御挨拶/東京東筑会副会長 鴛海 正 (38期)

昨年々頭、国民ひとしく哀惜のうちに昭和天皇が崩御され、昭和64年はわずか7日で幕を閉じました。

昭和の元号は「君民一致して世界平和に邁進する」と言う理想を唱ったものですが、皮肉にも戦前はこの元号と裏腹に「金融恐慌・戦争」の歴史であり、戦後は「平和・発展」の時代でした。今、日本は世界第二の経済大国、世界第一の債権国となり、その責任を果たさなければならなくなりました。

平成の元号は、国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が、こめられていますが、内には三人の首相更迭、外には天安門事件、東欧・ソ連の変動、統一に走りだした東西ドイツ、重要課題が山積して政局は混迷を続けています。

さて、東京東筑会は本年より、懇親会の幹事期を本校同窓会に合わせることになりました。昭和54年から63年までの10回を50期代の皆さんに懇親会幹事をお願いし、そして昨平成元年、60期へとバトンタッチして頂きました。50期代の各期並びに49期の会員の皆さん、公私共に多忙の中、会場の選定、参加人員の見込み、収支の心配等されながら、各々に工夫・趣向を凝らしての楽しい懇談会を演出して戴き、本当にご苦労様でした。十年ひと昔というか、何か一段落ついたような気がしないでもありません。

豊かな人生を送るには人脈が何物にも代えがたい財産であると言われています。交遊が仕事の範囲に限定されることなく、お互いの社会的立場や地位を忘れて、同郷同窓の先輩・後輩と日頃は窺えない素顔に接することの出来る喜びは、何物にも勝るものだと思います。

 

創生期の音楽部/長畑寛照(48期)

私ども48期は、折尾高女などと合併して新制東筑高校一期生ということになっている。 とはいえ共学は二年後輩からで、私どもはその恩恵を受けることはでぎなかった。だから音楽部は男女生徒が共に過ごせる数少ない場であった。

当時、女子部員2、30人に対して男性部員は10名に満たない淋しさだったが、それだけにまとまりはよかった。その頃は未だ、女性と一緒に歌うなどは軟派のやることと思われたのかもしれないが、東京東筑会にいる同期の田中昭君や49期の田仲真二君など、仲間はみな軟派ではなかったと思う。 後に武蔵野音大に入った松本君はピアノが達者で、女性の憧れの的となり、ベートーペンなど弾いていると、女性たちがうっとりして取り巻いていたのを思い出す。コーラスの練習には今もご健在の米倉マサ先生の厳しいご指導をいただいた。

南校舎の講堂で開かれた音楽会での男性コーラス「狩人の合唱」や「ステンカラージン」などを指揮したり、妹のピアノ伴奏での独唱の途中で出だしを間違えたり、また、運動会で数名の部員とマイクで「若い力」を歌ったりした思い出も懐かしい。

現役の音楽部の方からその近況をお知らせいただいているが、私どもがささやかに始めたコーラス部の活躍振りは目覚ましく、スポーツばかりでなく文化面でも大いに東筑の名を上げていることは本当に嬉しいことである。

物が満ち足りた今の日本人が求めているものは、人間らしい心のゆとりを取り戻すことだと思う。その意味で音楽の持つ力は大きい。

残念ながら、もう自分で歌うことはないが、私は今、日本舞台芸術振興会という財団の役員を兼ねて、スカラやウイーンをはしめ数々の世界のオペラやバレエ゜、オーケストラの公演等々を主催するお手伝いをしている。一生音楽とは縁が切れそうにない、という今の幸せを有り難いと思っている。

 

合唱と健康/音楽部OB会会長  安部和冶(51期)

◇合唱のこと

まず健康だと思う。心身が健康であればあらゆる事柄に挑む機会がもて、そしてそれを克服し前進する可能性も備えていることになる。

母校の音楽部の練習風景を見ていると随分変わったように思う。床に横たわって腹筋や背筋の鍛練をしたり、目をつむり心を頭上数メートルの位置に置き、呼吸を整える練習をしたり、プロのそれに近いように思え、見方によっては楽しさよりむしろ苦しさのほうが目に写ってしまう程だ。

