母校東筑の卒業式と入学式に想う/東京東筑会会長 三原 朝雄 (26期)

 春酣の好季折尾の丘の桜も満開、緑の樹々に囲まれた母校、東の方帆柱山を遙か霞の中に仰ぎ見る去る3月8日、母校東筑高校の卒業式が父兄、校友等が参加し極めて厳粛裡に行われ、校長、県教育委員、PTA会長等の祝辞が贈られました。 かつて私は防衛大学校の卒業式に参列しその整然厳粛さに感服したものですが、それに遜色ない程のものでした。 私はその善悪を問うものでなく、現在の母校東筑高校の一面を窺うことが出来ると思われました。 式終了後、喜びと惜別の悲しみの裡に在校生のブラスバンド「蛍の光」に送られて一人一人が式場から姿を消していきました。 感慨深く父兄と共にその後姿を見送りましたが、往時の在りし日を偲び感慨一入でした。
  その1ヶ月後の4月6日、新一年生の入学式が行われ、入学試験の難関を突破し緊張しつつも喜びを匿し切れない元気な若人の入学式は、皆さんの御想像におまかせするとして、若い少年の希望に満ちた姿は微笑みを以て祝意を表しその成長を心から期待したところです。
  激動する現世に生きる我々先輩同窓は、今日巣立つ後輩諸君のため何を為さねばならぬか何が出来るかと泌々と憶うのでした。 母校に繁る緑、同窓への親愛の情を大切に保持し継承したいものと念じています。 母校東筑は校訓として「質実剛健」を掲げ、若人の育成に努めその自己形成に不動の成果を修めて来たものと思います。 今後は個人の人間形成とともに他人のために貢献し代償を求めない人生をうち建てて頂きたいものと心から希うものであります。

 

創刊十周年を祝す   -創刊号編集委員会を代表して- /佐藤晶(48期)

「東京東筑会報」第10号の発刊、本当におめでとうございます。

会報の発刊10周年を迎えるにあたり、創刊号の発行に携わった一員として、私が最年長であるということから、事務局より何か書いてぽしいとのご要請があり、拙い筆をとることといたしました。既に10年の歳月が流れ、記憶も部分的には薄れてはおりますが、思いつくままに、当時の想い出などを記したいと存じます。

創刊号の編集委員は、私の他に、長畑、田口(48期)、森田昭次郎(58期)、末森多賀生、今井梢、山保文枝(以上59期)青野信輝(61期)、安永敏明(67期)、小御門俊郎(68期)の諸兄姉でありました。編集会議は、皆さんの勤務の都合もあり、夜6時半頃から9時~10時頃にわたることもあり、昭和57年の11月~同58年4月まで十数回に及び開かれ、熱心な討議に時を忘れることも屡々でしたが、会議の後で赤提灯で楽しく語らいながら汲み交した美酒の味は、今でも素晴らしい想い出となっています。

編集会議の場所は、三原朝雄会長のご配慮で、毎回のように特別の会議室をご手配いただき、そのうえ、時には議員宿舎の自室で、みずからスキヤキを作っていただき、東筑時代、青春時代のお話を何い、我々一同も談論風発したことなども有難く嬉しく忘れ得ぬことです。さらに、鴛海正、白石大祐両副会長からば母校愛に燃えた数々の貴重なアドバイスをいただいたことも忘れられません。

特に白石先輩は、同窓会館の建設に情熱を注がれ、「同窓生がふらりと立寄ったり、同期会を開いたり、上京した同窓生の宿泊施設にもなるような会館を是非作ろうよ」と熱心に夢を語られていたお顔が、今でも眼前に彷彿として胸が熱くなります。残念ながら病を得られ早逝されたことは、東京東筑会の大いなる損失であり残念でなりません。

また、末森さんは、医師という多忙な身で事務局長(当時)も努めながら編棄にも参加され、大変なご苦労だったと思います。とにかく、全員が、東筑という名に恥じない創刊号を作ろうと熱と意気に燃え、原稿依慎、広告出稿のお願いをはじめ、割付け、校正、印刷(これは青野君の勤務先の印刷会社にお願いしました)等の全てに全力を傾注して素晴らしい(と自負していますが……)創刊号の発刊に漕ぎつけることがでぎました。

