
桜の開花も間近い今年の三月下旬、北九州市で開かれた東筑高校音楽部の0Bの会合に、四十年ぶりに出席することができました。この会合は、当時私どもがご指導を受けた米倉マサ先生を囲む、48期から50期までの集まりでした。
私たち男性3人を含めて、出席者は二十数人でしたが、何しろ私にとっては卒業以来初めてのことで、顔を思い出せない方のほうが多いのは無埋もありませんでした。しかしそれでも、80歳のお元気な米倉先生はもちろんのこと、同じ学校で学んだり歌ったりした仲間だというだけで、何とも言えない懐かしさと嬉しさでいっばいでした。
これが同窓会の良さというもので、損得や理屈を超えた何物にも代えがたい喜びですが、私たちの東京東筑会の意義もここにあると思います。東筑時代の数年間しか九州で生活しなかった私とは遣い、大半の会員にとっては、東筑や九州への思いも格別大きなものがあると思います。
創刊から3号までの編集に携わったこの「東京東筑会報」は、その後さらに内容も充実して、早くも9号を迎えることになりました。会員の方々が、この会報を通じて若き日のことなどに思いを馳せるとともに、先輩・後輩を含めた連帯感や、新たな意欲をお持ちいただく源泉になればと思います。
私はこのたび、推されて本会の副会長を務めさせていただくことになりました。非才ではありますが、私は、一人一人価値観も考え方も立場も異にする老若男女の会員が、この会を通じて別け隔てなく交流できる温かみのある場として育っていくように、お手伝いして参りたいと思います。
その意味から、年に一度の東京東筑会の総会も、どうしたら会員の方々に本当に喜ばれるかを十分考えていく必要があろうと思います。そのためにも皆さんに是非参加していただいて、どしどしご意見やご要望をお出し下さるように念願しております。何といっても、会員のための会なのですから。
昭和17年3月6日夕刻。処は久留米西部第54部隊第二中隊の営内。2月1日入隊したばかりで兵器や靴類の手入、食事の準備等一切初年兵の仕事で、私は長く広い廊下を演習場高良台できたわれた後の疲労と空腹に堪えて雑巾がけに必死であった。突如営内のラジオ放送がスピーカーで流された。
かがんで雑巾を押し進め乍ら聞くともなしに聞いていると、本3月6日午後3時の大本営発表である。昨年12月8日の真珠湾攻撃の関連発表らしいがそのうち人名があげられ、何人かめにふと古野繁実の名が耳に入りびっくりした。表現出来ない衝撃であった。
生還を期し得ない特殊潜航艇に乗り込んで真珠湾で生命をうしなった9人の軍神の1人、二階級特進の古野少佐は東筑中学で5年間を共にした学友である。古野君は遠賀村の出身で鹿児島本線遠賀川駅から列車通学していた。
古野家は圧屋の素封家で父君は国民学校の校長、引退の後産業組合長をつとめておられ、祖父は遠賀村の村長として荒地の開拓や植林などに尽くした有力者であった。私は筑豊線二島駅から列車通学していたので登下校は一緒ではなかった。昭和6年東筑入学、上級に進むにつれ成績が上り級長であった。
無口で地味な性格であったが統率力があり、柔道が強かったせいか迫力があった。当時東筑の先輩で海軍中将出光萬兵衛さんが兵学校の校長をしておられたが、古野君の親戚に当るとかで、そんな関係からか海軍兵学校を目指していた。私は第7高等学校を目指して受験用の通信講座で勉強していたが、10月頃から一緒に受験準備をしようということで、学校の裏の谷を越えた丘にあった高見神社の境内で放課後二人で時を過した。
高校や海兵の問題集を解くのであるが数学と英語に全力を注いだ。海兵を受けるだけあって数学は自信があるらしくよく出来た。よく頑張った甲斐があって二人共宿願を果して「白線と短剣」の誕生をよろこび合った。海兵に入ったのは彼一人だけであった。兵学校では相撲が強かったらしい。賞品の日本刀を捧げて選手の真中で例のにがみ走った顔で写った写真を見たことがある。
最近読んだ豊田穣著『江田島教育』に次の記事がありうれしかった。
「古野少佐は一期上であるが、この人たちとはよく柔道をやった。古野さんは相撲も強かった。昭和14年初夏のことである。横綱玉錦一行が兵学校を訪れた。一号二号が胸を借りた。王錦37貫、ただ立っているだけなのに、どうしても押すことが出来なかった。その後、序ノロ、序二段という一番若い力士と一号の代表が練習試合を行うことになった。これがどうしても勝てない。さすがの一号もカタなしである。ただ一人古野生徒だけが俊敏な下手投げで立合いと同時に相手を投げとばした」
古野君と最後に会ったのは私が大学2年の冬休みの帰省中であった。折尾駅で、短剣を吊った海軍士官の颯爽とした勇姿であった。私は懐かしく、うれしく片手を挙げて「よお-」となれなれしく近寄ると、彼は姿勢を正して挙手の敬礼をし「俺は今霞ケ浦で飛行機に乗っとる。お前はしっかり学問をしろ」と言った。お説教されたみたいだが最後の別れの一言葉となってしまった。
九軍神の発表に全国民は感泣し嵐の様な賛辞、景仰が澎湃として沸き起こった。母校東筑中学では「先輩の偉勲を偲ぶと共に軍神古野少佐へ深甚の感謝を捧げるため」3月11日全校生徒が行軍で古野家を訪れて哀悼の意を棒げた。一方同窓会では「軍神を祀る」声が起こり、全国から顕彰碑建立資金が殺到したという。
