
東筑高校創立百周年おめでとうございます。
『東筑』と言えば必ず『質実剛健』『文武両道』『東筑魂』『川筋気質』と言われる。私は此れらを分かりやすく的を射た表現はできないが、思いでの幾つかを述べてみる。
〈川筋気質〉
幼いころ川筋の炭坑を流れ歩いて育った。蛙の子は蛙で、酒席酣となると興が乗り『遠賀土手行きや雪が降る』と歌いながら、どてらを着、わざわざ破れ番傘をかざし、茶碗でサイコロを振って踊った(水木流)。
私は遠賀川の川筋にある杁小学校の出身である。毎年の運動会になると親たちがお祭り気分で見物に来る。約半数は炭坑の子弟だった。酒が入ってくると気の荒い炭坑の人達と、血の気の多い村の人と喧嘩が始まる。
東筑50年史の某先輩によると『川筋気質』を堀川の船頭さんに起源を位置付けているようだが、私は、宵越しの金は持たず、頼まれれば後に引かない任侠気質を育み、筑豊を潤した偉大なる遠賀川を忘れたくない。
〈東筑魂〉
50年史に先輩がいろいろ書かれている。
日く、『東筑気質』『東筑魂』『一本松精神』などの話は極めて頻繁に使われている。ではそれはどのような実質のものか…。さて改めて文字にして説明するとなると容易な業ではない。
日く、気性の荒いとされる、熱し易いが冷め易い遠賀川川筋の、炭田地帯の殺伐たる雰囲気の中で成長した東筑の生徒は……。
日く、理解の早いさらりとした男らしい所謂川筋気質は……。
日く、淡泊にして而も積極的に物事に当る。一言にして言えば男らしい男。男の中の男。さっぱりしている。
5年間の東筑生活の間に、先生から、先輩から導いて戴き、以心伝心長年培われた『東筑魂』を享受吸収し、現在でも体の中で脈動し、誇りに思っている。
〈連合演習〉
昭和11年12月北部中学全校の連合演習に参加した。50年史には『小、中隊長の制止を押し切って数名が斥候に出、敵校の生徒と大喧嘩をし、敵校の自転車数台を分捕って来たが、内三名は頭に大怪我をして帰る……』
時効だから発表するが、親分は橋本君で、柔道は3年生で2段、5年生で3段。当時の中学生としては異色の存在だった。
東筑の伝統を守ると言って、約10名が血気に任せて喧嘩を売りに出掛けた。相手はかなわぬと見て、実戦で使用する歩兵の銃剣で橋本君は脳天を殴られ、可成の重傷だった。
当時東筑が正面だと対抗学校はビビッていた。
〈軍神古野少佐との出会い〉
昭和10年4年生の体育大会の日だった。正課に柔道を選択した4・5年生は全員紅白に分かれて棒倒しに出場する。私は足も早いし体操部員だから一番に棒を守る相手方の頭の上に上り棒を倒そうとした。下から私の足を引っ張る人がいる。無我夢中でその人の頭を蹴った。その人が先輩5年生の古野繁実さんだった。
帰りの汽車で偶然同席し、『自分は海兵と陸士の両方に合格したが海兵を選んだ、君も海兵に来い』と進められた。
4・5年生になると柔道の時間は合同稽古がある。当時の5年生には黒帯の有段者は一人もいなかった。我々4年生には橋本3段以下2段、初段が10名程いた。私は体操部で昇段審査は受験しなかったが初段より強かった。
勿論古野先輩より強かった。因に古野先輩は海軍で4段まで昇段されたと聞く。
古野中尉が真珠湾で壮烈な戦死を遂げられたのは、真夜中の非常呼集で将校全員が大阪城に集められ『大日本帝国海軍は真珠湾を攻撃し、米英と戦闘状態に入れり』との師団長の発表後知った。そのとき私は陸軍少尉だった。
〈教護連盟〉
私たちのころは戦雲急を告げ、各中学連携の下に『教護連盟』が設立され、常時随所に各学校の先生方の目が光った。映画館は勿論うどんを食べに飲食店に入ることも禁止されていた。カバンは登校時は右肩から掛け、下校時は左肩から掛ける。違反したり先生や上級生への敬礼の仕方が悪いと早速大目玉。
〈片道通行〉
東筑の生徒は折尾駅から堀川の左側通行。折尾高女は右側通行。則松の遠賀農学校は東筑の裏道を通学し、東筑の生徒との衝突を避けていた。汽車に乗るにも男子生徒は前方、女生徒は後方と決められていた。
しかしなかなかの豪傑がいて、体育大会で浮かれているときなど、折尾駅に向かって来る女生徒の方に向かって、堀川の橋の上から小便をする剛の者もいた。
特集Ⅰ 「東筑高校100周年に寄せて」 ―それぞれの思い出―
・回顧して思う 鴛海 正
・飛び込んでいった"男学校" 山崎れいみ
・東筑魂なンてない 千々和久幸
・"東筑" は日常のキーワード 木附ゆかり
私が副会長辞任して早くも4年有余になる。昭和56年、故白石、末森君のトリオで会の発足時に就任して以来13年、年令で60才から73才まで勤めたことになる。私なりに決めていた区切りは70才、少々長すぎたと思っている。長畑副会長には私の辞任、三原会長の辞任と続き、安永副会長、古岡会長の選出等御苦労様でした。顧みると種々な事があったが、会にとって幸運だったのは末森君そして小御門君と、無償の事務局の提供であろう。感謝すべきことである。
尚、期別幹事は発足時の成行きから、50期末より先輩へと遡のぼって引継がれ、平成元年担当の49期より60期へと切り目よくバトンタッチ、現状の様に本校と同一期の幹事となった。
考えてみると49期の方々は定年間近の年齢、御苦労をおかけしたと思っている。何れにしろ各期夫々独自の会場を設営しての、熱心な懇親会の運営と各期別幹事の方々の努力が、同窓会の基盤を強固なものにしたと言えるであろう。
さて本年は創立百周年、種々と記念行事が行われ喜ばしい限りである。平成10年というのも記憶に残り易い数字である。卒業して約60年記憶もうすらぎかけているが、"何か昔の武勇伝でも"との菊川編集長の要望もあり、思い出すままいくつかの思い出を書いてみることにした。
「その一」入学試険
私たちの入学試験(昭9)は2日間であったが、一日目の試験結果良好な約50人は二日目の朝、発表されて当日の試験は免除された。
私達の期だけがそうだったのか、前後の期もそうだったのか、一度確かめたいと思い乍ら今日迄失念していた。
「その二」修学旅行
会報7号に同期の岩根君が詳細に書いているが、少し補足してみよう。
(1)ハルビンを訪れた最後の中学生
宿泊したナショナルホテルに聞いたところ、日本内地からの中学修学旅行で、ハルピンまで来るのは2校だけとのこと。日支事変の拡大する当時の治安を考えると、他の1校も翌年は中止したと思う。とすれば私達がハルピンを訪れた、最後の中学生ということになる。
名残り惜しそうに、何時迄も見送ってくれた、30人程の女中さん達の面影が妙に忘れ難く、戦争拡大に伴い彼女達のその後は?とふと思ったこともある。
(2)愉快なイタズラ
12日間の長い旅行、種々なイタズラが行はれたが、これはその内の一つである。2泊した奉天の宿舎でのこと。加害者の一同がどういう根拠で、被害者を選定したかさだかでないが、寝入りばなを襲い気付かれぬ様、そ-と浴衣をめくり、パンツを少し下げ、お尻のあたりに墨で落書きをしたのである。
翌日の入浴時の皆のクスクス笑いから爆笑、被害者の何で皆笑っているのか?とけげんな顔付き、キョトンとした様子が可笑しかった。「前隠して尻隠さず」とはこのこと。勿論これは水に流して消えてしまい後腐れなしであった。ちなみに落書の文句は「ゴマスリ男」であった。
(3)東條英機と同船帰国
大連から乗船した熱河丸が門司港に着いた時、私達は直ぐには下船出来ず待たされた。当時の関東軍から陸軍次官か大臣に着任の為帰国した東條英機の出迎えの儀仗式の為だった。船上から俯瞰してその整然とした様に羨望したものである。御存知の様にその後、昭和16年総理大臣となり、太平洋戦争に突入したのである。
