
東京東筑会発足以来会員各位の積極的なご協力と、役員の皆様の献身的な御努力を得ていることに対し、深甚なる敬意を表します。
本会も組織的には期別幹事会、各委員会の活動も活発になり、また年一回の総会、懇親会も規模、内容とも年々充実してきておりますことは、誠に喜ばしいことであります。
私が国会にいる関係上、いろんな方が私の事務所を訪ねられますが、中でも東筑の同窓の方がおいでになられた時は、特に感慨深く、うれしく思うのであります。
青春に目覚めるころに勉学を共にした者同士のつき合いは本当に懐かしいものです。 また、学んだ時代は違っても、先輩が作ってこられた伝統の下で培われた”東筑魂”という気質は変わるものではありません。 この東筑魂は今も脈々と受け継がれております。 そして、東京で同窓会の多くの同志が各界、各層幅広く活躍されておられることは誠に頼もしい限りです。
東京東筑会は会員相互の親睦と助け合いを目的としたサロンであります。 この絆を大事に育て上げて行くために会員各位の一層のご協力をお願い申し上げる次第であります。
なお、母校では創立九十周年記念事業としてセミナーハウス、同窓会館の建設が計画されています。 近く本部より皆様方にご要請が参ると思いますが、われわれ東京東筑会としても伸びゆく母校を偲びつつ出来るだけ協力しようではありませんか。
最後に会員各位のご健勝とますますのご活躍をお祈り申し上げます。
母校東筑高校は、昭和63年を以て、創立90周年を迎えるに至りました。新年早々東筑会、学校、PTA三者合同による90周年記念事業実行委員会総会を開き、学校側の計画しておりますセミナーハウスにドッキングした同窓会館を建設することに相成りました。
セミナーハウスの許可申請に当たりましては、三原大先輩を中心に浜中県議さん、住吉県議さんの格段のご努力を頂き、県当局、文部省、防衛庁の温かいご配慮により、ようやく実現の運びに至ったのであります。また松浦先輩を中心に、建設委員会の委員のみな様方の真剣なご努力のお陰で計画どおり順調に今日を迎えております。
私は90周年記念事業実行委員会の会長として、その責任の重大性を痛感すると共に、みなさん方の温かいご指導とご協力を受けながら、私の人生のすべてを愛する母校のために捧げる決意であります。
セミナーハウス建設の予算1億数千万円は全額国と県の補助金ですが、同窓会館建設の予算2億円は全額同窓会会員のご協力によらなければなりません。低成長時代の経済環境の中で極めて困難な事業であることは十分覚悟せねばなりませんが、この大事業は、我々の愛する母校90年の歴史の中で最初で最後のたった一度の大事業であります。
一番むずかしい名簿整理も1万三千名を越えつつあります。年会費千円の振り込みも五千人に近づきつつあります。会報も今年で6号になります。東筑会の基盤整備の最終目標は、何としても同窓会館の建設です。セミナーハウスと同窓会館の併設は正に実学一体埋想の殿堂となるのであります。お互いが愛する母校発展の永遠の核となる施設であります。
みなさん、私はみなさんに命がけで訴えます。
21世紀に対応できる天下の大東筑会実現のためにも、お互い純粋な母校愛の精神を結集して、岩にかじりついても、たった一度のこの大事業を実現せねばなりません。みなさん、理想の矢は既に放たれたのです。
末森多賀生 (59期)、千々和久幸 (53期)、長畑 寛照 (48期)
東京東筑会のあゆみ・存在の意義については、故白石大祐副会長の遺稿となった「花咲け東京東筑会」(東京東筑会報第3号)、および千々和久幸幹事長の「東京東筑会の前途は洋々たり」(母校同窓会報第5号)、に詳述されていて、それ以外には見い出すことができません。ただその行間を埋める意味で裏方の想い出として綴ります。
昭和54年9月初旬、突然電話で「10月に京王プラザホテルで”新生”第1回在京同窓会を開催したい。ついては59期の同期生の消息を調べて欲しい」との依頼が、村田和生・中村守衛(57期)両氏からありました。『何で今頃東筑会ですな』と思わず問い返しました。たぶん、この疑間は、私以外にも、この時期に電話をもらった人は少なからずお持ちであったに違い無いと思います。実際、私も昭和43年夏に上京して以来、この時初めて東筑会のことを耳にしたからでもありましたし、同時に、明治31年開校の学校にしては、未だに在京同窓会も無かったのかとあらためて驚いたからでもありました(後で知ったことですが、在京同窓会を作ろうという胎動は、以前にもありましたし、それぞれの親しいグループでの会合はもたれていた様です。例えば、昭和41年11月に東京東筑会会則が定められてはいましたが、その後の活動は停止のままでした)。
従って村田和生氏を中心にした57期・58期の有志の方々や在京応援部OBの皆様の熱意と頑張りがあって、第1回東京東筑会を開催することが出来たといえましょう。
そこで、この時をもって”新生”の東筑会と称しています。その後毎年秋には総会を兼ねた同窓会が開催されて今日に到っています(昭和61年から総会は代議員制により春に開催、秋には同窓会を行うことになりました)。
私が事務局をお預りする様になりましたのは、第三回目の総会(昭和56年度憲政記念館)からです。丁度その年度に、私達の59期が東京東筑会の幹事当番期になりましたことや、当時の事務局長の牛嶋俊康(58期)氏が福岡に転勤されることになったためでもありました。事務局をお預りするに当たっていろいろ会の内容を聞いてみましたが、その時は組織も未だ完全に出来上がってはいませんでした。例えば、副会長、会計は空席のままであり、会計の余剰金は20万円たらずでした。よくまあ二回目の東京東筑会が開催できたものだと感心せずにはいられませんでした(この時の当番期の58期は、手弁当で、しかも、もし総会が赤宇決算だったら、それをひっかぶる覚悟で開催したとのことでした)。