九軍神の大本営発表の一ケ月後、私は幹部候補生の試験を受けた。口頭試問できまった様に尊散する人物が開かれるが、大体東郷元帥、乃木大将、楠正成、吉田松蔭等相場が決まっている。それも直立不動の姿勢で大声で答えねばならぬ。
少々力んだ声では試験官のご機嫌が悪い。「尊散する人物は誰か」私は少し間を置いて「古野繁実です」と答えた。その声は無限の感慨をふくんだ沈んだ声であった。虎の巻にない意外な人名に試験官一同はとまどい「フルノ」とは何だと怒気をあらわにした。
私は「真珠湾で軍神になった古野少佐です」更に聞かれて中学での親友なることを言葉少なに説明した。素早い反応で空気が一変しあとの質問は省かれてしまった。学科の試験はそれ程出来たと思はぬが試験の発表は最上位であった。
軍神に敬意を表しての影響かと思った次第である。昭和18年早々渡満、久留米派遣の独立輜重中隊に配属になり東部国境で警備任務に就いた。軍直部隊であるため時に上級司令部の司今官の巡視があり、会食の末席に連なったが隊長が応対に困り「閣下、当隊に九軍神の親友が勤務しております」と話を向けると、いたく軍司令閣下の興味を引いたらしく「軍神のことを聞か
してくれ」と望まれたことなど軍神にまつわる色々の思い出がある。
ところで内地では九軍神の各生家には「軍神の家」の木札が立てられ、全国各地から「軍神の家詣で」がひきもきらず、国民学校、中学校、女学校や青年学校の教官たちは銃後の少国民たる生徒を引率して「軍神生家詣で」や「軍神マラソン」などを行った由である。軍神の生家はその都度茶菓を接待し、軍神の家族たるの矜持を崩すことなく四六時中ヨソ行きの服装で緊張の連続であったという。中央と大陸や南方との往復の途次、関門や博多を通過する陸海軍の将星や政府の高官は鹿児島本線沿線の古野家を表敬するため父君は応対に大変だったらしい。
私の父は現役の近衛兵として日清戦争に出征、日露戦争にも召集されて従軍した陸軍軍曹で当時田舎の在郷軍人会会長をしていた。ある時在満の私に次の様な内容の封書が来た。日く、東筑に古野文庫が出来て古野少佐の作品が載っている校友会雑誌にお前の書いたものも載っている。軍神の遺作と共に展示されるのは名誉なことであり家門のほまれであると。古野君は短歌を、私は「ヨットが出来上るまで」という今でいうセミドキュメンタリーな物語を発表した記憶がある。
特殊潜航艇は何れも職業軍人の9人の士官と9人の下士官が各一名ずつ乗り込んだ全長23.9メートル、直径1.85メートル、排水量43.75トン、魚雷発射管45センチロ径2基の性能である。隊員の選考基準は、(1)身体強健で意志強固な者、(2) 元気旺盛で攻撃精神の強い者、(3)独身者、(4)家庭に後顧の少ない者といったところであった由である。そして選抜された10名はいずれも申し合わせた様に地方出身である。即ち岩佐大尉(群馬)、横山中尉(鹿児島)、古野中尉(福岡)、広尾少尉(佐賀)、酒巻少尉(徳島)、横山一曹(鳥取)、佐々木一曹(島根)、片山二曹(岡山)、上田二曹(広島)、稲垣二曹(三重)であり都会出身者は一人もいない。そして彼等の大半は農家出身で子だくさんの中で青ち、貧しく寡黙で剛毅朴訥型である。古野君は
裕福な家に育った点が例外に属するが、農村に育ち寡黙、剛毅朴訥なる点びったりである。歌人川田順が次の和歌を捧げているのはさすがである。
先づおもふは九柱のいくさ神
田舎に生れし人ばかりなり
序で乍ら前述の鹿児島二中出身の横山中尉が小説『海軍』の主人公のモデルである。獅子文六が本名岩田豊雄で朝日新聞に昭和17年7月1日から連載を始めたものである。この小説は大成功を収め朝日新聞の部数が飛躍的に伸びたそうである。それでも軍神の小説化が実現するにはさまざまな紆余曲折があり、軍神を小説のモデルになんぞもっての外という抗議が連合艦隊の参謀から出て本省の首脳部も苦い顔をする人ばかりで、積極的な賛成者は一人もいなかった由である。然し連載が始まり国民的人気を博するや、最初容易に承服しなかった海軍首脳部は最大級の賛辞を捧げたということである。
あの狂気に満ちた戦争が終り46年になる。世の中が移り変るは当然のことで九軍神の義挙も風化している。あの真珠湾のアメリカ太平洋艦隊奇襲攻撃から茫々50年という永い歳月が経っているのだ。
軍神という言葉はギリシャ神話時代のイメージであり、吾国でも須佐之男命や日本武尊といった神話時代は別として日本の長い歴史でも馴染みが薄いのでは。富国強兵をスローガンに近代化を急いだ明治国家になって乃木大将、広瀬中佐、橘中佐が軍神とあがめられて神社にまつられたが、エピソードに富んだ人間乃木典希といい、ロシアの貴族令嬢と恋もした広瀬武雄といい、人間としての魅力や親しみが強くて、尊敬の手段として神社を構えている感じがする。その後昭和に入っての爆弾三勇士、西住戦車長が「軍神」に擬せられ、日米開戦の緒戦に於ける「九軍神」に端を発する軍神製造は一億総決起・戦意高揚のための道具立ではあるまいか。周囲から騒がれて家族は迷惑している筈だが死んだ本人達も迷惑に思ったのではあるまいか。