「その三」相撲で相手を気絶させる
クラス対抗の相撲大会で大将同士の決戦となった。相手は柔道二段のB君、対する私は、人材不足で引張り出された作戦上の急造の大将、日頃柔道では太刀打ち出来ない相手である。私は破れかぷれで、組むや否や機先を制して右からの"二枚蹴り"大番狂わせで私が勝った。ところがB君が最後迄マワシを放さないので、お互い右のコメカミを密着したまま、彼は左のコメカミを下に共に土俵に強打、転倒して彼は気絶、私も半身マヒで救急室に運ばれた。幸い30分位で恢復したが、B君は奥歯を損傷したようである。それから私はアイツは強いぞと思はれる様になった気がしている。
「その四」私に遠農生を殴らせた友人
4年生のある日、彼と二人で折尾高女入口あたりを歩いて帰校していた。そこに談笑し乍ら自転車に乗って遠賀農業学生2人が、吾々を振り向き乍ら追越した。途端、彼が大声で"コラー寸待て"相手はぴっくりして自転車を止め怪訝な顔して待つ。"俺を見て何で笑った、馬鹿にしたな""いやそんなことはない"と口喧嘩、押し問答の末、"鴛海コイツを殴れ"ときた。終始黙って見ていた私も成行上、代って相手をする。私は一言、連れの一人に"お前は関係ない、帰れ"、相手は一目散に帰って行った。残された相手を見ると震えている。だんまりをしていた私にいきなり連れを引離され、不気味に感じたのか戦意喪失である。軽く二度ビンタをとって帰した。
難癖をつけたのは彼の茶目っ気、内心忸怩たる思いで殴った私は、ヤクザの子分の役を演じた道化者であった。それにしても相手が強くなくてたすかった。
彼は秀才だが少し操行不良で度々父兄召喚、私は彼の母親の小学校での教え子で当時操行優良、私と友達になることで、彼の操行も少しは良くなるだろうと期待をされた様だが、結果はミイラ取りがミイラになった。
彼は四修で福高、東大政治学科と進みジャーナリストとなり、新聞テレビ界で奔放に活躍後、現在静岡で元気に余生を過している。
彼の長男の仲人役も有無を言はさず引受けさせる、昔の儘の遠慮のない交際が続いている。
彼との楽しい愉決な思い出話にはこと欠かない友人である。
以上在学中の思い出の一部を書いてきたが、東筑は良く遊ぴ良く学んだいい学校だった。今でも会えば昔の儘の本音でつきあえる学友達に恵まれたと思う。
さて世情は誠にウットウしいことばかり、みんなキレイ事でボロを出ざないことばかり、もうちょっと、みんなが本音をぷち当てる心構えがなければ、変な人間ばかりになってしまうのじゃないかと、何だか心配になってきた。
今私は虚心になって静かに、多少の感慨を込めて過去を振り返っているところである。
(1)三度に且る九死に一生を得た強運。
(2)恩師、先輩上司、友人等との幸運な出合いと別れ。
(3)肩書無しで感銘薫陶を受けた人達との不思議な機縁。
(4)家族の蔭の協力、17年に及ぷ単身赴任中に、二人の子は中、高、大学、社会人となり何一つ私を束縛しなかった。
等、感謝すべきことばかりと思い知らされている。
これから先どの様な事が起るものか知るよしもないが、倖せな過去があったところで、死を迎える時期に倖せでなければ、とるに足りぬことになる。そう考えてこれからの余生を生きて行きたいと思っている。
東筑高校にいちばん最初の足跡を残した女生徒―それが私たち第49期(昭和26年卒)の女子十数人である。
入学したのは県立折尾高等女学校、間もなく終戦、そして学制改革による新制中学となり、その中学校は折尾高女改め折尾高校の併置中学という中学校で、子どもの私らにはなんだかわけの分からないまま押し流されるように中学を終えたら、今度はこれも中学から高校になった東筑高校と合併、折高は東筑高校の南校舎となった。さらに「進学希望者は旧東筑中学であった北校舎に移って受験準備をしたほうがよろしかろう」と言われ、少し前まで男の子しか行かない「東筑中学」だったのだから、7歳以降は席を同じゅうしたことのない私たちとしては、気恥ずかしさ-と言うより、なにせ思春期真っ只中の少女なのだから、相当の勇気が必要だったと思うのだが、ともあれ大学進学を目標にしていたので、あまり迷うこともなく北校舎行きを選ぴ折尾駅からは少々近くなったことを喜んだふりして、ざりげなさをよそおいながら通学するようになった…。
とまあ、40年以上も昔のことを、順を追って思い出そうと努力したのだが、ここに書いたことが果して正しいのかどうか分からないまま、事実関係を正確に思い出すことは到底不可能であることに気附いて、ここからは思いつくまま私の東筑時代を記していくことにする。とは言うものの、由緒あるこの男子学校に、前代未聞の女子が入り込んだことだけは間違いのない事実で、ある意味では東筑の歴更の貴重な一頁を刻んだことになる。
当時の東筑高校北校合に、女子を受け入れるについていささかでも問題があったのかどうかは正確には知らないが、後日(と言っても私が就職してからで、卒後10年近く経っていた)聞くところによると、女子受入れに反対の教師がいたことは確からしい。その急先鋒は体育系の某先生だと聞くと、そういえば彼は女生徒を意識的に無視している感じがあったなと、むしろその某先生を懐かしく思い出す。
なんせ終戦間もない時期も時期、天下を挙げて男女同権、民主主義を声高に叫ぶ世の中、女生徒を拒否しようものなら人間ではないと言われかねない。
某先生もすべて成り行きに従うより身の処し方はなかったのかも知れない。それは東筑に踏み込んで行った女生徒も、受入れ側の男生徒も同じだったろう。好むと好まざるとにかかわらず、新しい教育制度による新しい高等学校に、ある意味では時の流れのままに進学していったのである。
しかし、その時16、7歳の少年少女たちは、これまでの学校生活で教師以外の異性を身近にした経験はない(小学校一年だけ男女組はあったが…)。とまどいがなかったと言えば嘘になる。私は若干の勇気を必要としながら東筑生活に入ったが、他の十数人はどうだったのか。
T さんは男子が気になって勉強ができなかった、MさんはK君と仲良くなって学校をさぼってばかりいた、0さんはいつも教室の隅っこにいて男子の様子ばかりうかがっていた、Aさんはがむしゃらに勉強に没頭した……、といったように、心乱れず、ごく普通に高校生活をおくった者は少なかったと言っても過言ではなかろう。
で、私はといえばほとんど毎日、黒崎や八幡に映画を見に行き、残る時間を受験勉強に当てていた、のであるが、これとて男子生徒が気になるので暇な時間をあえて作らなかった、というのが正直をところだったと、今になって思い当たるその頃の心情である。
その当時、芦屋にいわゆる進駐軍と言っていた米軍の基地があった。その基地に暮らす米軍将校夫人を教師に招いて英会話の勉強をするグループができた。たしか1年上のS君の発案だったように記憶している。私もそのグループに入った。というより、憑かれたように見ていた外国映画、それもアメリカ映画が大半だったが、その延長線上で英会話に馴染もうとしていた部分がある。しかしそれだけではない。アメリカかぷれといわれても仕方のないくらい、私は映画の影響を受けていた。持にファッションについてそうで、1週1回やって来る将校夫人の身につけているアクセサリーや、まだ手に入りにくかったナイロンストッキング、しゃれた靴などと同じような物を欲しがって母を大いに怒らせた。黒崎や八幡に行くと闇市と称する店があり、米軍基地横流しの品々を買うこともできたのだ。
今の女子高生がプランドものを欲しがるのに似ていなくもない。
