第14回 〔G20時代の資産運用〕 徳成旨亮(76期:三菱UFJ フィナンシャルグループ執行役員)
日 時: 2011年2月2日 19:00~
場 所: 東京国際フォーラム G403
講 演: 徳成旨亮 氏(76期)
演 題: [G20時代の資産運用]
徳成旨亮(とくなり むねあき)氏略歴:
1960年 小倉市(現・北九州市小倉北区)生まれ。明治学園小学校、岡垣中学校を経て、
1978年 東筑高校卒(76期)
1982年 慶應義塾大学卒
同年三菱信託銀行入社
ロンドン支店、営業第一部等を経て、
2005年 三菱UFJ信託銀行フロンティア戦略企画部長
2007年 三菱UFJフィナンシャルグループ財務企画部長
2009年 同社執行役員
現在 同社執行役員兼三菱UFJ信託銀行執行役員経営企画部長
(財)証券アナリスト協会検定会員、FP1級技能士(国家資格)




第13回 〔川崎市について〕 小田広昭(73期:川崎市副市長)
日 時: 2010年8月4日 19:00~
場 所: 東京国際フォーラム G504
講 演: 小田 広昭 氏 (73期) 川崎市副市長
演 題: [川崎市について]
小田広昭氏略歴: 東筑高校73期。
1982年 九州大学大学院修士課程修了後、建設省(当時)に入省。
国土交通省住環境整備室長などを経て、内閣官房地域活性化統合事務局参事官。
2009年7月 川崎市副市長に就任。




第12回 〔東筑高校校歌について…その作詞は誰か…〕
日 時: 2010年2月3日 19:00~
場 所: 東京国際フォーラム G504
講 演: 千々和久幸(53期)、佐野和範(71期)、姥浦浩子(72期)
演 題: [東筑高校校歌について…その作詞は誰か…]

参考資料 ①東筑高校校歌論考(佐野)→CLICK!
②折口信夫15高校校歌 →CLICK!
③折口信夫の昭和27年5月~10月の状況→CLICK!
第11回 〔労働基準法の基礎知識〕 伊津野信之(72期:厚生労働省労働基準局中央賃金指導官)
日 時: 2009年10月7日 19:30~
場 所: 東京国際フォーラム G504
講 演: 伊津野信之氏(72期:厚生労働省労働基準局勤労者生活部勤労生活課副主任中央賃金指導官)
演 題: [労働基準法の基礎知識]
伊津野信之氏 略歴:
北九州市立大学法学部法律学科卒業
昭和57年10月 労働省入省
平成17年10月 厚生労働省富山労働局総務部長
平成19年 4月 厚生労働省埼玉労働局労働基準部長
平成20年 4月 現職




「労働基準法の基礎知識」というやや硬い演目の講演でしたが、労働基準監督署の役割や民法の雇用契約と労働基準法の関係を簡単なモデルで非常に判り易く説明されました。
監督署勤務の時代に窓口業務で様々な問題を取り扱った実務経験が言外に伺えるお話で、予定時間があっという間に過ぎてしまったと思います。(HP管理人)
← 全国27箇所の監督署勤務を通じて、伊津野さんが製作監修された『労働条件管理ハンドブック』(埼玉労働局編)。
我々もこのハンドブックにはお世話になっていますが、伊津野さんの作られたものとは、初めて知りました。


第10回 〔9.11 あのとき、あの場所で〕 池田裕一郎(70期)
日 時: 2009年6月3日(水) 午後7時30分~
会 場: 東京国際フォーラム G504号
講 演: 池田裕一郎 氏 (70期)
演 題: [9.11 あのとき、あの場所で]


