如水の交わり / 東京東筑会会長 三原 朝雄 (26期)

 我等が母校東筑高等学校の東京における同窓会、東京東筑会による会報創刊にあたり、乱文を走らせる機会を与えて下さり、誠に光栄の至りです。
 青雲の志を抱き、ふるさと北九州を離れ、こうして生き馬の眼をも抜きそうな世界一の大都市東京にいて、華々しく又堅実に生きる先輩同輩後輩が存在すると思う時、私は何時も東筑を母校に持った幸せをかみしめます。私は明治大学に入学するために上京した時が東京への第一歩でした。その当時既に東筑学舎が茗荷谷にあり、諸先輩が浄財をはたいて苦学生のために提供していただいたこの寄宿舎の便宜は、右も左も判らぬ山出しの私達にとり、そして又空腹を抱えて勉学に励む私達にとり、大海を漂う小舟にとっての灯台の明るい光にも等しいものでした。この頃、つまり昭和の初期に、もう東筑同窓生は社会人学生を問わず往来があり、学生であった私などは、諸先輩を頼って会社へご自宅へ足を運び、大層迷惑をかけたものでした。
  それから三十有余年を経、今度は地元の東筑同窓の方々の絶大な支援を得て、昭和三十八年始めて衆議院議員として国会に足を踏み入れましたが、この時も東京東筑会の方々に心暖まる歓迎をしていただきました。思い起こすと田代茂樹(故人)、大和田悌二、岡雄一郎、出光計助等の諸先輩が早々にご参集下さり、一夕懇談の時を作っていただき、国の舞台で働く政治家としての心構えを懇切にご指導下さいました。
  人の結び付きには社会学上二つの型があるそうで、一つは家族的なもの、そしてもう一つは利害的なもの。こう書けば皆さんにはもうお判りでしょうが、わが東筑会は前者的な集合体で、利害を超越した、同じ東筑という学舎(マナビヤ)で青春の一時期を過ごし、質実剛健の伝統美風を感得した者同志の集いの場です。
  歴史は繰り返します。先輩方に世話になっていた私が、今では後輩諸氏に「元気でやっているか。」と声をかける側になりました。私はこの創刊にあたり、心の継がりである東京東筑会が先同後輩三者のより深い理解により、「如水の交わり」にまで昇化して行くことを大いに希望しております。ご多忙の中でしょうが、国会付近にお運びの折りには、ご遠慮なく議員会館内の当方の事務所へもお訪ね下さい。
川筋言葉で歓迎致します。
創刊を祝しつつ。

夢を求めて / 東筑会会長 徳永 勝一 (32期)

 在京同窓の皆さん、去年十月九日の東京支部総会には主校長さん、中野事務局長、鷲尾さんともどもお招きをいただき大変お世話になりました。 三原大先輩のご健在、入江徳郎先輩の「川筋気質」についての懐かしい講演、同期生の小田順之助君に会えた嬉しさ、そして盛大な総会、また当番期の五十六期生の皆さんから二次会までセットしていただき、すべてが心温まる懐かしい思い出です。
紙上をかりまして心からお礼を申し上げます。
 さて新春の初夢とでも申しましょうか、私はNHKのドラマの企画で何時も感心することは、時代の流れを先見洞察しながら庶民の心を見事にとらえ、演出も演ずる人もその適役を得て、心にくい程好感を覚えます。 特に先頃放映した「よーいどん」は社会情勢の不安と、ともすれば刹那的で殺伐とした時代の流れの中で、年老いた人も、若い者も、人それぞれに純情で、心豊かで、ささやかな未来への明るい夢を求めて、一途に努力する愛と温かいおもいやりには時に感涙を流し、家中皆で毎日毎日を楽しませてもらいました。
  私は第二次世界大戦の戦前・戦中・戦後を体験して今日まで生きぬいて来た者の一人として、また現在その歴史と伝統を誇る母校東筑高等学校の同窓会長として、「理想の夢」について一言ふれてみたいと思います。 東筑流にずばり一言で云うなれば「歴史観の確立」個人個人には「人生観の確立」とでも申しましょうか、そして世界は一つであり、人類は一家であり、母校愛の精神を堅持しながら「よーいどん」のテーマの如く素朴な温かい思いやりの心で、最終的には争いのない平和で豊かな未来への創造、共存共栄への先師として、東筑人閥・東筑人脈が全世界に展開する日を夢見る者です。
 夢はでっかく、現実直視は厳しく、万物は流転する中で、人類不変の真理を求めて、純情であり、熾烈でありたいものです。
東京は日本の政治・文化・経済の中心地です。東筑同窓の一層の団結とリーダーシップを心から期待して、東京東筑会報創刊の祝詞といたします。

昭和初期の思い出 / 小田順之助 (32期)