しかし、その頃は親にねだるのが精一杯で、アルバイトで稼いで買うなど思いもつかないのだから、うぶといえばうぷだった。それどころか高校生がアルバイトする風潮などなかった。そういえば昨今の女子高生は、援助交際とやらでプランドものの資金調達をするらしい。世の中恐ろしく変わったものである。
生徒による生徒のための「生徒会」が発足したのもその頃だったろうか。アメリカ映画の青春ものにも夢中だった私にとって、自治意識があっての生徒会だったのかとなるといささか疑わしい。アメリカンファッションに憧れたように、その考え方も、上っ面だけの理解でアメリカの若者の行動を真似てみたかっただけのような気がする。その証拠に、遅まきながら自分が生まれた国、暮らしていく社会等について少々真面目に事を考えるようになった大学時代、東筑高校時代の反動のように、私は少々左傾していった。「アメ公出ていけ!」「安保反対!」などと叫んで、皇居や議事堂周辺を毎日のようにデモ行進していたのである。
臨終には校歌を
「おれの臨終には、東筑の校歌を正しく3番まで歌ってくれ」、とわたしは早い時期から子供に遺書している。
実はこのことは、死に行く者(つまりわたしだが)にとっても残される者にとっても、容易ならざることなのだ。やがて息絶えて死ぬ者(つまりわたし)は、この校歌の余りの長ざに辞易し安んじて死ねない。もう終るか、まだ終らぬかと死神の手を握っているうちに、ヒョンなはずみでとつぜん死の渕から蘇生するかもしれぬのだ。坊主や葬儀屋、それに残された者の狼狽は(かつ迷惑は)一通りではあるまい。
さて、この校歌、わたしの在学中の1952(S27)年11月に制定ざれた。
そして翌1953(S28)年8月、この校歌を歌ってわが東筑ははじめて甲子園に出場したのだった。だが緒戦で浪華商に破れ、ついに校歌が歌われることはなかった。おまけにアルプススタンドで、「福岡の代表はなぜ小倉高校ではないのか」、と他県のファンに詰め寄られ、おおいに腐ったことだった。
この王朝美学風の校歌、後年、作詞者折口信夫の弟子たちからいくどもコピーをせがまれることになろうとは、当時のわたしは知る由もなかった。(折口信夫全集にはチャンと入っているのだが)
やさしく可愛く、頼母しく
「幹事長にもっともふさわしいとワシが睨んだ男がおる、ぜひ承認してほしい」、と故白石大祐(43期)先輩は言った。「意議なしっ、先輩一任!」と手を叩いた途端に、あろうことか、わたしの名前が告げられてしまった。
はじめて出席した東京東筑会の幹事会だか有志会の席上だった。
いやも応もない。先輩に見込まれたのがわが身の不幸、いや無上の光栄と覚悟を決めた。お陰でそれから東京東筑会の副会長に担ぎ上げられるまでの4年間(S60年よりS63年まで)、わたしは新生東京東筑会という得体の知れぬ組織のために社業を放っぽり出してひと汗もふた汗も掻くことになる。
東京東筑会の組織化と基盤強化―要すればこれだけのことである。これまでの行き掛りや曰く因縁を知らぬことを強みに、クソまじめにひたすら〈東筑魂、東筑魂〉と念じながら、毎月1回期別幹事会を持った。
会員の掘り起し、総会の定例化、総会と懇親会の分離、本校東筑会との当番期の一元化、会報、名簿の定期刊行等々この期に新生東京東筑会の骨組みはあらかた完成したと思う。むろんわたしは黒子に過ぎなかったが、甲子園出場資金集めなど活動は組織的になり、メインイベントの懇親会も各地区東筑会との交流も実現され、年々華やかにスマートになっていった。
わたしの手元に1985(S60)年9月刊行の東京東筑会名簿が残っている。あの当時、この会のために奔走しわたしを支えてくれた懐かしい名前が並んでいる。笑っている顔、怒っている顔、心配している顔、息せき切っている顔……その顔のひとつひとつに「やあ」とか「おう」、とわたしはお礼を言うべきだが、一つ一つのエビソードを綴るスベースがない。どの先輩も心やさしく口うるさく、同輩はいつも頼母しく、そして後輩はそれぞれに可愛かった、とだけ記しておこうか。
元気のでる薬 それとも眼り薬?
ところで東筑魂とは、そもそも何ぞや、「文武両道」だの「質実剛健」、「一本松精神」、「川筋気質」といったキャッチフレーズは耳たこだが、いったいわたしたちの思想形成に東筑魂と呼ぷべき志向なり情念がどんな影を落としているというのだろう。東筑魂なンてない、というのがこのお化けにたいするわたしの答えである。
東京魂というお化け(幻影)は、かつては川筋気質という男っぼさ(六分の侠気四分の熱)だった。今日ではこれに学力上のガンバリズム(その結果としての偏差値や進学レベル)が加わったらしい。
わたしたちはこのお化けをしあわせにも東筑魂と錯覚し、以後の人生の折々にこの幻影を自己励起即ち元気のでる薬として活用してきた。だからこの東筑魂こそは東筑への手がかりであり、これだけで寝つける眠り薬でもある。東京魂とは、それぞれの胸底にそれぞれに沈ませている少年期への自己愛である。
東筑魂なンてない、という熱い思い入れによってわたしは東筑を愛してしまった。わたしの子供が遺書通りに校歌を歌い終るまで、わたしは東筑と東筑を愛してくれる多くの人を忘れないだろう。
東筑の学ぴ舎を離れて早15年。だが、私にとって"東筑"は未だに離れがたい日常のキーワードのひとつである。
私は現在九州朝日放送(KBC)の東京支社に勤務している。KBCにば現在12名の東筑OB社員がいる。本社勤務時代は社内で開かれる東筑会によく参加したものであった。OB会というものは妙に盛り上がるものなのである。
銀座6丁目のプティック街、並木通りに面したビルに入っている東京支社には、現在東筑OBが私を含めて3名いるのだが、実は先日開かれた「マスコミ東筑会」に揃って参加させていただいた。業界内でご活躍されている諸先輩方や、意気揚々たる後輩たちとの交流は、大変有意義なもので、OB会の良さをあらためて感じた夜であった。
そして早速、わが系列のキイ局テレビ朝日の名ブロデューサーである大先輩K氏から、番組ノベルティをお送り頂くという洗礼を各々受けたところである。
さて、東筑在学中の私は吹奏楽部に所属していた。幼いころから音楽は好きで、ビアノを趣味のひとつとしていたが、個人で楽しむ音楽とは違って、吹奏楽は実に新鮮なものだった。様々な楽器の奏でる音が一つになった瞬間に、武者震いするような感動さえ体験させてくれたのである。担当はクラリネット。戸外での練習も多く、体育館の脇を皆でずらっと陣取っては、グラウンドに向かって日々ロングトーンに励んだものである。そしてグラウンドでほ、当時絶好調だった野球部が、威勢のよい掛け声をかけながら猛練習に励んでいた…。
そう、あの当時の東筑野球部は甲子園出場へ向けて一直線。入学早々に、当時の校長が「今年は甲子園へ行きますから!」と言い放ち、いきなり応援の練習をさせられた記憶がある。そしてその後も、全校集会のたぴに、気合の入った応援練習が繰り返されたのだった。
そして、甲子園の夢は見事かなった。在学中に甲子園出場を経験できたのは、本当に幸せである。折尾駅から夜行列車に乗り込んで、勇んで行った大応援団が懐かしい。おまけに初戦が雨で順延し、その夜なぜか天理の大宿舎で雑魚寝したのも、今思えば実に貴重を体験であった。
