会長ご挨拶 -上善は水の若し/東京東筑会会長 古岡  勝 (36期)

昨年は東筑高校創立百周年記念パーティが盛大に行われ、歴史と伝統の重みを感じさせられました。「歴史と伝統」といえば中国です。今回はちょっと老子に触れてみました。
老子は中国戦国時代の紀元前500年~400年、周の時代に81才まで生きた思想家で、道家の元となったと中国の書にある。

老子の第八章に

『流れては先を争わず、入れれば百方の器に従う。これが最善の生き方である』。と言われている。
最上の善は水のようなものである。水が上善である理由は三つある。

(第一)水は方物に利沢を与えている。天地の間に見ずなくして存在するものは一つもない。それほど大きな存在でありながら、水は他の功名を争うことはない。

(第二)人間は一歩でも高い位置を望むが、水はその反対に低いところへ低いところへと流れて行く。

(第三)低いところにいるから自分が大きくなる。谷川を流れて大川となり、さらに流れて海となり、大きな存在となる。

中国長江の大洪水と三峡下りの旅

1998年8月私が団長として一行29名、太平洋戦争中、蒋介石総統が司令部を置き、日本軍が長途空爆を敢行した重慶より武漢までの予定で、長江(揚子江)三峡下りの旅をした。
当時日本の新聞でも連日大きく報道されたとおり、長江は大洪水のため提防が各所で決壊し大氾濫を起こし、軍隊が出動して土のうを摘んでいる写真を皆さんご記憶と思う。
現地は湖北省、湖南省、江西省は水浸しで最悪の状況下にあったが、交渉の結果、三省下りの最新鋭豪華船『北斗号』が行ける所まで行く、と言うことで旅行を決行した。
平常は外国人の団体が多く国際色豊かな船旅となるのだが、洪水のためほとんどがキャンセル。我々のほかは10名程度の日本人団体の二組のみで、貸し切りの大名旅行となった。船中3泊の間船長と意気投合し、飲み且つ中国のカラオケを楽しんだ。
私は昭和51年に国賓として中国よりご招待を受けて以来、4度目の三峡下りであり、今回は『鬼城』本称『豊都』に立ち寄り、閻魔大王にゴマヲスルのが目的の一つでもあった。
前回現地ガイドの説明によると、人間は三途の川を渡ると、必ず閻魔大王の前で、地獄行きか天国行きかの裁きを受けることになっているとのことだったので、今回大枚5,000円(現地給料の半年分)を寄付してお願いした。閻魔大王の大大(奥さん)が中国人の代表的美人であることを今回初めて知った。

鬼城を遇ぎると第一峡の『瞿塘峡』で、『李白』と『劉備・諸葛孔明』で有名な『白帝城』がある。750階段を昇った山上にあるが、後述する三峡ダムが完成すると、165メートル水位が上昇し、河の中の孤島となる。架橋して観光名所となる予定。次は第二峡の巫峡である。昭和5年の五・一五事件首謀者の一人の獄中作と言われている(実は間違い)『青年日本の歌』で有名な巫山がある。

『青年日本の歌』(参考)

汨羅(べきら)の淵に波騒ざ
巫山(ぷざん)野雲は乱れ飛ぶ
混濁の夜に我起てば
義慣に燃えて血潮湧く(以下略)

この歌の真の作者は憂国の青年将校の三上卓海軍中尉で、私も予備士官学校時代によく歌わされた。紀元前278年憂国の情から汨羅の淵に投身自殺した『屈原』の郷里は巫峡の下流にある。

次は第三の西陵峡を通過する。迫り来る2,000メートルの連山の雄大な壮観に圧倒され嘆声の連続だった。 三峡の壮大な景観が終わると三峡ダムに到達。完成すると最大175メートル水位が上昇し、三国志の舞台をはじめ貴重な歴史遺産が消える。さらに周辺住民125万人の強制移住が進んでいる。
現在約3分の2がせき止められ、増水した長江の激流は残る3分の1に集中し、言語に絶する壮絶さに、しばし慄然として見入った。
北斗号の船長は、この奔流に操船不能と判断し、我々はここで下船した。参考までにこの地宜昌は戦時中敵の重要軍事拠点で、私の所属する第34師団はこの地を攻撃粉砕した。
三峡ダムが完成しても上流から流れてくる土砂のため、60年しかもたないと言われている。一方では、清水のときは貯蔵し、濁氷のときは排出するので問題ないとも言われている。
果たして問題ないのか。その土砂は下流で堆積しないのか。以下本題で述べる。

さて本題に戻る。中国一の湖南省の湖『洞庭湖』はこの下流に位置する(私は終戦をこの南岸で迎えた)。この地方の住民は洞庭湖が中国一と自慢する。揚子江ワニ、淡水イルカが生息する。
さらに下流湖北省の下流で、江西省の九江には『番陽湖』がある(私は戦争中を含め三度行った)。この地方の住民は番陽潮が中国一という。
何れにしてもこの二大湖が長江の大水瓶として、水害の援衝の役割を果たしてきたことは否めない。しかし、現在は長江や周辺の河川から流れ込む土砂により浸蝕され、住民はこの土地を利用耕作し、老子以来2,500年間、この二大湖は一度の浚渫もなく、その容量は半減したのではないかと思われる。
かっては鶴など貴重な野鳥の宝庫だった番陽湖も餌場が少なくなり寂しくなった(戦後視察に行き中国の幹部は嘆いていた)。
二大湖が昔のままの容量として、水量を3~4日受け容れればその間防堤も進み、被害も最小に止めることができたのではないか。
今回の大洪水で現地を知るだけに、老子の『上善の水』を私なりに解釈した次第であります。

東筑高校の今後の発展を祈念しながら、また一歩今度は二百周年に向けて踏み出していきましょう。

 

新任のご挨拶/東京東筑会副会長 久我 昂(57期)

昭和31年4月、東筑高等学校に入学し、東筑との関係がスタートした。父も東筑中学25期の出身であるから関係はその時より以前からあったとも考えられる。
三年生の時に創立六十周年を迎え、今は解体されて存在しない新図書館が建設され、いろいろな行事が催された記憶がある。
昨年百周年の記念の年だったから、考えてみると卒業以来40年が経過したことになる。