[9.11 あのとき、あの場所で]抄録 (東京東筑会第27号から転載)
9月10日、帰宅してくつろぎながら本を読んでいると、机の上に置いてあった砂時計が、触りもしないのに突然壊れた。やれやれ。机も床も砂だらけである。後になって考えてみれば、それはその翌日にニューヨークが粉塵にまみれる前兆だったのである。
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池田さんは、元第一勧業銀行国際資金為替部ニューヨーク資金室長。77年に第一勧業銀行
に入社し、96年からニューヨークに赴任、2001年4月に家族を帰国させてからは単身
赴任生活。そして2001年9月に、世界貿易センタービルでテロの被害に遭われました。
この原稿は、「東筑フォーラム」で池田さんに話していただいた貴重な体験談をもとに、
編集部がその一部を文章化したものです。
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第一勧業銀行、富士銀行、日本興業銀行の統合を翌年に控えていた当時、所属していた国際資金為替部はワールドトレーディングセンターのノースタワー50階で、早くもその準備に追われていた。一週間前には、ディーリングルームも完成したところだ。朝は部下から東京マーケットとロンドンマーケットの報告を受けることになっていたが、ちょうど部下が私のところに歩いて来ているときだった。
ドーンという音がしてビルが揺れた。
いまの音は何だったのだろうかと思っているとき、窓の外を書類のようなものが燃えながら落ちていった。「観光用のヘリコプターがビルに接触でもしたか‥・?」そのときは、それくらいしか想像できなかった。当然である。そのとき起こったことを、いったい誰が想像し得ただろうか。
間もなく階段で避難するように指示があった。やれやれ。非常階段を降りようとすると誰かが言った。
「ちょっと長くなるかも知れないから、財布を持って降りた方がいいですよ」
それもそうだ。まさかもう二度とオフィスに戻れないなどとは夢にも思わなかったが、財布やパスポートなどを取り出して、再び非常階段に向かった。人々が、ゆっくりと下へ降りていく。列を乱す者はおらず、整然としたものである。皆は普段通りに会話をし、冗談も飛んだ。
「何日か前、日本の歌舞伎町じゃ、雑居ビルで火事があって、逃げ遅れた人がいたそうだな…‥」
自分たちも生きるか死ぬかという状況にあるとは知らず、呑気なものである。だいぶん降りたが、出口はまだまだ遠い。こういうときに高層ビルとは不便なものだ。途中、泣きわめいて駆け下りていく女性がいた。
「いったい何が起こったんだ?」
誰かが消防士に聞いていたが、消防士はしっかりと口を結んだまま上へ上へと進んで行った。やがてその勇敢な姿は、一生忘れることができないものとなる。この頃すでに、猛火がビル上階のオフィスと多くの人々の命を呑み込んでいたのだ。
50階も降りたのだから、かなりの時間がかかった。やっと一階に着くと、そこはなぜかスプリンクラーによって水浸しになっている。警察が「走れつ」と叫んだが、走られたものではない。仕方なく靴を濡らしながら進むと、出口でも警察が叫んでいる。
「振り向かずに走れー・」
それは、振り向けと言っているのと同じである。振り返って見上げると、旅客機の尾翼らしきものがビルに突き刺さっているのが見えた。とんでもない事故が、いまここで起こっているのだと震えた。皆はパニック状態になり、怯えながら一目散に走り始めた。異常に背の高いそのビルは、逃げても逃げても自分たちを追いかけるように倒れてくると思ったのだ。
やがて、誇らしげに空を貫いていたサウスタワーが轟音とともに崩れ落ちる。それはあっという間のことで、ビルが崩壊する際に噴き出した粉塵を逃げながら被った。つい先程まで働いていたノースタワーが崩壊したのは、その29分後。避難場所を求めて歩いているとき、道行く人からこれがテロだと知らされ再び震撼した。
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>>>午前8時46分
世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟が、アメリカン航空11便(ボストン発ロサン
ゼルス行き・ボーイング767・乗客81名、乗員11名)の突入を受けて爆発炎上。この
時点では、テロではなく単なる航空機事故だと思われていた。
>>>午前9時3分
続いて、世界貿易センタービル・ツインタワーの南棟がユナイテッド航空175便(ボスト
ン発ロサンゼルス行き・ボーイング767・乗客56名、乗員9名)の突入によって爆発炎
上。二機目の激突の様子は、すぐさま世界中のメディアでテロとして報じられた。
>>>午前9時59分
後から突入を受けた世界貿易センタービル・ツインタワー南棟が先に崩壊。ツインタワーは、
ジェット旅客機が衝突しても崩壊しないように設計されていた。しかし、出発して間もない
旅客機には大量のジェット燃料が積まれていたため、爆発的な火災が起こり、その熟によっ
て鉄骨が強度を失ったのだ。
>>>午前10時28分
世界貿易センタービル・ツインタワー北棟が崩壊。さらにこれらの影響で敷地内の他のピル
も炎上・崩壊し、約八時間後には世界貿易センター7号棟も崩壊。約3000人が死亡するとい
う大惨事になった。
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炎上するビルから、逃げ場を失って絶望した人々が、熱と煙に追われるように次々と飛び降りたが、それを見なかったのは幸いである。別の出口から脱出してそれを目の当たりにした人たちは、そのショックでトラウマになり、みんな会社を辞めてしまったのだ。
あの日の夕方に日本興業銀行のオフィスにたどり着くまで、8時間くらいさまよい歩いたことになる。日本に連絡した方がいいと携帯電話を貸してくれる人がいたが、つながらず、家族や会社に連絡することは出来なかった。事件がほぼリアルタイムで報道されていた日本では、家族が最悪の事態を覚悟していたと後で知った。
同じ場所で働いていた数え切れない人々が亡くなり、その中には前日の帰宅前に酒を飲みながら打ち合わせをした知人や、午後に合う約束をしていた大学の後輩もいる。ニューヨーク出張のときは、どんなにスケジュールがタイトでも必ずグランドゼロに足を運び、花を手向ける。また、亡くなった消防士たちの家族のための募金を行うことを欠かさない。アメリカの消防士たちは、あまりにも勇敢であった。
あの日以来、やはり人生観が変わった。
それまでは、仕事第一だったが、家族のことも大事にするようになった。先祖に対する考え方も変わり、年に二回は必ず墓参りに帰ることにしている。人間、いつ死ぬかわからない。だから、その日その日を全力投球で生きなければならない。
そんな思いが、いつも胸にある。

第9回 〔格差と平等について〕 長畑寛昭(48期)
日 時: 2007年12月5日(水) 午後7時30分~
会 場: 東京国際フォーラム G607号
講 演: 長畑 寛昭 氏 (48期)
演 題: [格差と平等]



第8回 [会計検査院と私] 志田和也(52期:元 会計検査院第二局長)
日 時: 2007年2月7日(水) 午後7時30分~
会 場: 東京国際フォーラム G507号
講 演: 志田和也 氏(52期)
演 題: [会計検査院と私]
志田和也氏 略暦: 北朝鮮新義州生れ、本籍 佐賀県
芦屋中、東筑高校、九州大学経済学部卒
昭和33年 会計検査院、平成元年退官(会計検査院第二局長)
平成元年 財団法人住宅改良開発公社監事
平成9年 埼玉県監査委員就任
平成17年 〃 退任(代表監査委員)
平成18年 秋叙勲 瑞宝中授賞






第7回 [ダイヤモンドあれこれ] 加茂睦和(58期:物質・材料研究機構 理事・理学博士)
日 時: 2006年6月7日(水) 午後7時30分~
会 場: 東京国際フォーラム G608号
講 演: 加茂 睦和 氏(58期) 独立行政法人 物質・材料研究機構 理事 理学博士
演 題: [ダイヤモンドあれこれ]
加茂 睦和 履歴・研究歴
1960.3 東筑高校卒業
1969.3 大学院博士課程修了(理学研究科化学専攻)
1969.4 科学技術庁 無機材質研究所(1966年創立)
東京本駒込→つくば (1972.3)
1969.7~1974.3 炭素の研究
1974.4~1998.2 ダイヤモンドの研究
1998.2~2001.3 総括無機材質研究官
2001.4 独立行政法人 物質・材料研究機構 理事
2004.12 退官→名誉顧問就任






