
組織活動を継続させるには、大層な困難を伴います。 しかし東京東筑会の運営は、会員諸兄の理解と努力のお陰で着実に進展して来ており、私も会の長として心から喜び且つ感謝致しております。 年々歳々人同じからずとしても、東京東筑会が今まで以上に今後も和気藹々のなかで栄えることを願っております。 ましてや今年母校は選抜で甲子園初出場、卒業生の私達も各方面で張りきろうではありませんか。
春いまだしの2月22目、九段会館に東京東筑会合同幹事会は総勢30余名の参集を得て盛況裡に終始した。今まで望んで得られなかった待望の期別幹事選任に伴う第一回目の全員集合の実現である。
東京東筑会は昭和41年から存在していたと聞く。残念ながら当時の活動の有様については全く知らない。またあえてその足跡を探る気持も無い。ただ今日の新生(あえて新生とよぶ)東京東筑会の母胎としてその存在があったことを先輩諸氏に感謝する気持はやぶさかでない。とにかく現在の東京東筑会は、新進気鋭の57期、58期の有志や応援団在京○Bの皆さんの運動が実を結んで、昭和54年10月京王プラザポテルで新生第一回同窓会総会開催(幹事57期)に漕ぎつけたところに端を発する。「明治31年に開校、九十周年記念日を目睫の間におく歴史ある東筑の、しかも千有余名を数える在京同窓生の間に何らの縦横の組織としてのつながりが持たれていない、伝え間く福岡県出身の他校同窓会の活動ぶりに比しその状況は歴史に対しても、みじめ且つ情ないではないか…」と川筋の侠気が燃え上っての成果である。
以来55年度サンケイホール(幹事58期)、56年度憲政記念館(59期)、57年度京王ブラザホテル(56期)、58年度ふくおか会館(55期)、59年度日本青年館(54期)と回を重ね、本60年度は麹町会館予定で53期を当番幹事として目下着々準備が進められており毎年盛会が続いている。(当番幹事期のルール設定…卒業後○○年の期を当番期とする等…には現在なお問題を残している。)
袖ふれ合ううも他生の縁とか、ましてふるさとを、そして母校を同じくする奇しき縁に結ばれた先輩、同輩、後輩が都の一堂に会し、老若分け隔て無く誰はばからぬ郷土なまりに話の花を咲かせ、胸襟を開いての年に一度の総会の団欒の場は理屈抜きに素晴しい人情の世界ではなかろうか。
回を重ね年を経るごとに人の輪が拡がり、その交流の中から多くの友人知己という貴重な財産が得られ自らの人生が豊かに醸成されて行く…それが同窓交歓の良さであろう。
残念ながら現在の東京東筑会はまだ新生児、今後に抱える課題も多い。年会費の集りも方しくない。いわゆるマル-ビである。やりたいこともやれないのが実情である。今回の期別幹事団の充実、幹事長新設等の結果、まず横のまとまり、そしてその縦への結びつきへの発展に依り会員相互の団結と協力が得られれば、必ずや遠からずマル-ビからの脱出もかなえられる筈である。
現在の会の活動としては、年一回の総会のほか年会報の発行、同好会としてはゴルフコンペ開催等が挙げられる。しかし吾が同窓は多士済々である。 指導を仰ぐべき書道家や画家、各界各分野のエグゼクティブやエキスパート等々、求めれば人材に事欠かないのが、歴史を誇る東筑の良さであり強みである。会の充実と相まって画の会、書の会、旅の会等々、会員のサークル活動の場をあれこれ求めることも、決して実現困難な夢物語ではない。
さらに楽しい夢は常設恒久的事務局を兼ねた「東京東筑クラブ」を持つことである。気軽に立寄り暫しのいこい、先客が有れば忽ちくつろいだ談話室になる。望めばコーヒーや軽くワィンくらいは愉しめる。おひまな老先輩のためには囲碁や将棋盤も置こう。小規模な会合や趣味の会ならここでどうぞ!さらに慾を云えば常勤の世話やきオパちやんには心やさしい九州弁の人が欲しいETCである。
ことし、明治35年に創設の母校野球部の長年の夢を果してくれた甲子園選抜出場の後輩達の偉業も、先輩から後輩に脈々と伝え伝えられて来た夢と希望に花が咲き実を結んだものであろう。在京の同窓諸兄姉のみなさん、お互いにもっと夢を持とう。後から歩いて来る後輩諸君のためにも、もっともっと大きな夢を持とうではないか。そしていつの日か東京東筑会に大きな美しい花を咲かすために手をたずさえて共に歩いていこうではないか!