ところで、"東筑"が未だに私の日常のキーワードとなるのは、ひとつどうしても切り離せない理由がある。それは、普段よく「高校のときは○○だったよな」とか、高校野球シーズンには「今年は東筑はどうなんか。」といった会話が、家庭で交わされること。夫は東筑時代のひとつ先輩なのである。従って、出会いはかれこれ16年前。出会いの場所はといえば、やはり吹奏楽部である。入部後まもなく開かれたガイダンスで、偉そうに前に出てしゃべっていたのが、彼だった。学生コンダクターの草分けであったかと思う。クラリネットパートは、ふだんから最前列に座る。タクトに操られたとも思えないが、こともあろうか私の方が、ひとめ惚れしてしまったのである。その後の経過は省略させていただくとするが、ちょうど10年間の交際を経て結婚し、今に至っている。
夫の現在はといえば、多忙を極めるシンクタンク業界、三菱総研に勤務。平日はすれ違いがちで、会社のE-mailで会話をしなければならない日も少なくない。高校時代のお互いを知っているというのは、良し悪しではあるが、今のところ経過は順調といえるのではないだろうか。ただ、夫にしてみれば、かつて「センパイ!」と呼んでくれたはかなげな(?)女子高生が、5歳と3歳の二人の息子たちと全く同じじように名前を叫ぷ姿から、15年の歳月の無常さを感しざるを得ないようではあるが……。(合掌)
断っておくが、特別に私だけが逞しくなってしまったわけでもないはず。東筑の女性たちというのは、私の知る限り概して逞しい。先述の「マスコミ東筑会」に出席されていた大先輩のお一人は、東筑を卒業した女性の第1期生で、しかも女性ライターの草分け的存在でいらっしゃった。また、若い女性たちの多くが、いわゆるワーキングマザーであった。女性が働きやすくなったとはいえ、仕事と家事と育児とのバランスをとりながら働きつづけるのは並大抵のことではない。私自身、毎日がまるで綱渡りのような生活である。東筑気質をあらわす「質実剛健」という言葉の意味を今更ながら噛み締める思いである。男も女も逞しくしなやかであらねばと思う。
仕事においても家庭においても"東筑"は私にとっての日常のキーワードとして、今なお重要な役割を担ってくれている。東京においてさえ、日々関わりのあるものとして。
創立百周年、誠におめでとうございます。
・おめでとうございます 三原朝雄
・一本の電話から東京東筑会は始まった 川上祥登
・会報創刊号の発行に携わって 森田昭次郎
・名門東筑永遠なれ 中村一生
本校の百周年記念行事も、春の選抜甲子園出場で盛りあがったのをきっかけに、各種行事が行なわれ学校行事、同窓会行事共に卒業生のみでなく、地元北九州市をはしめ、近隣地区での話題を集め、まさに東筑一色といった今年でした。
東筑の百周年も数多くある全国の高校の中で、大変価値ある名誉な事ではありますが、「東京東筑会」という東京以外の地方の高校の在京同窓生による同窓会組織の中で、運営・行事を含めたトータルな面で、これ程充実したものを持っている学校は他に例がありません。
57期の川上君達が昭和54年の京王プラザホテルに380名の同窓生を集めて行なわれた懇親会が「第1回東京東筑会」として爾来、今年が20周年となった訳ですが、昭和54年以前にも議員会館にあった三原事務所を事務局に、何か事ある毎に同窓生を集めることはありましたが、現在の様に毎年100名以上の固窓生を集める年1回の懇親会、毎年発行される会報、3年に1度発行される在京同窓生名簿、春秋行なわれるゴルフ会、奇数月に行なわれている期別幹事会、その他総会、新年会、忘年会、新入生歓迎会をどなど、故郷を遠く離れた者同志が同じ学ぴ舎のこと、先生のこと、地元中学のこと、出身町村のこと、近況などふるさとの言葉で喋り合える場が、どれだけせち辛い世の中を生きていく上での清涼剤となっていることでしょう。これだけのシステムを構築し、運営されている昔さんどうもありがとうございます。
会員を代表して有難く感謝申し上げます。
今年は記念の年だということで500名の参加を目標にしている懇親会の盛会はもとより、東京東筑会の今後が益々発展していくことを祈念して御挨拶と致します。
「もしもし、57期の村田だけど…」
「ヒロシか?」「いやカズオだ」「カズオ?」
「知らないと思うけど、お前と同期で応援部に居た村田だ」「それで?」
「力を貸してくれ」「なんの。」
「東京在住者だけの東筑の同窓会を開きたいのだ」
20年前のある日、こうして突然かかってきた電話が、今年20周年を迎える東京東筑会のスタートだった。聞けば同期の村田和生が、ある日どこかのビルの一室に「小倉高校同窓会」という看板を見て、小倉高校にある同窓会が東筑にないのはおかしいと思ったそうで、応援部のタテのラインに声をかけ、動きはじめたがなかなかOBの消息がつかめない。
今でこそ、平成8年度名簿によると関東近郊在住者の消息が2,200名程度確認され期別、出身中学別、サークル別、同好会などと、いろいろなコミュニケーション別に取れる様になっているが、当時は何もない状態だったのである。
応援部が57期の村田から68期の小御門君まで20人足らず、応援部との付き合いから、野球部OBで10 人足らず、当時、文部大臣だったと思うが26期の三原朝雄先輩の議員会館に26期から45期までの50人余りの名簿、それと小生の57期の10名足らずの仲間、その他で10名くらい、合計100名くらいの名簿からスタートしたのであった。
そして第1回の東京東筑会が京王プラザホテルで380名余りの参加で行われたのであった。
第1回は57期の村田・中村守衛(何れも応援部)そして小生と57期生が中心になって幹事役を努めたので、第2回は58期生ということで、テレビ西日本の牛島俊康君(現在テレビ西日本総務局長)を幹事長およぴ事務局長に任命し、事務局をテレビ西日本東京支社に置いたが、第2回実施後、牛島君が転勤となり、事務局はサラリーマンでない所ということで第3回、59期の末森多賀生君を幹事代表、事務局を末森歯科医院内に置き、小生が事務局代表ということになった。
昭和56年4月に第1回幹事会を開き、会長に26期の三原朝雄氏、副会長に38期の鴛海正氏、43期の白石大佑氏、顧問に6期の大和田梯二氏、9期の岡雄一郎氏、17期の出光計助氏、18期の石松正鉄氏、常任幹事に19期の小林正利氏、26期の増田公氏、32期の小田順之助氏、38期の緒方良光氏、48期の佐藤晶氏、56期の竹内初男氏、57期の村田和生氏、折尾高女24期の蛭川嘉子氏、会計監査に35期の鈴木勇蔵氏という顔ぷれで運常していく事になり、第4回を60期ということになったが、関東在住者が少ないという事で、56期を幹事期に白石基雄先輩に幹事長をお願いし、以後55期・54期・53期・52期・51期・50期・49期までさかのぽり、第12回の幹事期を本校と同じ60期に戻し、以後本校と東京東筑会の幹事期が歩調を合わす事になったのである。
東筑高校百周年、東京東筑会二十周年の年にあたり、会の発足を起案した57期の村田和生君、サラリーマンであリながら大変な事務局を受持った58期の牛島俊康君、その後の事務局を担当し、担当している59期の末森多賀生君、68期の小御門俊郎君、昭和60年から14年間にわたり会計を担当してくれている59期の山保文枝君、今井梢君には改めて紙面を借りて敬意を表したい。
又、会長はじめ副会長、顧問、常任幹事、期別幹事、会計監査、幹事長、名簿委員、会報委員など20年にわたる歴代の皆様、ご苦労様でした。今後も宜敷くお願い致します。
今年は本校百周年、東京東筑会二十周年を記念して、500名の参加を目標に頑張っている68期の皆さん、是非実現して記録を作って下さい。
今年は、東京東筑会が昭和54年10月に、第1回総会を京王プラザで開催してから20年目になる。
