新会長ご挨拶 -訪中経験から-/東京東筑会会長 古岡  勝 (36期)

 私は中国が大好きで、戦時中は6年強を中国で転戦し、戦後の訪中は既に50回を越えている。 今回3月末に中国側の許可が下り、年来の熱望が実現し、日露戦争で有名な二百三高地、東鶏冠山北堡塁、望台砲台等を見学することができた。 第1回は昭和11年東筑中学恒例の鮮満修学旅行、第2回は昭和16年陸軍予備仕官学校の修学旅行、そして今回が第3回目である。2回目まで完璧に保存されていたが、長年月の風雪による侵蝕で崩落し、草木に覆われて原型を留めず、堅固なコンクリートだけが僅かに昔を偲ばせていた。

5月17日の毎日新聞に『中国政府が戦後初めて日本人記者団に、ロシア軍の堅固な要塞東鶏冠山北堡塁等が公開された。 直前になって日露戦争の激戦地二百三高地の取材が取り消された。』 二百三高地からは、旅順の軍港が眼下に一望されるため、取材が取り消されたものと推測される。

現地案内人によると、日清、日露の戦いにより被害を被った現地の人々は、今日でもなお対日感情は極めて悪いので、言動には十分留意されたいとのことだった。

私の友人が北京の日本大使館に家族同伴で赴任中、家族の小学生女児に対して中国人の子供が、『私の祖父は日本人に殺された』となじられた。 過去の怨念が小学生の子供に受け継がれている実態を知らされ愕然とした。

私たちの年代は遺族を含めて戦死者の霊を弔うため古戦場を訪れて、読経と焼香・供花のツアーが多い。 戦友としては当然のことだが、これを取り巻いて眺める中国人の心境を逆なでしていることには無関心である。

中国には日本語を解する人が意外に多く特に東北地方(旧満州)に多い。 言動には細心の注意を要する。

今回訪中目的の世界最大の三峡ダム建設状況を見ることが出来た。 このダムの完成により10年後には、米国・EU共同体・中国の三強大勢力の拮抗する世界が到来するのではなかろうか。

さて、今回皆様のご推挙により伝統ある東京東筑会の会長を務めることと相成りましたが、偉大な先輩の跡を受け浅学非才の身で内心忸怩たるものがありますが、副会長さん他皆様の協力をいただきね東京東筑会の名誉ある伝統を汚すことのないよう努力致す所存です。 皆様のご指導をお願い申し上げます。

 

新会長へ贈ることば/名誉顧問 三原 朝雄 (26期)

平素から東京東筑会の活動にご協力頂き有り難うございます。

東京東筑会会長を退くにあたり一言ご挨拶申し上げます。

返りみますれば東京に東筑会が発足以来、今日まで長きにわたり名誉ある会長職を努められましたのも故白石副会長・鴛海前副会長等の献身的な支えのお陰と深く感謝申し上げる次第です。

東京東筑会発足当時は等当然ながら名簿も整理されておらず、細々とした縦横の繋がりに頼っての連絡しか出来ず、幹事の方々の苦労も並み大抵の事ではありませんでした。

川上幹事長や小御門事務局長のご苦労もあり、ようやく昭和54年の総会を57期が担当して、第1回新生東京東筑会としてスタートし、今では1,800名の名簿を3年に一度発行できるほどの規模になりました。 毎年会報も発行され、年中行事として新年会をスタートに総会、新入生歓迎会、懇親会、春秋2回のゴルフコンペ等を催しています。 2ヶ月に一度の幹事会を中心にその活動は他の高校同窓会では考えられない活躍ぶりであります。

その様な活動の中で18年間も会長が出来たのは幾多の後輩のお陰であったと感謝しています。

この度、古岡勝新会長という得難い人材が後任として選ばれ、私も安心して退く事が出来ます。

古岡新会長と私とは肝胆相照らす仲であり同志でもあります。今後如何なる協力も惜しみません。

古岡会長、長畑副会長、安永副会長の新体制のもと東京東筑会が益々発展することを念じ、重ねてこれまでの皆様の御協力に対し感謝申し上げながら退任の挨拶にかえさせて頂きます。

 

特集Ⅰ 「お世話になった先輩、後輩、仲間達」

 

玄海育ち どげぇち こげえち物語/北條民子(53期)

先日ふとしたことから、おかしなことを考えて悩んでしまった。それは北九州の海のことだ。一体どこからどこまでが響き灘で玄海灘なのだろうか……と思ったのだ。皆さん、お笑い召さるな!北九州で生まれ育ちながらそれがまるでわからない。ことの起こりは、ぼんやリロード・マップの北九州のところを見ていたときのことで、その地図によると、宗像の玄海町のところからず-っと西へ玄海国定公園一帯、壱岐・対馬の辺りまでが玄海難で、若松半島の北側から門司・下関そして山陰線に沿って上り、観音岬・神田岬辺りの海が響き灘となっている。ところが、ご存じ「無法松の一生」では、小倉生まれで玄海育ち……という。これ響き灘じやないの?まあ玄海灘のほうが歌詞としては迫力があるかなどと思いながら、北九州の親しい友人に電話で聞いてみた。彼女は明快に不明解なことを言った。「どこからどこまでが玄海灘とか響き灘とか、あんた、地元のもんはな-んも考えんよ。み-んな海たい。若松の海、芦屋の海たい。大外は日本海よ。」そこでこちらも小さなことは、どうでもよくなって、「そうよね」とおかしな納得をした。

ところで、玄海灘・響き灘そして遠賀川はたまた川筋気質の堀川などに育まれた東筑OBの「侠気」も故郷を離れ都会での暮らしが長くなると少しづつヤワになってくる。まして大組織の中で活躍するとき、普通概念に押し流されて、生まれ故郷の匂いなど影を潜めてしまう。しかし無くなっている訳ではなく、心の奥にしっかり息づいていて何かの機に顔を出す。北九州の男が集うと必ず「無法松の一生」や「花と竜」が歌われるのもその表れであろう。

この北九州独特の侠気を都会でカッコよく出している人はとなると、そうザラにはいないと思うが、濱中昭一郎先輩(46期・日本通運㈱社長)は、その稀有なおひとりであろうかと思う。知性と野性味が、ほどよく混じりあい適度のスゴ味と迫力があり、スケールが大きく、そのうえとても優しい素敵な先輩だ。それから、前副会長の鴛海正先輩にもそれを感じる。東筑中学のころ、ケンカの強さは群を抜いていたとのことだ。いつぞやセピア色になったお若いころの写真を見せていただいたことがあるが、なかなかの男前で、慕っていた女学生も多かったことと思う。

