
ここに平成元年を迎え皆さんと共に心から昭和天皇の崩御を悼み、新天皇の御即位を御慶び申し上げます。
今私達は正に昭和時代と平成時代の継ぎ目に立っております。 過ぎ去った昭和の時代を深く省みるとき、そこには戦争と平和、混乱と秩序の回復、貧困と繁栄、停滞と躍進、自他共栄国際化の伸張など実に目まぐるしい厳しい時代が展開されてまいりました。 この深い反省に立って目睫の間に、迫る二十一世紀を迎えんとしています。
われわれは、先輩と共に厳しい昭和の時代を乗り越えて来ました。 この尊い人生は自ら確固たる信念と、憂きことのなおこの上に積もるとも雄々しく前進せんとする自信とをもって高い理想を掲げ命ある限り歩き続ける逞しい東筑人でありたいものと念じております。
過去と未来の継ぎ目に立つわれわれは、永遠の現在を自覚し、弛まぬ努力を続け常に青春の意気に徹せられんことを、心から御期待申し上げております。 言うは易く行うことの困難なことを想うとき、会員相互の励まし合いと協力をお願いし、御健勝をお祈り申し上げ御挨拶といたします。
創立90周年の記念すべき年に伝統である「文武両道」の精神を貫かんと、進学校ゆえの悩みを克服した後輩達が花園出場の悲願を違成し輝かしい新たな一ページを加えた。創立以来実に51年ぶりの快挙であるが栄光への道は平坦ではなかった。
◎草創期
日中戦争の始まった昭和12年、ア式蹴球を解散しラグビー部が創部した(経緯等はさだかではない)。当時県下で8校、翌13年の部費は159円68銭。戦時色が濃くなり東京オリンピックも延期され「ペンを銃に、スパイクを軍靴」にかえ学徒出陣や軍需工場へ動員されたが20年8月終戦。
◎戦後の復活
平和が甦ったグランドで部復活の計画が進められた。松崎先生と井上、戸次両先輩が中心であった。松崎先生は相撲部長であったが、ラグビー部長を兼務されよく面倒をみて頂いた。21年秋の九州ラグビー協会の発会、スケジュ-ル会議にも出席された。戦後の第1戦は国鉄小倉工機部(現JR)、相撲部の猛者の応援を得たが惜敗。22年2月、雪の中で常磐と対戦、0-6で又も惜敗、学校に帰りすぐ濡れたジャージを再び着て猛練習をした。全員黙ってついて来たと聞く。
夜食も乏しかった。ジャージはメリヤスのシャツや柔道着を改造し赤い布を縞に縫いつけたものを着用、足は裸足であった。食糧難であり合宿の時は藤田、桑原両先輩の所へ米や野菜を貰いに行った。
スパイクを揃えるため春休みに西川の改修工事の土方仕事を全員でやった。春とはいえ川の水は冷かった。夏休みには波津の海水浴場で氷屋を開いたが残ったのはスプーンのみ。
空腹に耐え、ボロジャージに裸足で後輩に憎まれ乍ら厳しく鍛われた事が24年以降に開花。物質的には貧しくても精神的には豊かであり後輩を思う血が脈々と流れていたように思う。
◎開花期
授業が終る頃一本松の下に毎日、大塚先輩(17年卒)の姿があった。又、八幡製鉄のオフには戸次先輩(24年卒)が見え両先輩から徹底的に鍛えられた。両先輩の姿を見つけ部屋の裏から逃げる者も居たがお陰で24年の第29回全国大会県予選で決勝戦に進出した。準決勝では国体で優勝した修猷館を9-6で破ったが決勝戦で福高に6-23で涙をのんだ。その福高は全国大会で優勝した。無念さと共に今でも両先輩に済まないと思っている。その後も第30回、32回、42回と県大会に駒を進めているがいずれも福高の軍門に降っている。
◎低迷期
第42回大会以後は余り芳しい戦績は見られない。之は受験戦争の激化とも思われるが慢性的な部員不足に起因していると思う。44年野畠先生が顧問になられて再建の兆しが見えはじめた。
◎充実期
57年主校長が着任され、翌58年には初の専門教師として小田部長を迎えた。同年8月0B会を設立しバックアップ体制も整った。
62年は創部50周年の記念すべき年である。新人戦県大会で優勝し、九州大会でも準優勝を果たし花を添えた。
50周年記念行事として0Bは小倉高0Bと、現役は八女工高と招待試合を行った。
秋、市民体育祭第1回高校0B大会で東筑0Bが優勝した。一方現役は県予選で筑紫高に4-16で惜敗、無念の涙をのんだ。63年新人県大会で東福岡を22-7で破り、九州大会では名護を22-3で破りBブロックとはいえ九州で初の王座についた。選手、監督は勿論のこと、0B、父母もしばし感涙にむせび「花園近し」と思わせた。
◎花園へダッシュ
高校ラガーなら誰もが夢みる花園、それまで三年生は進学のため夏休み前にジャージを脱いだ。今年も予備校からゼミの案内が届くたびに進学と花園の狭間で選手達の心はゆれ動いた。「花園へ行けよ」と涙ぐんでジャージを脱いだ選手の心中を思うと胸が痛む。選手同士で徹底的に議論し、父母は父母で協議した結果「花園へダッシュ」する事が決った。