私は黒崎中学校の出身で、東地区の本来の校区からは外れており、母の兄が中間の新手に住んでいたので、高等学校の3年間はその地に寄留していた。福岡県の高等学校の教師をしていた父が、私の寄留、越境に異論を挟まなかったのは、何か特別の考えがあったのかもしれない。ちなみに、私は兄弟4人であるが、他の3人はいずれも八幡東区の高等学校の卒業である。

大学を卒業し、当時の八幡製鉄に就職して北九州に帰り、20年間を故郷で過ごした。その間に結婚をし子供もできたが、昭和60年転勤にともなって東京に家族と共に出てきた。
長女は高一まで北九州で過ごしたが中学から明治学園に通学しており、そのまま高校に進学して、残念ながらわが家では三代の東筑人脈は実現しなかった。
57期の同期会会長をしている森肇君に、かつてなぜ娘を東筑に入れなかったかと詰問された記憶があるが、入学しても私の転勤に伴い三代は結局実現しなかっただろう。

東京に出てきてすぐに、年賀の交換をしていた関係で、現在東京東筑会の幹事長をしている川上祥登君から連絡があり、昭和61年からお世話になることとなった。
2年が経過して職場を異動したら、そこに前幹事長の白石基雄さんが次長でおられ、ますます東京東筑会との接触密度が高くなった。

当時の新日鉄の建材部門は、技術の次長と課長(私である)が東筑出身で、その上営業に62期の高藪裕三君が課長で在籍していた。冗談に当時の上司から「東筑マフィアが当部門を動かしている」等言われたものである。三人で事前検討すれば、実際連携が強いのか、川筋で育まれた意思が通じあうのか、あまり揉めることなく検討案がまとまり、それが部門の方針になったように記憶している。

その頃、期幹事を仰せつかり、63年の会報にその事が記載されている。それから幹事会に出席のため「今日は東京東筑会だ」といって出ることが多くなり、懇親会の前には出席勧誘の電話を同期生にかけるので、女房殿も「東筑とは?東京東筑会とは?」とその特異性にぴっくりしたようである。本人は鳥取西高の出身で、創立は明治10年、120年の伝統校である。男と女の差もあるが、同窓会活動の活性度は東筑のそれとは比較にならない。東筑は女性も随分頑張っていることを考えると、やはり活動に駆り立てる何か特別なものの存在を感じるのである。

昨年は本校百周年と東京東筑会20周年の年であったが、20年というのは一つの歴史と考えられる。今日の体勢を築き上げていく過程では、幾多の人の献身的努力があったことを聞いているし、私自身実見している。
今年は一つの歴史を踏まえ、新しい20年のスタートの年である。さらに21世紀も目前である。
新しい東京東筑会とは、と気張ることなく、自然体で息の長い同窓会活動を続けて行きたいものである。そのためにはまず活動の基本エネルギーとなる数(総会、懇親会、各種行事等への参加数である)の増加を計らねばならない。
昨年は当番期の緻密で積極的な努力により、活力ある素晴らしい懇親会が行われた。これも多数の参加者があったからである。数こそ力と信じて、今後も数の増加に努力したいと考えている。
特に利害関係はなく、青春の一時期を同じ学舎で過ごしたという共通体験のみをべ-スに、関東の地において川筋気質と筑豊弁の飛ぴ交う、東京東筑会の発展に些かなりともお手伝いが出来ればと考えている。
  

新任のご挨拶/東京東筑会会計 青野和子(68期)

はじめまして、68期の青野でございます。この度、長らく会計の大役を果たしてこられた山保先輩より、突然合計のお役を引き継ぐこととなり大変とまどっております。昨年、東京東筑会の百周年イベントを68期全員でなんとか成功させようと頑張ってまいりましたが、そのために山保先輩の目にとまってしまったのかと思うと、うれしいような悲しいような複雑な心境です。

でも、百周年イベントの成功は私一人の力ではなく、本当に68期全員が代表幹事の佐野君を中心として一丸となって頑張った成果だと思いますので、この大役も全員で引き受けられるものならば良いのですが、そういうわけにもいかずなんだか困ってしまいます。心ならずもお引き受けしてしまった以上、同期の小御門事務局長と東京東筑会を少しでもお手助け出来ればと思い、徴力ではありますが、なんとか頑張りたいと思いますので、よろしくお願いします。
私が在籍していた頃から、この学年はとても仲の良い学年であったように思います。それが、ふるさとを離れて東京という地で皆頑張っているのだという思いを共通のものとして、さらに仲良くなったようにおもいます。

それが、昨年の百周年イベントの成功につながったのだと思います。私自身はとにかくなんということもない普通の高校生でしたので、東京に来てからの方が在学中よりもずっと仲良くなったり、改めて初めてお友達になったりした方が沢山出来ました。これも東京東筑会が存在し、事務局長の小御門君(68期)が長く頑張ってきたからだと今更のように感謝しています。そんな普通の高校生が主婦となって東京へ来て、たくさんのお友達に恵まれたのも東京東筑会の活動を通してだったのかもしれません。そんな私が会計の大役をお引き受けするのは、何かと不慣れで不行き届きも多く、ご迷惑をおかけすることも多いとは思います。若輩者ですが、諸先輩方の教えを受けながら頑張って参りたいと思っておりますので、今後とも宜しくご指導のほどお願いいたします。 

退任のご挨拶/東京東筑会前副会長 長畑寛照(48期)

本年4月、東京東筑会の副会長を退かせていただきました。
私が東京東筑会に初めて関わりを持つようになったのは、昭和58年の会報創刊の時でした。編集委員の同期佐藤晶君から、会報を出すことになったが、誰も編集の経験がなくて困っているから、経験者の君に助けてもらいたいと呼ぴ出しを受けました。

