
平成も5年を迎え、『東京東筑会報』も11年の歴史を重ねるに至りました。 これも編集委員始め幹事の皆様の努力の賜物と、心より感謝申し上げます。 ”継続は力なり”先人は良い言葉を残してくれました。 『東京東筑会報』も50号、100号と続くよう関係各位の益々の御尽力お願いするものです。
近年の母校の様子を拝見致しますと正に隔世の感を禁じ得ません。施設の充実は言うに及ばず、生徒諸君の優秀さは県下に鳴り響いています。 創立九十有余年、数々の伝統を紐解くとき、改めて先輩諸氏の御苦労に感謝をし、また我々もその伝統の一端を担う責任を感じざるを得ないものであります。
この8月に発足した細川政権のスローガン”質実国家”の質実は我々東筑の校風である”質実剛健”を思い出したのは私だけではないと思います。 熊本の出身とは言え、なんとなくスマートな感じの細川総理の口から”質実”という言葉が出て来たのは、一瞬の戸惑いもありましたが、よく噛み締めてみるとなかなか良い言葉であります。 日本国がこれから目指す国家像を表した言葉としてふさわしいと思います。 我々も細川政権が誤りなく日本丸の舵取りをすべく政局にも関心を払って見守る姿勢をもってみては如何でしょうか。
最近の卒業の中には、民間は勿論、国家公務員・外交官等官界にも沢山の人材を輩出しているとの事です。 皆様方と共に後輩諸君が益々活躍出来る環境作りをする事も、我々同窓会の役目の一つです。 これからも質の高い同窓会を作り上げる為、皆様方の御協力をお願い致します。
86年3月、私は4年を超える二度目の国連事務局勤務を終えた。東京東筑会報第3号に「ウィーン便り」を寄稿したのは、そのまた一年前になる。
世界を舞台とする国連職員の仕事は面白く、勤務継続の誘いに抗しきれぬ思いもあったが、日本の検事として自分の職歴を終える道を選んで帰国した。
しかし、国連と縁を切るつもりはなかった。むしろ、国連会議での政府代表としての活動や日本にある国連アジア極東犯罪防止研修所の支援などを通じて、国連への貢献を一層強めようと自分に誓っての帰国であった。今回は、私と国連とのその後のつながりをお話したい。
国連犯罪防止委貫会議長に
帰国後、全国の刑務所等を所管する法務省矯正局長に就任した。翌87年4月、国連の経済社会理事会での選挙で、国連犯罪防止規制委員会のアジア地域代表委員会に選ばれた。その年の暮、京都地方検察庁検事正に任命され、翌88年3月、委員会出席のため2年ぶりになつかしのウィーンを訪れた。
委員会冒頭の選挙で議長に選出された。一年生委員ではあるが、国連犯罪防止刑事司法部長等としての長い間の委員会関与が考慮されたのだろう。前会期まで事務局代表席で答弁をしていた私が、ひとつ隣の議長席に移るには、国の代表に指名された上二つの選挙に当選するという三つの開門を突破せねばならなかった。元の部下や親友など50人あまりが開いてくれた祝賀会は、「故郷に錦を飾る」晴れがましいものであった。議長になったことは、私のその後の在り方に大きな影響を及ぽしている。
法務総合研究所長とアジ研
年号が平成に改まった夏、法務総合研究所長になった。ここは、法務省や検察庁の職員の研修と犯罪自書の作成などの研修のほかに、国連アジア極東犯罪防止研修所(アジ研)をも所管する。アジ研は、1962年国連と日本政府との協定で、警察、検察、裁判、矯正保護などアジア各国の刑事司法幹部職員の研修センターとして作られた。設立にも関係した私は、教官、次長、所長と三度の務めをしている。アジ研とアジ研研修生の帰国後の活動を支援するためのアジア刑政財団も、私が所長のときに作られた。
しかし、私がアジ研などの強化を願うのは、私の単なる個人的思い入れではない。アジアの刑事司法の改善におげるアジ研の貢献は明白であるし、ボーダーレスの時代となった今、日本だけが他国とかけ離れた安全と繁栄を保つことはできない以上、犯罪なき繁栄の推進は日本の国益にも合致する。また、アジ研が国際社会での日本の地位をいやが上にも押し上げていることも
国連の場で実感した。現に私の国連部長時代、重要な国連基準現則の起草と草案を審議するための専門家会議の開催は、大半がアジ研とアジア刑政財団の支援で行われている。日本の国際貢献としても、最も効果をあげているものの一つだろう。
国連世界会議で議長に
1990年夏、キューバのハバナ市で第8回国連犯罪防止世界会議が開かれた。犯罪防止対策のオリンピックとして五年毎に開かれるこの世界会議には、私は第3回(1965年・ストックホルム)からずっと出席しており、ハバナでは、議題の半数を審議する分科会議で議長に選ばれた。第7回(1985年・ミラノ)では国連の事務局長として一切を仕切っているので、私はこの世界会議については二つの世界記録を持つことになった。最長連続出席記録(6会議)と最多資格記録(政府代表、事務局代表、議長)である。
この会議でも、アジア刑政財団の物心両面の貢献は大きい。アジアの諸情勢を報告したほか、世界会議広報ポスター作成費用約100万円も全額接助した。
国連NGOの認可
アジ研を支援し、二人三脚で国際貢献を尽くしてきたアジア刑政財団の10年の実績が認められ、91年5月、経済社会理事会は財団に諮問的地位を認可した。国連NGOとなったのである。財団は、国内法上は既に「特定公益増進法人」となって税法上の優遇措置を受けているが、国連NG0となったことにより、国連会議に出席し、発言し、文書を提出する資格ができた。