8月14日、第6回OB会総会に引続き創部50周年記念誌発行と、九州大会優勝祝賀会を0Bが主催した。徳永同窓会長をはじめ学校、来賓、父母、0B約140名が集まり皆で快挙を讃えた。徳永会長は「文武両道、ラグビーは花園へ、野球は甲子園へ」と撒をとばされ、北川主将は「人生をかけて花園を選びました」と力強く決意を表明した。0B達は「正月は花園で会おう」と言い学校、現役、OB、父母がガッチリスクラムを組んだ。
3ケ月後の11月19日県大会決勝戦で宿敵東福岡に9-0で完勝、遂に悲願を達成し花園への切符を手中にした。花園への執念を燃やし一致団結した部員、家庭を犠牲にして指導された小田監督と中川原コーチ、深く暖かい理解で結束された父母、徴力乍らバックアッブさせていただいた私共OB達の目は心なしか潤んでいた。
花園出場を喜んだのは本校関係者のみではない。北部の県立高校のラグビ-関係者と一時期東筑のコーチをしてくれた土屋俊明全九州監督がわが事のように喜んでくれた。それは進学校が代表になった事に対する拍手と感じられた。
◎晴れの桧舞台花園で
「燃える真っ赤な血」を表す赤のジャージに黒の「東筑」を胸に堂々の入場行進、一回戦は23-6で木本高に快勝、二回戦はAシードの強豪東山高に善戦空しく6-25で敗れたものの母校と郷土の名誉をかけ悔いのない戦いぶりで多くの人々に感銘を与えた。花園を去る時大塚先輩が「一回戦に勝った時俺は涙が出てのー」とポツリと洩らされた。0B全員の胸中を代弁されたようでもあった。
最後になりましたが貴会の皆様方を始め全国の同窓の皆様方からお寄せ頂いた物心両面の絶大なご支援に対し紙面を借りて心から厚く御礼申し上げますと共に、貴会の益々の御発展を祈含申し上げます。 (本校ラグビー部OB)
昨年、東京を離れてから約半年、ふとスポーツ新聞の、高校ラグビーの欄に目を落した時、「福岡県代表・東筑高校」の活字が目に舞った。一昨年の夏の、甲子園球場出場以来の快挙である。これは、ぜひとも応援に駆けつけなければ…。
そう思って、組合せを見てみると、なんと、早稲田に入学した、短距離ランナー、中道の出身校、三重代表・木本高校(3回自)ではないか!!
12月28日、午後一時、試合開始。しかも、丁度会社は仕事納めの日。これを見ずんば、何としょう……。会社には、外回りと嘘ついて、新大阪駅から、地下鉄・御堂筋線・難波駅下車、近鉄奈良線・東花園駅下車。
やってきました、花園へ。周りは、住宅ばかりなり。向うに見えるは、セントポール、てな具合で、足を踏み入れたる花園ラグビー場。生駒おろしの吹く中を、グラウンド目指して、一目散。
ああ…、試合はもう始まっている…。エンジと赤のユニフォーム、エンジのチームが押されてる。これはやばい!!と、応援席を眺めれば、エンジが押される度、歓声を挙げる。まてよ、これはおかしいぞ、応援席で、現役生徒に聞けば、赤と黒パンツがわが母校也…。
納得して、一安心。そうこうする内に、先制トライ。見れば、我がチームの体格の良さ、勢いの強さ。こうなれば、楽勝か。やはり、相手の反撃をワントライに押さえての快勝!! 万才、万才、万才三唱!! と周りを見れば、三原朝彦氏の姉上や、小御門君も東京から来てるではないかいな。なにはともあれ、花園1勝!!これに勝る喜びはない。只、校歌斉唱がないのが、何とも残念、無念なり……。
翌々日の12月30日、第2戦の相手は、京都代表・東山高校。第1戦の、ゲーム展開からすれば、相手が如何に名門高校であろうと、恐るるに足らず。かくなる上は、我が家族にも、我が母校の活躍を見せるぺく、一家総出弁当持参で駆けつげた…。
親の心子知らずとは、昔の人はよく言った。親が一生懸命、応援してるのに、我がガキ共は、グラウンド周りを走り回る。ここは、芝公園ではない!!前半、互角の勝員(確か、ワントライで6点のビハインド)を、挑んでいたのではある。
ああ、しかし……。私は声を大にして言いたい。後半、同点に迫いすがるぺき、幻のトライがあったのである。グラウンド内を、転々としながら、観戦していて、丁度、東筑のゴール前で見ていた時である。選手名は、失念したが、ナンバー3の選手が、相手のタックルをものともせず、ゴール下に飛び込んだのである。「やったあ…!」と叫んだ、次の瞬間、無情にも審判員の反則の笛…。この経過は、新聞にはのっていない。しかし今にして思えば、あのトライが決っていれば、勝てたとは言えないまでも、同点にはこぎつけていたと確信している。
かくして、第1戦・第2戦、観戦し終わった時に、私は、きっちり風邪をひき、正月3日まで寝込んでいた。とりとめもなく、書き綴ってまいりましたが、東筑高校を卒業しての、タテ・ヨコのつながりというものを、再認識させられた高校ラグビーでした。最後に高校ラグピー連盟に言いたい。やはり、試合終了後の、校旗掲揚と校歌斉唱は絶対やって欲しい!!