第6回 [気象衛星「ひまわり」の話] 中村和信(64期:気象庁気象衛星センター所長)
日 時: 2005年12月7日(水) 午後7時30分~
会 場: 東京国際フォーラム G608号
講 演: 中村和信 氏 (64期) 気象庁気象衛星センター所長
演 題: 気象衛星「ひまわり」の話






第5回 [日本と海洋法] 深町公信(72期: 熊本大学法学部 国際法教授)
日 時: 2004年8月4日(水) 午後7時15分~午後8時20分
会 場: 東京国際フォーラム
講 演: 深町公信 (72期) 熊本大学法学部教授 (国際法)
演 題: [日本と海洋法]
200海里、尖閣諸島、特定船舶入港禁止法案等、最近のニュース等も交えて。

深町公信(ふかまち・きみのぶ)法学修士
大陸棚、深海底など、海底に関する国際法制度の研究。
国際海峡、群島水域の制度の研究。
日本に関連する海洋法の研究。
熊本大学法文学部法学科卒
九州大学大学院法学研究科博士課程修了
2004年4月 関東学園大学法学部から熊本大学法学部教授に就任。
第4回 大野徹也(70期)手嶋眞佐子(87期) ニューイヤー・ジョイントリサイタル
日 時: 2004年1月11日(日)
開 場: 午後1時
邦楽演奏: 午後1時30分
開 演: 午後2時
会 場: 四谷区民ホール
出 演: 大野徹也(70期)=テノール、手嶋眞佐子(87期)=メゾソプラノ、アルト
ピアノ=服部容子 二期会プロフェッショナルコースピアニスト、
東京藝術大学大学院、東京音楽大学声楽演奏家コース・大学院、各非常勤講師。
邦楽演奏: 三原桃(99期)と東京藝術大学音楽部邦楽科の皆さん

※※コンサートの特集ページを組みました。こちらへ→CLICK!
第3回 [北九州市のプロジェクトと産業育成について〕 北九州市東京事務所
日 時: 2003年8月6日(火) 午後7時15分~午後8時20分
会 場: 東京国際フォーラム G 403 会議室
講 演: 廉屋則夫氏(北九州市東京事務所長) アシスタント=吉田文雄(78期)
演題: 『北九州市のプロジェクトと産業育成について』






北九州市東京事務所から御提供された資料 画像をクリックすると拡大画像が展開します。




第2回 〔元気もりもり健康教室〕 香山不二雄(70期:自治医科大学保健科学講座主任教授)
日 時: 2003年4月8日(火) 午後7時15分~午後8時20分
会 場: 東京国際フォーラム E004 会議室
講 演: 香山不二雄(70期) 自治医科大学保健科学講座 主任教授
演 題: [ 元気もりもり健康教室 ]
略歴:昭和52年 九州大学農学部卒業
昭和59年 産業医科大学医学部卒業
昭和59年 同衛生学助手
平成3年~5年 米国国立環境研究所留学(NIH/NIEHS)
平成8年 自治医科大学衛生学助教授
平成11年 自治医科大学保健科学講座環境免疫学・毒性学部門教授