ケンカといえば、いささか旧聞に属するが、あるとき私の店標野でケンカ騒ぎがあった。主役は先輩お二人。原因らしい原因などはとんどない。単に「気に喰わねえヤローだ」という思いが高じただけ。小学生でもあの程度の理由ではケンカしない。お二人は初対面だったが、どちらも強烈な個性の持ち主で私が紹介した時点で、もう「フン」という感じだった。お酒が入るにつれ、一触即発の雰囲気となり、私が間に入っているうちはよかったのだが、その場を離れた途端、とっくみあいが始まった。お互いメガネなど吹っ飛ばし、「ブッ殺してやる」とワメキ散らし大変な騒ぎ。運良くか悪くかちょうど元野球のビッチャーだった方にカを貸していただき、やっとの思いで鎮火?したと思いきや、私の止めるのも聞かず、双方それぞれ110番通報をしてしまった(普通は私のほうがするものだと思うけれど…)。早速パトカ-のお出ましとなり「とにかく一緒に来てもらいましょう」と、後部座席に呉越同舟で乗せられて築地署ヘ。そこで何と!両先輩は「まだ決着はついとらん、道場を貸してくれ」といって取り調べの警察官をあきれさせたという。ちなみに私はといえば、殺し合いになっては大ゴトと一方の先輩(身長が180cm以上)の両手首を必死で押さえていたのだが、翌日電話があり、「お前ざん、一体どんな力しとるんだ。手首が腫れ上がってシャツのボタンも止まらん。時計もハメられん」とのことだった。火事場ならぬ修羅場の馬鹿力だったのだろう。お二人とも数十万もするメガネがモール細工のようにヒン曲がり、お互いに「訴えてやる」と息巻いておいでだったが、さすが東筑「言うばっかり」であった。何ともアイラシイ先輩方ではある。

川筋育ちはヘソ曲がりも多い。元東京東筑会事務局長の末森多賀生さん(59期)は、その筆頭だろう。頑固だが決して頑迷ではない。現在の東京東筑会の基盤は彼の尽力によってしっかりした形になったといっても過言ではない。ヘソの曲がり具合が似ているのか家族ぐるみのお付き合いをさせていただいている。彼が歯科医師として卓越した技術の持ち主であることは周知のとおりだが、一層の向上を目指して努力を続ける姿勢には敬意を表する。お金より義理人情に重きを置くこの歯医者さん、「好かんもんの口ん中なんか診らんバイ」と徹底している。治療をしてもらった人は好かれているのだ。

今度は、おおらかな話をしよう。これもだいぷ前の話になるが、九州での同窓会に出席したときのこと。翌日、若松でゴルフをということになり、たしか4組ぐらいだったと思うが、私は光栄にも三原朝雄大先輩と同じ組にしていただき、張り切ってスタートした。そして3ホール目にきたときだった。背広姿の中年の男性が息せききって現れた。地元の秘書の方らしかった。先輩は、ティグランドにドライバーを立てて、そのうえに両手を乗せた格好で「一体なんか?」と落ち着き払って尋ねられた。「先生、探しましたバイ、こげな所でゴルフしょんなさる場合じやなかでっしょうが。今日は○○さんの葬式があるとでしょうが。」「あ……あれは今日かあ……、そんならハーフ廻るまで待っとれ」「なんばいいよんなすな、葬儀委員長でっしょうが。遅れるワケにはいかんです」と秘書氏は息巻いている。「あ~あ、この天気になあ」と、雲ひとつない空を見上げて、何度も嘆息されながら大先輩は秘書氏に連れ去られた。大変不謹惧ではあるが、おかしさがこみあげた。葬儀委員長を務める日であることを忘れていらした大先輩は確かに迂闊ではあるが、なにかとても気の毒で切なかった。残された三人が大変残念に思ったことはいうまでもない。現在たしか87歳におなりかと思うが、今なお矍鑠(かくしゃく)としておいでの大先輩は、雄々しさと優しさを兼ね備えられた素敵な九州男児、末永いご健康を心から祈りたい。

聞くところによると、母校は校舎を浅川通りの学園都市に移転するという。時代の要望でやむを得ないことかもしれないが複雑な思いである。第一、懐かしくなくなる。あの古色蒼然として、ゴチャゴチャした折尾の丘の上がいい。

何となく今ひとつアカ抜けない我々東筑OB(アカ抜けないのは私だけかな)を生んだあの校舎が自分だけアカぬけしてはイヤだ。ヘソ曲がりの川筋女はそう思う。深謀遠慮型などあまりいなくて、大体において詰めが甘く、いさざか野暮ではあるけれど、決して野卑な人はいない東筑OB…(ここで校歌)。

よきかな東筑、うるわしく、東筑東筑、寛かなれ、ああ東筑。いいたい放題、どうぞお許しください。

 

縁は異なもの味なもの/川上祥登(57期)

現在5月3日の金曜日午後8時すぎ。連休の真只中でありながら事情があって出勤していた事務所のテレビで、日頃は帰宅していない時間のため、滅多に見られないテレビ朝日の「ミュージックステーション」を見るとはなしに見ている。今や最高の人気を誇るSMAPやルナシーなどが出ている。相変わらずの人気番組だ。

我々レコード業界ではもっとも権威のある音楽番組で、これに出演するかどうかでアーチストパワーが倍加し、そこで歌うかどうかでヒットに大きな差が出る。

そのため、この番組のプロデューサ-はアーチストはもとより、レコード会社プロダグションからすると天皇にも匹敵する実力者といえる。

15年ほど前だったが、小生が営業の責任者をしていた頃、新人アーチストのコンベンションで、ある人をテレビ局のプロデューサーで大変力のある人だと紹介されたことがある。

渡した名刺を胡散くさそうに眺められ、軽くポロシャツのポケットに放リこんだその人は、髭をはやした赤ら顔で、いかにも業界人らしいその態度に圧倒されたものである。

そういうことがあった2力月ほど後だったと思うが、東京東筑会の懇親会で壇上から挨拶をしていると、どうも見覚えのある顔があり、誰だったかなと思いながら人の輪の中に入っていくと59期の北村憲雄君が「先輩!弟の英一です。テレビ朝日に勤めていますので、よろしくお願いします。」

そうだ、あのときの大プロデューサ-だと思いながら「一度会ったことがあるよネ」といったが、案の定、覚えてなくて、「テイチクの川上というのだが」といってもピンとこない風情であった。

しかし2級下の北村君の弟ということは大後輩である。それからというもの、可哀想だが先輩と後輩、小生の前では大プロデューサーも形無しである。それでも件の「ミュージックステーション」のプロデューサーとなった彼の権威は凄く、立派な後輩をもった小生の顔もおおいに立ったものである。おかげで「ミュージックステーション」はフリーパスということで、随分世話になったし、一昨年の番組の忘年会などは森高千里と有賀さつきの間にはさまれて乾杯という図になり、ご機嫌な夜であった。