 我等東筑32期生の在学は、昭和3年~同8年(1928~1933)で、時恰も世界金融恐慌、正に昭和恐慌の時代であった。その間、国外では満州事変の勃発、満州建国の宣言、独はヒットラー内閣の成立。国内では八幡製鉄株式会社が他の製鉄所と合併して国営となる等物情騒然となり、好むと好まざるとに拘わらず、軍国主義的傾向を醸し出す時代となっていった。
  不景気のどん底であり、街では失業者が続出し、就職難もその極に達した。『大学は出たけれど』や『与太者三人トリオ』などの映画がはやった時代である。東筑の在校生の中でも、苦しい家計のやりくりの中から辛うじて授業料(月5、6円ぐらい)を払うという家庭も多かった。小生も貧乏の度合いにおいては人後におちない一人であった。
 当時の想い出の中から記憶を辿って見ることにする。修身の授業が今なお強烈な印象に残っている。非常時の中等教育は人間形成を主眼とし、智育、徳育、体育のバランスを尊重していたが、中でも徳育に力を注いでいた。校長が自ら修身課目を担当したのを見てもそれが判る。修身は学年全員が同時に授業を受けたので教室は旧講堂を使った。 正面の壁には『神見ざるなし、神聞かざるなし』の額が掲げられていた。 講堂は常に清掃され床面は油で光っていた。 修身が心を正し身を修めるの道場に相応しい環境で、講堂に入ると思わず厳粛な気持ちになる。
 当時の校長は有光一先生であった。 歴代の東筑の学校長は現在の主校長に至るまで県下で最も優れた方が着任されている。このことは、我々同窓会にとっても無上の光栄であり、誇りとしたいところである。有光校長のあの威厳に満ちた風貌と音声、眼光紙背に徹するが如きこわさは我等少年の魂を完全にとらえたものである。 そして授業に先立つ『黙想』は先生独特の手法であった。僅か二分くらいの黙想で邪念妄想でいっぱいの腕白ざかりの少年に対し”無”や”空”の境地になれなど求めることは無理なことであったろうが、『直れ』の号令で一斉に目をあけた瞬間、いくらか心が落ち着いた状態になったのは不思議であり、校長の狙いもそこにあったのだろう。 そして教育は教育勅語を基調にした道徳教育であったことは当然のことである。
 次に通学の想い出を一こま加える。 芦屋から折尾までは約二里あって、途中遠賀土手、浅川沿いに折尾峠を抜けて学校に着くのである。 先輩諸氏は皆、徒歩通学で通したが、昭和四年頃からぼつぼつ自転車通学者がふえていった。 小生も一年から二年の途中までは徒歩であった。 毎日先輩の後を急ぎ足で随行したのを覚えている。 芦屋からは徒歩で約1時間半で自転車では三十分ぐらいかかったと思うが、天候によってその速度は変わったものだ。意志強固な秋山光見先輩などは遂に卒業まで徒歩通学を貫徹された方で、心から尊敬する先輩の一人である。読書し乍等の通学の姿は二宮尊徳像のようで、そのお姿は今でもはっきりと脳裏に残る。
 小生も二年の途中で中古自転車を手に入れることができた。自転車通学で一番難儀なことは、雨と風の日である。雨具といえばカッパも洋傘もない時代で、唯一の頼りは番傘である。 風雨が烈しくなると土手道を傘を器用にさして泥道の水たまりを避け乍ら、時々前方を警戒しつつのろのろと進まねばならず、その格好は一寸した軽業師のようであった。また、番傘などなきに等しい強い風雨の日もあり、自転車通学での失敗もしばしばあった。 一度は田植え前のたんぼにハンドルをとられて直進したり、ハンドル止め《左右のぶれ止め》をさわって浅川にドブン。 何れも急ぎ反転して服を着替えに帰り、遅刻したことは忘れられない。また、チェーンが切れたり、パンクした時など自転車を押して峠越え登校したことも度々だった。徒歩、自転車に限らず五年間の通学は、流石に意志を強め、忍耐力を養いかつ体力をつけることになって、今でも有り難かったと思う。そして八幡や中間、直方方面からの汽車通学者を羨ましいとは決して当時は思わなかった。
 いろいろと思い出は尽きないが、貧しい時代、苦しい時代の東筑での修業時代の一コマが、有り難さと懐かしさと交錯し乍ら蘇ってくる。

十二代矢野校長の想い出 / 鴛海 正 (38期)