[元気もりもり健康教室]抄録
環境ホルモンとからだの関係
私は現在、環境ホルモンの研究に取り組んでいます。これについてはメディアなどで危機感をあおるような話ばかり先行していますが、実際はわかっていないことが多く、研究を続けねばならない課題です。
例えば、大豆に含まれているイソフラボンなどは、弱いながらも女性ホルモン作用があります。しかし、これも長年われわれが食べてきたものであるから、その点も踏まえて健康への影響を評価しなければなりません。しかも、欧米に比べて日本人に前立腺がんや乳がんが少ないのは、日本人が女性ホルモン作用のある大豆食品をたくさん食べているためではないか、といわれています。
こうした現象と環境ホルモンとの関係はどうなのか、また、さんざん悪いといわれているダイオキシンをはじめ、化学物質との相互作用はどうか、ということを主体に研究しています。ダイオキシンやPCBは、魚などを通して体内に蓄積されます。これは、母親に直接の影響は出ませんが、胎児、あるいは乳児の発育過程に移行することが、一番問題ではないかといわれています。
さらに、戦後の日本人男性は、身体は大型化していますが、精巣は小さくなっているという調査結果があります。デンマークの研究者からは、精子が半減しているのではないかという報告もあり、心配な現象であるといえます。ただダイオキシン曝露については、徐々に減る傾向にあることがわかってきています。これは発生源対策、つまり廃棄物処理、リサイクルの動きが盛んになってきているからです。
生活習慣病とはなにか
さて、このフォーラムでは、生活習慣病への対応という観点から、健康に役立つ話をしたいと思います。30代以上の方々になると<生活習慣病については、一つや二つ、黄信号があるのではないでしょうか。
私もこの歳で初めて人間ドックを受けましたが、そこで尿酸値が高いと出ました。肥満、高中性脂肪血症、高尿酸血症、高血圧、糖尿病、がんなど、これらすべてが生活習慣病といわれています。
中には遺伝的要素もありますが、その発症の度合は、食習慣や運動でずいぶんと変わってくるものです。そもそも壮年層になると、仕事も多忙を極めているし、特に都市部で働く人は遠距離通勤があたりまえです。となると、運動不足、というよりも運動する時間すらない。だから、肥満になりやすい。
また、いたずらにアルコールもとると、代謝の過程で発生する脂肪が余計に溜まっていき、脂肪肝から肝機能障害へとつながっていく。さらに、脂肪が血液中に増えていくと、高中性脂肪血症から動脆硬化、高血圧といった症状を引き起こすことになります。
例えば高尿酸血症の場合、酒の好きな人は、たんばく質の多い食品をとりがちです。たんばく質は核酸、つまりDNAのかたまりです。DNAを分解していくとプリン体という物質になり、これが尿酸に変わっていく。いわば細胞核の密度の高い食品が、高尿酸の原因になるわけです。その最たるものが白子。おいしいし、私も好きなのですが、これは精子のかたまりで、その一つひとつに遺伝情報の詰め込まれた核があります。これを一口で大量にとってしまうことになるわけです。
意外なのが、たまご、鶏卵です。これはコレステロールが高くて健康によくない、などといわれることがあります。ですが、鶏卵はどんなに大きくてもDNAは1ペアだけ。つまり、きわめて尿酸が少ない食品ということになります。この点は、認識していただきたいですね。
糖尿病の基礎知識
糖尿病は、遺伝的要因をもっている人に、環境の因子が重なることによって起きる病気です。したがって、おじいさん、おばあさんの代までの範囲に発病者が全くいなければ、糖尿病にかかる率は少ないわけですが、一人でもいると、可能性があります。
一方、環境因子としては、食べ過ぎ、肥満、運動不足、ストレスなどが挙げられます。もつとも、日本人の食生活は元来、とても健康的なものでした。食物繊維を多くとり、野菜もたくさん食べ、脂肪も低い。ただ胃がんが多かったのは事実で、これは塩分の摂取量が影響しているようです。ただ昨今、大腸がんが増えているのは、やはり食生活の欧米化で食物繊維が不足しがちになってきたためといえます。
さて糖尿病の症状ですが、体内にインシユュリンの分泌が足りなくなると、血糖が上がります。そのためにブドウ糖が血液中に増え、その毒性によって、さらにインシュリンが効きにくくなる。これが神経系統に悪影響を及ぼし、視力障害や末梢の壊痕を起こわけです。
糖尿病になると、自己管理がとても大事です。人間ドックなどで自身のデータを定期的にとり、把握していく。さらには糖尿病手帳をもって、血糖がどのように変わっていくか、見ていく。治療について、医者、ヘルストレーナーや栄養士から勉強していく。そうした自発的な対応が最も必要とされるのです。
デキる運動とストレス解消
こうなる以前に、糖尿病の予院をとうすべきか考えましょう。まずは、よく運動することが大事です。
最大心拍数の80%くらいを目指しましょう。60代だと120、70代だと110くらいが目安。時間的には30分くらい。これによって、心肺機能を高め、筋肉血管をしなやかにする、脂肪を燃やす、といった効用があります。
では、どんな運動がいいか。まずストレッチを5分間、有酸素運動を15分、その後に筋力トレーニング5分間、最後にストレッチ5分間、というメニューが理想です。関節や筋肉を柔らかくするために、ストレッチを必ずやる。有酸素運動とは、いわば軽い運動で、ジョギング、エアロビクス、水泳など、一人でできる軽いメニューが望ましいですね。最近では、高齢者向けエアロビクスのビデオも売っていますから、試してみるといいでしょう。
通勤時にバスに乗る区間を歩いたり、階段を歩いてのぼったりするのも有効です。
また、筋力トレーニングの利点は、インシュリンをあまり使わずにカロリーを燃焼できることです。
筋肉を動かすことで、血流量を上げ、基礎代謝がよくなる。これらが、食事療法だけでは到達できない、重要なポイントです。
ここまでは医学的な指摘ですが、実は生活習慣病を予防する上で、もっと大事なのは、ストレスの解消です。ストレスが覆い被さるからこそ、酒が増えたり、運動不足になったりもするのです。これを改善するには、家族と一緒に楽しく運動するのも一つですが、カラオケに行ったりするのもいいでしょう。アルコールも少量ならいいのですが、ついつい飲みすぎてしまう。これはよくないので、ある程度のところで、カラオケにでも行って発散したほうがいいですね。
それから、ショッピングがストレス解消法という人もいます。これも歩き回るという運動が加われば、なおいいのですが、財布の中が心配になると、いかがなものか(笑)。
いずれにしても、健康によさそうなストレス解消の選択肢を多くもっておくことが大事です。
医者と患者は対等の関係
最後に、医者の立場としての話をしますが、こうした生活習慣病にかかる患者に対して「あなたのライフスタイルが悪い」などと決めつけるのは、よくない医者ですね。きちんと相談者として対応し、お互い同じ肉体をもつ人間という視点から助言することが大事です。
もちろん、患者側としても、自分の病気に対する認識をいかに深めるかが大切です。ストレスにどう対処し、解消していくか。いうまでもなく、タバコが増えるとか、酒を飲みすぎるというのは悪い解消法で、自分の人生観の中で、健康な生活をどう組み立てていくかを考えなければなりません。そのための情報をわれわれは提供しないといけないわけです。生活習慣病は医者からもらう薬だけで治るものではないのですから、医者と患者の対等な信頼関係を築き、一緒になって取り組むことが大事だと思います。
ところが、健康診断の現場に行くと、まず医者と患者で座るイスが違う。患者は下着姿にさせされる。これは大きな間違いです。ちゃんと対面で話しながら、相談に乗るという姿勢。予防医学の実践とは、そういうものでないといけないと考えています。
第1回 仰木 彬(52期)さんと山下末則NTVアナ(64期)のトークショー

日 時: 2002年11月23日(土) 午後0時30分~午後1時30分
会 場: 東京全日空ホテル・バンケットホール「ギャラクシー」
講 演: 『わが監督業の足跡』 仰木 彬(52期)(聞き手)山下末則 NTVアナウンサー(64期)