東京東筑会がなければ4歳も年下の後輩に今でもペコペコしながら日参していたかもしれないと思うと、縁は異なもの味なものといえる。東京東筑会バンザイ!61期の北村英一君ゴメンナサイ。学生諸君はじめ、まだ参加したことのない皆さん、このようなケースも含めて東京東筑会には多士済々、おもしろい人が沢山います。努めて参加してください。

先輩の暖かさと「ご縁」/末松義規(73期)

「ええよ、俺んとこで面倒みちやろう。末松君、俺んとこ来いよ!」

電話口で聞こえる北九州弁の三原朝彦先輩(64期、現衆議院議員新党さきがけ)の野太い声。この声に私は神様を見る思いがしました。思わず手を合わせ、「本当にありがとうございます!お世話になります。」昨年7月のことでした。

こうして、私は三原先輩の政策秘書(第3公設秘害)にしてもらいました。さらに、三原先輩より「君の地元で衆議院の選挙準備のために自由に活動しとけよ。俺んとこは気にせんでええから。」ありがたいお言葉でした。

日本の将来に自分なりに危機感を覚え、2年前に無鉄砲にも外務省を飛ぴ出し政治家への道を歩み初めて1年。

衆議院の総選挙準備(東京第10区、国立市、国分寺市、小平市、田無市、保谷市)のため、毎日歩き続ける日々が続いていました。(これは、今も同じ状況です。)外務省を辞める決心をしたのが2年半前の37歳のとき。14年間の外交官生活を経た、三兄の父親の決断でした。

政治活動には、お金もかかります。そのころは無職の毎日。37歳の外務省の退職金は微々たるもの。親戚や親友から借金をし、ボランティアの方々のカを借りての準備活動の開始でした。そんな中、日々、銀行口座の預金残高は滅っていく、一方、自分の思いを受け入れてくれた家族の生活は保障しないといけない、預金通帳を見ながら、日一日、自分の首が絞められていく思いがしていました。

それが、三原先輩の政策秘書にしてもらったおかげで、少なくとも生活費については心配しなくてよくなったのですから、本当に救われた思いがしました。

三原先輩には東筑高校、一橋大学(ゼミも同じ)というご緑を機に、外務省時代にもいろいろとお世話になっていましたが、私が窮状に陥っていた、まさにこの時期に助けていただきました三原先輩のご配慮、それを私に意識させないようなさわやかなお人柄をしみじみと感じ、とても感謝いたしました。

「これも、東筑高校で学んだというご縁があればこそ!」という感じをもっているわけですけれども、この「ご縁」ということについて、最近考えたことをお話ししたいと思います。私は、14年間、外務省という役所組織の中にいましたが、当然ビラミッド組織が、がっちりした機能的な組織でした。役所に限らず、会社などの組織体はみなそうですが、コミュニケーションはどうしても最後は、指揮・命令です。そうすると、人間を一機能としてみる癖がつきやすく、人生の奥底にある「人間社会のご縁の尊さ」についての機徴を感じることがなかなかできなくなってしまうのです。

私自身がそうでした。役所にいるときは、「ご縁」などということは、はとんど意識にありませんでした。それが役所を辞め、役所という甲羅を脱いで”末松”という個人に戻ったときに 初めて、この「ご縁の世界」が見えてきたのです。

人間、一人で自信を持って生きているように見えますが、どんな人でもそれはど強くはありません。やれ、交通事故だ、病気だというような理由で体が不自由になったり、上司などから嫌われて勤務環境が一変しただけで、とたんに気弱くなってしまうのが人間の常です。人間一人で生きているようでいて、本当は大自然や多くの人々のおかげで、自分が生かされているのが正直なところだと思い始めました。「そこから、感謝という思いが出てくるのだなあ」と感じ、とても新鮮な気がしたのが印象的でした。

この「ご縁」の話をもう少し続けましょう。今、地球上に57億の人間がいます。私たちが一生の間で、多少のご縁も含めて話ができる人の数はいくらでしょうか?

普通の人でせいぜい1万人が限度でしょう。このうち、1年間に会って話す人は、500人もいないでしょう。その中で、親友という人は何人ぐらいいるでしょうか?10人以上いる人は、なかなかいないのではないでしょうか?家族などを含めても、いつも話している人の数は、非常に限られます。このように、人の一生といっても、とても小さな人の輪の中でグルグルと回りながら人生を終えていくのが、私たちの人生です。そう考えますと、仏教で言うような「ご縁」という言葉がとても大切に思えてくるのです。

「この世でお会いできる方は、やはリ神様の決めたご縁の中で、理由があってお会いさせていただいている方なのだなあ」という気がしてきます。そのご緑の中に、私たちの人生の成功の種や失敗の種がぎっしりと詰まっているのではないでしょうか。

逆にいえば、「ご縁」のないところに私たちの人生の真実はないと言い切ってしまっていいのではないかと思います。

「東筑」で結ばれた私たちのネットワーグも大きな「ご縁」の一つです。私もこれを大事にしていきたいと思います。最後に、最近開いた「末松義親を応援する会」でも、多くの東筑の先輩・後輩の方々に大変なご助力をいただきました。この場をお借りして、改めて皆様にお礼申し上げます。

我が心の恩師/澤邊大輔(86期)

昭和60年冬のことであった。中学3年生であった私は、受験勉強にとりくんでいたある晩のこと、父親が「お-い、大輔、お客さんぞ。」と私を呼んだ。「こんな時間に誰やろう?」と思いつつ玄関に行くと、眼鏡の奥に眼光鋭い細身の男性が立っていた。「東筑高校野球部監督の喰田です」 これが苦しみと感動の3年間のはじまり、喰田監督との出会いであった。「しっかり勉強しよるか」「鍛えてやるからウチへ来い」と言われて、「ハイ、ハイ!」と緊張して答えていた。「これをやるから頑張れ」と手渡されたのは、監督自筆のサインボールで「三当四落」と書かれていた。「3時間しか寝らんで勉強したら合格する。4時間寝たら落ちるぞ」と、そんな決まりがあるのかなと思いつつ、ボールを頂き、机に向かった。そして私は毎日睡眠時間だけは十分にとって、かろうして東筑高校の一員となった。

4月になり、「さあ、高校野球だ」と心躍らせてグランドに行き、打撃練習か、守備練習かと期待したのもつかの間、「1年生は外野をダッシュ!」と監督さんの指示。まあ、最初は仕方ないかと走りはしめたが、1時間たち、2時間たち、走り続ける私たちを見ていたのかどうかはわからないが、内野での練習に熱心である。走路はダッシュのために畑のようになっており、皆、フラフラである。あたりも簿暗くなってきたころ、ようやくキャッチボールの指示が飛ぷ。体はフラフラでも、ようやくボールをもてる喜ぴでキャッチボールをしたことを憶えている。このような新入生への巌しさは、監督さん曰く「やる気のない者をふるいおとす。」とのことだが、後日判明した事実によると、どうやら走らせていることを「忘れていた」らしい。