過去3回夏の甲子園に出場した東筑野球は,今年初めてセンバツ出場を果しました。
1回戦で強豪天理高校に2対0で措敗したものの,その善戦が大いにたたえられます。
本号では今や新しい伝統になった東筑野球を特集しました。
東京東筑会のみなさま、お元気にお過ごしのこととおよろこび申し上げます。
いつも、おりにふれ、母校のこと、特に、野球部のことにつきましては、励ましの言葉をいただぎ、また、物心面面のご協力を腸わりありがとうございます。このご高恩にむくいるのは、甲子園に出場することと考え、連日、開係者一同、努力しております。
このたび、天の恵み、地の利、人の和により、東筑野球部創立以来、実に85年目にして、春の甲子園に初出場を果すことができました。私が、東筑野球部をあずがらせていただいて、16年目の春でした。過去、夏の甲子園に三回、そして、この春と、いずれも、私が開係していることを考えるとぎ、まさに野球冥利につきるといい切っても過言ではありません。それもこれも、私をして、強靱な体力に育ててくれた両親のおかげと感謝しています。
さて、福岡県下の高校野球界では、草分け的存在であります母校・東筑野球部は、昨年の夏も、その前の夏も今一歩で「中原の鹿」を逃しました。東京の新聞の高校野球の欄に毎日、母校の勝利を小さくのせていただくことができ「若き血」をさわがせたことでしょう。
現在、東筑は県下有数の進学校となり、進学率99%、現役の半数以上が国公立大学に入学していきます。野球部員もしかりです。従って、野球部の練習も、常に勉強時間とのバランスを考えて取り組んでおります。部員には常に「野球も勉強も集中力の闘い。勉強で培った集中方を野球に利用し、また、野球で鍛えた集中力を勉強に役立てるように」といいきかせております。まさに、わが校のモットーであります「文武両道」を大いに推奨しています。
東筑へ入学するため、野球をはなれた生徒が、毎春入部してきます。それから、パワー・アップ、基礎体力づくり、と他の高校では考えられない練習がはじまります。幸い、生徒の家庭がしっかりしており、頭の良い生徒、つまり、理解力と想像力の豊かな者が多く、その上達ぶりはおどろくほど。毎目の練習が楽しくてなりません。一年のうち、野球部の練習休みは三日間、この練習のなかから、粒ぞろいをえりすぐった強豪校をたおして、甲子園めざし、今日も練習に余念がありません。どうぞ、今後も多くのハンデを乗り越えて、日夜、努力しているみんなに、多大なご支援をお願い致します。
「春の甲子園は初出場、少なくとも一勝して欲しい」「いやどちらかが負けるのだ。負けても恥ずかしくない試合内容をしてほしい」「もちろん昨年の東京代表の岩倉高校のように”初出場初優勝”も夢ではないぞ」と、あれこれ思いめぐらしながら甲子園へ母校の野球観戦に出かけた。しかし史上初めて雨で開会式が二日間も延びてしまった。初日の試合だっただけに前日から大阪入りしたが、試合中止で引き返し、せっかくの”野球休日”をフイにしたり、仕事の段取りに苦戦した諸兄も多かったようだ。
一回戦の対戦相手は、地元奈良県の天埋高校。試合前の専門家の予想は、互角の評判だった。甲子園周辺で聞いた関西東筑会会員の予想は、「天理の投手はよくないので勝てる」「かつては天理は打撃のチームだったが、今年はあまり打てない」「春は最近一回戦でカを出し切れずに敗退しているので勝てる」という話を信じて気楽な観戦である。しかし試合内容は、接戦の末、健闘空しく2対0で破れ、ついに甲子園で校歌を聞くことができなかった。
4回までは、東筑檜山投手が好投、無安打に抑えてくれ、終始押し気味で試合運び。応援席は「これでは勝てる」というムードでいっぱいだった。ヒット数も天理を上回り、最後まで負けたような気がせず、ピンチらしいピンチもなく、一瞬にして得点され、試合が終わったら負けていた。試合に負けたが勝負に勝った--というのが実感である。