第3回の総会期を迎えるに当たって、まず私達の59期会を持ち、総会の幹事期を引き受けるか否か、また事務局をお預りするか否かについて相談したところ、「折角盛り上がりかけて来たこの火を消すな」、また「この会を永続させるための組織づくりをしたらどうか」との意見が出され、そのためには59期が出来るだけの手助けをしようとのことで総会並びに事務局をお引き受けすることになりました。
そこで、昭和56年4月7日に市ヶ谷会館で東京東筑会の第1回常任幹事会(以前にも時々常任幹事会が開催されていた様でしたが資料が現存せず、この会を第1回常任幹事会としました)を開催し、年2回の常任幹事会の定着化(年始めと秋の総会当日)と、毎年秋に、総会を兼ねた同窓会を開催することが確認されました。また財政的な面から年会費の納入をお願いすることも同時に決定されました。副会長及び会計については、次回の幹事会(総会当日)までに人選することになり、組織強化の基礎である期別感じの拡充については、昭和60年1月の役員改選期に同時に行うこととし、この二・三年は東京東筑会が”新生”したことを同窓の皆様にお知らせすることを主体とすることになりました。そこで次回の幹事会までの間に、三原会長と相談の上、村田和生・川上祥登(57期)両氏とともに、鴛海正(38期)・白石大祐(43期)両氏を訪ね、強引に副会長就任をお願いしました(殺し文句は、先輩なら先輩としての威張り賃を払うつもりで、チィタア後輩の面倒をみてもヨカデッショウガ…)。
第三回新生東京東筑会総会は59期の骨折りで無事に憲政記念館で開催され、前述の副会長人事の承認と、会計に山保文枝・今井梢(59期)両氏を選出しました。またこの総会で正式に毎年秋の同窓会の開催と、会報を発行することが決定されました。
会報の発行は、東京東筑会の新生を同窓の皆様に広くお知らせする意味からも急がねばならないことでありましたが、年会費の納入者が少なく(当時登録者の3割弱〉、財政の面と、編集委員をだれに委嘱するかという基本的な問題があり、昭和57年秋の第5回幹事会まで持ち越されました。この会で、「年1回の同窓会だけでは、いつまでたっても東京東筑会に関心を持っていただくことは難しく、そのことが年会費未納となり、財政的な面から会が崩壊しかねない。この際、思い切って、会報を出そう。赤字になったら、ソン時キャもともと東筑会チャ、いらんヤッタとバイ」との意見が出され、昭和58年4月を目標に創刊号を出すことが決定されました。そこで、佐藤晶(48期〉氏に会報委員会を作って頂き、同期の友情から長畑寛照氏が参加され、長畑氏主導のもと、それぞれの委員が手弁当で頑張って下さり、その後3号まで発行することができました。当初「どうせ東筑のすることヤキ永続きはセンパイ」との声が聞かれましたが、逆にこの声に励まされたこともありました。その間、会報は広告料で賄うことができました。東筑を愛する有志の方々の御厚情があったからです。誌面を借りて厚くお礼申し上げます(実際、3号までは会報を発行するだけの財源がありませんでした)。
そうしている間に、役員の任期が満了する時(昭和59年末)が近づいて来ました。そこで今回からは名実共に整った組織づくりをしたいとの考えから、会長、副会長に組織の活動母体となる期別幹事(48期から69期まで)の人選をお願いしました。昭和60年2月22日、九段会館にて幹事会が持たれ、新たに幹事長を設けることが決まり、千々和久幸(53期)氏を選出しました。この幹事会をもって新生東京東筑会にふさわしい組織が誕生したといえます。
さて現在では、同窓の皆様のこの会の発展を願う気持ちが確実に感じ取れます。例えば年会費の納入は、以前登録者の三割溺でしたが、昭和60年度は6割に達しました。また、「頼みもしないのに勝手に登録して」との声も聞かれなくなりました。『ヤッバシ東筑バィ、まとまればイサギィ(早い)ですタイ』。これも川筋の血のせいでしょうか。
東京は、それぞれの地方の文化が衝突し、融合するところでもあると考えています。私達が祖先から受け継いだ美徳を基盤にしなげれば、埋没するか、押し流されてしまうのではないでしょうか。墳墓を九州に残し、後ろ髪をひかれながらも頑張ってこられ、各界でご活躍の先輩諸兄に、あらためて敬意を表します。また後輩諸氏には、この東京東筑会を社会教育の場として、さらに飛躍される事を期待しています。青春の多感な時期を同じ学舎で過ごし、しかもまた東京で生活する縁を大切に育てたいものです。(医学博士、末森歯科医院院長)
徳永勝一同窓会長から45個の「かしわめし弁当」の差し入れがあって、九段会館での懇親バーティは始まった。その日、昭和61年2月24日、わたしたち東京東筑会は懇親会と切り離した総会をはじめてもったのだった。
その日はまたわたしが故白石大祐副会長(43期)の推輓(その実、強制命今)で幹事長に指名されてから、まる1年が経過した日にあたっていた。総会には九州から徳永会長、野添幹事長を迎え、東京サイドは鴛海副会長をはじめ、この会を今日まで支えてくれている常連、新進のおよそ50名が集まった。
さて、この1年で明らかに東京東筑会は変貌したと思う。端的に言えば、会の中核たる期別幹事の意気込みと意識が変わった。先輩諸兄の意志を継いで幹事会は定期的に開催され、力量は乏しくとも、東筑会は何をすべきか、それを誰がどう担うべきかが共通のィメージになりつつある。たまたま60年度総会(懇親会)の成功が東筑会の結束をあおるふいごの役目を果たした事もあってムードはかってなく盛り上がっている。しかし--、とわたしは考える。間歇的な賑わいや一過性のお祭りならば、誰でも演出できる。要は全体の活動を組織的にどう持続させるか、だ。たとえ地味ではあっても、期別幹事会を中心にした日常的な活動をいかにキッチリ継続させていくか、だ。具体的に言うなら、総会、懇親会等の定例行事のほか広報活動、会員拡充活動、親睦活動を、誰がどこまで本気になってやるか、である。要すれば、忍耐との勝負なのだ。
