
世の中には人生を精一杯生きようと、いろいろな意味で積極的な人、煩わしいことには努めて避けて生きるのがくせになっている人とさまざまである。どちらが良くて、どちらが正しい生き方かなどはナンセンスな事で、夫々の生き方に適した人が夫々の生き方をすればよいのである。
新生東京東筑会も発足して9年目に入り、毎年の総会、月々の常任幹事会、ゴルフ、テニス、カラオケなど各種同好会も活発になり、夜の社交場も同窓生のたまり場などが各地に出来、非常に喜ばしいことである。しかしながら我が57期生に例を取った場合こういうケースもある。
本校総会の幹事期でもある今年、東京在住者でのバックアップをすべく同期会を開催したのだが、80名の同期生に案内を出したところ、10名の出席、30名の欠席、11名の宛先不明戻りに29名の回答なしという現状であった。欠席のハガキには累々欠席の理由が書いてあり、これはこれで出席者に対する近況報告にもなり、こちらが恐縮する程の丁重なる文面もある。
幹事の力のなさは無論大いに反省はしているが、なけなしのポケットマネーで切手、ハガキを買い、印刷し、多忙な中で宛名書きをし、諾々、手筈を整えた挙句が40%強むの音沙汰なしには正直言ってがっかりする。しかし、これを怒るのはお門違いと云うことは判っている。頼みもしないのに勝手にメンパーに入れ、勝手に案内をよこす方が悪いという人もいるだろう。又、却ってその度に、迷惑がっている人もいる事と思う。
今までは各期幹事(これも好むと好まざるとによらず幹事にさせられて困っている人もいると思うが…)をはじめ、お骨折り頂いた人のおかげで会の存在を知り、年に一、二度の楽しい思いをさせて貰ってると喜んでいる人も、一年に一度の総会時に各期幹事他から催促されるのをうるさがる人も全て、消息さえ判れば会員という形で案内を差し出し、協力的だ、非協力的だと一喜一憂していた東京東筑会も来年の10周年を機に体質を変えてみては如何であろう。
そこで、東京東筑会にのぞむものとして提案したいのであるが、冒頭にも述べた様に、人それぞれであるから、好む人に入って貫い、好まない人には入って貫わなければ、いろいろなことで不公平さがなくなり、お互いが嫌な思いもしなくて済むことになる。これは57期に限らず各期の幹事の方にも思い当たることではなかろうかと思う。57期の幹事として今年はぜひそれを同期に問うてみたいと思う。そうは云ってもこれまでの経験から、しぶしぶ出席してみたら40年ぶりに故郷の隣に住んでいた人とめぐりあえた話、同級生の兄や妹と会っておどろいた話、各界で活耀中の有名人が実は同窓生でおった話、商談真盛りの当事著同志が実は同級生であった話、隣同志に住んでいる奥さん同志が実は同窓生であった話などなつかしく楽しい話も限りない。そんなこんなでまだ一度も出て来た事のない人、今年の総会はぜひ一度出てきて下さい。 (テイチクレコード株式会社)
東京東筑会は不思議な所だ。第一、そこでは意識しなければもう話せなくなってしまった方言が、大手を振ってまかり通っている。それに大半の人たちが僕とは全く世代の違う、見ず知らずの大人たちだ。数の多さにも驚かされる。2、3年前ならともかく、10年、20年、30年前の田舎の県立高校の卒業生が、これほど東京に出てきているとは。しかも、その人たちの肩書きのすさまじさといったら。東筑といえば高倉健と三原朝雄先生ぐらいしか知らなかった僕にとって、これはまさにカルチャーショックだった。
とはいえ、同窓会というのは普通そういうもので、仲間内のクラス会しか知らない若僧が顔を出す所ではないのかもしれない。しかし東京東筑会の皆さんはこんな若僧でもとても可愛がってくれるのだ。木造校舎も一本松も知1らないこの若僧を。東筑の卒業生というだけで皆さんが寄せてくれるこの暖かい心づかいを、一体どう解釈すればよいのだろう。