他校チームに比べ東筑高校は、どこまでも高校生らしいチームであり、伸び伸び野球を展開してくれたのが印象的だった。今大会は、ご存知のように地区代表32校で争われた。高校野球熱が上昇するにつれて、技術のレベルアッブが進み、工業・商業科をもつ高校、あるいは全国から有望選手を集めることがでぎる私立校が有利になる一方だ。その半面普通校、なかでも進学校は出場チャンスが少なくなり、高校野球本来の目的を忘れられていないだろうか。
本大会でも、県立の進学校といわれるのは長野高校(長野)と東筑の二校にすぎない。幸い母校東筑は、文武両道の伝統を受け継いでおり、夏の甲子園出場に期待をつなぎたい。全国の進学校にもよい刺激を与えたにちがいない。
試合終了後応援席全員で校歌を合唱し、甲子園に別れを惜しんだ。
「東筑高校が春の選抜に出場!」
この知らせを耳にした時、何か、ブルッと武者ぶるいのような緊張感が背筋を走り、私は少年のように心をときめかせていた。
「とうとう喰田さん(現・野球部監督)がやったな。練習にはうるさいあの人のことだから、基本のしっかりしたいいチームづくりをしたんだろう」私はそんな独り言をつぶやぎ、東筑の甲子園での活躍を祈念していた。
ところで、かくいう私は、母校が初めて甲子園への切符を手にした時のメンバーだったのである。あれは今から30余年前のこと。昭和28年夏の高校野球大会九州地区予選に東筑は駒を進めていた。この試合で私たちは、当時常勝を誇った小倉高校を破り、続く決勝で戸用高校をねじふせ、甲子園へ出場した。
『東筑、初の甲子園出場!』
に折尾の街は湯きかえり、春日原球場から凱旋してぎた私たちは、駅前で熱烈な歓迎をうけたことを今でも鮮明に記憶している。胃頭の”ブルッ”はあの時の感動の残り火のような気がするのだ。
当時のオーダーをみてみると、のちに西鉄ライオンズに入団し、現在、近鉄パッファローズのコーチをつとめる仰木投手(4番)と、喰田捕手(6番)の、九州一といわれたバッテリーを中心に、トップバッターが私、手前みそながら、俊足好打の伊藤二塁手、3番が好守好打の青柳遊撃手等々、いいオーダーであったと思う。
東筑時代の私の最大の思い出といえば、この甲子園出場をおいて他にない。残念ながら甲子園では第一回戦で敗退したものの、高校時代に野球に打ち込み、学んだものは口ではいいあらわせないぐらい大きかった。なかでも人は努力すれば、どんな困難なことでも乗り越えられるという自信を、東筑名物の猛練習からたたき込まれ、それを実社会、とくに㈱丸井に入ってから生かすことができたと思う。
「オレは甲子園球児なんだ」と。
甲子園のもつ存在感ともいうべきものは何なのだろうか。高校野球の全国大会の場所であり、それ以外の何者でもないはずなのに、何故か心魅かれるものを感じる。
長い歴史が、数々の名勝負がそうさせたのか、いや、感じさせているのか、プロ野球にない溌剌さ、一生懸命な姿がそう想わせているのだろうか。幸運にも、私は十三年前の夏、夢にまで見たあこがれの甲子園へのキップを手に入れることが出来た(昭和47年夏、正三塁手として出場)。
何とも言いがたい喜びであった。
県大会決勝の最後の打者を打ち取った一瞬が、全てを表わしていた。マウンドに全員が駆け寄り、抱きあい涙を浮かべながらはしゃぎまわっていた。
そこには、満ち足りたナインの一つの気持ちがあった。
「甲子園、甲子園だ、甲子園に行けるんだ。」
こんな幸せ者は、世界中に誰もいないとさえ思った。甲子園に出場出来るだけで幸せだった。
だが、甲子園から帰ってみると、又違った感情が私の心に生まれているのに気づいた。
あまりにも非現実的な世界であった甲子園、ブラウン管の向こうにしか映らなかった甲子園に出場してみると、何だかポッカリと心に穴があいたような気持ちだった。いつも甲子園を夢見、恋し、「甲子園」を合言葉に歯をくいしばってきたのに、そこにはもう甲子園という夢が、失われてしまっていた。私にとって、甲子園とは絶対に手に取ることのでぎない神聖なもののはずだったからである。
