会長ご挨拶 -愛馬との絆-/東京東筑会会長 古岡  勝 (36期)

一、道を教える軍馬

大東亜戦争開戦直後の、昭和16年12月、中支江西省都南菖の前線に赴任の命を受けた。約1ヶ月で最前線の中隊本部に着任、即日、近日内地から到着予定の初年兵教官を命ぜられた。

この初年兵教育期間中の休日に、護衛兵と大隊本部に連絡に行き、白乾酒を御馳走になった。

悲しいかな歩兵中隊の陸軍少尉は馬に乗る機会はない。そこでこの機会とばかり酒の勢いを借りて馬に乗り、護衛兵に軍刀を預け、丸腰のまま馬を飛ばし中隊本部に向かった。

中国の田舎では勿論電灯など皆無である。帰途の中間ぐらいで闇夜となった。ほろ酔い加減の私には西も東も判然としない。然し馬は勝手に歩いている。やがて丘を越えた前方の暗闇の中に明かりが見えてきた。私は中隊本部だと思い込み、馬をその方向に向けようとするが馬は承知しない。なおも暗闇に向かって歩きだす。ついに私は諦めて馬に運命を託すことにした。

闇の中に突然鉄条網が見えてきた。瞬間敵陣地かと緊張したが、幸い我が中隊本部であった。この馬は中隊に配属されていた機関銃中隊の馬で、帰厩本能と方向感覚、動物の感のよさに驚嘆し、感謝と、戦場における『人馬一体』の実感を身に染みて教わった。

二、愛馬に救われる

大隊副官をしていた頃、南台から湖南省都の長沙に向かって作戦進軍中、連日の戦闘、行軍で疲労困憊の極にあるとき、昼食の為の大休止(休憩)があった。私は愛馬とともに40メートル林の中に入って休んでいたが、不覚にもそのまま寝込んでしまった。

どれくらいの時間が経過したのであろうか、私の顔を撫でる者がいる。目を覚ますと、愛馬が私を起こしてくれたのである。部隊が出発してからかなりの時間が経過している。事態の深刻さに気付き夢中で愛馬を駆けさせた。

私は前回の経験が有るので、今回は馬の駆けるに任せた。馬は状況を知っていた。30分も駆けた頃部隊の最後尾に追いつくことができた。更に先頭の大隊本部まで駆けて,部隊長殿最後尾異常ありません』と報告。大隊長曰く『ご苦労』。

その夜愛馬に頬寄せ涙を流して感謝した。

三、同期生の戦死を予告

戦場で野営し朝の出発時、馬が出発を嫌がることがある。馬には遠方の異常気配を察知する能力が有るのか、鋭い動物の感が働いているようだ。この様なときには何かが起きる。

これも大隊副官のときだった。当日の作戦命令は山岳地帯を中央突破することになるが、人馬が通れる道は一本だけで、然も幾つかの峠を越え谷を通り抜けなければならない。

私が得た中国人からの情報では、相当数の敵が待ち伏せているとのことである。私の愛馬は出発を嫌がった。

当日の尖兵小隊長は同期生の松田中尉だった。早速彼に情報を伝え警戒するよう注意した。然し無駄だった。崖浴いの狭い一本道で、第一の峠を上るとき、待ち伏せた敵の一斉射撃により先頭の松田中尉は戦死した。私の愛馬の感は不幸にも見事に的中した。

四、主人を守る受鳥

長沙攻略直前の事である。連絡のため聯隊本部に行く途中、乗馬が足を踏み外し、私は不覚にも約10メートルの崖下に転落した。近距離のため部下を同行せず単独であった。私は打ち所が悪かったのか、そのまま意識不明となった。

乗馬は後ろの片足を崖から踏み外して私を崖下に落としたが、体勢を立て直してそのまま私を守るかのように、その場を動かなかったのである。偶然通りかかった工兵隊により無事救助された。

時間の経過は不明だが、人声で意識が回復したときは自分の大隊本部であった。愛馬が案内したと聞いた。戦場の混乱の中で愛馬がいなかったらどうなっていたか。それにしても愛馬の忠実さ、主人を想う心根には唯々感謝あるのみ。愛情が通うと誠に頼もしく可愛いものである。

 

特集Ⅰ 「思い出の先生達」

・古きよき東筑時代の恩師達 佐藤 晶

・先生はいつまでも先生 花田輝夫

・思い出に残るH先生 三原朝彦

・風化された思い出を辿って 小野慶子

・「脱出」志向を加速ざれた頃 井上進一郎

・夢は大きめに 安藤進一

 

古きよき東筑時代の恩師達/佐藤 晶(48期)

私が懐かしい母校東筑(当時旧制中学)に入学したのは、昭和19年4月でした。

当時、第二次世界大戦(大東亜戦争)は、既に日本の敗色濃厚な時期に入っていたわけですが、私達少年には、その翌年にあの歴史的な終戦の日を迎えることになるなどということは、夢想だにできないことでした。

終戦までの日々がどんな時代であったかは同期の畏友廣渡昭寿君の名著「響灘」をご一読頂ければ、若い昔さんにもご理解願えることと思います。

とにかく、衣食は極度に不足し、学内でも鉄拳制裁がまかり通る時代でした。

そして、昭和20年8月15日の終戦の日を境に、日本は一転して自由主義謳歌の時代を迎え、私達は卒業まで、戸惑いと嬉しさのない交ぜになった自由主義教育を受けたのです。

このような混沌とした時代にも拘わらず、当時の東筑の先生方は、実に立派な方が揃っておられました。まさに恩師とお呼ぴするのに相応しい方々でした。

入学時の校長は藤崎弁蔵先生で、東筑の先輩でもあり、東京高師を出られたシェークスビアの研究家とのことでしたが、小躯ながら古武士の風格を備えた方でした。

中学1年の組主任は、馬場辰生先生(英語)で「アチャラ」という緯名でした。恐らく、英語を教えておられたことからだと思います。ABCから生れて初めて英語をお教え頂いた懐かしい先生です。

この頃、中学生も軍事教練が必須科目で、銃剣術の有田教官(軍曹)、配属将校の御前中尉、石松少尉がおられ(4、5年生を教えておられたのは少佐の方でした)厳しい教練を受け、軍人勅諭も暗記させられたものです。いまでもサーベルで頭を叩かれた時の痛みを、悪い頭がはっきりと覚えています。

中学2年では眞武俊一先生(生物)、緯名は「ドクチン」で非常に厳しいけれども公平無私な先生でした。いまでも独持の発声で「この生徒は……」と指さしながら叱られた情景を思い出します。

中学3年は、水摩光先生(歴史)でした。

当時先生は、教職員組合の活動をなさっておられたようで、私が小倉市(当時)から通学していた関係で、組合の連絡文書を八幡中学や小倉中学(当時)等に届けるようご依頼があり、放課後にお届けした憶えがあります。