これは全て母校東筑をはしめ、同窓諸氏のご協力の賜であったと深く感謝申し上げます。今、静かに当時をふり返ってみますと、編集委員の皆さんはよく頑張ったなという心からの満足感と再びあのような時は帰って来ないんだという堪え難い寂寥感に襲われます。しかし、後を継がれた皆さんが益々立派な会報を出されており、今は年一回の会報を今か今かと心待ちにして楽しみにしております。

母校東筑と東京東筑会の繁栄を祈りつつ。

 

特集 『東筑と文化』 

前号の「東筑とスポーツ」にひき続き今回は文化人としてご活躍の諸先輩にスポットを当ててみました。

○書道家   松尾大酋 氏(40期)

○漫画家   国友やすゆき 氏(70期)

○雑誌編集者   赤星一郎 氏(68期)

○ジャズミュージシャン  大坪寛彦 氏(78期)

○テレビプロデューサー  北村英一 氏(61期)

 

恩師 松尾大酋先生 /山保文枝(59期)

演奏   それは音に色彩を

揮毫   それは線にメロディーを。

本物に仕込むには厳しい世界に自らを抛り込み、喘ぎ游ぐことが肝心。

書峰誌掲載・松尾大酋の言葉より

昭和弱59年秋、目本青年館で行われた東京東筑会同窓会々場にて、私が東筑1年の時のクラス担任であった恩師松尾先生に再会。師は書家としての夢実現の為、38年6月に退職、上京されましたので26年振りの再会であった。

書道評論家・月刊書道誌編集長麻生泰久先輩(54期生)の御招請により、同窓会へ参加されたとのことでした。当時既に、正方書道会主宰・創玄書道会理事として、いくつかの展覧会の審査員であり、書道界で活躍中でした。丁度その頃、師匠を捜しておりました私にとっては、まさに神のひき合わせ、60年春、先生の主宰される書道会に入会させていただき、早いもので7年経ちました。師の指導は、真摯、且つ厳格。「本物の書家ならば、全ての書体が書げねば」との信念の下、漢字・かな・近代詩文書等、古典を手本に、しごかれています。でも、その厳しさのお蔭にて、趣味だった書が、今は生甲斐になりつつあります。

更に、師は高浜虚子に師事され、俳人としての造詣も深く、キャリアもお持ちです。昨夏、正方会の有志と秋田に吟行旅行をしました折の作品を、つい先日、句集「二泊三日」のタイトルで、出版されました。師の理念の一つでもある「自詠の句や、短歌を自身の手で作品に仕上げることが、書を学ぶ者にとっての究極」それを実践しておられる訳です。

正方書道会々報別冊(63・3発行)野中吟雪著「年賀状」より

……略
それぞれの個性が小さな紙面に大きな一つの世界を展開していて見ていて飽きない。そんな中に今年は珠王の一葉が加わった。

淡墨で「心宿」の二字。右下に小さく「高」の白方印。いうまでもなく恩師大曾松尾高清先生である。30年前、先生は私の郷里北九州の高校の書道教師として勤務しておられた。当時私は1年生として書道部に在籍し、学校では教室にいる時間より書道教室で過す時間の方が多いような生活であった。「楷書が全ての基礎である」という先生の教育方針に添って1年生の私は主として楷書を学んでいたことを思い出す。六朝風の墨痕鮮やかな先生の書が、私の書への興味の出発点であったように思う。やがて「吟雪」の雅号を頂載し、いよいよ書の面白さを知ろうとしはしめた矢先、先生は大志を抱いて郷里を後にされた。
……略
雪にゆかりの越後にあって、「雪に吟ず」との雅号を用いるたびに、その命名者である恩師を懐しんでいた。
……略
昨秋「正方書展二十回記念展」を参観に出かげ、会場で念願の恩師との再会が叶ったのである。これが今、机上にある賀状「心宿」頂戴の由来である。正方展では30年振りとは思えぬ恩師のお元気な姿に接し、今も変らぬ「楷書が全ての基礎である」と言うご主張で貫かれた皆様の作品に接し、深い感銘を覚えた。
……略

野中吟雪先輩は、東筑58期生で、現在、新潟大学教授です。

松尾先生の益々の御活躍を祈りつつ

〈附記〉

松尾大酋(高清)作品収蔵
   啄木記念館
   道立函館美術館
   成田山
   東筑同窓会館 他

 