そんな一種の男のロマンを失った。いや失ったと感じただけかも知れない一時の感情も、今は静かな実にさわやかな気持ちで甲子園というものをながめることができる。全国のどの熱狂的な甲子園のファンよりも、満ち足りた、懐しい気持ちで、テレビに釘づけになるのである。
出来ることならもう一度、あの灼熱の甲子園でブレーしたいと思うのは私だけだろうか。
東京東筑会にシンボルを--と、このほど東京東筑会同窓会旗が完成しました。
スクールカラーの生地中央に「東筑高校」の校章、その左側に「東筑中学校」、右側に「折尾高等女学校」の校章をあしらい、この旗のもとに”オール東筑”の力を結集しようと祈念しています。
この同窓会旗は、59年度東京東筑会総会幹事を務めた54期生の皆さんから「当番幹事を無事に終えた記念に東京東筑会のシンボルにもなる同窓会旗を贈ろう」という提案があり、白石副会長に打診したところ、「非常によい発想だが、54期生の皆さんだけに負担をかけるより、みんなで創作するところに意義があるので、東京東筑会として作ろう。デザインその他は54期に一任する」ことで決着し、東京東筑会常任幹事会にも諮られました。これと平行して、母校東筑高校が選抜高校野球大会初出場が決定、その応援に間に合わせようと急拠制作することになりました。
ところで、同窓会旗は、縦1.7メートル、横2.5メートルで、色はキャビンレッド、材質は綿、校章の上方に「福岡県立東筑高等学校」、下方に大きく「東京東筑会」と染め抜かれています。風雨、日光にも簡単に脱色しないよう樹脂加工が施されています。また制作は、遠賀郡芦屋町中ノ浜の刀根染物店(社長=刀根義弘氏=東筑46期)に依旗しました。刀根氏は「母校同窓会発展のためには最大限協力を惜しみません」と、多大なご支援を頂きました。
この同窓会旗の保管、管埋については、4月2日の常任幹事会で協議した結果、毎年秋に開催する東京東筑会総会の席上、次期当番幹事に指名された卒業期が引き継ぎ、総会が終了するまで一年間責任をもって保管すること。総会では、最後のセレモニーとして「引き継ぎ式」を行うことに決まりました。また期別の同窓会などにも貸し出すことにしています。同期会開催の折には、当番幹事(60年は53期)にお申し出下さい。
-東筑中昭和15年卒 39回生を中心として-
週ぐる大戦の末期、昭和18年夏海軍飛行予備学生として全国大学、高専学徒の中から数多くの学生がペンを捨て、操縦棹を握るべく土浦、三重の両航空隊に志願入隊した。半年の基礎訓練の後、その約半数の2,000名は直ちに南方航空戦に、残り2,000名も実施部隊として内地防衛の主要基地に配備された。そしてその過半数は再び郷里の土を踏むことなく21~22歳の青春を大空に散華した。
去る11月11日目本青年会館での59年度東京東筑会の席で計らずも本田和子さん(折尾高女25期卒)を紹介された。本田さんは東京東筑会報第2号に「亡き兄を偲ぶ」を寄稿された、私と同級39回生の故籏生良景海軍中尉の妹さんである。彼との想い出は剣道が強くて頭の良い少年であった。体格も同じ位だったので寒稽吉の時など何時も良い稽古仲間であった。彼は京都大学に進み私は同志社に入ったので、京都では同じ京大にいた39回卒の田代勝次君外数名と二、三年の交友があったが、太平洋戦争勃発間もない頃で、軍国主義は日増しに学園から教育と青春を軍事色に一変、暗雲の中に別れ別れにお互いの消息は絶えた。