つまり、東筑で過ごした三年間を自分の中でどう位置づけるのか、ということではないだろうか。世代は違っても、その比重の大きさは、多分、誰にとっても変わらないはずなのだ。先輩方は若い僕らの中に昔の自分の姿を垣間見、僕らは先輩方の姿に自分の未来を投影させる。東京東筑会をそんなふうに片付けてしまうことは、僕らの身勝手にすぎないのだろうか。
いずれにしても、確かなことが一つある。東京東筑会は「過去」を懐かしむだけではない。三年間の同じ「過去」を持つ人たちが新しい「未来」の為に再び集った。そんな集団であるということだ。それは、三原先生の旭日大綬章記念バーティや母校のセミナーハウス建設に関する一連の働きかけを見れば、自ずとうなづけるであろう。年々活発になっている同好会活動も、そうした特徴を如実に物語っている。
僕にとって、東筑はまだ手の届かないほど遠くに行ってしまった存在ではない。あの頃の感性、あの頃の夢は、まだ僕の手の平の中で握りつぶされずにうごめいている。だが、この東京で、同し東筑魂を持った人間の何と少ないことか。
「過去」ではなく「未来」の為の東京東筑会。そんなことを考えているのは何も僕一人だげではないはずだ。行動する同窓会にする為にも、今後はどしどし僕みたいな若僧が顔を出すようにならなくてはいけない。とにかく身内にできるだけ声をかけ、いやがる連中を是が非でもしょっ引いてこなくてすは。諸先輩方、ご迷惑をおかけします。 (美術公論社出版部主任)
3月24日青山ダイヤモンドホールでクラス会を開催した。久し振りの集いであったが、岩根君の熱心な勧誘で13人中11人の出席を得た。吾々38期は来年90周年の年には卒業して丁度50年目になる。又年令も65才以上になって所謂老人の部類になった。夫々環境の変化もあり近況や、学生時代の思い出等話のつきない楽しい一夜であった。
仰木君の持参した修学満鮮旅行の船上での写真を拡大鏡で必死に覗いて、オレはここだ、アイツがいる、コレは誰だったけ、と販やか。老人らしからぬ酒量でメートルは上り銀座の標野(53期北條君経営)に二次会とくりだしてしまった。ここでの狼籍振りは北條君の知るところで吾々は一切記憶にない。
出席者の近況を紹介すると…石田君は奥村組の副社長として頗る頑健で業界の要職も兼ね活躍。岩根君は第二の勤めで頑張っている。中学時代器械体操では小さな体で華麗な大演技を見せてくれたものである。井上君は税務署退官後会計事務所開設大忙し、昔さん大いに利用して下さい。仰木君は柔和な人柄で何時も同級生の消息を知らせてくれる。靖国神社迄行って戦死者を調べてくれたのも彼である。緒方君は衆議院事務局を退官後家裁の調停委員として悠々。梶原君は夫婦医師で前原診療所経営、毎週体診日はゴルフ三昧の結構な身分。久保田君は静岡在住、サンケイ新聞、テレビ静岡を経て富士ビデオワークの社長で頑張っている。鳩山首相時代の随行記者の目から見た、日ソ平和外交の興味ある裏面史「クレムリンへの使節」を発刊一読を乞う。深沢君は理数系の秀才、レスベケミカルの副社長をしている真面目で上品な紳士。宮崎君は宮崎先生の二男で建設省、金融公庫を経て首都圏不燃建築公社理享長で活躍中、なかなかの酒豪は予想外。野口君は九大停年後現在帝京大の教授、品行方正の為か頗る若い。吾々の期も戦死を含め物故者が半分になった。幸い出席のみんなまだまだ元気、お互いに少し酒をひかえていつまでも健康で、時折集って楽しい一刻を過したいと思っている。(三菱建設専務取締役)
53期生--この3月に一人残らず無事50才の大台に乗った。ヒマ人が多いと見えて、用もないのに東へ西へ出向いてはよく賑わう。格安の団体割引ツアーを考え出した知恵者がいて、シコシコ積み立てなどやっている涙ぐましき世代。60年の東京東筑会総会に味をしめ、61年は思い残した京都修学旅行のやり直し。62年はこれまた関西東筑会のために、恩師ともども雄琴温泉に泊り込んでのドンチャン騒ぎ。常時40人~50人がこれに加わり、「この次は日本のどこにするか」などと他愛ないことを語り合う。もうあとはアメリカ東筑会とか、還暦東筑会しか残っていない?