私でお役に立てるならと、編集にタッチしたのが始まりで、その後3号までの制作を担当させてもらいました。その間の経緯については、会報の4号に述べましたので省略しますが、会報にも若い方の新しい息吹を吹き込んでもらおうと、4号から67期の安永敏明君に編集をお願いすることで、責任から開放されてほっとしていたわけです。
ところが平成3年に当時副会長だった鴛海先輩から、突然私に副会長になるよう要請されました。しかし元々私は鎌倉に育ち、九州は戦後帰郷して東筑中学の3年に編集し、新制東筑高校を卒業するまでの5年間しか暮らしておりませんので、川筋気質にも素直に馴染めないものがありましたが、幹事長だった白石基雄君が再々会社に尋ねてこられて、どうしてもと粘られ、とうとう根負けして副会長をお受けすることになりました。しかし、お受けしたからには会のためにできるだけの努力はしたいと、2ヶ月に一度のぺ-スで開かれる幹事会にも、出張でもないかぎりほとんど参加し、熱心な幹事さん達の議論を聞いて会議を進めてきました。

その過程で私が一番気をつけたことは、多くの会員の気持ちを忖度して物事を判断することでした。というのは幹事の諸君は特に熱心な人たちの集まりですから、どうしても議論が勇ましい方向に進む傾向があり、熱くなりがちです。
したがって、ややもすると一般の会員の意向とは遊離しているのではないかという印象を受けることもありました。そこで常に冷静な気持ちで逆に議論に水を掛けるようなこともありました。
交友会というのは、同じ釜の飯を食った同士とはいいながら、会員として強制されるべきものでもなく、会員それぞれが多様な価値観をお持ちですから、なるべく多くの会員の賛同を得るよう、無理を押しつけないことが必要ではないかと思ったのです。
また、秋の懇親会が年々派手になり次の期の幹事さんの憂欝な顔をみるにつけ、後々の諸君が不安を持たないよう、あまり無理をして派手な催しがエスカレートしないようにお願いしてきました。
このような方針が会のために良かったかどうか分かりませんが、少なくとも会を長続きさせるためには、必要なことではないかと思っています。

ただ、昨年の母校の百周年、東京東筑会の20周年は又とない記念大会であり、幹事期の68期の諸君が、早くから企画を練り、準備を整え、当日の参加者500人を目指すという意気込みで臨んでくれましたので、私どももその意を酌み、応援する姿勢で対処しました。
結果はご承知のように、580人の参集を得るという大盛会となったわけで、68期の団結と努力に大きな拍手を送りたいと思います。
懇親会の一番の魅力は、懐かしいクラスメートや多くの校友に会うことです。これまで参加されなかった方で、昨年の懇親会に参加してその魅力を再発見し、これからも来ていただく方が増えることによって、東京東筑会が更に発展していってもらえば有り難いことです。

ところで私も、あっと言う間に副会長を2期6年務めさせていただきましたが、副会長はある程度実務に携わるわけですから、どんどん若返ることが必要だと思いましたので、今年4月の総会で退任を申し出たのです。
後任には、私より10年近く若い久我昂君を推薦させていただき、幸い総会で全員のご承認を得ることが出来ました。久我君を推したのは、これまで度々総会で議長を務めてもらい、そつのない議事運ぴと冷静さは、副会長に適任だと思ったからで、今後安永副会長とのコンビで東京東筑会の発展にご尽力いただきたいと思います。これまで副会長を務めさせていただいたお陰で、会の役員の方々はもちろんのこと、多くの会員の方々とも親しく交流することができたことが、私にとって何よりの収穫と感謝しております。

ところで古岡会長とは、誘われて2年前に中国を訪れたのに続き、今年の8月には、2週間プラジルヘの旅をご一緒させていただきました。
人と人のご縁は不思議なものですがこれからも皆さんとのご縁を大事にしていきたいと思っていますので、今後ともよろしくご指導いただくようお願いいたします。
  

退任のご挨拶/東京東筑会前会計 山保 文枝(59期)

昭和56年にひょんな事から東京東筑会の会計をお引き受けして以来、あまりの長さに回りから顰蹙を買いながら続けて参りました。が、此度、今井さんと新任の青野さんにバトンタッチすることとなり、やっと無罪放免となりました。

上京後、10余年経って子有てもそろそろ終りの昭和55年の秋、一通の葉書が届きました。第2回東京東筑会の案内です。会場はサンケイ会館でした。「誰か知っている人に会えるといいな」、期待と不安を抱えて初めての参加でしたが、卒業後初めてと言う方々にも会えて大変感激したことを今でも鮮明にそして懐しく想い出します。

そこから私の東京東筑会の一頁が始まりました。次の年が私共59期の当番で、末森さんを中心に大変な準備作業でしたが、無事憲政会館での会を終えた時、同期の桜が気持を一つに結束して大事を為し遂げた充実感のすばらしさを味わったものでした。

あれから18年、東京東筑会の下支えの仕事を通してたくさんの方々と出合うことが出来、非常に多くのことを学ぷことが出来たと実感いたしております。東京東筑会は、諸先輩を初め関係者皆様方の多大な御尽力により今や会員数3,000名を越える大所帯に発展しています。これは東筑卒業生として大いに誇りに思っております。

毎年行われる懇親会は、年々盛会を極めております。当番期の皆様方が、一人でも多くの方に参加して欲しいとの思いで、何かしら新しい企画をと、大変な御苦労をされておられる姿を見るにつけ、もっと自然体でもいいのではないかと思ったこともありました。しかし、年毎の懇親会の大盛況振りと当番期の皆様の一致固結した活躍振りを見ていると、これもひとつの自然体なのだと思えるようになりました。

第一線を退かれゆとりの出来られた先輩も、社会の中核として活躍中の皆さんも、血気盛んな後輩達も共に同じ学舎で学んだ誰もが、本当に気楽に集まって盃を傾けながら健康を喜ぴ合い、情報を交換し、たわいのない話で時を過ごせる同窓会、この中から共通の趣味の仲間が出来たり、仕事につながったり、同期会の活動が盛んになる。これが同窓会だと思います。これからもより楽しい同窓会になる様に側面から協力していきたいと思っております。