何時の頃からか定かではないが音楽部OB会員の会話の中に「音楽部が頗る活躍しているという言葉を方々で聞く」という。
最上位の成績は、1984年に大阪で開催された全日本合唱連盟主催による全日本合唱コンクール全国大会で銅賞の栄を得たことである。その後にも先にも全国大会への出場はない。日本合唱連盟のコンクールでもNHKのそれにしても、毎年、福岡県大会では殆どが金賞を受賞するといった上位のカを有しているのだが、全国大会の壁を乗り越えられるか、或いは打ち破れるか、いずれにしても途撒もないことのように思えるが、次のように解析してみれば案外と可能性が見出せるような気がする。

一、諸先輩方の合唱音楽に関する更に深いご理解とご声援。

二、親達に「子供が音楽を通じて生涯に必要な何かを学んでいる」といった親と子の信頼の絆をよる。

三、音楽部の先輩達は自分達が取得した業を惜しむことなく後輩に贈る。

この三つがハーモニーしたときその共鳴の力によって全国大会の壁を脆くも崩壊させられると確信できよう。
現役生達はこれに応えるべく「先ず健康」で今日もまた、発声方法の取得に励んでいる。

◇OB会のこと

音楽部の歴史は48期生により創設され今日に至っている。その伝統は米倉マサ先生から現在の原田テルミ先生へと伝えられている。

音楽部としての財政は乏しく上位の成績を得れば得る程活動費が嵩む。遠征費は原田先生の自己出資によるものがかなりあると聞く。会員達は現役時代の自分の夢を後輩に託し、彼らへの援助を更に充実させたく、89年に組織を新たに活動をしている。

 

仰木近鉄日本一をとる会/編集部

オーブン戦も終盤にはいった3月22日18時30分から、千代田区平河町全共連ビル『マツヤサロン』に、東京東筑会会員多数、近鉄百貨店など在京近鉄関係者、マスコミ取材陣など、約400人を集め、『仰木近鉄バッファローズ日本一をとる会』(石田正明代表38期)主催による仰木監督激励会が催された。

当日会場は、真黒に日焼けした仰木監督、村上、金村の両主力選手に加え、本年ドラフト1位で近鉄に入団した野茂投手ら三選手を迎え、華やいだ雰囲気に包まれた。先づ石田事務局代表の開会の辞に始まり、同『……日本一をとる会』会長でもある三原朝雄東京東筑会会長の挨拶、古岡勝世話人(36期)の音頭によるカンパイにつづいてバーティーにうつった。
バーティーは日本テレビ・アナウンサーである山下末則氏(63期)の司会により、迎木監督、村上、金村、野茂ら三選手へのインタビュー、来賓からの激励など、終始和やかに進み、安永知之君(早大4年・85期)によるエール、東京パッファローズ応援団の指揮による応援歌の大合唱を最後にこの日の激励会を終えた。

仰木彬近鉄パッファローズ監督は、中間市の出身、52期の卒業である。在学中は「4キロの通学路をカバンを友人の自転車に乗せ、自分は走って通った」という。
昭和28年、3年生の時、エースピッチャーで四番を打ち、東筑の甲子園大会初出場を果した。残念ながらこの時は、初戦で大阪の名門浪華商に0-3で敗れた。折りしもこの年からNHKによる甲子園大会のテレビ中継が始まった。

卒業をひかえ「進学なら早稲田、ブロ入りするなら南海にしよう」と思っていたところ、平和台球場でひき会わされた当時の三原西鉄監督の「僕に任せとけば大丈夫、いらっしゃい」という言葉に「まるで催眠術にでもかかったように」西鉄ライオンズに入団したのだそうだ。西鉄との契約全60万円、年俸36万円。ちなみに南梅がら提示されていた契約金が100万円であったとの事。

かくして西鉄ライオンズに入団した昭和29年春の島原キャンブ、本人は「速球派投手として生きるつもリ」であった矢先、「二塁をやれ!」という三原監督の一言で内野にコンバートされることになる。しかしこのコンパートのおかげで、ルーキーでありながらいきなりレギュラーとなり、更に優勝チームの一員となる幸運に恵まれる・ちなみに当時の西鉄の内野はショート・豊田、サード・中西、そしてセカンド・仰木という布陣である。

この年の優勝は、後に「神様、仏様、稲尾様」の名文句を生む西鉄ライオンズの黄金時代への序曲となるのである。その後、昭和45年コーチとして近鉄に移籍するまでの16年間を西鉄で過ごすことになる。