この写真、62年4月某日、珍しくお行儀の良い(撮影の間だけ、だったが)、「標野」でのスナッブ。ちょうどドククー・オノが学会で上京中だったが、在京三日間はここにつかりっ放しだった。おかげでまたお祭りがでけた。葬儀でさえなけりゃあ、どんな酒だって良い(?)。そろそろジュニアに色気が出てこようというのに、みな「匂うように」とは一言わんがそれなりに若い。その若い人の名前を列挙しておく。後列右から藤田(律気、生真面目)、大富(旧姓千々和、ダンスの名手)、植田(俳句でも秀才)、伊藤(甲子園児健在)、江藤穂(中近東東筑会)、中列右より安斉(旧姓路地、そのかみの文学少女)、恒川(旧姓塩田、ますます典雅)、小野(重鎮)、千々和(震源地)、安永(名幹事長)、西村(旧姓林、とみに妖艶)、松本(社長一筋)、前列右より末森(闖入者)、日高(大言壮語)、北條(旧姓加来、東筑宝塚のブリマ)。
(三和テッキ専務取締役)
…写真は会報原画の解像度が低く転載不可のため割愛しました。(HP管理人)
59期生会の活動は他に類を見ない程活発であると自負していますが、これも末森会長の面倒見の良い人柄、山保女史を始めとする幹事諸氏の家庭を省みて無いのでは?…と恐ろしくなる位に献身的な活動、そして会員諸兄の旺盛な愛東筑心に因る処が大きいものと信じております。
当同期生会の活動としては定例総会を毎年5月最終土曜日都内某所で実施しており、今年で7回目を数えることになります。その他、折りにふれ何かにかこつけては臨時の会合を持っておりますがいつも盛会です。その特徴は北九州の香りと往時の自分達を懐しみ乍ら決してそれだけでは終らない何か、即ち”北九州弁(?)”と”相互理解”を求めて集うとでも言えるのではないかと考えています。しかし乍ら定例総会に参加するメンバーの固定化とか活動のマンネリ化の傾向が出て来ている様な気も致します。将来に向って、会活動の活性化を図る為、会員諸兄の提言が必要な時ではないかと思います。
今回の特集にもありますが、同期生会に期待するものは多様性があって然るべきですが、最小限各会員の二-ズに応じそれらを具現出来る場を提供しうるものであることが必要であろうと考えます。従って一人でも多くの会員が会の活動に参画し多様なあり方を手づくりで打ち出して行くことが不可欠であります。
この為先ず定例総会には全員集合しましょう。話はそれから…図りごとはそれから…デス。(以上) (陸上自衛隊一佐)
62期。私共の卒業年度は、何をかくそう、三原先生、初当選の年でございます。華々しい経済成長を、青春そのもので過ごした団魂の世代の始まりでもあります。今、不惑をすぎ、気がついてみるとみんな迷い道。国家自体が、どこに向かって行くのかがよく分からずに、先行不安感が支配的な毎日で、みんなともかく集まれ!と大声で叫んでみたところで………。でも、とりあえず、やってみなくてはと、非難を覚悟で、忘年会、ゴルフコンペ、新年会と、矢つぎ早に催しましたところ、どういう訳か、54名も居所が分かりまして、これは大収穫。かくなった以上、許せる限り行き来して、心だけでもつないでおこうと………。東京東筑会62期、健在なりを、栗田なき(?)後、諸先輩、後輩に知らしめつづけようと、ほんの一寸、力んでいる次第でございます故、以後お見知りおきの程、切にお願い申し上げます。
さて、写真は先般の新年会のものでございます。何せ23年ぶりというのが何人もおりますから、昔、目が異様に光っていたみんなも、あの忌わしいおやじ、おふくろの顔になり、人生の重みって何なのか、考える余裕もなく、あくせくあくせく……。一応、青春してうさ晴らしの図。
(株式会社フリーダム)
…写真は会報原画の解像度が低く転載不可のため割愛しました。(HP管理人)