同窓会のようなまったく腹のタシにはならぬボランティア活動を、かしわめし弁当ならぬ手弁当で誰が引き受けるか、百の議論より一つの実行こそ貴いのだ。だから、役員や期別幹事は勲章であってはならない。
その夜の懇親会の酒がひとわたりまわったところで、52期の杉本彰司先輩につかまった。「どうも我々以後の連中は、川筋のロマンみたいなものがなくなって、妙にプラクティカルだね」。
この場合、プラクティカルとは小賢しく、現実的、というほどの意味であろう。「いやあ先輩、今やわたしたちの関心はロマンよりローンですよ」とわたしはその場を茶化してしまったのだが、この一言は同窓会の生理を言い当てており、妙に尾を引いた。
わたしの意見のあらましはこうである。わたしたちが愛惜してやまない川筋のロマンティシズムや、川筋男の美学は、じつは古里を捨てた者が共通にひきづっている帰去来情緒の先端にかかっている虹にすぎない、と。帰去来情緒とは、言うまでもなく陶靖節の「帰りなん、いざ。田園将に蕪せんとす……」に表現されている帰心である。
穢れなき魂のふるさと、おおらかで慈しみ深い自然、心やさしい父母や友人、そして無窮な空への憧れ、そこで少年体験を共有し、同じ訛を訛って自己形成をはじめた比喩としての東筑共同体への愛惜と懐旧の情が、わたしの言う帰去来情緒のこころである。
ところで、現実にわたしたちは古里を捨て東京というもっとも濁り多い場所で、用心深くプラクティカルに生計を立てている。何らわたしたちの暮らしにメリットを約東しない同窓会活動などは、ムダで不合埋の最たるものであろう。まして過去への怨みツラミもないまぜになっているとすれば、美学どころか、払い落とした亡霊のごとき東筑共同体と今更向き合ったところで洒落にもなるまい。
だが悲しいことに、この上なく不幸なことには、わたしたちは、東筑を生きてしまったという事実である。郷愁やロマンで暮らしの立つ筈もないことを承知しながら、帰去来のこころを捨て去ることができないでいる。少年時代に垣間見た虹の美しさを今に忘れかねている。彼の初心や自らの見果てぬ夢が投影されていたとしても、虹は把えるすべのない幻影にすぎぬ。いま、わたしたちの吉里はそのような虹の中に比喩としてしか存在しない。
同窓会活動もどこかそんな虹の副産物であろう。だから、その人の感受性や感応の仕方によって、濃く見えたり淡く見えたりする。プラクティカルな暮らしを貫こうとする、リアルで合理的な精神にとっては、虹はどこまでいっても生活感の希薄な無用の長物であることだけは間違いない。
その夜、徳永会長にいただいたかしわめし弁当を、あろうことかわたしのセガレはマズいと言って食べ残してしまった。何たる無神経、何たる親不孝!わたしはセガレの食べ残しの弁当をひったくるようにして、一粒残らず平らげたのだった。わたしにとって今なお世界でもっとも旨いかしわめし弁当は、或いは帰去来弁当であったのかもしれない。(三和テツキ代表取締役専務)
私が会報の創刊から3号までの編集にタッチさせていただくことになったきっかけは、常任幹事佐藤晶君からの突然の電話でした。同君によれば、常任幹事会で会報担当にさせられたものの、編集打ち合わせの段階で、予定していた委員の多くが脱落し、集まった人は誰も編集の経験がなく、是非経験のある君に手伝ってほしいとのことでした。
経験者とはいっても、随分以前のことですし、多忙でもあるので迷いはしましたが、私でもお役に立てるならと編集委員でもない私が参加することになったわけです。本稿は東京東筑会の歩みを記録する意味から、会報制作上のいくつかの問題点とその経緯を中心に述べてみたいと思います。
創刊時の問題点の第一は、編集実務上の本当の責任がはっきりしなかったことで、そのため、互いの遠慮が先に立ち、物事を決めにくく、都合十数回も会合を持たなければなりませんでした。
第二は、印刷所とのコミュニケーションが十分にいかず、進行が必ずしもスムーズでなかったことです。
第三は、印刷費が非常に高かったことです。
第四は、東京東筑会が貧乏だからとはいえ、広告や会報協賛金の募集まで編集委員が担当しなければならなかったことです。
このほか、会合の度毎にかなりポケット・マネーが逃げていったものの、委員の人々とは楽しく語らいながら、ようやく創刊号の誕生をみました。みな立派なのが出来たと喜んでくれましたが、私にしてみれば余り満足すべき出来とは思えませんでしたので、内心忸怩たるものがありました。
そこで第2号では、以上の点を改めていくことを目途に、再び編集に参加させていただきましたが、今回は実質的に編集実務面の責任を持たせてもらうことにしました。
私の所属するメンパーズ・クラブで1回目の打ち合わせを行い、委員の人たちに原稿依頼をお願いして、原稿がほぽ集まった段階でもう一度集合した以外は、原稿修正、活字指定、割付、校正などすべてお任せいただき、委員を余り煩わせずに発行することがでぎました。
広告の募集は幹事会が担当することになったのですが、具体化しないために、結局また編集委員が当たることになりました。しかし広告面で特定の人だけに負担をかけるより、印刷代の節約に努力すべきではないかと考えていましたので、広告募集は余り無理をしない程度でお願いしました。
印刷代を節約するためには頁数を8頁減らし、印刷所も私の会社の取引先のうちの一社に変えましたので、進行も比較的順調にいき、印刷経費も創刊号の半分以下に抑えることができました。
第3号となると、編集打ち合せの会合を一回開いただけで、原稿は私の元へ郵送されてきましたし、広告募集も改選された”行動する”期別幹事が当たって下さったので、この広告原稿も私のところに送ってもらうことになりました。これらの原稿は私の手元で指定から校了を経て、どうやら無事発行に至りました。