古野君達は純粋に海軍の伝統を尊び、国家の為に生命を捧げただげのことで軍神など仰々しく騒がれるのは不本意だったと思う。「九軍神」誕生には次の様な経緯があるらしい。即ち陸軍の方が早手廻しに大東亜戦の緒戦の殊勲甲の戦死者を二階級進級させたことを抜打ちに発表した。一方海軍ではハワイ・マレー沖海戦の戦死者の功績を顕彰して、それを緒戦の大戦果に結びつけて国民の脳裏に強く焼きつけようという空気が強かった。そして陸軍と同じ二段跳びじや収まりそうになく、特殊潜航艇の特別攻撃隊の九名に対しては軍神扱いにしたということである。
私の心の奥では当時も偶像化された「軍神古野少佐」では失張りかたぐるしく他人行儀に感ぜられたと思う。二人で学校の裏の高見神社で受験勉強に励み、代数や幾何や英語の間題に取組んで苦しみとよろこびをわかちあったわが友。そして又将来への希望と不安、安易怠情と克己勉励、美しい女性への関心と自制といった背反のはざまに悩む青年像こそ「軍神」の虚像をはいだわが友の真の姿ではなかったか。
遮莫(さるあればあれ)、古野君はあこがれた海軍兵学校に入り職業軍人として国のため自ら進んで身命を捧げた。
君のためなにか惜しまん若桜
散って甲斐ある命なりせば
真珠湾口から近々100浬の地点で出発直前、罫紙に万年筆でこの辞世の和歌を残して、緒戦に一番槍をつげ天晴れ武人の面目をほどこした。
正に単純勁烈、潔癖爽快な東筑の精神的風土を凝縮した回天の壮挙と誇り度い。
6月9日(日)、今日は同窓会の総会・懇親会である。私は、出張スケジュールを調整し、前日から実家(中間)に帰り、そして、今日は、十数年振りに筑豊線に乗って折尾駅に降りた。ただ、この駅は、昔通学していた時の駅ではなく、中間・黒崎間を結ぶ路線で、従来は通過をしていたものであったが、現在そこに、駅が出来ているものであり、私には少なからず驚きであった。
親戚もあり、幼い頃から、かなり知っているところという思いがあったので、一瞬、知らない町へ来たかのように錯覚したが、しかし、数十m歩くともうそこは通い慣れた道であり、見慣れた町並みになり一安心、只、少し狭いなと感したが、それは一定の年齢になり、人並みに精神的にゆとりをもって少しゆっくりと歩いているせいかもしれない。数分歩くともう母校の正門。石段を見上げて気持ちを新たにしてそして、一つ一つ昔を思い出すかのように上っていった。
上り詰めると、正面に同窓会の案内があり、そこに見覚えのある顔が数人忙しそうにしていたが、名前が急に出てこない。この頃急に名前が出なくなった。これも年齢のせいかもしれない。今回は、61期が当番幹事となり、同窓会を成功させる為、北九州在住者を中心として百数十名が朝早くから駆け付け、全員が分担して、出席者の来校を待っているところである。
私も東京からの応援ということで、揃いのTシャッを着て、接客応対等、分担することになっている。懇親会の開始まで時間があったので少し校内を観て回ったが、学生当時とは、大ぎく変わっており、時代の変化を感じさせられるが、今後とも、設備など含めて、益々良くなってもらいたいと思う。
さて、同窓会は、代々先輩から、後輩まで約1000名に近い出席があり、アトラクションなどもあり、盛大に行われた。無事、全体が終了し、同期全員で打ち上げ会を行ったが、日頃雑事に追われ、自分の時間がとれていない中で、久しぶりに昔に戻って「オイ、お前」と、話し合う場が出来て、リフレッシュされたと思っている。
今回は幹事事務局のメンパーが、約一年がかりで今日の為に努力をしてきており、大変なものであったと思う。私は現在、大学の東京支部事務局をしており、これらの準備の大変さは良くわかっているが、しかし、一生に一 回でも、当番幹事をするということは、非常に良いことと思う。同窓の世話をする、又、世話をされる、誰かがやるのではなく、皆が、その気持ちを一つにして、大袈裟な事ではなく、さらりと自然にやっていくことが大事だと思う。
さあ、今度は東京同窓会の番だ。ハチマキをしめて、しっかりやらねばと思っている。ぜひ多くの皆さんの出席があることを願っている。
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「広告募集」
東京東筑会会報も第9号を数え、会員名簿も3年毎に改訂を加え、2000名に近い東京東筑会も、年1回の総会、懇親会に加え本校同窓会も羨む会報、名簿の充実は偏えに広告の御協力を頂いている皆様のお陰です。皆様も御存知の様に、会報、名簿発行の経贅は全て、夫々に掲載されている広告代金によって賄われていますが、第一号以来、限られた人達の広告に頼っていますので広く皆様から募集致します。御協力の程お願い申し上げます。御希望の方は東京東筑会事務局まで御運絡願います。
会報・名簿とも 1ページ 6万円
1/2ページ 3万円
1/3ぺージ 2万円
「原稿募集」
会報発行の時期が近づくと、編集委員、事務局はテーマ設定、原稿募集など忙しくなりますが、来年は会報発行十周年の十号となります。これを機会に広く会員の皆様に原稿を募集致します。名所、プレイスポットの紹介、詩、短歌、俳句などの作品、サークル活動と勧誘、同窓生同志のこんな集いなど何でも結構です。思いついた時に原稿をお寄せ下さい。