近鉄入団とともに再び三原監督門下となる。但し、今度はコーチとしてである。しかしその三原監督は、翌年「あとは岩本がやるんだから一緒にやれ」と言い残して近鉄を去り、ついでに「俺のあとに入れ」と近鉄沿線学園前のアバートまで引き継ぐことになる。以来18年間近鉄バッファローズのコーチとして過ごし、昭和63年、岡本監督の後を受け最下位近鉄の監督に就任するのである。

その後の活躍は、周知の如く、63年最下位から出発し、74勝52敗4分け、10月19日の対ロッテダブルヘッダー、連勝すれば逆転優勝をかけた第2戦、4時間の熱闘を時間切れで引ぎ分け、惜しくも優勝を逸す。明けて平成元年、シーズン後半からの追い上げ、対オリックス・西武との死闘の末、ついにリーグ優勝を達成するのである。

平成2年、仰木監督は3年目のシーズンを迎えようとしている。ご本人も言う様に「勝負事なのだから負けても言い訳はできない」プロの世界,何としても今年もシリーズを勝ち抜き、是非とも優勝してもらいたいものである。

仰木近鉄野球の魅力は、大きく構えた豪快で、のびやかなところにあるのでないか。豪快に打ち、走り、勢いを得た投手の球が唸る。そんな野球が、『管理野球』全盛の昨今、九州人の豪放らい落な心情を打つのでないかと思うのは一人私だけではあるまい。

ガンバレ! 近鉄バッファローズ。仰木さん、川筋の心意気を忘れなで下さい。

仰木近鉄バッファローズ日本一をとる会

会長 三原朝雄(元防衛庁長官)

世話人代表(順不同)

田村 元(前衆議院議長)

出光計助(出光興産相談役)

古岡 勝(学研名誉会長)

三善康平(近畿日本鉄道副社長)

児島英一(近畿日本ツーリスト社長)

田口 栄(大日本土木社長)

勝村幾之介(勝村建設社長)

石田正明(奥村組副社長)

驚海 正(東筑会副会長)

敷田 稔(法務総合研究所長)

三原朝彦(衆議院議員)

本圧 巌(京都大学医学部教授)

事務局代表 石田正明

連絡先  〒102 千代田区平河町1-6-11   エクシール平河町404 チアッブジャバン内

電話 03-237-0644

連絡先  〒107 港区元赤坂1-3-10   ㈱奥村組内

電話 03-404-8111 内戦2515(担当 屋久)

 

東筑魂をゆさぶった大江戸助六太鼓/平成元年度の懇親会を終えて…秋丸照雄(49期)

第11回東京東筑会懇親会は平成元年11月11日、虎ノ門バストラルで開催されました。会員の皆様には、御多忙中多数のご参加をいただぎ、当番期の49期一同、心より御礼申し上げます。

また期別幹事の皆様には、約一ケ月前の出欠回答状況表による、出席促進と回答ハガキ投函等、御協力をいただき感謝しております。特に54期麻生君、55期久保田君、64期中村君、84期今村君には、電話又は手紙でその結果をお知らせ下さるなど大変お世話になりました。

もう何年前位になりますか!東京東筑会の幹事会で総会の当番期を引き受けて来た某君の話を聞いたときは、"50代後半になる者に世話事をさせる、とんでもない話だ"と息巻いたこともあってか、本人は幹事会に出ることを嫌がり、そのとばっちりもあって、万年同期会長である小生が幹事会に出席する羽目となって今日に至りましたが、終わってしまえばそれなりに楽しくもあり、"これでよかったのだ"と眩いている次第です。

前年は「根底一本松」、その前は「故郷賛歌」、そのまた前は「祭りは賑やかに」と、このところ立派な企画揃いだったので、49期も智恵を絞ろうと準備会を重ねましたが、団粟のせいくらべ集団なのか仲々妙案がなく、それなら奇をてらわずにオーソドックスなスタイルで進めることにしようと、もっともらしく恰好をつけたところで、まづは"行ってみたい"と思っていただけるような案内状作りを同期の山崎れいみさん(毎日新聞社)にまかせることにして、600平方メートルのゆったりした雰囲気の中で同窓会気分をたかめるブログラム作りと、景気づけに大江戸助六太鼓を鳴り響かせて、東筑魂をゆさぶることになりました。