次 第:
一、開会挨拶 フォーラム実行委員長 結城謙吾(70期)
一、講 演 仰木 彬 (52期) 山下末則 (64期)
一、記念品贈呈
一、閉会の辞 (司会)宇佐見京子(72期)
仰木 彬 先輩略歴
1935年
福岡県生まれ
1954年
東筑高卒業(52期)
西鉄入団
1968年
西鉄退団(14年間で通算1,328試合、打率.229、70本塁打、326打点)
1970年
近鉄のコーチに就任
1988年
近鉄の監督に昇格
1989年
近鉄をリーグ優勝に導く
1992年
近鉄を退団
1994年
オリックスの監督に就任
1995年
オリックスをリーグ優勝に導く
1996年
オリックスが日本一となる
2001年
オリックスを退団(監督通算13年で1,720試合926勝745敗49分)
第1回東筑フォーラム抄録
仰木彬 氏(52期:元近鉄・オリックス監督) 聞き手・山下末則氏(64期:日本テレビアナウンサー)
| 俺が監督のうちはダメ! | |
| 山下 | 仰木さんの監督としてのご活躍は、今ここで申し上げるまでもありませんが、日本一を達成されたのは、オリックス時代の1996 (平成8)年。日本シリーズの相手だった巨人は、1勝4敗とコテンパンにやられました。当時私は第2戦の実況を担当したのですが、その時も巨人は敗退。神戸に乗り込んでから2試合日の第5戦で、ついにオリックスは日本一を勝ち取ったのですが、その時、「長嶋監督には絶対に勝ちたい」と常々おっしゃっていた仰木さんが大変な喜びようだったのは、とても印象に残っています。 |
| 仰木 | 僕は日本シリーズに、全部で10回出場させていただきました。そのうち選手としての経験が5回ですが、あの時は三原監督のもと、稲尾、中西らがいて、昭和31年から三連覇。特に33年の時は3連敗の後、4連勝しましたが、当時、巨人のエースが藤田さんでした。すると、何かのめぐり合わせでしょうか、その約30年後、僕は近鉄の監督でしたが、日本シリーズで同じ巨人相手に、今度は3連勝の後、4連敗を喫しまして……。 |
| 山下 | しかも、その時、巨人の監督は藤田さんでしたね。 |
| 仰木 | そういう経緯があって、今度ばかりは、絶対に巨人には負けられないと。別に相手が長嶋監督だからということではなく、自分自身の雪辱をやらねばならん。そのチャンスは、もうこれが最後なんだと、そういう気持ちが強かったですね。 |
| 山下 | その日本一の監督になった当時、オリックスにはイチローがいました。一方、巨人では松井が日の出の勢いでした。イチロー対松井という、注目の対決が実現したシリーズでもあったわけです。その勝負を制して見事日本一に輝いた頃から、イチローはメジャーヘの夢を語り始めていたそうですね。 |
| 仰木 | 監督としては迂闊な話で、彼のメジャーに対する情熱がそれほど強いものであったとは、意識していなかった。そのようなことはFA権を取った後のことだろうと、のんきに構えていたわけです。だけど、今思えば、日本一を達成したのを契機に、彼としてはまた次の高い段階へ、という気持ちが強まっていったのは確かなようです。 |
| 山下 | それにしても、いかにポスティングシステムであったとはいえ、気持ちよくメジャーに送り出すというのは、監督の立場として大変つらいものがあったのではないかと思うのですが。 |
| 仰木 | そりやあ、つらかったですよ。なにしろイチローという選手は、チームはもとより球界を代表する存在で、抜けたら大変なことになるのはわかっています。でも、彼にも夢があり、折り合いをつけるのが難しかった。実際、彼から初めてそういう意志を聞かされた時「俺が監督をやっている間はダメだ」といったくらいです。 |
| 山下 | それでイチローは? |
| 仰木 | 最初の年はそれで引き下がりましたよ。ですが、その次の年になると、もう抑えきれない。居ても立ってもいられない気持ちになったのでしょう。僕も四、五回説得したが、どうにもならなかった。 しかも、その翌年にはFA権をとってしまうわけだから、球団側としては、先手をとって売ってしまえば、大変な金額が転がり込むし、十分な補強費になる。まあいかにも、あの球団らしい発想ですが(笑)。そんな思惑もあって、僕としても折れざるを得なかったわけですね。 |
| 「イチロー」を本人は嫌がった | |
| 山下 | イチローは、皆さんご存知のように、仰木さんが監督就任後、すい星のごとく登場しました。それまでは、ファーム暮らしが多かったのですが、そこにチャンスを与えた背景とは? |
| 仰木 | 彼は当初から独特の振り子打法でした。見た通り、線の細い選手ですから、タイミングの取り方でボールに強い衝撃を送ろうとする。それに彼も頑固な性格ですから、そういう志向が相容れない首脳陣だと、やはり反りが合わなかったのでしょう。私が就任した時は、彼も3年目で、ようやくセンスに体が追いついてきた時期だったといえます。その意味では、最も磯が熟していたわけで、彼にとっても、また僕にとってもラッキーだったと思いますね。 |
| 山下 | しかし、どんな企業でも、若い社員をいきなり第一線へ抜擢すると、いろんな軋轢が生じたりするものです。勇気のいることだと思うのですが。 |
| 仰木 | 僕は、そうは感じませんでした。野球は9回まであるわけで、その間にチャンスを与えて実際にプレーを見てみないと、わからないことがいろいろあります。僕が最初に見た限りでは、彼の問題点は体力面のみ。それぐらい凄いセンスと技術をもった選手でした。振り子といっても、ステップからインパクトまで、きっちり理にかなっているので、どんな角度にも打ち分けられる。しかも、足は速いし、肩は強いし、僕に酒もついでくれるし(笑)。おお、いい子だなと。今みたいに無精ひげを生やしたごつい顔じゃない、本当にかわいい子だったんですよね。 |
| 山下 | メジャーに行ってからのイチローに、技術面での変化は見られますか。 |
| 仰木 | 振り子ではなく、足をスライドさせてテイクバックをとるなど、とにかく向こうのスタイルへの適応能力は凄いものをもっていますね。だから、かっての僕自身、彼を登用することに躊躇はなかったんですよ。ただ、当時のオリックスは、とにかく話題性に欠けるチームだった。プロである以上、選手もいわば商品です。お客さんに球場へ来てもらい、声援してもらって初めて、プロとして成り立つわけです。イチローに関しては、技術的な面では、さほど手をかけることはなかった。むしろ、どうやって売り出すか、そちらのほうに頭を悩ませましたね。で、僕も一升や二升は飲みますから。昼の仕事で余力を残し、夜働くと(笑)。それは別として、遊び心が好きな類なので、彼のネーミングに関して、いろいろ考えをめぐらせたあげく、カタカナでどうだ、と持ちかけた。すると、最初、彼は嫌だと言ったんですよ。 |
| 賞品価値をどう高めるか | |
| 山下 | 嫌がったんですか?それは初めて聞きました。 |