漫画家 国友やすゆき先生を訪ねて/古川奈奈(79期)

-子供の頃から漫画を描くのは好きだった-

高校の頃の思い出といえばクラスの友だちと同人誌のようなモノを作っていたという事が浮かびます。当時は同人誌を作るのがチョッとしたブームだったんです。描いていた漫画は今とは全く違っていて、SF漫画とかのいわゆる少年漫画でした。影響を受けた漫画家は石森章太郎さんです。

大学は早稲田の商学部でした。どうしても早稲田というのではなくて、漫画を描きたいから絶対東京に行くという、そういう気持ちからでした。早稲田を受験したのは、高校3年生の時、英語の補習を受け待った先生に「早稲田も受けてみろ」と言われて。「そうかな」と思って受験したのが、運よく合格したのです。そして(あの)漫画研究会に入り、念願の漫画を描く生活が続いていったのです。

そうこうしているうちに漫画界のデビューを向かえるわけです。それが大学5年の時。たまたま漫研の一級上の先輩が集英社に就職が決まりまして、『少年ジャンプ』に配属されたんです。「若手の担当は新人を育てる」というのが鉄則だったそうで、手近なところで「誰かいないか」と探していたら、僕に白羽の矢が立ったというわけです。その頃は、『ガロ』というコミック誌がはやりで、その影響で大学に入って漫画を始めたという人が多かった。その点、僕は子供の頃から少年漫画を描き続けていたので、びったりきたんでしょうねり。デビューしていぎなり手塚賞の佳作をいただきました。内容は自伝ぽいのですが、炭坑での少年野球チームの話です。(国友先生は、遠賀郡水巻町の出身で、頃末小学校・水巻中学校と進まれています。)そのあと、もう一回賞をいただいたのですが、少年ジャンブは一年間で出てしまいました。

そのあと、B級C級の雑誌に描いてましたね。売れなくて苦労していた時代ですが、知り合いから紹介していただいた仕事があったので、干上るとか、そんな風ではなかった。ほとんどの人は、そんな時、モチコミをしてその作品を本人目の前にしてボロボロにけなされて、それでもその難関を通り抜けて成長していくというパターン。が、僕の場合、「とにかく来い」のひとことで出掛けていって仕事の打ち合せもちろん、そこからは努力するわけですが、ボロボロに言われることはなくて、その点はラッキーだったと思います。作風が変わったのもこの頃ですね。なにしろ描いている絵が好きでなかった。

そして、『週刊アクション』の編集長にひっばられて描き始めた「ジャンクボーイ」が500万部も売れる大ヒット。現在では週刊の連載が一本、隔週の連載が一本、時々読み切りを手掛けるという状況です。まさかこうなるとは思わなかった。なりゆぎといいますか、いつも楽しく描いていたら、気がついたらこうなっていたという感じです。

-「自分が楽しい」が基本-

ひとつの連載が終わるたびに「今後どういう作品を描きたいのか」と、聞かれるのですが特にないですね。ホラ、僕の作品て軽いのが多いでしょう。とにかく、ずっと、おもしろおかしく描いていたいですね。読者を楽しませてあげたいし。芸術家というよりも職人という感じ。常にエンターティメントしていたいですね。だから女性の裸を描くのも嫌じゃないし、エッチを描くのも楽しい。売ろうがために無理矢理描いている絵はつまらないからやっばりわかりますね。

「ジャンクボーイ」の連載中に、担当の人が田川出身なんですが、その人の結婚式が九州であった。それに出席した時のこと、やっばりどんな漫画を描いているのかということで話が盛り上って、さっそく『アクション』を買ってきた。そしたら、たまたまその週の「ジャンクボーイ」は、思い切り工ッチな週で、新郎は親戚一同から白い目で見られてしまったんです。(笑)。筒井康隆先生も何かの本で言ってましたが、言論闘争とか検閲とかあるけれど、そんなのは恐くない。一番悪いのは、親や親戚の目だと。僕もずっと、B級C級に描いていたらそうだったでしょうが、これ程売れると親も慣れてしまって「こんなもんだ」で納得してしまいますね。