国連の決議案を作って、採択されるようその根回しをすることなどは、国の代表より国連NG0の方がやり易い。私が国連の議長を務めて実感したのは、国連NG0のパワーの凄さであった。
このように、財団が国連との関係で特別の地位を与えられ、国際協力の世界的枠組みの中心であることを公認されたのは、誠に喜ばしいことであった。例えば、YMCA、救世軍、ライオンズクラブ国際協会、国際アムネスティなど私どもの回りには財団と同格の国連NG0(カテゴリーI)が数多く活躍しているが、そのほとんどは欧米に本部があり、日本にあるのは支部にすぎない。このことは、近代が西欧文明を中心に展開してきたことと無関係ではあるまい。しかし、国際協力後発国日本に本部を置く数少ない国連NGOが生まれた。東洋から世界に対する貢献を高めていく上で、この新生国連NG0の果たすべぎ役割は大きい。
財団が国連NG0になったことにより、アジ研やアジ研関係組織への援助を超えた新たな活動分野が広がってくる。しかし、財団の基金は、とてもそれに見合うものではない。そのための基盤強化として始められたのが内外の支部作りであった。日本各地に支部を作り、その支部がどこかの国の支部の設立を助け、その支部のその後の活動を支援するという構想である。日本各地で活躍するアジ研日本人同窓生の活発な援助もあって、静岡支部を第1号に、名古屋、札幌、仙台、浦和、横浜、大阪と支部の輪が広がっていった。そして、マレーシア支部と提携した静岡支部(会長・大石静岡新聞社長)は、本年1月クアラルンブルで第2回世界大会を共催し、マハティール首相も出席された。同様に、フィリピン支部と提携した名古屋支部(会長・豊田トヨタ自動車会長)は、来年3月マニラでの第3回総会を準備しており、豊田会長とラモス大統領の御出席が確認されている。
財団本部支部南国会の発足
地域で分けられた国内支部のほかに、本部の活動を直接支援する「会」組織も作られていったが、これを考えついたのは東筑の同窓であった。91年夏「一本松会」の例会で福島のゴルフ場に行ったことから話が始まる。パスで隣りに座った瀬井雅宣氏(55期)に、私の近況の一つとして支部作りの話をした。彼は会の皆に話して協力を求めることを進言したが、親睦会を他の目的に利用することを好まず、私は話さなかった。
しかし、掃途の車中、「先輩、世の為になることもやってみたい。私たちにも国際頁献をやらせてください」という彼の言葉に感動して、財団の現況を少し詳しく話した。すると彼は、基金の少ない財団では、本部の活動を直接支援する機構を作っておかねば先細りになるのではないかと指摘した。私はピジネスマンとしての鋭い感覚と卓抜な着想に敬服し、直ちにその線で企画に移った。
その結果、彼とその同期の広渡博氏が協力して、京浜地区居住の同業者に呼びかけ、財団の国連事務局への直接的支援経費などを担当する本部直属「南国会」が結成されるに至った。これが貴重な前例となって、「東京みのる会」「東京むくげ会」などが設立されてゆき、本部の重要な事業が財政的に安定していった。
広島への転出と筑紫会の発足
91年の暮、広島高等検察庁検事長を拝命し、宮中での認証式を終えて広島に着任した。財団支部も、広島、山口、福岡と西進していった。広島支部(会長・橋口広島銀行会長)についてのマツダ専務の高橋昭八郎氏(50期)、NHKの田仲清司氏(55期)の格別の御協力が心強かった。お蔭で、広島支部とタイ国支部とが提携して、95年バンコクでの年次総会の共催を準備中である。
九州に近くなり、生まれて初めて東筑会総会に出席して多くの旧友となつかしの再会をした。旧友の広島来訪も増えた。そのような交流の中から、日高康氏(53期)が中心になり、私の同期も竹田實君など多数の人が加わって、本部の広報・出版経費を担当する「筑紫会」が設立された。会長は、東筑会の吉川蔵夫会長(45期)である。東京以外でできた本部直属の支部はこれが最初であり、なんともありがたいことである。
国連表彰と東京響き会
私が国連のガリ事務総長から、特別表彰を受けたのは92年4月のことであった。国連犯罪防止委員会が発展的解消を遂げるにあたり、各地域から委員会への特別功労者を選んで表彰したものであるが、アジ研やアジア荊政財団の貢献も考慮されたに遣いない。このニュースは各紙で全国的に報道された。
そんなことがあったので、東筑の文化活動銀座センター「標野」に立ち寄ったとき、丁度集まっていた顔見知りの同窓にお祝いや質問を受けた。問うわれるままに、国連NG0となった財団の当面の課題の一つは、在外企業の犯罪防止や危機管理対策を推進するための安全セミナーを各国で定期的に開催することであるなどと話した。海外支店を持つ会社の人が多いだけに、この種のNG0活動に現実的関心を寄せられたようだ。
その後、その夜集まっていた53期、その他の期の人々から詳しい話を聞かせて欲しいとの連絡があり、次の上京の機会に再度標野に行った。十数名の同窓の集るその席で、海外での企業安全セミナーの企画運営経費を担当する会を件ろうという話が固まった。先日、標野の北条民子氏(53期)から、「日通社長の浜中先輩(浜中昭一郎氏・46期)が会長を引き受けてくださいました」と声を弾ませた電話があった。「東京響き会」という名称も決まったようだ。これができれば、財団の国連NG0としての活躍も新時代に入る。嬉しい限りである。
名古屋へ
話は前後するが、本年7月、名古屋高検検事長に転じた。名古屋支部が来年3月マニラでの世界大会を担当しているだけに、その準備の万全を期する上でも、私の名古屋転任は好都合であった。