・岩根正人(38期) ・小林光子(50期) ・景浦敏春(61期) ・守田麻里(84期)
私達38期生が昭和14年に東筑を卒業してから、早いもので50年が過ぎましたが、東京在住の東筑会会員13名は、みんな元気に過ごして居ります。
さて、私達の中学時代は昭和12年に始まった日支戦争が次第に中国全土に拡大されつつあった時期です。
そんな時代にも拘わらず、私達の修学旅行は、朝鮮・満洲(現在の中国東北地区)を12日間で廻るという長い旅行でした。日程は、昭和13年の5月末より6月上旬(5年生の1学期)、下関から関釜連絡船で釜山に渡り京城(現ソウル)、満洲の奉天(現瀋陽)、新京(現長春)、ハルピンと廻り、ここから南下し旅順を経て大連から2昼夜の海路で門司港に帰って来るというものでした。このうち、旅館に泊まったのが5泊、車中4泊、船中2泊と言う内容と記億しています。又引率は、200名を越える生徒の修学旅行と言う事で、先生6人と事務室より1人、計7人の方が同行されました。
先ず下関より釜山まで約8時間の海路の後、タ方釜山に上陸、当時の朝鮮鉄道の夜行列車で京城に向いました。その夜は初めて日本内地を離れた事でもあり、皆んな浮々した気分で、夜更け迄寝ないで楽しく過した事が思い出されます。客車は私達の貸切り分だけで2両と半分くらいを占めたと思います。
翌朝京城に到着。さっそく市内見物に出かけ、タ食後は自由行動となりました。当時の京城観光の目玉は色鮮やかな朝鮮服(チマチョゴリ)を着て妓生(キーセン)と記念撮影をする事で、共の写真を撮った人が多かったと思います。
さて其の晩旅館で一つの事件が持ち上りました。たまたま同じ旅館に泊まっていた奈良女子師範学校の女生徒に酒に酔った(?)東筑生が洗面所で抱きついたらしく、相手方の先生が当方の先生に強硬に抗議したそうです。夜中、先生が生徒の部屋を見て廻り、赤い顔をして居る生徒を起こし、先生の部屋で取り調べが行なわれましたが、結局犯人はわからず、翌日の奉天に向う列車の中でも犯人捜しが続きました。そんな事でせっかくの楽しい気分もいっぺんに沈んでしまいました。
翌朝奉天に到着、朝食をすますと直ぐ撫順炭坑の見学に出かけました。炭坑といえば深い地底を思いうかべる私達にとって、この炭坑の壮大な露天堀りには、いささか鷲かされました。タ方奉天に戻り旅館に入りましたが、京城での件もあり、その夜の自由行動は取りやめとなりました。翌朝再び奉天の市内見物に出かけたのですが、今風のバスツアーとは異なり、マーチョウと言う満洲の馬車に5-6人ずつ分乗し、これを40-45台くらい連ねてのものでした。この時見物した『北陵』と言うラマ教の廟が大変綺麗で今でも印象に残っています。
見物からの帰り道、旅館まで馬車の隊列を解いてもよいとの許可が出たので駁者の隣に生徒が交替で座り、「それ」とばかりに競争しながら帰ったのですが、これが仲々痛快で、この頃には京城での事件以来幾分沈み気味だった私達の気分も回復して来た様でした。
その夜再び夜行列車でハルピンに向け出発しましたが、駅頭に何人かの東筑の先輩方が見送りに来ておられた事を記憶しています。翌朝、雨の中(旅行中の一度だけの雨天)ハルピンに到着、駅のホームには、ここで凶弾に倒れた伊藤博文の胸像がありました。ハルピンは白系ロシア人が建設した街で、白系ロシア人とロシア語の看板がいたるところで目につきました。ところが夕方からの自由行動の際、抗日派のゲリラが日本人を連れ去る事があるので、暗い所は絶対歩かない様に、との特別な注意があり遠出する事もできず、結局ホテルの近所のロシア人街を散歩して過ごしました。
翌日の昼間、汽車で満洲国の首都新京に一泊し、次の日再び夜行列車で一路大連に向け南下しました。この夜が最後の列車での移動でしたが、この頃には生徒も旅馴れて、網棚の上や通路椅子の下に新聞紙を敷いて寝るなど、皆んな少し逞しくなっていました。 翌朝大連に到着、更に列車を乗り変えて日露戦争の激戦地旅順まで行きました。白玉山の頂上から旅順港を展望しましたが、日本艦隊が閉塞を試みた港の入口は、本当に狭く見えました。圧観だったのは、東鶏冠山のロシア軍要塞跡で、頂上を円く斬壕で囲みその壁をコンクリートで固めてあり、付近の小山に大砲を備えていたそうです。この東鶏冠山を日本軍は何回も決死隊を出して攻撃し、激しい攻防戦の後、陥落させ、続いて有名な二百三高地もついに落としたのだそうです。その二百三高地は、木が一本もない石ころばかりの山でした。水師営の会見の跡にも行きましたが、この時の話の中に出てくる「なつめの木」も昔のまま植わっていました。