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『アクション』というコミック雑誌で4~5年前、爆発的な大ヒットを飛ばした「ジャンクボーイ」。私はその頃たまたま『アクション』が愛読書のひとつでした。主人公が時々九州弁でしゃべるんですが、まさか作者である国友先生が高校の大先輩なんで夢にも思わなかった。漫画の主人公と作者はよく似ているという話を聞きますが、その噂通り、国友先生もバワフルで素敵な人でした。徹夜明けにもかかわらず、インタビューにはとても精力的でした。

 

世の中を「連れる」雑誌とは?/赤星一郎(68期)

「歌は世に連れ……」という言葉があるが、これを我々の業界に置き換えるなら「雑誌は世に連れ……」とでもなるのだろうか。もっとも「世」が「雑誌」に「連れられた」ケースは、あまり見たことがないような気もするのだが。

私が雑誌編集者という”ギョウカイ”に足を踏み入れたのは昭和51年。バブル後のいまと似たような、オイルショック後の不況風が吹きすさび、世は就職難と呼ばれていた。文学部というハンデ(!?)に加え、就職活動時点での『優』の数がシングルという状態では(当時は『面接の達人』などというマニュアル本もなかったし)、会社訪問をしたところで門前払いをくわされるのがオチだった。仕方なく、比較的在学中の成績に左右されない出版社を受験することにしたわけだ。入社して最初に配属されたのば、当時創刊間もない『GOR0』という若者雑誌。この雑誌は一部に惜しまれつつ、昨年廃刊(ギョウカイ用語では”休刊”という)したことで記憶に新しい諸兄もおありだろう。20代から40代前半の方はご存じだと思うが、『GOR0』の看板は、カメラマン篠山紀信氏(年輩の方も、『宮沢りえ写真集』や”ヘア論争”で名前は耳にされたはず)による”激写”というヌードグラビア企画だった。新入社員にほとんど毛もはえた程度の私は、以後7年間、この企画の現場担当として走り回ることとなった。

毎日の行動の中心はもっばら夜。いまは下火になったが当時はディスコ全盛時代。学生も0Lも、アフターファイブは六本木や新宿のお立ち台もないフロアで踊る--というのが常識だった。そんなディスコに、ヌードになってくれそうなギャル(ああ、この言葉もいまや死語となってしまった!)を求めて出撃するのが、私に課せられた任務だった。

人いきれのフロアで目をキョロキョロさせながら、「これは!」と思う娘を発見すると、人垣をかきわけて近づく。
「ねえ、いまの生活に満足してる?」
「え-っ、誰よ。ナンパ(この言葉もはたして現在使われているかどうか)なら、もう少し気の効いたセリフ言ってよ」
「自分の人生変えようなんて思わないへ?」
「別に……」

と、まあこんなやりとりの末に、100分の1にも届かない確率で、カメラの前に立ってもらうわけだが、ようやく撮影にこぎつけてからも、恋人はしゃしゃり出てくる。親は「勘当」という。学校、そして職場……と何重ものハードルが立ち塞がってくる。「本当にこんな仕事を、自分はやりたかったのか」と自問自答する毎日だった。だが、その後入社した後輩たち、そして仕事や遊びで出会った若者たちと話をしていると、「実は○○ちゃんに手紙を出したんですよ」、「受験生時代に○○のピンナップを部屋に貼ってました」等々と、ある時期、彼等たちの(大げさにいえば)青春期に、グラビアを通して女のコたちと関わり、その体験を何らかの形で引っばっていることが実感された。現在、コミックに対する性表現規制など、青少年と性の問題がクローズアップされているが、”性意識”を抜きに大人になった人間など、はたして存在するのだろうかとの思いにかられる。

10年に渡る『GOR0』編集者生活を卒業した私は、これも創刊間もない『DIME』に移った。”トレンド”というキーワードを最初に世に広めた雑誌だ。
世は経済成長と、それに伴う新商品ラッシュ。「シーマ現象」などというフレーズに代表される高級品ブーム、グルメブームと、まさにバブルの迫い風。雑誌もそのいぎおいに乗りまくった。私も、オヤジギャルからアルマー二、ファミコン戦争まで様々な流行現象、そして世の中の最前線の動きをキャッチすべく、アンテナを四方八方にピーンとはりめぐらせることに終始する毎日だった。時代は一変し、「トレンドなんてマスコミが作ったウソだった」「トレンド時代の終焉」などと、喧伝されているが、私のつたない”トレンド雑誌体験”で得たものは、「流行は変化してもトレンドはなくならない」という、あたりまえの事実だ。人間が社会を形造り、その中で生活していく限り、そこには必ず大ぎな時代の流れと、ボイントがあり、その流れを読みとりたいと思うのは、現代人にとってもはや必要不可欠な条件になっているのではないだろうか。そんな欲求がある限り、形はどうあれ、雑誌に求められているのは、まさに”トレンドを読みとる力”なのかもしれない。