| 仰木 | 後に「チチロー」で有名になりましたが、彼はお父さんに全幅の信頼を置いていて、子どもの頃から手取り足取り教えてもらっていた。そんな父親からもらった名前を変えるなんて嫌だというわけです。「いや、名前を変えるわけじゃない。登録名をカタカナにするだけだ」と諭しても承知しないので、よし、そういうことなら「チチロー」さんを説得しようと思いました。彼に会って、これからの息子さんの売り出し方に協力してくれとお願いしました。そうすると、僕以上に乗り気になって、そのアイデアは絶対に売れるというわけですよ。ただ、一人だけカタカナでは恥ずかしいな、というんですね。そこで今度は「パンチ」こと佐藤に相談したところ「あいつのためなら一肌脱ぎましょう」と。彼も、やはりイチローの才能を認めていましたから。それでイチロー、パンチと、二人一緒にカタカナで選手登録したわけです。 |
| 山下 | そういう味のある秘話があったとは、知りませんでした。しかし、考えてみると、鈴木選手に佐藤選手。あまりにも普通の名前ですからね。監督としては、それこそパンチカのある名前にしようと。 |
| 仰木 | おっしゃる通りですね。イチローが「僕の今があるのは、あのおかげだ」と言ってくれるんですよ。何も手をかけなかった中で、それだけは感謝してもらっています。 |
| 山下 | 監督がそうやって寝る間も惜しんでネーミングを考えたというのは、いわば経営者感覚ですよね、どうやって商品を売り出そうかという。でも、それは本来、球団のフロントが考えるべきではないでしょうか。 |
| 仰木 | 幸いにして、僕が監督やコーチを務めたチームというのは、大体最下位であるとか、どうにも話題がないところだったので、自然とそういう発想をもたざるを得なかったんです。僕もパ・リーグで50年間やってきて、山あり谷あり、いろんなことを経験してきました。弱いチームをどう強くするか、あるいは話題性のないチームをどう盛り上げるか、選手の商品価値をどう高めるか、とかですね。 |
| 野茂は絶対に成功する | |
| 山下 | イチローの前に、ピッチャーとして育てたメジャー選手が、野茂投手でした。野茂のメジャー行きの時は、どうだったんですか。 |
| 仰木 | 彼とは入団のときにかかわりがあって、今のドラフト制度と違い、8球団競合の指名でした。しかも、前年優勝していたので、引いたのは一番最後のクジ。縁以外のなにものでもなかったわけです。 彼はトルネードと呼ばれる、もの凄いフォームで投げる。人には真似のできない馬力もある。入団1年目でタイトル総ナメという偉業もやったし、当時の子どもたちは皆、あの投球スタイルを真似ようとした。それぐらい、大変な旋風を巻き起こした選手です。 彼が米国行きを決意した時、僕はすでに近鉄をやめて、オリックスで戦っていました。話を開くと、練習やコンディショニングについて、彼は独特の考え方をもっていて、僕はそれを認めていたのですが、次の首脳陣とは正面からぶつかってしまった。野茂は、これ以上はいないというほど個性の強い選手でしたからね。 それから、日本での活躍にも限界を感じていたようです。僕の嫌いな西武の森ちゃんが(笑)「野茂はフォークが多いから、とにかくボール球を捨てて、160でも170でも球数を投げさせろ。そうやって消耗させて攻略しろ」という戦法に出たわけですね。私も近鉄の監督時代、野茂が十数個の四球を出しても、知らん顔をしていた試合があった。それでも点をやらないところが、彼の凄さだったのですが、やはりじわじわと体に負担がかかっていき、調子も落ち始めた。しかも、首脳陣とは衝突する。それで、もう出て行きたいということになった。 きっかけはそうであったにせよ、彼自身、国際試合の経験も豊富でしたし、何よりもメジャーの野球スタイルは、とにかく積極的で、姑息なことを嫌う。だから僕は、彼のような選手は絶対に成功すると思いました。 |
| 山下 | 野茂の場合、監督に自身の管理法を認めてもらっていたという背景があったわけですが、監督としては、そのようなやり方を簡単に認められるものですかね。特に野茂などは、投げ込みなどしなかったそうですが。 |
| 仰木 | まあ、彼は自分の発想でしか動きませんでしたから。でも、結果を出せばいいわけです。もっとも、野茂も結果を出すまでちょっと時間がかかりましたし、その間の辛抱は、今思えば大変ではありました。いずれにせよ、プロという選りすぐられた人間が集まってくる中で、いろんなタイプ、レベルがありますから、何も他の選手と同列に指導しなくても、彼なら大丈夫という思いはあった。そういう器だったということです。 |
| 今こそ遊び感覚が必要 | |
| 山下 | そうはいっても、彼らの考え方を尊重し、耐えながら使うというのは、なかなかできることではないですよ。借越ながら、そうした放任の寛容こそ、仰木さんの秀でた能力であると感じるわけですが。 |
| 仰木 | 当時は管理一辺倒の時代でしたから、目立ったかもしれないけど、それでも「放任しているように見せておいて、実は…」という、選手からすると、後ろにも目があるように感じられたと思いますよ。 |
| 山下 | いやいや、西鉄の現役時代など、朝帰りが多くて、とか聞きましたよ。 |
| 仰木 | まあ、確かに大変な猛者ぞろいではありましたが、あの頃は今のような写真週刊誌もないし、やりたい放題できましたからね。 一度、夜中に7、8人、しかも浴衣姿で後楽園球場に乗り込んだことがありました。引率者は大下さん(笑)。彼の実力、体力には皆ついていけないものがありまして、そんな格好でバッティングピッチャーを始めたわけです。そうして朝帰りして、ユニフォームに着替えると、もう颯爽としたもの。昔の後楽園ですから今より狭いとはいえ、ヒットだのホームランだの、凄いことをやってのけるわけです。 実は僕、その試合で4打席4三振しました。普通、2打席連続三振した時点で交代ですけど、見せしめにそのまま使われたんですね。あたかもゲームは負け試合でしたから、そんな時に三原さんはよく、そういう使い方をしましたよ。 |
| 山下 | 選手に対する愛のムチというのは、今の野球でも必要なことでしょう。 |
| 仰木 | 今の選手の気質は全く違うと思いますが、夜遊びではなくとも、いわゆる遊び感覚というのは、多少なりとも必要ですよ。まして今は選手の個性を大事にしますから、そういう感覚がないと、かえって反発を食らいますね。 |
| 山下 | 仰木さんの監督時代は、門限についてはどうでしたか。 |
| 仰木 | 近鉄ではありませんでしたが、オリックスはやはり神戸という土地柄、スマートなイメージを重んじることもあって、1時の門限がありました。とはいっても、あってなきがごとし。自分にできなかったことは、選手に押し付けられない。ルールをつくっても、自分が守れませんからね(笑)。 |
| 山下 | けだし名言ですね。 |
| 過大な期待をかけないこと | |
| 山下 | イチロー、野茂といった選手育成の、いわば成功例をうかがってきましたが、逆に、大丈夫と任せておいて、実は失敗に帰してしまうというリスクについては、どうお考えになりますか。 |