今の戦争を知らぬ世代の青年には考えられない自由なき青春時代であったが、祖国の繁栄と平和を祈りつつ半面生命の執着と諦めの悶着の中で、ある者は又悠久の大義を信じつつ若い命を絶って行かねばならなかった。それはその時の青年の避けては通れぬ道であった。又同級の故本庄巌君も籏生君と同期の十四期海軍飛行予備学生で終戦20年の4月に殆んど二人共時日を同じくして沖縄特攻作戦で散華している。本庄君は折尾駅の有名な「かしわめし」弁当屋の息子であったと記憶している。彼の想い出は明瞭な色白の少年で時々自前の「かしわめし弁当」を二、三個ガメ?て持って来て吾々に半値販売をし、その差益で帰校時、堀川沿いの屋台でうどんや回転まんじゅうをご馳走して親分ぶっていた。或る日私もこのチャンスに便乗したのは良かったが体育の先生に見つかって本庄君もろ共まんじゅうが飛び出る程ぶんなぐられた事を思い出す。
私は籏生、本庄面君より半年早く予備学生を志願して第13期飛行学生だったので同期には現在鳴水郵便局長の有吉日出夫君が同し基礎教程でいた。彼は優秀な零戦のバイロットで、流石東筑時代の渾名がキャットと云われただけ、実にスピーディな男で百戦を乗り越えて生存し、又一年先輩の38回卒の筒井敏一氏も健在で八幡におられるようだ。奇しくも36回卒の故梶原得蔵、38回卒の故浅野耕造両先輩とは三重海軍航空隊で同分隊同班という偶然に恵まれ、東筑の想い出話を隣同志のハンモックで語り、励まし合うことが出来た。梶原さんは私の兄と東筑同クラスで東亜同文書院の優秀な県費生で頑健な好男子であったがこの両名も終戦の年、梶原さんは4月に内地で戦死、浅野さんも沖繩特攻で5月に戦死してしまった。所謂神風特別攻撃隊員士官以上の戦没者769名中吾々学生出身の士官が653名で、実にその85%が若き学生であった事実は当時の青年の悲劇でもあり、生き残った吾々は彼等の分まで戦後の日本復興に努力して来たつもりである。
今は老春に生きる私も、台湾高雄を基地の中攻爆撃機の機長として、比島、ボルネオ、ベトナム各地の航空戦に参加し乍ら、何時も紙一重で死に損い、終戦時沖縄前哨戦ではリンガエン湾の米第7機動部隊索敵夜間攻撃で燃料切れ、東支那海に不時着無事生還し中国大陸上海より翌年復員することが出来た。然し、生家の八幡は空襲で焼失し、止むなく自立と復学のため上京して、早や40年の歳月は夢の内に過ぎ永い東京生活になってしまった。
現地福岡の東筑39回生同期会は毎年5月に行うが、私は十数年来必ず出席することにしている。現地の世話人は、黒崎耐火工業社長の末松良介君、ホテルサンルート黒崎社長の八木下憲司君、岡崎工業専務の古賀矩雄君、元東筑教頭の松崎猛男君等がいる。東京東筑39回生も鹿毛誠一(独協大教授)、末永晃(拓大教授)、秋山光一(元鹿鳥建設部長)、河野玉樹(元朝日新聞記者)外7名が時々連絡して新宿で会合をもっている。
今は遠い東筑の想い出も薄らいで来たが、あのグランドに嘗て勇姿を眺めた一本松と、木訥の川筋塊を教えた東筑魂は今も老春の胸の中に忘れることは出来ない。
(公認会計士・新栄監査法人代表社員)
台風一過、甲子園熱も沈まり、今、新入生を迎える準備をしております。その折は物心両面のご支援を腸り、誠にありがとうございました。
さて、先日、ある先輩より一通のハガキをいただきました。
「折にふれ、質実剛健さがうすれ、進学予備校化する中で、東筑伝統の姿がなくなりつつあるように思います。かってロスアンゼルスでの相撲で東筑の校旗を翻えしたのです。先輩は新たな活力を詩に託して各地で誇りを持って来ました。あすの東筑のポエジーにご努力をお願い致します。」
いつの日も、母校を想い、母校の発展を期待し、叱吃激励下さることに感謝しております。
ご承知のように、44の中学校区を持ち、急速な団地化が進み、加えて、上級学校への志望99%という現状の中で、親の期待と伝統をどう生かしていくのか、私どもに課せられた問題のように思います。文武両道を目ざし、新入生には部活動を奨励し、70%の部員が活動しています。59年度には弓道、相撲、水泳、野球が九州大会ヘ。陸上、水泳が各1名、インターハイに出場。音楽部は全国大会で銅賞を獲得しました。
私どもの百の”伝統”を云々するよりもと、入江徳郎氏の”後輩諸君へ”と題する講演をいただき、質実剛健、人情味豊かな川筋気質に加えて”粘り強さ”が21世紀には必要だと諭されました。
