校歌歌詞と楽譜


校歌の制定について


折口信夫、伊馬春部、信時潔


歴代東筑校歌

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校歌歌詞と楽譜

 

 

 一、
    筑紫の国の 国の崎 とほく霞みて、海に入る

    遠賀の水門も 望むべし 目翳をかざせ 汐境

    響灘 玄海の波 澄みわたる 朝の幻

    馴れ馴れて 海の若人

    吾こそは 洋の独り子 吾らかく 若々し

    身は健かに 気宇ひろく 筑紫の海の如 あらむ


 二、
    大獅子吼して 汽車来る 遠賀川橋 驀地に

    汽罐は晝を鳴りわたる 折尾の空に 聳るもの

    青嵐 丘をめぐりて すがすがし わが学校

    若き日の 代々の先輩

    年を経し わが伝統 吾らかく 勤しめり

    心ただしく 才高く 筑紫の山の如 あらむ


 三、
    ここに日本はじまれる 筑紫に 吾等生れあひ

    ああ言ひ知らぬ 誇らしさ 鉱坑にとどろくもの声は

    甦り来る 国の音 さ夜深き 皿倉おろし

    ともし火を 高くかかげよ

    あきらかに わが道を見む われらかく さやかなり

    智慧明らかに 認識よく 筑紫の空の如 あらむ



     よきかな東筑 うるわしく
 
     東筑 東筑 寛かなれ

     ああ 東筑

 

   歌詞中の漢字の読み


   洋の独り子=わたのひとりご   気宇ひろく=むねひろく

   大獅子吼して=だいしし くして  驀地に=ましぐらに

   聳るもの=そそるもの 青嵐=あおあらし 勤しめり=いそしめり

   鉱坑=まぶ   認識=さとり   寛かなれ=ゆたかなれ

 

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校歌の制定について

 

 

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 東筑高校の校歌は、昭和23年の学制改革により、東筑中学から新制の高等高校になったことを記念して新校歌制定が望まれ、国学者の折口信夫に作詞を依頼し、信時潔の作曲を得て昭和27年(1952年)に制定されたものである。
母校に残る校歌歌詞の原稿は、伊馬春部の筆跡によるもので、「日本放送協会」の専用原稿用紙3枚
に記されている。
校歌成立の事情については「東筑百年史」に次のように説明されている。


「昭和24年、高等学校再編成により、東筑・折尾・八幡商業の3校が統合し、新しい東筑高等学校が誕生した。新しい校章が制定され、同26年には校旗の作製を見た。
校旗完成に先立ち、同26年の正月には第16代舟越節夫校長により校歌作製が発案され、生徒の間にも校歌作製の要望が高まってきた。
 同26年4月23日発行の東筑学報の第27号は、校歌の問題として「五十年の伝統をほこる東筑に校歌がなかったとはおかしなことだが、吾が東筑に校歌のないのは県下一の学校として一抹の淋しさを感ずる。学校に校章というものがあるように校歌 のあるのは当然なことである。学生にとって歌は何ものにも勝る心の糧である。年老いてでも学生時代に歌ったのを思い出し ては、過去のほのぼのとしたゆかしさを感ずるのものだ。…昨年から校歌作製委員会を作ってかなり生徒間で運動も行った
ようだが、校内募集をしても未熟なものが多い。これは土地の人、学校に関係のある詩人がよい。
作曲も有名な人に頼む。」…と要望している。
 この盛り上がった要望にもとづき、同26年5月頃より、地元の知名人に作詞・作曲を依頼することになったが立ち消えとなり、12月には東筑学報を通じて校歌の募集を試みたが応募者がなく頓挫状態となった。

 そこで、原勝文(32期)教諭らの努力で作詞を国学院大学の折口信夫(歌人、釈迢空)教授に依頼することになり、昭和27年4月下旬、原教諭は作詞の資料を携えて上京、木屋瀬出身の放送作家 伊馬春部(鞍手中学卒)氏の尽力を得て作詞が進められた。同年6月には、全国商業高校協会会議に出席の際、舟越校長が折口先生に校歌依頼の挨拶に行った。その後、折口先生は神経痛気味で筆がとれず、7月完成と見られていた校歌は、またも暗礁に乗り上げた。
しかし、伊馬春部氏の再度のはからいで病気をおして作詞、同年10月23日東筑に送付されて来た。作曲を伊馬春部氏の斡旋で、「海行かば」の作曲者である信時潔氏に直ちに依頼し、11月中旬には校長が作曲依頼のため上京し、11月21日に伊馬春部氏より作曲完成の報があり、ここに校歌が完成した。

八長調4分の4拍子、38小節よりなるこの校歌には、作曲者による混声四部合唱の楽譜もつけられていた。同27年12月9日、生徒に楽譜を配布し、翌28年1月26日、音楽部による校歌発表。さらに昭和45年9月には福岡県吹奏楽連盟理事長・福岡高校の藪先生により吹奏楽用に編曲もされている。」