ボランティアとしての国際貢献は、汗を出すもの、知恵を出すもの、金を出すものなど色々ある。私どもの進めるものは、日本での拠金により他国での制度や運用の改善を図ることであって、目には見えにくい貢献であるが、国際社会の安全を確保し、犯罪なき繁栄を推進していく上で効果のあがる方法であり、国連が日本に期待するなによりのものである。
人はそれぞれの価値基準に基づいた人生観を持つ。東筑の同窓であるというだけの理由で国際貢献を勧めることを私は好まない。しかし、東筑の同窓とも手をとりあって、国連の旗の下に、犯罪なき明日の社会に向けての国際貢献を尽くすことは無上の喜びである。
合計8年を越す私の国連勤務は、楽しいこともあったが、苦しいことも多かった。そんな時私が口ずさんだのは、戦争中だけ歌われて知る人の少ない校歌の、自分なりの次の一節であった。
”いざ行げアジア ヨーロッパ
ともにはばたき雄飛せん
我は東筑健児なり”
1.総括
『第19回東南アジア青年の船』の事業は大した事故も、プログラムの大きな修正もなく、予定通りその事業目的の大部分を遂行する事ができた。だがその評価を現時点で行うことは、いささか性急であろうし、この事業の持つソフト面を考え合わせると、正確な評価とは、何をもって行うか判断に迷うところである。
しかし、訪問したASEAN6力国の寄港地での、ホスターファミリーや関係者との、岸壁との出航時のテープの別れは、見送る人々の顔が見えなくなっても、別れを惜しむ「さようなら」の涙声とそれを引き離すかのような、もの悲しい船の汽笛の音など、当事者で無くともその感動を想像してもらえるであろう。
また、日本の参加者と各国の参加者とが開散する成田空港での見送りの際の涙と共に惜別の念で必死と抱き合う各国の若者達の姿が、感動を呼び、青年と青年の、人間と人間の、民族を、人種を、宗教を、文化を、そして国境を越え育まれた、真の友情の表れではなかっただろうか。
1974年に創設された、東南アジア青年の船が国際協力の原点として、そして今なお言い続けられている「心のふれ合う」国際協力のあり方を示し、また人造りの面で、如何に貢献しているかは、この事業が今回で第19回目を数える事が如実に示しているのではないか。
マスメディアが発達している今日の状況からすれば、文化、生活習慣、宗教等の違いは、今日の青年達にとって、頭では理解していても実生活を通して実感し、それを理解させ得るものとして、東南アジア青年の船は、他に類を見ないだろう。
無論、今回の第19回東南アジア青年の船だけで、国際的視野を広げ、国際協力の精神のかん養を、わずか2ヶ月余りの期間で、完全に身につけられただろうかと思量しているところだが、日本の青年とASEAN各国の青年にとっては、他国に興味を抱きながら、自国を再認識し、お互いの友惰を育みつつ、国際感覚を身に付けると言う、国際協力の一つの方向性を参加者自身が見いだす糸口となったであろうことは疑う余地がないと思う。
それは、各訪問国に於る、過去の参加者達が現実に、それぞれの国の指導的立場にあり、あるいはまた、日本や東南アジア、そして世界で目覚しい活躍をされているのを目の当りにしたとき、今年度の参加者達が数年後、数十年後に日本、ASEAN、世界でいかに活躍しているかによって今回の第19回東南アジア青年の船の真の評価となって表れるだろう。
ここに、グローバルな視点から考えたとき、日本をはじめASEAN各国において有為なる人材を多数輩出し、またASEAN各国の東南アジア青年の船にたいする評価と期侍に答えるためにも、更には日本-ASEAN諸国、延いては世界との、友好と相互理解に基く恒久平和と繁栄を築く国際貢献としての協力関係を持続させる意味において、今後ますます東南アジア青年の船が果たす役割は多大なものがあると確信する。
東南アジア青年の船の事業は予算的、物理的、時間的に数々の制約があることは言うまでもない。それにもかかわらず過去18回の経験と反省で、数々の改良と修正を修されたであろう事は、整然とした船内活動内容、各国内での活動内容、各国受入体制等によって伺い知れるところであり、各年次ごとに事業が成功裡に納まれば、更に次の年には一層の期待が寄せられるになる。参加者達にとっては全てが初めての経験であるにも拘らず、期待と現実の狭間にあるこの事業の難しさを痛感せずにはいられなかったであろう。だが、今後の東南アジア青年の船の更なる発展のために、今年度の評価と反省を含め提案なり助言を記したいと思う。
2.事前研修、出航前研修
事前研修、出航前研修の講義は、訪問国の最近の社会、経済、文化等の事情について分かりやすく非常に有益であった。
多忙の中を駆けつけてくれた過去の参加者達の情報やアドパイスは、今回の参加者にとって貴重な情報として役立ったが、一方で参加者達を過剰に鼓舞激励することが、各国の競争意識を助長させ、その後の準備にかける労力や時間と個人経費の負担となっているように思う。参加青年には、前もって正確な情報と過去の実績等を理解させ、少なくともある程度、目的意識と自主的な活動内容を事前に考えさせた後に、アドパイスとして参考意見を聞くという形がとれないだろうか。