このような方法は、一人だけにやや負担が掛かることは否めませんが、忙しい多くの人の時間と労力を節約し、コスト低減という面で最も効果的といえるように思います。
以上のような経緯で、スムーズな低コストの会報づくりが一応軌道に乗ったと考えられますし、会社でも編集をリタイヤした私のような者が編集を続けるよりも、もっと若い人が、もっと新しいセンスで、もっと素晴らしい会報を作ってもらったほうがよいと思っていましたので、第3号が終わったのを機に編集から退かせていただきました。
会報は、東京東筑会の会員を一つに結びつけるきづなであり、東京東筑会の重要な支えにすべきものだと思います。
はからずも、この大事な会報の創刊から第3号までの編集に携わらせていただいたことは幸運でしたし、その間一生懸命協力して下さった編集委員の同期佐藤、田口両君、58期森田君、59期今井さん、67期安永君、68期小御門君や、事務局末森君に感謝しています。このほか忘れられないのは、亡くなられた白石副会長に会報問題でいろいろ苦言を呈し、その改善のためにご尽力いただいたことです。
会員の皆さんも、会報にどしどし投稿されて親しみのある皆さん自身の会報に育てていただきたいものと心から祈っています。(財経詳報社社長)
考えてみると高校を卒業して、もう7年になるのです。私がすでに先輩になっているのに驚いてしまった。学生時代には特別に東筑にこだわらなかったどころか、それを無視しようとさえしていた。総会に参加しても、ただ単にホテルで食事がとれるといった感が強かった様に思える。「高校なんて」という感覚がなぜか強かった。
ところが、社会人になり、感覚が変化してきた。東筑高校の卒業生であるという実感がわいてきたのだ。これというのも、社会人1年目の総会も、いつもの様にただなんとなく参加したところ、中村一生先輩に多くの先輩を紹介していただいたのがきっかけだった。実際良い先輩ばかりで、大変かわいがっていただいた。そこで、私も東筑の卒業生の一員なのだと思ったのだった。
それから、総会以外の場でも先輩方と会うきっかけを求めるようになった。多くの知り合いを作るのは、自分自身にとってブラスになることでもあるが、東筑の先輩に会うのが楽しみでしかたがなくなったのである。
私の東筑会への接し方は、今なるぺく上の先輩と多く知り会うことにとどまっているが、そろそろ自分自身も先輩として後輩の面倒を見ることになるのであろう。それも決っして押しつけられた感覚でなく、私が先輩に受けた印象そのままに接したい。
昨年の6月22日朝早く、出張先新潟に妻から電話があった。五十五期の田仲清司君から白石さんが亡くなられたとの知らせがあったと。
翌朝阿佐ケ谷の白石君の自宅に弔問。奥様、御子息にお悔み申し上げて白石君に対面させて頂いた。おもわず声をかけたくなる様なおもざしは、悲しみの極にあった私にほっと安堵の気持ちを与へてくれた程であった。病の痛みもはげしかっただろうし、会社の経営にも悩みがあったであろうし、また奥様、御家族の今後にも心残りがあったであろうに。それなのにまるで生涯の大仕事をなしとげた後の満足感をただよわせた様な立派な顔であった。葬儀の日も彼の死をいたむかのように小雨が降ってきたことを思いだしている。
振り返って見ると、白石君との出会いは、昭和55年共に初参加した幹事会の席であった。最初の印象は卒直にいって、おしゃれでキザッぽく、少し理屈屋で肩をいからし妙に構へている感じを受けた。正直言って私の好みにあわない男だと思った。ところが何の因果か昭和56年、白石君とコンビで空席だった副会長を引受ける羽目になった。
それは第一に、当時の常任幹事小林(19期)、増田(26期)、山本(27期)、小田(32期)の諸先輩の方々、特に増田先輩の熱心な根廻し、巧妙な仕掛けに負けたこと。第二に59期の末森君が自ら業務多忙の歯科医院を事務局として提供、併せて事務局長を引き受け(同期の山保、今井両君を会計に説き伏せ)、会の正常な運営発展、名簿の整備等に孤軍奮闘世話役に徹している意気に感じたからだった。
そして最後に、妻の病気上がりもあり、その任に非ずと辞退していた私に、「一緒にやりましょうや、私が手足になりますけん、末森君一人では可愛想ですばい」と言う白石君の殺し文句であった。「それぢや、やるか」ということで身の程を忘れ、協力して楽しく魅力ある同窓会にしようとと引き受けたのが経緯である。
偶然にも私、白石君、末森君の3人の会社は日本橋、岩本町と至近の場所にあり、頻繁に打ち合わせができて、まことに好都合であった。コンビを組んでみると、一流好みのおしゃれは別として、責任感強く、積極行動的で、しかも長幼の序をわきまヘ、人とのつきあいを大切にするいい男であった。初印象の人物評の不明を恥じて彼に詑びたものだった。
わずか5年程の短い期間であったが、楽しく静と動というか気が合って、お互いそれなりに教え、教えられるものがあった思い出深い交遊であった。 会合後の二次会は必ず一緒、一人だけブランデーのオンザロックを粋に飲んでいるのを、多少嫉妬の目で見た(奢るのは常に先輩の私)ことも、今は懐しく思い出している。
昨年の2月22日幹事会での期別幹事の後輩への拡大、幹事長の人選などの案件については、「私にまかせて下さい、責任もってやりますから」といつもと違って、何かにせかされる様な気魄があった。新幹事長千々和君外各幹事の方々が一方的な人選にも拘らず、気持ちよく了承してもらったあと、彼は私に「先輩これで東筑会は大丈夫、私たちの役目は果たしましたばい」と心から喜びほっとしていた。
虫のしらせであったとしか思えてならない。また同じ頃私はライター(デュポン)を一流好みの彼に、せがまれてゆづった。革サックまで作って大事に使うと言っていたが、1か月も使ったであろうか、私から彼への逆形見となったが、これも虫のしらせであったかと思っている。