そして、残った我々を次に待っていたのは、実戦における東筑野球、”喰田野球”の洗脳、いや徹底であった。周知のとおり県立高校であるが故の部員数の問題や、個人的レベルにおいても他高と比して、劣っているのが実情である。そのメンバーを鍛えに鍛えてまた適材適所のポジション配置によって見事な「チーム」に仕上げていく。

もちろん、相手チームの洞察力についても固じである。喰田野球とは、ソツなくムダなく、相手のスキを逃さない、こちらはスキを見せない、という相手にとってはこの上なくイヤな野球である。

当然、我々部員にとっても、スキを見せられないイヤな監督さんなのであった。正直なところ現役時代には感じられなかった監督さんの”眼”を卒業して年が経つにつれて実感している。

3年間の私の監督さんに対する心の描写は、「厳しくて本当にイヤだ」というものから、3年生の頃には「監督さんのために何とかしよう、何とか勝とう」というふうに変化していた。「なんでこんなキツイ練習を……」と何度思ったことか。そして「なんて厳しくてイヤな人だ」と思ったことか。それが、「監督さんのために…」と思いはじめたのは、野球に取り組んだ我々に勝つ喜ぴを教えてくれたからであろう。この厳しい”眼”のもとで鍛えられた私たちは、昭和62年の県大会を制し、全国大会にコマを進めることができた。そして、監督さんの言う「甲子園に行くその過程が甲子園だ」という言葉。現役時代に聞いた私は「行けなかったらそれで終わりだ」と思った。オール・オア・ナッンングであった。

そして、高校野球が終わり、折にぶれこの言葉について考えてみた。そして私なりに解釈してみた。それは目標が出来るとそれに向かい精進する。その時の人間とは非常に集中して取り組んでいる筈である。たとえ、結果として目標達成がなされなかったとしても、精進した者はひとまわりも、ぷたまわりも成長している筈である、いや成長している。そして同時に精進していく強い意志も備わるのである。

私は高校を卒業し、大学、会社と今だに野球にとりつかれている人間であるが、また野球を通じて成長させてもらった人間であるが、高校3年間を抜きにしては何も語れない。

 

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特集Ⅱ 「私の趣味」

陶芸にひかれて  本庄 巌

少年野球を育てる  畠山和正

アメリカンフットボールの魅力 馬場祐三

私とフォ-クダンス 樋口洋子

ロックおじさんの大逆襲 黒田克樹

一生芝居に魅せられて 小林晶子

和太鼓の楽しみ 伊村杏子

 

陶芸にひかれて/本庄 厳(52期)

私の趣味はやきものですが、作るほうが主体なので、正確には作陶というべきでしょうか。

私達にこの趣味があることがわかると次のような質問をよく受けます。いつ頃からはしめているか、何焼きに属するのか、そして、作ったやきものはどうするか、などです。

やきものを作りはじめたのは、大学卒業の年でした。私は医学生でしたので小倉記念病院でインターンをつとめるかたわら、当時折尾則松の御所の尾におられた陶芸研究家、美和弥之助先生に、やきものの手ほどきを受けました。先生は上野焼の権威で、これに関する優れた著作も残されています。ここでロクロと陶芸の基本を教わりました。

その後は医師としての就業時代に入リ長く陶芸から離れていましたが、約20年前、ドイツ留学から帰った頃、無性にやきものがやりたくなり、家内を誘って陶芸を再開して今日にいたっています。

窯は初めは灯油窯、今は電気窯を便っていますが、私はやはり九州の唐津焼や伊万里風のものに惹かれ、自然、作品もこれらのものになります。一方、家内は黄瀬戸や織部あるいは韓国風のやさしい感じの焼きものをよく作ります。

さて、こうして作ったやきものの行方ですが、これまでに自宅展を6回、大阪や東京で画廊展を6回しました。自宅展では作品を無科でさしあけますが、画廊展では会場費を出すために値段を付けました。私達が作ったやきものを喜んでくださる方々がおられることはたいへんうれしくまた励みになります。

これからは自宅展だけでやってゆくつもりですが、今年の秋にも京都の自宅で一日だけの二人展をいたします。おついでがあればお立ち寄り下さい。

 

少年野報を育てる/畠山和正(52期)

6回まで6対6の同点で迎えた7回(最終回)の表、猛打爆発し大量7点を挙げ13対6で我が「友和ペガサス」が、春季大会第1回戦を快勝した美酒に酔いながら、この原稿を我が家の満開桜の下で書いています。

私と少年野球チーム「友和ペザサス」は連れ添ってもう20年になります。

毎年、私は年を重ねていきますが、子供たちはいつも8才から12才と変わりません。サザエさんのマンガのように年をとりません。20年間チームのオーナー兼監督を続けてきました。親友のオリックスの仰木監督が現役で頑張っている間は、私も永久に監督を続けていくつもりです。

趣味というより命半分。

現在、子供の教育問題を学校教青だけに押しつけ、家庭教育や地域社会教育がおろそかになっているように感じます。幸い、少年野球は家庭と地域社会が協力して、子供たちと接し、おとなと子供たちに相互信頼や一体感を育ませています。

子供たちは成長過程において必ず一人信頼できる人が必要なのです。4年生までいじめっ子だったN少年が、我が「友和ベガサス」に入団して、5年生になるとチームの中心選手となり、6年生ではエースで4番とをり、船橋市代表優秀選手に選ばれた成長過程は見ていてほれぼれするものでした。

毎年夏、国際少年野球世界大会が日本で開催されるので、ローマやアメリカやベルギーやアルゼンチンの指導者と子供たちを我が家でホームステイしています。このとき必ず国会見学や銀座遊学しますが、そのたぴに三原朝彦代議士(64期)や中村一生秘書(64期)や銀座の「標野」の北條さん(53期)にいろいろお世話いただいておリます。

ローマチーム代表のノベロ・ノベリさんとは家族ぐるみの親交厚く、今年3月、私の長女がローマで歓待を受けました。

数年前、仰木監督の激励会を福岡会館で開催したとき、裁が「友和ベザサス」の選手たちも出席し、仰木監督や阿波野投手や野茂投手に花束増呈し、各選手のサインをもらいました。皆、そのときの感激を忘れずに、中学校・高校で立派な選千として活躍しています。

私の夢は、我が「友和ペザサス」が世界大会で優勝し、仰木監督が野茂やイチローを船橋市に連れてきてくれて一緒に少年野球の選千たちに一日指導してくれること。これを必ず実現したいと思っています。

 

アメリカンフットボールの魅力/馬場祐三(53期)