田舎の高校生(あるいは中学生)にとって、東京で味わう同窓会の酒の味は、あの祇園さんのそれと変わらないはず。それなら祭りは賑やかなほうがいい。人出は多いほうがいい。といってワッショイ気分でやったわけではない。大枚を払って参加される同窓の方々の心に、スルメのようにいつまでも味が残る会にしたいという、ただそれだけの素朴な願いが横溢していただけである。
祭りに広場はつきもの。それも足の便のいいところ。かくして赤坂プリンスホテルグリーンホールが候補にあがったのだが、ネックは金額。正直なところ、ホテル側の最初の見積りでは使用は全く不可能。しかし52期の面々の粘り腰は千代の富士以上であった。最後はホテル側もわれわれの涙の心情を汲んでくれて譲歩に譲歩。250名の参加が見込めれば使えるという金額を提示してくれた。
もし参加者が200名なら、50名分は52期が負担することになる。イザという時には仕方がないが、出来ることなら52期生の家庭の平和のためにも一人でも多く……。畠山和政君のコネを生かして、フルートの神崎愛に心よく出演してもらう話が持ちあがり、これで会が盛りあがると一同ホッ。しかし彼女ひとりに頼ってもというわけで、ユニークなショーを展開することになり、宮川隆義君の顔ききでアンビシャン・ダンサーズにも力を借りることになった。この二つのショーを目玉に、寅さんの向うを張って、東筑会のハッピと折尾のかしわ弁当をオークションにかけ、当日が誕生日の人を舞台で祝い、ビンゴで一層の盛りおがりをと企画は山ほどあったが、時間の都合でその大半が割愛され、歌と踊りで幕となった次第である。
ただ、神崎愛が真埋ヨシコに変更になったことはお詫びしなければならない。すでに案内状を発送した後で、神崎愛の出演時間の折りあいがつかなくなり、直前になって出演者が変わる不手際が生してしまった。
それにしても多くの同窓生にご参加いただき、ひとりひとりの顔が神様仏様に見えたというのが52期の偽らざる心境であった。最も気になったのが当日の天気。場所が場所だけに女性は晴れ着で出席される方が多いだろうし、もし雨にでもなったら「晴れ着を濡らしてまで」と不参加がふえるのではないか。11月8日の朝、快晴の空が目にとび込んできた時、思わずガッッボーズが出たことを今でも思い出す。このガッッボーズが牛後四時になって再び飛びだした。参加者300名突破とい う選挙の開票なみの速報が、あの熱気のなかで52期の面々に伝播していった時である。
「これでやっと安心して後夜察が出来る。」当日、52期は懇親会での飲会を控えるように申しあわせていただけに、だれもが腹を鳴らしてひたすら会の成功のみを願っていた。もし250名を切る結果になったら、折角九州から応援にかけつけてくれた福岡52期会の大谷会長を始め約50名の同輩に顔向けできないし、憂うつな後夜祭になっていたに違いない。
結果論ではなく、300名近くはいけるという手応えはあるにはあった。各人が地域別に、近場の同窓生に電話で呼びかけたのだが、この感触が意外によかったのである。しかし電話は難しい。夜の8時すぎに「奥様いらっしやいますか」と電話した時、受話器を持つご主人の顔がゆがんでいるようで心苦しい。52期の女性からはこの逆に「奥さんの、どちらさまという声にトゲがあって……」という話を聞き、まさか不倫にとられたわけでもあるまいと苦笑を禁し得なかったが、家庭争議の火種をまき散らしながらの必勝作戦に応えていただいたことを、紙面を借りて改めてお礼申上げます。
いま52期生は銘々が職場と家庭にもどり、慌ただしかった一年前を思い出しながら、仕事に主婦業に、そして趣味にレジャーに専念している次第です。(記・高野賢巧)
「オイ、田中。お前、知っとおか?」
「なにを?」
