
異常寒波の今年の冬もようやく去り、新緑に映える今日この頃です。皆さんその後お変わりございませんか。
昨秋恒例の東京東筑会総会を催しましたところ、福岡からは徳永東筑会会長、野添幹事長、事務局側として中野、田代両先生が遙々ご参加下さり、感激の極みでした。 在京の同窓としては山崎先輩(17期)を最高齢に柳(20期)白石(25期)両先輩も駆けつけて下さり総勢200人になんなんとする同窓生の諸兄で誠に有意義な会でした。 残念至極にも会長たる私は公務のため出席叶わず、文明の利器(カセットテープ)で参加させて頂いたのですが、後日、当日の盛会の様子を聞くに及び同慶の至りです。
さて昨年は皆さん方にとり如何なる一年でしたか。 低成長経済の下、家庭においては節約に節約を重ね、事業においては守りの姿勢というのが一般的な答えかもしれません。 これと同様のことが国政においても当てはまりました。 行政改革と財政再建を目指し赤字国債を出来る限り控え、国が行うべき責務を見直そうと政府も必死でした。
私も昭和38年より代議士として席を得、昨年末の選挙でお陰様にて8期目の当選をさせていただきましたが、今日の物質文明がもたらした功罪をこのところ深く考えさせられております。 特に同窓会と関係の深い教育問題一つとってみても青少年の非行化、先鋭化した受験競争、個を尊重する余り集団をないがしろにし勝ちの利己主義等々枚挙にいとまがありません。
幸いなことに母校東筑高校は大過なくよき伝統を守りつつ今日まで歩んで来たようです。
私達同窓生は機会を得て更に友誼を深めね未来への夢と希望を語り、後輩諸君に対し良き先輩ならねばなりません。「玉磨かざれば器を成さず。」 これからも東京で、福岡で磨き合いましょう。
昭和49年の10月頃だったか、社用で鹿児島に出張した帰りに、久々に折尾で降り、母校で教鞭をとっていた同期の竹尾・山田両君を訪ね、竹尾君とは卒業以来始めての再会であったので実に29年振りの再会であったのだが、その折り東筑も昭和53年には創立八十周年を迎える、それまでには校舎も施設も全て完備し面目を一新することになるが、更に教育用機器その他の充実を計るためには、公費のみでは不足するので募金を必要とするとの募金趣意書を山田君からドサリと渡され、「こんなに渡されても、俺一人ではどうすることもできん」と言うと、山田・竹尾面君が交々「野見山や大竹も東京局辺にいることが判ったし俺達も本部として協力するから、何とかこの際お前が中心になって同期の連中と連絡をつけ、45期としても応分の募金ができるようにしてくれ」と口説き落とされ、これは大役を仰せつかったわいとは思いながらも、その時に取敢えずこの二人は住所電話番号も判っているからと渡されたメモにより、東筑時代は日炭高松の杁社宅から共に通学した仲の野見山君が千代田組勤務で東京の経堂におり、私とは予科練入隊の三年五組の同級で、しかも芦屋から自転車通学を続けた頑張り屋で級長であった大竹君がわが家からは小田急線で15分足らずの相模原市内に在住していることが確認出来たので、万事は帰ってこの二人に会ってからと、三十年ぶりの再会への期待に大きく胸を膨らませて帰った。
帰って早速電話をしたのだが、先ず野見山君宅への電話は「ご主人はいらっしやいますか」でこちらの名前を名乗ることなく出て来た野見山君は商社マンで、その当時は総務課長。相手が誰か判らないので何とも商社マンらしく肌触り柔かい丁重なる応待で私が誰か判るまでに数分を要した。次に大竹君への電話は「大塚ですが」と名乗って掛け、取り次いだ奥さんが「あなた大塚さんから」と気軽に電話先に出て来たものの大塚違いは当然で、話が喰い違うこと夥しい。ここは私を「ああ甲飛へ行ったあの大塚か」とやっと確認してくれた。
先ず二人に私の存在と要件を電話で確認してもらうことから始まった私の組織化工作は、次に両家を訪問しての30年振りの再会となり、この頃東筑の先年亡くなった山田和男君から、東京近辺には、これこれの同期生がいるはずとの資料が寄せられ、それによると当然の如く都内各地在住者が多いところから、50年早々の或る休日を利用し、私が野見山家に泊り込みで出向き、資料には電話番号までは明記されてないため、部厚い都内電話帳をめくってのこれ又電話による所在とご当人の出身校確認となった。