◎興奮と感動

5万人を越す東京ドームは興奮のるつばだった。富士通対オンワード(前年度覇者)のリーグ最終戦で富士通が悲願の初優勝をかけた総力戦だった。7対7で試合終了1秒前、タイムアウトをとった富士通は相手ゴール前48ヤードのフィールドゴールを狙った。

キッカーの成功を祈って一瞬静寂があった。ボールは見事な狐を描きゴールポストを超えた。10対7富士通の勝利、関係者と大観衆(社長を含めた従業員とその家族など)が一体感をもった興奮と感動が続いた。

◎企業とスポーツ

企業スポーツは日本特有の形態である。人・環境・金を必要とするスボーツのありかたはどんどん変化している。アマチュアリズムが崩壊し、プロ化が進んでいる。オリンビッグもしかりである。

アメリカンフットボールは日本においては未だマイナースボーツであるがアメリカにおいてはカレッジ(アマチュア)とプロの二つの形態が確立されている。日本では学生(大学・高校約200チーム)と社会人(約100チーム)の間で普及している。

企業スポーツは、人(選手・コーチ・ドクター・トレーナー・マネージャーなど) 環境(設備・グラウンドだけでなく職場の環境・幹部の理解なども入る) 予算の確保が必須であり、会社の景気に左右される。安定したチームカを維持するのに(インフラ基礎)約10年が必要だった。しかし最大のポイントは会社幹郡の理解(富士通社長は大のファンである)を得ることである。これは仕事の推進と同じである。

◎フットボールの魅力

小生はこの15年間、仕事以外にフットボールの魅力に取り憑かれ、チームの設立・育成・強化に情熱を注いできた(人は仕事よりフットボールの虫という)。

我がチームも社会人1部リーグの上位に位置して25年になる。フットボールの魅力に、人は麻薬のようにその深みにはまっていく。その魅力は一体何なのだろうか。

・最新の戦略、戦術と兵站をもつ Final Sports〈戦争もビジネスも同じ手法といわれる)

・知力(60%)と体力(40%)のスポーツ

・選手とコーチ(ポジション、攻守)は徹底した分業システム

・最先端の技術の活用(トレーニング、コンディショニング、スポーツ医学、スポーツ栄養学、コーチング、スカウティング、データ分析など)

この結果、

・ほかのスポーツにはない、京大・東大をはじめ国立大学の大活躍(京大の4回生は浪人覚悟で1年間授業に出ないという。日本一になるプロセスを学ぴ感動を味わうほうが魅力的なのだろう)

・アメリカの大統領(フォード、ケネディなど)をはしめ知識人から一般人までそのクレイジー振りは凄い……日米交渉中、早朝4時にアメリ力交渉団はNHKのスタジオにきて衛星放送でスーパーボール(プロの最終戦)を見るほどである。

・我がチームのフットボール関係者は仕事においても優秀な成績をあげており、職場の人気者が多い。

◎勝利を目的に戦略・戦術・兵站を駆使するスボーツ

アメリカンフットボールほど完全なシステムを取り入れているスポーツは他にないと思う。

ここでアメリカンフットボールとはどんなスポーツか説明しよう。グラウンドの選手は、攻撃、守備各1名で2プラトンシステムの完全分業制がしかれている。選手の交代は自由に行なわれる。

攻撃は、作戦指揮者であるQB(クォータバック)が指示するフォーメーションを選手全員が忠実に実行することにより行なわれる。このフォーメーションは大学のチームで100種類以上持っているが0.5秒遅れただけでもまず前進はできない。

この100種類以上あるフォーメーションの中から次にどのプレイを選択するかはサイドラインにいるヘッドコーチが決める。相手守備側の情報はアシスタントコーチが集める。アシスタントコーチは、グラウンド全体が見渡せるスタディアムの最上段の席(スポッタ-)から守備側の特徴を偵察し(スカウティング)、それに対する攻撃案をベンチにいるヘッドコーチに提案する。これらの情報は有線トランシーバーで伝える。

ヘッドコーチは、試合の流れ、調子の良い選手、相手ディフェンスの弱点、相手チームの心理状態、残り時間、ポールの位置、気象条件、選手たちの心理状態、そしてアシスタントコーチからのデータなどからの総合判断と、次のプレイを指揮官のQBにコールする。(最近のプロではヘルメット内につけているワイヤレスマイクを使う)選手たちは、QBから指示されたプレイコールで攻撃のフォーメーションを頭に描き11人が決められたそれぞれの動きをする。しかし、守備のチームのフォーメーションが、自分達の攻撃のフォーメーションにぴったり合っているとQBは即座に大声でプレイの変更(暗号)を指示する。選手はそれに応じたプレイをしなければならない。

観客にとっては、次のプレイは何だろうと素早く頭を働かせて推察する楽しみがある。守備のチームにも観客にも、思いもつかぬプレイが出て、ビックゲイン(大きな前進)が飛ぴ出すとすばらしい興奮を呼ぷ。守備もファインプレイ(パスインターセプトや大きい相手陣の後退)に対して大きな拍手をもらう。

選手と同じように、コーチも分業されておリ10人以上いる。各コーチは選手のポジション別、個人別トレーニングプランを計画・実行し、選手のデータ・コンディショニングを把握している。相手チームに関するデータとしては、攻撃や守備のフォーメーションの特徴は、もちろん、個々のプレイや選手自身についてのデータまでが調査の対象となる。マークした選手、相手チームの全データ(最新の3~5試合分のビデオと詳細データ)を収集し分析する。一朝一夕では不可能なまさに気が遠くなるような作業である。しかしこうしたデータバンクを持つことが勝つための条件なのである。各チームにはコンピュータを利用したデータバンクが大きな資産として保持ざれている。こうして収集された相手チームのデータと自チームのデータを考え合わせることにより、次のゲームプラン”勝つための作戦”が決められる。各コーチはこれを基にトレーニングプランを計画実行するのである。

◎限りなき夢

仕事とスポーツの両立は中堅社員になるはど難しくなる。コーチングスタッフは最新の知識が必要で勉強しなければ日本一を狙うことば不可能に近い。これを解決するために我がチームはスタンフォード大学(アメリカで学術・スポーツの両面で優秀な大学の一つ)とコネクションを持つ我がコーチ陣の育成と共にコーチを招聘している。アメリカの文化や英会話の勉強など楽しい人間関係が醸成され始めている。チーム関係者や家族を含めた会社の仲間の大集団が一体となって味わう勝利の感動は、仕事を離れて純粋に素直に嬉しい。

チーム名は”富士通フロンティアーズ”である。アメリカの開拓者精神を持って限りなき前進を意味する。”日本一”の夢を追い、それに向かって挑戦することは、生きている実感を持つ。

今年から社会人リーグも”Xリーグ”として大きなステップを踏み出した。また、多忙ながら楽しい毎日が続くだろう。

 

私とフォークダンス/樋口洋子(58期)