中学4年では、安東清先生(英語)が組主任でした。先生はお名前のように清廉潔白な方で「トウチャン」という緯名でした。またの緯名が「ダゴ汁」で、いつも団子汁が主食の質素な生活をなさっているという伝説から生れた緯名です。卵形のお顔に広い額、温厚篤実な中にも凛としたものを感じさせる立派な先生でした。いまでも先生が授業中生徒に「○○君読んで訳せよー」と仰言っていたお言葉とその抑揚がはっきりと耳柔に甦えります。

その他、山羊を毎日学校に連れてこられて一本松に繋いでおられた体育の石川先生、九州文学同人の英語の能美先生、美校を出たばかりで、痩躯のため「モヤシ」と生徒に緯名された美術の高尾先生、授業で浪曲を教えて下さった歴史の梶栗先生、授業中に弁当を食ってもエスケーブしても決して生徒を叱られることがなかった僧籍にあられた数学の占部先生等いまにして思えば、牧歌的なよき時代であり先生方も人間的に深見と味わいのある立派な方がたくさんいらっしやいました。

就中、私にとって忘れ得ぬ恩師の中の恩師と申すべき先生は、高2と高3(昭和23年学制改革により)の2年間に亘って組主任としてお世話になった田中守三先生(数学)です。当時先生は、文理大をご卒業間もない頃で、若々しいシャープな授業をなさっていましたが、お人柄は寡黙でとてもはにかみ屋でした。しかし、教育に対する情熱は大変なもので、宿題を忘れたり、授業中に騒いだりすると厳しく叱られたものです。

山嵐(坊ちやんの中の数学教師)という緯名もありましたが、生徒はそのお人柄からか陰では守三(もりみ)さんと皆が呼んでいました。

立派なキャリアをお持ちになりながら、教頭や校長は望まれず、東筑一筋で教職を終えられました。また、私達がご自宅に伺うと、とても喜ばれて、学校ではみられないご温顔をほころばせて歓待くだざり、色々なお話に興じられたことも懐かしい思い出です。

昭和57年春、在京48期で、先生ご夫妻を東京にお招きできたことは、いまも大変嬉しい思い出です。

遅刻、欠席、月謝滞納の常習犯で劣等生でもあった私が、無事に卒業ができ今日があるのも田中先生のお陰であると、その師恩の深さに感謝あるのみです。

学校教育が大きな社会問題となっている現在、古きよき東筑時代の教育と素晴らしき恩師達をひたすら懐かしむのは、ひとり私の感傷のみでしょうか。

 

先生はいつまでも先生/花田輝夫(54期)

毎年、年賀状で、ごぷさたしている知人・友人の消息を知るのは一つの楽しみである。

特に旧師の近況を知らせて頂くと、懐しさで一杯になる。

もう当時の先生方の年令は、とっくに越えているのに、先生はいつまでも先生で、当時の若さを思い返すきっかけとなるのである。

高校へ入って非常に新鮮だったのは、教科によるクラス替えであった。英語も、そのクラス替えがあった。

中村健一先生は、最初の英語のクラスの時に、こう言われた。

「英語を勉強するには、辞書が大事である。辞書は、岩波がよい。岩波の英和辞典を使いなさい。これが一番よい。」と。そして、「別に岩波の宣伝をしているわけではないが……」と、眼鏡の奥の目に少し笑みを浮かべられたように思ったものである。

そう言われて買った「岩波英和辞典」が、今も私の手元にある。その後、何冊も辞書は買ったものだが、何回引越しても、どうしても本類は手放したくなく、家内には荷物が多すぎると苦情を言われながら持ち歩いた結果、この辞典が、今も本箱にあるのである。

辞典の奥付を見ると、1953年(昭和28年である)11月25日新増訂版第8刷発行となっていて、定価は500円である。

昭和28年4月に高校へ入学したのだから、買ったのはかなり経ってからである。

どうしてすぐ買わなかったのかは、よく覚えていないが、先生の授業を受けて、良い授業だなと納得してから買う気になったのと、もう一つ、500円というのは、当時としてはかなり高額の買物であるからだったのではないか…。

いずれにしても、英語は私の好きな教科であり、この辞書にも大いにお世話になったわけである。そして、中村先生とは、ずっと年賀状の交換はさせて頂いているが、お会いする機会はなかったのに、54期の同窓会当番期の析、母校でお会いしてお話できたことが何よりであった。

先生は短歌をやられ、毎日新聞に度々入選しておられることも伺い、大変嬉しい話だと思ったものである。

そして、年賀状には毎年プッダの言葉があり、平成9年の年賀状には、『ブッダのお言葉をお送りいたします。』とあり『父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと―これがこよなき幸せである。尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと―これがこよなき幸せである』(スッタニバータ)とあった。

古森麟市先生は、生物の先生であったが、2年4組のクラス担当として、私達は大変お世話になったものである。在学中も、卒業してからも、今でもこの男女混合クラスはよく集まっているが、その原点は古森先生の担当によるものである。

当時先生は若々しく颯爽としておられたがユーモアに富み、私達のリーダーであった。

結婚されて新婚の時代に、大勢でおしかけて酒を飲んで大騒ぎして大変ご迷惑をおかけしたことも何回もあった。

北九州に残っているメンバーは、よく集まっているようだが、以前私が営業担当で九州へ行く機会が多かった時には、皆集まってくれて一杯やることがあり、先生ともご一緒したりしたものである。

確か先生が還暦になられた年だと思うが、若松の料理屋でお祝い会をしたところ、ふすまのかげから先生がおもむろに現れて、見得を切られて挨拶があり、大笑いしたことも覚えている。

九州にいるこのメンバーで、谷君や富倉君のように医者になっている者は、先生のかかりつけでもあるようで心強い限りである。

古森先生の今年の年賀状には「訪七福、去三邪」とあり、名前の下に「老酔庵主」とあった。酒好きの先生であるが、自重されて、ご健勝であることを祈っている。

いずれにしても、高校時代は昔となったが、東京での年2回(以上?)の同期会など、懐しさが増してくるのは不思議である。

今年還暦を迎える私達は、人生の仕上げの年に近づいている。しかし、お元気な先生方を思うと、私達もまだまだ頑張らねばと思うのである。先生方のますますのご健勝と、東筑高校の発展をお祈りして、ペンをおく。

 

思い出に残るH先生/三原朝彦(64期)

別に父親が政治家をしているからと一言ってその子が目立ちたがり屋であるとは限りません。東筑に入った昭和38年、私の父は次回の衆院選を目指し懸命に準備活動をしていました。私はそのことは極力話題に載せることを学校では避けていましたが何しろその年の3月まで東筑のPTAの会長を父はしていましたし、加えて父は朝雄、私は朝彦否応なく私が彼の息子であることは推量されます。学校が始まるとすぐに担任の先生のみならず各教科の先生方から存在をしられていました。

その中で別けても御丁寧な先生がおられて、授業の途中私を指名されると必ず「父ちやん元気で頑張ってるか、勝負は勝たんといけんバイ」とか何とか必ず激励を込めて私的会話を付け加えられました。H先生という国語の先生で誠にユニークな人材でした。この先生の話は私の姉二人と兄が東筑卒業でしたから聞いてはおりましたが、まさに「百聞は一見にしかず」、「事実は小説より奇なり」と申しましょうか、高校入試から解放され、少し大人に近づいた気分の私にとり公私をゴチャゴチャにした変わった先生との第一印象を持ちました。