今、母校では両立を目ざし、一、二年早朝全員課外を行っています。優秀な頭脳、家庭の期待に答えるため努力しています。今、母校では規則が厳しくて、自由がないという生徒も確かにいます。頭から下まで画一的で個性の発揮ができないといいます。「昔はよかった」といいますが、皆さんの時代の規則は「質素にして、学生らしく、華美でないもの」で通用したのですが、今はそうはいきません。
家庭のしつけの喪失、社会における規律の低下が様々な問題を生んでいることも事実です。しかし、問題の転嫁ではどうしようもありません。真の自由とは、社会の規範とは、集団の中の一員とは等々。後輩の生徒と共に新たな時代の中での”伝統”を模索していこうと思っております。
最後になりましたが、東京東筑会の皆さんのご多幸をお祈りし、報告と致します。
在京東筑32期(昭和8年卒)会は、かつて13名の会員だったのが現在では10名に滅った。いつのまにか今年で70歳を迎える年になり、停年や転勤あるいは故郷に復帰、悠々自適組もぽつぽつでてきた。
現在、昭和炭酸の泉会長が中心になって事細かに面倒をみてくれるので当会の団結は益々強固である。毎年2月の第1月曜日、築地の日冷別館での集りはすっかり恒例となっており、その語らいが何よりも楽しく正に一期一会の境地を味わう時である。
現在本校同窓会の会長が同期の徳永君である関係で数年来、彼が東京東筑会の総会に出席のため上京した折は有志で二次会の席を設けて九州の同期会の様子などを伝え聞くことも又楽しみの一つである。
毎年一度開かれる九州32期会にはこちらから都合のつく者が参加するようにしているが今まで何度か泉君などが参加した。
43期の在京者は9名と少ない。九州からの上京者などある時はこれ幸いと全員集合がかかり、掬み交わす酒に時の経つのを忘れ「おまえ、おれ」の昔に帰ることも瘻々である。
このような不定期会合は別として「ヨサン会」と名づけ定期行事として毎年春秋各一回の一泊小旅行会を続けている。毎回ほとんど全員参加で出席率の高いことは素晴らしいことである。
ちかいところでは一昨年秋、印藩沼畔に一泊し佐倉の歴史民族博物館見学行やマイクロパスを仕立てての昨春の益子窯元めぐりなど、写真を見るたびに楽しさが甦えってくる長い旅であった。
この旅行はただ集った、飲んだ、騒いだ、でなく、必ずこのように教養番組を目玉として組みこんでいるところがミノである。
昨秋は先の大戦末期の昭和19年の巣立ちで、衰れにも修学旅行すら持ち得なかった同期の卒業後四十周年記念の遅まきの京都修学旅行に参加したため、恒例の旅行会は見送ったが、今春も麗らかな陽光にそろそろ旅情がうずきだした今日この頃である。
われわれ49期会は、毎年11月の第1士曜日に集合をかけ、賑やかに騒いでいる。現在までに判明している首都圏在住の者は、南校、折尾高女を含めて49名ばかり、毎回20余名が集まって旧交をあたためている。
昨年は、ラグビー部で活躍していた木原福夫君(三菱電機)の設営で、11月2日、三菱電機高輪荘に集まった。一年ぶりの顔合せで、現況報告や昔の想い出ばなしに花が咲き、時の過ぎゆくのも忘れて二次会への出発がおくれる始末。また、あらたに在京していることが判明した小野猪佐男君(航空自衛隊)、陸上競技部で活躍した渡辺富正君(読売広告社)も顔をみせて、33年ぶりの再会となった。
今では、過去のものとなり歌える者も少ないわれわれの校歌「天に二日の亘るなく、他に一君の定めあり…」の合唱では、六年間学んだ東筑時代にタイムトンネルを通って帰って来た思いがした。二次会には、今年の同期会開催予定の場所、新宿エスカイヤクラブにて、バニーガールのピチピチとした若さにみとれ、三次会ではカラオケで各自自慢の喉を披露Lて、次回の再会を約束し解散した。次回の幹事長、松尾武満君”よろしくたのむぞ!”