宛先は
〒102 東京都千代田区平河町1-6-11
エクシール平河町404
チアッブジャパン㈱内
東京東筑会事務局
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1980年、初春とはいえ3月下旬の朝5時はまだ真暗だ。物音を立てないように細心の注意を払いながら戸を開け、急遽荷づくりした荷物と靴を窓の外に出す。窓枠を乗り越えながら机の上の置手紙を確認する。一瞬、四時間前の涙ぐむ母親の顔が脳裏に浮かんだが、思い切って外に飛び出しパス停に向かう。始発パスの発車まで約15分。(これじやまるでATGの青春映画の一コマだな)半ば自嘲気味につぶやぎながら歩き出す。荷物自体は軽かったが、自分自身で背負ったものはひじょうに重かった。こうして自分の就職活動はクライマックスを迎えたのだった。
大学時代は学生寮の自治活動とアルパイトに明け暮れ、本格的な就職活動を開始したのは4回生になってから…。そのくせマスコミ志望というのだから聞いてあきれる。結局、出版社5社を回り、うち1社は最終面接まで残ったが、見事玉砕。わざと留年して、もう一年頑張ろうかとも思ったが、結局は叔父(東筑出身)の紹介で、マスコミとは無関係の堅実な一般企業に内定した。(これでいいのか)と心の片隅に多少のわだかまりを残しながらも配属先が決定。寮も決まり、入社式をあと二週間後に控えたある日のこと、毎月愛読している月刊専門誌の社告に思わず目が止まった。”新雑誌創刊に併い編集者大募集!”思わずその日のうちに履歴書にペンを走らせていた。翌日、電話を入れるとその日のうちに面接と簡単な筆記試験が行なわれ、なんと翌日には採用通知が…。思わず小踊りして田舎に報告の電話を入れた途端、親父の罵声が耳に飛び込んできた。「何を今さら馬鹿な事を考えているんだ!」冷静になって考えてみると父親のいう事は至極もっともな事だった。が、ともかく急いで実家に飛んで帰り説得開始。「自分のやりたい仕事に挑戦させてくれ」「そうすることによって、どれだけ多くの人に迷惑をかけるんだ。俺はもう知らん。後は勝手にしろ」昔かたぎの父親と夜中まで延々続いた怒鳴り合いの結果、冒頭の行動とあいなった訳である。
始発の新幹線で上京途中、不義理をかげた叔父がいる大阪で途中下車して謝罪し、人事担当著にも正式な入社辞退を申し出、すでに寮に運び込んだ布団等の撤収手続をとる。それから慌てて新たなアパート探しを始めたわけだが、意地を張って親戚関係からもらった就職祝も置手紙と一緒に置いてきた手前、懐は苦しい。結局、高三時代の級友の紹介でころがり込んだ下宿は家賃18,000円!の四畳半。もちろん風呂なし。トイレ、台所は共同だ。
最終的に引越が終わったのが4月1日、出社は翌2日からという綱渡りのような社会人生活のスタートだった。
(一人前になるまでは帰らない)の誓いどおり、それから三年間、一度も関門海峡を渡ることはなかった。
編者の方から就職活動についての原稿を書くようにいわれて、私は非常に困った。というのは、就職活動らしい活動をしていないのである。というよりは、大学4年の時点ではどうも就職活動というものが、ピンとこなかったというのが本音なのだ。
私が大学を卒業する年(1984年)は、現在と比べようもないくらいに景気が悪く、買い手市場で、求人もあまりなかった様に思う。故に選択する余地がなかったと言っても過言ではない。しかし、私の場合、いわゆる大企業というものに興味が無かったので、それほど不景気という事を身近に感じなかった。(今考えてみれば、大企業の利点をよく知らなかったというふうな単なる世間知らずという面があったのは否めないが)
大学を卒業して大企業に就職して、その歯車の一部として使われ、必要がなくなれば捨てられるというようなことは避けたかったのだ。できれば若いうちから経営者としての視点で会社及び、社会全体を見たかったのだ。こう言えば格好良いのだが、確かに大きな組織からの逃避に過ぎないかもしれない。少なくとも、自分の実力を判断し考慮したうえでは、大企業のトップになる器ではないことはわかっていたつもりである。
業種で言えば、人の営みの遊びの部分に関係のある業種に就きたい、出来れば、大学の専攻を生かせればよりよいが、別に固執するつもりはなかった。又、就職といえども永久就職ではなく自分の能力をより高めていく、ステッブアッブの場を選択すると考えた。
といえども、結局のところ、大学に求人票を出していたところ、友人がパイトしていたところ、などへの会社訪問にとどまり大した努力はしなかったのである。
結果、現在の会社に決めたわけだが、その理由というのは、単に感じが良かったというだけである。ただ感に頼っただけの馬鹿みたいな理由で決めたのだ。今考えると心もとないことではあるのだが、結果的にはそんなに悪かったとは思ってないのも事実である。採点すれば、百点満点でばないが、一応及第点ではある。現在の会社での給料や侍遇など、決して満足できるものではないけれども、会社の規模が小さいだけに、人間関係は家族的であり居心地は満足に値する。(この居心地の良さが、自分にとって悪影響を与えている部分もあるのだが。というのは、冷静に会社というところを、自分の能力をアップする場であるかどうかを、判断する判断力を鈍らせているからである)