現在、私が籍を置く『SAPI0』は、国際政治・経済を謳い文句として、3年前に創刊された。ソ連・東欧の崩壊、ヨーロッパ・アジアなどに巻き起こる民族紛争、様々な人種対立と経済破綻によるアメリカ激震……。ここ1~2年の世界の状況は、まさにドラスティックな動きを見せている。
そんな時代の風を受けて、『パート』『ビューズ』『マルコボーロ』等々、いわゆる”ビジュアル・ニュース・マガジン”も百花繚乱の装いを見せている。身近なところでは、景気の変動、貿易摩擦、時短などに伴う「会社と仕事」から、PKO、環境問題など地球規模のテーマに至るまで、一人一人の見識、いや大げさにいうならば一人一人の「歴史観」が問われようとしているいま、そうした時代の要請に「運れられる」ように、これらの雑誌が誕生していったのかもしれない。そして、どの雑誌が時代を読みとる限を備えているかは、いずれ判断されていくのだろう。
だが、それにつけても世の中を「連れる」ことのできる雑誌は、はたしていつの日にか出現するのだろうか。

 

ジャズペーシスト 大坪寛彦クンの場合 /田中 直(78期)

彼の最初の印象は強烈だった。あれは僕が高校1年のとき、原田テルミさんの音楽の時間だった。その日はテルミさんお得意の「自習」の日で、芸達者な連中が次々にステージに上がって一曲披露するという、いわば「博多どんたく」の東筑版みたいなことをやっていた。宴もたけなわ、盛り上がってきたときに、いきなり二人の部外者が乱入、アリスの「冬の稲妻」を歌い始めた。ギターを弾いていたのはまあ珍しくない。僕が驚いたのはこの二人、なんと見事にハモっていたのだ。見かけぬ顔だがただもんじやない。西城秀樹のフリマネしかでぎなかった僕の自尊心はいたく傷付けられた。

そのときの片割れ、しつこい顔の大坪寛彦クンが今回の主人公である。彼とは2年の男子クラスのときにいっしょになった。以来約14年間、不思議なくされ縁が続いている。彼はこう見えてもなかなかの知性派だ。休み時間に例のコンビ(もう一人は大林クン。今は福岡で塾講師をしている)でハモる練習をしていたのは少々気拝ち悪かったが、頭脳明晰、弁舌爽やか、今でもジャズ・ベーシストにしてはやけに理屈っぽい。理系に進み、熊本大学工学部を志望したのもうなずけるところだ。

ところがここで運命が囁きかけた。受験失敗。家が近いというただそれだけの理由で予備校・八幡学院に籍を置くことになる。その頃僕は東京の大学に進み、しばらく音信不通になっていた。秋が深まる頃、友人の一人から彼の噂が流れてきた。「予備校辞めたよ、あいつ。ミュージシャンになるんだって。ペーシストとか言ってたなあ」

確かに彼は高校時代、ブラスバンド部の幹事を務めていた。楽器はユーフォニウム。ホルンとチューバの中間に位置する、どちらかというと地味な楽器。あいつらしい選択だった。音楽を愛しているのはよくわかる。でもそれとこれとはちょっと違う。どうして誰も止めなかったんだ!
そう思ったのは訳がある。彼は高校2年のとき、父親をガンで亡くしていた。僕は今でもその日のことをよく覚えている。ちょうど体育会が行われていた。全ブログラムが終了し、担任の安永先生が僕らに円陣を組ませた。「……実は今日、大坪君のお父様が亡くなられた。お葬式は明日だ。みんな、できれば行ってやってくれ……」長男である彼が一家を支えていかなければならないのは目に見えていた。なのに、どうして?