昨年の52期会は、杉本彰司君、末原(山鹿)奈美恵さんのお世話で6月に盛大に行われた。「杉本君、今病院からや」と誠に残念な欠席の電話をするはめとなった。1時間程に及ぶ意識不明の中で心臓マッサージをされたそうだが、病院内での出来事で幸いにも一命をとりとめた。”汝ら大台突入にあたって、己れの健康を今一度真剣に考え給え!”と神の警告をまず伝えておく。
会合は高橋力君の音頭で秋枝源康君を囲む会、守圭介君のお世話で花田広隆君(故田中六助先生秘書)を励ます会と、急な連絡にもかかわらず大勢の集まりで、語り、飲み、食いで時間の経つのを忘れ、ああ、出席してよかったと改めて52期会の心なごむ雰囲気を惜しみつつ散会した。
NHKの坂口新吾君は大津へ、三井信託の広田仁志君は福岡へ、三菱モンサントの有田幸彦君が4月から東京勤務となる。新日鉄の守君が5月初めから中国へ1年ぐらい行くことになった。
東京東筑会は来年52期の当番なのでご協力をお願いしたい。
甲子園出場を果した喰田君ご苦労様。大半が中学トッブしか入学出来ない東筑入学後に野球をはじめる状態の中で甲子園に出場すること自体が大変な出来事と思う。又頑張ると電話があった。
「もしもし、川上君ですか」
「はい、川上ですが、あなたはどちら様ですか」
「東筑出身の村田ですが、一寸相談したいことが……」
54年の秋、聞き覚えのない名前で電話を貰い、会っても記憶にない顔だったが、同じ東筑を愛する者同志すぐ意気投合した。
彼曰く、「どこぞのビルで小倉高校同窓会の看板がかかった部屋を見て、小倉にあって東筑にないとは我慢がならない。応援団○Bで同窓会を企画し、実行に移しているのだが思うようにいかない。力を貸してくれ」
これが村田との初対面であったが早速同期の連中にコンタクトを取り、わずか二週間足らずで京王プラザホテルでの第一回総会を成功させ、今年7回目の総会を数えることになったわけである。
思えば母校を愛し、先輩、後輩が東京の地で郷士を懐しみ語り合う、こんな素晴らしい絆を作った村田の功績こそ東京東筑会に誇れる57期のクラス便りとしたい。
東京東筑会が昭和54年11月に再発足して以来、第58期の同窓会もそれに合せ、毎年、暮に行ってきた。
はしめの頃は、山崎肇君の世話で「山海」に集まっていたが、一昨年は、新宿の「玄海」(幹事は、花田昭英君と服部三千代さん)で、昨年は、六本木(幹事は、長沢寿人君と宮本明子さん)で行った。そして、二次会は、森博文君のなじみの池袋のスナックというのが、ほぽいつものコース。
しかし、最近集まるのは20名程度で、しかも、当初の感激が薄れ、メンバーもやや固定化してきた感がある。第58期は、関東地区に70数名在住しているが、秋の総会への出席者は少なく、また、年会費の納入者もご一割程度に過ぎない。
ところで、今年は、東筑を卒業して21年目に当たる。それぞれが多忙な毎日を送られる中で、いまさら同窓会なんてという声もあるかと思うが、毎年続けていくことに意義があるのではないかと信じている。そんな思いを込めて、今年は5月25日(土)に行うので、多数の参加者を期侍している。