しかし、これに甘んじていないで、これから先、自分が何をすれば良いのかを探りつつ、現在の仕事を通じて自分を高めていぎ、より良い処遇を手に入れていきたいものである。故に、現在でも、私の就職活動は続いていると考えている。
この会報をお読みの先輩の方々、何か良い情報がありましたら、御一報をよろしくお願いいたします。
就職とは恋愛のようなもの。超売り手市場の現在は、さしずめ「男あまり」の恋愛市場と同し。マメに連絡をくれ度々食事をごちそうしてくれる「メッシー君」。地方など遠くから来る学生には高い交通賞をくれる「アッシー君」。本命ではないが、とりあえず決まるまでの「キーブ君」など。
本命は大体において「高望み」。この高望みがどこまで叶うか。学生にとってこれは大間題。就職においても人気は「三高」。イメージが高い、社格が高い、給料が高い。あるいは最近は、「花鳥風月」ともいわれる。花形産業である。長期体暇がとれる。社風が良い。月給が高い。
買い手側の多くの企業にとっては、まさに受難の時。かくして、企業側の涙ぐましい努力は今日も行われる。
さて、このように近年毎年繰り返される茶番劇を笑い飛ばしている映画が「就職戦線異常なし」。ここでは、4年生が繰り広げる就職レースを、後輩達がトトカルチョにして楽しんでいる。
就職活動は今やゲーム的。次から次へと現われる面接官を、マニュアル化された呪文のような受げ答えによりクリアしてゆく。「就職の達人」「面接の達人」など、この呪文を満載したゲーム攻略法が、この時期、書店の棚に並ぶ。
0B訪問と称してやって来る学生に会っても、彼らが話すことは、結局何らかのフォーマットの上に乗っている。(ような気がして仕方ない)
ところで、かくいう私は?
当時の手帳を開いてみる。5月下旬の0B訪問から始まって、6月の各種セミナーヘの参加。7月に入っての呼び出しと内々定。8月に入ってのいわゆる本命群の本試験と面接のラッシュ。そして9月3日に最終決定するまでの3力月半、私の手帳には切れ間なく連日予定が詰め込まれている。何か強迫観念に突かれているようだ。就職活動には異常なまでのバワーが必要だ。
しかし、客観的にみると、私自身も何万人もいるマスゲームの一つの駒にしかすぎなかったような気がしてならない。特に人気企業の何千人をも一度に収容してしまう試験会場を思い出すと、機械的に部屋から部屋へ排出されて行く学生達、何者かに操られているかのようだ。
現在私の名刺には「マーケティングブランナー」とショルダーが入っている。広告代理店「電通」の詞査によると”平成就職貴族”の働きたい部門の1位が「企画部門」(53.5%)、2位が「広報・宣伝部門」(37.2%)だそうだ。みんな深夜番組の見過ぎなんじゃない!
最近の就職-採用活動は、騙し合いの場と化してきている。互いにいかに自分をスマートに、クレパーに演出するかに力が注がれている。前述調査で、就職を決めた会社が「第一志望の会社だった」が44.1%、「第一志望ではなかったが、入りたい会社だった」が33.1%。四人に三人の学生が、会社を編して、いや、会社に編されているのだ。
0B訪問の学生に尋ねられて一番困る質問がある。「何故この会社を選んだのですか。」いつも次のように答える。「縁だね。」就職はまさに縁。恋愛、結婚とまさに同し。最近は離縁も増えている。入社研修後に辞めてしまうことを「成田離婚」というらしい。縁は大切にしたいものだ。同し東筑出身というのも何かの縁、縁があったら一緒に仕事しましょう。
私の在学した時代の東筑はスポーツにおいても何ら特筆すべきものはなかった。
インターハイや全国大会への出場が、運動部の良否を決めるものではないが、一つのバロメーターではあろう。とにかく弱かった。又練習もしていなかった。その意味で、居心地のいいことは間違いなかった。
私の所属した水泳部。
数人が同好会的に集まるだけ。部員以外の友人どもも遊びに来て水泳ゴッコをして終り。ひどいヤツに至っては、女人を連れ込みブールの中でキスをしでかすケースもあり、とてもとても部とは言えるシロモノではなかった。
かく言う私ももともとは水泳ゴッコの一員でおり、極端に部員不足の為、請われて3年生で入部したような次第。新入部員にして最上級生というワケのわからん事をしていた。
入部早々インターハイの県北予選が小倉高校で行なわれた。オリンピックなどでご存知のとおり、競泳はタイムの良い者が真中の4コース、3コースをとり、悪い者は1コースや8コースに回る。ということは、競泳は普通であれば、4コースを頂点に円錐形にレースが行なわれるわけだ。県北予選のこれまた予選レースはタイムなどわからない為、経験則に基づき、3年生が4コース、3コース、1年生が1コース、8コースと振り分けられた。私は3年生であるが故に4コース。私はイヤな予感がした。東筑よりはるかに強いと思われる、八幡工業や門司工業の1年生が1コースや8コースにいるのである。結果は8人中7位!