先般、小御門(68期)さんからの突然の依頼は、会報創刊時の思い出を書いてくれという。もう古い話しだし、自分はたいした役割を果たしていない。しかも最近は、私用にかまけて総会にも欠席しがちであることなどから、本心は遠慮させてもらいたかった。しかし、小御門ざんから頼まれると、ことわりきれなくなってしまう。何しろ彼は東京東筑会を今日まで引っ張ってきた最大の功労者の一人である。
さて、会報を発行することについては、昭和56年の第3回総会で決定され、そのねらいは、新しい東京東筑会の発足を同窓の人達に広く知らせようということにあった。さらに、「年1回の同窓会だけではいつまでたっても東京東筑会に関心を持ってもらえない。そのことで年会費未納となり、財政的な面からも会が崩壊しかねない」というような切実な意見が大勢を占め、昭和58年4月を目途に創刊号を発行することになった。
昭和57年の秋、佐藤(48期)さんを中心に会報編集委員会が作られた。しかし、編集の経験の乏しい者ばかりだったので、佐藤さんと同期の、当時、財経詳報社の社長をされていた長畑さんの力をあおいで、やっとスタートした。その年の11月から春4月までの半年間、都合十数回の会合を持ち、原稿依頼から校正などの編集業務、加えて広告取りや会報協賛金の募集まで編集委員がなれない仕事に追われた。その間、当時の三原会長(26期)に会合の場所を提供していただいたり、鴛海(38期)、白石(43期)両副会長から貴重なアドバイスをもらうなどしながら、なんとか創刊号の誕生にこぎつけた。なによりも若かった59期の末森ざん、今井さん、山保さん、そして青野(61期)ざん、安永(67期)さん、小御門さん達が実戦部隊となって頑張ってくれた。
創刊号はわずか32ページの小冊子であったが、予定通り昭和58年4月に発行することができた。巻頭言「如水の交わり」は三原会長にお願いし、特集として入江徳郎(30期)の「川筋気質について(東京東筑会総会特別講演)」を全文掲載した。氏は、「概して九州人は淡白で気が短い傾向がある。ことに遠賀川一帯の川筋にそれが強いようである。弱い者への思いやりがあって、人に頼まれると嫌とはいわない。自分が損をしても面倒を見てやる。名利や金銭に淡白で男の約束を重んじる。そして正義感が強い、まがったことは嫌い、こうした良い点を持っている。しかし一方で気が短い」、さらに、「九州人全般に通じていえることだが、直情怪行すぎて、また単純で粘りがひとつ足りないために、ずい分損をしていると思われる筋がある。」――入江氏の指摘は、改めて読み直してみても、川筋気質を的確にとらえていると思う。
ところで、創刊号発行の問題点については、後に長畑さんが会報第4号で述べられておられるが、「編集実務に当たって、互いの遠慮が先に立ち、物事を決めにくく、都合十数回も会合を持たなければならなかったこと。また、印刷所とのコミュニケーションが十分にいかず、進行が必ずしもスムーズでなかった」などであった。そのため、第2号と第3号は、長畑さんが実質上の編集責任者となり、他の委員は原稿依頼を行うのみで、原稿の修正から割付、校正まで、全て長畑さんにお世話になってしまった。自分などは、編集委員とは名ばかりで、他人まかせとなり、次第に熱意を失くしていったような気がしている。
ともあれ、創刊号誕生までは、会合の都度、よく飲み、かつ楽しく語らったことがなつかしい思い出としていまでも鮮明に記憶に残っている。
「偶数月の第一火曜日、東京東筑全の幹事会定例日をお忘れなく」との小御門君からの連絡を貰うたぴ、毎度のことながら「ん、東筑会」と心で確認する私です。
私が東京東筑会に初めて参加したのは昭和54年京王プラザホテルでの総会でした。
昭和45年東京に出稼ぎに来て以来、たまたま、会社の近くにあった衆議院議員会館の三原朝雄先生の事務所に通うようになり、その関係で東筑会に参加するようになったのですが、それまでは在京の同級生2、3人で飲むことはあっても、同窓会・クラス会とはならなかったように思います。
学生時代(昭和41~45年)に東京にいた同級生に東京東筑会の話を聞いたことがあります。それによると当時は参加者もそう多くはなく、二次会・三次会と先輩に連れて行ってもらい、その度に千円とこづかいを貰ったとのこと。全く羨ましい限りと思ったものでした。もっともそんなことは4年間でも一度しかなかったそうですが、そんな時代に遭遇した彼らは何と幸運だったことかと今でも同窓会のたぴに思い出します。
去年の東京東筑会の時、卒業以未初めての同期生が参加しました。それも新聞の広告を見て。卒業以来32年、彼女は、「その時を逃したらもう同窓会に参加する機会はなかったのではという思いがした」というようなことを言っていました。同窓会など、参加するきっかけは様々ですがきっかけは何でも良いのです。参加することに意味があるのです。参加して思い出話に花を咲かせればそれで良いのです。10回同窓会をやれば10回同じ話で盛り上がります。同窓会とはそんなものです。
我々64期の東京東筑会に対する最大の思い出は何といっても平成6年の当番期です。当時の記録を振り返ると63期からたすきを受け取って、同期会だけで準備会12回、総会3回、反省会2回。その間幹事会、総会、新年会と幾多の会合に出席し懇親会への参加をお願いしたものです。あの当番期を終えてやっと一人前の東京東筑会の会員になったような気さえします。いや、俺達は当番期をやったんだぞと胸を張ってさえいます。
これから当番期を迎える皆さん、苦労もありますがそれだけではありません。昔の少女や少年に会えるという楽 しみもあり、懇親会をやり遂げた後は、それが誇りに思われる目が必ず来ます。頑張って下ざい。
年一回の懇親会があっての東京東筑会と言っても過言ではありません。形、中味はどうであれ年1回皆が参加できる場を作ってください。我々の当番期に記録を作りました。その記録を中村和信君が締めくくってくれました。
『青春、朱夏、白秋、玄冬。人生80年の現代、我々のこの年頃をなんと呼ぷのでしょうか。朱夏と呼ぷほどギラついてもいない。さりとて白秋というほど清澄の境地にあるわけでもない。燃え立つ炎を渋み苦みでさりげなく包んだ奥行きのある年代、そんなイメージの季節は?色合いは?といったことが準備会の席でふと頭に浮かんだことがあります。答えはまだ見つかりません。
高校時代はまさに青春でした。甘さも、酸っぱさも、苦い思い出も、みんなもぎたての果実のようにみずみずしく、あるいはなまなましく。あれから30年、それぞれの人生を映し出す顔と顔。新鮮な果汁が時を経て、コクのある琥珀色の酒に変わるような見事な変化。
いろんな試行錯誤はありましたが、ともかく同窓会の成功に向かって協力しあった。
この一年は、昔のレモンやサクランボ、ジャガイモちゃん達が久しぷりに心ときめかした季節だったような気がします。』
よき青春の思いでの1ぺ-ジに、百周年を迎えた東筑高校に在籍した事を書き込むのは私にとって誇りです。これからも同窓会を通じて気の許せる仲間がたくさん増えることを楽しみにしています。名門東筑永遠なれ。
それは昨年10月14日、高校3年間同じクラスだった親友Nからの電話で始まりました。
「義人か?11月29日東筑の同窓会があるんや。お前も知っとるやろ、来年百周年の当番期なんや。来てくれや。」(うん)
次の日中学、高校の同級の女性の電話。
「よいよい(中学時代の棹名)久しぷりやネ……約1時間昔話,……ところでN君から、電話あった。11月29日来るんやろ」(うん)