「N先輩が俺たちのコーチに来るんだって、今日から」
「そんな…」
高校2年の5月。うららかな春の陽先しを浴びたコートの上で、僕はあまりのことにしばらく口がぎけなかった。
春のインターハイ予選が行なわれたのは、つい一週間前のことだった。我が東筑高校軟式庭球部は念願の県大会出場をかけて、戸畑商業と対戦するところまで駒を進めていた。いつもプレッシャーから1回戦で負けていたことを考えると、その時の戦いぶりはほとんど奇蹟に近い。僕らは興奮した。だが実力の差はいかんともしがたく、あと一歩というところで涙をのんだ。3年生はユニホームを脱ぎ、新キャブテンには僕が選ばれた。Nさんが登場したのは、丁度そんな時である。
Nさんの噂は一年の時からよく聞かされていた。とにかく豪快な人で、その目茶苦茶なシゴキから当然「鬼」と命名されており、しかもシゴくのは男だけで女には滅法甘いと言われていた。バックハンドが得意で、どんなボールでもわざわざバックに回りこんで打ったというし、テニス部を辞めた後、応援部から誘われてすぐに幹部になったというのも、Nさんの伝説に華を添えていた。
いったいどんな人なんだろう。本当にコーチになるつもりなんだろうか。僕は不吉な予感を払いのげることができなかった。でも所詮、そんな心配は徒労にすぎない。現実はいつでも僕らの想像をはるかに越えてしまうものだ。しばらくしてNさんは僕らの前に姿を現わした。噂は全て、本当だった。
きれいに撫でつけられた短い髪、金縁の眼鏡、やせぎすの白い肌、そして川筋気質まる出しの性格。東筑学館に籍を置く三年目の浪人生という暗さは徴鹿も感じられない。Nさんは終始上機嫌でコーチ就任の挨拶をし、練習試合ではわざわざ回りこんでパックのトッブスピンを連発した。その日はそれですんだ、しかし、本当の地獄はそれからだった。
次の日から7月に入るまでの約2ケ月間、僕らはボールを打つことを一切禁じられた。まず体力と根性を鍛え直す。練習前に3キロのロードワーク、腕立て伏せ、腹筋、側筋、背筋、ダッシュ、ヒンズースクワット、ありとあらゆるサーキットトレーニングが果てしなく続けられた。時には怒声が飛んで来る。
「コラア、田中。キャブテンがそのざまで、どうするんか!」
1週間もすると脱落者が出てきた。後輩の姿もだんだん少なくなってくる。しかしNさんのトレーニングが加減されることはなかった。
1ケ月ほどしてやっとラケットを持つことが許された。そして夕暮のコートで1000回近い素振りを続ける毎日がもう1ケ月ほど続いた頃、Nさんはバッタリと姿を見せなくなってしまった。おじいさんの急死とその直後の野球部の甲子園出場が原因だった。応援部0BでもあるNさんは、甲子園にかつぎ出されてしまったのである。僕らは甲子園騒ぎをよそに練習を続けた。そのせいか、8月の新人戦、翌年春のインターハィ予選と2度続けて県大会行きの切符を手に入れた。快挙だった。
今でもクラブの0B会で酒を飲むと、必ずと言っていいほどNさんの話がでる。「お前ら幸せだよ。Nさんのコーチを受けられて」ある先輩からこう言われた時、全くその通りだと僕は思った。Nさんは僕らを徹底的にシゴく反面、練習が終われば年の差を乗りこえて一緒に遊んでくれた。皿倉山のピクニック、津屋崎の海水浴、そしてNさんの家での合宿。Nさんが僕らに与えてくれたもの。それがどんなに力強いチームワークを僕らの中に芽生えさせたことか。そしてその後の生活の中で、それがどんなに心のささえになったことか。
東京に出てきて丸7年。東京東筑会に出席するようになって、諸先輩の暖かい心使いに接する度に、あの頃のNさんのことが懐しく思い出されてならない。Nさんは今、東京にいる。どうか顔を見せて下さい。そして人生のファーストサーブを打とうとしている僕に、またあの頃のような罵声を浴びせかけて下さい。