14年ぶりに、この疑問を彼にぶつけてみた。郊外のライブハウス。ステージの合間に、彼は僕のテーブルに来てくれた。
「オヤジが死んでしまうという覚悟はもうできてたよ。九大病院に入院した頃からね。だからあの時はそれほどショックじゃなかった。少なくとも外面上は。でも、実はそれからもいろいろあったんだ。父親が面倒を見ていたおばさんが急に死んだ。父親が死ぬ3日前だったってことは後から聞かされたよ。完壁にショックだったのは浪人中に長崎のいとこが死んだこと。16歳、白血病だった。彼女は同じブラバンだったから、何か思い入れが激しくってね。
で、思ったんだよ。『自分の生きてる時間って、ほんとに限られたものなんだなあ』って。人は生ぎてる間に自らの勤めを果たさなくっちやいけないんしやないかって。もし自分に才能があるのなら、その才能を生かすことが生きてる人の勤めなんじゃないかってさ」

たぶん、誰にも相談せずに自分一人で決めたのだろう。あいつはそういう男だから。こうして浪人1年目半ばにして、彼は見事にスッパリといばらの道を選んだのだ。しばらくは黒崎の喫茶店でアルパイトをしながら、九州交響楽団のベーシストにレッスンを受げていた。84年についに上京。目的は東京芸大受験のためだったが、あえなく失敗。早稲田のモダンジャズ研究会に籍を置くかたわら、夜は新宿西口のクイーンビ一というキャパレーでウェイターをやっていた。今はなき新宿のライブハウス「カーニバル」で2年ほど働いていたこともある。この頃は僕らもよく遊びに行ったものだo中本マリや日野元彦なんかと親しげに口をきく大坪を見て「あいつも偉くなったもんだな」と感心していたっけ。

86年頃からステージに立ち出したというから、かれこれ6年はブロとして食っているわけだ。その間、国府弘子トリオにいたり、佐藤隆のバックバンドとしてレーザーディスクに出たり、最近話題の葛生千夏グルーブの一員たったり、意外に「知る人ぞ知る」的存在になっているのには驚かされる。

僕らの頃の東筑はもう保守的な優等生学校になっていた。その中で、彼ほど自分に忠実に生きた男はそういないのではあるまいか。何かいつも心配で、ちょくちょく電話をかけてしまう。そのくせ、みんな心のどこかで「早く有名になって俺のことを雑誌かなんかで話してくれないかな」と思っていたりする。大坪は、いわば僕ら78期のアイドル的存在なのである。

 

売っ子ブロデューサー  北村英一さん/伊賀 聡 (83期)

「挫折があったから今の僕がある」北村さんはそう語った。

北村英一さん、東筑高校61期生、青山学院大学卒、テレビ朝日ブロデューサー。自らを、現在、制作番組放送時間日本一のブロデューサーと言う。月曜から金曜までの毎日深夜3時間半は情報番組「ブレステージ」、月曜9時からは情報バラエティ番組「ビートたけしのTVタックル」、金曜日8時からは音楽情報番組「ミュージックステーション」、これらをはじめ現在週に9本のレギュラーをこなしている超多忙テレビ映像ブロデューサーである。

しかし、現在、日本でトッブクラスのテレビブロデューサーの地位を築いている北村さんであるが、人生の上では大きな挫折があったという。小中学生の頃から絵に興味を持った北村さんは、東筑に入るや否や、迷わず美術部に入部、油絵を描くことに熱中する。来る日も来る日もキャンバスに向かっていた北村さん、高校3年の夏、同級生が大学受験に備えて補講をうげている間も、一人美術室で絵筆を握っていた。大学は敬愛する画家、東郷青児が在学したという理由から青学を選ぶ。しかし、絵を言くことに憧れ画家になることを夢見ていた北村さんも、大学在学中に自分の絵描きとしての力不足を感じ、絵で食べて行くことを諦める。この挫折が後の北村さんの人生を大きく変えることになったのである。

このとき同時に、ストップモーションの絵の限界を感していた北村さんの興味関心は、ノンストップで動く映像へと移っていく。映像の世界へ入るため、まずシナリオの勉強を始める。シナリオ作家協会シナリオ研究所。ここでシナリオライター、あるいは構成作家としてのABCを学んだ北村さんは大学4年生の時、あるシナリオコンクールのラジオドラマ部門で6位入選を果たす。この時の作品「炭鉱(ヤマ)のこども達」は後に東北のラジオ局でオンニアされている。