東南アジアにとって第二次世界大戦後の問題は避けて通れない課題であるが、現在の日本の教育は、戦前、戦中、戦後の、日本と東南アジア諸国の歴史的関係や現代日本の政治、文化、国家儀式(国旗、国歌等)等に対する基本的な考え方やマナー等に欠けているように思える。この点についてよりコミュニケーションできなかったかとの声もあり、事前研修において日本参加者に基礎知識として、それらを講義することができないか。
何れにせよ、事前研修、出航前研修の期間の延長が望まれる。
3.船内活動
生活全般においては、何等問題はなかった。室内(キャビン)にて3ヶ国の、船内においては7ヶ国もの、生活習慣、文化、宗教等の異なる青年達が、24時間、しかも1ヶ月余りもの期間、寝起きを共にし、生活し、活動することはお互いを理解し合えなければ成し得ないことである。更にそのうえ他の諸活動を協力しながら遂行したことは、参加者自身がこの事業の目的達成のため努力した賜である。
日本から参集地であるシンガポールまでに行われた、各国ナショナルリーダーの講義はそれらの国の歴史、文化、習慣、伝統等が包括的に述べられ、またナショナルリーダーの人柄温れるセンスとユーモアに満たされた請義内容で、日本の参加者にとって有意義なものであったろう。
全てのCOCに関しては、客国ナショナルリーダーの円満な性格と好意的態度、さらには管理官はじめ管理部による適切なアドバイスと過去の具体的な事例等の説明によって、すべて友好的でスムーズにかつ問題なく整理された。
船内におけるスケジュールについては、全般的に活動内容が多すぎ、そのために、その活動準備に対する時間に追われ、それをこなすことに精一杯で、より深い知識として潜在意識に浸透させるまでの心と体の余裕の時間が取れなかった。また寝ずの準備で追われた各国紹介や諸活動のブレゼンテーション前夜の徹夜等により、時間管理の問題が規則違反として一部表面に現れたのではないかと思われる。
食事をついては、豪華すぎるきらいもあった。当初、イスラム食と混在されていた問題も場所を移すという配慮がなされたことによって難なく解決された。健康管理は完全なる看護態勢が取られており安心していられた。日本からの出航直後の台風20号と帰国前の台風28号の余波の大揺れによる船酔に対する予防や、期間中水ぽうそうが発生した時も献身的な看護により事には至らなかった。ただ不幸にしてタイの参加者1名がブルネイにおいて下船を余儀なくされたのは予測もつかない病気故に、いたしかたない処置であったと思う。
参加者達に対する連絡や情報はナショナルリーダー、船内放送、またはその都度張り出される掲示板によって行われたが、それが最も有効な方法だったと思える。しかし、特に掲示板については、参加者には食事前に必ず見るようにとの指導を行ったが、時間的に余裕が無いときがあった。また管理部員間の連絡ミスによると思われるが、意志の不統一による、多少の情報混乱が、管理部やナショナルリーダーに対しての不信を生んだのではないかと危惧している。
オーブンシップに際しては、参加者にキャビンの鍵を掛けさせることの徹底、私物の自己管理の徹底と、ともにブライベートスペースに対する管理強化の徹底を計らなげればならない。不幸にして物品等の紛失や盗難等、何らかの不始末が生したならばこの事業成果も蕾んでしまうことになる。
SSEAYPミーティングは各国の活動内容(各国との連携活動、今までの活動実績、参加人数、予算等)や事後活動についての、資料等に基づく其体的な説明を希望したい。
4.訪問国活動
課題別視察においては、各国とも政治、経済、文化、歴史、教育等、各方面が適切に選択されており、またローカルユースとのボランティア活動、スポーツ交歓会は一緒に汗を流し、お互いの友情を育み意志の疎通を図るよい機会となった。訪問国におけるホームスティは、各国わずか2泊3日間ではあるが生活様式、生活習慣、文化、宗教等の違いを、その家庭を通し、6ヶ国も体験できたことは、参加者達に、自国との対比また各国を比較分類させ、理解させる意味においても、その価値の偉大さが想像できるであろうし、お互いの国を理解させるためにも今後更に継続されるべき事業だと考える。
各国の交通事情や天候の状態は如何ともし難い。大勢には影響を及ぽさなかったものの、各国それぞれの事情はあると思われるが、寄港する時点の受れ入げ委員会との打ち合せまで詳細がわからないことが多々生じ、また受げ入れ委員会においても、時間、計画の変更等、連絡の統一が確認されていないことがあった。そのため参加者達に連絡、説明の徹底が図られず多少なりとも不信感、不快感を抱かせたのは否めない。各国受け入れ委員会の献身的なサポートには深く敬意を表すが、更に肌理の細かい意志の疎通や、事業内容の調整を計り、受け入れ態勢の強化を計るために、現地駐在事務所の開設なり、駐在員を数力月前に派遺することができないだろうか。
5.日本国内活動
日本におげる国内活動については各国の参加者達は「最高だった。もう少し居たい」という声が多かった。これに関しては、もちろん受げ入れ委員会やホームスティを受げ入れてくれた各県の関係者の皆様のご協力によるものであると思う。
しかしながら日本における活動についてはもう少し考察しなければならないだろう。
日本に帰港する前夜は各国の参加者は荷物のバッキングや下船準備のためにほとんど寝ることができなかった。また帰港日には早朝からの入国・帰国手続、それにともなう荷物の搬出と宿舎までの移動等で疲労は極致の状態であった。更にその夕方から組み込まれていたアジア青年の集いに参加することは彼らにとってかなりの負担では無かったろうか。日本に到着したその日のププログラムはもう少しゆとりのある計画で組まれることを望む。交流のタべで、疲れたなかでの交流活動や国別パフォーマンスは過酷であり、さらには各国の参加者にとって日本のローカルユースとの初めての出会いで、交流を深める機会とするならば、できるだけ最高の状態でマッチングさせた方がお互いのためであると思う。