第4回コンペ
61年4月9日(水)、松本督男(53期)先輩のご尽力で、桜、こぶしが満開の相模原ゴルフクラブで開催されました。好天に恵まれ、スコアは別にして、気持ちの晴れる一日でした。今回も前回同様キャロウェイ方式によるハンディ戦でしたが、女性の参加が5名となり、和気あいあいのコンペでした。
優勝は馬場裕三氏で、バートナーとハンディ(44)そしてキャディさんに恵まれて、すばらしい(?)ゴルフをされました。第二位は川上祥登氏。出張を延期しての出席でスコアよりもその気持ちがありがたいです。第三位は梶原真氏。若き頃、このコースで軍事教練に汗を流したということで、昔を思い出してかベストグロスまであと一歩でした。ベストグロスは坂口鎮穂氏。初参加、初ラウンドの西尾氏を教えながら、自分をチェック出来ました。
千々和幹事長は、趣味の吟行のようにはスコアがまとまらず、小御門氏は、今回幹事代行となり、気を使いすぎ(木を便えばスコアはまとまります)御昔労様でした。初参加の松井氏は5時に家を出た意気ごみで当日賞(9位)を射とめました。鴛海氏と静岡からの参加で前回優勝の久保田氏は。初参加の中平氏をやさしく見守って下さいました。末森(弟)、中村両氏は、前日町田に一泊して余裕のコース入りでしたがメートルのあがりすぎでいまひとつ。
パーティはいつものように楽しく、ゴルフにきているのか、お酒を飲むためにきているのかわからない人もいらっしやいました。全員が気がねせず楽しんだ一日でした。 (梶原隆裕記)
第五回コンペ
前日の雨がうそのような好天に恵まれた10月23目、恒例の秋のコンペが相模原ゴルフクラブで行なわれました。平日にもかかわらず10組の多くを数え、さすが東筑の人間は遊び好きを証明する賑わいに、久しぶりに御参加の三原会長も驚かれたのではないでしょうか。
今回は初めての自己申告によるハンディ戦でしたが、梶原キャブテンの言を借りますと、結果が示しますように皆さん適正申告でありました。(一部買いかぶりもあったようですが)
優勝は53期植田氏、御本人の弁によりますと良い手本と悪い手本のパートナーに恵まれ自分のプレーを悟ったとのこと。100を切ったのが一年半ぶりというのにハンディキャッブ・22のパープレイはナイスブレー。準優勝は今回より特別会員となっていただいた地主板東氏、安全距離を確実に決めての入賞と推察いたします。第3位は52期の有田氏、今回は前夜に節制なさったのか(?)中村先輩と同組にもかかわらず堅いブレーでの上位入賞は見事。第4位は船津大先輩(32期)、悠々自適の毎日とうかがいましたが、整ったフォームと誠に美しい球筋ですばらしいゴルフでした。以下あちこちで個性的なプレー、激戦、舌戦の連続でした。
ブレー後のパーティはゴルフ同好会からの三原会長への叙勲を御祝いする記念品の贈呈に始まり、いつものように和気合々の宴会となり、九州弁での自己分析、反省会、次回への決意表明等乱れ飛び、時間とともにメートルも上がり楽しい一日の終わりとなりました。 (深堀和雄記)
第六回コンペ
東京東筑会ゴルフコンペも回を重ね益々盛んになってきました。名簿に登録されている会員も70名を越えました。今回の申し込みも深堀兄の第5回大会の奪戦記が出た後から申し込みがあり、案内のハガキを出しましたところ、たちまち定数になり、約10名の方に断わりの連絡をする次第でした。ともあれ、”よく遊べ、よく学べ”の東筑精神を発揮し、益々盛り上げてゆきましょう。
さて第6回大会、当所参加を予定されていた三原会長、渡辺(35期)、梶原(38期)、松本(53期)、正野崎(57期)、中村(64期)、深堀(69期)の諸氏、どうしても参加できなくなり、淋しくなりましたが、好天に恵まれ無事終わりました。幹事不行届きの点御容赦下さい。皆様の御協力有難うございました。
