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東筑高等学校校歌 |
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1970年前後の東筑高校全景(卒業アルバムより) |
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東筑高校のこの校歌は、昭和27年(1952年)に制定された。 作詞 折口信夫 作曲 信時 潔 校歌成立の事情については「東筑百年史」に次のように説明されている。 「昭和24年、高等学校再編成により、東筑・折尾・八幡商業の3校が統合し、新しい東筑高等学校が誕生した。新しい校章が制定され、同26年には校旗の作製を見た。校旗完成に先立ち、同26年の正月には第16代舟越節夫校長により校歌作製が発案され、生徒の間にも校歌作製の要望が高まってきた。 同26年4月23日発行の東筑学報の第27号は、校歌の問題として「五十年の伝統をほこる東筑に校歌がなかったとはおかしなことだが、吾が東筑に校歌のないのは県下一の学校として一抹の淋しさを感ずる。学校に校章というものがあるように校歌 この盛り上がった要望にもとづき、同26年5月頃より、地元の知名人に作詞・作曲を依頼することになったが立ち消えとなり、 そこで、原勝文(32期)教諭らの努力で作詞を国学院大学の折口信夫(歌人、釈迢空)教授に依頼することになり、昭和27年 しかし、伊馬春部氏の再度のはからいで病気をおして作詞、同年10月23日東筑に送付されて来た。作曲を伊馬春部氏の 八長調4分の4拍子、38小節よりなるこの校歌には、作曲者による混声四部合唱の楽譜もつけられていた。同27年12月9日、生徒に楽譜を配布し、翌28年1月26日、音楽部による校歌発表。さらに昭和45年9月には福岡県吹奏楽連盟理事長・福岡高校の藪先生により吹奏楽用に編曲もされている。」 |
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折口信夫 おりぐち しのぶ |
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1887年(明治20年)2月11日〜1953年(昭和28年)9月3日 歌人として 釈 迢空 の号があり、「アララギ」同人。 自由な歌風で民間伝承にもとづ く歌を詠んだ。 柳田国男に師事し、民俗学的文学研究という 独自の分野を開拓し、柳田とともに民俗学の双璧といわれた。 父親は「しのぶ」と名付けたが、家族は「のぶお」「のぶさん」と呼んでいたので、本人も幼少のころ「のぶお」と名乗っていたようである。 成人して「しのぶ」と読ませるようになった。 学校校歌・寮歌の作詞は数多く手がけているが、いずれも歌人 釈 迢空ではなく、折口信夫の名である。
わが東筑高校校歌も新制高等学校への学制変更に伴う「新校歌」の作詞依頼であったと思われるが、朝鮮戦争の頃の北九州地域の炭坑、製鉄産業の活性化を、敗戦後の日本甦生の象徴に見てとっての作詞のように推量される。 やや古風な表現方法は、敗戦直後の軽薄な文化現象に反発して、戦後の日本浪漫主義への一時的回帰とは謂えないまでも、なにかしら日本語のもつ力強さや美しさを残しておきたいという、折口翁の信念が伺える。
終戦直前の昭和20年7月、文芸関係者の啓発宣伝事業のための懇談のとき、軍人は毎日死んでいるのに、一方の民間の士気昂揚が足りないので戦争遂行できない云々と言った軍部・体制側の怒声に対して、壇上に向かって穏やかで、しかし強い怒りをひそめた声で、「おのれを正しゅうせんがために、ひとを陥れるようなことを言ってはなりません」とたしなめた人がいた。その人こそ折口信夫であったと、高見 順の「昭和文学盛衰史」に見える。 時流に流されずに、自らの信念を育て貫けという、新生日本の若者に対する期待やメッセージが込められた東筑高等学校校歌といえる。 |
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参考 |
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折口翁は、学校校歌を26校前後作詞しているが、そのうちわが東筑高校と同じ頃の他校の校歌を何点か掲示する。 歌詞の次第や言葉遣いの相似するところを見いだすのである。