長い間御厚情賜りました皆様方に、心より御礼申し上げまして退任の御挨拶といたします。
  

(特集)2000年を前にして ―それぞれの思い出―

・私の東筑・そして東京東筑会   …久保田尚信

・やりたいことやっていきてみよう!…山本稔

・お昼のベルはパブロフのよだれ …中島真理子

・文武両道そして自由な風     …山本剛士

・東筑への感謝           …花口麻希

・21世紀へのチャレンジ      …倉成禎二

 

私の東筑・そして東京東筑会/久保田尚信(55期)

昭和32年東筑を卒業し、1年浪人して翌春上京以来、大学、化学会社勤務と首都圏での生活も早いもので40数年になります。

私の高校生活については、昭和27年冬、中学卒業を目前にして肺を悪くして自宅療養、翌春主治医の反対を押し切って受験・入学はしたものの案の定、通学3ヶ月で喀血し一年間休学。復学後も中学時代には軟式テニスに明け暮れ、スポーツ何でも好きの私も運動はご法度。
必修科目だった柔道の時間は、浩然館道場のほこりっばい壁際に正座し屈辱の思いで見学しておりました。
したがって部活はもっぱら文化系でコーラス部(これもすぐにドクターストップ)、文芸部、ラジオ部に席をおき土曜日の放課後は同好の士とレコードコンサートをやったり、唯一身体を動かせるものとしてフォークダンスを楽しみにしておりました。

発病後、極力散髪を避けるため髪を伸ばして、そのまま通学しておりましたので、男生徒は3年生の秋頃まではイガグリ頭だった当時、体育会系の上級生にとって何とも目障りな存在だったようで、雨天体操場裏でしごかれずに済んだのは中学時代の同級生のお陰だったと思っております。
病院通いをしながらの4年間の高校生活は何ともプルーなものでしたが、そんな中で学校の情操教育の一つだと思いますが、女流バイオリニスト・辻久子の演奏会が講堂で行われた後、音楽の米倉先生と数名の同級生と共に校長室の応接でインクビュー出来たのは鮮明な記憶として残っております。

私の東京東筑会との出会いは5年間のニューヨーク駐在勤務を終えて帰国した昭和54年秋、同期の増田(旧姓小田)浪枝さんに誘われて、第1回東京東筑会・懇親会に出席したのが始まりでした。
以来20年間お付き合いさせてもらっております。
この間、昭和58年に当番期として第5回東京東筑会・懇親会会を干鳥ケ淵の福岡会館で行い、出席者約200名と会場、出席者共に質素な規模でしたが同期のみんなで、いくつかのアイデアを出し合い出席した方々に喜んでいただけた会であったと自負しております。
この当番期を契機に同期会(東京東筑55期会)も大いに盛り上がり毎年1回ですが今日まで続いております。

昭和59年春から2年余り単身赴任で勤務していた名古屋で、香月定夫(49期)、吉田満洲男(50期)両氏を中心に進められていた東海東筑会の発足に参加させていただけたのは幸いでした。
昨年、本校創立百周年・東京東筑会20周年に際し、当番期(68期)の努力もあり、500名を超える同窓生が一同に集い盛大に行われたことは当会の潜在力の大きさを確認出来たすばらしいイベントでありました。

この20年間、期別幹事などで当会に関与させていただいておりますが、今よりもっと財政的に厳しかった時期、幹事会の席上で若手幹事から懇親会を毎年開催する必要性について疑問が投げかけられたとき、同席の先輩の一言「おまえ達元気な若いもんは2、3年に1回でもよかろうばってん、おれ達年寄りは来年また出られるかどうかわからんとばい。」が今でも耳の奥に残っています。
懇親会の意義は郷里を離れ首都圏で生活するものにとって年1回、先輩から後輩まで一堂に会して歓談の出未る場を提供することにあり、更にこれを継続することにあると思っております。

毎年春と夏に甲子園で歌われる全国各地代表校の校歌を聞くにつけても、母校東筑の校歌のすばらしさを再確認するのは私1人でしょうか? 折口信夫の詩、めったに歌うことのない3番の歌詩 「ここに日本はじまれる 筑紫に、吾等生れあひあ、言ひ知らぬ誇らしさ……」
東筑そして東京東筑会、その永遠を祈ります。 

やりたいことやっていきてみよう! /山本 稔(68期)

1998年8月。70期の太田実君との30年ぶりの出会い。私は、百周年記念東京東筑会のメインイベントのひとつとなる、一人芝居「図書館の記憶」の取材に、今はカトリック教会の神父となった彼を名古屋に訪ねてきたのです。彼に会うことになったのは、今から30年前の東筑図書館の貸出しカードがきっかけでした。
一人芝居「図書館の記憶」は東筑生の精神史劇です。敢えて部活などの輝かしい歴史を語らず、東筑図書館の中に潜む、その時代の「東筑生の心」を描くことで、歴史として語ろうとしたのです。

大田神父との再会は、その後の私に大きな意識の変化をもたらすことになるのです。
私は、東京東筑会の実行委員として企画を担当することになりました。しかし、社の仕事でのプレッシャーは大きくなってくるし、社内の徴妙なパワーバランスの中に身を置かざるを得ない年齢で、本音は「迷惑」でした。実際、同窓会の企画は大変で、仕事以上の労力が必要でした。手作りの仕事ですから、終いには会社の業務時間中にやる始末。

「こんなときに同窓会にかまけて、アイツはいったい何を考えているんだ。」こんな声が社内にあったにちがいありません。しかし、企画が進むと司時に、同窓会にのめりこんでいきました。自分が目指そうとする企画や思いを、同期のみんなが賛同し協力してくれる。ひさし振りに感じる充実感でした。取材はそんな時でした。

太田実君は、神父として私の前にあらわれました。そして、取材内容は、坊ちゃん育ちと見えた太田君の、想像にあまる苦難の高校時代でした。この話は、昨年上演された「図書館の記憶」でご承知だと思います。言い尽くせぬ経験をし、神父への道を辿った彼が取材の最後にいった言葉。これが私の目を覚まさせました。