このレースは何ともめずらしく逆円錐形のレースとなったのである。私は最下位を避けようと後を見ながら泳ぐという前代未開のレース体験をした。
ある夏の日、練習もせずブールサイドで寝ていると、同級生のラグビー部員が「オーイ田中!あしたの練習試合に来てくれんかノォ-!」と駆け込んできた。ラグビー部も十人しかいなかったのである。
6月8日卒業以来21年初めて同窓会に出席した。懐かしい顔もいたし、「はて、こんなヤツ居たかな?」と悩む顔もあった。その席で言われたのが表題の「東筑とスポーツ」について一文書いてほしいと言うのを酔った勢い調子良く引き受けてしまった。元来、文章を書くのが苦手だし、まして高校時代スポーツ部にいたわけでもない。これは困った。私の友人でも「高校時代とか学生時代には、良く母校の野球の応援に行った」などという話をするのがいる。しかし私は在校時代には一度も自分の学校の野球の応援に行った事が無い。
どうもあの当時野球部に頭に来ていたのである。私は中学時代には陸上部に所属していた。野球部が校庭の大半を使って練習をしているのに我々は校庭のすみっこの、草がはえて、所々、凹凸があってたまに捻挫をしたり、スバイクで自分の足をひっかいたりするような所で毎日走っていたのである。陸上部のヤツはただひたすら走っていた今で一言う暗いヤツ、それに引き換え野球部のヤツはモテる。野球部なんか面自くない応援なんかに行ってやるものかと変な考えをしていた。野球部の人には悪いことをしたと思っている。野球部が校庭の大半を使っていると言ったってそれは野球部のせいではない。野球というスポーツが100mトラックみたいな所ではできないスポーツなのだから、それを野球部に八つ当たりしたってしょうがない事だし、またもてないのは自分達のせいなのだがどうもそれを認めようともしなかった。というわげで在校時代は一度も応援に行かなかった。
東筑卒業後私は東京に来て、大学3年の昭和47年、東筑が30数年ぶり とかで甲子園に出た。ところがそのとき、あいにくわが家のテレビが故障して、全く映らなくなってしまった。仕方なく隣の家にテレビを見せてもらいに行った。最初の内はNHKのアナウンサーも調子の良いことを一言ってくれて「福岡県を代表する進学高校、厳しい勉強と野球を両立させて見事甲子園に出場」などと褒めてくれて隣の人から「すごい高校を卒業なさったのですね」と尊敬の眼差しで見られたものである。ところが段々情勢が悪くなり、最後は「東筑高校全く良いところがありません」と5対0で負けてしまってスゴスゴと隣の家を後にした。やっばりこういう時は勝って欲しかった。
ところがあれは大学卒業の翌年、確か昭和51年の秋だったと思う。金曜日の夜、仕事が終わってから寝台特急で九州に行った事がある。東筑の音楽部の後輩の練習を見に行くためであった。合唱コンクールが間近なので土曜、日曜と練習するはずであった。ところが、行ってみると「東筑が野球で勝ち進んでいて、ひょっとしたら甲子園に出られるかも知れない」と言うので、日曜目の練習は中止になり、後輩を連れて小倉球場に応援に行った。たぶんそのころになると野球部コンブレックスはなくなっていたのだろう。後輩と一緒に大声を出して応援した。東筑が強かったのか相手がヘタだったか知らないが、ホームランを打ったり、ダブルスチールを決めたり、おまけにホームスチールも二回決めてくれた。
それこそ手を叩きあって喜んだ。「ガラガラ声になってしまうから生徒に大声を出させないでくれ」と当時の音楽の米倉先生からきつく言われていたのだが、そんなことなどとっくに忘れてしまい、大声で応援した。その効き目があったのか19対2でパカ勝ちをした。そのとき歌った東筑校歌がなんと言っても一番思い出に残っている。
こんな良い校歌は何度でも歌いたい。今年も頑張ってもらいたいものである。
今から30年前の3月1日不安と緊張の中で東筑高校に入学した。同時に剣道部に籍をおき青春の第一歩を歩き始めた。
当時の柔剣道場は校舎の一番北側に位置し、わずかに湿気があった。入学早々剣道場に入って「これから三年間この道場で先輩達と鍛練していくんだな」とつくづく感激した事を想い出す。
入学2日目から授業の終了ベルが鳴るとまっすぐに道場へ走る毎日が始った。稽古内容も中学とはまったく違っていた。
何せ県内でも五本の指にはいる伝統ある高校、そして剣道部、当然稽古も厳しかった。
私が入部した頃の先輩達は強かった。その先輩達をきりきり舞いさせていたのが教師であり師匠である谷口安則先生だった。入部当初は先輩から、先生には当分掛らなくても良いと言われていたので、先輩達の稽古をじっと見ていたが、それはすさましいものだった。稽古内容がいかに厳しかったかを書く前に道場のレイアウトを書いておくと、玄関をはいるとすぐに上靴を脱ぐ三和土があり、その左に大きな鏡が掛っていた。道場には左側にタイコがあり、右側には先生の控室、部員の更衣室、剣道の正課で使用する防具室兼更衣室、シャワー室があった。両サイドは板張りで段がついて、その上がガラス戸だった。剣道着等はその窓側に干すわげだが、先輩達は日当りの良い左側の窓側、我々新入部員は右側の日当りの悪い方の窓側に干したものである。