私のH先生への印象は図星であったのです。必ずド肝を抜かれたのは授業中に気分が乗ると国語はそっちのけ、陶芸から絵画、書道、映画等々芸術全般に互る講義が始まり停まる所を知りません。生徒の側は無味乾燥な動詞や助動詞の活用の説明を受けるより、その博覧強記に目を奪われ、臨場感溢れる芸術家のゴシップ辺りを聞かされ、時の発つのを忘れているうちに時限終了のチャイムが鳴る方が楽しいに決まっています。

そういえば国語の授業も今思い出すと興味深いものでした。古今の名作文があると必ずその一節を暗記することが宿題でした。例えば清少納言ほ「枕草子」、『春はあけぽの…』で始まる例の所とか、吉田兼好は「徒然草」、『徒然なるままに日暮らし…』、芭蕉は「奥の細道」、『月日は百代の過客にして…』等々。又、私達が必ず習う古典のみならず、川端康成の「雪国」の『トンネルを超えるとそこは雪国だった…』とか樋口一葉の『見返れば大門の柳…』(所でこれの題名何でしたかね。)とかこれらは全て次回の授業の時迄に覚えて釆なかったら体罰でした。

今一つ、今日までも私の少ないながら教養の一部となっているものに百人一首の暗唱があります。これもH先生のおかげなのでして、上の句を提示されると下の句は出易いのですが、その逆はかなり復唱しないとスラスラと出てきません。では同窓諸兄姉これは如何ですか、『…割れても末に会はんとぞ思ぷ』。この上の句は『瀬をはやみ岩にせかるる滝川の』です。とまあこんな具にH先生が下の句を唱えられ、指名ざれた生徒が立ち上がって朗々とその上の句を詠い上げるのです。大学入試に百人一首そのものが出てくることなどありません。ですから受験勉強に熱心な生徒からすると百人一首暗唱の授業は全く座興か、無駄と感じていたのではないでしょうか。私は実は小ざな頃、母が百人一首のカルタ取りが趣味だったので正月になると大人に交じって一所懸命覚えた数種のカルタを我が物にせんと頑張っていたことがありました。ですからH先生の百人一首の時間はその延長の様なものですから大層楽しく過ごしたものです。今でも十首や二十首なら記憶の底からスラスラと出てきます。今新たに覚えろと言われても到底無理ですが、あの頃は若くて頭も柔らかかったのですね。

H先生は焼き芋が好物でした。落ち葉の季節になると、折尾駅から東筑高校迄の間に数力所焼き芋の大きなお窯が店先に出されました。これを見て私達も冬の到来を感じたものですが、H先生も俄然元気が出て、授業中に私語をしたり、先生の質問に答えられなかったりした生徒は、罰として焼き芋買いを命じられることがありました。これが常となると、悪童たちはこれを逆手にとってワザと私語をしたりトンチンカンな答えを言ったりします。勿論彼等にしてみれば、先生のお仕置きを頂戴すれば堂々と授業をサボれるのですから、こんなに好都合なことはありません。この手でしばしば授業を合法的に抜け出す輩がいました。

H先生は退職後時を永らく経ずして亡くなりましたが、私が代議士になって直ぐの頃、今から10年程前、180センチ以上はある痩身の美少年が私を訪ねて来ました。彼は私の友人の伝を頼って私の事務所に来たのですが、名前を聞いて驚くやら懐かしいやら。何とH先生の御子息でピカピカの大学一年生。彼と暫くの間H先生談議をしましたが、H先生は家庭では良い父親ではあったけれども、やはり学校と同様「我道を行く」態度は旺盛であった由。十分に納得出来る御子息の父親評でした。

もう東筑を離れて30有余年、母校には相変わらずH先生の様なユニーグな先生は存在するのでしょうか。私は勿論H先生の如き先生像を心から期待する者の一人です。

 

風化された思い出を辿って/小野慶子(67期)

今年5月24日、私達67期生は東京東筑会の当番期に当たり、男子8名、女子7名、初めて準備会で再会しました。そのうち1年6組加留部先生のクラスだった人が6名(女子5名)と、集中していたので少し鷲きました。女子への電話連絡の中でこんな話がありました。「楽しいクラスなんてなかったよ。ピリビリしているクラスもあった。加留部先生のクラスそんなに楽しかったの。数学習った事あるけどコワカッター。」

「そういえば加留部先生のクラス楽しかったね。」5月24日の二次会でそんな会話がありました。楽しいクラスだったので6名も集まったのかもしれません。数学の教え方のすごかったという加留部先生のグラス運営、毒舌は突拍子もなく、むしろ痛快で私違よく笑わされていました。伸縮式の小さい棒を手に、わざわざ席まで出向いて男子の頭や教科書をポコポコ叩きながらお説教。特に私立文系志望の数学の要らない男子に集中していたように思えます。数学のテストは毎回名前と点数を言って渡されていたし、棒ポコポコで男子のいろんな人に痛快な事言ったので高1の時が一番名前を覚えています。女子には卓球部に「あんなウチワの成り損ないみたいの振り回してどこがおもしろいですか。」テニス部には「女子は顔が大事なのに怪我でもしたらどうしますか」と不思議な事をおっしやっていました。「数学は毎日5時間勉強しなさい」「学校から帰って、ひょっこりひょうたん島(なつかしい!)なんて見てちやダメですよ」等々。生徒にも男子、女子それぞれおもしろい二人組がいて、おもしろさは輸をかけていました。帰りの電車の中で、友違とそれらを話の種にしていた笑いがいっぱいの思い出の時です。高校生活もまだ始まったばかりでまだまだ単純で、あのグラスは笑いが多い分、活気が溢れていました。書いていると今もその活気が蘇ってきます。

写真はこの時のクラス。垣生公園に遠足に行った時のです。 (写真割愛しました…HP管理人)

今年5月24日再会した人が4人もいます。この笑顔にクラスの楽しさがお分かりでしょうか…。この学年の時、生物の古森先生の授業がとても楽しみでした。格好良くて真面目そうな外見に似合わず愉快な話をよくして下さいました。女子には人気の先生でした。

高2の時は柔道の松崎先生が通われている小倉の座禅道場ヘ、生徒にも体験させてあげたいと募られて…といういきさつだったとおもいます。女子4名位で連れて行って頂いた事が印象に残っています。私達は先生の高尚な意に反し、若い時は何でも体験と、興味本位な志80%での参加でした。早朝の掃除と座禅は真剣に成らざるを得ませんでしたが (今も本式の座禅の組み方覚えています) 当時は箸が転げても笑いたい年頃で、笑いを堪えるのがいかに辛い事であるかを修行、という場面もいくつか有り、友達の笑いを堪える姿に又笑いを誘われていた愚かな自分が浮かぴます。けれど、高尚な精神空間であったこと、つつましさの中に一瞬一瞬を大切に感謝の意を持って時を重ねることの意義、年月を経たからこそ貴重に思い出ざれます。「道」がつく物事は全て心の持ち方が要(かなめ)であると、柔道の松崎先生は心を高める為に禅の修行もなさっていたりっぱな先生だったのです。