東京におけるフリータイムに他の国の参加者を何処に案内するか、日本の参加者は船内においてアンケートを取り、担当を決めたものの、414名を45人でサポートすることは無理が生じる。ここで受け入れ委員会とアジア青年の集いに参加し友情の芽生えたローカルユースとの積極的、かつ組織的な連携によって、その負担の軽滅が計られるようにできないものであろうか。
地方におけるホームスティは何処も大好評であった。それぞれ厳選されたホスターファミリーであったのであろう。「東京に帰りたくなかった」との声があちこちから聞こえてきた。訪問国活動のホームスティの項にも既にその評価については述べたが、他の国の参加者達にとっては、日本の現在の真の姿を認識、さらには言葉は充分に通じなかったが、日本人として心ある歓迎ともてなし等に対し深い感銘を受けたとのことであった。これらを鑑み、もちろん地方における受け入れや組織の事情も配慮されなければならないが、地方における滞在期間を、東京における滞在期間を切り詰めることによって延長することは不可能であろうか。
6.その他
この項目はナショナルリーダーとしての私自身の希望であり願望である。タイ王国においては新首相に参加者全員が表敬訪問することができた。表敬訪問に関しては参加者各自が自国の代表であるという認識と自信を深め、また将来の夢と希望を与える意味においても、できれば参加者全員で各国の表敬訪問を実施できないか。
各訪問国においては、過去の東南アジア青年の船に対する事業の評価と実績によると思われるが、新聞、テレビ等のマスコミに華々しく紹介された。事業主体である日本においても、今後の東南アジア青年の船に対する広報(報道)活動としても更に積極的なPR活動が必要であると思う。
7.終わりに
第19回東南アジア青年の船の参加者にとっては、この事業参加が彼らの人生においての一大スペクタクルドラマとなったであろう。青年達は自らの力で変身を遂げ、数々の能力を開花させた。
私のもとから去っていく、各々の参加者達の疲労困憊した顔の中に、今は、自分でも充分埋解できでいないながらも「何か」を成し遂げたという自信と希望をもった輝きと、将来を見定めたであろうキラリと輝く眼光を見たのは、唯私一人だけであっただろうか?
最後になりましたが、第19回東南アジア青年の船の事業を成功に導き、最後まで暖かく見守ってくれた大林管理官はじめ管理部、総務庁、日本国および関係国政府、受け入れ委員会、既参加青年、ホスターファミリー、ローカルスタッフ、船長はしめ日本丸関係者、さらには私達の目に見えないところで御尽力いただいたであろう全ての関係者の方々に対し、この場を借りて、深く感謝の念を込め、厚く御礼申し上げます。
今回はこの2題です。 若手の意見にどうかしばらくつきあって下さい。
折尾の町を出てから、この4月で、まる8年が過ぎたことになる。東筑高校を卒業してからだと、まる9年という月日が流れて行ったわけだ。
今、私は東京のど真ん中、東京駅から5分もかからないあるオフィスの中で、日々忙しく駆けずり回り、昼も夜もなく企業戦士として働いている。しかし、今となっては、高校時代の夢がかなえられた日々を送っていることになる。
東筑時代の私の夢は、東京の大学をでて会社へ入ってパリバリと働くことであった。当時は、そういった夢をクラスの連中とよく語り合ったものだった。そのころだろう『企業戦士』ということばが、マスコミでも取り上げられていたのは……。まだまだ、私も世の中の事も何も知らないでいた頃のことである。
男として、社会に通用する人間になりたいと、ただそれだげを単純に考え、突っ走ってきた。社会に出て、ひとつひとつ壁にぶつかり、刃向かっては、丸くなり、また刃向かう、そんな事を繰り返し生きてきた。
東筑魂ここに有りで、何も怖いものがなく、突き進んできた毎日。いつ、自分がダメをなるかにいつも脅えながらも、あのときの夢である『企業戦士』となって、九州の田舎者が、この大都会の片すみでバリバリと、東筑魂を掲げ頑張っている。
しかし……今私は、自分の夢を追い過ぎた余り、一番大切なものを、失おうとしている。それは、この世で一番愛している女房と健康である。
『企業戦士』……この言葉を、私は心地良い響きで夢見ていた。時に恰好良さまでも感じていた。しかし、今、この言葉を聞くと、悲しみを覚えずには居られない…。
私は今、殺伐とした『企業戦士』の夢からの卒業を誓いたい。そして、何かあったとき、自分を守ってくれるものが、家庭であることと、頑張ってこれたエネルギーが家庭であったことを、心に刻みしっかりとした両輪の上に乗って、今の目標をつかんで行きいと思う。
東筑を卒業してから、9年目にまた、私の前で、桜が満開に咲いている。
目の前をいくつもの思い出が駆けぬける。
やさしい風の匂いがあたり一面を満たしてゆく……
すっと目を落せば、マシュマロのようなやわらかな感触が
この手の中に鮮烈に蘇る。
少し気恥ずかしくもあるこんな想いに浸る時間を、
私は今でもとても愛しく思うのだ。
〈ステージ1〉