そして正面は柔道場との境界が数センチの厚板で仕切られ、全体をカンヌキで補強してあった様に記憶している。たしか左下に柔剣道場を往来できるようくぐり戸があった。当時、体育の剣道選択者はわかると思うが道場の風景を想い浮かべながら読んでいただければ幸いである。
さて谷口先生との稽古風景を記述しよう。先生と先輩達の稽古を端から見ていると、最初の2~3分は先輩達もまだ元気があるが、5分もするともうメロメロになり、ハメ板にぶつけられ、玄関からつぎ出され、ひっくりかえされ、道場の真中で稽古する暇はほとんど与えられなかった。そのうち”ハッ”と、ハメ板が異常に傷んでいるのはこのせいだと初めて気づいた。
厚板がひび割れ、ひずんでいて当初びっくりしたものである。
しかし同じ運命が入部後一週間も経たない間に我々新入部員にもやってきた。玄関からつき出されるのはまだ良い方、道場内のハメ板や両サイドに常に追いやられると逃げる所がない、前に出ると突かれハメ板にぶつかる事の連続だった。その内少し要額を覚え、稽古に疲れると先生に掛る為列の後に並び、順番を待つ間に休み、あと2~3人位で先生に掛る順番がくると、列を離れ又他の先輩と稽古する。だがこれも時々見破れて散々しぽられた。稽古の始め稽古の終りは、先生もしくは主将がタイコで合図する訳だが、稽古が始って1時間も過ぎると合図のタイコが待ち遠しくていつも祈るような気持になったものだ。
稽古が終り帰宅途中、当時剣道部では禁止されていたのだが回転まんじゅう(駅近くの線路のそば)を先輩達とよく食べて帰ったものである。(先生、もう30年経過していますので時効ですよ)
稽古が苦しいだけに1年生から3年生まで部員の仲が非常に良かったし中々団結力があった。当時は良く分らなかったが、卒業してから、谷口先生は我々が試合に勝つ事が理想だが、それにも増して部員が仲良く、団結心に富み、人に迷惑をかけない強い人間に成長する事を目措されていたのではと思う。だから部員には平等に愛情を注いでいただいた様に思う。
又東筑剣道部にとって忘れてならないのは、板倉さんの事である。防具・竹刀といろいろ面倒をみていただき更に合宿では食事の準備までお世話になった。私達剣道部員は在学中とても多くの方々の協力を得て稽古し試合に出場させて頂いた。そして何よりも剣道の稽古を通じて心を鍛練した3年間であったと思う。そして谷口先生は当時の私達東筑剣道部そのものだった。
高校生生活では楽しい事もあったがこの年齢になると苦しい時の想い出の方が鮮烈に覚えている。母校から遠ざかって久しい自分がこうして想い出を綴っていると、不思議なくらいだ。当時の事がつい最近のごとく想い出される。今こうして自分が社会人として一人前に生きて行けるのも剣道部というか、谷口先生に鍛えていただき根性を植えつけていただいたおかげだと感謝している。
最後に東筑剣道部の健闘を期待したい。是非玉竜旗・全国大会団体戦を制覇したというニュースを近々聞きたいものである。
名誉会長 川崎文一郎(47期)
会 長 入江藤生(32期)
副会長 守 圭介(52期)
副会長 占部宏猷(55期)
幹事長 江頭保浩(59期)
わが東筑高校同窓会員、総数三万余人の会員を数え益々隆盛にむかっています。また会の運営も従来の卒業期別から地域別へと向かっており、近年全国客地から地域別支部設立のたよりがきかれます。
このような気運の中、平成3年3月6日に「上総東筑会」が誕生しました。この会は、上総地区に居住する東筑高校(旧制中学校・折尾高女を含む)卒業生で構成され、会員相互の親睦を深めることを目的としています。
発足時の会員数は120名にのぽり、今後は東京東筑会との緊密な連携のもとに関東地区における同窓会活動の発展に大きく貢献することが期待されます。会員のみなさまの御健闘と御多幸をお祈りします(文:東京東筑会事務局)。
上総東筑会の主な役員は、上記の方々です(平成12年6月現在)。なお、事務局は末記の通り。
〒299-11 君津市中野 6-10-10
神谷国男(℡ 0439-52-5413)氏内
「さて皆さん、今期は残念ながらこの早慶戦を前にして、既に慶応の優勝が決まってしまいました。われらが早稲田にとって屈辱の早慶戦となってしまいましたが、しかしワセダはあくまでも紳士です。ここは素直に3塁側へ称賛の言葉を送ってあげようではありませんか。皆さん私が『せ-の』と言ったら大きな声で『おーい、慶応、優勝、おめでとう』とお願いします。せえ---の!」
「オーーーーーーーィ」
「慶応」
「ケーーーオーーー」
「優勝」
「ユーーショーーー」
「おめでとう」
「オメデトーーーー」
ところどころに黄色い声の混じる「ワァー---ッ」という歓声が沸ぎ起こり、三塁側の慶応スタンドには、北梅道の原生花園を坊佛とさせる、圧倒的な数のボンポンが真っキッ黄に咲き乱れた。やがて……
「オーーーーーーーーーイ!」
「ワセダーーーーーーー!」
「ニンゲンカガクブーー!」
「オメデトーーーーーー!」
その瞬間、緑濃くゆれる神宮の杜は大爆笑の渦と化した。
1987年。この年、早稲田は東京から西武球場へ行くより更に不便な、所沢市は「コテサシ」という所にどデカいキャンバスを開設した。日本史に詳しい人なら、北条軍が新田義貞に大敗した「小手差原合戦」と言えばピンとくるであろう、彼の地である。いかにも「関東ローム層」という表現がピッタリくる、なだらかな台地に出現した広大なキャンバス。その名も人呼んで「人間科学部」という。