当日は朝一番に勧誘リーダー古野嘉信君から、推定参加人員は約230名と困った声の電話報告をうけた時には、いやいやMIN250名、MAX300名は大丈夫だろうと強がってみせたものの、開会間もなく受付リーダ-立石俊一君から只今入場者230名とメモ報告を受け、吉野君の予想数字と見事に一致しているだけに驚いて、司会席横から受付へ、すっとんでいきました。それからというもの、遅れて参加される方々に手を合わせる思いで感謝感激しながら会場内外をウロウロしていましたが、会なかばになって只今入場者数約280名と聞いたときは、ヤレヤレと胸をなで下ろすことができました。
案内状の発送部数は約1600通、そのうち出欠回答は約600通で、出席回答はその約三分の一あまりでした。入場者が280名となったところで、会場設営担当の田仲真司君とアトラクション担当の越智猛雄君にこの事を伝え、一堂安心。

開会宣言は鴛海副会長(38期)が、次に校歌斉唱を川上事務局長(57期)他の方々にリード願ったあと、元気一杯の三原会長(26期)挨拶につづいて、32期の小田、山崎の両先輩に乾杯の音頭をお願いした。恒例の徳永同窓会長(32期)と北校長の挨拶が終って、お待ちかね大江戸助六太鼓が筑紫の森に、玄海の海にとどけとばかり鳴り響ぎました。その音が大きすぎると会場外の会計りーダー秋野治夫君の席まで逃げてきた大和撫子もいました。(内緒話ですが、その人は大田区立多摩川小学校長の小林光子さん50期でありました)。

司会も手作りでと前半は日下部靖君が担当し、後半は井野義和君が共に精一杯頑張ってくれました。会場内を華やいだ雰囲気にしようとコンバニオン投入の提案をした同期男性をにらみつげて「私達がやります」と力強く引き受けた同期女性軍(たったの7人しかいませんで地元からの応援を加えて10人)は、受付で整理や銭勘定で慌ただしくて"会場の華"は幻におわりました。もっとも孫をお持ちの方々もあるので、その役目を後輩女性にゆづられたのかもしれません。

芦屋在住の人形作家、田中信幸君(63期)から新作博多人形『想い』の寄贈を受けたあと、52期の畠山君から「この秋の叙勲で学研名誉会長の古岡先輩(36期)が、勲三等瑞宝章を受けられた」ので壇上にいかがなものかと進言して来た。(こういうことは畠山君の得意とする分野か?)。早速に挨拶の言葉をいただいたあと、64期の三原朝彦衆議院議員の挨拶に続いて、新人も新人の平成元年3月卒業の87期曾我君と三徳屋君が居並ぶ諸先輩を前に東京東筑会入りの挨拶をしてもらいました。

三原会長と同じ期の小役丸先輩が81才6ケ月のご高齢とは思えない元気さで思い出をお開かせ下さいました。誠に有難うございました。元気と言えば52期の仰木君が近鉄バッファローズを率いてブロ野球界で暴れていますが、相憎と11月8日から日向キャンブインで出席が出来ずに"皆様によろしく"と前日に伝言が本人からありました。「五十才を週ぎて、ヒーローに」とFOCUSに写真紹介記事が出ていました。

終宴間近かに元応援部68期小御門君を中心とする若手集団のリードで高らかに応援歌を合唱し、白石幹事長(56期)の閉会の辞を終えたところで木原福夫君(進行リーダー)他の面々からやっと笑顔がごぼれる様になって来ました。その頃にはカメラ係の沖本・井上(秦)の両君も心は早くも同期の記念写真の撮影に向かっているやにみうけられました。

同窓会ならではのエピソードをご紹介しておきますと、会場内をウロウロしていたときに、後輩に呼びとめられて、パンフレットを渡されました。話によると書籍を整理中に東筑時代の小冊誌がでてきた。めくってみると生徒会長のあなたの文があったのでコピーして持ってぎた。とのことで、それと共に"陵雲2号"昭和25年11月原稿締切り、26年2月発行の本誌も持参してくれていました。懇親会のあとの同期の集りで、"これは俺が編集したんだ"と名乗り出る者や、詩や小説などを寄稿した本人自らが39年前にもどって代る代るその一節を朗読して拍手喝さいの嵐でした。51期の安高正夫君に心からお礼を申します。