この点は今も教えられるところです。

授業を越えての先生の実践は30年の時を越えた今も時という流れに削られる事なくしっかり残っていたのでした。

活気、ユーモアの中で和気藹々と過ごした日々、異次元の心の境地を教えて頂いた時と場…。思い出も長い年月を越えると風化し、本当に大切なものだけを残したり、全く違った思い出に変わってしまうものですね。

教科書とは離れて、折口信夫全集の中から原日本人の清らかな幽玄の世界と出会わせて下ざった林田先生。資料を巧みに使っての日本史の植田先生の教え方の絶妙さ…。東筑の先生方は個性的でユニークなことはもちろん、情熱を持っておられたことが強く印象にあります。笑いの場を上手に使ってリラックスさせながらで、学ぷ事は楽しい事を教わった場でもありました。

学校教育を離れても、生涯学習の形でずっと学ぴの楽しさを体得し続けて来ているのは、その時の影響だと思えてなりません。

 

「脱出」志向を加速された頃/井上進一郎(69期)

新装となった(といっても、もう20年はど前のことだが)東筑をまだ見たことがない。帰省の折に、近くを通ることもあるが、特に足を伸ばしてみようという気にもならない。私の記憶の中では、東筑は相変わらず、昭和46年当時のままだ。学館裏の階段を昇り降りして、古ぴた木造校舎で3年間を過ごした。廊下を拭いたコールタールの色と臭いは今でも覚えている。私にとって、東筑の3年間は、ちょうどそのコールタールのようなものだった。懐かしい匂いもあるが、全体としては、どこか湿った重いものをひきずっている。東筑は一刻も早く通過したい場所にしかすぎなかった。

北九州という土地柄か、東筑の場合、進学希望者の大半は理科系である。今は知らないが、当時は第一志望九大工学部、第二志望九工大といったパターンがごく一般的だった。理科系に非ずば人に非ず―そんな空気が色濃く支配していた。いきおい、数学、物理といった科目ができない者は、文科系へと流れる。ご多分に漏れず、私もその一人だった。数Ⅰまでは何とかなった。

しかし、数Ⅱ、数Ⅲとなるともういけない。3年になる時、理科系のクラスを選んでいた私は、夏休み前には早々と志望を私立文科系に変え、もっぱら内職に励んでいた。医者は自分には向かない、そう思い込もうとしていた。そんな自分をもて余してもいた。おそらく、あの当時の私は、コンプレックスと、その裏返しの、いわれなき優越感にどっぷりと漬かっていた。そして、一刻も早く東筑を離れることしか考えていなかった。あのままいると、窒息してしまいそうだった。

そんな東筑時代にも、懐かしい人は何人かいる。忘れられない人もいる。話を教師に限れば、私の場合、それは世界史を教えてくれた井上太一先生だった。小柄で蓬髪。大きな鼻が印象的だった。

今にして思うと、あの頃の東筑の教師には、いささか偏頗な人が多かったように思う。英語のKちゃん、現国のH、地理のWちゃん…、数え上げていけぱ、またたく間に五本の指では足らなくなる。それでも、学校という特殊な空間しか知らなかった私たちにしてみれば、それが当たり前で、比較のしようもなかったわけだが―。

井上先生は、偏頗ではなかったが、やはり普通の教師ではなかった。若い頃、東京で雑誌の編集にも携わっていたらしい。向こうっ気の強い人で、随分と無茶もやったようだ。しかし、「聖職者」というイメージこそなかったが、奔放な中にやさしさをも兼ね備えた教師だった。どこか人生を達観したところもあった。豊かな経験と巧みな話術で、授業はいつも笑いに包まれていた。今にして思うと、私の「脱出」志向は、井上先生の話で知った未知の世界によって、さらに加速されたように思う。私は世界史を受験科目に選ぴ、補講も受けた。脱出は成功した。

あれから26年経つ。

その井上先生も8年前に亡くなられた。文学好きだった先生は、作品をいくつか雑誌に発表されていたらしい。それをいつか読んでみたい、と思っている。そんなことを考えていると、私の東筑時代もまんざらでもないなという気がしてきた。

 

夢は大きめに/安藤進一(83期)

「おれのモノマネをする奴は、昔からみんな出世することになっとんだ」そんなありがたい言葉をいただいたのは、破茶目茶な試験問題で人気を博していた保健体育の日比尾先生からだった。何が破茶目茶かって、先生の出す期末の試験問題ときたら端から端まで選択群問題だったのだが、こともあろうに「そこの答えは『A‐B,C‐D‐E‐F‐G』」「したがって答えは『い・ろ・は・に・ほ・ヘ・と』」という其合で、はっきりいって試験の体裁を成していなかったのである。もっとも、生徒の側としてみれば、まさに「神様仏さま日比尾さま」だったのは、誰しも異論のないところだろう。こんな風に切り出してみるだけでも、僕ら世代の恩師は実に個性的、もっといえばキャラクターのアクの強さがすくいあげ切れないほど渦巻いたとさえ思う。

そんな中で3年間を過ごした僕は、諸先生方の独特な口調、固有の動作が脳裏に焼き付き、ついついそのモノマネをクラスで披露していたものだから、それが高じて予餞会の司会までやる羽目になってしまったのだった。

「これぐらい出来なつまらん」といいながら、解いた後で「ありゃ、こりゃいかん」と答えを間違える数学の中村先生。「袖を下にウッと引っ張ると、相手はパァッと転ぴますねえ」と、擬態語ですべてを表現してしまうのは柔道の稲田先生。2、3年の担任だった英語の塩川先生は、「え―、ですからその―」と、額に汗しながらリーダーの教科書を懸命に訳していた………。それにしても、日比尾先生のモノマネをして出世した諸先輩とは、どんな方々だろうか、一度お会いしてみたい。僕自身はといえば、やはり親のスネをかじって東京の大学まで出してもらい今や家族を養う身である以上、「出世」というよりも、とにかく「成功」を手に入れようとする果敢な精神は持ち続けていたいと思っている。だから正直な話、10年以上経った今でも、日比尾先生の言葉を心の奥底で信じていたりなんかするのである。

ところで、自分のポリシーだとか、生き方だとかを表現しようとしたとき、それが実はある人から影響を受けていたものであったと気付くケースがないだろうか。

例えば、僕が座右の銘としている言葉、それは「夢は大きめに」である。「夢」というものを「実現できるもの」ととらえるか、それとも「実現できないもの」ととらえるか。これは人によって意見が分かれようけれども、僕の場合はズバリ前者である。ならば、いくら「夢は大きく」といっても、手の届かないほど大きな夢では、単に空しくなるだけだ。かといって、すぐに実現できるようなスケールの小ささでも、納得はいかない。やはり「夢」というものは、「頑張って背伸ぴすれば、なんとか達成できるに違いない」と、自分に期待を持たせることができるほどの大きさが望ましい。もっともらしいことを書いていながら、少し恥ずかしくなっているのだが、これは僕の信念ではあっても、決して自ら編み出した論理ではない。いつの間にか、こうした考え方を抱くようになったものの、思い返してみると、それは高校時代の恩師だった鶴先生の言葉そのものだったのである。