| 仰木 | 僕は、もともと過大な期待はしない主義なんです。シーズン前によく「この選手をこのポジションで1年間使う」と宣言する監督がいますよね。でも、監督という立場でそんなことを言い切ってしまうと、本当に1年間固定して使わなければならなくなる。それをやると、うまくいかなかった時に自分も追い詰められてしまう。だから、「これぐらいは使えそうだ」と思ったら、まずその半分のレベルでやらせてみる。うまくいったら、もっと使う。そうすれば、期待過剰に終わることもない。ただ、それでもイチローだけは、1年間使うぞと宣言しましたね。それくらい太鼓判を押せる選手でしたから。 |
| 山下 | 個人的な質問で恐縮ですが、仰木さんからご覧になって、今の巨人の監督はどのように映りますか。 |
| 仰木 | 原監督は、選手時代は超一流と呼ばれるまでには至らなかったけれども、だからこそ、いい監督なんだと思いますよ。 |
| 山下 | それは、具体的にどのような点で評価されるのですか。 |
| 仰木 | 非常に柔軟性がありますね。巨人はいつもいい選手を獲得していると思われていますが、一方で「レギュラーと控えの格差が大きすぎる」という定評があります。つまり、レギュラーの一人でも故障者が出たりすると、シーズン通して戦えないというわけですね。ところが、原監督になって、選手の成長のタイミングもあったろうけれども、それまで無名だった素晴らしい選手が出てきている。これは今までとずいぶん違うスタイルだと思います。 彼はもともと気配りのいい人柄ですが、それでも彼自身が超一流の選手という看板を背負っていたら、なかなか柔軟な発想はできなかったでしょう。 僕はテレビ解説で「原君は大監督になれる資質をもっている」と言ったことがあります。あまり誉めすぎてもいけないけど、そう思ったのは、今言った背景からだったわけです。 |
| 山下 | ありがとうございます。近く原監督に会うので伝えておきますよ(笑)。 |
| 仰木 | 当時のライオンズの戦力は、まさに最強軍団の名にふさわしかったと思います。なにしろ、昔の選手はスタミナが図抜けていた。稲尾なんて、3連投くらい平気でしたからね。 彼が三連覇の中心だったのは確かですが、他の選手も凄かった。思い出すのは、当時、移動に夜行列車で10時間くらいかけていました。もはや貸切状態です。そこで、従業員に大下さんがチップを渡して(笑)、一晩中食堂車で飲み続け、次の日、日本シリーズをやりました。 |
| 山下 | 並大抵な体力ではないですね。あと、野手とピッチャーでいうと、ピッチャーのほうが、いろんな武勇伝をもっている人が多いですよね。 |
| 仰木 | そうですね。大体、ピッチャーは休みが多くて暇ですからね(笑)。 |
| 山下 | そういえばピッチャーが仕事をする日は、昔なら3日に一度、今だと5日に一度くらいですよね。 |
| 仰木 | ただでさえ性格的に扱いにくいのに、暇を持て余すから、すぐ団結しよる(笑)。もっとも、先発ピッチャーはローテーションの間で調整できるから飲んでも構わない。しかし、リリーフピッチャーはそうはいきません。 一度、それとは知らずにリリーフを出したところ、4点差の試合をひっくり返されたことがありました。それ以後、マネージャーや広報から情報を集めるようにしました。コンディション管理はやっぱり大事ですよ。 |
| 山下 | 私も、原監督がリリーフを河原に指名した時、「彼は酒をあまり飲まない」というのが一つの決定要因だったと聞いたことがあります。 |
| 仰木 | あと、一緒にやる以上、選手にはやはり稼いでほしいという願望がある。とはいえ、一年だけの実績でいきなり次の年棒が何倍にもなったりすると、かえって有頂天になって具合の悪い結果になることが、往々にしてあります。そうやって潰してしまうのが、一番いけないことですね。 |
| 文武両道の監督業 | |
| 山下 | つくづく監督という職業のプレッシャー、心労たるや、いかばかりのものかと察するわけですが、仰木さんの場合はいかがでしたか。 |
| 仰木 | 僕は近鉄で19年コーチをやり、20年目で監督になりました。時の佐伯オーナーからすると、事業はうまくいくが、野球だけがうまくいかない。三原さんや西本さんといった名監督をもってしても思うに任せない。そうした中で私に声がかかってご挨拶に行った時、「なんとも頼りなさそうやな」と言われました(笑)。 確かにそうだろうなと思いましたけど、「ずいぶん長いことやってるらしいな。選手のこともようわかってるらしいな」と。「らしいな」ですよ(笑)。それでも「その利点を生かして、まあしっかりやってな」ということでした。 やはり選手にはいろんなタイブがあるし、負けると胃がきりきり痛むし…もっとも僕の場合はアルコールで消毒しますが。 |
| 山下 | 出ました(笑)。 |
| 仰木 | まあ、他の監督さんほどのプレッシャーは感じていなかったかもしれませんね。 |
| 山下 | それにしても、これほど長く首脳陣を務めてこられた秘訣とは、何でしょうか。特に近鉄時代には5人の監督の下でやってこられたという、珍しい経歴をおもちですが。 |
| 仰木 | かって近鉄の監督に西本さんが就任した時、実は三原さんに今後の身の振り方を相談したことがありました。ところが、彼いわく「球界に長くいようと思うならば、一緒に飯を食いなさい。俺の所に来るのは簡単だろうけれども、西本ともやってみなさい」と。「俺は性格的に『モノを言いたければ俺が死んでからにしろ』というタイプだが、彼は全く違うし、選手を育てるのもうまいから」というんですね。 その時はちょっとショックというか、意外な答えをもらった気がしたし、当時、僕も他の球団から誘いがあって、しかもそちらのほうが給料は上だった(笑)。かなりぐらついていたんですけど、三原さんの勧めもあって実行してみたわけです。すると会うなり「あんた、よう飲むらしいな。それで学才もあるって?」「うちの高校は文武両道ですから」(笑)。 ま、それは冗談話ですけど、その時西本さんから「2年間ファームでコーチをやって、勉強し直してきなさい」と言われた。それが非常によかったんですよ。ですから、近鉄で何人もの監督と一緒にやってこれたのは、やはり三原さんからそういう助言をいただいたのがきっかけで、いろんな人と交わるようになれたことが大きい。 それともう一つ、三塁ベースコーチをやっていたことも挙げられます。バッティングコーチとかだと、チーム打率二割何分といったノルマを課せられる。その点、ベースコーチだと、数字で査定されない(笑)。ただ、ベースコーチはメジャーでも監督予備軍といわれるほど重要で難しいポジションですから、これを無事に務めさせてもらったことが、後の監督生活に大きく影響したのは事実だと思います。 |
| 山下 | うかがっていると、やはり「頭がよかった」という一言に尽きるのではないでしょうか。まさに文武両道とはこのかたのこと、と感じ入った次第です。今日は長時間にわたってお話をいただき、ありがとうございました。 |
| (抄録・会報編集部) | |