結婚して8年目にこの地、藤沢にマイホームをもって5年ほどでしょうか。下の子が小学校へ入る頃、ふとしたことから、フォークダンスのサークルに入れていただきました。そして、気がつけば間もなく20年になろうとしています。

フォークダンスといえば、皆さん運動会のオクラホマミキサーを思い浮かべられることでしょう。しかし、とてもそんなものではありません。曲の初めから終わりまで異なるフィギアで構成されたものもありますし、足の出し方、手のつなぎ方、ステップの強弱、スタンプの位置・強さ、……といえばキリがないはどさまざまで、限りのないものです。普段われわれは、握手の習憤もない民族ですが、フォークダンスは皆で手をつなぎ、腕を組み、肩を組み、近々と顔を見ながら踊ります。

すてきな音楽に合わせながらです。すばらしいと思いませんか。つないだ手から手へと伝わる気持ちで、大きな輪がひとつになったときには、感動さえおぼえます。また、コスチュームも楽しみのひとつです。私は少し洋裁をしますので、作れるものは全部手作りです。一時は、何人もの人のを一度に作り、明け方までかかったり、ミシンの踏みすざで筋肉痛になったこともありました。

日本フォークダンス連盟という組織があり、県の連盟、さらに市の協会というようにつながり、全国に同し踊りが広がるようになっています。踊り人口も多く、年1回の市協会のパーティには1.200人もが集い、盛大に踊りまくります。たまたまですが、私の叔

母も、大阪と四国でグループに入っています。先日一緒に旅行する機会があリ、新幹線京都駅のホームのはずれで、今年の新しい曲を思い出しながら踊ってしまいました。ターンをするところで揃って後ろを向いたところ、向かいのホームの人が見ていたのがわかり、大笑いしてしまいました。でも、すてきでしょう?

グループで長く続けられるのは、自分だけでなく、家族や仲間すべてに恵まれていなくてはできないことで、幸せのバロメーターだと思います。私達の会でもいろいろなハプニングがあり、私が会長役を引き受けて4年目に入りました。昨年20周年を迎えた会ですので、レコードだけでも500枚はあるでしょう。重ねていくということは本当にすごいことです。

昨年は久し振りに会員数も増えました。皆でさらに大きな輪になって楽しく踊り続けていけたらよいなと思っています。

皆様も仲間に入られませんか。

 

ロックおじさんの大逆襲/黒田克樹(75期)

私の趣味は人前で大きな音と声を出すこと。といってもカラオケではなくロックです。

東筑のまだ木造校舎が残っていた項、同級生とバンドを組み騒音を巻き散らしたのが始まりです。好みはイギリス系。アメリカのからっとして明るいロックよりもイギリスの哀愁を帯ぴて暗い方に魅力を感じます。で、大学では「ブリティッシュ・ロック研究会」なるサークルに籍を置き騒ぎまわっておりました。

元々音楽的センスがある方ではなく、とにかくエレキギターをかき鳴らせればそれで満足というストレス解消型です。何事もヘたほど道具に凝るという傾向があるようで(ゴルフや釣りでも同じでしょうか)私もギターにはうるざい方です。今愛用しているのは、学生時代に頭金ゼロ36回払で手に入れたギブソンという名器。看板書きのバイト(建築学科なのでデザインとレタリングは得意でした)で買った汗の結晶です。大学を卒業して車を買うまでは私にとって最も高価な財産でした。

学生時代は毎週やっていたバンドの練習もだんだん回数が滅り、年に数回昔の仲間とスタジオで音を出す程度になっていました。とある峙、誰からともなく「若いもんに負けられん」(このセリフが出るということは、りっばなおじん現象でしょう)と、無謀にもコンサートを開くことになりました。題して「おじんの大逆襲」。いざトレーニング開始は体から。入らなくなったジーンズ(捨てろと言ったはずなのに妻がとっていた)に合わせるべく、ジョギングに始まって腹筋、指立て伏せ(指で体重を支える腕立て伏せ)、ストレッチ……。ギターも指先のまめがつぷれて血だらけの特訓。歌は車の中に一人こもって、近所に気を使いながらの練習です。

さて、昔の仲間が多数集まってのロック大会。小さな会場を埋める客は全員仲間の家族か職場の友達。6バンド出演で我々はもちろん「とリ」です。(こういう点では私はいつもわがままでした。)演奏の方はって?何も申しますまい。とにかく大きな音と声をだす最大の目的は達せられたのですから。家族の感想は、「コンサートが無事終わって本当に良かった。」

その真意を私は知っています。ギタ-の練習にじゃまされ夜のテレビが満足に見れず、同じフレーズの繰り返しにさんざんいや気がさしてきた生活がやっと終わりを告げるからです。

 

一生芝居に魅せられて/小林晶子(76期)

私の父は非常に多趣味な人である。幼い頃から私が記憶しているだけでもマンドリン、ハーモニカ、囲碁、将棋、マージャン、釣りなど十種以上の趣味を持ち、それなりに凝りそれなりに奥の深さをたのしんでいるようだった。現役を引退した現在でも、墨絵、盆栽、能面彫りなどを習い始め、世の”ぬれ落ち葉”などいう言葉とは無関係のセカンドライフを満喫している。

そんな父親を持った娘はさぞ……と思いきや、好奇心の旺盛さだけは受け継いだものの、ちょっとかじると満足して飽きてしまう三日坊主タイプであった。

子供の頃通わされたお習字、そろばん、ビアノ、バレエといった一連のお稽古事も三姉妹の中で一番あとに習い始めたくせに、一番先に挫折してしまう三女だった。

しかし、そんな私にも18年間はまり続けているものがただ一つだけある。『芝居』である。

そう、あの、厚化粧をして様々な衣装を身に着けて(時にはかつらを被り)大勢の人の前で大声を張り上げるあの『舞台』である。私は今年でこの”舞台生活”に人生のちょうど半分を費やしたことになる。

そもそもの出会いは、大学1年生の冬。念願だった都会での}人暮らしにも慣れ、大学生活にもマンネリを感じ始めた頃だった。

「何かおもしろいことなーい?」が口癖だった私は、新聞で「劇団員募集!」の広告記事を見つけた。「そうだ、お母さんも若い頃、町の青年団で芝居をやってたっけ。よく写真を見せられたわ。これよこれ!今の私の”つまんない病”を癒してくれるのは…」と早速応募。オーディションを受け、見事に合格した。(後に、合格率90%以上の劇団であると判明。)もちろん、九州の父は「そげなチャラチャラしたことをさせるために東京ヘ出したっちやなか!!」と大反対。芝居の楽しさを知っている母だけが私の味方で、父のなだめ役にまわってくれていた。

そんな家族の葛藤をよそに、私は劇団の研究生として、レッスンに通い始める。往復2時間の車中の友は九州訛リを克服すべく購入した”アクセント辞典”であった。発声練習、肉体訓練、そして新しい仲間、全てが刺激的でおもしろい毎日だった。