またその次の日、高校時代マドンナと呼ばれてた(過去形では失礼かな)女性の電話。
「佐野君、決めた?」(何を)「代表幹事」(何、それ?)「みんなで決めたんョ。N君が口説くって、電話あったでしょ。」(えっ!)「私、何か悪いこと言った?」
確かに7年前まで関東にいて同期会のお手伝いをしていました。でも「7月に東京に来たばかりの俺に代表幹事を引き受けざせるなんて、小御門は何を考えてんだ。」(小御門はご存じのとおり東京東筑会事務局長同期68期)
小御門との電話(佐野です)「オウ久しぷりやの」(何か言うことないんか)「ワッハハ引き受けてくれや」(それだけか)「それだけや」
こんな状況で私が引き受けるハメになりました。引き受けるために何人かの同期とも話しました。当然、私の会社の社長にも相談しました。社長は受けることを快諾してくれました。
でも悩みました。百周年です。二十周年です。私自身トップで仕事する器でない事を一番良く知っています。
最後の断は九州の家内(実は私は単身赴任です。)の一言でした。「よかったね、貴男を必要としている人達がたくさんいて。一年間遊んでもらえるヨ。」
私が決断して私自身に言い聞かせたことは新生東京東筑会が発是して20年間お手伝いをして、先輩方に可愛がっていただいた小御門俊郎の期がへ夕なことは出未ない。彼を男にしないと我々同期は、今後小御門とつきあえない。又小御門も今後東京東筑会のお世話も出来ない。幸か不幸か百周年、18歳にもどって青春しよう。と。
このことは11月29日当日の67期文野先輩よりタスキを受けた時、皆様方に申し上げました。
スタッフはすぐ集まりました。もともと7、8年前から70名近くの名簿があり定期的に同期会を開いており仲の良い期でした。私を欠席裁判で推挙してくれた10名、各クラス幹事9名。20名のスタッフの協力体制は整いました。
私が代表幹事として百周年、二十周年の同窓会をどのように運営するかのコンセプトも20名のスタッフは快く承認してくれました。
そのコンセプトとは「私達は東筑会の世代の真ん中にいて、先輩、後輩の橋渡しができる世代。だからこそみんなが参加して、楽しめる同窓会にしよう。これからの後輩達が喜んで同窓会の当番期を引き受けてくれくようなそんな同窓会をしよう。
百周年は大きな節目、百一年からは後輩達が未未に向けて新しい同窓会を企画できる土壊を作って上げよう。」
今年の1月以来もうどれだけ会議をしたかわかりません。
動員目標500名。とてつもない挑戦です。名簿の掘り起こしからのスタートでした。幹事会で企画倒れになるなよと言われる位、企画案を作ったり、つぶしたり。
「今更なんていわず、この秋、なつかしい顔に会いに来て下ざい。」のプレ案内葉書をお出しし、皆様方のご期待の強さにスタッフー同驚嘆致しました。
6月6日の九州の同窓会も刺激になりました。「九州の同期の連中には負けないことを我々はやろう。」と。
やっと最終企画案も出来上がり、あとは11月14日まで突っ走るところまでになりました。
ここまで漕ぎ着けたのは同期のスタッフばかりでなく、多くの同窓生のご協力の賜です。まだ早いとは存知ますが衰心より御札申し上げます。
一人でもお出かけください。必ず懐かしい顔に会えます。みなさんでお出かけください。若き青春の日に戻れます。
私は当日まで、てるてる坊主を作ってお祈りするだけです。「11月14日、お待ちしております。」
国土が狭く資源の乏しい日本がつい最近まで世界の主として経済面をリードして未られたのは明治以来、営々として築いて来た国民教育に宿る力が大であった。人間教青の中心はあくまでも家庭教育であるが、同様に社会教有、即ち社会の人々や環境から受ける教育、更に学校教育も極めて重要である。
幼稚園から大学院まで教室に於ける学問の指導を受けると同様にクラプ活動等を通して同学年生は勿論、先輩や後輩から受ける人間的影響はその人の人格形成に大きな結果をもたらしている。
日本の資源はこの「教育された立派な人間」こそがその最大のものであった。
それが最近の日本を見ると家庭、社会、学校その何れを見てもその中心となる目標を失いかけており「理想の人間像」を求めて「如何なる人間が社会の為、又更には世界の為に望ましいか」を国全体として考え直すべき時期に来ている。
15才から18才にかけての高校時代は思春期であると同時に自己の人生をこれからどう生きて行くべきか考える重要な時期である。或る者は悩み或る者は苦しみ又或る者は楽しむであろうがその結論は強いて急いで出す必要はない。
家庭に於いては両親や家族、社会に対しては自己の接し得る社会人や諸々の環境、学校に於いては先生や学校と真剣に接し交流を重ね、それらを通して経験を重ねる中に自ら方向が漠然と乍らでも見えて来る。更に大学に入れば又新しい経験が待っており、当初決めた方向が一層明確化する事もあるし又方向を変えてもよい。
ここで最も重要な事は常に社会の動き世界の動向に極めて深い関心を持って見守りつつ生活する事である。良い会社や組織に就職する事自体は決して悪くはないが、ただそれだけの勉学であれば将来必ず行き詰る。世界的視野に立って物事を考え得るスケールの大きい人物になって欲しい。その事が自分自身は勿論日本、更には世界の発展につながるのである。
筆者が30数年前ジュネーヴ大学大学院で客員教授として一年間「日本貿易論」を教え、更に一年間GATT特別顧問としてジュネーヴに合計2年滞在した時、少年達が不良な事をすれば全く見知らぬ外人が注意したり、或る者は列車内で所謂不良少年がキップの不良使用をし車掌に抵抗していた時、その列車の乗客会員が立ち上り、猛然として皆でその少年を叱りつけたり、又駅にはタバコの吸いがら一つ落ちていなかったり、又我々外国人が集まって来るとバスでも列車でも満員だったら少年、少女はすぐ立ち上って席を譲る等は正にこれら人間教育のもたらす素晴らしさであり、こんな社会を日本も早く構成したいと痛感した。
つまり人間教育はこの様に社会生活を豊かに楽しくするものである。その意味で高校教育は理想の人間像を求めて行く上で極めて重要な事であると確信する。
東筑創立百周年誠におめでたいと存じます。しかし、これからが本当の正念場を迎える事になります。21世紀を目前に次の百年は正に国際社会でも国内社会でも人類に貢献し得る立派な人材をより多く育成し益々発展されん事を切に祈っております。
私にとって二度目の甲子園でした。
昭和53年の夏……
当時東筑4年生と化していた予備校を空にして、同窓生(?)たちとアルプススタンドにのりこみました。当時はまだ気分は在校生でしたので、試合の勝敗にしか関心がなかったように思われます。幸い僅差で勝ちを納め、狂喜乱舞しながらも、例の「如あらむ」で終わってしまった校歌斉噌にプツブツ文句を言いながら帰ったことを憶えています。
それ以来、現役生のがんばりで果たした甲子園も残念ながらテレビ応援となっていました。
4~5年前に東京にて同期の集まりからなる「飛翔五三の会」が発足し、しばし疎遠だった仲間と再会する機会ができました。それと共に眠っていた愛校心がフツフツと蘇ったのか、今回の甲子園は何がなんでも現地に行きたい衝動にかられていました。
当初は試合日が日曜日の予定でしたので、同期だけでも10人位の応援団になる予定でしたが、運悪く雨で順延となり、結局4人となりました。仕事の都合で止む無く断念した仲間の熱い想いを受け、早朝の新幹線に駆け込みました。
車中はビール片手に駅弁をむさぼり、「やっぱり駅弁は”かしわめし”やね」なんてプツプツぼやきながら、ちょっとした旅気分を味わいました。