『東筑は、とにかく、皆、生きたいように生き、やりたいようにやっていましたね。私は今でも高校の時のように、言いたいことを言い、生きたいように生きていますだから、周りから「変わった神父」だといわれることがありますけれど、そのことで暗くなったり、人格が捻り曲げられたりしたことはありません。それを悔やんだり、怨んだりしたこともありません。

『生きたいように自然に生き、次はどんなことが起こるんだろうと楽しんでいきられれば良いと思います。どんなに健康に注意しても、どんな生き方をしても、誰にでもお迎えはきますから。』

強い衝撃でした。迷惑とも考えていた同窓会の仕事が、会社生活に疲弊しかかっていた自分に、楽しさを与えてくれていたこと。その理由がはっきりしました。会社生活の疲れ、その理由がはっきりしました。

会社は、個人の全人格の一部、持っている能力の一部しか必要としない。ここに無埋やり自分をはめ込もうとしたのではないか。ここに自分を預けすぎていたのではないか。こう思った途端、不思議に同窓会へのやる気、仕事への意欲が増してきたのです。そして、同窓会の幹事期を終えた今、自ら野生生物関連のボランティアに参加し、昨年と同じように忙しさと戦いながら活動しています。

仕事?勿論充実しています。 最後に、東筑に感謝!東筑会に感謝!同期諸君に感謝!ご尽力いただいた先輩に感謝!…太田神父に感謝!
  

お昼のベルはパブロ7のよだれ―食堂は午前最後のバトル―/中島真理子(71期)

いったい何であんなに走って食堂ヘなだれ込んだか、今思い出しても異様に熱の入った一瞬だった。午前中の3時限めはだいたい授業の終了のカネの鳴る前にきちんと机の上を片づけてダッシュにそなえていた。友達も毎日のことなのでしめし合せて、スカートのすそをひるがえして食堂まで走った。(くるくるまいた三つ折りの白いソックスや学校用の白いズックを思いうかべてなつかしい)

いきなり食堂のカウンターには、黒山の人だかりで食べる前の鬼気せまるものがあった。私達女子(高校時代はみんなこう呼んでいた)は少数派なので、黒い学生服の男子にまけじと割り込んで、だいたいカレーにありつくのが一番の早道だったように思う。食堂ではさりげなく順番を待っているとさみしくも、かなりの間食べることはかなわなかった。

お互いここがいいだとかあっちはイヤだとかほとんど忘我の喧騒の中、キャーキャー言いあってテープルに自分の昼食を並べたところでやっと一息ついて笑顔がこぼれることになった。食堂は調理の湯気もあるのでほんとうに暖くて、冬の陽だまりのようなやさしく安心できる所だった。食堂の味もそのままだった。とにかく安くておいしくて、私はたまにはカレ-だとかはお代りをしたし、定食の後に肉まんを食べたりした。

25年もたってその食堂の運営を当初から引き受けていたのが、家庭科の小林先生だというのを知ったのが、なんと昨年の秋だった。東筑の百周年記念のパーティに出る連絡のために71期の宮地絹子さんに電話をしていて、彼女達の当時の3年9組の担任が小林先生で、上京されるので一緒にお会いしないかしらというおさそいを受けて急きょ羽田で先生とお会いすることになった。

空港ビルで3時間おしゃべりにうち興じている最中に東筑の食堂はほんとうにおいしくて、つい先日も鶴田(旧姓矢野)雅子さんとひとしきり、おしゃべりをしたという話になって、当の小林先生がその昔いきなり校長と厚生部長の占部先生から食堂をやってほしいと言われて引き受けることになったのよと悲惨で過酷な食堂物語を知ることになったのだった。

作る方は学生全員が相手で多量の仕込みだからそれはもう当然のごとく大変なのに奈良女子大出身の某先生は前述のごとく家庭科食物専攻で育ち盛りの16、7の私たちの栄養と嗜好まで考えてカレーのルーを作ったと聞いて、ほんとうに感心し、そのなんとも言えない甘い食堂のカレーの味を思い出しては飽きない後味のよさと合いまって、キリキリ舞いをしながら毎日少しでも安くておいしい材料でがんばったのは先生の尽きることのない生徒たちへの愛情だったのだと気づきました。まだ見ぬ人生を想い共に食べたカレーの味……いま東京東筑会で、その思い出を語りあえる友達の輪があるのがうれしい。

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学生食堂開業前の2ケ月   小林美代子

瀟洒な建物を恨めしく見上げて,こんな筈の転勤ではなかったと悔んだのも束の間,慌しく食堂

開設の準備に駆りたてられていった。

混雑をおこさない為の動線(人の動き)はどうするか,厨房の設備は,仕入れは,そして肝心要の

献立と味付は,試行錯誤の連続。

カレー50円,いなり30円,うどん30円.この三品のみてやっとすべり出したのは昭和40年6月の

こと。ちなみに最も評判のよかったカレーはラードを加えた特製ルーにあったことを附記しておく。

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宮地 絹子  東筑食堂の味は、実は小林先生の汗と涙でした。

安藤由起子  きつねうどん大好きの原点かも。子供にも遺伝。

和田 佳子  最高の味と大きさのいなりは忘れられません。

福本 正子  食堂の2階で一度は食べて見たかった。

菊池 法子  食を待つ長い列、友との会話が懐しい。

藤木真埋子  1年5組 食堂に一番近い教室でラッキーだった。

渡辺 順子  学食はお弁当がない時の強い味方だった。

野崎ひとみ  女子ヘ、食堂に2階があったのを知ってますか?