そして初舞台。大学2年の夏休みだった。初めての役は「西村夫人」。戦後、移住先のカナダで夫を強制労働に駆り出され、子供と二人で、生きて日本にかえる日を夢見ている、という20才前の私には想像もつかない人生を背負った役であった。今思うと、非常に無謀なキャスティングであったと思う。

夏場の厳しい稽古と先輩達のやさしい愛のむちにより、5㎏滅で臨んだ初日。その日は朝から足はガクガク、目はうるうる、口から心臓が飛ぴ出しそうなほど緊張していた。

幕があがってからの2時間半のことはほとんど真っ白で覚えていない。唯一記憶にあるのは、幕が降り始め、お客様の拍手が聞こえた瞬間、「あ、くせになりそうごと体が震えたことだった。」

「『芝居』というのは、麻葉と同しで一度覚えたら病みつきになり、なかなか足抜けができない」といわれる言葉どおり、この瞬間、これまでの辛かったこと一切を忘れ、心地よい感動だけが体中に残り、「もうやめられない病」にかかってしまっていた。

そして、この瞬問は、就職もせず、アルバイト代と仕送りをレッスンとチケットノルマに注ぎ込む”放蕩娘”誕生の瞬間でもあった。

以来十数年間、何度か挫けそうになリながら、そこは九州女の意地と根性と、そして、まわりの人々の支えによってこの舞台活動を続けている。

3年前、私を養うという仕事を父から受け継いだ主人は、作品に入ると家事も夫も忘れ、時には1ヶ月以上も家を空けるこの不良主婦に何度も切れそうになりながらも、何とか耐えてくれている。私は、このだんな様の強靭な忍耐力に甘えながら、この”贅沢な趣味”を一生続けていきたいと思う。

目指せ!

歌って踊れる陽気な母さん!!

 

和太鼓の楽しみ/伊村杏子(78期)

初めて太鼓に魅かれたのは「小倉祇園太鼓」でした。子供のころ”なにが”よかったのかよくわからないのですが、なんとなく”なにか”に魅かれて太鼓の後をついて歩きました。

高校卒業後、広島の音楽大学に入り、西洋の音楽を学ぴながらも卒論の題材に和太鼓を選んだのは、もしかしたらその頃の記憶が影響していたのかもしれません。その後、広島の中学校で音楽の教師をしていましたが、大学でやり残したものへの思いが断ち切れず、仕事を辞めて大学院に入りました。当時、30歳を目前にして子供もいましたので家事や育児など、夫の協力なしではなかなか難しかったのではないかと思います。

また、大学院での研究と並行して、講師として働いていた中学校の授業に和太鼓を取り入れたときに子供たちの興味をひくことができたのも、和太鼓のもっている不思議な魅力のおかげではないかと思っています。

そのかたわら、太鼓の指導者を求めて東北や佐渡、関東各地を旅しました。多くの人に出会い、たくさんのことを学ぶことができました。そのなかで、東京の御岳山で毎年行なわれている「横笛セミナー」で八丈太鼓の講座をもっていた現在の師と出会いました。

体全体を使った無理のない太鼓の打ち方に魅かれ、頼み込んで教えてもらうことになりました。広島から埼玉まで通ってきていましたが、4年前に東京に引っ越してくることができ、現在は「魁太鼓集団」に参加し、師のもとで練習に励んでいます。

先日、職場の広報紙のアンケートで、「ライフワーク」について尋ねられ、「和太鼓」と答えました。今でも音楽関係の仕事をしているのですが、”仕事”と結ぴ付いてくると、嫌なことや苦しい部分が出てきます。仕事とはまったく別の”趣味”の部分だからこそ楽しめるのだと思っています。保育園や児童館、地域のお祭りなど外で太鼓を打つ機会がときどきありますが、そのたぴに「今度はもう少しうまくなっていたい」と切に思っています。

数年前から「太鼓プーム」といわれていろいろな所で太鼓の団体もできているようです。太鼓というと、男性が打つ力強いイメージがあります。若いうちは体力もありますが、年をとっても続けられるよう体をうまく使えるようになり、無理のない打ち方で長く楽しんでいければと思っています。

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平成7年度 懇親会を振り返って/矢野純子(65期)

昨年11月19日開催された懇親会をもって、当番期を皆様のおかげで無事終えることができました。

ご協力ありがとうございました。

思えば、私がスタッフとして参加することになったのは、2年前に九州の同期会に出たときに、同席された65期東京東筑会の幹事の井上氏の一言で組み込まれたからです。

当時、私は交通事故に会い、幸いケガは軽かったものの「生きてるうちに人に会っておかなければ」と思い立ち、出席したときのことです。

スタッフといっても、女性は「出席のお願い電話」が主な仕事で、あとは当日の受付、進行でした。週末3回ぐらい集まったと思います。

同窓会の企画で好評だったのは、ジャズ演奏とパネル写真の展示でした。アトラクションがあれば、知り合いの少ない人も楽しめるので、参加しやすく、またパネル写真は、ながらく東筑から離れている人にとって、現在の母校の姿を知り、過去の思い出を語るのに大変有用でした。埴生、石川両先生との話もはずんだと思われます。

一方、料理がすこし少なかったという意見もありました。これについては予算と出席者の確定という歴代の幹事さんをなやましてきた難問があり、解決は容易ではありません。

今回、何もかもが初めての経験だった私たちですが、終わってみれば楽しい思い出と、住んでいる世界が少し広がった気がします。

ありがとうございました。

今後の東京東筑会の益々のご発展をお祈り申し上げます。

東京東筑会ハワイツアー顛末記―豪華船で Shall We ダンス?―/増田浪枝(55期)

「今更ハワイ?」

「されどハワイたい。命の洗濯にはよかとこ。」

ハワイツアーの話が待ち上がったのは、55マイルジャー二-(55期55歳記念旅行)の箱根の宿でした。

私共ロカビリー世代も、人生の余裕はあまりなく、残存年齢滅少、心身の不良債権は累積。ここらでパアッーと世界一周……のつもりが、ハワイツア-となりました。

早速、東筑会報13号誌上で、広く参加者を募集。日程は、95年10月5日~10日。成田、ホノルル往復とも、日航のベテラン機長、55期の上杉美治さんの操縦が実現。バス1台の募集人員がリムジン1台に納まる数とはなりましたが、機長を含む8名が成田を出発。

「ちょっと小倉まで」という感じの6時間30分でホノルル着。ホノルルの部屋は、ワイキキ梅岸が一望できるオーシャンビューで、天には虹、眼下に八イレグ娘、ベランダに小鳥、居ながらにして命の洗濯が出来るロケーション。黄昏迫れば、椰子の並木道を抜けて、ネオンの巷ヘ、カラオケパブで喉の帰除。日本で毎月出される新譜は、4日も待てば、ドリカムもシャ乱Qでも唄えるとのこと。