休日の午前中を狙っての電話作戦であったが、ダイレクトに同級生本人が電話口に出ることはなく、大抵奥さんか家族の誰かが先に出るので、こちらの電話は専ら物腰の柔かい野見山君が当り、最初の相手が奥さんの場合「ハィ主人の高校は東筑です」という答が返って来た時はその全てが同級生で確定、子供さん達の場合は電話口で確認をとっている場合が多く、兎角資料が極めて大雑把なもので、○○市在住のはずといった程度で番地まで明らかにされてはおらず、同姓同名者が多いということも改めて実感させられ、全てがストレートで確定というふうにはいかなかった。それでも同期の「真督」君の場合は、珍しい二字から成る姓名なので、都内在住のはずとの情報のみを頼りに、その名前を電話帳上に発見した瞬間からこれは同級生の真君に間違いないと確信したが、電話に出た奥さんの「ハイ主人は東筑出身です」との言葉に確信が実証された歓びを今以て忘れ得ない。
かくしてこの日一日かかって次々に同級生の掘り起こし確認が進み、先ず声のみによる電話上での30年振りの先行対面というか対声となり、近日中に京浜地区在住の45期のみで同窓会を開くから、是非出席するようにとの予約の取付けとなるに及んだ。
このようにして電話で確認し得た者と、電話上では末確認だが此処に住んでいるはずとの名簿記載者は16名となり、予めこの京浜地区在住者名簿を送っての第一回会合は、50年3月1日新宿小田急ハルク7Fの「豪華」で行われたが、われわれ45期は、全国の旧制中学校で五年制と戦時短縮により四年制になった卒業生とを、東筑では44期と45期とを共に卒業させた終戦寸前の昭和20年3月の卒業だから、実にこの日が出席者の多くの者が30年振りの感激の再会となった。
当目は集まり易いようにと土曜の夜を選んでの初会合であったが、勤務その他の都合でどうしても参加できなかった者もいて、13名が旧友との再会に胸弾ませて出席した。私の場合前述の大竹・野見山君を除く他の10名とは予科練入隊以来の再会になるので実に31年振りの再会であり、次々に会場に元気な姿を現わす旧友達の顔と名前を一致させて確認するのに瞬時にして認識し得る場合と、方面が違ってクラスが一回も一緒にならなかった場合の友を認識するには宴酣なる回想談において認識出来た友もあり、ともあれこの日の感激と嬉しさは筆舌の能くするところではない。
母校への募金は会場で集め、組織化の話は先ず会の名称から、誰言うともなくこの会を「一本松会」とすることに手間暇かからなかったし、この時点では校庭に一本松はもうないゾと言ってもなお会の名称を一本松会と決めたいところに東筑健児への強い郷愁を感ぜざるを得ない。そして次は役員ということになったのだが、組織の世話役は浪花節的人間に限るとみたか、みんなから察り上げられて不肖私が会長になり、コンビとしての幹事には野見山君が推されて、規約も会則もないまま京浜地区在住東筑45期生の一本松会はこの日に発足した。
従って発足以来八年有余、発足時は50歳前であった友も皆55歳を過ぎ、いやな言葉だが中高年層の中に入れられ、サラリーマンの場合は、所謂定年前の出向年齢となるに至った。この間一本松会の幹事は初代の野見山君が新潟に転勤の時点で藤沢君に、次いで田坂君に、そして現在は新日鉄に勤める其田君が四代目の幹事を勤め、45期の交友の場として年に3~4回の会合を主として高田烏場の九州料理の店「田んぽ」で開き、時としては夫婦同伴の研修会を開いたりして、われわれ仲間では最も楽しい集いとして友情を暖めつつ今日に及んでいる。
京浜地区在住45期の組織として一本松会の在り方については、まだまだ紹介したい多くのことがあるけれど、稿を改め今回は会発足の経緯についてのみにとどめることとする。
僕は、昭和25年に東筑を卒業した。僕等は6年間東筑にいた。決して留年(落第)したわけではない。昭和19年、旧制東筑中学に入学し、戦後23年の学制改革で中学五年になるところを新制高校の二年に横すべりして25年に高校3年を卒業した。これが6年間も東筑にいた埋由である。そしてこの間僕等は様々な経験をした。