その昔の排球部(今のパレーボール部のこと)のキャブテンが関西から、相撲部が広島から、そして八幡・折尾・岡垣・香椎から駆けつげてくれた同期生を囲んで時のたつのも忘れて、唄い語って存在を確かめ合いました。来年は、地元も東京も共に60期生が当番期とあって上京PR組(松尾剛健君他)と東京組が共に壇上から決意表明をしましたが、これからは若いメンパーで運営される会に衣替えをすることになります。

先輩も後輩も一緒になって、ますます楽しめる会になることを期待しています。次の代表幹事"60期三好俊輔君"あとはよろしくたのんだぞ!

 

同窓生各位殿  懇親会への少し長い案内状/在京60期生一同

ことし東京東筑会の懇親会は11月17日(土曜日)JR品川駅前のホテルバシフィックで開かれます。束になってかかっても文殊様にはかなわぬ在京60期生ではありますが、無い知恵を絞り、楽しく温かな懇親会を企画しておりますので、ぜひご出席ください。

「幹事せにゃあいかんてばい」「そりゃおおおごつ、どげんすりぁあよかと?」聞けば、懇親会はすべて担当期の責任というではありませんか。羊年が中心の、生来、気の弱い私たちは、屠場に引かれる牛のごとく、しょげかえってしまいました。

しかし先輩たちの築いてきた東京東筑会の大切な行事を、私たちが頓挫させたとあっては、先輩にはもちろん、後輩にも申し訳ないことです。「仕事だ」「出張だ」「子供が……」「かみさんが……」「二日酔いだ」と腰を引きがちの同期生を叱咤し、11月の懇親会に向けて準備を進めています。

60期は大東亜戦争末期の昭和18年生まれが中心です。この年ガダルカナルが陥落、山本元帥が撃墜され、彼我の優劣が出始めました。よくぞ産んでくれたものです。厳しい状況にもかかわらず、戦後の食料不足はララ物資の給食で、後輩たる団塊の世代が辛酸を嘗めた受験戦争の苦労もなく、安保は先輩に、学園紛争は後輩に任せ、就職は高度成長に支えられる…つまり最も苦労の少なかった世代でしょう。そのつけの一つが今回の幹事役と言えるかもしれません。

地元東筑会の総会も、今年は私たちの担当です。先日、打合せのため、久しぶりで帰省いたしました。桜の名所だった折尾公園はなくなって住宅地となり、製鉄所の七色の煙は姿を消し、ボタ山は削り取られていました。正面の石段と石の校門を残して、校舎も様変り!変わっていないのは堀川の流れと遥かな筑紫の海…。

「よお!変わっちょらんなあ」「ハラ出ちょるのう……」「きさんの方が出ちょうやないか」。何年ぶりかで使う川筋言葉と北九弁。同期生との再会は十数年の歳月を一挙に縮め、青雲めぐる東筑の丘の懐かしい日々を思い出させました。

同窓会は共通の思い出をもとに集まり、新しい出会いを生むものでもあると思います。私たちはそのお手伝いをするつもりです。懇親会場は品川駅から徒歩1分。ぜひお誘いあわせのうえ、お出で下さい。お待ちしております。(文責・竹原)

 

『わが青春と人生を語る』

月刊ASAHI

 

やや話が古くなって恐縮ですが『月刊ASAHI』90年3月号に、母校の大先輩でいらっしやる俳優の高倉健さん(本名・小田剛一さん・48期)と検事の敷田稔さん(48期)の対談が掲截されていました。「わが青春と人生を語る」というタィトルで、東筑高校時代の思い出を楽しく語り合っています。

おふたりは東筑のボクシング部をいっしょに作った間柄。ボクシングのグローブを当時の小倉の米軍司令官の家からもらってきた話や、英語をマスタ-するために、場末の映画館で朝から晩まで映画を見まくった話などは、当時の高校生活を彷彿とさせます。

敷田さんは国際派検事として著名な方で、法務省法務総合研究所長を務められています。その検事としての目 で、『ブラックレイン』を解釈していたのは、興味をそそられました。高倉さんが、本当はこの映画に出演するつもりがなかったことや、監督のリドリ-・スコットとの出会いのエピソードなど、映画ファンならゾクゾクしそうな話がいっばいです。全文を掲載できればよかったのですが、版権の関係で実現しませんでした。もし興味のある方は朝日新聞社にご連絡下さい。