 昭和九年に旧制東筑中学校に入学した我々三十八回生は、一年生の九月に第十二代矢野磯校長を迎えた。重厚な感じの前有光校長にくらべると、外見はまことに貧弱で背は小さくやせて、度の強い眼鏡の奥に眼玉だけがやけに大きい校長だった。その人相が当時有名なインドの「ガンヂー」にそっくりというほど似ていたので、ニックネームは早速ガンヂーと決まった。
 当時校長先生の授業は特別にはなかったと思うが、この矢野校長は同学年全員を講堂に集めて昔の所謂修身の授業を行っておられた。教育された内容は憶えていないが、読書の姿勢と教科書と眼の間隔を五○センチ近く離して読むことには、異常と思える程にやかましかった。オイコラ、そこの学生、つまみだすぞ』多勢の授業なので後の方の席でつい手を抜くと忽ちこの怒声がとんできたものである。小さいから見えまいと思ったら大間違いでよく見つけるなと感心させられていた。なかには授業が終った後、校長室まで連れてゆかれ、長時間正座をさせられた者もいた。その彼が言うには『校長の奴全く怪しからん。俺の正座している目の前で足をなげだして変な姿勢で本を読んでいた。教えることと自分のすることはまるっきり違う。おまけに罰を受けている俺の目なんか全然気にもしてなかった。全く頭にきた』としきりに慣慨するのを聞いて、そうだ、そうだ校長の奴全く怪しからんと同調しながらも、親しみと、なんとなくユーモラスな人間性を感じて大笑いした思い出がある。
 私は奇しくも三菱鉱業時代、この矢野校長の御子息矢野隆二氏(元三菱鉱業取締役)の部下として勤務する幸運に恵まれた。仕事にはまことに厳しい上司だったが、私を旧制明専の後輩として犬変可愛がっていただくと同時に、徹底した教育指導(何度かビンタをとられはしたが)を受けた恩師である。つまり私は矢野校長親子二代に教育を受けたことになるわけだ。前述の校長の話をしたところ「父は眼鏡を外すと盲同然の極度の近視であった。それで読書の姿勢の悪さから生じる近視は絶対に防がねばならぬ」と常に言っておられたとのこと。率先躬行はできなくても後輩に対する愛情に根ざした教青の一端であろうと考えさせられた次第である。
 私が東北勤務から東京に転任して早くもご一年有余が経遇した。一昨年十月の総会で四十三期卒の白石君と共に、副会長に選任(その任に非ずと固辞逃げ回ったが)された。
同窓会も中学(高校)のそれが一番楽しいという声をよく耳にする。社会の各層各分野に分れた同郷同学の懐しい会合だからであろう。
常任幹事会の方々並びに事務局と相互の親睦連繋を深めてゆく世話役の一員として努める所存である。

いろはにほへと ちりぢりに / 白石 大祐 (43期)

 私達四十三期は昭和十九年の卒業でございます。昭和十九年と云えば戦局は既に破局に近く、依然として威勢の良い大本営発表の二ュースの影にも忍び寄る危機感がひしひしと国民を脅かし始めた頃でございます。もちろん当時の著者の心情としてその愛国の至情から故国の危難に立ち向うべく、或は軍関係の学校に、或は「予科練や特幹」にと学業半ばに身を挺し、また或者は軍需工場に動員でかり出されるなど長い東筑の歴史の中でも際立って異常な状態の中から巣立って行ったわけですが、爾来40年近い歳月を閲しそれぞれ熟年の域に達しました。
 昭和五十年晩春の或日卒業30周年を記念して懐しい一本松の下に同期生有志集合の案内が参りました。 戦後の昭和二十四年に東京に出たままで郷里の周窓会等にも縁の薄かった私でしたが、一念発起出席に踏み切りました。一本松は既に幹のみ残り、校舎のたたずまいも往時とはことかわりはしていたものの、体操や軍事教練に鍛われた校庭はさすがに懐しく、追億の思い禁じ難いものがございました。それにもまして一別以来、30年の旧友の顔々々に紅顔の頃の面影を見出し「ヤアヤア」とやたら握手を繰り返し続けた時も嬉しさは亦格別のものでございました。この時を機会に今日まで多くの在郷の友との交誼が続いておりますが、危険な年齢に達したものでしょうか、稀に訃報に接することもあり会い逢うごとに健康のことが話題に上るようになった今日この頃でございます。
 郷里の同級生ばかりでなく東京及び近郊に散在している同級生の消息も年と共に一人また一人と判明し、現在10名を数えるに至り何かにかこつけては、「お前、俺」の楽しい語らいの機会を持っておりますが、それぞれの属する社会の第一線で責任ある地位での緊張から開放されるこの団欒こそ命の洗擢のようなものではないかとしみじみ有難く思うものであります。
 去る一月二十三日郷里の芦屋町で同期の浜中茂足福岡県会議員の藍綬褒賞受賞祝賀会が催され、私もご案内をうけ参列させて頂きました。壇上の旧友の晴れ姿は同期の誇りとして吾がことのように嬉しく涙の出る思いでした。
 久保田万太郎先生の
     「竹馬や、いろはにほへとちりぢりに」
の真の句意はともかく、あの混乱の戦争未期、卒業式の有無すら定かでなかった東筑の学び舎を散り散りに巣立って行った学友が、その後40年の星霜を逞しく生き抜き、夫々の人生を確立していることは、誠に同慶の至りで今後とも益々友誼を厚くして行きたいものと念願しております。
 終りに東京東筑会報創刊を心から祝福し、会の発展と会誌の永続を祈念して駄文の筆を擱く次第でございます。

川筋気質」について  / 入江 徳郎 (30期)