この頃までの北村さんは、テレビよりも映画の世界に入りたいと思っていたという。しかしテレビの普及のあおりを受けて映画産業はすでに斜陽産業となっており、映画会社の求人は皆無に等しかった。結局、北村さんは、昭和43年、当時の日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に入社することになるのである。
教育テレビ入社後、ワイドショー制作部に配属され、しばらくして連合赤軍による浅間山荘事件が起きる。入社間もなく、日本の現代史における大きな事件の最前線に駆りだされた北村さん、当時を振り返りながらこう語ってくれた。「若い時に大きな修羅場をくぐり抜けたから、その後は楽なものだった」と。

その後、北村さんは「モーニングショー」「23時ショー」「大正テレビ寄席」など報道、情報、パラエティー番組を中心に数々の有名番組を手掛け、日本のテレビ界の発展を担ってこられた。そうして今や、日本を代表するテレビプロデューサーの一人となられたのである。

このように長年にわたってヒットメーカーであり続けてきた北村さん、その秘訣について尋ねたところ、「周りの環境や状況に同化できること」という答えが真っ先に挙がった。「その時その条件の中でどれだけ自分をあわせていけるか。例えば、寝る時間にしてもそれがとれない時は、仕事の合間や移動中のタクシーとか一瞬一瞬の時間で寝ている」と。次に、「アイデアには限りがある。足を運んで自分のものにしていないものは使えない。瞬間瞬間の感動、驚きの積み重ねが大切なんだ」と。そして最後に「自分をその設定のなかに追い込んでみること」を。自分の仕事についてとても楽しそうに、語ってくれた北村さん、「材料は同じでも料理する人が違えば味が違ってくる。それぞれの人の感性で番組を作るんだ」と。北村さんにとって、番組を制作することは油絵を描くことの延長線上にあるのかもしれない。目分自身を表現し、伝えたいことを伝えるという目的へ向かうベクトルの上に。

昨年の東筑0B名簿の表紙は北村さんによる絵で飾られている。「今だったら言えたのかな」そう名付けられた絵には、東筑卒業後この世を去っていった同級生11人の顔が描かれている。時に挫折し、時に迷い、そして人生半ばにしてこの世を去っていった友への追悼、懐古、鎮魂を、絵によって伝えようとしているのであろう。北村さんの心に在る母校東筑とその同窓生への想いを感した。

 

新校旗の下、対小倉定期戦。   於桃園球場

この春、母校に新しい応援校旗が、御目見得した。吉川蔵夫同窓会長よリ寄贈されたこの旗は、ボールの長さ5メートル、重さ15キロという県下随一の大ぎさとの事である。塩瀬羽二重地製でスクール・カラーの臙脂に白ヌキの校章を配したシンプルなものである。

6月12日(土)に桃園球場で行なわれた第2回東筑-小倉定期野球戦に初登場した新応援校旗は、北九州の空に翻り、ライパル小倉のそれを圧倒した威風堂々の映えを見せた。
「文武両道」とは成り立ち難いものである。それでも我々東筑は仲々に健闘して来た方である。昭和47年の甲子園大会への2回目の出場以来、4~5年に一度は甲子園大会に駒を進め、我々同窓生の胸を熱くしてくれた。一昨年のラグビー部の花園大会出場に至っては「ああ、ついに東筑が」の思いひとしおであった。だが近頃は野球部、ラグピー部それぞれ頑張っているとの事だが、全国大会出場までには今少し道は遠いとの事。やはり偏差値とスポーツは正比例しないのか……。
そんななかで昨年から始まった〈東筑-小倉定期野球戦〉はやはり気になる催しである。特に「東筑野球の黄金期」直前に卒業した同窓生(小生は昭和45年卒である)にとっては、いつももう一歩の所で小倉に敗れた思いが強い。あの霜降りの小倉の夏服を見ると「あっ小倉だ、今年こそ」の思いをつのらせたものである。