夕方大連の街まで列車で戻り、最後の夜を旅舘で過ごしましたが、大連は旧満洲で日本人が一番多い街で、日本人の経営する商店も多く、夜街を歩いてもとても賑やかなものでした。翌朝大連港で大阪商船の熱河丸(約6000トン)に乗船し、甲板で記念写真を撮りました。帰りの船旅の初日は海が荒れて船酔いした生徒が多く、とても静かな夜となりました。船酔いで折角の食事も愉しめた者は少なかったと思います。船中で2泊して3日目の朝、無事門司港に上陸、12日間に渡る修学旅行を終えました。
今もこの修学旅行の想い出はいつも楽しく想い出されますが、今思えば、必ずしも安定した政情とはいいがたい戦時下の中国に200名もの生徒を12日間の長期に渡り引率された先生方には、今とは比べられない程の御苦労があった事と思います。その事を思うと感謝の気持ちでいっばいです。
葉桜の坂を上り、折尾高女の正門を入ったのは21年5月。私は頭をスカーフで包んでいた。満洲からの引揚げ途中、ソ連兵を恐れて丸坊主にされていたからである。敗戦から10か月の空白は、頭の中味もからにしたのか、割算もできなくなっていた。
それにしても、下級生のいない併置中学の3年間は、気楽で底抜けに明るい日々であった。プールから崖下を見下ろすと、下校する東筑生を見かける。こちらに気づき、跳び上がったり、奇妙な声を出したりする姿に笑いころげたものである。講堂には「温良貞淑」の額がかかっていた。
学校帰りのある日のこと、水巻町鯉目に抜ける裏山の頂上で、ヌッと出てきた男がナイフを出した。私は咄瑳に右手で刃を押さえ、相手のひるむ隙に荷物を捨てて山路を駆け戻り、校宅の長野先生の家にとび込んだ。当時の毎日新聞に「勇敢なる女学生」と出たものだが、世相は荒れ、食も物も乏しい時代であった。
合併なった東筑高校の石段を上ったのは24年5月。玄関前に腰を下ろし、クラスを共にする挨っぼい男子を眺めた。人数が多いため、教室移動の混雑緩和に2時間続きの授業もあった。
小学校低学年以来、席を同しくしなかった年頃の男女が、どのような過程で仲良くなっていくのか、思えば壮大な試みではあった。だれが考えたのかフォークダンスをやるという。困惑し切った生徒達を、松崎先生が笑って見ておられた。その時初めて握った男子の手の感触を、今も生々しく思い出すのである。
仲良しの高橋昭八郎さんは、同じ引揚者で話も合い、いつも堀川沿いを一緒に帰った。彼は現在マッダの常務で上京の折りには50期の仲間と旧交を温め「マッダの車をどうぞ」と言っている。
26年春、私は休学し、折尾駅近くの引揚者更生市場で開業した「ふじや食堂」で、母の手伝いをした。今は住宅地となっている国道横の折尾公園の桜は見事で、近隣から押し寄せる花見客に、店は繁盛した。
その年の秋、初めて実施された大学入学資格検定試駿にパスし、私は東筑高校を卒業していない。しかし、大学合格者の名前が東筑の玄関前に並んだとき、先生方は私を忘れずに「奈良女子大」と入れて下さった。私は今も母校は折尾高女、東筑高校だと称し、誇りに思っている。 (大田区立北椛谷小学校校長)
私にとって昭和は、45年間の歴史となります。その中で東筑高校には、35年から38年までの3年間お世話になりました。東筑には、体操を続けるため入学致しました。一年時では、東筑高校に馴むことで勢一杯だったように思います。担任は数学の加留部先生でした。
体操部に入部しましたが、顧問の田代先生は、福岡県の体操連盟の役員をしておられ、その指導は、戦前の教育を、そのまま体操部に持ち込んだのではと思われる程でした。2年時(36年)になりますと、その御指導によって、技術は急速に伸び、諸岡氏と共に、神奈川のインター杯・秋田の国体に出場することが出来ました。
3年時では、5組となり担任は時枝先生でした。この組は運動部員の集まりであり、明るい組でした。最終学年でもあり、進路について考えた時でもあります。体操部では、春休みに合宿を行ない買い出しと自炊で団結を養いました。4月に地区予選、5月に県大会と進みましたが、地区予選において、左脚じん帯を痛めチームに迷惑をかけてしまいました。6月に九州大会が開かれ3種目を制して優勝致しました。8月には、高知においてインター杯が行なわれ、4種目を制して個人優勝し、団体においても6位に入賞しました。その時のメンバーは、花田氏、北沢氏、松本氏、私ども兄弟でした。10月に岡山において、国体が開かれました。出発に際しては、多くの友人が、折尾駅まで激励のため集まってくれました。この時は本当に感激致しました。この試合では、福岡の最強メンパーで臨み見事に団体優勝を成し遂げることが出来ました。個人では、私が1位、弟が2位になり「東筑の双児の兄弟が1、2位を占める」と報じられたことは、忘れられない青春の想い出です。