白石君、東筑会は幸い君が選んだ幹事長千々和君が、会社の要職多忙にも拘らず、期別幹事の協力を得ながらりードして、着実に会の充実を図って貰っている。長男の幸一君にも先日勤務先の不燃公社で、同期生の理事長宮崎君共々会った。くぢけずに頑張っている。どうか安心して下さい。
これから何年続くか知らないが、できるだけ多く会合の機会を作って、人生を楽しくしようと語り合っていたのに、こんなに忽然と逝かれ人生の無情をつくづく感じながら……。
「フクニチ」新聞の1月13日付広告企画「ああ懐かしのわが恩師」として「旧制東筑中学校」編の特集が組まれました。
この特集ではわが母校を「明治31年、県下初の県立中学校としてスタートを切る。『東筑気質』、『東筑魂』、あるいは『一本松精神』といった気風を校内にみなぎらせた。そして力強さを誇示した東筑健児をいつも見守る先生の姿があった……」と、称えています。
心に残るあの日、あの顔
歴史の【梶栗一恵先生】の授業は、生徒が心待ちにした。かならずといってよいほど得意の講談が飛び出していた。現在、鞍手郡鞍手町に住む。
書道を教えた【有吉保正先生】のモットーlは「自分が研鑽しないと教えることはでぎない」。いつも勉強に励み、県下に書道の東筑の名を広めた。
剣道の【山崎繁先生】は「剣道精神を生活に生かせ」が信念で、試合に勝つことより基本に忠実になれ、と厳しく指導した。現在も、少年剣士の指導に忙しい。

数学の【田代善次郎先生】は、コンパスを使わずにきれいな円を描く器用者。いつもカタカナで板書していた。
「あいたい(だいたい)」という方言が懐かしい。
「怒ると、すぐまっ赤になりましたから、”七面鳥”のあだながついたみたいですね」と語るのは、国漢の【加来均先生】だ。授業は熱のこもった教え方で定評があった。
体中から厳しさがあふれていたが、不思議と授業に吸い込まれていく。たまに詩吟の朗読をまじえた。
パスケット部の顧問として活躍。 8年に神宮大会で準々決勝まで進んだ。
北九州市に住み、今年で80歳になる。

教科書を読むとき「あ-」と間を入れるのが英語の【中村健一先生】の癖だった。
授業は華やかさはないが、コツコツと親切に教えた。無口で、真面目な先生だったと卒業生は口をそろえる。
「戦時中は英語は敵性語として、ボィコットをさけばれたこともありましたが、やはり東筑中時代が一番懐かしいですよ」と語る先生は北九州市に健在。

国漢の【田仲道先生】は、背が高く、キリリとぴき締ったスボーツマンタイプだった。
水泳部顧問。東筑中0Bで、在校中に鍛えた水泳の実力を部員の指導に生かした。
いつも笑顔を絶やさない。授業中は、冗談がポンポソ飛び出す。そんな明るい性格が生徒の人気を集めた。
十年前に亡くなったが、今でも先生を懐かしむ声は多い。

どこか英国紳士風のふん囲気を漂わせていたのが、英語の【安永四郎先生】だ。
静かに授業を進めるが、はっきりした発音で、わかりやすかった。日ごろはおとなしく、あまり叱らない先生だったが、よそ見などしていると、たまにカミナリを落とすこともあった。
その時は、教室全体がシーンとなり、みんながあっ気にとられた感じだった。 今月(1月)6日に亡くなった。

【矢野儀先生】は、昭和9年に第12代校長として着任した。
「学校は、あくまでも心身鍛練の場である」が信念で、体操、武道、教練などにカをそそぐ。
「厳格な先生でしたけど、我々にはたのもしく思えましたね」(四十回卒0B)。川筋気質を誇りにした生徒を、しっかり受けとめるような豪放らい落な人柄だった。

”五右衛門”といえば、0Bから柔道の【石川博先生】の名前がすかさず返ってくる。
東筑0Bで、生徒のときから柔道でならした先生だ。授業の時は厳しく指導したが、先輩としての面倒見はよかった。休み時間は、よく生徒たちと談笑していた。生徒のよき相談相手として、頼りがいのある、兄貴的な存在でもあった。
鳴呼、懐かしのわが母校
私の東筑時代は終戦の翌年、昭和21年から27年までの6年間、すなわち旧制の東筑中学に入学し途中で学制改革があり、卒業する時は新制の東筑高校である。戦中派の最後と言うべきか、戦後派の第一期生というべきか、いずれにしても世の中は新憲法、総選挙、保守だ左翼だと騒々しく、ラジオの声は、「リンゴの歌」「湯の町工レジー」「あこがれのハワイ航路」「銀座カンカン娘」と続くころである。
私は筑豊線の垣生駅から通学していたが、朝のラッシュ時には、貨物車が客車として連結されており、暗い貨物車の中でノートを開いて暗記ものをした記憶がある。
また、食糧難は当然の時代ではあったが、学校帰りの折尾の駅では、何人かで必ずガードのさきまで行き、夏はアイスキャンデーやかき氷、冬は市場の中をブラブラして帰るのが日課の如くなっていた。市場の中の魚屋できれいな大皿にフグの刺し身が芸術品のごとく並べられて行くのを見て感動し、駅の靴みがきが実に見事にピカピカに磨きあげて行くハイテクニックに驚いたりした。最近でも会合などでフグ刺しが出ると、一瞬あのころのことを思い出す。
十代の真っただ中であるから、もちろん食欲極めて旺盛である。ある年の正月明けに香月の故佐々木健三君(医院)の家に同期の悪童連中がニワトリ待ち、野菜などを持ち寄って、いわば寄せ鍋を作り、いい調子で談笑、また談笑のはてに6~7人が倒れるごとくのザコ寝となった。さて翌日、全員が大変な下痢を起こし、私自身もそうだったが、死ねかと思うほどの激しさであった。食べ盛りの中学生は、ニワトリの煮えるのも待ちきれず、競って半ナマの鶏肉を腹一杯食っての下痢で、ほぼ1日中のたうちまわった記憶がある。それでもなお、いまだに出された料埋は一切れも残さず必ず全部食べてしまうのは昭和一ケタ世代の”ひもじさ”であろうか”行儀のよさ”であろうか。