その第2回東筑・小倉定期野球は6月12日(土)、天侯にも恵まれ桃園球場に両校生徒3000名に、多くのファンを加え開催された。試合は一点を取り合う緊迫したゲーム展開となったが、惜しくも4対3で、今年も小倉に敗れた。

 

会務報告

第45回幹事会

日 時 平成3年4月2日(火)  午後6時30分~8時30分
場 所 神田パンセホール
出席者 17名

議事
   一会報発行の件
     7月末に発行。広告・原稿を各期幹事に依頼
   一同窓会の件
     準備は、順調に進行している。本部同様チケット販売を行いたい旨報告あるが、検討するということで次回へ。

第3回新入生歓迎会

日 時 平成3年6月21日(金) 午後7時~9時
場 所 ビックボックス9F
出席者 約110名(内新入生35名)

内 容 東京近郊進学者100名程判明。相変らず若手OBの少なさが目立つ。新入生は久し振りの再会で大喜び。

第46回幹事会

日 時 平成3年8月6目(火) 午後6時30分~8時30分
場 所 神田バンセホール
出席者 約12名

議事
  一同窓会の件
    当番期幹事本間氏(61期)より順調に進行している旨報告があった。
    チケット販売は没。

第47回幹事会

日 時 平成3年10月1日(火) 午後6時30分~8時30分
場 所 神田バンセホール
出席者 19名

議事
  一同窓会の件
    幹事へ同期の動員をはかるよう依頼があったo

 一会報の件
    遅くなったが今月中に発送できるとのことo

 一その他
    会員の絞り込み、会費値上げを検討するとの議題が上がった。

第48回幹事会兼忘年会

日 時 平成3年12月12日(木) 午後6時30分~9時
場 所 銀座・カレッジリーグクラブ
出席者 42名

議事
  一同窓会収支報告
     61期幹事より説明・報告があった。

 一62期幹事より来年の同窓会への所信表明があった。

一 議事終了後、忘年会を行った。

平成3年度総会

日 時 平成4年2月4日(火) 午後6時~9時
場 所 新橋亭
出席者 46名

議事
①開会の辞 白石幹事長

②会長挨拶 鴛海副会長

③議長選出 三好俊輔(60期)

④3年度事業報告 川上事務局長

⑥3年度同窓会決算報告…本間久幸(61期)

⑥3年度決算報告 山保会計

⑦会計監査報告 安永会計監査

⑧平成4年度事業計画 白石幹事長
  次年度より、経費節滅のため5年間会費納入のない方への会報、名簿の発送をやめる。
  しかし、同窓会への案内状は発送する。

⑨会報発行計画 船津編集長

⑩新入生歓迎会 小御門事務局次長

⑪平成4年度予算 山保会計

⑫閉会の辞 白石幹事長

  総会終了後、懇親会に移り、校歌を斉唱後、解散。

 

編集後記/古川奈奈(79期)

「トウキョウトウチクカイ?何ですか、それ」私の耳には、最初、片仮名で聞こえ、早口ことばのワンフレーズの様に感じました。それが91年の秋、それから半年以上が過ぎ、今は楽しく編集の仕事をお手伝いしています。不思議な縁でこの会の存在を知り、ここまで導いてくれた田中先輩。最初は「たいへんだ」という気持ちだけだった私が、ここまで「がんばらなくては」という気になったのも、大変化だと思います。今では、この「東京東筑会」を知らない方々に胸を張ってお伝えしたいという気持ちでいっばいです。是非是非一度、東京東筑会を体験してみてください。きっと心地良さがやみつきになりますよ。

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2年前、何度目かの細やかな挫折があった。暇になった。世渡りの拙さが身に凍みた。腐っていた。結婚した。少し肥った。ある日電話があった。「大阪に転勤する事になった。2年でデュッセルドルフの駐在に出る事になっている」「ヘェ~」「会報の編集をたのむぞ」「えェ~」何とか9号を創った。
去年転職した。気分が少し良くなった。にわかに忙しくなった。毎晩呑む。結構疲れる。女将さんの機嫌が悪くなった。「何でそんなに忙しいのよ」蛇の様にしつこく聞かれる。
40になった。30の坂はあっと言う間に越えた。急に暑くなった。今年の暑さは一入こたえる。もうすぐ10号が出来上がる。
                       平成4年・盛夏・裕

 

第10号

(1992年 平成4年10月)

第10号