施設開設準備に奔走し、ゴルフをやる余裕がなかったため、保険はかけずじまいであった。ちなみに、私の成績は、グロスで126、ブービーメーカーで19位。
でも、2000年を飾る記念すべき4月19日「東京東筑会ゴルフコンペ」飯能ゴルフコース3番ホールである。

 

北九州市から世界が見える!

北九州学術・研究都市に半導体設計企業の集積を進めています。

    ∪ターン希望の起業家・設計技術者の方はご相談を

北九州市は、いま、大きく生まれ変わろうとしています。

24時間就航可能な本格的海上空港「新北九州空港」や環黄海圏のハブポートをめざす「大水深港湾」などと並ぶビッグ・プロジェクトである「北九州学術・研究都市」は、理工系の教育・研究機関を集積し、アジアの学術・研究の拠点となることをめざしています。

平成13年4月には、北九州大学国際環境工学部や九州工業大学大学院や早稲田大学理工学総合研究センター九州研究所などがオープンします。さらに、平成15年4月には、早稲田大学大学院も開設されます。

北九州市は、このように着々と頭脳の集積が進む「北九州学術・研究都市」を中心にして、半導体などのエレクトロニクス産業の集積を図り、日本を代表する技術都市として再生することをめざそうとしています。
すでに、平成11年度に指針となる「エレクトロニクス産業拠点構想」を策定し、現在、具体的な施策を作成中です。この作業を行っている「エレクトロニクス産業拠点推進委員会」には、日本の主要半導体メーカーが参加しています。
このプロジェクトで、地域として研究開発を推進する具体的なテーマは次の分野です。 

① SoC (システムオンチップ=システムLSl〉の設計・設計環境(設計ツール)

② SoC に係るマルチメディア技術(画像関連=画像チップ・コンピュータグラフイクスなど、言語関連=音声認識・音声合成・自動翻訳など)

※ SoCとは、プリント基板上に複数のチップで実現されていたシステムが、半導体の超微細加工技術により、1チップ上で実現されたもの。これにより、コスト低減、性能向上、低消費電力化が可能になります。
※ 画像、言語関連技術などのマルチメディア技術は、これからの情報化社会において、コンピュータと人間のインタフエースになる重要な技術です。

この構想を実現するため北九州市では、まず次の事業を、産業界・大学と協力して術現を目指します。

 ① 産学交流の促進(大学が企業の研究開発を支援する体制)

 ② 人材育成(即戦力となる大学教育や技術者の再教育)

 ⑨ ベンチャー企業の育成

この他、世界的なコンピュータ産業の拠点である台湾の大学や企業との連携も進めています。

この大規模プロジェクトには、多くの優秀な技術者の方の協力が必要です。この国際的なプロジェクトに参加したいUターン希望の起業者や半導体設計技術者(LSI設計企業の起業家、LSI設計技術者、ソフトウェア技術者)の方はご相談ください。

お問合せ:北九州市経済局産業振興部企業誘致課

     093-582-2065

     e-mail:k1206020@city.kitakyushu.jp

     北九州市東京事務所 093-3264-7321

 

 

第18号

(2000年 平成12年11月)

第18号