 

折口信夫、伊馬春部、信時 潔

 

 

折口信夫 (おりぐち しのぶ)1887年(明治20年)2月11日~1953年(昭和27年)9月3日

父親は「しのぶ」と名付けたが、家族は「のぶお」「のぶさん」と呼んでいたので、本人も幼少のころ「のぶお」と名乗っていたようである。 成人して「しのぶ」と読ませるようになった。
柳田国男に師事し、民俗学的文学研究という独自の分野を開拓し、柳田とともに民俗学の双璧といわれた。
歌人として「釈 迢空」の号があり、「アララギ」同人。 自由な歌風で民間伝承にもとづく歌を詠んだ。学校校歌・寮歌の作詞は、30本近く手がけているが、いずれも歌人「釈 迢空」ではなく、折口信夫の名である。

 わが東筑高校校歌も新制高等学校への学制変更に伴う「新校歌」の作詞であったが、朝鮮戦争の頃の北九州地域の炭坑、製鉄産業の活性化を、敗戦後の日本甦生の象徴に見てとっての作詞のように推量される。
やや古風な表現方法は、敗戦直後の軽薄な文化現象に反発して、戦後の日本浪漫主義への一時的回帰とは謂えないまでも、なにかしら日本語のもつ力強さや美しさを残しておきたいという、折口翁の信念が伺える。
終戦直前の昭和20年7月、文芸関係者の啓発宣伝事業のための懇談のとき、軍人は毎日死んでいるのに、一方の民間の士気昂揚が足りないので戦争遂行できない云々と言った軍部・体制側の怒声に対して、壇上に向かって穏やかで、しかし強い怒りをひそめた声で、「おのれを正しゅうせんがために、ひとを陥れるようなことを言ってはなりません」とたしなめた人がいた。
その人こそ折口信夫であったと、高見 順の「昭和文学盛衰史」に見える。
時流に流されずに、自らの信念を育て貫けという、新生日本の若者に対する期待やメッセージが込められた東筑高等学校校歌といえる。

伊馬春部 (いま はるべ) 1908年(明治41年)5月30日~1984年(昭和59年)3月17日

福岡県鞍手郡木屋瀬村(現:北九州市八幡西区木屋瀬)に生まれる。鞍手中学(現:福岡県立鞍手高等学校)の頃より文才に恵まれ、決して裕福な家計でなかったが、何とか國學院大学予科(1926年・昭和元年)に進むことができた。ここで釈超空・折口信夫先生から短歌指導を受けられるサークル「鳥船」に引き寄せられるように参加し、以来折口の他界を看取る昭和28年まで親しくその薫風を仰ぐことになった。
折口の短歌と人間学に師事しながら、國學院大学卒業の1931年・昭和6年に井伏鱒二に師事、その門下の小山裕士、壇一雄らと出会い、ほどなく太宰治と親交を深めることになる。

1932年(昭和7年)創立の新劇中心の舞台である「ムーランルージュ」に参加、伊馬鵜平の筆名で新喜劇の脚本を執筆。伊馬の作品は、シャレてユーモアもあり一躍人気作家となっている。
1940年(昭和15年)、NHKのテレビ実験放送における、国内初のテレビドラマである『夕餉前』の脚本を担当した。戦後は伊馬春部に筆名を改め、1947年(昭和22年)にはNHKの連続ラジオドラマ『向う三軒両隣り』が人気を博した。


【サイト管理人の私的試論として】

 東筑高校と同じく、戦後の新制高校に因んだ校歌制定は各地で急がれており、国学の碩学 折口信夫のもとには校歌作詞の依頼が数多くあったとみられ、昭和24年から昭和28年(制定)に15校の高校校歌作品がある。筆者がこの15校の校歌を精読していくにつれ、わが東筑高校校歌が、同じ折口信夫名を冠する他校校歌とは、その詩想、構造、修辞、音韻が全く違うことに気付いた。
これには伊馬春部がおおいに関わっているとの仮説で論考を起こし、2010年2月の「東筑フォーラム」で発表させていただいた。
私的な愚論を公式サイトに掲示するのは本意ではないが、わが東筑校歌が、学校校歌として他に見られない「抒情性あふれるユニークな校歌」であることを検証したつもりであり、御参考に添付した。
御高覧ならびに御批評を賜りたく。

  ○折口信夫名の作詞になる15校高校校歌→ CLICK

  ○校歌作詞者についての試論(71期佐野)→ CLICK


 

 

信時 潔 (のぶとき きよし) 1887年(明治20年)12月29日~1965年(昭和40年)8月1日


 1910年東京音楽学校(現 東京芸術大学)を卒業して、ドイツに留学し、ゲオルク・シューマンに師事して作曲を学ぶ。帰国後、東京音楽学校作曲科の教授に就任し、歌曲を数多く手がけ、山田耕筰とともに戦前の日本音楽界の礎を築いた。