ここに 4校の校歌を掲示したが他の中学、高校校歌も相似した形式で、歌詞一番は「朝」、二番は「昼」、三番は「夜」という 展開や、用語として「勤しむ」(いそしむ)、「すがしく」、「甦り来る」の使い方が共通である。 ただ他校の場合、読み込まれた風物と観念の語の繋がりが円滑を欠くように見受けられるに対して、わが東筑高校校歌では、風物や歴史事象と観念の語が、絶妙に配されて流麗であり、「詩語」としての彩りが溢れているように感ぜられる。 例えば、朝・昼・夜の表現方法を比較すると一目瞭然である。 また海あり川あり山あり、鉄道、産業あり、あるいは歴史ありとバリェーション豊かであることは否めない。 筑紫の海、筑紫の山、筑紫の空というフレーズが押さえとして良く利いている。 |
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信時 潔 のぶとき きよし |
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1887年(明治20年)12月29日〜1965年(昭和40年)8月1日 1910年東京音楽学校(現 東京芸術大学)を卒業して、ドイツに留学し、ゲオルク・シューマンに師事して作曲を学ぶ。 帰国後、東京音楽学校作曲科の教授に就任し、歌曲を数多く手がけ、山田耕筰とともに戦前の日本音楽界の礎を築いた。
戦前の作曲で、昭和12年の国民精神総動員運動の中で 「海ゆかば」 が制作された。この曲は後に戦意昂揚の歌曲として大政翼賛会から「国民の歌」に指定されたものであるが、真珠湾攻撃の特殊潜行艇の9名の戦死を発表したとき以来、鎮魂・葬送の曲としても使われた。信時翁は、この「海ゆかば」をはじめとする戦意昂揚の歌曲が、若者を死に追いやったものとの罪の意識から、戦後は作曲のペンを折ったといわれているが、その真相次第は不明である。 なぜならば、わが東筑高校や他の学校校歌の多くが、戦後に作曲されている。 学校の校歌の作曲は、表のように小学校、中学校、高等学校、大学と学程に関わらず、また北海道から九州まで日本国中いたるところに信時作品がある。 |
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上記は筆者がインターネット検索で現在、過去に信時潔作曲の校歌を有する学校を検索したものであり、 インターネットホームページを開いていない学校は、当然カウントされない。 よって実数がこれの何倍あるか見当もつかない。 |
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これだけ多くの校歌という歌詞に制約されたジャンルの曲を作り続けると、似たようなフレーズになることはやむ得ない。 たとえば 酒田市立平田中学校 の校歌の冒頭部分は、わが東筑高校の校歌冒頭とよく似ている。 京都市立月輪中学校の校歌も途中、似たようなメロディーラインがある。 そういえば、先の 「海おかば」 もエンディングが、筆者には、わが校歌のエンディングに似ているように聞こえてしまう。 といって、わが校歌を貶めているのではない。どんな作曲家でもその作曲家固有のフレーズ、節回しがある。その固有のロゴ を駆使しながら全体としてまとまっているのが佳作となり、まとまらないのが駄作となる。 今回、ネット上で聞ける信時作品を何点か聞いてみたが、身贔屓でなく、わが東筑校歌は力強く、なめらかで全体の印象が残る秀作である。 先の折口信夫翁の歌詞と合わせて、陳腐化が指摘される学校校歌の群の中で、わが東筑高校校歌は、珠玉の輝きをもつ 名曲といえないだろうか。 (文責 71期 佐野) |
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東筑歴代校歌 |
| 東筑中学校初代校歌 作詞 岡野代忠 作曲 高浜孝一 |
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東筑中学校々歌 −いざや東筑 九百の健児− 一、筑紫の東 折尾の丘に 巍然と立てる 我等の母校 天の啓示せる 誠の道は 我等が進まん 理想の標
二、我等の心は 正義を照す 邪念の払ひ 邪欲を除けて 我等の血潮は 同情に満つ 溢れて注がん 総ての者に
三、天は自助ある 勇者を助く 我等は励まん 学の業を いざや東筑 九百の健児 振ひ興せよ 誠の道を |