 皆さん、お懐かしゅうございます。
特別講演などと銘打たれまして、恐縮しておりますが、東筑懐かしや、ふる里懐かしやという感慨を述べさせていただきたいと思います。
私は東筑4年終了で佐賀高校へ進みましたので、当時の東筑5年生の楽しみである朝鮮旅行が出来ませんで、今でも残念に思っています。 東筑の学窓を出たのは昭和5年ですから、既に五十二年、半世紀以上経ってしまったわけです。しかし、東筑の校舎やグランド、特に帆柱山の風景が強く心に残っております。帆柱山は、東筑のグランドから大きく見えたものです。『帆柱おろしに身を鍛え、玄海の灘に胆を練る』と応援歌がありましたが、あの山から吹き下す風が、冬などは冷たく、軍事教練で、足の先がしびれたことなど思い出します。
 あの山に、私は中学一年の時に登りました。芦屋の上級生三、四人と登ったのですが、そこでひどい目に遇いました。帆柱山の頂上の大きな岩に登って、関門から芦屋の方まで眺め、良い気分になって岩から飛び下りた途端、その下に笹を斜めに切った切り株があって、ズックを通してに刺さり足に突き刺さり、歩けなくなったんです。上級生達は、交る交る私を背負って山を降りて家まで送り届けてくれました。そのケカが仲々直らず、数ヶ月かかりました。私は剣道が好きで、のちに士官学校に入学した遠賀村の安藤正君と、私だけが、一年生で意一番早く六級になったのですが、そんなわけで剣道の練習が出来なくなって、それ以後、剣道に熱が入らなくなりました。
 その頃、上級生は何処でもそうでしたが、芦屋の上級生は下級生の面倒見が良く、威張っていましたが、一方で下級生を可愛がってくれました。今のように参考書も無いし、家庭教師などもありません。ところが、中学では予習をしていかないとビシビシ先生にあてられる。勉強するときに上級生の力を借りる以外に無いので、私はこれぞと思う四、五年生の家へ夜になると時どき押しかけて習いに行く。「ここが判りません」などと、教えを乞いに行きますと上級生の方では、面倒臭がるような顔はしないで、「よう来た」とばかり、教えてくれる。今でもその人達のことを有り難く思い出します。
こんな具合に、上級生との間につながりがありました。その代り、上級生は厳しくおっかない存在でした。 通学中に遇ったとき、「お早よう」という朝の挨拶をハッキリやらないと後でひどく叱られたものです。そんなわけで、こちらが上級生になった時に、下級生に対して面倒を見てやらなきゃという気持ちになります。先程、徳永会長にお目にかかったら、――徳永会長も芦屋なんですが、――「しっかりやれ、と云って、あんたにしょっちゅうハッパをかけられた。」と、いわれました。そういう伝統が強くあったんだなという気がいたします。

 山といえば、もひとつ、湯川山です。鐘崎の方から海の方へ突き出した山で、五、六百メートルですが、芦屋や岡崎の人にとっては毎日見える山です。この山にも登りたいなと思っていましたら、二年生の時、登る機会がありました。その頃、東筑の先生をしておられた方に、山本晋先生―水巻の方の出身ですが―が、東大の文学部に籍を置いておられて、未だ大学生で東筑の先生模され、和服に角帽で学校に来られた。これが格好が良くて、われわれ生徒もいいなあと思ったものです。 その先生が湯川山へ登るからついて来いといわれる。私の一年上の芦屋の「銭幸」という店の長男の吉永幸三郎さんと私、三人で湯川山へ登りました。秋のころで、眺めが非常に良かったことを覚えています。壱岐が見えました。ところが、帰りに道に迷って夜もだいぶ遅く芦屋へ帰って来たのです。親達が心配して、家の人が芦屋の出はずれの幸町で、提灯をつけて立っていました。
 この時に山本先生か歩き乍ら歌を教えてくれました。旧制の五高(熊本)出身だったものですから、「武夫原頭に草萌えて、花の香甘く夢に入り」と五高の寮歌を教えてもらい合唱しながら、夜道を歩きました。この山本先生は、その後、長崎県の諫早中学に転任されました。私は佐賀高校に行きまして、クラスに諫早中学の卒業生もいて、山本先生の噂を聞いたのですが、山本先生は諫早中学に勤務しておられる時に、突然先生をやめて出家、坊さんになられた。町の外れに念仏堂という小さな堂を造って、そこの堂守になられ、念仏三昧、信仰生活を送っておられると聞き、驚きました。山本先生が突然仏門に入られたのは、六つか七つの長男を亡くされ、世の無情を感じられたためということでした。
 私は大学生になりました時、長崎に行った折り、山本先生の所へ寄りました。先生は、丁度布教に出られる所で、ついて来いと言われて、私はカバン持ちになって一週間許りお伴をしたことがあります。先生は話が非常にうまいものですから、高座に立たれてお話をなさると、お年寄りの多い聴衆が涙を流し、泣き乍ら念仏をとなえ山本先生を拝む。山本先生は、その後亡くなられました。後でその死が自殺であったと聞きまして、どうしてあの先生がそういう死を選ばれたのか、先生へのなつかしさや、辛い思いが今も消えません。