この記念すべき年にワセダ野球は、優勝の「ュ」の字も出ることなく、あっさりと慶応に完全優勝を許してしまったのだった。そして、翌年の観戦を就職活動で潰してしまった僕にとって、この年が学生として見ることのできる最後の早慶戦となったのだ。
早慶戦はいい。六大学野球の他のいかなるカードとも別格だ。
要するに初夏の風物詩、一大フェスティバルなのだ。
泊まり込みの大集団。酔いも疲れもものともしない学生達。1塁側には「w」の人文字。3塁側には黄色いボンポン。
格式ばったエールの交換に始まり、チアリーダーの交換で慶応のレベルの高さを思い知ることも、「お--い!」で始まる応援合戦に声を潰すことも、勝利の瞬間だけに許される応援歌をトチリながら歌うことも、全ては優勝云々、勝負云々などという次元を越えた所謂「伝統」という名の文化なのだ。
その「伝統」と呼ばれるに相応しい対戦力ードが、今年から僕の故郷でも生まれると聞いた。
「東筑-小倉」の定期戦。
ほっといても無茶苦茶な盛り上がりを見せそうで、ワクワクしてしまう。まさに「早慶戦の北九州バージョン」だ。
ン??……ちょっと待って下さいよ。「東筑のワセダ」ーーこれは解かる。
ユニフォームも応援も間違いなくワダしてる。
だが。
「クラコーの慶応」?……なんか今一つ解せん。せいぜい「ホーセー」か「メージ」ぐらいに留めておきたいところ……でも、ま、いっか。それならそれで、クラコーの応援団には全員、黄色いポンボンを持って頂くとしよう。
とまあ、こんな具合に、応援する側のシュミレーションまでしたくなってしまう、このカード。北九州の初夏の風物詩として幾多の人々を魅きつける、素晴らしい文化に育って欲しい。ドカーンと景気よく!!
追伸--これだけ東筑-小倉の定期戦への思い入れを詰め込んでおきながら、現実にサラリーマンしている僕にとって、1200キロ彼方のお祭りに駆けつけるのは至難の業です。だからせめて、三萩野のスタンドへ精一杯のエールを返してあげようと思います。
「返す?」……そう、聞こえるんですよ、学生席の大広援が。貴方にも聞こえてませんか?こんな声が。
「学生注モーーーーク!!」
「何ダーーーーーーー!!」
35期の堺先輩から「大変稀少価値の高い本を入手したので読んでみたら」と渡されたのがこの本である。
内容は著者の原先輩が久留米商業学校の教諭時代(昭和8年)、若かりし日々の懐かしい思い出を母校東筑中学(丘の中学)に偲び、学園生活、学友との交友、情愛に満ちた家族や当時の家庭や村々の行事、習慣等を克明に描写し乍ら、青年のエネルギーを程よく発散させ、時には乱暴や悪戯をし、それでいて自己の目標をちゃんと持って勉学に励んだ東筑時代を追憶しての小篇です。
本篇の中に描かれた大正初期の学園生活、折尾の街、通学風景などは当時を彷彿とさせるものがあり、この機会に一部を御紹介してみたいと思います。(驚海記)
中学は丘の上にあった。起伏した丘の頂きを切り拓いてその上に建てられていた。だから中腹以下のにあたるところは自然のままの松やその他の潅木が密生していた。この松の茂みの中にたっている正門を潜ると三段に区切られた長い石段を昇らなければならない。第一の階段を昇りつめると左側に松の林に包まれて門衛所がある。
背の少し曲がった爺さんが、老眼鏡の奥から登校する学生の足許を一々検査した。若し下駄のまま
で通りでもしたら忽ち大喝された。学生はみんな正門前の文具店に下駄を預けて、そこで靴と履き代えて門衛の前を通った。
二段三段の石階を昇れば、美しく刈り込まれた、樅や檜のかなり広い植込があって、その背後に薄い鼠色に塗られた凹字形の校舎が聳えていた。しかし学生は第一の階段から左右に分かれた、なだらかな坂を上がって東西の生徒昇降口から入ることになっていた。下級生は右の坂を昇って、雨天体操場と本館との間の長い飛石を伝って教室に入った。玄関からは卒業までついぞ一度も這入ったことはなかったが、すぐ右に応按室、左が小さい方の職員室、突き当たりに校長室の扉がいつも重く閉ざされていた。(後略)
1940年生まれの57期にとって、昨年の1990年は50歳という記念の年でした。6月の本校同窓会の折、50歳と言う節目の年であり、修学旅行のやり直しと言う意味も含めて企画された琵琶湖から京都と言う一泊旅行に東京からB名、九州から15名、中部から3名、地元関西から8名の計39名が参加しました。男女比は22名と17名で在校時の男女比に比べると女性の参加が目立ちました。
旅程は米原駅で集合し、バスで長浜ロイヤルホテルで長旅をいやし、長浜港でくだんの記念写真を撮り竹生島観光へ。夜は大宴会となり、紅顔美少年の真面目学生が大宴会部長と変身し、清楚無口な美少女が腰振りバフォーマンスつきの大カラオケ大会など、三十数年ぶりの再会は何とも楽しいものでした。
次の日は、観光バスで京都ヘ、清水寺、東山、銀閣寺、金閣寺、二条城などを見学、名残りを惜しみながらの解散となりましたが、途中、清水寺からの帰り道、所用の為欠席通知の在阪同期生とばったり。同行の女性が、御夫人だったのかどうか、世間の狭さをつくづく感しるものでした。
第9号
(1991年 平成3年10月)