今年は、われわれ64期生が名門東筑高校を卒業してちょうど20年目にあたる記念すべき年である。その中で現在東京にいる同期生は、私が電話一本で連絡出来るのが約15名。先輩方の話を聞くと50人位の横の連絡がとれている期もあり、全くわれわれ64期がふがいなく思われる。
それでも年に何回かは、数人で集まってヤキトリ屋で一杯飲む機会を作っては、思い出話に花を咲かせている。64期生は、それぞれ会社では中堅社員として認められる頃だが、職種別にはマスコミ、出版、電気、運輪等広い分野で活躍している。中でも日本テレピの山下君は後楽園で行われる巨人戦を実況しており、西日本新聞の溝越君の記事は政治面に掲載されている。変わったところでは赤坂で「一平」なる中華料理店をやっている遠藤君もいる。
多士済々の同期生を集めて、64期ここにありと皆様に認めてもらえるよう頑張りたい。
-10月27日、麹町会館へドウゾ-
此の頃の東筑は何ね、何度も甲子園には出るし、ベンキョウの方だってあの偏差値ちゅうんが八幡高校はおろか、小倉高や福岡高を抜く勢いで県下有数の進学校になっちょるげな。オレたちん時きゃ、おまえが九大に通ったら鼻から軍艦出しちゃるわい、なんち言う品のねえ先生がおったがね。どうね、ちったあ鼻の高かろうが。総会に出て校長に聞いてみらんね。
どうもあんた、関係のなさそうな顔するねえ。総会ちゅうたっちやあ、要するに親陸会よ。東京東筑会会則ちゅうのがあってな、その二条に「本会は会員相互間の親睦を深め母校東筑高校との連絡を密にしてその発展を助成することを目的とする」なんて書いてある。それを何ね「その発展を助成する」ちゅうところを「ああ、また寄附とらるるとか」なんち読み方しかでけんようじゃ、あんたも品がねえばい。ようそれで東筑ん時きゃ単位ばもろうたねえ。
だいたいが濃淡の差こそあれ、みんなあの折尾駅の薄暗いホームを発って東京に憧れてきたんやろうが。一直線にか途中下車かは別にしてやな。「男子志を立てて」か「一旗あぐる気」かは知らんが、こうして同じ東京に流れ着いて時間が経ってみりゃあ、おたがいその志や初心を温めあってみたいと思うやろ。だいいち、この年になっても言葉の訛と出稼ぎ意識の抜けんで、今もって東京に墓をつくる気になれんのと違うかね。要はそげな帰去来の心ちゅうか青春のロマンをたぐって確めあう場が年一回の総会ちゅうわけよ。おおかたそんな思いはボロボロになっとろうが、おれたちが東筑を通じて少年体験を共有したちゅう事実は消すことはできんね。
よう考えてみない、おれたちはいつも少年体験に向ってじぶんを励起するしかなかったし、負の遺産たる川筋気質をどうアウフヘーベン(克服する)するかという問いを引きずって生きてきたようなもんやからねえ。知らん顔してみてもおれたちの感受性や思想の根っこにある「東筑」は消せんもんなあ。どうせ消せんもんなら、向きおうていこうちゅうわけよ。だからくさ、時にや十六歳の昔に戻ってやね、処世術の枠の外で呼吸してみるのも大人のタシナミちゅうもんばい。どうね、総会にゃあ、しゃっち出て来て賑おうてやらんね。男が(女はもちろん)ロマンを失うたら、人生一巻の終りよ。そいじゃ、総会でな。
第3号
(1985年 昭和60年 5月)