19年に入学した頃は戦局は急を告げていた。上級生から順に学徒動員に出て行き、学校は段々琳しくなっていった。僕はガランとした校舎の窓から一本松の校庭を眺めながら、春の全校の分列行進の勇壮だったことを想い出していた。一年生の僕等はまだ小学生の幼さから抜け切っていなかったが、四、五年生はもう大人であり、訓練も積んでおり、その整然と行進する姿に驚きと憧れを持ったものだ。
当時の中学生の服装は軍国調で、カーキ色の服にゲートルを巻き、帽子は戦闘帽である。唯一つ東筑の生徒である証しは、その戦闘帽に3本の白線が入っていることだけだった。ところが五年生だけは昔ながらの黒い学帽だった。野暮ったい戦闘帽の中で、どれ程その白線の入った学帽がスマートに見えたことか。
学科の中で軍事教練の比重は大きく、銃剣術を始め色々な訓棟にしごかれた。一年生の僕等が大人用の木銃を振り廻し二年生からは本式の銃を扱わされることになっていた。 東筑には配属将校が常駐していた。中学は予備軍だったのだろう。単純な僕はその頃、銃を持って戦場に行き勇ましく戦って死ぬのだと少しも疑わなかった。
東筑からは陸士海兵始め多くの軍学校に続々と入学していった。予科練が数も多く派手だった。彼等を送るために何十回折尾駅のホームで壮行の歌をうたったことだったか。
20年、僕等は二年生になった途端学徒動員に出され、僕は黒崎の安川電機に配置された。B29の爆撃の下で命からがら防空壕に逃げこんだこともあった。 幸いにもその夏、戦争は終った。僕等も軍国少年でなくなった。
一、二年は混乱のうちに週ぎた。学校側も何をどう教えればいいのかとまどった時期だったと思う。
僕は空腹をかかえながら闇市を歩き廻り、騒然とした世の中に何かキラキラするものが出て来たと感じたりしていた。東筑には運動部やサークルが続々と出来始めた。僕はあちこちと渡り歩いた。野球からラグビーヘ。映研から読書部へ。深く突っこめなかったが餓えた狼のように貪欲だったのかも知れない。
新制高校になって女っ気一つなかった東筑に女生徒がはいってきた。僕等の心は騒いだ。ところが学校当局の高遇な配慮なのか、僕等の学年は共学にならずに、一年下からだった。僕等は東筑の質実剛健さの最後の期である誇りをもって、校内をかっ歩する女生徒達を横限で眺めた。
これが僕等の東筑での目々だった。軍国教育、学徒動員、戦後の混乱。あまり勉強しなかった。しかし多感な時期の体験である。だからこそこの時代の6年間を共に過した同期の仲間達に強い想いを抱くのは当然なことだろうと、今しみじみ思う。
私が東筑中学を卒業したのは大正五年で、六十年以上になります。古い懐かしい校舎でした。石段は今もあると思います。生徒数もズット少かった頃ですが、内容は充実していて意気盛んで、柔道部、剣道部も強く、野球部も私達が三年の時県の大会で初めて優勝してドコンジョウがあったと今も力強く想っています。
私は芦屋の山鹿出身ですが、今の折尾から山鹿への道を(5、6キロ)五年間歩いて通ったことが、その後の私の人生に大きく役に立ったのを忘れられません。その頃自動車は地方には珍らしく、自転車の時代で、自転車で通っていたのは二、三人で、殆んど皆が朝風に吹かれ乍ら厚い歯の下駄で青をたてて澄み切った空気の中を只向学心に燃えていた時代で、毎朝六時頃起きて雨の日も風の日も歩き続げて通いました。
子供の時から絵の好きな私は、今の芸大の前身の東京美術学校の西洋画科に入学し五年間実技を学び、卒業後、三年間フランスの巴里に勉学に行き、絵の道を歩き続げていますが、今も尚健脚で写生旅行に出かけられるのは、五年間歩いて通った東筑時代の賜と感慨無量の想いです。 画家になってズット東京に住んでいて、母校を訪ねることもなく失礼していますが、これからは桜島や長崎の風景を大いに描きたいと想っておりますので、その機会に是非久々に母校を訪ねたいと希っております。
アンマリ族という言葉をご存じでしょうか。アンマリッド・ピーブルの略で、豊かな独身貴族のことを言うのだそうです。私、五十五期のアンマリ族ですが、リッチライフにはほど遠く、フランス料埋を横目で見ながら、場未の縄のれんをくぐっております。きょうはそんなある日の出来事をご披露させてください。