鶴先生は、数学と進路指導を兼任されていたので3年生の時は通常の授業でも、進路の話題が中心になりがちだった。なにしろ二言目には―

「君たち、できるんでしゅ!なぜ東大を受けない!」

確かに当時、東筑から東大を受ける生徒は少なかった。とはいえ、「質実剛健」「文武両道」といった伝統的校風のもとには、東大志向が主流になるとはとても思えなかった。第一、僕自身が早稲田一直線で、ほかの大学など眼中にもない状態だったから、先生の東大主義的な言葉尻には、はっきりいって反発心をあおられた。

しかし、鶴先生の言わんとするところは、決して「東大受験」ではなく、「それくらいの自信と目標を持て」ということにあったのだ。それを象徴する表現こそ、あえて先生の名ゼリフと呼ばせていただこう、「夢は大きめに」なのである。

多くの人が30歳を一つの転機のように表現するが、僕もその意味を痛感することがある。例えば、自分の意思はともかく20代のように「若さ」を武器にすることはできなくなる。技術とか実績とか、周りから求められるものが違ってくるからだ。そうした様々な条件やしがらみのもとで夢を追い続けていくには、大変なパワーが必要とされよう。それでも、手の届く可能性があるのなら、決して諦めたくはない。

『夢は大きめに』いつまでも忘れずにいよう。

  

特集Ⅱ 「東筑と東筑魂」

・激動の6年間-私にとっての東筑- 広渡昭寿

・東筑野球部に感謝して 筒井敏幸

・東筑魂に後押しざれて 雑賀俊郎

・年とともに増す私の光 宮崎美奈

 

激動の6年間-私にとっての東筑-/広渡昭寿(48期)

私が東筑に在学していた時から50年の歳月が過ぎた。その頃のことを思い出すとき、強い郷愁の念に重なって、苦い思いも湧いてくるのを禁じ得ない。複雑な気持である。これは私個人だけではなく、私と同世代の人達に共通した感情ではないだろうか。

48期生である私は、昭和19年、戦争が最終局面を迎えた時期に旧制東筑中学に入学した。そして昭和23年、学制改革によって新制高校ヘスライドし、25年に卒業するまで6年間東筑に在学した。波乱に満ちた6年間であった。

最初の3分の1が、敗戦までの軍国時代である。学校は戦時体制一色となっていて、配属将校による軍事教練が重要な科目となり、歴史の授業を始め、ことあるごとに八紘一宇の思想を教育ざれた。学校からは軍の学校に入ることを奨励された。2年生になった途端、学徒動員令により工場へ行くことになり学校を後にした。私達はそれらのことに疑問を持つこともなく、使命感のようなものさえ抱いて積極的に参加した。

敗戦によって学校に戻れることになった。戦時教育の体制はすべて崩壊した。これからが次の3分の1の、戦後の混乱期である。学校には軍学校から復学した上級生、外地からの引揚げ、大都会からの疎開による転校生が在学生と入り混って種々の摩擦を起した。それまでは考えられもしをかった自由な風が吹き始め、押えつけられてきたことへの反発から生徒達は思うままに行動した。ささいなことをきっかけに、ストライキまで発生した。しかし現実は厳しかった。学生服はなく放出ざれた軍服を着、いつも空腹だった。闇市をほっつき歩き、その活気に触れたりした。教師達はしばらくは、何をどう教えたらいいのか確信がもてず、とまどっていたようだ。生徒達もあまり勉強しなかった。その気にならなかったのだ。

昭和22~23年頃から戦後の民主化が根づき始め、東筑も平和な時代に入り始めた。最後の3分の1の、まともな学校生活である。若い教師達が新らしい空気を持ちこんだ。男女共学が始まり、文化サークルや運動部が続々とス夕-トした。戦争末期には柔道部、剣道部くらいしかなかったので、信じられないような変化だった。ようやく勉強できる時代になったのだ。

こうした激動の時代を東筑で過した私は、卒業後上京して現在までがむしゃらに生きてきた。そして50年を経た今、私にとって東筑時代は何であったか、私に何を残したのかを考えてみる心境になってきた。

あの時代の原体験に根ざしていると思える幾つかの傾向が私の中にあるようだ。

戦中、軍事教練、学徒動員を始め日常すべてが絶対服従の集団行動の中で、私達は耐えることを身につけた。そのせいか、その後の人生の中で困難に耐える体質を持ち続けたように思う。マイナスの体験ではあったが、便いようによっては役に立つものだ。

それまで絶対視されていた、天皇のため国のために個を捨てるという価値観が、敗戦を境に全面的に否定された。信じこんでいた純な年頃の少年にとって、この体験はきつかった。頭では理解できても、心の底に傷あとを残した。同世代すべてがそうだとはいわないが、少なくとも私には権威を信じないという性向となって残った。これは現世的な成功にとっては負の要素であるが、私の生きる上での自負になってしまっているので仕方のないことである。

又、戦中、戦後、食べるもの、着るもの、読むものすべてが乏しい中で生きてきたので、物質的には豊かな時代になったとはいえ、必要ならばいつでも質素な生活をする自信がある。この傾向は同世代に共通している性向ではないかと思う。

こう書いてくると、私達の世代が乱世向きであり、耐乏生活をいとわないように聞こえるかも知れないが、決してそうではない。生活を楽しみ、物を享受することも知っている積りである。少年期、青年期の体験の影響というこの文章のテーマに沿って強調しただけである。

私達は、時代の大転換を中学、高校の時に体験し、その影響をまともに受けたという意味で、東筑百年の歴史の中でも特異な世代と言えるのではないだろうか。この問題を、私はこれからも考え続けて行きたいと思っている。しかし、考えることはそれとして、私の中にはあの日々をなつかしいと思う気待が強く湧いてくる。

戦中、同級生達と取り組んだ集団行動の情景…その時の彼等の真剣な表情……戦後の混乱期の、わるそう達の生き生きとした行動……次から次へと具体的な細部を思い出す。辛いことも多かったが、今はなつかしい日々である。

当時の紅顔の少年達も、50年以上経った今、頭に白髪をいただく年頃になった。

私は今、当時の同級生達に、あの時代とその後の50年を生き抜いて来たことへの、共感の挨拶を送りたい気持で一杯である。

◆平成8年、広渡志郎として「響難」(近代文芸社刊)を上梓。当時の思い体験をせきららに綴っています。

 

東筑野球部に感謝して/筒井敏幸(72期)

中学、高校と野球部の後輩の菊川君にそそのかされ、不憤れなペンを握る事となり多少後悔しながら、それでも皆様に聞いて頂きたい私の感謝の気持ちを文章にしております。乱文をお許し頂き最後までおつきあい下ざい。

昭和47年の夏、2年生の時、幸運にも恵まれ甲子園出場を果し補欠のキャッチャーではありましたが、以来、甲子園球児という肩書きを頂き、卒業後、早24年が経過しました。その間、折にふれ東筑高校の野球部であった事に感謝し続けております。