そして到着したのが甲子園球場前の広場。20年前はこんなんじやなかったな……なんてキョロキョロしていると、いたるところに全国の東筑会のノボリがヒラヒラ。もちろん世代はマチマチだけど、皆一度は同じ門をくぐり、同じ土を踏みしめたという連帯感めいた空気が試合前の球場前広場を占めているのです。これが百年の歴史なのかな……なんて結構いい気分にしばし浸っていました。
ふと見ると東筑軍団のなかに喰田元監督の姿がありました。私たちの世代を含め、長い間東筑球児たちを支えてこられた氏も、伺うと、「今回は初めてゆっくり応援させてもらうよ」とのこと。長年の労を労う気持ちと局時に、世代がまたひとつ移り変わったことを改めて感じさせられました。
さて試合が始まり、東筑の先制。「さて、今度こそ勝利の校歌を最後まで歌うぞ!」と気分は盛り上がり、身震いする思いでした。残念ながら、その後逆転負けを喫してしまいましたが、選手たちは最後までずっとピカピカ輝いていました。
いつの世代もそうですが、東筑選手達は、どんな状況下にあっても、屈託がなくさわやかで、見ている者をいい気分にさせてくれます。今年もまた全国に新たな東筑ファンを増やしてくれたことでしょう。
東筑4年生から40年経ち、ついぞ自分が輝くことを忘れかけ、今回目の前でキラキラ輝いている若者たちを応援できたことだけでも選手たちに感謝したいと思います。
おまけにもうひとつ感謝しておきます。都会では当たり前のようになっている高校生の乱れたファッション、チャパツだロンゲだルーズソックスだのと私も年をとったのか全く受け入れられません。在校生の高校生らしさに安心と誇りを感じました。「やっぱり高校生はこうじゃなきや」と自分の若かりし頃の反抗なんて何処ふく風で満足感に浸らせてもらいました。
帰路にて、梅田の居酒屋に立ち寄りささやかながら残念会をやりました。点差のことなど忘れて、「あそこが惜しかった」「ちょっとした流れで」などと勝手に評論会。これがまた楽しい。帰りの新幹線の中ではさすがに少しずつ現実に戻り、仕事がチラチラと頭をよぎるようになりながらもウトウト。
東京駅についた時には、いつもの「ただのおじさん」に戻っていました。
こんな一日をくれた現役生に感謝しつつ、近いうちに、またプレゼントしてくれることをこれからの東筑生にお願いする次第です。
本年5月26日から28日までの3日間の54期還暦記念旅行には、80名が参加した。特に多くも少なくもない数のようである。
この80名のうちには、東京東筑全名簿(平成8年8月)収載の者11名、名簿編纂後、東京・関東地区内に居を移した者2名が含まれている。
他方、本年6月6日北九州プリンスホテルで催された創立百周年祝賀会には、1,600名余の出席者があったと聞き及んでいる。私は、1年の時担任であった原宏先生からいただいた年賀状に是非出席なさいとのおことばがあったにもかかわらず、出席を見送ってしまった。
1,600名というのは、出席率にすればどの程度の数になるのであろうか。
1997・10・25東筑会報№18に掲載され「会報発送・年会費納入状況(平成9年4月30日現在)によると、会報発送数20,888、年会費納入数5,870となっている。1,600は、前者に対しては7.7パーセント、後著に対しては27.3パーセントとなる。
わが54期の出席者数を前者の率を用いて推計すると46名で、後者の率によると58名と推計される。
実際の出席者数は三好利孝54期事務局長に電話してたずねれば、即座に知ることができようが、おそらく、還暦記念旅有参加者数には及ばなかったのではないかという気がする。実際にそうであったとしても、創立百周年行事と還暦記念旅行の年が重なり、しかも両者の時期が中8日と近接している状況において、母校の歴史を祝う会に出席することよりも自分自身の節目の年に絡む行事に参加することに気持がより傾いたことが非とされることはないと思うのだが、これは弁解になろうか。
この旅行参加者80名というのは、南北15クラスのうち参加者のあった13クラスに対し、1クラス当たり6.2名にしか過ぎないが、その一員として参加できた喜ぴが、この投稿を現実のものとさせた。
「還暦」とは…広辞苑によると次のように記されている。(60年で再ぴ生まれた年の干支に還るからいう)数え61歳の称。華甲。本卦還(ほんけがえり)
長寿を願うのは、古今・東西を問わない、人間の率直な気持であろう。寿命のあまり長くない時代には、還暦を迎えることは慶事であった。
しかし、わが国において、人生80年時代といわれるようになって十数年にもなっており、宮崎の巨人軍キャンプ地で60歳の誕生日を迎えた長嶋監督の「はじめての還暦で……」は、何か妙なおかしみを与えたが、2度の還暦を迎える人がないとはいいきれない今日では、むしろ、60年間生きていることが格別に意識さることはないように思えなくもない。
尤も、60歳定年なるものが、わが国社会経済において大きな位置を占めていることもまた現実である。因みに、60歳の者はあと何年生きるかを平成8年簡易生命表(厚生省平成10年4月7日)でみると、男子の平均余命は20.75年で、女子のそれは25.91年となっている。
さて、期毎の還暦記念旅行は、今や、東筑卒業者の間に定着したかの感がある。
1995・9・1東筑会報告№16に「51期還暦旅行顛末記」なる有田貞子先輩の文があり、阪神淡路大農災後の山陽新幹線不通の困難を乗り越えて、80名の参加のもと関西旅行が実施されたと報告されている。
また、同じ会報に、「52期関西方面へ還暦旅行」と題する有田和子先輩の文が掲載され、全国から約80名が集まる予定と述べられている。
さらに、前記の東筑会報告№18の各期だよりの中に、「53期還暦旅行―プラジルの旅 貞末哲也君を訪ねて」(筆者名の記載はない。)があり、21名の参加で実行されたと報告されている。
それでは、還暦(記念)旅行の意義はいかなるものであろうか。私は、実際に今回の旅行に参加する前には、自分なりにそれについて考えてみたし、できれば期毎の旅行の趣意書ないし呼ぴかけ文を見たいと思ってもいた。
例えば、前記の有田和子先輩の文の中には、「人生80年の今日、『還暦』を長い命を生かす為、また素敵な明日への人生の出発点として今一度過去を振り返り、少年・少女時代に戻ってみるのも意義あることではないかな」(無断引用ご容赦ください。)と案内文の一部が紹介されており、興味深く感じたものだから……。
しかし、その試みはもうやめることにした。格調高く朗々と述べられる還暦旅行の意義と私が実感した旅行参加の喜ぴとは、何故かぴったりしないと思えたからである。
その喜ぴとは、……ここでは、一且保留して、旅程に従って旅の綴りを若干させていただくことにする。
5月26日、名古屋駅に、大阪・関西地区、名古屋、東海地区、東京・関東地区などから26名がそれぞれ新幹線を利用するなどして集合、名古屋空港で、空路到着した福岡・九州地区からのいわば本隊と合流した。
久方ぷりの会合を喜ぴ合った後、三重交通㈱名古屋営業所の観光バス2台に分乗して飛騨に向かう。庄川にダムを構築して出来た御母衣湖の延々と続く湖岸の道路を経て白川郷ヘ。
白川郷には商いもあるが、木曽路の妻籠や会津の大内宿などの旧宿場の保存された街並みを観光資源とするところと違い、訪れた人への勧誘の声などなく、実に静かである。彼の地にあっては、往来する人々を相手とすることを生業とすることが引き継がれているのに対し、此の地の場合、特色ある合掌造りの住家を部外者が見物にやって来るところにこのような差異が生ずると考えたらよいのだろうか。