その年の体育祭の時に宮崎校長から、表彰状をいただきました。37年は若戸大橋が完成し、38年2月に北九州市発足となり3月卒業しました。27年前の出来事を想い起こしつつ記しましたが、多くの先生、先輩、友人、後輩に恵まれ、この実績を残せた事を感謝致しております。松山氏岡村氏の両先輩にはとくに御礼申し上げます。
昭和59年。この年、女子の制服が変わりました。入学式。それぞれの夢と希望を抱いて、東筑の門をくぐる後輩たち。彼女たちは、セーラー服ではなく、千鳥格子のスーツに、赤いネクタイ、紺のブレザーを着ていました。私たちの学年(昭和61年卒業)が、最後のセーラー服となったのです。
授業中、先生の話も聞かず、何度も結び直した白いスカーフ。左右のバランスが悪いと、ほどいては結び、結んではほどき、カッコつけて、結び目を極端に小さくしてみたり、校章が見えなくなるほど、スカーフを広げたり、ささやかな自己主張に懸命でした。折尾の町を歩けば、よく中学生と間違えられました。セーラー服は、私たちの顔を、実際の年齢より幼く見せていたのでしょうか。それとも、私たちが他の高校生に比ぺて、子供っぽかったのでしょうか、わかりません。
ブレザー姿の後輩たちは、中学生に間違えられることなど、なかったでしょう。もしかしたら、セーラー服の私たちより、落ち着いて見えたかもしれません。この年、新1万円札が登場しました。聖徳太子から福沢諭吉ヘ。変わった当初はみな少しとまどったでしょうが、現在ではすっかり定着しています。今、母校を訪れても、セーラー服の女子高生はもういません。最後のセーラー服は、3年前に卒業しました。その間、折尾の町もすっかり変わりました。新しい町で、新しい制服の東筑生が、勉強にクラブ活動にがんばっているでしょう。制服が変わろうとも、私たちがそうであったように。
3月8日、水曜日。朝から季節はずれの雪が降り続いたこの日、学習研究社の名誉会長室に古岡先輩をお尋ねした。ちょうど2日前に、36期の同期会が開かれたとのこと。お話しはまず、古き良き東筑時代のことから始まった。
体操部創設。そして個人・団体優勝ヘ。
我々の会は36期だから3月6目に集まりましょう、ということで、おととい、やってね。38名だったかな。もうだんだん減ってね。還暦のときは53名いたんだげどね……。
卒業は昭和12年。支那事変のまっ最中だな。もちろん旧制中学だね。東筑の体操部っていうのは、実は私が作ったんだよ。矢野先生が校長のときだな。私が4年生だった。それまでは陸上競争部の中の器械体操部だったのよ。でもそれじゃあ都合が悪い。陸上競技部はその頃、早川先生の配下だったんだけど、我々はもっともっと練習したいってことで、体操の独立を目指して私は直訴したんだ。つまり書いたわけだな。
あの頃は直訴したりすると、ものすごく怒られたものだ。厳しかったからね。案上、校長に呼びつけられたよ。でも、まあやってみい、ということになって、伊達藤兵衛という厳しい先生が顧問になってくれたのよ。それで私が初代の主将になったわけだ。5年生をさしおいてね。もっとも私は県下の中等学校で個人優勝したからな。同時に団体でも優勝。東筑はじまって以来だよ。そのときは個人の1位、2位が東筑だったからな、団体優勝は当り前だよ。
当時は鉄棒と跳馬だけ。中学生レベルではね。まあそういうわけで、私は勉強せずに体操ばっかりやっとった。毎朝早く来て、掃除当番をかって出たものだよ。机とか並べてね。まあ曲芸みたいなもんだな。その代わり、夜の掃除はカノベンしてもらってた。練習しなきやならんからな。でも1度だけ怒られたことがあったな。その日の最後の授業のときで、私は時間がもったいないから机の下でモゾモゾ体操服に着替えてたのよ。そしたら「コラッ古岡。なんしょるか!」とこれだよ。まあ笑って許してくれたけどな。やっばり有名だったんだな。
当時は小倉中学にひとりだけ強いのがおったな。でもやっばり強敵なのは東筑の連中だよ。15人ぐらいいたのかな。まあとにかく、古岡といえば体操、体操といえば古岡。そんな感しだったね。
とにかく厳しい学校だったよ、東筑は。
皆さんには経験ないと思うが、当時は兵営宿学というのがあってね。5年生のときに3日間、必ず義務付げられていた。まあ軍事演習みたいなもんだな。それで県下の中学全部が日程を合わせていっしょにやるわけだけど、相手が東筑だというと皆、逃げちゃうんだな。とにかく、東筑というのは昔からパンカラ、だったな。バンカラっていうのは悪い意味じやなくて、男らしい、みたいな感じでね。
柔道、相撲も強かったな。海外遠征してたからね。古野繁美さんという35期に強い人がいてね。私も柔道、けっこうやったんだげど、同級生にケガさせたことがあってね。それ以来、あまりやらなくなったな。、
とにかく厳しい学校だったね。教護連盟というのがあって、各学校の先生たちで作っていたんたけど、まあ、課外活動の管轄をしてたんだな。映画なんかもちろんダメ。アイスキャンディやウドンも食べちやいけなかった。でも、ビンタはなかったな。やったこともやられたことも。