私の高校時代の日課は、大八車(大先輩の中には御存じない方もいらっしやるかもしれないが、部活経験のある若い東筑会には御用達の感のあるラーメン屋なのである。)で一杯のラーメンを肴に、気のおけない運中とひとくさりやることであった。部活のことから始まって学校のこと、社会のこと、瞳れの君のこと……時間の過ぎるのも忘れて、自分たちの種々を主張し合い、お互いを確かめあったものだったo夢はあったがしかし、照れもあったのか、その辺は多くを語らなかった時代でもあったo
私たちには、まだ十分若く、故に遠慮も心配りもあまり要求されない居心地の良さがあった。過ぎてしまえばわだかまりさえ残すこともなく、そんな友を得、そんな友であることができた。良き時代とはこのようなものを言うのだろうか。…。
”卒業”はそれらのものからの脱皮でもあったように思う…。が、いづれにしても今は想い出の範疇を超えることはない。
〈ステージ2〉
ここに一枚の写真がある。卒業のときに制服のまま皆で登った、皿倉山の山頂で撮影したものである。活き活きとした面々が伸びやかな輝きを携えて、青春をその一瞬に焼ぎ付けているかの如く…である。だがそれは、そんな眩しさと、次の瞬間にはその輝きを失ってしまうかも知れないという不安定な切なさを明確に峻別しながら、それらをひとつの人格とその未来の中に一緒に閉じ込めているかの様である。その心持ちは、少しもどかしくもあり、そして何にも替えがたい懐かしさもある。「卒業」とはその意味において”確定した”ものと”不確定である”ものが微妙にパランスする瞬間なのかも知れない。時代の流れの中で、私たちはこの確定と不確定を無意識のうちに意識しながら生きてきたのだろう。それは絶えず繰り返され、その意識の鉾先は若ければ若いはど強いエネルギーで無秩序に足場のない宙を彷徨う。
この一枚の写真は、単純な平面の中に、まさにその瞬間が限りなく深遠な意味を持っていることを再認識させてくれるのだ。
投函されなかった手紙という言葉で最初に思い浮かんだのは、初々しい恋人たちが自分たちの言葉にできない想いを手紙に書きしたためたが、出すに出せずにいるという姿だ。その事が頭の中を占領して離れない。言いたい事は、まわりに荒波がたっても言う。やりたい事も、人の反対があってもする。そんな生活信条を持った私にとって、今までこういう経験はあったのだろうか。手紙も書けば、必ず投函していたと思う。それに最近二、三年の事しか覚えていない私にとって、これはなかなかピンとこない話だ。と、いうことで、友達、知い合い関係、方々尋ねたところ、類は友を呼ぶの言葉通り、そんな楚々としたことには縁のない人たちばかり。どちらかといえば、考える前に行動して、失敗したと感しることが、多いとか。そういう訳でテーマに反しますが、投函してしまった手紙にまつわる話をいくつかさせていただきます。
ひとつめは、女子大の同じゼミだった友達の話。彼女は私と同じ、地方からの上京組。高校時代からつきあっている彼がいました。大学卒業後は、もちろん結婚をと考えていました。ひとっ時も離れていたくない二人だから同じ地域の大学を受験しました。ところが、彼は二年間の教養過程だけ三島。でも会いに行こうと思えば行けない距離じやない。それに二年間頑張れば、また近くに住めるだろう。そう思って最初の2、3ヶ月は毎週のように、どちらかがどちらかを訪ねるという、ふたりの大学生活は始まりました。そのうち彼は、高校の頃から始めていたラグビー部へ。もちろん同好会やサークルといったものじゃなくハードな体育会。彼女は、その頃大流行のテニスのサークル。そうやってお互いの生活パターンができてきました。そして、彼女は身近にいるサークルの先輩にだんだんひかれていきました。そんな気持ちに最初はとまどいを感じましたが、とうとう一通の手紙を彼に出すことにしました。ただ一言「つきあうのはやめましょう」と書いて。
彼女のアパートに彼が現れたのは、2、3日後でした。「手紙を見て…。好きな人ができたの?」彼女はうなずくことしかできなかったそう。勢いよく段階を駆け下りる彼の背中をみつめながら、手紙を見てわざわざ会いに来てくれた彼に感激する反面、そんな彼を裏切り、もう二度と会えなくなってしまったという事実に愕然となったそうです。
もうひとつの話は、バイト仲間の男の子の話。彼らは大学に入学したての頃、合同コンバで知り合いになりました。家も近いしお互いのクールな性格がうまく作用して、つかず離れずの付ぎ合いが4年間続きました。彼の方は、大学4年間音楽(パンド)活動に精を出し過ぎてみごと留年。彼女はめでたく社会人。このふたりもこれで生活のリズムが狂い始めました。もともと頻繁に顔を会わすようなふたりではおりませんでしたが、輪をかけて時間が合わなくなりました。そのうち彼は、同じバンドのキーボード担当の女の子とつき合うようになりました。二股をかけたり、自然に消滅する恋愛も認めていた男の子ですが、「好きな子ができたからもう会わない」と、4年以上つき合った彼女に手紙を書きました。
数年後、以前の彼女に会う機会にでくわした時、手紙の事を聞いてみたそうです。「手紙って何のこと?」と彼女。その当時の話を彼はしました。「なんだ。デモね、私も他に好きな人がいたから、あなたと段々疎遠になって良かったって思ったのよ」私のまわりには、投函されなくて「ああ」という手紙にまつわる話はみつからなかったので、逆に投函したために「ああ」とか「あれ」という話を紹介してみました。私は、投函してもしなくてもその後にやはりドラマがあると思うのですが、いかがでしょうか?