ところで、コンペ終了後の一番の問題「奮戦記」のことですが、急拠参加をお願いした鶴田さん(55期)にピンチヒッターで当たってしまいました。初参加で様子がわからず苦労されたようですが、確かに他組の様子はわからず書きにくいと思います。一つの提案ですが、次回からは”各組の奮戦記”をそれぞれ書いてもらい(例えば、その組で一番成績の悪かった人が書くとか…)それをまとめるというようにしてはいかがでしょうか。さて、次回は10月20日(火)、相模原ゴルフクラブです。幹事は麻生さん(54期)、西尾さん(折26期)、それに山崎さん(折25期)が応援してくれることになりました。よろしくお願いします。
板東さん(特別会員)には、相模原GCをとっていただくのに大変お世話になりました。そして又、次回もお願いすることになりました。御礼申しあげますとともによろしくお願いいたします。なお又、バーティで盛り上り、校歌を歌うなど、ちょっとやり週ぎでした。今後は気をつけたいと思います。どうもありがとうございました。また、10月、お逢いしましょう。次回は頑張ります。 (値田正映記)
*快晴の相模原の青空めがけてティーショット。たとえ球が少々曲がったとしても何とも言えない快感を味わうものである。”ゴルフ最高!”
ゴルフをやっていると一時期にせよ頭の中から全てのモヤモヤが消滅する。これこそ精神衛生上大変良いスボーッであり遊びであります。私の場合、東筑高校から日大を卒業すると共にゴルフを始め20余年。何事もなく心身共に健康ですごしてこられた事、ゴルフに感謝している次第です。
本日、東京東筑会ゴルフコンペに初参加させていただきました。先輩の方々、後輩の方々、多数の参加に顔見知りの少ない不安感と同時に、東京東筑会の団結の強さをあらためて思い知らされました。当日(4月23日)名門相模原GCに2時間前に到着しました。練習場で充分な打ち込みをして心の準備万全にして西コース№10よりスタート。小田先輩、金沢君(65期)三人で。
私事です。10番はバーディで出発したのですが、11番3パットのボギー(すばらしいグリーンに手が動かずしびれてしまいました)。その後トリブル、ダボなど色々と楽しく、嘆きながら前半を終りました。オフィシャルHC7の小田先輩、飛ばし屋の金沢さんに迷惑をかけてはいけないと思い、昼食時、ガソリンを満たんにして0UTスタート。神のお守りを得、何とか良いスコアーでホールドアウトできました。お陰様でBGをいただき、ありがとうございました。
成績発表バーティで3位の順位に大喜び。これには実の所、優勝者、BBの方が次回の幹事になるとの事聞くに及び、それだけは逃げたかったのです(心が浅ましい)。パーティにて美味しく飲んでいました所、3位の方(本来なら4位)は奮戦記を書けと命令された時にはピールが本当に苦く感しました。
学生時代より今だに机に向かう事が嫌いな私です。本来なら優勝者麻生泰久氏、準優賞者山崎美恵子さん、古岡、鴛海大先輩の方々の弁を書いてもらわなくてはいけない事でしょうが、無精者の私ゆえ、勘弁していただきます。話は変わりますが、皆様の故郷九州中間の方でも中間東筑会ゴルフコンペ(毎回40名位参加。幹事井手・後藤)を盛大に楽しくやっています。私も2年前参加させていただき、楽しんできました。最後になりましたが、特別会員のメンパー板東氏に深く感謝すると共に、今後ともよろしくお願いいたします。和気合々の楽しい一日、本当に有難うございました。尚、幹事役の植田氏、城氏にはいろいろお世話になりました。次回の再会を楽しみにしています。 (55期鶴田孝記)
第5号
(1987年 昭和62年 7月)