たしか私が2年生のときだったかな。物理教室、当時は階段教室だったけど、そこに2日間ぐらい、たてこもったことがあったよ。ストライキだな。1番から50番までの秀才を集めて、英才クラスを作ろうとしたんだよ、学校が。それでストライキをやったんだな。そういう豪傑なところがあったよ、東筑の生徒には。結局、そのクラスは廃止になっちやったからね。
こわい先生っていうのは、私には特にいなかったな。さっき話に出た伊達藤兵衛っていう先生は、ラグビー部も作った人で、それまでのア式蹴球を解散してやったんだけど、これはりっばな先生だった。先見の目があったんだな。
校長先生に呼びつけられて怒られたことがもうひとつあるよ。夏休みに天幕を持って芦屋にキャンプに行ったのよ。嵐にあってな。そんなことを作文に書いたらすぐ呼ばれてな。「古岡。生徒手帳を見てみろ。キャンブをしちやいかんのだぞ」なんていわれてね。
今思うとほとんど毎日、体操の練習をやってたな。日曜日も東筑で練習していたし、練習法も自分で考えた。登校のときはカバンを右から下げて、下校のときは左から下げてね。体のバランスをとろうとしていたんだよ。文武両道の、武の方が私のもっばらの専門だったわけだな。
足が地に着かないっていうのは、本当なんだよ。
卒業して八幡製鉄に1年いて、それから軍隊に行った。6年半。同期38人の中で将校になって帰ってきたのが私を入れて3人いたな。中国大陸、最初は満洲に行ったよ。洞庭湖の南岸で終戦をむかえたな。
私の場合は通訳をやってたから、その頃中隊長だったんだけどね、まあ楽だったね。中国人の幹部教青なんかをやってたわけだ。師団指令部の参謀部にいてな、中国語を勉強させられたんだよ。要するに軍の機密をつかさどる将校だったのよ。
一度やられちやったことがあってな。日本軍の船で帰るっていうんでそこに向かってたら後ろからな。だいたい百メートルぐらいあったかな。むこうの川といっても大きいからね。そこを右の足が沈まないうちに左の足をつける。川の上を走って逃げるわけよ。でもほら、「足が地につかない」っていうだろう。あれ、本当なんだな。水面にはビュンビュン、弾が飛んできてるんだ。足を水につけるのが嫌なんだな。ヘンな話だけど、宙を走るっていう感じなんだよ。だけど伏せるわけにはいかん。足はつけられない。そのうち、十メートルぐらい先に胸から上のオフクロが出てきて、ニコニコ笑ってるんだよ。こっちは無我夢中でオフクロの顔を見ながら走ってさ。ふっと気がついたらオフクロ、いないんだ。助かったんだな。そんないろんな経験をしたよ。
これも東筑魂のひとつじやないかな。6年半。命があって帰ってこられたのは、体操でつちかわれた反射神経があったからじゃないかと思うよ。
戦後、学研に入社。そして今、文武55段
昭和21年の6月に帰ってきて、10月に学研に入ったんだ。その当時で14、5人しかいなかったな。あの頃は紙がなかった。ということは教科書もなかった。一日中走り回って、今じゃあ考えられないような紙を見つけて、教科書みたいな、まあ参考書だよな、教育過程の進路に応じた内容を印刷して売ったんだよ。これが売れた。教科書代わりに使われたから売れるはずだよな。紙のない、教科書のない時代に、ウチが民主主義教青の助成に貢献したっていうのは、特筆されるべきことだと思うよ。
思うに、経営者っていうのはいつまでも同じことをやっていたらダメだな。時代はドンドン変わるんだから、それに対応していかなきやいかん。
武道にのめりこんだのは、警視庁の人たちと知り合ってから。文武あわせて30段とればいいと思っとったんだが、30段なんてあっという間にとっちゃった。気がついてみたら55段だ。
会社の体育館で毎朝ケイコしているよ。夜はいろんな所を回ってケイコしているし、けっこう忙しいんだ。
20年ぐらい前から中国語もやってる。今でも毎日、30分から1時間ぐらい勉強して、週に一、二回、中国人と酒を飲む。語学を身につけるのにはこれが一番いいんだ。私は中国は第二の故郷だと思ってるからね。今でも仕事でよく行くしね。まあ、第一の故郷は東筑ってところだろうな。
古岡先輩は無双流居合軌道の宗家。号は古岡二刀斎。その他にも無雙直伝英信流10段、講道館柔道6段、大日本古武道連盟理事長など数々の要職を歴任されている。これからもなおいっそうお元気で、我々の良き先輩として、各界でご活躍されることを、心からお祈り申し上げたい。
10月1日早暁、電話のペルに起こされた。「只今、一本松は御殿場に到着。ここで時間を調整して、11時に東京駅八重洲口北側に到着の予定。」
霞ヶ関ランブからの進入路は、前日ファックスで送信しておいた。ついにやって来たか!