鶴田 雅子  食堂のカレーのかほりと友のざわめき。

加藤 恭子  明るい学食、おうどんおいしかったです。

中島真理子  彼氏ほしい私も彼氏ほしいとカレー食べ。

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文武両道そして自由な風/山本剛士(78期)

昭和五55年3月に、学ぴ舎を卒業し早くも19年の歳月が流れてしまいました。それでも高校時代の楽しい毎日は、つい昨日の事の様に思い出されてしまいますから不思議なものです。

小学校の頃からアナウンサーを志望していた私は、自分の将来に役に立つ様な高校生活を送ろうと考えていたもので、はっきり言ってしまえば全ての科目に於いて好成績を取ろうなどとは考えてもいませんでした。国語・英語・社会・音楽・体育と、まあ都合良く自分の好きなものだけにカを注いで、後はそこそこ凌げればいいやというくらいの、肩の力を抜きまくった学生でした。
幸いなことに1年生の担任が当時ESSの顧問をされていた安部哲子先生で、この方との出逢いは印象的な出来事として今も忘れられません。

ただ試験の科目としての英語ではなくこれからの将来に役に立つ実践的な英語教育をなさった方で、私も迷わず、ESSに所属しました。今、多少なりとも仕事場で英語を使えるのは、この高校時代3年間のESSでの活動のたまものだと思います。

先程も触れましたが、私はもうとにかく、アナウンサーという仕事に就きたくて仕方の無い学生だったので、国語は美しい日本語の為には必須ですし英語はこれからのグローバルな社会には必須。そして、仕事柄リズム感と音を聞き分ける耳の力を鍛えるには音楽の授業も必須。マスコミは体力が必要ですから体育の授業も疎かには出宋ない。とまあ、こんな理屈で真剣な眼差しの授業とリラックスをした授業とはっきり言ってしまえば、授業を受ける時にその姿勢には偏りがあったと思います。そうは言うもののやはり赤点だらけでは卒業は出来ませんから、それなりに真剣に授業に出席していたとは思います。

ESSの活動では、実際にアメリカ人の講師をお招きして、本物の英語をヒアリングする力を磨いたり、文化祭で英語劇をやってみたりと、かなり当時としては実践的なメソッドで頑張っていたなあと思いましたが、その後、後輩達がシェークスピアのベニスの商人のワンシーンを演じているのを見て自分達の頃より数段レベルアップした活動にビックリしたこともありました。

音楽の授業では当時、原田先生が声楽を中心に教えて下さったのでこれは実際にアナウンサーになった今も随分と役立っています。基本的な発声の仕方はこの時身に付いたと言っても過言では無いでしょう。体育の授業では、まさに肉体と共に、精神も鍛えて頂き(田代先生大感謝)、体育会系ムードの残る放送業界では大変役立っています。授業の事ばかり書いてしまいましたが、想い出はまだまだたくさんありますね。

当時はロックバンドのコピーバンドをやっていました。担当はドラムス、当時のべ-シストは福岡県内の現国の先生、ギターは恐らく九州の中で某コンピュータメーカーでコンビュータを造っているはずです。文化祭でも演奏しましたし、練習もたくさんやってと懐かしい想い出です。

私が東筑に在籍中に、野球部が夏の甲子園の年に出場を果たし3回戦まで進み、バスを連ねて応援しに行ったのも大きな出来事でした。初戦の日大二高に勝って、甲子園で歌った校歌のなんと気持ちの良かったことか。でも本当はアレンジのせいで「良きかな東筑、麗しく~」の所をカットされて応援席では大プーイングだったのですが。
そして創立80周年で体育館の完成に合わせて、当時の日本体操会の主力選手達が模範演技を見せてくれた姿は目を閉じると今でも浮かんできます。(やはり田代先生はただ者では無い!)。

とりとめも無く想い出を書き連ねてしまいましたが、その他にも、必須クラプでやった柔道部の活動(稲田先生ありがとう)や、食堂で食べた「稲素(『いなす』と読みます、稲荷寿司と素うどんの組み合わせ)」など、断片的に思い出すものも含めると、実に様々な出来事がたくさん詰まった、素晴らしい高校生活だったと思います。

当時の私は良い意味で将来の目標や夢を持ち、それに向かって進むという事が出来たので幸せだったのかも知れません。そして今、実際にアナウンサーとして仕事をする毎日の中でやはり、高校時代の多感な頃に吸収したものが、自分の血や肉になっている事をひしひしと感しています。

今の東筑高校の中に標う空気のにおいというのは知る術がありませんが、私の在学中の東筑には、あたかも学園ドラマに出て来る様か自由で闊達な風が吹いていた様に思います。文武両道そして自由な風。これが当時の東筑高校の大きな魅力だったと信じています。これからも数多くの後輩達が、東筑の学舎の中で東筑の歴史を作っていってくれる事と思いますが、東筑の為だけでなく、自分の心の中に永遠に誇れる思い出、そして青春時代を築いて欲しいと願っています。 

東筑への感謝/花口麻希(91期)

誰にでも、励ましあったり慰めあったり競いあったりしてきた友達がいると思います。私にも、そんな親友と呼べる友達が東筑に通っていた時にできました。同じ学年にいた岡田なぎささんです。ただ、彼女は親友でもあり「目標」でもありました。いつも一緒に過しながらその背中を追っかけていたような気がします。

岡田さんとは、入学後すぐ同じ陸上競技部に入部して出会いました。「人一倍がんばり屋さん」という表現がぴったりの彼女は、高校から陸上を始めたにもかかわらず、1年生からあっという間にリレーのメンバーに入ったり、200メートルで県大会に進んだりと、メキメキ活躍していきました。一方私は、彼女の才能を羨ましく思い、また、あせりを感じながら、毎日キツい練習に励んだものです。

勉強の面でも岡田さんには驚かされました。どうしても看護婦になりたいと思った彼女は、2年生の時点で文系に進んでいたにもかかわらず、理系である産業医大医療技術短大を受験、合格します。同じように看護婦の道を選んでいた私も同じ産医大医技短に進学、二人は専門の分野で競いあうようになりました。

文系出身の人にとって理系の専門的な授業についていくのは、相当つらいはずです。彼女も、図書館にこもって勉強している姿を始終見かけました。さらに、高校の化学の先生に勉強を教わりに行ったりもしていたそうです。そうした結果、彼女は卒業までの3年間、トップの成績をキープ、最後には学長賞を受賞しました。そんな姿は大変刺激になりました。

理系出身の私も簡単に負けるわけにはいかず、かなり頑張りました。(一応2番になったこともあります)
そういう何をやってもかなわなかった彼女ですが、私から教わったことがあると言ってくれたこともあります。「高校の部活で、目標を発表しあった時、皆、記録や試合に勝つことばかりで精神的に余裕がなくなっていたのに、麻希ちやんは、『みんなが楽しく走れるように努力する』と言った。そんな考え方もあるんだと思って気持ちが楽になった」と、私の結婚式のスピーチの中で彼女が打ち明けてくれました。