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「東筑百年史」の解説: 創立以来、成文化ざれた校訓のなかった東筑に、誠に発し、正義・同情・自助を基調としながら、誠に帰するとする教育方針を定めた第9代校長岡野代忠は、校訓を校歌に詠みこみ、平常歌わせることによって情操として涵養しょうと志し作詞を求めたが得られなかった。 大正12年2月、たまたま上京した岡野校長は車中にて自作し、国学院大学教授の校閲を請ひ、帰校後更に全職員の批評を受けて制定した。曲は「岡山城」の曲を仮用した。この岡山城は、明治36年岡野校長が岡山県師範学校附属小学校主事時代、同校国語漢文科教員が作歌し、同校音楽科教員高浜孝一が作曲したものであった。 さらに、これを英語教育にも生かそうと試み、当時東筑の嘱託教師であった英人ジェームス・ハインド牧師に英訳して貰い、全国でも珍しい英訳校歌が完成、それを英語の授業時間にもたぴたぴ教授した。ハインド牧師はケンブリッジ大学を卒業、夫人はロンドン市長の娘といわれ、いわゆるKing’s Englishを話す教養人であった。 当時牧師は、小倉鍛治町の教会に住み後に戸畑千防町の教会に移ったが、大正10年4月より昭和3年4月までの7年間東筑の嘱託教師として本場の英語を教えていた。この初代校歌は、英訳まで行われたが、内容=校訓で儀式等には適していたかもしれないが借用したメロディは聊か唱歌調であり、大正15年8月、東筑事件により岡野校長が退職し、第10代安河内健児校長になってからはほとんど歌われなくなり自然に衰滅してしまった。 |
東筑中学校第2代校歌 |
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天に二日の渡るなく− 1.天に二日の渡るなく 地に一君の定めあり 世紀の波を乗り越えて 無窮に続く皇続に 生けるしるしぞ防人の 意気は東亜の天を衝く 我れは九州男児なり
2.日方吹らし水茎の 岡の水門の潮騒に 船を留めて仰ぎ見る 空は大和か三韓か 行く雲遠く風寒し 撃ちてし止まん我もまた 君の御循とならむ身は
3.心筑紫の益荒男が 幾春秋を送りたる 母校の庭に咲く花の 色香もしるき若桜 散りて甲斐ある勲しに 命を捨てて名を惜しむ 我等が意気を偲ばずや
4.日は皿倉に輝けど 煙は暗し洞の梅 大地にいどむ人力の 果敢なき技を問ふ勿れ 鉄火と燃ゆる報国の 心は同じ戦場ぞ 倒れて後に止まむのみ
5.鳴呼西陣の空晴れて 御校威輝く大東亜 図南の望み今成りて 翼をのばす三干里 いざ南梅へ大陸へ 友に続いて雄飛せん 我れは東筑健児なり |
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「東筑百年史」の解説: 昭和に入ると、2年の金融恐慌を手始めに、ジュネープ海軍軍縮会議、3年の済南事件、全国に特別高等警察課いわゆる特高の設置、4年の世界恐慌、6年の三月事件、十月事件(錦旗草命事件)、7年の上海事変、血盟団事件、満州国建国、五・一五事件、等々を経て日華事変、太平洋戦争へとひたすら軍国化の一途をたどっていった。 かかる中に、東筑では新しい校歌制定の要望も少なからず、当時イタリア名誉伯爵であった下位春吉(旧姓井上・2期)が作詞を約束したが実現せずにいた。そこで、昭和17年に第13代校長に就任した藤崎弁蔵は、翌18年、久保勘三郎(6期・一高・東大)に作詞を依頼、陸軍戸山軍楽隊の作曲を得て完成したのが第2代校歌であった。 作詞の18年は、既に太平洋戦争も半ばを迎え、戦況日々に厳しさを加えている折ではあったが、いわゆる「真珠湾の九軍神」の一人に東筑出身の古野繁実少佐(35期)が含まれていたこともあり、東筑の士気が大いに高揚している時でもあった。その状況を反映して、できたその校歌はきわめて勇壮な戦時色の強い内容のものであった。そのため、終戦後は全節を歌うことができないので、内容的にまったく不適当な第3節以下をすべて削除し、第1.2節の終部を「意気は東亜の天を衝く・我れは東筑健児なり」と改変して歌っていたが、21年度よりはいつの間にか公式には歌われなくなった。 この校歌を歌ったのは44期生より49期生までの6期であり、学校の終戦に際しての措置によってであろうか、原詞、楽譜が残されていないので探訪、採譜によって示すと次のとおりであった。 |
折尾高等女学校校歌 |
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1.東にそそる帆柱山に 高き理想の姿を仰ぎ 西に流るる遠賀の川に 深き学びの心を酌みつ 塵かん遠きこの丘の上に 甍そびゆるわが学び舎よ
2.常盤の松の緑を慕ひ みよしのざくらかをりを尋めて この学び舎に学ぶ子われは 松の操を心にうつし 花の美ひを胸につめつつ 毅く優しきをみなとならん |
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