一昨年の暮、友人に誘われて渋谷のバーへ繰り出しました。裸電球にデンキブランがびったりはまりそうな店で初老の男性二人のほかに客もなく、九州弁のママも生気なく、瞬間、六本木のディスコにすればよかったと思ったほどです。席へ着くなり先客の初老さまから大声が飛んできました。「そこのお嬢ちやん、出身県はどこ?」、なんと五十五期で”お嬢ちやん”です。夜目、遠目、バーの中ってありがたいものですね。福岡と答えますと「くどきの序盤で大失敗、きっかけ掴めないよ。最も縁なし県だ。」とのこと。”世界は福岡のために”とまで思い入れている者にとりましてはキッーイお言葉。するとその方「いかに縁なし県でも一つや二つはすぐ口から出るな、中洲、それからトーチク」一瞬息を呑みました。
耳に人ったトーチクが、まぎれもなく我等が東筑であることを知り、渋谷の夜を六本木以上にフィーパーしたのはもちろんです。この方、某有名大学の教授をなさっているとか、それにしても福岡音痴はかなりのものでした。別れのとぎに「先生、次に福岡の話をなさるときは、東筑、中洲の順にしてくださいね」とお嬢ちゃまらしく愛らしくお願いしたのですが、少々興に乗り過ぎて『湖畔の宿』から軍歌まで歌いまくったのであります。せっかくの”お嬢ちやん”も、選曲ミスで中年が露呈したのは残念です。
帰りの夜道で、私はもう一つの”東筑”を思い起こしておりました。
同じ一昨年の十月、小平市に住んでいた兄が急逝したのです。亡くなる少し前、夜遅く次のような電話を奥さんにいれております。
「いま武蔵小金井駅だ。タクシー待ちしていたら急に歩きたくなった。家まで歩く。遅くなっても心配しないように。」小雨の中、傘もなく、タクシーにするように言ったそうですが、「不思議だね、芦屋から東筑まで歩いて通った日に引き戻されて、歩かずにはおられないよ。」
四海荒渡だった彼の人生も、最後にしたたかに甦ったのは”東筑時代”だったようです。
”よきかな東筑うるわしく、東筑々々覚かなれ、あゝ東筑”この歌詞を学生時代とは違った感慨でいま私は口ずさんでおります。
「既設の四藩中学校は歴史も吉く、卒業生も多い。すでに社会に出てそれぞれの部門に地位を築いている。だが諸子には卒業生の先輩がなく気の毒である。願わくば安易な気持を捨て、心身を練り、学業に励み、立派な校風を培ってもらいたい。」
これは明治31年(1898)6月10日、飯塚の仮校舎で挙行された開校式時の、初代校長、大森藤蔵先生の式辞の一節です。
私は36期生ですから多くの先輩後輩がいらっしゃり、それらの方々から公私共にいろいろご教示も頂き可愛がって頂いてもいますので同窓の有難さが身にしみてわかっています。
又、33年間の東筑在職中、五十周年とか八十周年とかの各節目毎に行われた記念事業や、三回の野球部甲子園出場等に寄せられた同窓の方々の物心両面にわたる惜しみないご援助、ご協力には同窓生としてひそかに一種の誇らしさを感じ、東筑職員の一人として涙が出るほど有難いと思ったことが度々でした。そして今の東筑生は幸せだなあと思って来ました。ですから前記大森校長先生の式辞の一節が一入感慨深く思われるのでございます。特に「諸子には卒業生の先輩がなく」という言葉には胸のつまる思いがいたします。先輩を持たないこと、同窓がないということ、それがどんなに淋しく心細いことであるかは想像に余りあるものがあろうと思います。
先輩を持たない第一期生は31名で東筑生として出発し、明治35年3月20日の第1回卒業式で17名の方が巣立ってゆかれました。当時は学業面でもその鍛え方は随分厳しかったようです。この第1期生が3年生時には26名中、なんと8名が原級留置きになっています。第1期生の方々ばかりでなく明治40年代頃までは概ねこのような状態でした。しかしこのような苦難を乗り越えて来られた草創期の方々が今日の東筑の隆盛の基礎を汗と涙で築き上げて来られたことに深く想いをいたさなげればならないと思います。
今井梢さん-三原梢さんと呼ぶ方が私にはピンとくるのですが-から送って頂いた東京東筑会報創刊号に記されているお名前を拝見して胸が一杯になりました。同じお名前でも、地元、北九州の地で何かに記されているのを拝見したのでは、とてもこれほどの懐かしさは恐らく感じますまい。東京にいらっしやるからこそ、遠く他郷にいらっしやるからこそ、このような懐かしさが湧き出てくるのだと思います。