「誰にも言わなかった思い」を無性に書いてみたくなった。そもそも私はズルイ人間である。決して他人に胸の内を明かさず生きてぎた。でも、この話はそんな胸の奥から自然に姿を見せてきた。遠い昔に封印したはずの何とも哀れな物語。あれからもう、16年が過ぎようとしている。
晴れて東筑に入学できた私は、幸運にも男女クラスに最初から籍を置くことになった。最初は右も左もわからない。そのうち、このクラスは実に他の生徒の注目を集めているクラスだということがわかってきた。
彼女、Kさんがいたからである。
彼女は確かに美人だった。中学からバレーボールのエース・ストライカーだったとかで、東筑でも当然バレー部に所属していた。いわゆる”鼻持ちならないタイプ”ではなく、どちらかというとおとなしい女の子だった。それがまた、人気を集めた理由なのかも知れない。よく、上級生がのぞきに来ていた。それほど、当時の東筑では珍しかったのだろう。
一学期中はほとんど話したこともなかった。何だか”別世界の人”のようで、自分から声をかけようなんて思ったこともなかった。だいたい、私はこういう”お姫様”が苦手なのだ。ところが、そんな彼女に事件が起こる。二学期の中間テストの初日、彼女は折尾駅前で、何とバスに礫かれてしまったのだ。
担任の安永先生が、その日の朝、ホームルームでこうきり出したとき、誰もがわが耳を疑ったことだろう。「実は今日の朝、Kが西鉄パスに足を礫かれてしまった。駅前の細い道で、彼女もちょっとボンヤリしていたらしい。悲鳴を聞いて運転手が慌ててブレーキをかけたが、運悪く足の上でパスが止まってしまったそうだ。Kは門司の国鉄病院に急遽入院した。命には別状はないが、最悪、足の指を切断することになるかも知れない…」このとぎ、私の中で、彼女のイメージは一変した。つまり、”お姫様”から”何と不幸な女の子なんだろう”という風に。
なまじチヤホヤされていただけに、彼女の不幸は奥深いと私は思った。そして、とたんに妙な思いがフッフッと体の内側から湧いてきた。何とかしなければ、彼女のために、何か出来ることはないものか。
その日の放課後、私は学級委員でもないのに壇上にあがってこう叫んでいた。「みんな、お金を出し合って、Kのところにお見舞いに行こうよ。な、そうしようよ!」
これが意外と受けた。ある女の子からは「田中クン、感動しちゃった」とまで言われた。今思い出すと、何と蒼いことかと赤面しきりだが、当時はそんなこと、微塵も思わなかった。こうして、一週間後にクラスの代表と有志がKのお見舞いに行くことになった。
テストが終わった次の土曜日、我々はKの病室を訪れた。私が参加したのは言うまでもない。学級委員、副委員を含めて、10人近くが集まったように記憶している。
Kは意外と元気だった。常に明るく振る舞い、見舞いに行った一人一人と言葉を交わしていた。残念ながら、そのとき彼女に何を贈ったのか、どうしても思い出せない。私はみんなとは別に、何か本みたいなのを贈ったと思うが、これも定かではない。30分ほどそこにいて、我々は病室を後にした。「ノート取ってあげるから、心配しないで」、「早く戻ってこいよな」。そんな言葉が別れ際に並べられた。
普通ならこれで終りのはずである。ところが、私の場合は違った。最初、「全治3週間」と言われていたKの病状が思わしくなく、4週間たっても5週間たっても、一向に退院する見込みがたたなかったからだ。
安永先生はホームルームでKの状態を逐一報告してくれた。足の親指が壊死して、このままだと切断しなくてはいけないことまで教えてくれた。
私は狼狽えた。「そんなバカな」という感じだった。なんでアイツだけこんな不幸な目に遭わなければいけないんだろう。ひどいじやないか。ある日、もう一度みんなでお見舞いに行こうと提案した。だが、今回は反応がなかった。私は孤立した。それ以後、私は一人で「門司詣で」を続けることになったのだ。
2週間に1回ぐらい、私はKの病室に足を運んだ。たまにクラスメートと顔を合わせることはあったが、大抵は一人だった。Kは最初、少し戸惑っているように見えたが、やがて自然に言葉を交わせるようになった。
秋が過ぎ、冬が訪れた。それでも私の「門司詣で」は続いていた。クラスメイトからは「アイツはKのこと、好きだから」と思われていたに違いない。でも、不思議と面と向かってからかわれたことはなかった。
私自身はこう考えていた。これは恋じやない。ただ、同情しているだけだ。だって、こんなときに「好きだ」なんで打ち明けるのは、人の弱みに付げ込むようなものだ。そんなの、卑怯じゃないか!