私が何気なく言った一言が、後々まで彼女の心に残っていたこと、そして彼女にプラスになることをいつの間にかしていたのを知って、うれしくて胸がキュっとなったのを覚えています。私はいま、東京の大学病院で看護婦をしています。岡田さんは北九州の大学病院で看護婦をしています。高校、短大の6年間に続いて、三たぴ同じ道を歩むことになりました。今でも、彼女が上京してきた時や私が帰省した時に会ったり、電話で話をしたりしています。お互いの近況を話して、看護婦としての成長ぷりに驚いたり、愚痴を言いあって、仕事上たまりやすいストレスから楽になってみたり…。出会ってから約十年、今では二人の間にストップウォッチや試験はもちろんありませんが、私たちは相変わらずの関係を続けることができています。

「東筑への感謝」ということを思う時、私にとっては、このかけがえのない友人に出会えたことが一番に心に浮かぴます。
社会に出てしまえば、普段頻繁に会うことはできません。それに東京と北九州と離れていることも淋しく思います。しかし、お互いが励みになり、心安らぐ二人のきずなだけは、大切な時を一緒に過ごして得た貴重な財産として、これからもずっと大事にしていきたいと思います。
 

二十一世紀へのチヤレンジ/倉成禎ニ(92期)

野球ファンとしてまた野球経験者として、福岡ダイエーホークスの優勝は大変喜ばしい。東筑野球部後輩の福山龍太郎にも是非頑張ってもらいたい。
現在私は九州朝日放送(KBC)の東京支社テレビ営業部に勤務している。勤務していると言ってもまだ入社2年目のルーキーで、プロ野球に例えると、ドラフト6位指名ぐらいであろうか(笑)。東京支社には、東筑OBが私を含めて3人いるのだが、折尾の飲食店などの話になるとさすがに東京までの距離を感じなくなる。
さて、私はなぜKBCへ入社したのか。それは放送を通じて大好きな福岡へさらに溶け込みたい、地域に還元したいという抽象的ではあるが、確固たる夢を持っていたから。ではどうして、T局、R局、F局、Q局ではなく、KBCなのか。一つはラ・テ兼営局ということ。もう一つは東筑高校時代にいきさつがある。

幼少の頃から野球好きだった私は、東筑で甲子園に行くことだけを考えて入学したと言っても過言ではない。しかし勉強を犠牲にして(?)野球に打ち込んだが、現実はそんなにあまいものであるはずがなかった。出る大会、出る大会いい結果が残せず、東筑高校野球部誕生以来の氷河期などと呼ばれた。それでも偉大な先輩方が残された伝統は想像を絶するほど大きく、「夏の東筑」と注目を浴ぴた。そんな大会直前のある日、KBCのクルーが取材にやって来た。高校生にとってテレビに出られること、これほどの喜ぴはないだろう。ましてや自分の一番自信のある姿を。突然、KBCの人から声がかかった。「ちょっと君i!」「はい」意気揚々と駆けつけた。その瞬間、「ピッチャーのM君呼んできてくれる?」……。

恥辱。この言葉を覚えた瞬間でもあった。

「甲子園を目指してやってきたその過程が、甲子園だ」監督のその言葉を最後に私たちの夏は終わった。それと同時に高校生活でさえ終わった気がした。奇しくも3年後に入学した弟が私の成し得なかった甲子園という夢を実現させてくれた。
思い出を胸にしまう変わりに、期待や希望を打ち出していく卒業間際、「何かやり残したことがある」「それは何だ」「そうだ、テレビに出てないことだ」「ではどうしたらテレビに出られるのか?それも私に恥ずかしめを受けさせたKBCに」「そうだ。KBC社員になれば好きな時に好きなだけテレビに出られるじゃないか」実に単純無知な18歳の私が打ち出した答えだった。

以上、取り留めのない事を連々と綴ったが一つ言えることは、その時にKBCへの見方、思いが変わったということである。就職難のこの時代に、自分が進みたい道へ進むことができる人は少ない。私は「こじ付け」かもしれないが、そういった意味では進みたい道へ進み、スタートを切ったのである。

ところで、二十一世紀がどのような時代になるのかは予測の外であるが、二十一世紀を迎えるこの数年から十数年の間は、あまりバラ色ではないように見える。放送業界に限っても、全融ピッグバンに続く放送ビッグバンなどと呼ばれ、我々にとって厳しいデジタル多チャンネル時代が到来している。
BS‐CS放送との差別化をどう図っていくのか、民放ローカル局の良さと意味をどこまで追求できるのか、ガキの使いのような私にも鋭く問われている。

民放業界がこれまでずっと右肩上がリの成長を続けてきたことは否めない。しかしだからと言ってこれから先、下降線をたどるわけにはいかない。僭越ながら言わせてもらうと、私達若い世代がもっと改革断行の気概をもって進まなければ問題の解決はないだろうと思っている。機動的かつ柔軟に対応できる人間を目指し、KBCを名実ともにエリア№1の放送局へと導けるよう努力する。会社へのアピール文のようになったが、それだけ私も必死だということだ。

この会報を依頼されて正直たいへん困った。何を書こうとしても「東筑」というものに結ぴつきにくいからである。しかし不思議と「東筑」を考えるとすべてを原点から考えることができる。野球しかしていない私の高校生活がすべてにおいてスタートラインだったと今は思える。

 

不惑の年の同窓会/黒瀬和憲(76期)