 東筑をめぐる思い出は、飛行機で博多へ行く時など、帆柱山や芦屋の海岸が見えてきますと、色んなことを想い出します。その頃は何処の地区からでも中学まで、随分歩いたもので、芦屋からも歩いての通学が多くて、その頃大体三、四十人位中学生がいましたが、三分の一が列車です。芦屋線という玩具のような軽便鉄道があり、遠賀川で九州本線に乗りかえる。三分の一が自転車通学、残りの三分の一が歩いて行く。三原朝雄会長などは、健脚派で、東筑迄八キロ位の距離を速歩競争のように毎日歩くほうでした。私は一年の時には列車通学をしましたが、「列車通学する奴は弱虫だ。」といわれるものですから、二年から自転車にしました。芦屋から折尾へ、途中峠があって、一番高い峠からずうっと下りになるんですが、そこをペダルひとつ踏まないで、まっしぐらに直滑降で自転車は走る。非常に爽快でした。左手に大きな池があり、よくあの池に落ち込まなかったものだと思います。三年になったら今度は歩いてみました。相当距離があります。途中の峠に茶屋がありまして、ハラがへるものだからそこでラムネを飲んだり、1個5銭のパンを食ったりしたら、ある時、思いがけ無く、親父に大目玉を喰ったことがあります。東筑の体操の先生が、突然私の家へやって来て、「お宅の徳郎君が不良仲間に入っている。毎日、学校の帰りに峠の茶屋にトグロを巻いて、通りかかる折尾高女の女学生を、大根足だなどとひやかしている。注意してやって下さい。」これで両親は、私に小遣いをくれなくなったので、パンも食えなくなるし非常に困りました。
 そんなこともありましたが、とにかく毎日歩いたことは非常に身体のために良かったと思います。玄界灘から吹く風は冷たくて、その中を剣道具を担いで友達と競争で学校へ急いだ、それもなつかしい思い出です。

 こんな話をしだすと切りがありません。今日の題は川筋気質について、ですので、それについて話したいと思います。
 私共のようなマスコミ関係の仕事をしておりますと、全国あちこち走り回ったり、又転任などもあり、その土地の気風というものを感じることがあります。 旧制の佐賀高校は、文科に数学の試験がなかった。私もそうでしたが、全国から数学の不得手な連中が集まりました。一方、理科の方には漢文の試験がなく、これまた漢文がニガ手の連中が集まって、雑種が沢山集まった面白さがありました。 各地から集まった学生の性質を見ますと、自ずから違いがあるように思われました。長崎から来た連中は、港まちのせいか、社交的で明るい。ただし、女性に関して、たまたま問題を起こすのがいる。まあまあ女性にもてるんです。熊本はもっこすが多くて、つむじをまげられると始末がわるい。しかしひとくせあって面白い連中がいました。鹿児島は男っぽくて、応援団長はたいてい鹿児島でした。宮崎は天孫降臨の地だけあって、のんびりしている。寮でごろっとしていて、哲学の本なんか読んで悠然としている。大分になると、これが又気が短い。応援団のリーダー格です。
 福岡出身は、九州の中では、文明開化的なんですが、これまた血の気が多い。 概して九州人は淡泊で気が短い傾向があります。ことに遠賀川 一帯の川筋にそれが強いようです。弱い者への思いやりがあって、人に頼まれると嫌とは言わない。 自分が損をしてでも面倒をみてやる。名利や金銭に淡泊で、男の約束を重んじる。 そして正義感が強い。 まがったことは嫌い、こうしたよい点を持っています。しかし一方で気が短い。 「えー、ぐらぐらした」とか「ハラをたてると「たたっ殺すぞ」とくる。 わたしなども子供のころから「たたっ殺すぞ」とよくいったもので、後から考えてみると、随分荒っぽいことを言ったものです。文学作品をみまても、『無法松の一生』の竹を割ったような性格の無法松。 火野葦平の『花と龍』に出てくる任侠の男たち。 男らしいというか、愛すべき人間像です。
 しかし九州人全般に通じていえることですが、直情怪行すぎて、また単純で粘りが一つ足りないために随分損をしていると思われる節があります。
 私の親戚で、東大の法学部を出て、ある全国的な企業に入って課長をしていた人がおりました。頭も良いし、この人は将来この企業を背負って立つ人物になるだろうとおもっていたのですが、ある時社長と意見が合わず、辞表を出しサッサと国に帰ってしまった。今、、九州で別の会社に勤めていますが、辞め方がまことにアッサリしていて、だれにも相談せず辞表をたたきつけたわけです。潔いといえば潔いのですが、しかし辞めないでもう少しねばっていたらと、残念に思われます。
この社長は、ワンマンで人を人とも思わぬようなところがありましたから、腹の立つことはわかりますが、もう少し辛抱していれば、この社長は翌年死んでしまったんですから……。
 源氏鶏太の昔の小説によくあるんですが、社長や幹部の非をなじり、横っ面を張り倒し、辞表をたたきつけてさっさと会社を去ると言った人物が出てまいります。そういう直情怪行の進退が九州人、そして川筋あたりに、強くあります。そこへ行くと、関西の人などは、粘りがあるというか、損になることを急いでやらず、じっと待っていますね。「あの社長は、威張ったり、おれを苛めたり、いやな人間だが、なあに永いことあらへん。もうおトシだからそのうち先に死による」といった具合に、じっと待っている。九州人のように社長相手にケンカして玉砕などはしない。大宅壮一がかって大阪の商人を華僑になぞらえて、阪僑という名前をけましたが、なかなかのしぶとさ、粘りを持っています。単純で向こう気の強い九州人などを焚き付けて、「あの社長は悪い奴や。こんなこともしている。あんたのような正義の士が、立ち上がってくれんと、どもならんのや」などとおだてあげて、九州人がバーンと一発、社長を殴って会社を辞めれば、これでライバルがひとりいなくなったという風に、算盤をはじかれているかもわかりません。
 もうひとり、私の知人で長崎高商を出て、これも大企業の役員になった人ですが、社長派と会長派の争いがあって、彼は子会社へ出されることになった。子会社といっても、かなりの会社ですから、そこへ行って仕事をすればいいのに、彼は怒った。会社のためにこれだけ働いてきたんだ、自分の貢献も高いと自負があったもんですから、「おれを子会社へゆけとは何だ」と、開き直って、社長の前で演説をぶって、これ又辞表を叩きつけて辞めてしまった。その後、自分で商売始めたのですが、うまく行かない。
 この二つの例、ともに能力あり、人間としても気持のいい人だけに惜しい気が致します。男らしさや淡自さは、確かに人間の美徳です。この人達は愛すべき人で、親しみを感しるのですが、現代のように複雑な世の中では、損をすることが多い。 又、アッサリと辞めたりして人間関係を断ってしまう、どうもあっけない。もっといろんな手を打ち、あれこれねばって初志を貫徹する生き方もあるんじやないか、と残念に思われます。人間関係を残し、粘り強くやっていかないと大成しない。徳川家康流ですね。 こういうことをいう私も川筋っ子でして、振返ってみると危ない橋を何回も渡っています。