46期以降の方々はそのお顔までありありと浮かんでくる方もたくさんあります。そうでなくともお名前だげは、はっきり記憶しています。45期以前の方も、私が東筑にお世話になった期間(昭和21年~昭和54年)が永かったので、その間よくお名前を耳にしたことと、八十年史編集に携わらせて頂いた関係で、いろいろ調査した事項とかかわりのあるお方が多いので、面識のない方でも以前から存じ上げているように錯覚するのでしょう。例えば第6期の大和田悌二大先輩-失礼ですが敢えて先輩と呼ばせて頂きます-などは、八十年史の中で幾箇所にも取り上げさせて頂いています。
他にもそういう方が沢山いらっしやいます。そういう方はお名前を拝見しただけで以前に何度もお会いした方のような気持ちになり、懐かしさがこみあげてくるのでしょう。
東京には東筑が天下に誇り得る錚々たる方々がたくさんいらっしやいます。私はこの東筑の盛況を、一人の先輩もなかった第1期生の方々や、同窓生も少く何かにつけて心細い想いをされたに違いない草創期の先輩たちに見せてあげたい気持がしきりにしてなりません。福岡県の四藩系中学校では東筑の1期生と同学年生に当る明治31年の二年生には多くの先輩がいたのです。それを想うと東筑の一期生や草創期の皆さんが、生意気な言い方になって恐縮ですが不欄でなりません。
在京のお若い皆様方、皆様は本当に幸せだと思います。天下に誇り得る立派な先輩が沢山身近にいらっしやるのですから。お若い皆様方はこれらの先輩からいろいろと教えを頂いたり時には甘えたりされながら今後一層大きく成長してゆかれることでしょう。そして今後も続々と後輩が上京してゆくことと思います。それらの後輩達のためにも頑張って下さい。
東京東筑会の弥栄を遠く北九州の地から心をこめて祈り上げます。
東京東筑会が、年々盛会に行われ喜ばしいことと思います。
私も結婚して、主人の勤めの関係で転宅をくり返し、10回目でやっと自分の家に落ちつき七年になろうとしています。郷里を出て早や32年余り・…
私の兄は東京東筑会39期、41期で、旗生長景、徳男と言います。
上の兄は福岡高等学校、京都帝大経済学部と進み、途中学徒出陣で出征し『海軍飛行専修予備学生十四期』、20年4月28日南西諸島方面にて特攻戦死『神風特別攻撃隊八幡神忠隊』。下の兄は東筑中学校卒業後、飛行機の学校に行っていると聞いておりましたが、甲種予科練十期で、19年10月27日比島沖航空戦で戦死しました。予科練には甲乙丙とあったことも後で知りました。
子供も成人し孫も生まれ年を重ねる毎に、兄達が生きていてくれたらという想いが切実です。
心身共に幼かった私、或る時点から二人の兄は急に消えてなくなってしまったのです。一人前の女として、兄達と人生を語り、愛を語り合いたかったとしみじみ思います。お国のためと、21歳と20歳の子供を捧げた明治の母は気丈で強い人でした。
予備学生十四期の慰霊奈は毎年9月中旬高野山で盛大に行われます。今年も全国から、遣族、同期の方達六百余人が集まって下さいました。年々遺族の両親の数も少くなり、お年も80歳から90歳と高齢になっておられます。
同期の物故者も多く今年も一年間で18名数えられました。同期の方達にお逢いすると、亡き兄に逢っているよううに思われます。失われた記憶の中の兄の様子等多くの方達からお聞ぎ出来るのも楽しみです。今年も福高、海軍徳島の分隊でご一緒だった方に、始めてお逢い出来ました。
下の兄は生き残られた方が少く『八割が死亡』。会合に出席しても、兄と何処かでご一緒だった方、ご存知の方は一人もなく、戦時中何時も秘密の中で行動しておりましたようで、遺品もなくとても可哀そうに思います。最後はフィリビンのクラーク中飛行場から飛び立ったようです。56年から10月10日甲飛の日が設定され靖国神社で慰霊奈が行われるようになりました。理解ある主人に励まされ(主人も学徒出陣陸軍航空隊で整備、特攻隊を多数送り出している)、二人の兄の慰霊祭に参加することが今の私の使命のように思います。