 戦前の作曲で、昭和12年の国民精神総動員運動の中で『海ゆかば』が制作された。この曲は後に戦意昂揚の歌曲として大政翼賛会から「国民の歌」に指定されたものであるが、真珠湾攻撃の特殊潜行艇の9名の戦死を発表したとき以来、鎮魂・葬送の曲としても使われた。
信時翁は、この『海ゆかば』をはじめとする戦意昂揚の歌曲が、若者を死に追いやったものとの罪の意識から、戦後は作曲のペンを折ったといわれているが、その真相次第は不明である。
なぜならば、わが東筑高校や他の学校校歌の多くが、戦後に作曲されている。
学校の校歌の作曲は、表のように小学校、中学校、高等学校、大学と学程に関わらず、また北海道から九州まで日本国中いたるところに信時作品がある。

  小学校   中学校   高等学校   大学、その他
燕市市立関小学校 酒田市立第三中学校 徳島県立城北高校 慶應義塾大学塾歌
伊那市伊那小学校 酒田市立第五中学校 青森県立三戸高校 金沢大学
長野市立城山小学校 酒田市立平田中学校 大牟田南高校 新旧 東北薬科大学
小千谷市立小千谷小 三条市本成寺中学校 兵庫県立加古川西高校 学習院院歌
銚子市立船木小学校 京都市立月輪中学校 名古屋市立西陵商業 日本学園
秋田県西仙北町双葉小 山口市立大殿中学校 開成学園 大東文化学園
三木市立三樹小学校 山梨県大滝村大滝中学校 北海道帯広柏葉高校 浅野学園
国分寺市立第二小学校 小田原市立鴨宮中
白鴎高校 女子学習院
稲沢市立国分小学校 足利市立山辺中学校 茨城県立岩井高校 岡山第一高等女学校
  横手市立金沢中学校 徳島文理高校 島原高等女学校
  加茂市立加茂中学校 兵庫県立神戸高校  
  前原市立前原中学校 都立西高校  
  三重郡楠町立楠中学校 徳島県立穴吹高校  
  岩見沢市立光陵中学校 旭川西高校  
    浜松工業高校  

 上記は筆者がインターネット検索で現在、過去に信時潔作曲の校歌を有する学校を
 検索したものであり、インターネットホームページを開いていない学校は、当然
 カウントされない。よって実数がこれの何倍あるか見当もつかない。 


これだけ多くの校歌という歌詞に制約されたジャンルの曲を作り続けると、似たようなフレーズになることはやむ得ない。
たとえば  酒田市立平田中学校の校歌の冒頭部分は、わが東筑高校の校歌冒頭とよく似ている。 
京都市立月輪中学校の校歌も途中、似たようなメロディーラインがある。そういえば、先の『海ゆかば』もエンディングが、筆者にはわが校歌のエンディングに似ているように聞こえてしまう。
といって、わが校歌を貶めているのではない。
どんな作曲家でもその作曲家固有のフレーズ、節回しがある。その固有のロゴを駆使しながら全体としてまとまっているのが佳作となり、まとまらないのが駄作となる。
今回、ネット上で聞ける信時作品を何点か聞いてみたが、身贔屓でなく、わが東筑校歌は力強く、なめらかで全体の印象が残る秀作である。
先の折口信夫(伊馬春部)の歌詞と合わせて、陳腐化が指摘される学校校歌の群の中で、わが東筑高校校歌は、珠玉の輝きをもつ名曲といえないだろうか。  

 

 

 

東筑歴代校歌

 

 

 

東筑中学校初代校歌         作詞 岡野代忠  作曲 高浜孝一 

  東筑中学校々歌    -いざや東筑 九百の健児-

 

  一、筑紫の東 折尾の丘に

    巍然と立てる 我等の母校

    天の啓示せる 誠の道は

    我等が進まん 理想の標

 

  二、我等の心は 正義を照す

    邪念の払ひ 邪欲を除けて

    我等の血潮は 同情に満つ

    溢れて注がん 総ての者に

 

  三、天は自助ある 勇者を助く

    我等は励まん 学の業を

    いざや東筑 九百の健児

    振ひ興せよ 誠の道を

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「東筑百年史」の解説:

 創立以来、成文化ざれた校訓のなかった東筑に、誠に発し、正義・同情・自助を基調としながら、誠に帰するとする教育方針を定めた第9代校長岡野代忠は、校訓を校歌に詠みこみ、平常歌わせることによって情操として涵養しょうと志し作詞を求めたが得られなかった。
 大正12年2月、たまたま上京した岡野校長は車中にて自作し、国学院大学教授の校閲を請ひ、帰校後更に全職員の批評を受けて制定した。曲は「岡山城」の曲を仮用した。この岡山城は、明治36年岡野校長が岡山県師範学校附属小学校主事時代、同校国語漢文科教員が作歌し、同校音楽科教員高浜孝一が作曲したものであった。