 戦争中、私は丁度働き盛りだったもんですから、新間社の特派員、報道班員を次々に命じられて、四回従軍しました。戦争が終った時、九州の特攻基地にいて、敗戦後二週間ばかりして東京へ帰ってみました所、東京の様子がすっかり変っているのです。新間社の中にも、早速、英会話とダンスの練習を始めているようなのがいる。そして、私を待っていた仕事というと、いきなりデスクに、「君、何とかして、B-29に乗ってくれ。最新の科学の翼といった記事を書いてくれ。」と云われるんで、「冗談じやありません。あれは悪魔の翼ですよ。今迄そう書いていたのに、そんな賛えるようなもの書けません」と断ったんです。するとまた二、三日たって、「坂西志保さんが帰って来たから、あの人に聞いて、アメリカの民主主義をほめるような記事を書いてくれ」これも「気が向きません」と断る。敗戦後の虚脱感もあって、なにもかもバカバカしくうつろに思えました。
 マスコミに真実があるのかと考えこみ、この仕事が空しく、いやになった。今からでも遅ない。どこか医専にでも入って田舎の医者になって、腹の痛い人をなおすというようなことの方が、余程人間的じやないかと考えたりして、私は辞表を出して-川筋気質ですね-さっさと九州へ帰ったことがあります。 家内の家が久留米だったものですから、久留米の医専を受げる積りで勉強をはじめましたが、何しろ数学が嫌いで佐高に行った男ですから、数学の勉強となると頭が痛い。そして、困ったことに、半月も経つと職場の夢を見るんですね。新間社で仕事している夢を毎晩みる。これはいかんと、だいぶぐらついているところへ兄がやって来て、「お前、早まったことをしたな。これから先、マスコミが本当のマスコミになる。戦時下の圧迫から脱して、自由な報道活動も出来るという時に、お前は小乗的な反抗で辞めてしまったな。もっと大乗的な見方が欲しかったな。」 成程そうだった、俺の反抗は非常に感情的で小乗的だったという気がしてまいりました。
 しまった、と後悔の念も湧いて来たのですが、今更戻るわけにも行かない。すると親類の人で福岡日日新間-今の西日本新間ですが-そこに私に来ないかという話があるから、新間社は変るけど福日へ行ったらどうだ、編集局長が会ってくれるからというので、私は福岡へ出向いたわけです。福日なら立派な新間ですから、まあここで出直そうと気をとり直して福日へ行く途中、-こういう時に運命の別れ目みたいなものがあります。-博多の呉服町に朝日新間の支局があります。お別れにとちょっと寄りました。これでさよならだと立とうとした所へ、当時、朝日の常務をしていた白川威海さんという方が東京から飛行機でやって来ました。私の顔を見るなり、「おい、入江君どうした。」と云われる。「実は辞表を出しまして、これこれで、これから福岡日日に入ろうとしていますので、お別れにと思ってやって来ました。」白川さんはカラカラと笑って「どうせ、そういうことになるだろうと思っていた。君の出した辞表が私の所へ回って来たから、握りつぶして机の抽出しに放り込んである。まだ辞令は全然出していない。君が新間に戻って来る気があるならすぐ朝日に戻って来い。啖呵を切って辞めたそうだから東京には帰りにくいだろう。大阪本社へ転任の辞今を出してやるから、大阪へ行って働きなさい。六年位経って、ほとばりがさめたら東京へ呼び返してやる。」有難い先輩もいるものです。それまで言葉を交したこともない白川さんのお陰で助かった。
 その時に福日へ行っておれば、どうなったか。そっちの方でもっと出世したかも知れませんが、ともかく人間の運命なんて判らないものです。こんな其合に私も辞表を早く出しすぎたひとりでもあるわけです。幸いなことに、救ってくれた人があったのですが、恐らく皆さん方多数の方の中に、一本気な川筋気質の傾向を、心の中に持つ人が殊に若い方の中に多いんじやないかと思います。
 川筋気質とはよい気質なんですけれど、それにもうひとつ粘着力というコンクリートが欲しいと思います。粘りで補強すると、川筋精神の良さが瞬発的、花火的でなく、持続性をもって発揮されるわけで、三原会長などはそういうことをやっておられる方だと思います。政治の世界というのは、そんな利害の調整もやらなければならない。人との交渉、説得、すぐ腹をたてていたり、短気、とてもやれることではない。皆の言い分を間き乍ら、自分の腹の虫を押えて、しわしわと調和を図って行くといった仕事を、三原さんは実に上手くやっておられる、さすが人物だと敬服いたします。
 お互いに川筋気質の持つ良さと、その弱点とを考えて、これから先の処世の上にそれを役立てて、ねばり強く大成をめざしたいものです。
ご拝聴、ありがとうございました。                (57.10.9 東京東筑会総会特別講演)