おふたりの先輩の、今後のますますのご活躍をお祈り申し上げたいと思います。(編集部)

 

筑紫恋しや、歌日記/千々和久幸(53期)

つくし恋しの声聞く頃を  筑紫路を越えて火の国にわが移り住む

平成元年の夏の終り頃から、コチラに仮住まいをして東京との往復生活を続けている。コチラとは火(肥)の国の北に位置する、山鹿市という人口3万4千人ばかりの温泉町である。

「つくし恋し」とはつくつく法師の鳴き声のオノマトペ(擬声語)。シリコンアイランドといわれるこの地方には、オムロンだとかホンダだとか名の知れた会社がいくつか進出してきている。市のキャッチフレーズは「緑と光の湯トピア」などといま一つアカぬけしないのだが、名にし負うチブサン古墳・オブサン古墳(1,400年前の装飾古墳)を抱え、景行天皇を里人がたいまつを掲げてお迎えしたという故事に由来する「山鹿灯篭」はつとに有名。

夜明しの灯篭祭の輪に紛れ よへほよへほと遠き火を恋う

山鹿灯篭まつりは、景行天皇の行宮跡に天皇をお祀りした大宮神社の夏の祭礼で、夜明しで舞う。その折、歌われるのが「よへほ節」である。「ぬしは山鹿の骨なし灯篭ヨヘホヨヘホ /骨もなけれど肉もなしヨヘホヨヘホ /洗いすすぎも鼓の湯かごヨヘホヨヘホ /山鹿千軒たらいなしヨヘホヨヘホ(以下略)」。あの勇壮な炭坑節で育った人間には、コチラの「よへほ節」のスローテンボはまだるっこくて、あれじゃあ本当に夜が明けかねない。もともと鄙びた温泉町の生活は単調で、そのぶん時間がゆっくり流れる。時には時計の針を緩めるのも人間のタシナミかもしれぬ。

肥の国の温泉町に移り住み 週末を温泉ブールに通う

字飾り、などと難しいことを言うなかれ、聖通りでないサムシングこそ人生のかくし味で、じじつ、この温泉プールで20~25分かけて1000メートル泳ぐことをひそかに中年の肉体に課している。いや、その程度で息があがるわけではないのだが、そのあとのビール、焼酎ではきまって息が切れる!のだから年輪は正直だ。東京の女友達からは時折、「ねえ、悪いことしてない?」などと挑発的な電話がかかってくるのだが、仮住まいをしているマンションは歓楽街のすぐわき。 「悪いこと」が待っていそうな、あやしげな場所はいくらでも(!)ある。

湯けむりの軒の辺りに立ち籠むる 町なかにして緋のカンナ咲く

だから無傷でいようとすれば、「緑と光」の自然に感情移入をするにしくはない。恋と革命に血の騒がないわけはないのだが、人生の第三コーナーの曲り方は至難だ。(後は一直線なのだが)

グレイスかグレースなるか知らざれど そのマンションの七階に住む

マンションの名前のいい加滅さはどこも同じ、シャルマンだってポチだってちっともかまやあしない。最初から愛着がないのだから、電話番号が今だに覚えられない。これも困るのはいつも他人で、本人に不便があるわけではない。

首ばかりだるきひと月の牛後にして 飲みて怠けて人を忘るる

老化現象のきざし、ではなくむしろこれは憧れに近い。折々の心に応じて飲み、すべからく怠け、人も憂き世も忘れることのできる土地があったら、と思わぬことはない。そんな時には旅に出る。

得体の知れぬもの冷凍庫に凍らせて 楽しまざりし旅より戻る

これがいわばその旅の結末。冷凍庫の奥に眠っている得体の知れぬものは、食べ残しの酒の肴ではなく、生き残し、やり残した「不毛の志バック」か「ロマンの上澄みスーブ」のごときものであろうか。

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(筆者の千々和氏は、東京東筑会副会長で、目下、熊本に単身赴任中。短歌もたしなまれ、本文中の短歌は月刊「短歌」(角川書店)89年12月号と90年1月号に掲載されたものの一部です。)


第8号

(1990年 平成2年 8月)

第8号