そのほか、心に残るものは、赤松といろいろの照葉樹が混在する四囲の山の緑、明善寺の山門兼鐘楼といった建造物、庄川に架かるであい橋などであった。
この日の宿は高山。
明けて5月27日、早朝目覚めて朝風呂の後、街へ出る。朝市は開店準備に入ったばかり。そこで、岐阜県重要文化財指定の商家「松本家住宅」を見ておこうと歩きはじめる。途中、軽四輪車の牛乳配達の人に出合う。前夜の過度の飲酒のせいか、それとも速歩きしたためか喉の渇きを覚えて一本分けてもらう。金72円也。
宮川に沿った高山の街には造り酒家が多く見かけられる。奥行きの程はわからないが、道路に面して幅広い大きな構えである。商家も概して間口が幅広く、伊勢内宮門前などの間口が狭く奥行きの深い商家が並ぷ街とは趣きを異にしている。
高山祭の主役たる屋台が展示された屋台会館の見学を済ませ、乗鞍に向かう。
この日も好天に恵まれ、バスが葛折りのスカイラインを登り進むにつれて眺望が広がる。穂高の峰々はもちろん遠く白山の姿もうかがえる。しかし、バスで登ったの2,700メートル余の畳平までで、最高峰の剣ケ岳峰(3026メートル)は仰ぎ見るだけであった。
次いで、この日の宿泊地の新穂高温泉に赴き、新穂高ロープウエイを乗り継いで2,156メートルの西穂高ロまで上る。2,909メートルの西穂高岳はすぐ目の前、下るとき正面に見える笠ケ岳(2,898メートル)は格好がよい。
高圧帯に覆われているのか、変わり易いとされる山の天候の様相はなく、美しい山々の眺めを楽しめたのは、全く好運だったというほかない。
最終日の5月28日、最後で最大の 目玉上高地に向かう。
途中、昨年12月開通したばかりの安房トンネルの効用絶大なりの感を強くした。やがて、バスは、上下、左右に大揺れしながら、釜トンネルを抜け上高地に到着。
大正池バス停から集合地点のバスターミナルまで約2時間、梓川沿いに、左岸そして田代橋を渡って右岸を動植物を観察しながら歩く。
全員集合したところで、奥穂高岳を背景に、高山屋台会館前、新穂高ロープウエイ新穂高温泉駅前に次いで、3枚目の集合写真撮り。再ぴ釜トンネルを抜け、松本に向かう。市内のホテルで最後の会食(昼食)を済ませ、暫時自由行動。この間、多くの人は松本城ヘ。
バスに乗れば、もう別れの時が間近い。東京・関東地区中心に10名余が松本駅前でバスを降り、JR中央本線で帰路に就くことになったのである。
団体旅行である還暦記念旅行に参加するには、いくつかの条件を充たさなければならない。健康、時間的余裕、興味・関心、費用などである。
現に、「体調が思わしくない」「仕事が忙しい」「病親の世話がある」「何度か行ったところだから」など参加を見合わせた人の話がある。
したがって、仮りに多少無理を押してでも参加できることは、ありがたいことといわねばなるまい。私自身も何とか健康保持できていること、職場や家族の理解が得られたこと、何でも見ておこうという気持がまだあること等々、感謝の念を禁じられない。
それでは、私にとって、何がこの旅行の意義―参加の喜ぴ―であったか。
54期の文集”一本松”の還暦記念旅行特集への寄稿文に同行者との交流の模様を書き込み、本稿では全くそれを省いてしまったので、唐突の感じを与えるかも知れないが、若き日にタイムトリップした心境に至ったことである。これは、おそらく同期の人達と一緒の旅であるが故に感得できたのであろう、この気持には、同じクラスだったとか、部活動が一緒だったとか、さらに遡って小学校、中学校が同じだったとかの縁がある人との間ほど強いのである。
このタイムトリップには、筋力の滅退、五感の鈍化(生命の静止への漸進を見れば何事でもないのかも知れない。)はもはや否定できない状況の私にとって、実に素晴らしい土産があった。
その土産とは、自分の人生の将来に向かって、未知なるものへの不安を感じる面はあるものの、未体験のもの(加齢に伴う障害も含まれよう)ヘの対処を学ぴつつ、体験を積み重ねて生きていくことができるのではないかという気持を持てたことである。
懇親会での東筑高校のエールとともに全員で校歌を歌い終えた時に、やはりこの一年間幹事の仲間達と一生懸命やってきて嬉しかったという思いでした。
折尾の町の丘の上で、共に学ぴ過した仲間と久し振りに会う会話はとても新鮮なものでした。幹事になってこの当番期を乗り越える為には、私はごく平凡に無理なくやろうと考え、少人数になってもいいから自分の心の中の東筑という高校時代の思い出を大事にして懇親会当日が、心温まるものであって欲しい気持ちで一年間頑張りました。
OB諸兄の激励も同期の北九州からのくったくのない支援が、何よりも心のささえとなってきたか、はかりしれません。
ありがとうございました。
今年は東筑高校百周年・東京東筑会20周年という節目の年という事もあって、当番期の幹事さんは大変な事と恩います。頑張って下さい。
今年はその日を楽しみにしている一人です。同窓会・懇親会は究極のところ当番期の旧友が楽しく友との再会を楽しめればそれで充分に意義ある事と感じています。
決して当番期の義務だからとか変な責任感でもって気負わない方が良いと思います。私達、平成9年度の当番期の幹事の方々も、それぞれの思いをもって頑張りましたが、ひとまわり大きく成長した友人に学生時代以上の思いが芽生えて来た事は、とても大事にしたいと思う今日この頃です。
今後は年に一回位はこの時期に同期と会って飲めるかなという思いでつかの間の一日を東筑高校時代に戻り旧友との再会を楽しみにしています。
(東京地区と北九州地区の交流会もたまにはあっていいのではという、ぜいたくな夢も将来、機会があれば実現させたいですネ……)
「マスコミ東筑会」発足
東京のマスコミ業界で働いていると、「私も東筑ですよ」「うちの○○も東筑ですよ」といった出会いは意外に多くあります。
「このままにしておくのはもったいない」というわけで、東京のマスコミで働く東筑OBのネットワーク「マスコミ東筑会」がこのほど誕生。9月11日に25名が集まり、第1回交流会が開かれました。
ーロにマスコミといっても幅広く、この日集まったのも、新聞・雑誌・TV・ラジオ・出版・広告等々の、記者・編集者・プロデューサー・アナウンサー・営業マン等々と職種も様々。今年大学を出たばかりの新人君がいるかと思えば、”業界の大御所”というべき大先輩もいらっしやって、東筑OBの目を見張る活躍ぷりをあらためて知らされました。
女性ジャーナリストの草分け的存在の山崎れいなさんの挨拶で始まった交流会。第一線で活躍する仕事の鬼も、厳しい競合関係にある人同志もこの日ばかりは別。恩師や折尾のお店、部活動といった懐かしい話題に花が咲き、日頃の仕事の中だけでは生まれない特別な関係が深まっていったようでした。
人と人とのつながりが大事な業界だけに、(気楽な飲み仲間を増やすためにも)よりいっそう会の輪を広げ、活動を活発にしていきたいと考えています。また、ゆくゆくは何らかの社会貢献活動も実施を目指そうとしています。さらに会では、趣旨の一つとして「マスコミ業界を目指す後進の側面的支援」を掲げています。前述のとおり、会には様々な分野の方がいますので、きっとお役に立つことができると思います。
現在マスコミにいる方、マスコミを目指している方、是非ご連絡下ざい!
(文・花口和己 83期)
第16号
(1998年 平成10元年10月)

東筑100周年期記念