第1回東筑フォーラムの司会を担当して
宇佐見京子(72期)
一見恐そうで、もの凄いオーラのある方、そして少し寂しげ、これが私の仰木先輩の第一印象でした。東筑フォーラムの当日は司会という大役を仰せ付かりましたが、はっきりいって、自分のことで精一杯だったというのが正直なところでした。私の失敗で、この記念すべき第一回目の、まして仰木先輩をお招きしての大事な会を台無しにする訳にはいかないという思いでした。
仰木先輩にお目にかかって思ったことは、年齢を感じさせない精悍な雰囲気のある方、背中に凛としたものが一本通っている方だという事でした。これこそ、志を深くもってそれに向かってまっしぐらに歩いてこられた人の証だと確信しました。残念ながら現役時代を私は覚えていませんが、当時、野武士集団と騒がれた西鉄の一員だったとは思えないほどの洗練された男の姿がそこにありました。
私は、仰木マジックと言われた監督時代しか知りません。イチロー、野茂など、すばらしい選手を育ててこられました。96年にはオリックスを初の日本一に導いてこられました。
のびのびと選手の良い所を、のばしてこられたのではないかと想像できます。間違いなく仰木先輩も、川筋気質をもっていらっしやるお一人でしょう。川筋と言えば、男っぽい、喧嘩っ早い、義理人情に厚い、裏表がなくひたむきという言葉が浮かびますが、思いっきりのいい大らかな選手の育成を見ますと、これらも川筋の一面なのかと改めて感じます。
さて、フォーラムの当日の話に移ります。フォーラムの司会といっても、日テレの山下先輩が進行役を引き受けて下さったので、私は、大枠の司会役に徹することができ助かりました。いろいろなおもしろい工ピソードをもっていらっしゃる仰木先輩から、次から次へと、軽妙に話を引き出して下さったあたりは、さすが山下先輩と思いました。
特に声に艶があるのには驚きました。プロというのは、こういうことをいうのだと勉強になりました。
もう一つの私の仕事に、同窓会での仰木先輩のお世話役がありました。乾杯の後、歓談に入ると仰木先輩は写真撮影にひっぱりだこでした。私のことを仰木先輩のマネージャーと間違えて、「マネージャーさん、次はこちらに」などという方もいらっしゃって面映い思いでした。もちろん、私にとってみれば光栄のいたりでしたが…。
仰木先輩は、お食事などほとんどなさらないで、ご自分から、「次はどこ?」と言う風に気さくに応じて下さっていました。というよりは、今日はこういう状態になるという事を、覚悟なさってこられたのだなと感じました。やはり、有名な方の宿命というんでしょうね。少しの間横にいさせていただいて、とてもお気の毒な気がしました。束の間のマネージャー役ではありましたが、仰木先輩の「宇佐見さん」と呼んで下さった声がとても優しかったのを憶えています。
改めまして、仰木先輩、山下先輩、御多忙にもかかわらず、東筑フォーラム、東筑同窓会においでいただきありがとうございました。また、東筑フォーラムを主催して下さった先輩の方々、同窓会のご指導をして下さった先輩の方々、本当にありがとうございました。
特に、フォーラムの開催は、私達72期の元代表である、今は亡き愛智君のたっての願いでありました。開催日まであとl2週間という時期に愛智君の不幸があり、私たち72期は動転いたしました。 しかし、林君を代表として愛智君の遺志を受け継ぎ、無事開催できましたことをすべての方々に心から感謝申し上げます。
末筆ではありますが、東筑フォーラム、同窓会の益々の繁栄を祈りつつ、今後もできる限りかかわっていければと思っています。