一本松と私 / 東筑高校教諭 田代 進

 一本松は邪魔だ」なんて言おうものなら「何にィ!」と卒業生諸氏の一喝は必定。
復員して間もない昭和二十年十月、縁あって東筑中学校体育教師として奉職した。驚いた。グラウンドのど真ん中に松の木が一本そびえている。 何のためにあるのか?特別な風情はない。何となく脾睨しているようにも思われる。校長訓話(その頃藤崎舞蔵先生)をはじめ同窓会長さんの挨拶にしろ、よく一本松精神が強調された。東筑卒業でない私(鞍中卒)にとっては、よく理解できない。それよりもグラウンドの授業、クラブ活動では何をするにも邪魔。 野球、サッカー然り、ラグビーでタックルを避けようとして激突、ケガした生徒がでるに至っては、怒りがこみあげた。断固「一本松を切るべし」と校長に申し入れた。幾人かの先生方にも頼んだ。誰にもとり上げてもらえなかった。卒業生の野添さん(現東筑会幹事長)と激論したのもこの頃。逆に一本松こそ東筑の象徴であると論され、「今にわかる」と問題にされなかった。あきらめざるを得なかった。
 それでは、一本松を生かすべく考えなければと思った。単に運動会の折、八方に張る万国旗の支柱としてだげでは芸がない。危険防止には幹に蓆を巻いた。一本松を目標に走らせた。登らせたまま反省もさせた。ロープを吊してクライミングの体力づくりから吊輪演技にと……。しかし結局のところ、たいした活用はできなかった。実用的には矢張りマイナスの方が大きかった。

 そうこうするうち幾年か経った。朝夕一本松を眺めているうち、なんとなく愛着が湧いてきた。なくてはならないものに思えてきたから不思議なものだ。質実剛健、不撓不屈、進取の気性の東筑魂、脈々と続いた先輩から後輩への東筑ファミリーの連帯感は、この一本松に凝縮され、まさにわが東筑のシンボルである。この地に移転の明治35年以来、風雪に耐え明治、大正、昭和の戦前戦中戦後と東筑の歴史を見守ってきた一本松こそ東筑健児の毅然たる立ち姿であり、心のよりどころ、守護神とも見えてきた。
一本松に恥じない教育とは何か、一本松精神を継承させるぺくいかにするか。一本松に祈願して競技会にも出場した。
 その一本松は今はない。よる年波に勝てず32年11月に切り倒された。おごそかに鎮魂式を挙行、涙がでた。その前、切るか残すかで学校世論に問うた。大多数が「残すべし」としたが既に枯れた大本は危険防止から止むを得なかった。二代目一本松が国旗掲揚柱横に植えられたが育たず、三代目を玄関そばにと願いをこめたが、これまた続かず、そして校地周辺の三百本に余る松林も、ことくどく松喰い虫の害で伐採されてしまった。
 時代の推移から質実剛健の伝統は一本松消減と共に近代化、今は文武両立の教育方針のもと東筑男女生徒は新校風樹立に努めている。 文は学力の飛躍的進歩を続げ、武は単に体育、スポーツのみならず人間的な大きさ、巾、強さを求め、本当のやさしさをもった風格?を志向している。東筑奉職以来39年目を迦え、厳しさを身上とした指導は、必ずしも今の生徒諸君に容易に理解されないもどかしさを感じたりする。しかし長年に亘り好きな体操を腹一杯させていただいたことに感謝を捧げながら「若き日に返らむことは思うまい、若き日に今を加えよ」と歌った啄木に想いを馳せる。
 そして玄関わきに安置されている一本松の根っこを眺めつつ、停年退職最後の年となった現在、老骨に鞭うたねばと思う今日此の頃である。 合掌

東筑の思い出 / 雨宮美知恵 (68期)