卒業後は福岡大学に進学し草野球に専念、この時も東筑の先輩と新日鉄野球部のOBチームに籍を置き卒業まで可愛がって頂きました。その後銀行の入社試験に際し、53年のオイルショック後の厳しい戦いにも最後は野球好きの面接官と巡り合い、無事入社。入社後は野球に感謝 し、三鷹にあるグランドヘ週末は必ず出向き、若いグランドキーパーが入社したと言われる程社内野球の手伝いをして過ごしました。その成果もあり、社内に多くの知人、先輩を得てその後の仕事に多いに役立ち良い結果を出せた事にも感謝しております。

私が野球を通じ学んだ事は、当時の監督、白神氏の一言です。「頑張った人間は、頑張った分だけ喜ぴが返ってくる」この言葉を記憶している部員が何人いるか今は解りませんが、野球が上手くなかった自分は他人の何倍も練習し、それでも結果を出せず、心から情ない気持ちで最後の夏の試合を終えました。試合後、監督のその一言が人生に於いて無駄な事など何もない、これからも何に向かっても頑張って生きていこうという強い意志を私に与えてくれました。

但し、白神監督が現在その言葉を憶えているかは疑問です。近いうちに、お尋ねしようと思います。

2年前に転職をし、現在は賃貸住宅物件の情報誌を出版している会社に勤務していますが、最近大変嬉しい事に野球部の多くの後輩と交流を持つ機会を得て、年齢を越えておつきあいしています。皆さん各々に個性的でバイタリティーあふれ、各分野で活躍をしている姿は頼もしくもあり、又、誇らしさも感じ圧倒されそうな気概を受けます。

今年1月には新年会を東京・赤坂で開催し20数名が集まり大いに盛り上がり、最後には長~い校歌を歌いました。私が最年長で、誰一人として一緒にプレーした人はいませんでしたが、同じグランドで汗にまみれ、涙し、白球を追い、アイボリーのユニフ才-ムに憧れ大切にした思いは年齢を越え、共通の友として時を過ごし、日常を忘れ、明日への活力になったものと確信しました。

遠く九州の地を離れ東京で働く各々には公私とも悩みもある事でしょうが、そんな全てを瞬間忘れ、折尾の町に居る様な錯覚を覚えた夜でした。昨年、喰田前監督の発案により東京東筑野球部OB会を発足しようと検討しています。忙しさにかまけて、実務が進みませんが年内には正式に発足させ、定例的な飲み会、草野球チームの結成等、実施したいと考えています。

発足実行委員は次のとおりです。菊川氏(76期)、上坂氏(77期)、垣内氏(77期)、宮田氏(77期)、河江氏(81期)、松永氏(84期)、吉村氏(85期)、西氏(86期)。全て独断で決めました。何卒宜しくお願いします。

各方面で活躍している面々ですが、全員東筑野球部に籍を置いた事に誇りを持ち、頑張っています。全員で感謝し、今後東京に出てくる後輩諸氏、学生も含め受け入れていき、各々が刺激を求めて集まる事の出来る組織を作りたいものです。

そして最後に今年の夏も僕等を楽しませ、ワクワクさせてくれた後輩に、感謝と心からの拍手を送ります。私の電子手帳にはいつからか忘れましたが福岡県高校野球速報の電話番号が記憶されています。そして6月に入ると朝日新聞が必需品となり、スポーツ新聞も離せないアイテムとなります。

勝負は時の運です。毎年出場する事は出来ない事も知っていますが、暑い夏、全国で働くOBにとって、皆さんの一勝はユンケル10本分に相当する栄養剤なんです。1日でも長くOB達に夢を見させて下さる事を切望します。予定どおりとりとめのない文章となりましたが、私にとって東筑高校の野球部で過ごした3年が人生の宝物であり、今現在もその力を借り生きていることに感謝し、日々暮らしていることを誰かに伝えたいと思っていました。この様な形で文章にする機会を与えてくれた菊川氏に感謝してペンを置きます。

お近くの野球部OBの皆さん、是非ご連絡下さい。心よりお待ちしております。ありがとうございました。

 

東筑魂に後押しされて/雑賀俊郎(76期)

「ト・ト・ト」と「ス・ス・ス」って、何かわかりますか?

タモリがラジオで言っていたことなのですが、博多弁や九州弁の方言の特徴をもっとも良く表している言葉だそうです。

「ト・ト・ト」とは、満員電車で隣の席が空き、誰か座ろうとした時「ここをとっとうと(この席を取ってるの)」の「ト・ト・ト」です。「ス・ス・ス」とは、冬隙間から寒風が入り込んだ時「すうすうす(スースーする)」の「ス・ス・ス」です。何故、「ト・ト・ト」「ス・ス・ス」になるのかと言うと、九州は暑いから短縮形になるそうです。それとは対照的に東北は寒くて口を大きく開けられないから、短縮形になるそうです。その番組のゲストは武田鉄矢で、タモリとの二人の斬新で軽妙な会話に、なるほどと私は膝を打ちました。

「きゅうしゅう」「キュウシュウ」「KYUSYU」「九州」…懐かしい響きです。『ふるさとは、遠くにありて思うもの』という言葉がありますが、まさにそうだなあと思う今日この頃です。東筑で青春を謳歌していたあの頃。夢中であっと言う間に過ぎ去って行きました。勝負するんだったら東京と心に決めて、東京の大学に入った私ですが…今、ことある事に色々な事が頭を駆けめぐります。

私が九州人である事を意識したのは、緑山スタジオのリハーサル室です。私は「愛の嵐」という、お昼の連続ドラマのADをやっていました。リハーサル中、主演の渡辺裕之さんが茨城訛りで何度も何度も演出家にNGを出されて悩んでいました。茨城弁は、標準語に限りなく近いのだがアクセントが微妙に違うのです。その時、渡辺裕之さんのアクセント指導に私が抜擢された。抜擢されたと言えば聞こえが良いですが、要は渡辺裕之さんの茨城弁をどうにかしろということでした。

そこで買ってきたアクセント辞典。それを見てショックを覚えました。私が東京に来て覚えて使っていた標準語は、ことごとく九州弁であり、隅々まで九州が染み付いた人間なんだなあと。渡辺裕之さんとマンツーマンでアクセントの矯正をしながら、私自身の矯正をする日々でした。その時から私は自分の中の九州を強く意識したのでした。

私は今ドラマの演出やプロデューサーをやっていますが、作品を作るときどこか潜在意識の下で「九州人」であることを意識している。例えば、台本打合せ。演出家やブロデューサーが意見やイメージを言い、脚本家がそれをまとめていく。この作業の課程で、必ず生じるのはイメージの徴妙な違い。

「梅」と言う簡単な言葉さえ、それぞれ作り手の生まれ育った原体験に根ざしているのです。さらにドラマ作りには、演出家やスタッフ等たくさんの人々が携わっています。演出家の想像した「完成図」がどこまで現実化するのか、いつも疑問です。しかしたまに、違った意見が入ったり、想像もつかなかったアイデアが入る事によって、「作品」がより良い物になる事もあるので、一概に悪いとは決めつけられない。演出家は常に自分の「完成図」を求め追求していき、自分の生き方、自分の経験、自分の歴史がいつも問われるのです。