3日続けてKが夢の中に出てきたことがある。さすがに3日目になると「もしかして俺は…」と思ったが、すぐさまそんな思いは追い払った。とにかく、「頑な」だった。私は、自らの行動を正当化しようと躍起になっていたのである。
そんなある日、確か冬休みに入る直前、野球部のMから「話があるんだ」と呼び出された。彼と私は机が隣同士だったから、Kが今どうしているか、私がどんな思いで通っているか、日頃からよく話していた。
「お前、本当にKのこと、何とも思っていないんだな」いきなりこう聞かれた。私は一瞬の間をおいて、「もちろん」と答えた。「じゃあ、悪いけど、この手紙、Kに渡してくれないか」
MがKのこと、ずいぶん前から気に入っていたことは知っていた。私は瞬時にして、友情と愛清を天秤にかけた。そして、自分の今までの気持ちを確かめるように、ゆっくりと、友情に軍配を上げた。
次の日曜日、私はMの手紙を持って門司に向かった。空は見事に晴れていた。エレベーター・ホールで待っていると、偶然、Kの女友達、Hにあった。Hは私とMのことをなぜか知っていた。会うなり、私にこう言ったのだ。「田中クン、本当にいいの。本当に後悔しないの!」それは思いもかけず、激しい口調だった。私は一瞬たじろぎ、彼女を横目で見た。そして何も答えず、黙ってエレベーターに乗り込んだ…。
長々と書き続げてしまった。結局私はKに手紙を渡し、その日から門司に行くことはなくなってしまった。Kはその後手術を行い、親指を失うことになった。出席日数が足りず、一年留年することになったが、下の代でも圧倒的な人気を誇り、何人かの人と付き合っていたようだ。ただし、そのボーイフレンドの中にMは含まれていない。私もMも、そろって討ち死にしたのである。
大学2年のとき、夏休みの黒崎で、一度だけK見をかけたことがある。ボーイフレンドといっしょに、軽やかに私の前を通り過ぎていった。元気そうだな。キレイになったな。そう思った。とても声はかげられなかった。それっぎり、二度と彼女に会うことはなかった。
Kはもう結婚しているのだろうか。
私は二児の父親になり、九州に帰るのは1年のうち1週間ほどしかない。ふとしたことで、あの頃の「封印した思い」が蘇る。出さなかったラブレタ-、それは一生、私の手元で眠り続けるのだ。
何十年か後、もしこういう付き合いができたらいいなあと思う人たちがいる。彼らは尋常小学校の同級生で、とうに還暦は過ぎている。たまたまその中の一人が、私が常連だった店のマスターだったのが縁で知り合いになったのだ。彼とは今はもう家族ぐるみの付き合いで、年に数度の貴重な帰省でも必ず遊びに行っているほどである。
現在、そのマスターは引退して、四方を海に囲まれた故郷の島で暮らしている。悠々自適の毎日だ。島の彼の同級生は、船の苦手だった彼以外ほとんどが漁師で、今だに現役で、今だに昔と同じあだ名で呼び合って元気に往き来しているらしい。
彼が島に戻ることを決めて生家を改装したときなど、その同級生たちは帰省中の孫たちまで総動員して大掃除の手伝いをしたらしい。埃まみれの屋根裏から、きしみのきている水屋の隅々に至るまで、翌旦肩が上がらなくなるほど張り切ってやってくれたと、嬉しそうに彼は話していた。
島での彼の暮らしぶりはとても羨ましい。島をぶらぶら散歩していたら、誰かが釣りたての魚をくれる。「大も歩げば捧に当たる」式だ。時には早朝、彼がまだ寝ていても声を掛けて玄関先に採れたての野菜を置いていく。特に同級生は四六時中出入りしているそうだ。
そんな風だから、私が遊びに行ったときでも彼はいつも御礼の麺作りで忙しい。昔、三十年近くうどん屋を繁盛させた腕を持っているからだ・ほとんど物々交換の世界なのだが、双方とても有難がっているのだから、何とものどがないい話だ。
例えば、夏は盛そば、冬は釜あげうどんが美味しいからすし用の桶一杯に盛って少し甘口の、勿論彼特製つゆでワイワイー緒に食べる。格別だ。時として悪友たちはこれを食べるためだけに来て一気にたいらげ、喜々として家人のためにと、しめ縄のようにぎっしりとたばねた麺とつゆを持ち帰るのだ。
一番私が羨しいのは、漁に出ない月夜(とりわけ魚河岸のない土曜が重なると、なお都合がよい)が来ると、各々が釣りたての魚を持ち寄って宴会をすることだ。皆、目は達者だし、酒飲みで何より陽気だから、見ている方まで楽しくなる。
この夏も御馳走になろうと彼の家へ遊びに行ったとき、丁度盆踊り大会の反省会の件で連絡が回ってきていた。月末の土曜が月夜だから集まろうということだった。気心の知れた幼なじみたちとの一杯。彼らと同じくらいの歳になる頃、あんな風に酌みかわせるのかなあ…とぽんやり月をみて思った。
くされ縁 月夜に酒盛り ああ楽し
第11号
(1993年 平成5年10月)