8月13日に76期の同窓会が地元黒崎にて行われた。グラス単位での同窓会はよくあるが、学年全体で開催するのは、2、3回目ではなかろうか。

今回の同窓会が開催されるきっかけになったのは、地元での今年の東筑会に参加した同級生たちの間で話が盛り上がり、実現に漕ぎ着けたとのことであった。出席の確認が取れていたのは25人ほどであったにもかかわらず、約40人もの参加者があった。が、さすが幹事、予め広めの場所をキープしていたため、全員宴会場に入ることが出来た。卒業生総数450人からすれば1割にも満たない人数であるが、40人の半分以上は高校卒業以来初めて会う輩で、全然誰だか判らない輩、顔は判るが名前が思い出せない輩と、歳月の多さと、記憶力の低下を十分に感じさせられる同窓会であった。しかし、化学・物理の野畠先生、国語の白石先生とお二人の先生方にご参加いただいたのであるが、お二人とも全く変わっておられずにお元気だった。お二人は既に我が東筑は定年退職されているが、未だに私立高校で教鞭を振っておられるということで、それがお若さの秘訣なのかもしれない。

今年は、76期生にとって、不惑の年でもあり、皆それなりの立場で頑張っているのであろうが、やはり、昔の仲間に会うとついつい馬鹿騒ぎをしてしまう。一次会のちゃんこ鍋屋の舞台付き宴会場では、全員の自己紹介・近況報告とこなし、最後はお決まりの「東筑高等学校校歌」を応援団長大庭君の掛け声のもと、全員での大合唱でお開きとなった。二次会へもほとんど参加し、三次会の”筑紫の子”で再会を約束して別れていった。2001年正月には大々的な76期同窓会の開催を計画中とのことである。

関東地区での我々76期は、”飛翔53(ごみ)の会”と称し、ここ数年は毎年総会を開催している。これも数年前の東京東筑会で出会った同級生達の提案により、同期会が始まり今日に至っている。(ちなみに、”飛翔”は高校三年体育祭での我が学年キャッチフレーズで”53”は昭和53年卒業から)今ではインターネットを使って情報交換が頻繁になされ、ホームページまで公開している。是非、皆様もアクセスいただき、いろいろな情報をお寄せ頂きたいと思う。

二十一世紀へ羽ばたく”飛翔53の会”よ永遠なれ!

 

百周年記念 「東京東筑会同窓会」 総括/佐野義人(68期)

昨年の東筑高校創立百周年、東京東筑会設立20周年記念同窓会には、多数の同窓の方々にご参集賜り厚く御礼申し上げます。
一昨年11月29日の同窓会にて、67期文野先輩よりタスキを受けて以来一年間、今振り返ると本当にアッと言う間の一年でした。おかげさまで590名という同窓の皆様がご参集いただき、その意味では成功したと思っております。

 成功理由は

1.やはり百周年、20周年という節目の年に当たったこと。

2.引き継いだ名簿の洗い直しを行い、2720名の実登録者の名簿を作成したこと。

  (これまで実質1600名位だった)

3.500名の目標に対し、当初から500名で会場、企画、予算を立案し、逃げ場をなくして行動したこと。

4.5月時点で案内葉書の発送と電話作戦を行い、同窓生の方々に同窓会気運を盛り上げたこと。

5.会場を数年同じ場所だったところから移したこと。

6.各期の同期会、上総東筑会におじゃまし、ご案内したこと。

7.各期の皆様のご協力で多大な広告収入を得られたこと。

8.企画の中で、同窓生の皆様に手弁当でご協力いただいたこと。

9.幹事会の皆様が68期の行動を最後まで支援していただいたこと。

だと思っております。まだまだ他にもたくさんあると思いますが同窓会の皆様のご協力の賜だと思います。本当にありがとうございました。

但し、この一年、失敗、反省点は山のようにありました。

1.電話作戦中、全員の方々にご連絡が出来ず、同窓生のおしかりを受けたこと。又、突然の電話でセールスの勧誘電話と間違えられ、イヤな思いをされたこと。

2.正式案内状にての古岡会長の誤植印刷、他の先輩の卒業期ミス。

3.同窓会当日

・フォーラムの時間が少なく、講演、パネルディスカッションが中途半端で終わった。

・受付の混乱

・会場条件により、期別受付案内板が出せず長蛇の列を作ってしまった。

・ウェルカムドリングを会場内で出したため、いきなり宴会状態になってしまい、その後の芝居、スピーチの方々に大迷惑をおかけした。

・乾杯までの行事が長く、諸先輩から「早く乾杯を」とおしかりを受けた。

・褒賞の際、表彰者の順番を間違え表彰者の方々にご迷惑をおかけした。

・退場の際、他の出口から出られた方が多く、女性への花のプレゼントがすべての方にお渡し出来なかった。

私どもの反省会でこのような失敗、反省点が出てきました。ご来場の皆様方にはまだまだご不平ご不満が数々あるかもしれません。予定したより多くのご参加があったための混乱とはいえご迷惑をおかけいたしました。この場を借りてお詫ぴ申し上げます。申し訳ございませんでした。

この一年、皆様のご期待に添うべく68期は努力して参りました。スタッフ70名のおかげで私と、小御門事務局長は男になれました。68期のみなさんにも改めて感謝致します。高校時代知らなかった同期生と親しくなれました。楽しい一年間を過ごさせていただきました。お酒を飲んでいる回数は同窓会を終わってからの方が多いのでは?

巡り合わせとはいえ、百周年、20周年の当番期に68期をご氏名いただき本当に感謝いたしております。ありがとうございました。ご指導、ご協力を感謝いたすとともに今後の東京東筑会のご発展をお祈りいたします。 

編集後記

昨年の百周年大パーティから早や一年が立とうとしています。会報17号の原橋編集を進めていますと、ずしりと百年の重みが染みわってきました。皆様方の心の中に、自ら伝統に係わってきた自負と徴笑ましい憧憬、そして次代への力強い決意を感じさせられました。しかし気がつけば、西暦2000年は目の前に表われました。今年からまた、東筑の歴史は新たな一歩を踏み出します。来たるべき200周年はどんな次代を迎えているのでしょうか。

昨今、急速にインターネットとメールが普及し、このたった1年間でさえ、時代は大きく様変わりしています。本文中に「甲子園を目指す過程こそが甲子園」という下りがありましたが、それぞれの「東筑らしさ」を発揮し続けていくことが”永遠の東筑魂”を創り出していくことではないでしょうか。

 

第17号

(1999年 平成11年11月)

第17号