愛する国を守るため肉弾となって死んでいった先輩がいたことを、知って欲しいと思います。その死を犬死にしないで下さい。亡くなった兄達の分まで私は幸せにすごしてきました。常に亡き兄達の加護があるお陰と感謝しながら、平和な日々をかみしめています。
兄の遺書(抄)
遺書も何も残して来なかったことを思ひ出し、遺書と言ふ様な堅いものでなしに日記のつもりで出撃の日迄私の生活気持ちを書いて置きたいと思ひます。
4月16日今日は未だ生ぎて居ります。
昨日父さんにも母さんにも兄、姉にも見送って頂き全く安らかな気持で出発出来ました。(略)
お父さまお母さま、本当に優しく心から私を可愛がって頂きましたこと、有難く御礼申します。この短い文の中に私の全ての気持を汲んで下さい。これ以外のことを言ふのは水臭く妙な感じがすると思ひます。私は一足先に死んで行きますが、あの弱かった私が、国家の為に死んで行けることを喜んで下さると思ひます。長い間御世話になって何一つ父さん母さんに喜んで頂く様なこともいたしませず、誠に相済まぬと思って居ります。私の死はせめてもの御恩返しだと思って下さい。(略)
和子ちやん、日本人らしい女になれ、強く優しい女性となれよ。良い母親となり良い子を生んで日本の宝となせ。兄さんの代りにお父さんお母さんに孝行して呉れ。(略)
4月17日今日も生きてゐます。
陽光麗かに徴風頼を撫でて週ぎ、蝉の声頻り、此処基地の空飽く迄平和です。此の平和も銃撃爆撃に夢を破られます。父母の在す地、故郷の南端而も此処は最前線です。体を粉にして愛する日本を守り抜き、皆を幸福にしてあげるのだと、更に闘魂を湧き立たせて居ります。(略)
4月28日
神国不滅 驀直必中
海軍中尉 旗生良景
只今より出発します。何も思ひ残すことありません。お父さまお母さま、兄さん、姉さん御幸福に。(略)
お婆さん、良和ちやん、和子ちやん、皆元気に暮して下さい。
日本は必ず勝ちます。帝国の繁栄のために死所を得たるを喜んでゐます。
心爽やか大空の如し。
こうしてゐるのもあと暫くです。
さようなら元気で 良景
(かなづかいは原文のまま)
毎年、春夏の二回必ず甲子園に行くが、球場に入ると、必ず昭和53年夏の甲子園を思い出す。
その年、第六○回全国高校野球選手権大会に出場した母校東筑が、悲願の一勝をあげた。
8月10目、対金沢高に4×‐3で勝ち、校旗がメインポールに、校歌が球場に、いや全国に鳴り響いた。
翌日の朝刊各紙(北九州版)にはこうある。
-甲子園に念願の校歌(毎日)、東筑26年目の初勝利(読売)、歌った聞いた東筑校歌(朝日)、東筑甲子園に待望の校歌(西日本)。
これらの新聞を読みかえすと三塁側アルブススタンドの熱気が蘇ってきそうである。校歌を甲子園で聞くことが当時の私には夢であったが、夢の実現が適ったあの日の感激は一生忘れることができないであろう。
二回戦は、西東京代表日大二高とあたった。覚えている方も多いと思うが、延長13回、敵失による好運なサヨナラ勝利をおさめた。14日朝刊の見出しは以下のとおり
-見せた粘りの東筑(毎目)、”忍”の一字東筑野球(読売)、粘りの東筑に球運(朝日)、死闘13回東筑ガマン勝ち(西目本)。
13日は日曜日で甲子園が満員であったことや、今度は落ち着いて校歌を聞き、歌ったこと等を思い出すことができる。
続く三回戦は、沖縄の豊見城高と対戦。8月17日第一試合、一墨側アルプス席に三原会長を中心に陣取った東筑応援団は、大声援を選手に送った。ホームスチール等で一時は同点に追いついたが健闘空しく1‐4×で敗れた。
これで今夏の甲子園も終ったと感じたことを覚えている。
6年前の甲千園出場のことは、かなり記憶にあるが、その大会でどこが優勝したかは覚えていない。東筑がすべてなのである。
豊見城に敗れて甲子園を後にした私は翌朝の朝日新聞には驚かされた。
-「打たれてもエラーしても……」 ツキの東筑に力の壁
それまで地元の新開ばかり見ていた私には、マスコミの持つ二面性や東京の恐さが身をもって理解できた。
ちなみにこの大会、東筑の放ったヒットは3試合で11本、得点6であった。
甲子園通算は2勝3敗である。近いうちに甲子園出場を勝ち獲り、勝率5割を越えたいものである。
その時は、アルプス席を東京東筑会の会員で埋め、大きな声で校歌を歌おうではありませんか。
第2号
(1984年 昭和59年 5月)