昭和27年卒業以来、一度もお目にかかっていない同胞の一本松が、根柢となって、夜を徹して上京して来てくれた。八幡の同期の経営するトラックの助手席には黒崎の友が一役かって同乗し誘導してくれたのも心強かった。
さすがに同期!この発案に、この心意気に北九州では、ただちに共鳴の輸が広がったようである。永き年月を経た友情の絆が、今日に至るもいささかも衰えを知らないのには、胸にじんとこみあげて来るものがある。
とりわけ、敗戦後の混乱期、闇市の横行する空腹時代、旧制中学二年から新制高校にかけて数年間、ラグビー部の一員としてグラウンドの隅っこをうろちょろしていた私にとって、ことのほか一本松は、愛着著しいものがある。
乾坤一榔、跳上げたボールが、運動場の真中にそびえ立つ一本松の枝に、呵々として止り呆然として見上げたり、はたまた試合中に、勢い余って大幹に、必殺のタックルを敢行した友もいた。我々の蒼き青春時代は、こうした空腹のグラウンド、紺碧の空にそそり立つ「雄姿一本松」なしでは、語り尽くせないのである。
まして本年春のラグビー部の全国大会出場など、夢のまた夢であった。その夢を見事愛する後輩たちが実現してくれた。後援会の役員、コーチ諸氏の顔ぶれの懐かしい名前が、地方紙のページに躍っていた。彼等は共に当時、グラウンドを駆げめぐった先輩やキャブテン達であった。壮健で何よりと心から拍手を送った。
こうして同胞の根っ子は、定刻に会場サイドにびたりと横づけられた。心の友が無言でその雄姿を見せてくれた。我々出迎え係数名は、抱くように彼を運び込んだ。そしてホテル入ロロビーに安置して見上げた時には、期せずして歓声がこみあげた。
斯くして準備は整った。当番幹事男女のそれぞれが、この一年間、毎月ミーティングを重ね、各自きめの細かい心くばりで私を補ってくれた。如何に不倫快な役目にも、誰一人としていやな顔もせずにしたがってくれた。みんなでやろうという気持ちが、誰の目にも輝いていた。そして同期の友が来た。はるばると遠くから上京してやって来てくれた。ぞくぞくと。
昭和27年以来の再会に、握手握手の花が一斉に咲きそめた。野球部の投手が、その青春の面影をたたえて出現すれば、彼を迎えるのは名三塁手である。撮影係はその固い握手にシャッターを切った。相撲部が四国の高松からやって来た。西宮からもやって来た。室木線のハンサムである。共に国体に出場したキャブテンが二人を迎えた。奈良からやって来てくれた女性には、香月線新手の踏切りが瞼に浮ぶ。恐らく殆どの友が、彼女には30数年ぶりの再会であろう。折尾も中間も二島も、水巻も永大丸もやって来た。こうした上京組19名の登場は実に壮観であった。唯々感謝に堪えない。これによって、我々東京の50期生と九州組との距離の非常に近まったことは否めない。この年齢になって殊更に嬉しい限りである。
我々にとって、青春のシンボルである一本松が、そのバネルと根柢を合せ姿を現わしたとき、若い方々の目には如何に映ったであろうか。その傍で、我が愛する母校のコーラス部の歌声が一同を楽しませてくれた。受付ロピーの片隅では、母校在校生を代表して、彼等の使用する机と椅子が一組と、数学の黒板用の大きなコンバスとが、静かに会場を見守っていたのであるが、先輩の皆様方にはお気付きになったであろうか。
根柢一本松は、夜7時、48名の当番幹事に見送られて、拍手の中を静かに帰路についた。
『政治家の資金集めバーティーの真似をして懇親会の券1500枚を現金引換えで期別幹事に割当て、配分を完了した。後は参加人数をごく少なめに300名として準備すればいい……』ということにでもなれば同窓会幹事も楽だろう。と、夢みたないことを考えております。
昨日美術展で何度か耳にした「女の時代」と云う言葉からぽんやりと女性の顔が浮かんで来たので、早速竹橋にある大新聞社の高名な女性編集委員にダイヤル。「アトラクション企画に一肌脱いで欲しい」「次回の準備会には是非出席して欲しい」とお願いした。こうして、準備会を重ねるつど逐次新機軸妙案を具体化し、今秋には案内状を差し上げる予定であります。
東京東筑会の会員が1500名もいれば東筑魂や川筋気質を確かめたい人、誰かに逢えるかもしれないと期待する人もいるでしょう。出席したい人だけが集まればよいと割り切りたい所。ですが参加予想人員を下まわれば赤字をかかえこむのは必定で、慎重に計画して多数のご参加をいただくことに心を砕かねばならないことに相成ります。
今年はまず基本に忠実にやろうと、日程、会場を約2年前に調査して決めておりましたところ、年号が平成と改まって1年11月11日と1の数字が並ぶ日の同窓会になります。場所は「虎ノ門バストラル」鳳凰の間。都心とは思えない閑静な環境に囲まれた洒落た素敵な空間で、若者達の結婚披露会場として今最も人気の高い所であります。