オプショナルツアーでは、島巡り組とゴルフ組に二分。

前者はハワイ島の黒砂海岸で、幸運の海亀とスキンシップ。 御利益あってスロットマシーンで大当たりした人。

ゴルフ組は、ミリラニとマカバ・バレ-でプレイ。いずれも回転早く素早いプレイが要求されます。雄大な景観に見とれっぱなしの私は、後続パーティのナイスショットの球を、マイボールと勘違い。「何しよっと!」と外国語が飛んできました。

そして最後の夜、サンセットクルージングに参加。乗客交えて「Shall Weダンス?」の時間。チャチャチャ、マンボとダンサーの振りを真似て、必死で踊っておりましたが、途中で手足がすんなり動きます。

気がつけば、いつの間にやら炭坑節に変わっておりました。ハワイ沖でぶる里民謡のプレゼントに感激。里心ついてデッキに出れば、申し合わせたような満月に東筑一座はうっとり。

明治年間、日系一世の方々も、ダイヤモンドヘッドにかかる月を眺め故国を偲ばれたのか、お墓は総て日本に向いて立っておりました。

地上の楽園ハワイも、悩み多く、大邸宅門前の私設警備、藤田小女姫さんも当地で撃たれた「銃社会」の問題。「我々はアノリカ人ではなく死ぬまでハワイ人だ。」という民族と国家の不協和音。看板が目に入る小僧ずしやダイエー系スーパー等、外国資本、人、物が容易に国境を越えて入ってくるポーダーレス化時代のハワイ。東筑ツア-のリムジンのドライバーも、中国や韓国、ベトナム出身の人でした。

また、日本の高齢化の波が、ワイキキ海岸まで押し寄せており、孫に手を引かれた米寿のお婆ざん。巣鴨の地蔵通り?と間違いそうなシルバーツア-の皆さん。

様々なことを体感して帰路ヘ。ハワイ熟知の上杉機長のエスコートで、安全でラッキーな今回の旅、地上、雲上共にお世話になりました。そして日航71便。「只今当機は、飛行高度3万3千フィート、対地速度毎時800キロメートルで順調に飛行……」 操縦席から機長の声が流れてくると、「ワァー、トーチク」とつぷやきながら、思わず全員で拍手。

そして、ハワイ症候群に感染した私共の合言葉は、「次はいつ?」でした。

最後に、今回のハワイツアーの事務局をお引受けいただいた三原朝彦事務所の皆様に心から御礼申し上げます。

 

57期『合同法要会』―平成8年1月27日―に出席して/安井秀人(57期)

平成7年師走、いつもの様に慌ただしい年の暮れ、日々の仕事に忙殺されつつやがて迎える56歳の”春”を思うこともなく、…。

机上の電話にいつもの様に応対、北九州より久し振りにN君よりの声の便リと思いつつ、何となくN君の声にいつもとは異なる響きあり、『大貝はやっぱり駄目だった』との一言、詳細は知らなかったが、何となく東京を離れるに際しての様子より心の中に残る物あり。

57期中、最もその人格と頭脳と心ねの優しさを持った男と評価、嘱望された大貝興洋君の逝去の報は、掛け替えの無い大切な仲間の一人を失ったことに対する大きな衝撃を覚えると共に、『おい、おい!俺達はもうそんな年齢なのか?10月の滝瀬君、そして大貝君と人並み外れた人物であっただけに、俺達凡夫とは違い、旅立ちも早いのか?』と改めて来る56歳の”春”に思いを巡らす報でもあった。

そして年明け、いつもの年の様に57期東筑会の招集の葉書、北九州より届く……但し、今年の同期会は全く趣を異にした『57期物故者の合同決要』を八幅西区穴生の”弘善寺”にて執リ行うとのこと。

指折り数えれば、同期546名(卒業アルバムより勘定)中、物故者、既に23名、中でも平成7年には4名の同期を失ったとの記録……。

北九州特有のどんより曇った1月27日、三三五五弘善寺に参集、いつもの同期新年会とは異なる、静かな久し振リの出会いと挨拶、450年の歴史を持つ、浄土宗知恩院派の弘善寺の大本堂を暖かく包むストープの前で、森肇会長を始めとする幹事の皆さんが心を込めて作成した『物故者リスト』と『欠席者からの一言』の印刷物に、しばしばそれぞれの思いに耽る。

住職柴田風現君の読経、23名のその名と命日を一人一人心を込めての仏前への呼び掛けに、法要参加者60数名の同期の思いは等しく、その一人一人の在りし日の姿に思いを巡らせ、東筑卒業以来35年の年月を感したに遠いない。

また、読経に先立ち森会長の挨拶あリ、本法要を執り行うに至った経緯は、誰が言い出すまでもなく、宗教、宗派は異なっても同期による法要の会を持とうという、自然発生的な声の中で、同期である柴田風現君の御協力により実現したこと。亡き友の冥福を心から 祈ると共に、志し半ばにして旅立った23名の我々存命の同期に対する思いは、我々が少しでも長くこの世に生を得ることでなかろうか、その誓いの会でもある。……。

心にしみる挨拶の一節であった。

546名と言う大人数の57期、それも北九州市から郡部に至る広域の出身者であり、互いに在学中触れ合う事の無かった仲間も多々あることは言うまでもない。しかし、こうして23名の物故者を仏前に思い出してみると、同期というのは、その昔に親しくしていたかどうかは関係無く、”同じ時に、同じ年齢で、同じ場所で、同じ事をしていた、そして今は同じ年齢……。”と言う単純な結ぴ付きであること、単純であるだけに、太く強く結ぴ付いていることを改めて痛感した。

平均年齢80歳になんなんとする現在、後24年の人生、短いか長いかは別にして、何かの節目に残りの”命”を考え思うことは、人の常。57期の同期合同法要会がこの節目の一つとして、法要参加各自の心の中に、何かを刻みつけたことと思う。そんな同期法要の会であった。

法要の後、弘善寺の御厚意による庫裏での茶菓のもてなしは、紅茶に添えられた自家製のレモン、と甘いパイ、土産には今はやリ(?)の手首に巻く数珠、等等、誰もが心洗われる一日を感じたに違いない。

法要終了後の新年会、そして黒崎の街での二次会、三次会は、いつものコース。男性軍に比べ女性軍の元気の良さは、同年齢より来る自然のなせる常なのか。

故郷を離れ出稼ぎ人生30年、未だ異郷にさまよう九州を忘れることの出来ない男にとって、今回の法要会出席はこれからの生き方を考える大きな節目になった様な気がする帰省であった。  合掌

 

第14号

(1996年 平成8年 7月)

第14号