 さらにこれを英語教育にも生かそうと試み、当時東筑の嘱託教師であった英人ジェームス・ハインド牧師に英訳して貰い、全国でも珍しい英訳校歌が完成、それを英語の授業時間にもたぴたぴ教授した。ハインド牧師はケンブリッジ大学を卒業、夫人はロンドン市長の娘といわれ、いわゆるKing's Englishを話す教養人であった。

 当時牧師は、小倉鍛治町の教会に住み後に戸畑千防町の教会に移ったが、大正10年4月より昭和3年4月までの7年間東筑の嘱託教師として本場の英語を教えていた。この初代校歌は、英訳まで行われたが、内容=校訓で儀式等には適していたかもしれないが、借用したメロディは聊か唱歌調であり、大正15年8月、東筑事件により岡野校長が退職し、第10代安河内健児校長になってからはほとんど歌われなくなり自然に衰滅してしまった。


 

東筑中学校第2代校歌   作詞 久保勘三郎(6期・一高・東大)、作曲 陸軍戸山軍楽隊

 天に二日の渡るなく-

 

  1.天に二日の渡るなく

    地に一君の定めあり

    世紀の波を乗り越えて

    無窮に続く皇続に

    生けるしるしぞ防人の

    意気は東亜の天を衝く

    我れは九州男児なり

 

  2.日方吹らし水茎の

    岡の水門の潮騒に

    船を留めて仰ぎ見る

    空は大和か三韓か

    行く雲遠く風寒し

    撃ちてし止まん我もまた

    君の御循とならむ身は

 

  3.心筑紫の益荒男が

    幾春秋を送りたる

    母校の庭に咲く花の

    色香もしるき若桜

    散りて甲斐ある勲しに

    命を捨てて名を惜しむ

    我等が意気を偲ばずや

 

  4.日は皿倉に輝けど

    煙は暗し洞の海

    大地にいどむ人力の

    果敢なき技を問ふ勿れ

    鉄火と燃ゆる報国の

    心は同じ戦場ぞ

    倒れて後に止まむのみ

 

  5.鳴呼西陣の空晴れて

    御校威輝く大東亜

    図南の望み今成りて

    翼をのばす三干里

    いざ南梅へ大陸へ

    友に続いて雄飛せん

    我れは東筑健児なり

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「東筑百年史」の解説:

 昭和に入ると、2年の金融恐慌を手始めに、ジュネープ海軍軍縮会議、3年の済南事件、全国に特別高等警察課いわゆる特高の設置、4年の世界恐慌、6年の三月事件、十月事件(錦旗草命事件)、7年の上海事変、血盟団事件、満州国建国、五・一五事件、等々を経て日華事変、太平洋戦争へとひたすら軍国化の一途をたどっていった。
かかる中に、東筑では新しい校歌制定の要望も少なからず、当時イタリア名誉伯爵であった下位春吉(旧姓井上・2期)が作詞を約束したが実現せずにいた。そこで、昭和17年に第13代校長に就任した藤崎弁蔵は、翌18年、久保勘三郎(6期・一高・東大)に作詞を依頼、陸軍戸山軍楽隊の作曲を得て完成したのが第2代校歌であった。

 作詞の18年は、既に太平洋戦争も半ばを迎え、戦況日々に厳しさを加えている折ではあったが、いわゆる「真珠湾の九軍神」の一人に東筑出身の古野繁実少佐(35期)が含まれていたこともあり、東筑の士気が大いに高揚している時でもあった。その状況を反映して、できたその校歌はきわめて勇壮な戦時色の強い内容のものであった。そのため、終戦後は全節を歌うことができないので、内容的にまったく不適当な第3節以下をすべて削除し、第1.2節の終部を「意気は東亜の天を衝く・我れは東筑健児なり」と改変して歌っていたが、21年度よりはいつの間にか公式には歌われなくなった。

この校歌を歌ったのは44期生より49期生までの6期であり、学校の終戦に際しての措置によってであろうか、原詞、楽譜が残されていないので探訪、採譜によって示すと上のとおりであった。


 

折尾高等女学校校歌

 

  1.東にそそる帆柱山に

    高き理想の姿を仰ぎ

    西に流るる遠賀の川に

    深き学びの心を酌みつ

    塵かん遠きこの丘の上に

    甍そびゆるわが学び舎よ

 

  2.常盤の松の緑を慕ひ

    みよしのざくらかをりを尋めて

    この学び舎に学ぶ子われは

    松の操を心にうつし

    花の美ひを胸につめつつ

    毅く優しきをみなとならん

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