中学3年の時の学制改革による併合で、従来5組程度であった学年が、一挙に16組となり、男女共学の初体験が始まった。それまで顔を見るだけでも、心臓がドキドキしたあこがれの女学生たちが、何人と同級生となって、すぐ隣の席に座ったりするのだから、これは大変なことであった。
多くの同級生に想いを寄せたが、私の場合すべて片想いで終わった。「白い花が咲いてた--ふるさとの遠い夢の日--」という「白い花の咲くころ」の歌が、また「しばし別れの夜汽車の窓よ--」の「高原の駅よさようなら」が流行ったころである。映画「青い山脈」のランランラーン・ランラソラーンの出だしのところを開くと、とたんにあのころの”甘くせつない”時代がよみがえってくる。
東京に出てから、もう30年以上となり、その後ずっと東京で暮らしているが、先ほどの”トリ下痢”の仲間とは今でも時々会って、何の低抗もなく東筑弁にどっぶりつかっている。
私の気持ちの中には、時に自分が大変な田舎出身者であるごとく思え、また時に俺は天下の名門東筑出身だぞと胸を張りたくなる気持ちとが同居している。もともと適当に学び、適当に遊び、世の中おもしろ、おかしく幸せにというのが、私の信条であるせいか、学業の方の苦しかったこと、嬉しかったことよりも遊びの方の思い出がほとんどである。
過去はいつもベールに包まれて、美しく見えるものといわれているが、甘いようなスッバイような東筑時代のことを思い出すと不思議に仕事に打ち込むファィトがもりもり湧いてくるのは一体なぜであろうか。(富士銀行取締役営業部長)
懐かしい九州を離れて25年、東筑での想い出は娘たちが高校生となって、いろいろ想い出されます。一昨年、二人の娘が東筑高校を訪ねて行きました。それぞれ木更津高校卒業、千葉南高校に在学中です。母が青春を過ごした折尾の街を、どんな気持で歩いたことでしょう。私はいつも、折尾駅前から堀川に添って歩いた道、松林の中の細い道、よく帰りに寄った踏切のそばの今川焼とうどんの店、白石書店、こっそり行った折尾映画劇場などを、懐かしく想い出します。
あまり楽しい高校時代ではなかったけれど、初恋もあったし、失恋もあった。精神的にゆれていた青春でした。昔は陸上で頑張りましたが、今は軟式テニスのグルーブを指導したり、自分の向上をも目指して頑張っています。
昔に増して真っ黒の私を娘たちは、「ネガ」と呼んでいます。老若男女を問わず軟式テニスのグルーブを広げていくことを、今は人生の目標のひとつにして、楽しく過ごしています。
娘たちは、そろそろ年頃、たくましくてやさしい九州男子のお婿さんを探したいですね。
昭和61年春の叙勲で本会会長の三原朝雄氏(26期)が勲一等旭日大綬章を授与されました。ここにご報告申し上げ、ともに喜びたいと思います。
略歴
出 生 明治42年8月20日
本籍地 福岡県遠賀郡遠賀町大字鬼津3605番地
現住所 福岡県遠賀都遠賀町大字広渡1819番地
昭和 2年 福岡県立東筑中学校(現東筑高等学校)卒業
昭和 7年 明治大学法学部法律学科卒業
昭和 8年 満洲国、大同学院卒業
昭和 8年 満洲国政府就職(参事官、副県長、省事務長)
昭和20年 終戦のため引揚
昭和25年 福岡県議会議員当選
昭和38年 衆議院議員当選(現在まで連続8期当選)
昭和42年 防衛政務次官(佐藤内閣)
昭和44年 議院運営委員会理事
昭利46年 内閣官房副長官(佐藤内閣)
昭和47年 内閣委員会委員長(田中内閣)
昭和49年 文部大臣(田中内閣)
昭和51年 自由民主党国民運動本部長
昭和51年 国務大巨防衛庁長官(福田内閣)
昭和52年 自由民主党国会対策委員長
昭和53年 国務大臣総理府総務長官(大平内閣)
昭和55年 自由民主党安全保障調査会長(現在に至る)
昭和55年 予算委員会埋事(鈴木、中曽根内閣、計4回)
昭和60年 公職選挙法改正に関する調査特別委員長(現在に至る)
〈人物寸評〉
「情は理論を超越する」という哲学を堅持し、人を愛し、人の真心を大切にする。川筋男の心意気を今に引き継ぎ、事を処するにあたっては情理をつくしてバランス感覚を重んずる。篤実にして重厚、国会対策のベテラソであり、党内の対策とりまとめの第一人者の世評が高い。(Q)
53期より愛をこめて-やや内輪話風に…60年度当番期(53期)
去る10月27日、麹町会館において開催いたしました60年度東京東筑会総会並びに懇親会はみなさまの絶大な御支援により盛大裡に終了することができました。誠に有難度うございました。当番期にあたりました53期生一同心より厚く御礼中し上げます。
総会前日まで夜分の電話や仕事中の伝言などでお騒がわせいたしましたことを重ねてお礼方々お詑び申し上げます。「あらぁ、53期のローラー作戦が成功したンや」と言われとりますが、一番お世話になりましたのは各期の幹事のみなさまであります。毎月の期別幹事会で参加者のとりまとめをお願いした上に、かってのクラブや同郷のよしみ(この場合、室木線とか熊西中学とかりうアレ)を通してもお骨折りをいただきました。むろん、東京在住の53期の世話人十数名はこの半年間ほとんど毎週顔を合わせてこの総会に備えて参りました。(ヤッパシ、恥かきとうなかったもんねえ)
そんな熱意が53期の結束力を高め、九州在住の小野亨雄会長、倉田博子副会長以下、20名の有カメンバー(級長だけち言うとくパイ)が、ツアーを組んでまるで思い残した修学旅行のやり直しのように上京してくれました。(じっさい、総会当日は午前4時起床から酒を飲み、マージャンをしとったがナ。ただし会場へはみんな10時には来てくれた)このほか大阪からも同期生が多数(こちらは副級長と言うとくが)駆けつけてくれました。
こうしてわたしたちは参加者の数を見積って参りましたが、一番悲観的な予測で190名、一番強気の予測が240名でありました。
懇親会参加者は270名突破!