思い起こしてみると、私の歴史にはいつも東筑が見え隠れしているのでした。7年程前、「家庭の問題」という番組の取材ディレクターをやっていた時の事です。仕事柄なかなか田舎に帰れないので、あるアイデアを思い付きました。「主婦のスペースワールド・ツアー」です。つまり、日頃ストレスの溜まっている東京の主婦たちをスペースワールドに連れて行き、家事や旦那の事や子供の事すべて忘れてストレスを大いに発散しようと言うものです。安直なアイデアとは思いましたが、恐る恐る会議に出すと全員一致でGOサインが出てしまいました。それに便乗して、私もちゃっかり田合に帰ることが出来ました。5年ぷりの帰郷でした。

この企画が通った理由として、スペースワールドという東京人からするとちょっと興味のある対象の物だったからだと思います。

しかし、スペースワールドに行き驚かされました。何に驚かされたかと言いますと、「熱い情熱」と「大きな夢」です。名前は忘れましたが、広報の方と親しくなり、一晩黒崎で呑み明かしました。その時の事を今でもはっきりと覚えています。その広報の方は、熱くこう語ってくれました。「スペースワールド自体は、ディズニーランドに比べれば規模的には小さいものです。しかし、目標はもっと違うところにあります。今、アメリカの宇宙大学に誘致を働きかけています。将来、北九州市に宇宙大学の分校を作って貰うためにです。そして北九州市を世界的な宇宙都市にしたい。アメリカのように医者と同じぐらいの確率で宇宙飛行士を育てたい。スペースワールドの施設内には無重力を体験出来る機械が揃っていて、宇宙飛行士を育てる事は不可能ではないんです。」

私は感動しました。スペースワールドはただのテーマパークではなかったのです。「死ぬまでにテーマパークを作って見たい」という私の夢の中の一つは、この時形成されたのかも知れません。そして別れ際に知ったのですが、広報部の方は何と東筑の先輩だったのです。

私にとって東筑とは、ぬか味噌に良く潰かった潰け物みたいなものです。私のDNAにしっかりと沈殿して染み付いているのです。それはもう簡単には落とすことは出来ない。そして、私はずっと東京にいるつもりです。東筑魂に後押しされ、今日も見果てぬ夢を追って…

 

年とともに増す私の光/宮崎美奈(84期)

私は、昭和61年に東筑を卒業し、その年に東京の大学に入学した。高校3年になって、自分の進学について考えたとき、私は迷わず東京の大学を選んだ。しかも女子大を。東京、女子大、多分このニつは私にとっての憧れであったのだろう。今まで経験したことのない未知のものに対する憧れの気持ち、これが私に進路を決めさせた。何とも単純な、しかしその頃の私にとっては一大決心であった。

大学入学の年に父親の東京転勤が決まり、家族みんなで東京に住むことになった。以来東京に住んでもう10年以上になる。この10年の間に、就職そして結婚という、大学進学以来の、私にとっての人生のターニングポイントが訪れた。就職について考えたとき、私の気持ちは九州の方向を向いていた。あれはど憧れて東京に出て来たのに福岡で就職したいと考えたのである。もちろん東京での大学生活はとても楽しいものであったし、東京というところは様々な情報や、流行のファッション、お店などいろいろなものがあふれていて、とても刺激的なところであった。

が、のんぴり屋の私にとっては、心落ちつく場所ではなかったのかもしれない。しかし、私は結局東京で就職した。その会社は福岡にも支店があり、入った当初はいずれは福岡に、という気持ちもあったのだが、結局結婚までの2年半、東京での勤務を続けた。そしてその仕事がきっかけで結婚をすることになった。相手は生まれてからずっと東京で育った人である。仕事の内容からして、これから先地方に転勤ということもありそうにない。しかし結婚を決めた時、私の心に迷いはなかった。自分でも驚くほどの決断の良さであった。

今、私は東京の郊外に住んでいる。多分、一生この地に暮らすであろう。

自分で考え、そして自分で決めた事だ。そのことに迷いはない。しかし、少し寂しくなることもある。そんな時、本当に毎日が楽しくてきらきら輝いてた高校時代のことを思い出す。

私にとっての高校時代は、一言で言うならば仲間との一体感を感じられた時であった。特に思い出すのが、野球の応援、そして体育祭である。

野球の応援、中でも記憶に残っているのが、高校3年の時の夏の県大会準決勝である。その試合は、野球部の3年生、応援部の3年生、そして私たちの高校生活を締めくくる試合であった。試合は東筑劣勢のままどんどん進んでいき、ついに最終回まできてしまった。応援部の3年生は、みんな汗と涙で顔がぐちゃぐちゃになっていた。私も涙が止まらなかった。負けるのが悲しいのではない。もうすぐ私たちの高校時代最後の夏が終わってしまう事の寂しさ、野球の応援が出来たからこそ、とてもすばらしい思い出が出来たという満足感、いろいろな気持ちが混ざり合った涙であった。あの日、私を含む東筑側の応援席に座っていたすべての人が一つになって応援しているのを私は感じた。あの時の空の色、熱い風の匂いを私は一生忘れないと思う。

もう一つの思い出は、体育祭。学年対抗で行われる体育祭は、やはりみんなが一つになっているのを感じられる大きなイベントであった。特に高校3年の時の応援合戦の練習は、受験勉強も忘れ、毎日みんなで振り付けを考え、衣装を作り、練習をした。これも忘れられない思い出である。

毎日が本当に楽しくて、学校に来るのがいやだなんて思ったことはなかった。試験や勉強は決して好きではなかったが、仲間がいて、その仲間と一つになれる時があったからこそ受験勉強も乗り越えられたのだと思う。私はすぐにくよくよと悩み、弱気になってしまうところがあり、高校3年の時も、受験のことで何度もくじけそうになった。しかしその度に励まし、勇気づけてくれる友達がいた。今でも大切な親友である。

そしてこれからもそうであろうと思う。特にこれから先ずっと東京で暮らすことを決めた私にとって、この光は年が経つごとに重みを増して行くような気がする。大切にしていきたい光である。

 

平成8年度懇親会を振り返って…西橋幹俊(66期)

前期から受継いだ当番期を、皆様のおかげで無事終了することができました。ご協力ありがとうございました。

振り返りますと、この一年の歩みはいくつかの段階を経ています。まず、九州本部より7人が指名されました。基本的にはこのメンバーが中核となります。わけても、梶原隆博君は、本番を前にして名古屋転勤となる状況下で最後までその任を全うしました。次に指名メンバーに加えて関東在住者へ連絡を取り、定例会議を持つことになります。ほぼ月に一回は土曜日に集まったでしょうか。私もこの段階から加わり何人かの級友を誘うことになります。

こうして参加メンバーが増えていきましたが、その絶頂期を迎えたのが懇親会当日です。約30年をへだてて会う顔ぶれや九州からかけつけた10名近くの同期も交えて、直前の諸々の準備から本番の進行へと、当番期の仕事にあたっていきました。この懇親会で、「懇親」した気分はほとんどありませんが、そのあと「我々同期の懇親会」が続くことになります。