都内最大級の600㎡の洗練されたスペースで美味しい料理と美酒に酔っていただくつもりです。当番期の私ども49期生は戦争末期に入学して戦後の混乱時代に学制改革を体験し、朝鮮動乱を経て昭和26年に卒業しましたが、何しろ6年間の東筑時代は空腹と戦うことに忙しくて、何かしら余裕のない日々であったように思い出されます。
そのせいかどうか「ゆったり、優雅に」心ゆくまで素敵な時間を満喫して戴けることを念頭に会場を選びました。また会場付属の専用ロビーでゆっくりとくつろいでいただけるレイアウトになっております。少々早目にお出で下さっても楽しんで戴けます。
時期はそれぞれ連っても青春の数年間を折尾の校舎で過ごした者が集い、理屈抜きで600㎡の空間を「東筑たる気分」で盛り上げようではありませんか!ご家族ご同伴で気楽に都心の田舎(バストラル)にお出掛け下さい。
幹事会で60期以降の若い会員の掘り起こしが叫ばれて久しいが、その手初めとして3月7日に若手幹事会が早稲田の大隈会館で開かれた。その時の様子をわが期の方へのメッセージとともに書く。
まず一番の課題である在京会員の掌握には期別の同期会を開き、横の連絡を密にすることから始め、本来の幹事の名にふさわしい人材の発掘、確保をめざすとともに、地道に同期の組織作りをする。
20代30代では同窓会イコール懐古趣味のイメージが強く敬遠しがちである。又現在の若手幹事はたまたまどこかで名前が出たためにやっている(やらされている)者が多く、必ずしも適任者とはいえないのが現状である。
次に正直なところ年1回開かれる総会(懇親会のこと)は若い世代には魅カがなく、1万円を払ってまで参加する気にはならないという意見も多かった。これに対しもともと全体の総会とはそうしたものだが、これからは一つのイベントとして何か新しい企画を考えていく方向性が欲しい。
総会に限らず幹事会その他の会についても初めての時はなかなか馴まないが、「同窓というだけで色々な分野で活躍している先輩達と、気軽に交流を持てるのは非常に有益」というのが、一致した意見であった。せっかく同窓という糸があるのだから、従来の同窓会のィメージにとらわれず、あらゆる機会に利用する積極性が、惰報収集・発想の転換等自らの啓豪にも多いに役立つはずである。
以上の観点から一つの提案として、参加者を5期位の幅に設定して昨今話題になっている名刺交換会を、バーティ形式で企画しようとの案が出た。この方法だと比較的近い世代の輪を作り拡げるのに有効で、各人にとっても分野を問わない情報、人脈の拡大に役立つはずである。ぜひこの種の会を実現しようということになった。その他種々の話しが出たが主なものを記した。
昭和25年4月新制東筑高等学校の新入生第一回の栄誉を担って入学し、昭和28年3月に無事卒業した我ら第51期生、確かに上級生は存在したものの、旧制中学や高小から東筑高校生となられた諸先輩には申し訳ないが、第51期が新制高校一年生として初めての新入学生であることには違いない。
もうひとつ言わせて貫えば国民学校で一年生から六年生迄を過ごしたのも我々だけであり、最初に新制中学の三年間を過ごしたのも我々である。大多数が花の昭和九年会であり、世間では相当の評価を受げている筈であるが、残念ながら、東京東筑会の51期は一見大人しすぎるきらいがする。
一昔前なら定年である55歳を迎える我々であるが、50歳を週ぎた頃から昔を懐しむようになり、一昨年の東京東筑会懇親会の幹事担当を機に、在京51期生の掘り起こしを行った結果、48名が63名にと成果を上げた。毎年月、我51期の同期会を開催し旧交を暖めることにしている。昨年迄は毎回20数名の参加に甘んじているが、今年平成元年5月21日は、高橋会長の大号令を受け、相当数の参加を期待し準備にとりかかっている。
高橋・東京東筑会第51期会会長は旧姓を岩永君といい、東筑高校時代はラグビーに情熱を燃やし、花園には出場を果たさなかったものの、最良の高校生活を送った一人であろう。今でも光り輝く頭でもって、我51期生を引っ張ってくれている。最近おじいちゃんにはなったものの、頭とは関係なく若々しい。ラグビー部は他に小早川君等がいる。幹事長は安高君、高校時代は図書部に属した文学青年の面影は今でも残っている。事務局には音楽部の柳川(旧姓福間)、岩崎(旧姓大谷)女史が居り、音楽部は他にも数多くの会員が存在する。
変り種は長沢秀郎君、TV界でブロデューサーとして活躍しており、49期・50期・51期と三つの期会に属し、忙しい毎日のようだ。君津に住む長谷君は詩吟の大先生として千葉県で活躍している。渡辺寿枝(旧姓松田)女史はボランティア活動に寸暇を惜しみ会合出席もままならないようである。
他にも沢山の方々を紹介したいが、高校時代は映画部で映画を見ることで忙しく、多くの情報を持たない小生、事務局長不適かもしれない。 乎成元年2月 51期会事務局長 田山 孝
第7号
(1989年 平成元年 6月)