幸い好天に恵まれ懇親会への参加者も270名を越えるという空前(絶後ではない!後につづくを信ず)の盛況で、心ならずもqダイエット料理になりましたことをお詑び申し上げます。コレはまさにうれしい読み違い(失礼!)ではありました。
3年振りに出席のかなった三原朝雄会長も、11時30分の総会の挨拶から、懇親会の最後の万歳三唱(2時50分)までお付き合いをいただきました。いわゆる三原国会(今臨時国会の予算委員会の筆頭理事で、野党との根まわしの総責任著、ほら、質問者の横に座っておらるる顔がTVに出とろうが)を前に誠にお元気でした。
来賓の主東筑高校長、徳永同窓会長、野添幹事長、中野事務局長には、前日の東海東筑会総会のお疲れにもかかわらず懇親会のあとの後夜祭(前夜祭は53期の級長だげを集めた!)にまで御参加をいただきました。ここでの御挨拶はそれぞれの演歌でお願いしたことでありました(コレぞ東筑たるのユェン)。むろんわが53期の後見人である竹尾先生(現在中間高校長)には前夜祭に引き続き、後夜祭にもお出まし載き、そのむかし「おまえたちはいっちょも勉強せんねえなンち言うて悪かったナ」などとザンゲの言葉(?)がありました。(あの頃、先生も若こうて張り切っとんなさったよね)
この後夜祭、53期だけの積りで赤坂に設営をしたンですが、いつの間にやら59期がなだれ込み、38期が押しかけ、はては56期も64期も68、69期もそしてついにはその期を識別する能わず、なんと憧れの(今も昔も)折尾高女までが大挙参加してくれました。まったく期を越えての大賑わいとなり、気づいた時には鴛海副会長がカラオケのマイクを握って離されんようでありました。(役目柄 役得上?御苦労さんであります)
スライド「東筑--わが青春のアルカディア」に思わず涙
ところで53期が6力月間の歳月(おお、おお)と50万円の巨額(!)を投して製作いたしました「東筑‐わが青春のアルカディア」はおかげさまで好評を博しました。上映後ナレータ-自身が思わず感涙にむせぶといったオマケもさることながら「おい、胸にジーンときたナ」と多くのみなさんに感動していただいたようであります。ぜひこのあとも相手、相手に応して「ナレーターが良かったよ、情感のこもった声とホンモノの九州弁が」とか「いや、やっばし脚本のナレーションが抜群だよ」とか、「バックの音楽だぜ」「いや構成、構成」「オレはカメラだと思う」などなどお励ましいただければ、きっとこの先も53期のスタッフは東京東筑会のために頑張ってくれると信しています。そこでナレータ-がもっとも美しく歌いあげてくれたくだりを、よく聞きとれなかった向きのためにここに再録させていただきます。(ちいと、しちくどいンやねえか)
掘川端風景 「…ゴミ箱のような折尾の町を今日も堀川は流れ、呼び戻すことのかなわぬわたしたちの夢が流れる。すえたドブの匂い、やぶれ饅頭をふかす甘やかな匂い、そしてふと擦れ違った女子学生の汗とほのかな化粧の匂い-さまざまな匂いがわたしたちの感受性をはぐくんでくれました。…」
折尾高校 「…丘の上の学び舎までの曲がりくねった坂道を桜吹雪を浴びながら歩いでいたあなた、幾春秋かがありまして、ボクの東筑とくっついたり離れたり、いとしの高等女学校はこのように健在であります…」
祭のあとの淋しさは
かくて、60年度の総会は終りました。もはや今生での当番期はない(!)という感傷からか、祭りのあとの琳しさからか、総会後も裏方をつとめました53期のスタッフが用もないのに電話をかけて来よります。おかげさまで彼らを軸に53期の友情はホンモノになっていくでありましょう。わずか3年間、それもロクに口をきいたこともない仲間が東筑というひさしのもとに少年体験を共有したということだけで結ばれ、それぞれの人生に何がしかの意味を付与していくことができるとすれば、まさに「東筑-わが青春のアルカディア」というほかはありますまい。(アルカディアち、モロゾフのお菓子やねえぞ。詳しくは辞書を見るべし)
今は東筑で結ばれたことにかぎりない誇りと感謝をこめて長い長いお礼の手紙とさせて頂きます。尚、お土産にさしあげました折尾駅舎のスケッチは森惣介氏(東京埋科大理工学部建築学科講師)の筆になるもので「駅のスケッチ」(彰国社、2,200エン)の原画の一枚をこの日のためにブリントしたものです。最後になりましたが、懇親会の謝辞でわが千々和会長が、ついついうれしさのあまり「御祝儀で53期の二次会がでける」などと不謹慎なことを申し上げましたが(本人はジョークだよと言うとりますが)、頂載いたしまし会費、御祝儀はすべて正確かつ適法に清算の上、余剰金は東京東筑会基金として会の会計に戻入をいたします。どうぞ枕を高く(?)お休みください。
53期の当番は終りましたが、東筑は永遠に不滅であります(聞いたようなセリフじゃが)同時に東京東筑会はこのように健在であります。今後ともよろしく御支援、御指導の程をお願い申し上げます。
昭和60年11月1日
53期東京東筑会会長 千々和久幸
副会長 葉山(安田)好江
副会長 北條(加来)民子
幹事長 安永保昭
総会幹事 入江碩郎、植田正映、江藤弘美、坂口鎮穂、西村(林)涼子、
馬場裕三、日高敏夫、藤田謙三、向坊長洋
友情幹事 末森多賀生(59期)
(本稿は総会出席者に向けて発送されたお礼状の全文を再録したものです)
会報2号で、一本松会(45期会)の設立に触れたので、現在の私の所感を紹介したい。
一本松会は、折尾高女24期と卒業年度を同じにする関係から蛭川(旧姓久保)さんのお骨折りで合同で開催することが多い。開催の場所は決って『田んぽ』(故田中基男君の奥さんが経営)であり、不定期ではあるが年に2~3回集っている。