 高校時代の思い出?卒業して何年?両の指で足りない。随分年を重ねたものです。こうしてあの頃の事を何か書かなくては……と思うと、とても懐かしい過ぎ去りし目々。東京在住七年目。東京と言っても西のはずれ、私の実家の在る九州の三ケ森と少し似ている。山が見えて田畑もあって……でもやっばり違ってる。
 三ケ森がいいな。筑豊電鉄、三年間通った電車、ガタゴト横揺れ、乗り換えして析尾まで、いつも満員、ドアー付近で押し込まれて、そのままの状態。重いカバンが人と人の間で浮いていたっけ、ズッシリとしたあのカパンの重み。くすんだ析尾の町、国鉄の駅舎、男子の学生服、一目で東筑と分かる白い三本線の学生帽子。女子のセーラー服。なぜか、冬の季節ばかりが思い出に去来する。一年生、二年生の時の木造の校舎、節穴だらけの教室、旧い方の体有館。そして図書館。あちこち教室移動して……三年生になって、やっと鉄筋の校舎へ。女子だけのクラス。気楽で良かったな。
 仲良しのひとりが一昨年、やっと嫁ぎ、めでたしめでたし。三月には一児の母、殆んど二児か三児の母になってるんだろうな。かく言う私も二人の子持。 至極真面目で、おとなしく、自立たない三年間の学生生活。時々、所属していた生物クラブに顔を出し、放謀後の時間をもてあまし気味にダベリング。生物クラブでの色々な行事。夏のキャンブ、初めての九重登山、暑くて喉が乾いて、がじったレモンのすっばさ。ガンバレ、ガンバレ、頂上目指してあと少し。アー、もう嫌だ、頂上なんて、山なんて、二度と登らない、登れない。そんな気持の後の爽快感、だから忘れられない。 それから、秋の文化祭に採集。積極的にクラブ活動した記憶はないけれど入部していて良かったな。
あの頃から十五年も経って、現在、四歳と六歳のおしゃまな娘の母親業。四月には幼椎園と小学校に、やっと、ひとりの時間が持てます。そして、これから何をやろうかと考えて、昔、勉強したかったデザイン。これは供給の方が多くて余り気味。ましてこんなおばさんでは無理ですね。主婦の趣味程度でおわり。趣味としては油絵と活け花を、そしてPTAや会合へ出かけて一週間、結構忙しくスケジュール埋まってしまいます。 私達位の年代が集まって話すことと言ったら、又決まってるんですよね。親になってみて、親の気持が良く分かる。自分の子供を見ていてつくづくそう思う。
 今この東京で生活している。三ヶ森での生活はもう戻らない。束の間の里帰りで私自身が子供でいられる。父がいる、母がいる、いつまで甘えられるかな。母親としての自覚が足りないのか。両親は会う度に老いている。私も年を重ねている。フッと琳しくなってしまう。この町田に根を張らなくてはいけない。娘達のためにも、今、私が三ケ森を恋しく思う様に、娘達は何十年か先に母親になった時、東京の西のはずれの町田を、そして私を、故郷として懐しむ。これ人生のサイクルなんですね。心細くて頼りない母親。三十を越えてしまって、十代の若かりしあの頃にはかえれない。お弁当食べながらよく話していたっけ。十年先の事を、「私はこうして技術を身につげて働き続ける。」「私は早く結婚して落ち着きたい。」「私は……」夢見て、理想を描いて、今、これが現実。心残りもあるけれど、これで納得。今からだって遅くない。今更なんて考えない。やりたい事は何でもやれる周囲の環境、感謝です。
 「起、承、転、結」考えなし。想い出綴りではないけれど、子供が寝静まった私ひとりの貴重な時間。しみじみと記憶の中に浸って、素敵な時を過ごせました。電話ばかりで、久しく手紙も書かないのに、今回、これは私にとって大作です。鉛筆ダコが気になります。原稿用紙五枚なんて、専業主婦の私には至難の技。現在、東筑校舎は冷暖房完備ときく。卒業して以来、足を入れた事はない。周囲をスーッと車で半周している位。体青祭を催した校庭、運動場、月曜日の朝礼、よく遅刻してかけてった。あの頃の先生方も、もう殆んどいらっしゃらないらしい。
そうだ、今度九州へ行った折には、友達誘ってみんなの子供達も引き連れて訪れてみよう。これが、お母さん達が勉強してきた学校ですよ。

編集後記

 若き日に想いを馳せつつ、この会報を懐かしくお読みいただいたであろう同窓諸賢に、編集に携わった一同から、創刊までの経緯等をご報告申し上げ、楽しかった私達の任務を終わらせていただきたい。
 会報の発行については、かねてから事務局等に多くのご要望が寄せられていたが、昨年十月の総会の際、役員会が開かれ「東京東筑会報」の発刊が決定された。そして、事務局の協力で、直ちに各期に亘編集委員が選ばれ、その任に当たることとなった。ゼロからの出発。 しかしそれ故に、委員一同は最善のものを創ろうと、秋十月から春四月まで半年間(十数回)夕刻から集まり、原稿、広告依頼に始まり、編集、校正に至るまで懸命の努力を重ね、無事に愛児(創刊号)の出産をみることができた。
 この間、毎回の会議場をご手配いただいた三原会長(一同のため、一夜、大量の牛肉で自らスキヤキを作り、激励して下さったこともある。有り難きかな先輩)、多くのアドバイスを賜った鴛海、白石両副会長、誌面を飾る玉稿をいただいた方々、広告、協賛をいただき、発刊のための経済面を支えて下さった方には、心からお礼申し上げたい。さらに母なる地、地元九州の徳永会長をはじめとする同窓の方々のご協力には、ただただ感謝あるのみである。限られた字数では、一同の万感をお伝えすることは出来ないが、今後二号からそして三号へと、よりよい会報が永遠に続くことを願ってやまない。
最後に編集委員の名前・期別を記す。
田口、佐藤(48)、森田(58)、末森、今井(三原)、山保(上野)(59)、青野(61)、安永(67)、小御門(68)

 

創刊号

(1983年 昭和58年 4月)

k01