さて、「懇親会その後」ですが、この過程でできたつながりを続けたいと思う反面、「一生に一度の当番期」という求心力の延長上に「ある種の義務感で」集まることはさけたい、という思いがありました。事務局会計という必要最低限の役員配置はしたものの懇親会の準備のような態勢はとっていません。そんな中、忘年会から新年会、同期の久田博幸君のイベントヘの参加等を経て、いま、秋の鬼怒川温泉一泊旅行を計画しています。

このような中で「やりたいことをやれる範囲で、しかも効率的にできる体制」が必要かなと改めて考えているところです。

各期の自発的な活動と東京東筑会全体の活動とは相補的なものだと思います。66期の活動を基盤に、東京東筑会そして各年度の懇親会設営への協力をしていきたいと思っています。

 

76期同窓会だより 「飛翔五三(ごみ)の会」 近況報告/大庭繁美(76期)

「フレーフレー東筑

フレーフレー東筑」

エールの大きな声が、夜の渋谷センター街に昨年も響きわたりました。76期の東京同窓会である「飛翔五三(ゴミ)の会」は、平成7年春に初めて開催されましたが、今年11月には4回目を迎えます。今や、名簿記載者は90人を超え、政財界も揺るがすほどの(?)大集団に成長しつつあります。

きっかけ

平成6年10月、新聞を隅々まで読むことを趣味にしている愚妻が、朝日新聞夕刊に「東京東筑会」の案内記事を見つけました。私は「現役女子大生とお話しできるチャンスだ」と、以前から懇意にしていた同期生の西本君を誘い、出席することとしました。当日、76期は他に3人が来ており、5人で同期生の消息を話しているうちに、40人近くが東京に居ることが分かりました。そこで、次回は同期だけの同窓会をやってみようと、その場で話がまとまりました。

準備

まずは、東京に出てきている同期生の連絡先を調べなければなりません。クラスによっては既に名簿を作成していましたので、一人一人に電話をし、他の同期生の連絡先を知らないかを確認していきました。また、東京に来ている噂はあるのですが、連絡先が分からない人については、九州の実家に電話をし、教えてもらいました。こうした地道な作業を数人で分担して進め、数ケ月後には約90人の名簿が完成しました。40人ぐらいは東京に居るだろうと思ってはいましたが、その数の多さに私達もビックリしました。

会の名前は、私達が高校3年生の体青祭でキャッチ・コビーとした「飛翔(ヒショウ)」と、「昭和五三年卒業」をあわせ「飛靭五三(ゴミ)の会」と決めました。また、会長は高校時代から超有名人である西本君に、事務局はなにかと几帳面な田辺君にそれぞれお願いしました。

第1回

第1回は平成7年5月27日に、新宿駅西口付近のスパゲッティー専門店で開催しました。総勢23名が出席しましたが、卒業以来会っていない友達も多く、最初はやや緊張した雰囲気でした。しかし、お酒もはいり、各自の近況報告も終わると、大変な盛り上がりをみせ、二次会が過ぎても途中で帰る人もなく、急きょ三次会の店まで用意するほどでした。そのうちの一人は我家に泊まりに来て、外が明るくなる時間まで、高校時代の昔話をしたのを覚えています。

ひとつ残念だったのは、女性の出席者がいなかったことです。そのため、2回目以降は女性会員に対して、しつこいほどの誘いをすることとしました。

第2回~第3回

第2回は平成7年11月11日に、赤坂のホテル・ニューオータニ内のスベイン料理店で開催しました。出席者は、待望の女性5人を含む35人でした。二次会は東筑の先輩が経営しているスナックを予約していましたが、ほぼ全員が参加したため、超満員で座りきれず、立ったままでお酒を欲んでいる人もいました。この日も三次会・四次会と続きました…。

第3回は平成8年11月9日に、渋谷センクー街のイタリア料理店で開催し、女性6人を含む26人が参加しました。二次会は全員でカラオケ・ボックスに行きましたが、特に女性参加者が髪を振り乱して、若々しく熱唱する姿が印象的でした。この日の夜も遅くまで飲んで、歌って騒ぎました。

今後の予定

これまで、毎年1回の懇親会を開いてきましたが、せっかく様々な業種・職種の同期生がたくさんいますので、異業種交流会・勉強会なども企画していく予定です。また、ゴルフ・コンペなどを兼ねた泊まりがけの旅行もやってもらいたいという意見もあるので、現在計画中です。

今後は、もっと多くの人達に幹事をお願いし、さらに幅広い交流が出来るように努めていきたいと思っています。

 

大塚嘉雄君をしのんで/北里欣也(43期)

つい先日大塚嘉雄君の計報を受けた。

彼は東京東筑会では、私と同じく期別幹事として名を連ねていた。ただし私より2期下の45回卒業生である。

この同窓会での、私と彼との出会いほど不思議なことはなかった。昭和54年10月京王プラザホテルにおける第1回目の会に、私は勇躍出席した。しかし私の同級生は一人も出ていなかった。

わたしは念願の同窓会に裏切られた思いで、すごすごと会場を去った。そして何気なく会の進行状況を回想していると、ふと、思い当たることがあった。その色浅黒く痩せて背の高い男は、壇上に立って大声で言った。

「わしは柔道ばやっとりました。そして予科練に行ったとです」何かが私の脳裏をかすめた。そしてようやくあの頃を思い出した。その夜当日の名簿をめくって、その人物が大塚嘉雄君であることをつきとめた。

「もしもし、覚えとりますか、ぼくは北里です。今日の同窓会に出とられたでしょ」

「ひえっ、北里さんちですな。ああたは東京に来とられて、今日の同窓会に出とられたとですか」と、懐しさのあぷれる声だった。

こうして同級生に会えなかった私は、同じ社宅から通学していた2級下の大塚君に出会ったのである。この出会いの後、私は悲喜こもごもの思いを味わったが、つぎの一事だけを書くことにする。

「北里さん、わしゃああたに打たれたことがあるとですよ。だけん、忘れられまっせんたい」と、彼の『一本松会』と言う同級会に参加した私に言ったのである。

まさか、と私は思った。あの時代の鉄拳制裁は特別な行為ではなかったとは言え、この私がその一人だったとは。そして何と都合よく記憶を消していたことか。通学路の薄暗い杉林の中で、数人の上級生が背の高い一人の下級生を取り巻いていた。私は跳ぴ上がって大塚君を殴りつけた。いつも高々と柔道衣をかついでいた彼は、上級生の目には目障りだったのかも知れなかった。

そんなことを私はようやく思い出した。しかしこの第1回同窓会のおかげで、やがて私は正真正銘の同級生に出会うことが出来るようになった。

大塚君、私はあなたに心から感謝しています。もうあなたの謦咳に接することは出来ません。大切な下級生を失って、呆然となっています。どうか安らかに眠って下さい。生きている限り私は、あなたを忘れないでしょう。

(平成9年8月)

 

第15号

(1997年 平成9年 9月)

第15号