45期の卒業は、終戦の年であった。満足な卒業式もなく、修学旅行もなかったため遅ればせながら昭和50年京都に修学旅行を行い、卒業式は昭和51年に74期生と一緒に行われた。これも私達45期生には忘れ難い思い出となった。従って私達の同期の結束は固く、また他の期と同様多士済々でもある。
一本松会を設立してからの利点は、折尾の本部との連絡、とりわけ同期との連絡がスムースになり、45期東筑会は常に一本松会への配慮を加えて企画されるようになったことである。
一本松会は結成以来11年に及ぶが、私は二つの明白な結論を持っている。その一は、同期生は今後減ることはあっても、増えることはないという事実。その二は、同期会の会合はメリットばかりでデメリットはないということである。同期会を開催するに当っては色々な困難(日時、所、費用、参加方法等)を伴うが、顔を見合せた時のよろこびにはかえられない。最近では、夫婦同伴での会合も多くなった。
今年も夫婦同伴の集いを何時、何処でと考えつつ。〈大和機工取締役)
46期の在京者は、近県の在住者を含めてもわずか9名でちる。昭和22年卒業後、やがて40年になろうとするのに『同期の集い』は、なぜか一度も開催されていなかった。私が、昨年の夏過ぎ、「東京東筑会の会長から期別幹事を」との依頼をうけて、馴れないながらも『名簿作り』や『総会の案内』を行っている中に、絶好の機会だから総会終了後に『46期の集い』の初会合をやろうではないかとの意見が急速に高まって実現したものである。
当日、総会に出席して、なつかしい先輩、後輩と旧交を温めたあと、我々同期生5人、場所を移し『第1回、46会』を開催した。総員9名、出席者5名、恐らく東京東筑会の期別の集いの中でも、最も小人数の集いであろうが、酌み交わす酒に時の経つのを忘れ、寄る年波を感じさせながらも「おれ、おまえ」を連発し皆んな元気そのものでした。郷土を語り、母校での青春を懐しみ、過ぎし人生やこれからの夢?も語りあって素晴らしい絆を一人ひとりが感じたものです。
当日、所用や病気のため出席できなかった友からも次回は必ず出席するとの便りをいたゞいて幹事の幸せをつくづく感じるとともに、心なごむ雰囲気を惜しみつつ散会した当日のことを想い浮かべています。(全国農業協同組合連合会常務理事、(株)組合貿易出向)
われ等51期は青春は花ざかりである。新学校制度の新生第1期生も今や実年1年生になってしもうたバイ。男性諸公にあっては、東筑健児精神をいかんなく発揮し、社業はもとより、社会の重責を担い、一方、熟女たちは家庭に、社会に、川筋女の「情熱」と「優しさ」でキャリヤウーマンぶりを発揮しています。そこでふと立ち止り、あの東筑時代の青春を懐古するのもまた楽しからずやというわけで、残り少ない?青春を謳歌している次第です。
昨年は古都鎌倉での紫陽花見物、今年は初夏の松島を散策する予定です。毎年20人前後の参加があり、ここでも熟女の協力が一きわ目立ち、われ等男性の母性本能をくすぐってくれています。男は女の影に隠れて薄くなるどころか、そこは”東筑魂”、男女のバランスはうまく取れ、末永く楽しく続けたいものと念じております。各期に於かれても、各々楽しくやられてる様ですが、この花やかさがやがて本流の東筑会に流れ込み、さらに一本の線となって大きく発展することを、51期共々期待しているところです。(能城商店取締役)
世界中の選挙をフォローして24年、34回も海外出張しました。今年は2月のフィリッピン大統領選挙、3月のフランス国民議会総選挙、11月のアメリカ中間選挙に出かける予定でした。しかし、フィリッピンは混乱が予想されたので見送りました。9年前のインド総選挙では憲兵に銃剣をつきつけられて拘引された苦い体験があるからです。さらに、アメリカ行きも断念しました。今年の東京東筑会懇親会が11月8日開催と決ったのに、当番期の会長が準備のヤマ場に不在では申し訳ないからです。
そんな心がまえで準備を進めますので、一人でも多くご参集くださいますよう、お願い申し上げます。52期といえば実年入りした年代でそれぞれ社会的にも責任ある地位について多忙をきわめていますが、準備の会合にはマメに出席しています。まさに同窓会症候群そのものです。酒を飲みすぎるのが玉にキズで、自戒して会合は夕方以前に始めることにしました。生徒会の役員会みたいなものです。蛇足ですか、私は2年生の時、生徒会の副会長をつとめていました。当時から33年経っているわけですが、お互いにトシの意識がうせて高校時代の会話になるから不思議なものです。また忘れかけていた九州弁が飛びかいます。(政治評論家52期会長)
昨年2月のある日、故白石先輩からお電話をいただき、期別幹事をやってくれとのお話しだった。軽い気持ちでOKすると、早速期別幹事会をやるので出て来いとの連絡である。以来幹事会、総会、ゴルフ、テニス及びそれらの2、3次会とかなり首を突っ込んできた。人間自分の趣味、趣向には頼まれなくても走るもので、ゴルフ、テニス、宴会は好む所として久しいが、幹事役、組織の連絡役は生来合わねと自覚している。それもあのまとまりのない東筑である。その東筑を懸命にまとめ、より良い東京東筑会にしようと、各自お忙しい中頑張っておられる諸先輩には頭が下がる昨今である。
我が期を振り返ってみると、宴会要員だけにはこと欠かない。飲む話はすぐに成立する見事さである。ただ難点は会えば平日にもかかわらず際限(財源?)のないところであろうか。同期の諸君(男女を間わず)今年は東京東筑会であばれましょう!(既に活躍中の方もいますので) (アメリカビューローオブシッピング)
第4号
(1986年 昭和61年 6月)
